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2024年03月19日

「ストで離島住民脅かした」と石垣市議会与党全港湾に抗議

「ストで離島住民脅かした」と石垣市議会与党全港湾に抗議

八重山日報
 米艦船の石垣寄港に反対し、全日本港湾労働組合(全港湾)が石垣港で実施した全面ストライキを巡り、石垣市議会の与党会派「自由民主石垣」と「公明」の市議らが18日、市役所で記者会見し「離島住民の生活を脅かした」と全港湾に抗議した。
 抗議文では、ストライキの影響で「スーパーでは欠品が相次ぎ、飲食店では仕入れができず営業を縮小する店舗も見られるなど、経済的損失も大きく、市民生活に大きな混乱を招いた」と指摘。
 市が県労働委員会に確認したところ、今回のストが労働関係法に規定されている争議行為に当たらないと回答を得たことも言及。「離島住民の生命線である物流を全面停止させたことに対し、市民から強い憤りの声が上がっている」とした。
 今後は政治的主張を目的としたストライキで離島住民の安心安全を奪わないよう、慎重かつ責任ある行動を求めた。与党は抗議文を全港湾に郵送した。
 記者会見で石川勇作氏は、全港湾沖縄地方本部の山口順市委員長がストについて「通告したので、台風より紳士的なのかと思う」と発言したことに「ストと災害を同列に扱い、市民生活をないがしろにしており、離島軽視だ。個人的には謝罪を求めたい」と怒りをあらわにした。
 伊良部和摩氏は「ちょうど畜産のセリとストが重なり『購買者が来ないのでは』と言われてかなり混乱した。こういうことが毎回発生すると、経済的損失がひどい」と批判。
 友寄永三氏は「これまで外国船が入ったことで安全が損なわれた事例はない。労使交渉に当たらないストで、なぜ市民が犠牲にならないか全く理解できない」と疑問視。
 高良宗矩氏は「ストは法に適していない形で行われた。住民の命と暮らしを人質にしたストが二度と起こらないようにしてほしい」と批判した。
               八重山日報

米艦船の石垣寄港に反対し、全日本港湾労働組合(全港湾)が石垣港で実施した全面ストライキを巡り、石垣市議会の与党会派「自由民主石垣」と「公明」の市議らが「離島住民の生活を脅かした」と全港湾に抗議した。ストライキの影響で「スーパーでは欠品が相次ぎ、飲食店では仕入れができず営業を縮小する店舗も見られるなど、経済的損失も大きく、市民生活に大きな混乱を招いた」と指摘した。

保守がストライキに抗議することは沖縄ではなかった。画期的である。港湾ストが政治ストであり、ストが市民生活を犠牲にしたと批判している。労働者のストを政治に利用することも許さないことを市議会融資は表明した。

全港湾幹部がストについて「通告したので、台風より紳士的なのかと思う」と発言したことに「ストと災害を同列に扱い、市民生活をないがしろにしており、離島軽視だ。個人的には謝罪を求めたい」と怒りをあらわにした。
「これまで外国船が入ったことで安全が損なわれた事例はない。労使交渉に当たらないストで、なぜ市民が犠牲にならないか全く理解できない」と批判した。
「自由民主石垣」の港湾ストに対する批判は鋭く、的確である。今までの沖縄にはなかった保守の左翼批判である。
  

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2023年07月13日

今度は自称ノンバイナリーの男性が女子1500メートルで優勝

今度は自称ノンバイナリーの男性が女子1500メートルで優勝

トランスジェンダーについて述べる時に「出生時に充てられた性別と“逆”の性で生きる人のこと」と『出生時に充てられた性別』と強調する。決し『医学的に決まった性』とは言わない。医学的に男性と書けば読む人は男性をイメージする「自称女性」をイメージする時に男性が女性を装っているように想像する読者は多いだろう。そのようにイメージさせないために「出生時に充てられた性別」とまるで非科学的な政治判断で割り当てられたように表見するのである。このような捻じ曲げた表現は沖縄では何度も見てきた。
例えば辺野古問題で、辺野古の海を埋め立てて米軍飛行場を建設するのは普天間飛行場を移設するためであるが、辺野古移設反対派は移設飛行場とは言わない。「新基地」という。普天間飛行場の移設だとイメージさせないためだ。それに飛行場ではなく「基地」と言う。辺野古に新しい米軍基地を建設するというイメージを持たすためである。本当のことを捻じ曲げるために使用する言葉を変えるのは左翼の得意である。「出生時に充てられた性別」は左翼の得意とする真実の捻じ曲げである。

 ノンバイナリー系トランスジェンダーを公表するニッキー・ヒルツ(28歳)選手は7月8日(現地時間)、アメリカのオレゴン州で行われた全米陸上競技選手権大会に参加し、女子1500メートルレースで優勝した。
出生時の性別に違和感をもつが、男の性でもないし女の性でもないという二軸で性に属しない人間をノンバイナリーという。ニッキー選手は医学的には男性であるがノンバイナリーを自任しているのだ。
 医学域には男性であり、自称では男でも女でもないニッキー氏が女子の1500メートルレースに参加したのである。女子ではない選手が女子のレースに参加できたのか不思議である。
ニッキー選手は、今大会での優勝はトランスジェンダー・コミュニティにとっての“勝利”であると述べている。男性でありながら女子のレースに参加したトランスジェンダーの勝利であるのだ。


 ニッキー選手が優勝した瞬間の写真である。他の選手と足をを比べてほしい。女子選手の太ももは柔らかそうである。しかし、ニッキー選手の太ももは筋肉質である。これは男性と女性の筋肉の質の違いである。男性の筋肉を持つニッキー選手が優勝するのは当然である。
トランスジェンダーが女性競技に参加するのはトランスジェンダーによる女性差別であると考えるべきである。スポーツはLGBTの精神論よりも医学の判断をもっと尊重するべきである。
  

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2023年03月08日

「左側の自民党をめざせ」は党首公選要求よりも内部破壊力のある爆弾 3

「左側の自民党をめざせ」は党首公選要求よりも内部破壊力のある爆弾 3

 松竹氏が問題にしているのは共産党の議席が減り続けていることである。共産党が議席を増やすことに松竹氏は強くこだわっている。
「他の党は、はじめから政権獲得を意識した人の集合体である」のに共産党は違う。しかし、共産党も他の政党のように政権獲得を目指す政党になるべきだというのである。そのためには「多様な価値観を持つ人々を支持者にしなければならない」支持を得るためには「時として妥協をすることもいとわない」と主張している。
そのモデルとなるのが自民党なのだ。自民党は考えの違う政治家が派閥をつくって対立しながらも与党になるために集まっている。
自民党は多様な価値観を持っている国民の考えに合わせながら政治をしている。だから、国民の支持率が高く与党になっている。
竹松氏は共産党も与党を目指して自民党のようになるべきであると主張しているのである。
 竹松氏が注目されているのは「党首公選」である。「党首公選」よりも共産党を窮地に追いやるのは「左の自民党」である。共産党が国民の支持を得て与党になってほしいと思っている共産党員は多いだろう。
 松竹氏が国民の支持を拡大するための「左の自民党」を主張すれば松竹氏に賛同する共産党員はどんどん増えるだろう。
 日本が議会制民主主義国家になって75年になる。75年で明らかになったのは今のままの共産党では少数政党のままであることである。共産党が与党になるのは夢のまた夢であることが明らかである。松竹氏の主張する与党を目指して自民党のような選挙運動をすることに賛同する共産党員は多いだろう。
 「左の自民党」はマルクス・レーニン主義に固執している中央委員会にってはと絶対に容認できないことである。「左の自民党」になれば共産党が内部崩壊するに等しい。
 松竹氏は頑張って「左の自民党」を拡大して共産党を内部崩壊させてもらいたい。
  

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2022年06月21日

余りにもお粗末な左系識者のウクライナ戦争論 だから左翼は衰退していく

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余りにもお粗末な左系識者のウクライナ戦争論 だから左翼は衰退していく
「ガマフヤー」代表の具志堅隆松氏は有事に県民140万人が避難するのは非現実的だ」とノーモア沖縄戦・命どぅ宝の会主催の講演会で発言した。ガマフヤー具志堅は140万人の避難は不可能だから沖縄から移動するべきは県民ではなく米軍基地であると主張する。米軍が南西諸島に臨時の攻撃拠点を置くとの報道に「(南西諸島の米軍が)攻撃をすれば沖縄が反撃されるのは当然だ」というのである。
 南西諸島に攻撃拠点を置くという報道は見たことがない。米国が攻撃拠点を置くはずがない。中国が台湾を攻撃した時には中国軍を攻撃するだろう。米軍との戦争を避けているから中国は台湾を攻撃してこなかった。つまり米軍と有事になる国はない。成り立たない仮定を無理にでっち上げて米軍基地撤去を主張しているのがガマフヤー具志堅である。辺野古の埋立てに使用するのは砕石であるのに骨が埋まった土であると嘘をつき、辺野古の海には戦争で犠牲になった人の骨があると嘘もついた。嘘の沖縄をつくっているガマフヤー具志堅である。
沖縄国際大名誉教授の石原昌家氏は、ウクライナで成人男性の出国が制限されていることを批判する。ひめゆり学徒隊に動員された生徒たちが、学校側から脅されてやむなく動員されたこととウクライナ政府が出国を制限したこととは同じことであると述べ、戦争に国民を動員する権力の姿勢を批判する。石原教授はロシアのプーチン独裁からウクライナの民主主義を守るための戦争であることには関心がない。
県が去年調査した世論調査では、「米軍用施設の7割が沖縄に集中している状況について差別的だと思うか?」の問いに、
「そう思う」または「どちらかといえばそう思う」と答えた人は約66%であった。しかし、年代別で見ると「そう思う」と答えたのは60代・70代では50%以上だったのに対し、10代から30代では30%以下であった。
ロシアが侵攻したウクライナ戦争で米国はウクライナを守るために莫大な支援をしている。米国が民主主義の味方であることははっきりした。沖縄の米軍基地を容認する県民はもっと増えるだろう。今年の世論調査では「そう思わない」が50%を超えるだろう。左翼に騙される県民は減っていく。
  



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2021年10月09日

日本の「感染激減」を韓国が疑がうのは専門家とマスメディアのせいである

日本の「感染激減」を韓国が疑がうのは専門家とマスメディアのせいである
 
韓国では日本のコロナ感染激減は日本政府の改竄(かいざん)ではないかという疑いが広がっている。
8月下旬の2万人台から10月4日には約600人まで急激に減少した。韓国にとって信じられない感染減少であった。韓国はコロナ感染を押さえたほうの国である。ずっと1000人以下に押さえていた。日本よりも感染を押さえていたのだ。しかし、7月からは1000人を超えた。韓国は感染拡大を押さえるために7月以降は首都圏の夜の飲食店利用が原則2人までに制限するなど、厳しいコロナ対策がとってきた。しかし、感染は減らず1000人以上が続いている。厳しいコロナ対策をしている韓国から見れば、日本がどのようなコロナ対策をしようと2万人台から1000人以下まで減少するのはあり得ないことである。だから、韓国は日本政府が改竄したと疑っているのである。故意にPCR検査を減らして感染者を減らしたのではないかと疑う韓国人もいる。改竄かPCR検査減らしかの二つで日本のコロナ感染が急減させたと韓国は疑っている。コロナ感染激減をコロナ対策の成果であると世界に発信しないことも日本政府の改竄を疑いを強くしている。韓国なら韓国のコロナ対策は世界でも優秀であると世界に発信していただろう。世界は韓国のコロナ対策を学ぶべしと韓国を誇りにしていただろう。ところが日本政府は感染激減を評価する発言をしない。感染激減の裏には表に出せない裏があると疑うのは当然である。
韓国で最も人気が高く、与党幹部らもたびたび出演する時事ラジオ番組「金於俊(キム・オジュン)のニュース工場」で金於俊は「1カ月で感染者が10分の1になるなんてことはない。そんなやり方があれば世界はとっくにコロナを撃退している」と指摘している。金氏の言う通りである。日本のコロナ対策を世界が実行すればコロナ感染は、10分の1に激減している。しかし、日本政府は感染激減させたこと、激減させたコロナ対策の方法を世界に発信しないのである。世界のコロナ感染を押さえるには日本のコロナ対策を世界の国々に教えるべきであるのに日本政府しない。やはり、感染激減は裏工作があると勘ぐってしまうのは当然の成り行きである。
 疑わしいのは日本政府だけではない。専門家も疑わしい。専門家は感染が激減したことをワクチン効果や人口移動の減少が複合的に作用したと分析している。しかし、専門家の説明は激減した説明としては成り立たない。ワクチンや人口移動の減少で激減するはずがない。
 専門家も政府の改竄を胡麻化すために嘘の激減理由をでっち上げている可能性があるということだ。マスメディアもコロナ感染が激減したことを専門家の理由にならない理由をたれ流しているだけである。

 日本政府がコロナ感染激減をでっち上げ、専門家が下手な説明をし、マスメディアはニュースで激減をニュースにし、専門家の下手な説明を垂れ流している。韓国にはそんな風に見えているのだろう。無理からぬことである。
金氏が言った
「そんなやり方があれば世界はとっくにコロナを撃退している」
は日本政府、専門家、マスメディアに非常に重い言葉である。金氏の言う通りである。金氏は感染激減は政府の改竄だと疑っているがそうではない。日本は本当に感染激減させたのだ。日本のコロナ対策は優れている。そのことを去年の9月に出版した「内なる民主主義24」で述べた。原稿は5、6月にブログに掲載したものである。
・新型コロナ対策に失敗するはずなのに成功した不思議な国ニッポン・コロナ対策に成功しているはずなのにそれを自覚しない不思議な国ニッポン・新型コロナ対策に成功したことを説明できない不思議な国ニッポン・新型コロナ対策はPCR検査、ロックダウンしかない世界の公衆衛生専門家が感染爆発を起こさせた・詰まらないPCR検査の大合唱

 日本の感染者が少ないことはネットで世界の国々と比較すれば分かることである。少ない原因を調べていくと厚労省のクラスター対策班によるコロナ対策であることがわかってきた。そして、専門家とマスメディアは日本政府のコロナ対策が優れていることを無視していることも知った。
韓国が日本政府の改竄だと疑っているのは真実を伝えない専門家とマスメディアのせいである。
  

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2021年02月01日

宮古島市オール沖縄左翼敗北をますます助長するデニー知事の自衛隊要請

宮古島市オール沖縄左翼敗北をますます助長するデニー知事の自衛隊要請

 宮古島市長選挙は自民党推薦立候補だけでなくオール沖縄推薦の立候補も自衛隊配備容認であり、自衛隊配備反対の左翼政党は選挙前に敗北していた。左翼の敗北をさらに助長したのが玉城デニー知事である。
 デニー知事は新型コロナ感染が急拡大している宮古島市に自衛隊派遣を要請した。宮古島市は10万人当たり新規感染者が247・14人に上った。全国39・33人で、全国一位の東京は45・08であるが宮古島市は東京の5倍以上であった。医療崩壊状態に陥った宮古島市への自衛隊派遣をデニー知事は国に要請した。
 岸信夫防衛相は29日に陸上自衛隊の看護官ら5人含めた15人派遣を決めた。
 31日に現地入りした陸上自衛隊の看護官は、クラスターが発生している高齢者施設で感染者への医療支援活動を始めた。31日から2週間、市内の医療機関で看護業務などに当たる。
 新型コロナ感染パニックに陥った宮古島市民は自衛隊の医療支援活動に感謝するだろう。

 反対運動を主導しているのは宮古島市民ではなく、沖教祖、自治労を中心とした左翼であり、沖縄平和運動センターの山城博治議長たちである。
 自衛隊の医療支援を経験した市民は配備反対運動に反発するようになる。デニー知事の自衛隊への派遣要請は配備反対運動への強烈な圧力となる。
 翁長前知事のように反米軍、反自衛隊に利用するためにデニー氏を知事にしたが、宮古島市では反自衛隊ではなく自衛隊容認拡大をデニー知事は促進したのである。
 デニー知事は那覇軍港の浦添市移設に賛成である。移設反対の左翼政党とは対立している。浦添市長選では左翼候補者を不利にしているデニー知事である。
  

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2020年08月27日

日本の政治を支えているのはノンポリ国民


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日本の政治を支えているのはノンポリ国民

議会制民主主義国家日本を縁の下で支えているのはどんな国民か。それは保守か、それとも左翼か。保守でもなければ左翼でもない。それは政治に強い関心はないノンポリの国民である。

国会で過半数の議員を持つ政党が政権を握る。議員は選挙で選ばれる。国民の支持が多いのが自民党である。しかし、一番多い自民党でも支持者はわずか24%である。24%の支持票では過半数には達しない。支持票だけでは自民党は政権党になれない。
支持政党なしはなんと60%を超える。政権を左右するのは支持政党なしのノンポリの国民ということになる。自民党が国会過半数を獲得して政権を握って来た。ノンポリ国民の多くは自民党に投票してきたのである。民主党が圧勝した時はノンポリ国民は民主党を支持したが、政策がノンポリ国民の気に入るものではなかったから、次は自民党に投票して自民党が勝利した。
ノンポリ国民の第一は生活である。生活を豊かにしてくれそうな政党に投票する。生活を豊かにしてくれる政治を続ける政党であるなら次も投票し、そうでないなら別の政党に投票する。
議会制民主主義になった戦後75年間は支持政党なしの国民が国の政治を左右してきた。いわゆる戦後の政治はノンポリ国民が支えてきたと言っても過言ではない。
立憲民主党は野党が団結すれば自民党に勝てると思っているが、それでは勝てない。自民党に勝つにはノンポリ国民が望んでいることを研究し、自民党よりもノンポリ国民に支持される政策を打ち出さなければならない。野合では勝てない。
それに共産党とも共闘するような政党をノンポリ国民の多数が支持するとは思えない。
  

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2020年08月12日

黄泉の国の神風特攻隊

黄泉の国の神風特攻隊
「ここはどこだろう。」
加藤次郎は突然一度も来たことがない場所に立っていた。空も雲もない。家も木もない。山もない。風もない。道もない。見慣れた風景がない不思議な場所である。夢の中だろうか。自分はまだ寝ていて、夢の中に居るから風景がない世界に居るのだろうか。加藤は当たりを見回した。風景のない世界だ。やはり夢を見ているのか・・・加藤は首を振った。
・・・・いや、そうじゃない・・・・夢じゃない・・・・
寝ているはずがない。自分はゼロ式戦闘機に乗って憎っくき米艦船に突っ込んでいった。そうだ。私は特攻隊として敵艦船に突っ込んでいったのだ。看板目掛けて私のゼロ式戦闘機は一直線に突っ込んだ。逃げ惑うアメリカ兵。恐怖に顔が引きつっている金髪の海兵隊の姿も見えた。ぐんぐん甲板が近づいていった。
 加藤次郎の記憶はそれから真っ暗になった。真っ暗になってからどれほどの時間が経ったのだろうか。もしかすると時間は全然経っていないかもしれない。加藤次郎は腕時計を見た。時計は一時三分三十五秒のまま動かない。どうやら艦船に突撃した瞬間から時計は止まっているようだ。
 太陽は出ていないのに明るい。道もない。家もない。山も見えない。海も見えない。奇妙なところである。
 暫くして加藤次郎は天国に居るのではないかと思った。自分はゼロ式戦闘機に乗って勇敢に敵艦船に突撃をした。爆弾を抱えて艦船の看板に突っ込んだのだから生きているはずがない。ああ、自分は死んだのだ。死んだという実感はないが、これまでのことを考えると自分が死んだということは納得できる。ああ、自分は死んだのだ。もう二度と地球の大地の上に足を踏みしめることはできないのだ。父や母に会うことはできない。妹の由美子と会うこともできない・・・・・。
 加藤次郎は自分が死んだという事実にさびしさがこみあげてきた。しかし、死んだことに後悔はない。自分は神風特攻隊員として大日本帝国のためにゼロ式戦闘機に乗って敵艦船の甲板に突っ込んだのだ。自分の命と引き換えに敵艦船を大破したのだ。米艦船は沈没しただろう。加藤次郎は家族や友人に会えなくなったさびしさはあったが責任は果たしたという充足感もあった。
鬼畜アメリカが日本本土上陸するのは絶対に阻止しなければならないのだ。そのためには自分の命なぞちっとも惜しくはない。日本国のため天皇のためにあるのが自分であるのだ。日本男子として当然のことをやっただけだ。
次々と自分に続いて特攻隊が鬼畜アメリカの艦船に特攻していき、日本に真の神風を吹かすのだ。そして鬼畜アメリカを駆逐してやるのだ。日本には神風があるのを軽薄アメリカは知らないだろうが、神風特攻隊の攻撃が続けば本当の神風が起こりアメリカ艦隊は海の藻屑となるのだ。
「天皇陛下万歳。」
加藤次郎は興奮して声高に万歳をしていた。すると、山がないのに、
「天皇陛下万歳。」
と山彦が返ってきた。いや、山彦ではない。次郎の声とは違う声だ。すると反対の方からも、
「天皇陛下万歳。」
が聞こえた。聞き覚えのある声だ。
「いとーかあー。」
加藤は声の方に向かって叫んだ。
「かとーかあー。」
加藤の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「いとー。」
加藤が叫ぶと、
「かとー。」
伊藤の声が返って来た。まさかこんなだだっ広いなにもない所で突然に伊藤の声が聞こえるとは。ああ、神の導きなのだろうか。
加藤は声のする方に走った。加藤は走って驚いた。走るのが早いのだ。それも人間の速さとは桁が違った。人間の走る早さは百メートルを10秒代で走るのが世界最速である。ところが加藤の速さは百メートルを一秒以下で走るのだ。いや、音速くらいの速さである。
 声のする方のはるか彼方に人間の姿は見えなかったが、暫くすると米粒のようなものが見え、それが見る見るうちに大きくなりやがて人間の姿になった。
「伊藤。」
「加藤。」
二人は再開を喜んだ。
「おう、伊藤。無事だったか。」
加藤が言うと伊藤は返事に途惑い苦笑いした。
「はあ。無事と言えば無事だと言えるし。そうではないとも言えなくはないし。」
伊藤の戸惑いに加藤は自分たちが死んだということを思い出した。
「ああ、そうか。私たちは死んでいるのだ。無事であるかと聞いたのは愚問であった。私は駆逐艦の甲板に体当たりした。駆逐艦は沈没したと思う。」
加藤は言った。
「私は敵空母の甲板に突っ込んだ。大破したと思う。
しかし、私の抱えていた爆弾で空母が沈没したかどうかは疑問です。しかし、甲板を爆発させましたから、戦闘機の利発着はできなくなったはずです。」
「そうか。それでいい。」
どこからか声が聞こえた。
「天皇陛下万歳。」
かすかに聞こえる。
「あの声は岡部憲次ではないか。」
「いや、小泉八郎だと思います。」
「そうかなあ。私には岡部の声に聞こえたのだが。」
二人は耳を澄ました。
「天皇陛下万歳。」
かすかに聞こえた。
「やっぱり岡部憲次だ。」
「いえ。小泉八郎です。」
「声のする方に行こう。」
二人は音速以上の速さで声のする方に移動した。近づくにつれて声は大きくなりはっきりと聞こえるようになった。岡部憲次と小泉八郎の声が重なっていてひとつの声になっていた。
「おうい。おかべー、こいずみー。」
加藤が叫んだが、声の速さと加藤の速さは同じくらいで声と一緒に岡部と小泉のいる場所に到着した。
「加藤。伊藤。」
「岡部。小泉。」
四人は再会を喜んだ。
「ここは天国ですかね。」
「天国なんだろうな。」
「いやいや。天国ではなくて、あの世だと思う。」
「天国とあの世は違うのか。」
「そりゃあ、違うだろう。あの世はひとつだが、天国は地獄もある。あの世から天国と地獄に別れるのだろう。」
「とすると、ここは仮の居場所というわけか。」
「そうだ。」
加藤と小泉は回りを見渡した。
「なにもありませんね。」
「なにもない。」
四方八方に障害物はひとつもなく遥か遠くまでなにもない。地平線も見えない。
「そう言えば、腹が空かない。」
「喉も渇かない。」
「そう言えばそうです。」
「今まで気づかなかったが、腹が空かない、喉が渇かないというのも不思議なものです。三度の食事の前は腹が空いた。水を飲まなければ喉が乾いた。でもここでは腹が空かないし喉も渇かない。なんか妙な感じです。ご飯を食べないで水も飲まないと死んでしまうとつい不安になるが、なんのことはない。私は死んだのです。腹が空かない、喉が渇かないということは死んだ証拠ですね、やっぱり私は死んだのですね、」
小泉は自分が死んだことにがっかりした。
「しょぼくれた顔をするな。私たちは天皇陛下のためににっくきアメリカ軍をやっつけたのだ。私たちは名誉ある戦死をしたのだ。胸を張れ小泉。」
加藤は小泉を叱咤した。
「はあ。」
小泉は肩を落とした。
「加藤。こいつは好きな女性がいてな。結婚する約束をしたのだが、結婚する前に特攻命令が下ったのだ。しょほくれるのも無理ない。」
「そうなのか、小泉。」
「はあ、まあ。」
小泉は口を濁した。
「日本男子がそのくらいでくよくよするな。我々は天皇の子として生まれ天皇のために死んでいくのを運命としているのだ。
『海ゆかばみずく屍
山ゆかば草むす屍
大君のへにこそしなべ』
だ。そうだったじゃないか。好きな女と結婚できなかったくらいでめそめそめしやがって。日本男子の恥だ。」
「加藤。そんなに小泉を責めるなよ。」
加藤は優柔不断な小泉にいらいらしていた。
「責めてはいない。当たり前のことを言っているだけだ。」
加藤の苛立った声に小泉はますます萎縮した。
「すみません。」
伊藤が小泉をかばった。
「勘弁してやれよ。人間なんだから完璧ではないんだ。好きな女性と結婚できなかったからがっくりするのもそれはそれでいいじゃないか。」
伊藤の意見に加藤はむっとした。
「伊藤。今日本はどんな状況か分かっているのか。国民総出で戦争をしているのだ。日本が戦争に勝つために老いも若きも男も女も命がけで戦っているのだ。そんな時代に好きな女性と結婚できなかったからめそめそめするなんて許されることではない。色恋にうつつをぬかすなんて許されないことだ。ぶん殴ってやりたい気持ちで一杯だ。」
「まあまあ。そんなに興奮するな加藤。お前は小泉を色恋にうつつを抜かしていると非難しているが、小泉は任務を立派に完遂したのだぞ。」
岡部は小泉を殴る勢いの加藤の肩を掴んで加藤を小泉から離した。
「小泉はな。航空母艦の司令室に突撃して司令室を木っ端微塵にしたのだ。そうだよな小泉。」
「は、はあ。」
加藤は小泉が航空母艦を大破させたことに感動した。
「すごい。それはすごい。すごいじゃないか小泉。」
「は、はあ。大破したかどうかは分からないです。なにしろ、爆発は見ていないので、爆発したかどうかは知りません。なにしろ、爆発する前に気を失ったものですから。」
岡部は笑った。
「そりゃあそうだ。爆発した瞬間に俺たちの肉体はバラバラになってしまう。つまり死んでしまう。逆にいえば気を失ったつまり死んだということが爆発をやった証拠になるんだよ小泉。」
「は、はあ。」
「自信を持てよ。お前は特別攻撃隊として立派に任務を果たしたのだ。」
「で、でも。」
「でも、なんだ。」
「いえ。なんでもありません。」
小泉は下を向いた。岡部は小泉の内心を知っているかのようににやにやした。
「航空母艦を大破した栄誉より好きな女性と一緒になれなかったことの方が小泉の衝撃は大きいということか。」
小泉は内心を見抜かれて慌てた。
「い、いえ。そんなことはありません。」
岡部は苦笑した。
「なあ小泉。俺たちは死んじまったんだ。なにくよくよしているんだ。ここでは嘘をつく必要はないんだ。ここはあの世なんだぜ。この世ではないんだ。分かっているのか。」
「はあ。まあ。」
まだ軍国主義真っ只中の現実に生きていた習性が小泉の体から抜けていなかった。本音をしゃべると密告されて憲兵に逮捕される恐怖が小泉の感性に残っていた。
「雪江さんと結婚できなかったことを悔やんでいるのだろう。ここはあの世だ。堂々と言っていいんだ。」
「いえ。とんでもありません。」
憲兵に聞かれたら大変であるとでもいうように小泉は岡部の口を覆って回りを見た。
「聞き捨てならん。」
加藤は怒った。
「結婚できなかったことを悔やんでめそめそしているのか。それでも日本男子か。お前は大日本帝国の人間として恥ずかしくないのか。天皇からもらった命なんだぞ。大日本帝国のために捧げることこそが最高の命のありかたなのだ。」
「はあ、はい。」
伊藤がにやにやした。
「加藤は恋を知らないなあ。知らないからそんな偉そうなことが言える。」
加藤は伊藤の言葉にむっとした。
「今は戦時下なのです。恋うんぬんにうつつを抜かしている場合ではありません。」
「おお、くわばらくわばら。」
伊藤は加藤をからかった。その時、遠くで声がした。四人は耳を澄ました。
「天皇陛下万歳。大日本帝国万歳。」
という声が聞こえた。四人は顔を見合わせた。
「石原の声ではないか。」
「清水の声も聞こえる。」
「赤木の声も混じっている。」
「鴨井の声も聞こえる。」
四人は各々声の主の名前を呼んだ。すると向こうからも加藤たちの名前を呼ぶ声がした。
「彼らもアメリカの艦隊に突撃したんだ。」
「ここの世界に来たということはそういうことだ。」
地平線の方に米粒ほどの黒い塊が見えそれが見る見るうちに大きくなってきた。
「加藤先輩。」
「伊藤先輩。」
「小泉先輩。」
「岡部先輩。」
石原、清水、赤城、鴨井は加藤たちの所にやってきた。
「おお。無事だったか。」
と加藤は言ってから途惑った。死んだのに無事と言うのは変である。
「はい。石原は無事敵艦船の横っ腹にぶち当たりました。」
「清水も敵艦船の横っ腹にぶち当たりました。」
「赤木は敵艦船にぶち当たりました。」
三人は成果を報告したが鴨井だけは黙っていた。加藤たちは鴨井の報告を期待して待ったが鴨井は首をうなだれて黙っていた。
「鴨井はどうだった。」
加藤が聞くと鴨井はますます体を縮めた。
「どうした鴨井。」
「鴨井は体当たりに失敗したのです。」
黙っている鴨井の代わりに石原が答えた。
「そうなのか鴨井。」
加藤が聞くと鴨井は黙っていた。
「鴨井。答えろ。」
加藤は厳しく言った。鴨井は首をうな垂れてじっとしていたが、加藤の詰問が次第に厳しくなっていったのに耐え切れずに鴨井は肩を震わせて泣いた。
「加藤。鴨井を責めるのはそれくらいにしろよ。鴨井だって敵軍艦に体当たりしようと頑張ったんだ。」
伊藤は鴨井をかばった。
「なに言っているんだ。日本は物資が少ないんだ。物を大事にしなければならないんだ。戦闘機一機、爆弾のひとつも粗末にしてはならないんだ。神風特攻隊は百発百中でなければならない。そのために人間が操縦して敵艦に体当たりしているのだ。鴨井は国民の血の一滴である零式戦闘機と爆弾を無駄にしてしまったのだ。」
加藤の反論に伊藤はなにも言えなかった。鴨井はわーっと泣いて土下座した。
「すみませんでしたー。」
岡部は鴨井を抱き起こした。
「加藤の言う通りであるだ。否定はしない。しかし、もう俺たちは死んだのだ。鴨井だって敵艦に突っ込む積もりでいたから死んだのだ。死んだ人間をそんなに責めるなよ。死んでも責められたらかわいそうだ。」
加藤は岡部の説得に納得する様子はなく憤然としていたが、、それ以上鴨井を責めることはしなかった。

海ゆかばみずく屍
山ゆかば草むす屍
おおきみの
へにこそ死なめ
かへり見はせじ

海に行ったならば 水に漬かった屍(死体)になり
山に行ったならば 草の生えた屍になって
天皇の 
お足元で死のう
後ろを振り返ることはしない

遠くから歌が聞こえてきた。
「あれは黒川の声だ。」

別の方からも歌が聞こえてきた。

ひとの嫌がる軍隊へ
志願で出て来る馬鹿もいる
お国のためとは言いながら
かわいいスーちゃんと生き別れ

加藤が不愉快な顔をした。
「諸星だ。」
小泉が言った。
「諸星さあーん。」
小泉は諸星を呼んだ。
「小泉かあー。」
暫くすると諸星の返事が聞こえてきた。小泉は諸星の声がする方に走って行った。
「黒川―。」
加藤は大声で黒川を呼んだ。
「加藤さんですかー。」
という声と一緒に黒川が音速で走ってきた。
「おう。黒川。」
「加藤さん。」
二人は手を固く握り合った。
「鬼畜米兵の敵軍艦へ体当たりしたか。」
加藤が聞くと、
「はい。しっかりと敵巡洋艦のどてっ腹に突っ込みました。」
「そうかそうか。よくやった。」
「ありがとうございます。天皇陛下万歳。」
「天皇陛下万歳。」
加藤と黒川が天皇陛下万歳をしたので他の連中も一緒に「天皇陛下万歳。」
「大日本国万歳。」
を斉唱した。黒川は

海ゆかばー

と歌い始めた。すると他の連中も

海ゆかばー

と合唱を始めた。なにもないだだっ広い空間に特攻隊員たちの「海ゆかば」が流れた。

遠くから海行かばを無視するように、

ここはお国を何百里
離れて遠き満州の赤い夕日に照らされて
友は野末の石の下

泣きながら歌う声が聞こえた。

「放送禁止の歌を歌っているのは誰だ。」
加藤が苦虫を噛んだように顔をゆがめて言った。
「斎藤文雄だと思います。彼はこの歌が好きでよく歌っていました。」
石原が言った。
「なにー。この歌は放送禁止にされている歌だぞ。日本国民の戦争への高揚を脆弱にさせる歌だ。お前はこんな下司な歌を歌っていたのか。」
「いえいえ。私は歌っていません。歌っていたのは斎藤です。私ではありません。」
加藤の剣幕にたじろぎながら石川は弁解した。
「説教してやる。斎藤を呼べ。」
石川は、
「斎藤。こっちに来い。」
大声で斎藤を呼んだ。すると斎藤の歌が止まった。加藤と石川は斎藤が来るのを待ったが斎藤は来なかった。
「ふざけた奴だ。石川。斎藤を呼べ。」
斎藤が来ないので加藤は怒った。
「斎藤。こっちに来い。」
石川は斎藤を呼んだ。しかし、斎藤は来なかった。
「斎藤。」
加藤が大声で呼んだ。しかし、斎藤は来なかった。加藤は苛立った。
「石川。斎藤を連れて来い。」
「はい。」
と答えて、石川は斎藤を探しに行こうとして躊躇した。戦友を歌った斎藤を連れてきて説教する必要があるかどうか疑問を感じた。斎藤も自分たちと一緒に神風特攻隊員として飛行場を飛び立った。そして、アメリカの軍艦に体当たりをして死んだ。神風特攻隊員としての任務を立派に遂行して死んだ斎藤を説教してなんになる。なんにもならない。
「あのう。加藤さん。」
石川は頭を掻きながら、
「斎藤は同じ場所にいるかどうか分からないし、こんなだだっ広い場所で斎藤を探すのは大変です。斎藤を探すのは勘弁させてください。」
「なに、お前は先輩の言うことが聞けないと言うのか。」
「いえ。決してそんなことではありません。ただ、斎藤を探し出すのは困難であると言っているのです。はい。」
石川の横柄な態度に加藤は頭にきた。
「文句を言うな。さっさと斎藤を探しに行け。」
死んだのだから殴られても痛くない。死んだのだから体は軽く正座を何時間やっても平気である。石川には体罰を食らう恐怖はなかった。軍隊のように罰として食事抜きにされてもお腹が減るということはない。
「すみません。無駄なことはやりたくないのです。」
「なにー。なにが無駄だ。」
加藤は石川に殴りかかろうとした。加藤を伊藤と岡部が止めた。

「おにいちゃあーん。」

遠くでか女の子のかわいい声がした。一同が始めて聞く仲間以外の声であった。一同は声のする方を見た。はるか彼方に米粒ほどの人の姿が見えた。

「おにいちゃあーん。」

一同は顔を見合わせた。一体誰の妹なのだろう。

「おにいちゃあーん。」

手を振りながら女の子は走ってくる。妹のいない岡部と石原は他の連中の顔をみまわした。妹はいないことを思い出した小泉も他の連中の顔を見た。女の子の顔がはっきりと見え加藤が
「ああ。」
と声を出し指で女の子を指したまま体を硬直させた。
「由美子。」
加藤の口から妹の名前が出た。加藤は集団から出て由美子の方に走った。

「ゆみこー。」

兄と妹はしっかりと抱き合った。
他の連中は肉親と出会った加藤を羨んだ。みんな口には出さないが、父、母、兄、姉、弟、妹に会えない寂しさを感じていた。生きていれば戦争が終われば親兄弟に会える。しかし、死んだら会うことができない。家族と遠く離れて生きていかなければならない孤独を噛み締めていた。
加藤はかわいい妹を抱きしめていたが、死んだ自分と同じ世界に妹がいることは妹も死んだということになることに気づいた。加藤は我に返り驚愕した。
「由美子。どうしてお前はここに居るのだ。」
由美子は兄に会えたうれしさに満ち溢れていた。由美子と加藤は年の離れた兄妹であり、一年ぶりの再会に由美子はうれしくてうれしくて加藤にずっとしがみついていた。加藤は由美子を強引に離した。
「由美子。どうしてここにいるのだ。」
「分からない。由美子は庭で遊んでいたの。それから急になにもない所に座っていたの。お家もない。お花もない。なにもない。変なところ。」
由美子は自分が死んだことを知っていない。なぜ由美子が死んだのだ。加藤は理解に苦しんだ。由美子は東京から祖母の住んでいる長崎に疎開した。由美子が死ぬはずはない。長崎も東京のように空爆されたのだろうか。
「由美子。爆弾が落ちてきて爆発したのか。」
由美子は考えたが爆撃機がやって来て爆弾を落とした記憶はなかった。
「爆弾は落ちて来なかったわ。」
「爆発はなかったのか。」
「なかったわ。」
「じゃあ、どうして由美子がここに居るのだ。」
「ここはどこなの。」
「由美子が来てはいけないところだ。」
「わたしが来てはいけないところなの。」
「そうだ。」
「お兄ちゃんは来てもいいところなの。」
加藤は喉がつまった。
「そ、そうだ。お兄ちゃんは神風特攻隊だからここに来る運命なのだ。」
「ふうん。」
由美子は理解できないことを理解しようとした。しかし、理解できない。加藤も妹の由美子が目の前に居ることが理解できなかった。

1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、アメリカ軍が日本の長崎県長崎市に原子爆弾を投下した。由美子を含め、一瞬のうちに約7万4千人が死亡した。長崎に原爆が落ちたことを特攻隊の加藤は知るはずもない。

 由美子が目の前に居る。由美子が死んだことは事実だ。否定することができない。でも由美子が死ぬはずはない。死ぬはずはない。でも由美子が目の前に居る。由美子の死を否定することはできない。
「理不尽だ理不尽だ理不尽だ。ここに居るはずがない由美子が居る。ここに居てはいけない由美子がいる。」
俺はアメリカ軍艦を沈没させた。鴨井は失敗した。失敗した鴨井の妹は無事でなぜ俺の妹は死んだのだ。おかしいぞ。」
鴨井はぼそぼそと言った。
「加藤は天皇陛下のために特攻したのじゃないか。妹がアメリカに殺されようが殺されまいが加藤には関係ないことじゃないか。加藤も天皇の子、妹も天皇の子だ。生き死にはお互いに関係のないことだ。そうだろう加藤。」
加藤は苛ついていた。
「鴨井。声が小さい。言いたいことがあったらはっきりと言え。お前はアメリカの軍艦に体当たりをし損なった。アメリカ軍に痛手を与えることもできなかった。俺は軍艦を沈没させた。それなのに俺の妹は戦死してお前の妹はゆうゆうと生きている。なぜだらしのない奴の妹は生きているのだ。さあ、答えろ鴨井。」
加藤は鴨井の胸倉を掴んだ。
「済みません。」
「なにが済みませんだ。このやろう。」
妹が死んだことで加藤は逆上していた。加藤に責められている内に鴨井は鬱積していた反発が増大していった。加藤への怒りが爆発した。鴨井は加藤の手を払いのけた。
「俺はな加藤。特攻隊になりたくなかった。もっと絵を描きたかった。しかし、それは許されない。特攻隊員となった時、俺の夢は鎖で縛られた。特攻隊員として出撃する時に俺は妹のために敵艦に体当たりすることを誓った。母のため父のために俺は敵艦に体当たりした。体当たりは失敗した。でも、それは運不運の問題だ。特攻隊として海の藻屑となった俺の願いはかなえられた。俺は妹が生きているだけで俺が特攻隊として出撃した意義はあると思っている。殴るなら殴れ。どうせ死んだ身体だ。痛くもなんともない。」
加藤は「くそくそくそくそ。」と言って悔やんだ。

「アメリカの軍艦は何千隻何万隻あるのだ。神風特攻隊の零式戦闘機の何十倍もあるのじゃないのか。これじゃあ神風特攻隊全機が突っ込んでもアメリカの軍艦は残るじゃないか。寒気がしてきた。」
「くそ。神風が吹かないのか。」
「やつらは神風も計算にしてしまうのさ。くそ。」
「どうすればアメリカをやっつけることができるのだ。」
「無理だ。とてもじゃないがアメリカに勝てる要素が見つからない。アメリカに勝てるのは大本営発表だけだよ。」

1945年8月15日
日本帝国配線で戦争は終わった。

終戦から75年
黄泉の国の神風特攻隊員たちは
どうしているのだろうか。

  

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2020年07月21日

近くの小学校で新型コロナ感染児童


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近くの小学校で新型コロナ感染児童

 三線教室から帰ってきてネットを見てびっくり。新型コロナウイルスに感染した男児は読谷村の小学生だという。中部保健所管内在住の10歳未満の小学生男児が、新型コロナウイルスに感染したというのは昼のニュースであった。保健所は沖縄市にあるし、人口も多いので沖縄市あたりの小学校だろうと思っていた。ところが我が読谷村である。まさかである。
息子にこのことを教えようと電話した。息子はすでに知っていた。男児がどこの小学校の生徒であるかも知っていた。小学校名を聞いて驚いた。なんと、その小学校は近くの小学校だったのだ。いつも小学校の側を通っている。毎日見ている小学校の男児が新型コロナに感染したのだ。
今日も小学校側を通った。車ではなく徒歩で。今日は嘉手納町の南区の公民館で三線教室があった。徒歩で40分ほどかかる。健康のために徒歩で通っている。
 三線教室に行くときは5時過ぎに家を出る。学校はすでに終わっている。しかし、普通なら運動場や広場に小学生が居る。今日は一人も居なかった。異様な風景であったがまさか新型コロナに感染している児童が出たとは想像しなかった。感染児童が出たので中部の小学校が全部臨時休校したのかなと思った。そうではなく。この小学校から新型コロナ感染児童が出たから休校にしたのだ。

 近くの小学校の児童が新型コロナに感染したと知ってもなんのショックもないし恐怖もない。一人暮らしであるし、一日のほとんどは家に居てパソコンを見ている。濃厚接触をするのはせいぜい居酒屋かスナックである。当分はスナックに行くのを止めよう。コロナ感染しないように気をつければ感染はしない。近くの小学校で感染者が出ても感染しないように工夫すればいいだけのことだ。

 読谷村は村のホームページや公式LINEで「村で小学生の感染が確認された」と新型コロナ感染したのが読谷村の生徒であることを発表した。発表した目的は「2次感染、3次感染を予防する」ためである。現在濃厚接触者の確認を進めているという。
村民に対し、落ち着いた行動をするように求め「こまめな手洗いやマスクの着用、3密を避けるなど基本的な感染予防の徹底をお願いしたい」と村は呼び掛けている。
石嶺伝実村長は、不確かな情報や根拠のないうわさなどを発信しないよう注意を促し、
「感染者やその関係者、医療機関や職場、学校などに対する誹謗(ひぼう)中傷は絶対に許されるものではない」と強調した。
 村長は村内の小学校とだけ発表した。読谷村には4つの小学校がある。どの小学校なのかは発表しなかった。小学校の近くに住んでいる村民は不安になるだろう。石嶺村長は村民の不安を助長しているのである。不安があるから小学校への誹謗中傷が生まれる。石嶺村長は小学校名を明らかにするべきだ。そうすれば新型コロナに感染していない小学校の周辺の村民は安心するだろう。
 感染者が出た小学校への誹謗中傷をなくすにはPCR検査を徹底することである。児童との濃厚接触者をPCR検査するのは当然であるが、濃厚接触者に限らす、感染不安のある生徒、職員、そして家族などのPCR検査をするべきである。生徒の家族でなくても感染不安のある人ならPCR検査をしたほうがいい。

 石垣市は2時間で判定できるPCR検査機を購入し、八重山病院と提携して市内でPCR検査ができるようにした。読谷村は過去に3人の新型コロナ感染者を出したし、観光客が宿泊するホテルもある。読谷村も石垣市のようにPCR検査機を設置するべきである。読谷村だけでなく全ての市町村は石垣市のようにPCR検査ができる体制をつくるべきである。それが市民の不安を解消することになる。不安がなくなれば感染者やその関係者、医療機関や職場、学校などに対する誹謗中傷はなくなるだろう。
石嶺村長がやるべきことはPCR検査を徹底してやるように県や保健所と交渉することである。PCR検査を徹底してやれば村民の不安は解消する。「誹謗中傷は絶対に許されるものではない」は村民の不安を上から締め付けるものである。それは村民への言論封殺である。政治は村民の言論を封殺するのではなく、村民の不安をなくすために新型コロナ封殺に徹することである。

4月に石垣市で新型コロナ感染者が出た時、中山市長は店名を公表し、感染者との濃厚接触者は100人いることも明らかにした。濃厚接触者は市に相談することを呼び掛けた。石垣島でクラスターの恐れがあるとして、全市民に2週間の自宅待機要請をした。
「感染した人から次の人、その次の人へと無自覚にうつす可能性がある。どうしても止めたい」
中山市長は自宅待機要請に至った決意を述べた。
新しいコロナ感染者は出なかった。包み隠さず公表したと同時にコロナ対策を徹底したことに石垣市民は不安ではなく、中山市長への信頼と安心を得たと思う。石嶺村長の「・・・・・誹謗中傷は絶対に許されるものではない」と似た発言を中山市長がやったという報道は記憶がない。
石嶺村長は中山市長のように新型コロナ対策を積極的にやるだろうか。もしかすると県と保健所に丸投げするかもしれない。


2カ月前につくったアートハイクである。政府が緊急事態宣言をやったので小学校は休校になった。
コロナ感染者は出ていないのに休校をした。生徒がひとりも居ない学校。虚ろな風景。コロナ感染をしていないのに児童が一人もいない学校に奇妙な虚ろを感じた。コロナではなくコロナの亡霊が学校を浮遊しているように感じた。何回かこの風景見ている内にこのハイクが浮かんだ。


 新型コロナ感染の児童が出て、生徒が一人も居ない学校になった。感染児童は早く元気になってほしい。新しいコロナ児童は出てほしくない。生徒が居ないのは虚ろな風景ではなく、心の重い風景だ。多分ハイクは浮かばないと思う。
  

Posted by ヒジャイ at 13:48Comments(0)

2020年02月01日

首里城を大火災にしたのは県である それが重要な問題だ


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民主主義運動
 香港
  普通選挙要求運動

反民主主義運動=左翼運動
 韓国
  日本製品不買運動 日本旅行忌避運動
  慰安婦=性奴隷運動 徴用工搾取被害運動
 沖縄
  辺野古飛行場建設反対運動 
宮古島自衛隊基地建設反対運動
石垣自衛隊基地建設反対運動
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
首里城を大火災にしたのは県である それが重要な問題だ
沖縄県警は首里城正殿などが全焼した火災について、「火災原因が特定できなかった」と発表した。そして、防犯カメラ映像の精査、関係者の事情聴取などの捜査結果から現時点で放火などの犯罪に該当する事実も見当たらないので放火の可能性はないとした。
県警は火元とみられる正殿北東側から配線などの資料を収集。科学捜査研究所で調べたが激しく燃えた状態で、原因特定に至らなかったという。
火事は起こったのである。放火の可能性がないなら、火事になる原因は延長コードのショートしか考えられない。市消防によると、床下配線には1カ所の熔融痕が確認された。火災前は3~4メートルの1本のコードだったとみられる延長コードは、焼けて30か所が溶解し数センチごとの細切れの状態で見つかったという。注目しなければならないのは延長コードのコンセントにつながる分電盤のブレーカーは落ちないで火事の間もずっと通電状態であったことである。


延長コードが細切れに切れていたということはコンセントから一番遠いLEDの方からショートしたということである。もし、コンセントに近い箇所がショートして切れたらLEDの方には通電しないからショートして切れることはない。LED側のショートした箇所が火元に一番近いことになる。その場所に火元になるようなものがあったらそれが火元ということになるが、なかったら延長コードのショートが火元ということになる。延長コードのショート以外に火事になる原因はないのだから。
県警は出火原因の特定はできなかったと発表した。延長コードのショート以外に火災の原因が考えられるかどうかを新聞記者は質問しなかったのだろうか。もし、延長コードのショート以外に出火原因が考えられなければ延長コードのショートが出火原因であると推察することができる。

問題は出火原因だけではない。正殿や北殿、南殿など主要6棟が全焼し、2棟が焼損という大火災になったことが大きな問題である。
美ら島財団によると、火災当時、警備と監視員の計3人のうち、仮眠中だった2人は異常を知らせる人感センサーが鳴った直後も仮眠をしていた。警備会社との業務計画などでは1人が巡回するときは別の1人がモニター監視をすることになっていた。正しく運用できていなかったという問題はあるが、警備の一人は正殿に行き火事であることを確認し、消防署に連絡している。そして、消火器で初期消火にあたった。警備員は放水銃を使って消火しようとしたが熱のため放水銃に近づけなかった。その間に消防隊がやってきた。消防隊がやって来た時は正殿の一部が燃えている状態だったと思われる。
それから急激に火事が広がったのだ。広がった第一の原因は延長コードのショートである。銅の溶融度は1500度である。木材の発火点は400~470 度しかない。木材の上で30か所も1500度で銅が溶融したのである。正殿はあっという間に火が広がっただろう。
火事が広がった原因は放水銃の一部か使えなかったこともあるが、消防車が首里城内に入ることができなくて消火活動ができなかったことも延焼を防ぐことができなかった原因のひとつである。そして、県が自衛隊ヘリを要請しなかったのも延焼拡大の原因だ。

1、延長コードが30か所も1500度で溶融した。
2、放水銃の一部が使えなかった。
3、消防車が首里城内に入れず消火活動ができなかった。
4、県は自衛隊ヘリを要請しなかった。

 延長コードを設置しなければ正殿火災は起こらなかったはずである。もし、火災が起こったとしても消化器か放水銃で守衛が消火できたはずである。ショートしてもブレーカーが落ちなかった延長コードを設置した美ら島財団の責任は非常に大きい。管理を解約するべきである。ショートしてもブレーカーが落ちない設置をするなんて考えられない。県は設置した人物を美ら島財団に明らかにさせるべきだ。といっても無理か。県がさせるはずがない。ずっと隠し続けるだろう。

 近いうちに消防署の発表があるという。消防署は火事の原因を明らかにしてほしいが警察と同じように火元不明と発表する可能性がある。その時に延長コード以外に考えられる火元があるかを質問してほしい。しかし、タイムスと新報はしないだろうな。
 もし、延長コードが首里城大火災を引き起こした原因ということがばれれば県民のデニー知事県政への不信感が高まるだろう。6月には県議会選がある。県議会選が不利になってしまう。県政は消防署に圧力をかけて延長コードと火災の関係をうやむやにさせるだろう。

 消防署の発表はいつになるだろう。どのような内容の発表になるか。注目しよう。
  

Posted by ヒジャイ at 15:03Comments(0)

2018年08月06日

左翼与党政党は独裁主義であることを見せつけた「聴聞手続き延期せず」

左翼与党政党は独裁主義であることを見せつけた「聴聞手続き延期せず」
 県は7月31日に辺野古の埋め立て承認の撤回の根拠を通知し、防衛局が反論するための準備期間をたった8日間にして、9日に「聴聞」すると通知した。防衛局は文書の作成などに準備期間が必要だとして、来月3日以降に延期するよう求めたが県は「病気などやむを得ない場合に該当しない」という意味不明なことを理由にして防衛局の延期の申し出を認めないと回答した。そして、予定通り9日に聴聞を実施するという。
 
 国は大きく、県は小さく、権力は圧倒的に国にあるというイメージがあるから、県の9日に聴聞することは中央政府への対抗という風に見えて、地方の中央政府のの圧力に屈しない勇気ある行動に見えるが、本当は違う。9日聴聞強行は地方自治の中央政府への抵抗というのではなく、県左翼与党の法の下の平等を無視した独裁政治である。

 防衛局が8月17日に埋め立てを始めると県に通知したのは6月12日であった。県が承認撤回の通知を出したのは7月31日であり、防衛局の埋め立て通知から48日もあとである。承認撤回の根拠をつくって通知するまでに一カ月以上もかかった県であるから防衛局にも反論の準備期間を最低一カ月は与えるべきである。ところが県はたった8日しか与えていない。県の方が独裁権力者になっている。

 県は「病気などやむを得ない場合に該当しない」と防衛局の申し出を拒否しているが、防衛局が病気をするとはどういう意味だろう。資料を準備する係員が病気をするというこなのだろうか。係員は一人ではない。複数である。むしろ、病気を理由に聴聞を一カ月延長するほうが認められないことである。理由にならないことを理由にして9日聴聞を強行しようとしているのが県左翼政党である。子どもじみている。もう議会制民主主義政治の世界ではない。我がまま左翼政治の世界である。

 9日に聴聞するのは8月17日までに承認撤回をするためである。逆算して9日がぎりぎりであるから9日に聴聞したいだけである。防衛局が反論資料を準備できる期間であるか否かは県左翼与党には関係のないことである。
 8月17日までに承認撤回を翁長知事にやらせる。それだけが左翼与党の目的であり、だから9日に聴聞をするのである。嘆かわしい沖縄左翼政党の政治である。
  

Posted by ヒジャイ at 23:33Comments(0)

2017年06月17日

沖縄差別の原因は沖縄にある1



新発売・沖縄内なる民主主義12 A5版  定価1490円(税込み)
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 沖縄差別の原因は沖縄にある1
大阪府警の機動隊員による「土人」発言で沖縄差別問題が再燃した。
沖縄差別を問題にする識者は1879年の琉球処分以降「歴史的に差別が続いている状態」であると言い、沖縄差別は人種差別であるとも述べている。そして、これからの沖縄は本土と対等に向き合い、差別する側の意識を変えることが問題解決につながると述べている。でも、沖縄差別は本当に人種差別であるのだろうか。そして、差別した側にだけ原因はあるのだろうか。差別された沖縄に差別された原因はないのだろうか。沖縄の識者は差別された側の沖縄についてはなんの調査もしていないようである。

大阪での沖縄県民差別があったのは事実である。私の後輩が大阪の会社に就職し、大阪の男性と交際をするようになったが、彼女が沖縄出身であることを知ると交際しなくなった。彼女の話では大阪では沖縄人は差別されていて大阪人とは結婚できないということであった。沖縄人であることだけで結婚しないということが大阪人にあることが信じられないことだったが、事実後輩は差別されたのである。彼女は高卒である。私の時代の高校生は共通語を使い、ウチナー口は聞くことはできても話すことはできない女生徒が多かった。後輩は演劇クラブにいたから共通語は他の女生徒よりいい方たった。
大阪は沖縄より文化が発展しているし人間は平等であるという思想は沖縄より浸透していると思っていた私は沖縄にはない差別が大阪にあることに驚いた。これは50年近く前のことである。 
なぜ、沖縄人が差別されるのだろうか。原因として考えられるのは沖縄人はウチナー口を使うことであった。ウチナー口は本土の人には分からない。ウチナー口で話していると朝鮮人に間違われたという話は何度も聞いたことがある。
私の中高時代は本土への集団就職の時代だった。高校進学をしない生徒のほとんどは集団就職をした。高校が少なかったからクラスの三分の一は本土就職組だった。本土就職組の多くの生徒が学校の成績は悪く、共通語が下手だった。共通語を話せない生徒も居た。中学三年までの九年間学校に通っていたらみんな共通語を使えるようになっただろうと思うかもしれないがそうではなかった。
戦後間もない頃に生まれた私たちは家ではウチナー口だけを使っていた。共通語を知らなかった。幼稚園で初めて共通語を習った。ウチナー口のほうが自分の考えを話しやすい。特に感情はウチナー口のほうで話した方がいい。私たちが共通語を覚えていなかったので幼稚園の時から先生は共通語の教育をしていた。共通語教育はいつも当たり前のようにやっていたので記憶に残っていないが、小学三年生の時のある授業だけは大笑いしたので覚えている。
野菜について共通語ではなんというかの授業あった。先生がウチナー口で野菜の名前を言い、生徒たちに共通語で答えさせた。先生が「ナンクワァーは」と言うと私たちは「かぼちゃ」と答えた。ゴーヤーは苦瓜(にがうり)、デークニは大根、ウージはさとうきび、シブイは冬瓜等々。分かった生徒が手を上げて答えて、正しければ先生が正しいといい。野菜の説明をした。
先生が「チュブルは共通語でなんと言いますか」と言った時、誰も答えることができなかった。チュブルを栽培している家は少ない。だからチュブルという野菜を知らない生徒も居て、誰も答えなかった。私の友達の家の中で一軒だけチュブルを栽培していたので私はチュブルを知っていたし共通語の名も前を知っていた。私が手を上げようとした時に別の生徒が手を上げた。先生が生徒を指すと生徒は「あたま」と言った。「あたま」と言ったので笑いが起こった。
実は「チュブル」は野菜の名前だけでなく「頭」のことでもある。しかし、野菜を頭とは言わないだろうと予想して、誰も答えなかったが、単純な生徒が単純に考えて「あたま」と言ったのである。それで笑いが起こったのだ。野菜の「チュブル」は「夕顔」のことである。ウチナー口の「チュブル」は頭と夕顔の二つの共通語がある。
学校の授業、童謡、歌謡曲、ラジオなどの影響で私たちは次第に共通語を覚えていくようになるが、それらのものに関心がない子は共通語を覚えるのが遅かった。

私の友人で中学を卒業した後、大阪や名古屋で働いた大城という人間がいたが、大城は彼の父親が琉球民謡をやっていたので琉球民謡に興味があり、中学生の時には三線を練習していたそうだ。だから共通語よりも民謡のウチナー口に興味があり共通語はそんなに理解していなかった。彼は名古屋の印刷屋に就職したが、最初の頃は社長や伊佐月会を教える指導者が話していることが理解できなくて苦労したそうだ。しかし、一年過ぎると名古屋弁に慣れていったという。
大阪で居酒屋でウチナー口で話していると朝鮮人に間違われて、外に出されたことがあったということも聞いたことがある。
沖縄が差別されるのはウチナー口や隣近所の迷惑も考えないで三線を弾いたりしたことが原因だろうと思った。しかし、私の後輩は共通語を話していたし言葉のハンディはなかった。それなのに沖縄人であることで結婚ができないというのは納得できなかった。沖縄差別の原因は、沖縄は遠い南の島であり文化の遅れた野蛮人とみられているのかも知れないと思ったこともあった。
しかし、それでも疑問は残った。沖縄差別について本格的に取り組めば図書館に行き資料を集めなければならないし、大変な作業になる。大変である。大変であるが、その前に沖縄差別について真剣に取り組む気はなかったので調べることはなかった。それに大阪で結婚した女性が居ることも知ったので、沖縄差別は一部の特別に沖縄を嫌っている人がいるからだろうと思うようになった。

 1879年の琉球処分以降、歴史的に沖縄差別が続いているということが時々新聞に載ったりした。沖縄が差別されていると沖縄の識者が主張し続けた。そのことは知っていた。しかし、明治維新は四民平等と法治主義を掲げて誕生した。、沖縄の農民は明治政府によって琉球王府から解放されたのであり、四民平等を掲げた明治政府が沖縄差別をするはずがないという確信はあったので、沖縄の識者のほうが間違っているのだと歴史を歪曲している彼らの主張に苦笑していた。。

 高江の機動隊による「土人」発言から沖縄差別問題が再燃した。大阪警察が沖縄差別していると言い、本土の沖縄差別を識者たちが主張していった。以前の私ならまたかと苦笑しただけで無視していたが、「沖縄内なる民主主義」を出版し、沖縄の識者や政治家批判をしている現在はそういうわけにもいかない。徹底して批判しなければならない。また、そうすることが彼らによって歪曲された沖縄の歴史を正すことにもなる。

ネットで調べていくと、復帰前の一九六三年に出版された比嘉春潮、霜多正次、新里恵二共著の『沖縄』に沖縄差別は日本政府による沖縄差別であると述べてある。
 
 一八七一年(明治四年)、明治政府は廃藩置県を断行する。次いで一八七五年(同八年)、明治政府は琉球藩王に「清との関係を断て」「明治の年号を使い、年中儀礼はすべて日本の布告にしたがえ」「謝恩のため藩王みずから上京せよ」などの要求を突きつける。これに琉球藩が抵抗すると、政府は歩兵大隊約四百人、警察官百六十人を従えた琉球処分官を派遣し、琉球藩を廃し沖縄県を設置する旨の太政大臣命令を伝達する。一八七九年(同十二年)のことである。これが、いわゆる「琉球処分」で、琉球王国は力づくで日本国に併合されてしまった。

 沖縄県に対する政府の強圧的な姿勢は、その後も続き、本土の各県とは比べものにならぬ差別政策がとられることになる。官僚はほとんど本土出身者を充て、諸制度の近代化も本土のようには進めなかった。このため、沖縄の近代化は著しく遅れた。
 政府による沖縄に対する差別は、本土の一般人の沖縄県民を見下げる態度につながった。比嘉春潮、霜多正次、新里恵二共著の『沖縄』(岩波新書、一九六三年)

 復帰前の一九六三年に出版された「沖縄」による沖縄差別論が今も沖縄識者の定番となっている。この差別論には琉球王国の身分制度を排して四民平等の沖縄社会をつくっていこうとした明治政府を理解していないところにある。明治政府は封建社会の江戸幕府を倒して近代社会を築いた。沖縄でも琉球王国を倒して四民平等の沖縄にしようとした。それが琉球処分であった。明治政府による沖縄の近代化政策を理解できない沖縄の学者たちの沖縄差別論である。はっきり言えば彼らには民主主義思想はない。だから琉球王国と明治政府の違いを理解していない。
 琉球処分は琉球王国処分であって琉球=沖縄処分ではなかった。だから明治政府による沖縄差別ではなく近代化であった。この近代化を沖縄差別を主張する識者や政治家は理解していない。
ただ、大阪では実際に沖縄差別は起こった。一部ではなくかなり広い範囲で沖縄差別はあった。ネットで調べていくとそれが分かってきた。それには大正区が関係する。大正区は沖縄の縮図と言われていている。学生の頃に大正区にいったことがあったが、大正区にはウチナー口が溢れていて、飲み屋ではみんなウチナー口だった。大正区ではウチナー口が通用するという噂は聞いていたが、その通りだった。本土で自由にウチナー口が使える世界があることに嬉しくなって、私はウチナー口で思いっきり話した。
琉大では共通語だったし、那覇市内のスナックなどでも共通語で話した。ウチナー口が使われなくなっていった沖縄に比べて大正区にはウチナー口が満ち溢れていた。大正区には言葉だけでなく沖縄の生活習慣も根強く残っていただろう。しかし、それが沖縄差別に深く関係したのである。大阪で沖縄差別があったことは事実である。琉球処分は沖縄差別ではないが、大阪で起こったのは紛れもなく沖縄差別であった。しかし、沖縄差別は政府や大阪府による政治的な差別ではなかった。民間で起こった沖縄差別だった。

 大阪府警機動隊の「土人」発言は左翼の政治家や識者は沖縄差別であると非難しているが、過去の大阪の沖縄差別は警察が沖縄人を差別したのではなく大阪市民が沖縄人を差別したのである。沖縄差別問題は政治の問題ではなく市民生活で生じた問題である。それを政治問題にしようと沖縄差別を隠ぺいしているのが沖縄の左翼政治家や識者たちである。沖縄差別は戦前に起こったが、それは政治というより大阪住民と沖縄人の問題であった。大阪住民と沖縄人の意識や生活習慣の違いが沖縄差別を生んだと言える。
江戸時代から大阪は商人の町と言われるくらいに商業が発展した場所である。沖縄はさとうきびを中心とした農業の島であった。商売の町に農業しかしらない沖縄人が昭和初期に大量に移住した。
 「郷に入れば郷に従え」という諺かあるが農業で生きていた沖縄の人間はそのような諺を知らなかったし、大阪に住むための教育も受けないで大阪に移住した。県が計画的に移住させていれば沖縄差別は起こらなかったかもしれない。しかし、昭和初期の頃に沖縄ではソテツ地獄に襲われ、沖縄で生活できなくなった人々は県外に移住した。その数は県人口の10%をはるかに超えた7万人であった。大阪にも多くの沖縄県民が移住した。彼らは本土で生活するのに必要な教育を受けないまま移住した。それが原因になって沖縄差別が起こったのである。
 
 戦後になっても本土の人間と沖縄の人間の違いでよく言われたことが「ウチナータイム」である。沖縄の人間は会う約束した時間に必ず遅れてくる。そのことを「ウチナータイム」と言った。沖縄の人間のルーズさの象徴としてよく言われたことである。沖縄人のルーズさはもっとたくさんある。

 私が学生の時、早稲田大学を卒業してから、国語の教員免許を取る目的で琉大に入学した鈴木という人が居た。彼に沖縄に来て困ったり悩んだりしたことがあったかを聞いたことがあった。すると鈴木は沖縄の学生は借りたお金や本を返さないことに困ったし、なぜ返さないのか理由がわからないで悩んだと言った。私は彼の話を聞いて驚いた。私たちの間ではそれが常識だったからだ。私は集会やデモに参加した時には女学生から25セントをよく借りた。25セントあればタバコを買いカレーライスを食べることができたからだ。返すつもりのない借金だった。大金を借りて返さないということではない。少額のお金だから、借りても返さなかったということである。学生だからそのくらいはいいじゃないかと思っていたが、鈴木は借りたお金は少額でも返すべきであると言った。鈴木の話を聞いた時、東京は気楽には生きていけない窮屈な世界だと思ったものである。
本の貸し借りはよくやった。鈴木の指摘した通り借りた本は持主が「返せ」と言わない限り返さなかったし、貸した本を再び読みたいと思わない限り「返して」とは言わなかった。
 お酒を飲む時に、私たちにはワリカンという考えはなかった。金がある学生が金をだせばいいという考えだった。
 私たちの習慣に東京からやってきた鈴木は困り悩んだのである。
東京に40年近く住んでいた同級生にこのことを話すと、「東京では借りたお金は利子をつけて返す。借りた金を返さないの東京で通用しない」と言った。
鈴木と私たちの違いは東京と沖縄の違いであるし、それは東京の歴史と沖縄の歴史の違いでもあるだろう。
本土と言わないで東京と言ったのは他の地方では沖縄と似ている地域がある可能性があるからである。沖縄差別は大阪で起こったのであり他の地域では起こっていない。だから本土全域で沖縄差別があったとは言えない。他の地域でも沖縄差別はあったかも知れないが大阪のように規模が大きい沖縄差別はなかっただろう。あったとすれば私たちの耳に届いているはずだ。大阪では私たちの耳に届くような沖縄差別はあった。その事実と原因を解明していこうと思っている。それは沖縄の歴史を知ることにもつながる。

沖縄は亜熱帯であり温帯で春夏秋冬と季節が変わる本土に比べてのんびりしているから、その性だろうと軽く考えていたがが、そういうわけにもいかない状況が沖縄にあった。沖縄の識者や政治家による本土の沖縄差別論がある。もう沖縄差別論は学問と呼べる段階である。以前なら下らん沖縄学者の理屈だと無視していたが、「沖縄内なる民主主義」を出版している現在は無視するわけにはいかない。沖縄差別論が沖縄の歴史も政治も経済も知らない沖縄の学者や識者たちの戯言であることを証明しなければならない。
それには琉球王朝時代に遡らなければならない。沖縄の琉球王国の歴史ではなくて下層の農民の歴史を知らなければならない。それこそが沖縄の本当の歴史である。
琉球王国時代には地割制度で農村は支配されていた。この地割制度が大阪の沖縄差別に深く影響している。

薩摩藩による侵攻が行われた1600年代初めの琉球王国の人口は約10万人であった。薩摩藩に支配された頃に沖縄の農業で大きな変革があった。変革の立役者が野國總管と儀間親方真常である。
農民が干ばつなどで苦しむのを見てきた野國總管は、1605年に、明代中国(現在の福建地方。福州市あたりか。福州市は琉球王国時代から交流があった。)に渡った際、現地の人物から蕃薯(ばんしょ。今で言うサツマイモ)を教えてもらい、鉢植えの苗を持って同年のうちに帰国して野国村で試作した。
悪天候に左右されない蕃薯は土地によく根付いたことから、村の農民に広められ、これによって餓死など凶作による村人の災難は防がれた。
野国総管が蕃薯の苗を持ち帰ったことを聞きつけ、野国総管から栽培法を学び、以後、琉球各地に広めたのが儀間親方である。蕃薯を沖縄では唐芋(からいも)と呼んでいたが、琉球から薩摩藩に渡り、薩摩藩から広まったので今はさつま芋と呼んでいる。
さつま芋は米などの他の野菜のように収穫時期は決まっていない。亜熱帯の沖縄では年中収穫できる。それに痩せた土地の方がおいしい芋ができるし、土を肥やしていく性質を持っている。だから、土の養分を吸い取るさとうきびと土の養分を肥やしていくさつま芋とはいいコンビであり、交互に植えていった。
さつま芋は暴風にも強かったから沖縄の飢餓を救った作物である。中国からさつま芋を持ってきた野國總管を讃える祭りが嘉手納町で今も行われている。

砂糖の製法を沖縄に伝播したのが儀間親方真常であった。さつま芋とさとうきびは沖縄農業の二大作物である。その二つを広めたのが儀間親方であった。彼はさつま芋で沖縄農民の命を救い、砂糖で沖縄経済を発展させた偉大な人物である。

沖縄の人口は1700年代初頭には約15万人になり、1700年代中頃には約20万人と増加していった。人口増加にさつま芋が大きく貢献しただろう。しかし、1771年に発生した明和の大津波によって、当時の八重山列島の人口の3分の1に相当する約1万人が死亡した。さらにこの頃の琉球各地では台風や大雨、干ばつによる飢饉の流行が度重なった。それらの災害により、1800年代初期の人口は15万人へと減少した。

砂糖は沖縄農民の豊かさには貢献しなかった。琉球王朝の豊かさに貢献した。砂糖は全て琉球王国へ献納しなければならなかったからだ。農民は砂糖を舐めることさえ禁じられていた。琉球王国は本土や中国に砂糖を輸出して富を得た。

封建社会は農民が搾取される社会である。沖縄の農民は薩摩藩と琉球王府に二重に搾取されていた。
薩摩藩に支配されていた琉球王府は、
年貢   9000石
芭蕉布  3000反
琉球上布 6000反
琉球下布 10000反
むしろ  3800枚
牛皮   200枚
以上の品々を薩摩藩に毎年献納しなければならなかった。その負担は琉球王府が負ったのではない。琉球王府は支配者として贅沢三昧の生活をしていた。薩摩藩への莫大な献納を負わされたのは農民である。薩摩に支配された琉球の農民は重税に苦しんだ。吉屋チルーのように遊郭に売られていく子供は後を絶たなかった。
こんな説明をすると沖縄の農民は極貧に苦しみ暗い生活を送っていただろうと思ってしまうが、そうではなかった。極貧を極貧とは感じなかっただろうし、それなりに楽しんで生活を送っていた。そのことを予想できるのが地割制度である。
地割制度というのは山林・原野を共有することである。耕作地は数年から数十年のスパンで割り替えられた。
現在残っている地割制度の畑である。


南城市久高島の地割制度の名残りを残す畑(「読谷バーチャル平和資料館」より

 写真で分かるように大きな畑を小石で分けている。分けられた小さな畑が一家族の畑ということである。久高島だから小さいのだろう。本島ならもっと大きかったと思う。畑の大きさは家族の人数に合わせたと思う。
 地割制度の畑は隣合わせになり、毎日顔を合わせていただろう。そして、収穫が早い農民は他の農民に分け与えていたに違いない。
地割制度では他の村と交流を禁じていた。結婚する相手も同じ村の人であった。
 沖縄の村々は他の村との交流が禁じられていたから言葉はそれぞれの村で違っていった。その名残は戦後でもあった。同じ読谷村であっても楚辺と私たちの村の発音は違っていた。冷たい水を私たちは「ヒジュルミジ」と言ったが楚辺は「ヒグルミギ」と言っていた。
 沖縄民謡に「せんする節」というのがあるが、「せんする節」はそれぞれの村の言葉の違いを歌った歌である。「私はある村の誰々であるが、村の言葉は面白い」と歌った後にその村の言葉で話すのである。発音もアクセントも違う言葉に面白さがある歌である。子供の頃よく聞いていた。最近ユーチューブで聞いたが、メロディーは同じだが、子供の頃に聞いた村とは別の村のことばを取り上げていた。
今までは村々の言葉が違う原因は、昔は交通が発達していなかったから村と村の交流が少なかったので言葉が違っていたと思っていたが、それにしても言葉の違う村が多すぎる。その原因が地割制度による他の村との交流を禁じていたからだと知った。

村は一つの家族のようなものであった。だから、お互いに作物を譲り合ったりしていたし、家も部落住民が共同して作った。日常生活に必要な物は村でつくって譲り合っていたのである。
 昔の沖縄の農民には私有意識がなかった。資産は村みんなのものであったから私産というものがなかったからだ。だから土地の売り買いはなかったし、財産の売り買いもなかった。
商業の始まりに物々交換があるが、地割制度の村では譲り合いが普通であり物々交換という考えもなかっただろう。譲り合いの心は素晴らしいように見えるが、私有財産の意識がないということは頑張って自分の財産を増やしたいという欲望が湧かないから生産意欲が湧かないことになる。他の家族より裕福になりたいと思う気持ちが湧かないから地割制度の村では競争意識も生まれなかった。だから生産が発展するということもなかったのである。

 地割制度について調べていくうち驚いたのは、地割制度の村が共産社会であるということだった。共産主義とは会社や土地を私有している者が労働者や農民を搾取する。だから資本や土地の私有をなくして資本家や大地主の搾取をなくし、搾取のない社会をつくるというのが共産主義である。モーガンという学者がアメリカの昔のインディアンには共産社会だった時代があったと書いていて、それを原始共産社会といった。どんな社会なのかイメージすることができなかったが、地割制度の村について調べていく内にその村が原始共産社会であることが分かった。
 地割制度は首里王府が農民を支配するシステムとして採用したが、薩摩藩による侵攻が行われた1600年代初めの琉球王国の人口は約10万人であった。第一尚氏王統の尚巴志王が三山統一したのは200年近く前の1429年であるから人口は恐らく7、8万人であった思われる。王府が禁止しなくても村と村の交流は少なかっただろう。村はそれぞれが独立していて地割制度に近い原始共産社会のようなものであったと思われる。
 沖縄だけでなく、世界の歴史でも村の誕生は原始共産社会であっただろう。日本でも大和朝廷時代の村々は琉球王府の頃の村と似ていなかっただろうか。

 原始共産社会に似ていた沖縄の村社会は贈与し合う贈与互酬経済のシステムであった。村人たちは私有資産、家族資産という概念がなかった。地割制度の村社会で重視されたのは、蓄えることではなく分け与えてみんなが協力し合うことだった。琉球王国時代の農村は相互に贈与し合うことによって、共生できたのである。だから、例え、極貧であっても不幸とは思わないで生きたのである。

明治政府になると地割制度は廃止され、私有財産制の社会になるが300年近く続いた地割制度による贈与互酬の精神は明治以降も沖縄の農民には続いた。そのエピソードがある。

 戦前は沖縄から多くの少女が紡績工場の女工として本土に渡った。他県の女工と沖縄の女工とは家への仕送りのやり方が違っていた。
「それでも、みんなが不思議がっていたよ。何で、あんたたち沖縄の人は、自分が汗水たらして儲けたお金全部家に送るかって……。うん、女工みんなの分は会社が天引きして送りよったけど、沖縄の人は手取りからも送りよったよ。わたしも、カマダ姉さんもせっせせっせとお金を送ったさ。二人とも競争するみたいにしてよ。姉さんが二円送ったと言えば、わたしはおやつ買うのも切りつめ切りつめして三円送ろうとしてね。そのうちに、親も楽になってきて、屋敷を買い戻す、田畑買うして、自分たちの財産を少しずつだけど取り戻していってね。一回に十円でも送るとよ、シマじゅうでパッと評判になって、どこそこの娘は偉いって。わたしたち姉妹もシマじゅうでよく送金する孝行娘っていって、親たちはうらやましがられていたってよ。
(比嘉道子「クワディーサー賛歌」)
 この文章を読んだ時、沖縄少女の純真に思わず涙を流した。那覇の港から少女たちを送る親は「手紙はいいから、お金を先に送って」と言ったというのを子供の頃から聞いていた。それは沖縄の貧しさを表し、少女たちは家の貧しさを助けるために女工になったということが分かるのが「手紙はいいから、お金を先に送って」だった。
本土という新しい世界に行って自分の夢や希望を実現するという気持ちは少女たちにはなかった。ただただ家の貧しさを救うのが彼女たちの夢であり希望であったのだ。
 このことを知人に話したら戦後も似たようなことがあったと言った。パンパンは収入を全部親に送っていたというのである。パンパンというのはアメリカ兵と同棲している女性のことである。米民政府は売春を禁じていたから、米兵相手の売春宿は沖縄にはなかった。だから同棲をして現地妻として米兵からお金をもらうのを商売にしていた女性たちが居て、彼女たちをパンパンと呼んだ。米兵と恋をして同棲をした女性も居たと思うが、知人の話ではほとんどは商売として米兵と同棲していたという。私の家の隣で家を借りていた女性も確実にパンパンであった。彼女は10年以上も隣の家に住んでいたが2、3年ごとに相手の米兵が変わっていった。

 小学6年生の時にきいた担任の教諭の女工の話である。
教諭が少年の頃、隣の家に大好きなお姉さんが居た。彼女は紡績工場に働きに行った。帰って来たときは肌が透き通るように白くなっていたそうだ。教諭は本土に行くと色が白くなって美人になるんだととても喜んだ。しかし、お姉さんは数年後に死んだ。彼女は紡績工場で働いたために肺結核になっていたのだ。教諭の死んだお姉さんの話は印象に残った。そして、紡績工場では多くの女工が肺結核で死んだことを知った。

 20代の時に、我如古より子の「女工節」が出た。沖縄民謡はリズミカルで楽しい歌が多い。ところが「女工節」は女工の気持ちをリアルに表現していた暗い歌だった。琉球民謡は好きではなかったが「女工節」は強烈に惹かれ好きになった。カラオケでもよく歌った。
 
女工節
歌 我如古より子
補作詞 我如古 盛栄

一、親元ゆ離り大和旅行ちゅし 淋しさやあてぃん 勤みでむぬよ
○親元を離れ本土に旅すること 寂しさはあっても務めであるからよ
ニ、友と別れたし島の村はじし 親とわかれたし那覇の港よ
○友と別れたのは故郷の村はずれ 親と別れたのは那覇の港よ
三、那覇までや我島 船乗りば大和 何時が銭儲けて我島帰ゆらど
○那覇までは私の故郷 船に乗れば大和 いつになったらお金を稼いで私の故郷に帰るだろうか
四、大和かい来りば 友一人居らん 桜木にかかてぃ我んや泣ちゅさ
○本土に来ると友達は一人も居ない。桜の木に(寄り)かかって私は泣くよ
五、照る月に向かてぃ 眺みゆる空や 島ぬ面影ぬ勝てぃ立つさ
○照る月に向かって眺める空(又は、身空)には 故郷の面影が強くって(浮かび)立つよ
六、ガラス窓開きてぃ 歌小あびたしが 聞かりゆみアンマ 我身ぬ歌声よ
○窓を開けて歌を歌ったが 聞こえるかしら?お母さん 私の歌声が
七、紡績やアンマ 楽んでぃる来ゃしが 楽や又あらん 哀りどアンマ
○紡績は、お母さん 楽だと言って来たけれど 楽ではないよ 辛いんだよ お母さん

 少女にとって女工として働く場所は内地でもなければ本土でもない。大和である。戦後生まれの私たちは日本の教科書を学んできたし、祖国復帰運動が盛んであったから祖国から切り離された沖縄というイメージがあり、祖国、本土、内地というイメージがある。私たちには大和というイメージはない。しかし、戦前の沖縄の村で生まれ育った少女にとって本土は大和である。彼女にとって本土は見知らぬ不安が一杯の外国なのだ。
 「那覇までや我島 船乗りば大和」の我島を故郷と訳しているが、故郷という訳は適当ではない。意味としては故郷になるが、女工の気持ちとは違う。島の周囲は海である。なにもない。それが島である。沖縄では、
「お前の故郷はどこだ」とは聞かないで「お前の島はどこだ」と聞く。子供の頃、大人にそう言われた時、違和感があった。私は読谷村の比謝に住んでいて、比謝は海に囲まれた島ではない。なぜ島というのか理解できなかった。
昔は地割制度のために村から出ることを禁じていたから、村の外は海と同じである。少女から見れば村が島のようなものである。村を出て、那覇まではなんとか島=国であるが海に浮かぶ船に乗った瞬間に外国である。少女は船に乗って大和にいくのではなく、船に乗った瞬間から島以外の世界に入った気持ちである。外の世界とは彼女にとって大和である。だから、少女は大和と言ったのである。少女の島から離れていく悲壮な気持ちを表現している。
島には国というニュアンスも入っている。だから我島は私の国という訳もできる。沖縄は日本の一部であるといういう観念がない彼女にとって我島は私の国であり本土は本土ではなく大和である。地割制度は村から出ることを禁じていたし他の村との交流も禁じていた。だから、村は規模は小さいがある意味で国のようなものであった。彼女の我島というのはそういうことからくる国意識である。原始共産社会に近い沖縄の村は少女には住み心地のいい場所であっただろう。
 
 さとうきびもさつま芋も育てるのに手間暇がかかるものではない。さとうきびは夏に枯葉をとるだけでいい。さつま芋も植えた後はたまに雑草を取るくらいである。農民は貧困ではあるが時間的な余裕はあった。
 村の人たちが集まって歌や踊りで楽しむのをモウアシビーと言った。沖縄の農民はモウアシビーが好きだった。それを盛り立てたのが三線である。
三線は14世紀に中国から渡ってきて15世紀なると琉球王国で独自に発展していった。沖縄の音楽は古典と民謡がある。二つとも三線は必要である。古典は王宮で歌われた高貴な歌であり、民謡は農民たちが歌ったはやり歌である。本土の民謡は歌い手と聞き手が分かれていて、歌は本格的に訓練を受けた歌手が歌っているし、三味線や尺八、太鼓などが加わって高度である。しかし、沖縄の民謡は三線だけを伴奏にして歌う。メロディーはリズミカルで曲は短い。短い曲を繰り返して歌い、誰でも歌えるのが沖縄民謡の特徴だ。
本土に行った沖縄県民は借家や公園に集まって歌ったり踊ったりして楽しんだ。それはモウアシビーの延長であり、三線ひとつあればモウアシビーはどこでもできた。
 私は一年前から三線を習っているが、三線はメロディーに少しだけ伴奏を加えた演奏であり、ギターやピアノより覚えやすい。三線を弾いたことのない年配の主婦でも楽しく覚えられるのが沖縄民謡の三線である。そして、三線を弾きながらみんなで歌って踊って楽しむというのが沖縄民謡である。
祝節という曲に「かりゆし遊びヨ うち晴りてぃからやヨ 夜ぬ明きてぃ太陽ぬヨ 上るまでんヨ」という歌詞がある。かりゆし遊びは夜通しで飽き足らず、夜が明けて太陽が昇るまでやるというのである。かりゆしとはめでたいという意味である。昔の農民は歌や踊りで夜明け通し楽しんだ。
本土の他の地方からも大阪や東京など都市に移住した人たちは多い。しかし、沖縄県民のように県民が集まって歌や踊りで楽しむことはなかった。それは三線一つの楽器ひとつでモウアシビーのように楽しむ習慣がなかったからだろう。

地割制度の社会には競争意欲が育たない。だから生産効率が悪かった。首里王府は地割制による地力の低下を重視して、1734年に最後の地割と配当地の永久保有をやったが、その後も各地の地割慣行を停止させることはできなかった。こうした点からいって沖縄の地割制は、幕藩制期の本土の政策的な地割制にくらべて、共同体的な性格のきわめて強い制度だったということができる。本土の場合は生産を高めるための政策を実施できたが、沖縄では王府の政策でも農民は共同意識が強くて通用しなかったようである。しかし、農村の共同意識も明治政府によって変えられる。

 明治政府になると地割制は1899―1903(明治32-36)年の土地整理事業によって廃止された。沖縄の経済システムが大きく変化した。
 沖縄の学者は明治政府による琉球処分は琉球王国を力づくで日本国に併合したと言い。明治政府は沖縄に対して差別政策を取って本土のような近代化は進めなかった。そのために沖縄の近代化は著しく遅れたと述べている。沖縄の近代化が遅れたのは中央政府の差別が原因であるというのが沖縄の学者たちの定説となっているが、それは間違いである。明治政府は本土と同じように沖縄の近代化を進めていった。本土でも近代化が進んだ地域もあればおもったほど進まなかったところもある。本土ぜんたいからみれば近代化が進んだと言えるのであって本土の全域が近代が進んだのではない。沖縄と同じ農村地域の近代化は進まなかった。だから本土でも農村から多くの男女が工業・商業地帯に移った。本土全体と沖縄を比べることは学者として失格である。
 
 明治政府の近代化に同調し、なんとか沖縄の貧しさを救おうとした人物が居た。移民の父として有名な當山久三である。當山久三は1868年(同治7年)11月9日、當山家の長男として琉球王国金武間切(現在の沖縄県金武町)並里に生まれた。久三は沖縄師範学校に入学。他の学生らと髷を切るなどして古い風習を絶ち、文明開化の先頭に立つ人間であった。
 師範学校を卒業して羽地尋常小学校の教師になるが、沖縄出身者に差別的な態度をとる本土出身の校長との間に不和が生じ、赴任からわずか2年で羽地小学校を退職した。その後、地元の金武小学校に首席教員として迎えられたが、役所や本土出身の同僚との間に軋轢が生じ、自ら首席教員の職を辞した。
 教壇を去った久三は、地元・並里の総代(現在の町議会議員と区長を兼ねた役職)に就任した。給料は教員時代の14円から4円に激減したが、熱心に村の改革に取り組んだ。しかし、村民の中には、改革者・久三をおそれ、中傷したり暴行を加えたりする者もあった。これらの一部村民に辟易した久三は、総代を辞め、一人で山にこもり晴耕雨読の生活にふけった。このころから海外移民事業について考えはじめていた。

上京した久三は古本屋で『植民論』という一冊の書籍に出会った。その本は「移民」に関する本だった。むさぼるようにこの本を読んだ久三は、沖縄の食糧・人口問題解決のためには海外移民事業が必要であるとの確信に至った。このころ謝花昇と知り合い、互いに意気投合。2人は1899年(明治32年)に帰郷した。

沖縄に帰った久三と謝花は、ともに同志をつのって政治結社・沖縄倶楽部を結成し、機関紙『沖縄時論』を発行するなど自由民権運動に関わっていった。しかし、やがて久三の情熱は、かねてからの関心である海外移民事業に向けられていった。

久三は奈良原繁知事に、海外移民事業の許可を懇願した。再三の要請にもかかわらず、奈良原知事ははじめ久三の願いを聞き入れなかったが、粘り強く交渉を続けた結果、海外移民事業の実施を条件付き(移民たちの手紙は郡長をとおして知事に見せること、金武間切だけでなく県内各地から移民を募集すること)で許可した。

久三は1899年(明治32年)に沖縄初の海外移民30名を那覇港からハワイに送り出すことに成功した。
第1回ハワイ移民は、帰郷するなり立派な家や田畑を買ったため、県民の間に「移民は儲かる」という評判が流れ、第2回ハワイ移民には申し込みが殺到した。1903年(明治36年)、第2回ハワイ移民団は沖縄を出発した。久三はこのとき移民団に同行した。
ハワイへの移民は移民というより出稼ぎである。家族でハワイに渡り、農場で何年か働いてお金を儲けたら沖縄に帰るというのが基本パターンであった。沖縄戦の時に多くのハワイ帰りの人たちが登場するが、原因はハワイ移民はハワイに永住するのではなく、お金を稼いだら沖縄に帰っていたからだ。移民の中には永住する家族も居ただろうが、永住ではなく出稼ぎ目的の移民であった。

當山久三は沖縄の貧しさを移民によって解消しようとした。久三は1909年(明治42年)、沖縄県で初めて行われた県議会議員の選挙に国頭郡から立候補し、トップ当選を果たしたが、このころから病気がちになり、翌1910年43歳の若さで死去した。


明治政府は本土で1874~1880年((明治7~明治13年)に行った地租改正に相当する土地整理を沖縄でも1899(明治32)年にはじめ、1903(明治36)年に終了した。

地租改正
江戸時代までの貢租は米による物納制度であった。物納制度土地の価値に見合った金銭を所有者に納めさせたのが地租改正である。

土地整理の要点、
1、地割制度のもとで使用していた土地をそのまま個々の農民の私有地と認める。
2、土地所有者を納税者とする。
3、物品納や人頭税を廃止して、地価の2.5%を地租として納めさせる。
4、物品納や人頭税を廃止して、地価の2.5%を地租として納めさせる。

 琉球王国時代の地割制度では米、砂糖、芭蕉布など生産物を村全体で王府に納めていたが、地租改正による土地整理ではお金を個人で政府に治めた。明治政府は畑は共有から個人の所有にし、王府に献納していた砂糖は農民の物とし、砂糖で得たお金は農民が自由に使えるようにした。そして、他村との往来を自由にしたし、本土や外国への移住も自由にした。このように沖縄の農民を自由にしたのが明治政府であった。 

土地整理は農民の生活に大きな変化をもたらした。これまでは一方的に土地を割り当てられ、耕作を強制され、物納を強いられていたが、改革後は農民自身が土地を所有し、税金をおさめることになった。唯一の換金作物であるサトウキビ栽培は普及していったし、明治政府もさとうきび生産に尽力した。
 しかし、それでも多くの農民は納税に苦しみ、借金が増えて土地を手ばなす農民も増えていった。農民の間には格差が生じ、所有地のない農民は雇用農民として働くか、もしくは県外への出稼ぎや海外移民へ目を向けざるを得なかった。 
家の貧しさや親の借金を返済するために多くの少女が本土の紡績工場に女工として就職していった。
家の貧しさのために紡績工場の女工になったのは沖縄だけではない。日本の多くの地方から少女たちが紡績工場に働きに行った。そして、多くの少女たちが粉塵で肺が犯されて死んだ。その現実を山本茂実が1968年に発表したノンフィクション文学が「あゝ野麦峠」である。「あゝ野麦峠」は戦前に岐阜県飛騨地方の農家の娘(多くは10代)たちが、野麦峠を越えて長野県の諏訪、岡谷の製糸工場へ働きに出た。吹雪の中を危険な峠雪道を越え、また劣悪な環境の元で命を削りながら、当時の富国強兵の国策において有力な貿易品であった生糸の生産を支えた女性工員たちの姿を伝えた。

このように書くと明治以後の沖縄は差別され貧困化していったように思ってしまうが、そうではない。さとうきびで裕福になった農家は多かったし、さとうきび成金と呼ばれるような農民も居た。

琉球処分により日本へ併合され、沖縄県が設置された明治時代から大正にかけての約40年で人口は約20万人増加した。人口の増加は経済が発展したことと密接な関係がある。
明治政府による機械式の製糖工場の導入によりサトウキビから砂糖への生産効率が向上した。西原村では県・国の施策で製糖工場が建設された後に沖縄製糖株式会社に払い下げられた。

1956年頃の沖縄市のゴヤゲート通りの写真である。戦前の製糖工場跡の煙突が写っている。嘉手納町の水釜には製糖工場は戦争で破壊されたが、レンガでつくった大きな窯跡があった。


産業の近代化が行われたことで、経済的発展に伴い人口が増加した。政府から派遣された官吏や寄留商人の転入も相次いだ。
沖縄の政治経済は明治政府の政策によって発展していった。

女工など多くの沖縄人が本土に移住したが社会問題になるくらいの沖縄差別はなかった。このまま順調に発展していけば沖縄差別は生まれなかっただろう。しかし、順調に進んでいた政治経済の発展も大正末から昭和にかけてソテツ地獄と呼ばれるほどに沖縄の経済は急激に失速し大不況に陥る。それが大阪で沖縄差別が生じる原因にもなる。
  

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2011年08月28日

生徒には無縁な争い




 慶田盛竹富町教育長は、玉津会長が調査員による順位付けを廃止し、協議会で無記名投票を導入したことを不当だと主張している。驚く主張ことである。

 玉津会長が、調査員が1位に選んだ教科書しか報告しなかったと述べたことに対して、 慶田盛竹富町教育長は、全ての教科書に順位づけを付けて報告していたとする武富町教委の資料を示して、「1種絞り込み」は行われていなかったと反論した。
そして、「順位付けは教師(調査員)が教科書を決めることではない。今までの方法で何の問題があったのか」と発言している。

 今までは教師(調査員)が順位付けをして、一番になった教科書が選ばれていた。 慶田盛竹富町教育長は「順位付けは教師(調査員)が教科書を決めることではない」というが、教師(調査員)が一番に順位付けをした教科書が協議会で選択されるということは実質的に教師(調査員)が教科書を選択したことになる。事実、竹富町協議会では教科書のないように対する討論はほとんどなく、調査員が一番の順位付けをした教科書を洗濯している。
 それでは協議会はお飾りであり、教科書を選択する会議ではない。

 調査員は協議会の委員が教科書を理解しやすいように分析し、教科書の特徴を報告する組織であるべきであり、教科書に順位付けをする権利があってはならない。

 民主主義の基本は三権分立にあるように権力を集中しないことにある。警察に裁判権を与えていないし、自衛隊の現場に指揮権を与えていない。行政に予算の決定権を与えていないし(予算は議会で決める)、公務員に政治的な決定権を与えていない(政治的な決定は議会で決める)。民主主義的に考えれば、現場の教員に教科書を決定する権利を与えてはいけないのだ。
 ところが、現在は現場の教員である調査員が教科書に順位付けをやり、調査員が1位に順位付けした教科書が選ばれている。それは警察に裁判権があるようなものである。

 慶田盛竹富町教育長の発言は民主主義を否定した発言である。調査員段階で育鵬社の教科書を除外するなんてとんでもないことである。調査員は調査をするのであって、Aの教科書はいいBの教科書は悪いと判断してはならない。その判断は協議会が持つべきものだ。




 新城沖縄大学客員教授は、「これまでの歴史の流れを振り返れば、戦前回帰は教科書から始まる。現場の教師を黙らせ、管理職の力で進めていくつもりだろう」と述べている。
新城沖縄大学客員教授は本気で日本の戦前回帰の可能性があると考えているのだろうか。これまでの歴史を見る限り「戦前回帰は教科書から始まる」という理論は絶対に成り立たない。

 明治政府は天皇崇拝であり、帝国主義であり、富国強兵を掲げていた。だからそれに沿った教科書ができた。大正デモクラシーで日本は民主主義への兆しを見せたが、軍部によって国民に選ばれた首相や有力政治家の暗殺があり、軍部が政権を握るようになった。国家が軍国主義になったから軍国主義教育が広まった。軍国主義教育が先に始まったのではなく、軍国主義国家ができたからら軍国主義教育が始まったのだ。
八重山の協議会で育鵬社の教科書が選択されたのは自民党系の政治家が市長になったからだ。
 教科書から戦前回帰が始まるなんて妄想だ。

 新城沖縄大学客員教授は、「現状を見るとこの教科書に共感する教師も多いのではないか。そうなれば、教科書をめぐって現場の教師が二分されることになりかねない。教科書を選ぶ段階から政治、行政主導だ」と述べている。
 政府が認定した教科書は七冊ある。本来なら七冊の教科書を学校か教師個人個人が自由に選んで教えたほうがいい。しかし、中央集権制の強い日本は地域を区切り、特定の地域で統一した教科書を使用するように規定している。だったら地域別に自由に教科書を選択すればいい。地域が自由に選択できるようになれば二分どころか七分にもなる。

 地方の教科書選択に沖教祖や日教組や教員OBの市民団体が圧力をかけるから、地方は自由に教科書を選べない。
 現場の教師はそれぞれ自立した存在である。新城沖縄大学客員教授が現場の教師が二分されると危惧することは、新城沖縄大学客員教授は沖縄の教科書は沖教祖が決めた同一の教科書でなければならないと考えているし、沖縄の教師は同一の思想でなければならないと考えている証拠である。それこそ全体主義思想である。
 中央や他地域の圧力をなくし、教科書を地域で自由に選ぶのがいい方法である。

 大田氏は、「平和教育が内部から切り崩された」と述べている。沖縄の教師による平和教育は、軍隊や軍事基地があるから戦争が起こる。アメリカ軍基地を撤去すれば沖縄は豊かで平和になるなどと、子供たちに現実ばなれしたことを教えている。沖縄の平和教育は歴史、現実を無視した独りよがりの教育だ。

元姫ゆり学徒は自分の体験のみから来る反戦平和論であり、朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア内戦など戦後に起こった戦争への理解がない。アメリカ軍による戦争だけに単純に反対するだけだ。
イラク、アフガン戦争ではアメリカ軍の攻撃には猛抗議をしたが、イラク、アフガンがアメリカ軍によって民主主義国家への道を開いたことには無関心である。民主主義を無視する反戦平和主義になんの意味があるだろうか。




 「基地・軍隊を許さない」思想家だから、育鵬社の教科書を異常に批判するのだろう。「表面上はきちんと認識しているような書き方をしながら、『でも今までのやり方ではダメ』といっている」という評価をするのは、育鵬社は右翼であり軍国主義回帰を目指しているという高里さんの先入観がある性ではないだろうか。
 戦後はずっと自民党が日本の政治をやってきた。育鵬社は自民党系であり、自民党とは思想的に共通するものがあり、自民党が進めてきた政策は認めている。育鵬社の教科書は「今までのやり方ではダメ」と主張はしていない。

 そもそも中学三年生向けの教科書を問題にしている。高度な思想までこだわるのはおかしい。


 八重山の中学性の教科書選択問題でこんなに盛り上がるのは異常である。
 教科書選択で問題にしているのは教科書の政治問題に関してだけであり、政治以外の問題はないがしろにされている。

 私は学習塾をやっているときに小学一年生から中学三年生まで、国語、数学、理科、社会、英語の全ての教科を教えた経験がある。公民は生徒の嫌いな教科に入る。理由の第一は内容が中学三年生にとって難しいことだ。やたらと法的な専門用語が多く、難しい漢字が多い。そして、ドラマ性はないし、単純に丸暗記をすることが理解につながるというやっかいな面があることだ。とにかく、中学三年生にはないようが難しい。
 公民の最大の課題は中学三年生に理解しやすい内容・文章を工夫することであり、もっと基礎的なものに絞って、内容を減らし、分かりやすくしたほうがいい。

 
 育鵬社の教科書に目くじらを立てて反対しているのは、中学三年生の教科書として適正であるかどうかではなく、文章が分かりやすいかどうかでも、授業がスムーズにいくのを工夫しているかどうかでもなく、息鵬社の政治思想にクレームをつけているた゜けである。八重山の中学性の教科書選択問題は大人の政治の世界の喧嘩であり、中学生とは無縁な争いである。




  

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2011年08月21日

小沢批判をするメディアを批判する大学教授への批判

小沢批判の日本メディアを批判するオランダの大学教授

 小沢批判を18年続ける日本メディアをオランダの大学教授批判
民主党代表選が本格化する中で、またぞろ政・官・報から「反小沢」の大合唱が巻き起こっている。この“恒例行事”を、「日本の歪んだ民主主義政治の象徴である」と喝破するのは、長年にわたって日本政治を研究し続けてきたカレル・ヴァン・ウォルフレン氏(アムステルダム大学教授)だ。
* * *
私は30年以上にわたって日本政治、そして日本と国際社会との関係を取材・研究してきた。その立場から自信を持っていえることは、現在の日本は、民主主義国家としての命運を左右する重要な転換期を迎えているということである。

その最大のキーマンが小沢一郎氏だ。私は現在の日本政治において、本当の意味での改革を成し遂げられるのは彼以外にないと考えている。

しかし、民主党の代表選がいよいよ始まろうとする中で、小沢氏に対して再び官僚や新聞・テレビメディアによる攻撃が強まっている。私は『誰が小沢一郎を殺すのか?』(角川書店刊)の中で、繰り返される「反小沢キャンペーン」が、いかにアンフェアで悪意に満ちた「人物破壊」を目的としたものであるかを論じた。

もちろん他の国でも、政敵に対するネガティブキャンペーンはある。だが、小沢氏に対する攻撃は、1993年の自民党離党・新政党結成以来18年の長きにわたって続いてきた。これほど長期にわたって個人を標的にした「人物破壊」は世界に類を見ない。

日本では少しでも小沢氏を擁護する発言をすると、大メディアから「小沢の犬」という評価を受ける。それ故に日本では、「小沢支持」を堂々といえる知識人が現われない。

断わっておくが、私は1994年以降、小沢氏とはほとんど会っていない。むしろ、会った回数でいえば菅首相や鳩山由紀夫・前首相の方がはるかに多く、何度も議論を交わしており、政治的にも私は“小沢サイド”に立つ人間ではない。私が訴えたいのは、検察と大メディアによる小沢氏への「人物破壊」は、一政治家のスキャンダル報道にとどまらず、日本の民主主義を後退させるものであるということだ。

私が昨年12月に日本に滞在した時、小沢氏を支援する一般市民が検察への抗議デモを広範囲に行なっていた。だが、新聞、テレビはそれを決して取り上げなかった。

また、去る7月28日に行なわれ、約10万人がインターネットで視聴した小沢氏と私の対談も、大メディアは完全に無視した。その場で小沢氏は「官僚主導の政治から、政治家主導、国民主導の政治に変えなくてはならない」「その代わり、国民の代表である政治家は自分自身の責任で政策を決定、実行しなくてはならない」と語った。しかし、そうした重要な発言も、メディアが報道しなければ国民の政治的現実とはならない。

逆に、些細な政治上の出来事が過大に誇張されて報道された場合、それは重要な政治的現実として国民の脳裏に焼きついていく。一昨年以来続けられてきた「小沢資金疑惑」の報道ぶりは、小沢氏が国家への反逆行為を起こしたとか、あるいは凶悪なレイプ犯罪をしたかのような暴力的な書き方だった。

しかし、読者は新聞記者が書いた意見を、自分たちも持つべきだと思い込むようになる。強大なメディアはこうして情報を独占し、“政治的現実”を作り出して、国民世論に重大な影響力を与えてきた。

※週刊ポスト2011年9月2日号  8月21日(日)7時5分配信





 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏(アムステルダム大学教授)は検察と大メディアによる小沢氏の「人物破壊」は、一政治家のスキャンダル報道にとどまらず、日本の民主主義を後退させるものであると述べている。本当にそうだろうか。
 小沢氏は民主党の代表選挙で菅氏に敗れた。小沢氏が代表選挙に敗れたのは検察や大メディアの「人物破壊」のせいではないだろう。
 そもそも大メディアは小沢氏を「人物破壊」したのだろうか。
 メディアは小沢氏を壊し屋と呼ぶが、小沢氏が壊し屋と呼ばれているのには根拠となる事実がある。
小沢氏は前の政党の資金を独り占めにし、衆院選挙ではその資金を新人候補者にばら撒いて新人議員を親小沢派にした。

「小沢資金疑惑」の報道は過激ではあったが、小沢氏の「人物破壊」といえるほどの報道ではない。

 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、小沢氏が「官僚主導の政治から、政治家主導、国民主導の政治に変えなくてはならない」「その代わり、国民の代表である政治家は自分自身の責任で政策を決定、実行しなくてはならない」と語ったことはメディアで報道されていないと述べ、「メディアが報道しなければ国民の政治的現実とはならない」と述べているが、上記の小沢氏の発言はメディアで報道されているし、小沢氏の政治的発言がメデイアに封殺されたことはない。

小沢氏の発言が、「国民の政治的現実とならない」のは小沢氏が民主党の代表になれなかったからだ。

 小沢氏は野党自民党が菅内閣に不信任案を提出しようとした時、民主党の小沢新派に呼びかけて、野党が退出した不信任案に賛成するように画策した。野党の不信任案に乗って、自党の内閣を引き摺り下ろすというのは言語道断だ。
 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は「検察と大メディアによる小沢氏への『人物破壊』は、一政治家のスキャンダル報道にとどまらず、日本の民主主義を後退させるものであるということだ」と述べているが、菅内閣を引きずり落とす目的で、マニフェストが全然違う野党の不信任案に賛成する行為は政治を単なる数の論理にする行為であり、これこそ民主主義を破壊する行為だ。

 自民党は子供手当てなどの民主党のマニフェストに反対している。小沢氏は菅内閣が自民党と妥協して民主党のマニフェストを後退させたことに怒り、菅下ろしを主張した。
 自民党の主張と小沢氏の主張は水と油であるのに、小沢氏は自民党の内閣不信任案に賛成して、菅内閣を引き摺り下ろそうとしたのだ。
 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏はこのような小沢氏の行為を認めるというのか。そうであるならカレル・ヴァン・ウォルフレン氏に「民主主義の後退」なんていう資格はない。

 民主党は参院選で惨敗した。ということは衆議院選では認めた民主党のマニフェストを参院選では国民は批判していると考えることができる。だから、衆議院選の時に掲げたマニフェストをなにがなんでも守らなくてはならないという小沢氏の主張は民主主義としては必ずしも正当とは言えない。

 それに参議院では与野党逆転したから自民党を無視して、民主党案を通そうとすればことごとく廃案になってしまう。民主党は自民党と協議をして、お互いの妥協案をつくらないと法案は通らない。小沢氏のようにマニフェストにこだわって、野党と全然妥協しないで法案を通そうとすれば、法案はひとつも通らなくて国会は麻痺してしまう。
 
 「ポスト菅」候補が、”小沢詣で”を頻繁にしている。自民党の石破政調会長は「20年前に見た光景だ。『数』を頼む、ということがあってはならない」と小沢氏批判している。豊富な自己資金をバックにして小沢氏は党内最大の議員グループを率いている。自民党の派閥主義と同じに数の論理の政治をしているのが小沢氏だ。

 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は小沢氏が民主主義を築いていく政治家と思っているようだが、小沢氏は金と数の論理に固執している政治家であり、民主主義を破壊する人間だ。
  

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2011年08月16日

八重山教科書問題はどっちもどっち




八重山の教科書選択問題が新聞で連日取り上げられている。沖縄の新聞社は八重山の教科書選択問題に関心が高く、琉球新報では社説で八重山の教科書選択問題に社説を掲載している。
 社説は玉津会長が現場教員による教科書の順位付けを廃止し、協議会委員から教師をはずしたことや、採択時の無記名投票の投入は民主的ではないし透明性が失われるとして批判している。新聞は地域社会の理解が欠かせないと主張している。
 今までの教育選定は現場の教員の調査員が順位をつけ、順位のトップの教科書が選択されてきたが、このような選択は民主的とは言えない。民主的とは人々に選ばれた代表かその代理が選択することをいう。現場の教員は教員試験を合格して教員になったのであり、人々に選ばれたのではない。教員の調査員が順位をつけるというのは民主的ではない。

教科書図書八重山採択地区協議会の会長に玉津氏を任命したのは中山石垣市長である。中山市長は石垣市民に民主的に選ばれた。その市長が教科書図書八重山採択地区協議会の会長に玉津氏を任命したのだから玉津氏は民主的な手続きを踏んでいる。玉津氏が現場教員の順位づけを廃止したのならそれはそれで民主的と言えるのだ。

 教員にとって教科書が替わるということは新しい教科書を研究しなければならないので、教科書が替わるのを嫌がる。そのため教科書の内容を重視しないで、教えやすいことを優先させて同じ教科書を指定するようになる。現場の教員が教科書を選択する場合はこのような弊害がある。新報社説は現場の教員が教科書の選択に関わったときの弊害は指摘していない。

 新報社説が八重山の教科書選択について特に関心があるのは、教科書選択の民主性や透明性ではない。「新しい教科書をつくる会」「教科書改善の会」がつくる中学歴史や公民が採択されるかどうかについてである。




 沖教祖の山本委員長は、「少しでも現場経験がある人が育鵬社、自由社を上位に順位付けするとは思えない」と延べているが、それはおかしい。現場を経験をすれば政治的な思想が変わるということになるが、そんなことはあり得ない。教員に自由に順位付けをさせれば育鵬社、自由社の教科書を上位に順位付けする教員だっているのが当然だ。
現場を経験すれば育鵬社、自由社の教科書を上位に順位づけをしないということは現場では育鵬社、自由社の教科書を選ばないように政治的な圧力があるということだ。

「八重山での動きは、従来通りの方法では採択できない教科書を選ぶためだと想像せざるを得ない状況だ」と山本沖教祖委員長は述べているが、その通りだ。
沖教祖はがっちり政治思想が固められていて、育鵬社、自由社の教科書を最初から排除している。市長や市民が育鵬社、自由社の教科書を選びたくても、現場教員による順位付けした教科書中から採択するということになると育鵬社、自由社の教科書を採択するのは不可能だ。

沖教祖の山本委員長は、「現行教科書よりも素晴らしいと現場が納得できるような説明をする必要がある」「沖縄戦の実相が具体的に学べる教科書採択をしてほしい」と述べている。もっともらしい意見であるが、すでに沖教祖では沖縄戦や中国の南京事件などについて明確な見解があり、沖教祖の見解と違う内容の教科書を否定している。
沖教祖の山本委員長は、「少しでも現場経験がある人が育鵬社、自由社を上位に順位付けするとは思えない」と発言して、教科書図書八重山採択地区協議会に圧力をかけている。

沖教祖は政治集団であり、公明正大な教員の集団ではない。






 集団自決は軍強制によるものであると主張し、集団自決から軍強制を示す記述を削除させたことに沖縄の全市町村議会と県議会は検定意見の撤回を可決したという。
 慶田盛教育長は、「集団自決の日本軍関与ははっきりしている」と延べ、「史実と合わない歴史認識の教科書を使用するとなった場合、協議会の責任問題にもなりかねない」と懸念をしている。

 集団自決については沖縄側の責任は最初から削除されていて、全然話題にしない。沖縄側の責任とは天皇崇拝、軍国主義を沖縄の人々に浸透させた沖縄の政治家、教員、公務員のことである。
 戦前、沖縄の子供たちに教育勅語を教え、天皇崇拝を教えたのは日本軍ではなく沖縄の教師たちである。戦争を謳歌し天皇のために身を捧げることを沖縄の子供たちに教えたのも沖縄の教師であり。世間で天皇崇拝の思想を広めたのは沖縄の政治家であり公務員である。

 集団自決は自分の死を選択する人間にとって究極の選択である。日本軍が命令したからといって、自決を受け入れる思想がなければ実行できるものではない。子供の頃から天皇のために死ぬという教育を受けなければ、日本軍が自決用の手榴弾を渡したとしても素直に自決はしなかったはずである。

 沖縄の教育者が天皇崇拝の教育をしたから、沖縄の人々は天皇のために戦い、死ぬという思想が生まれたのだ。戦前に生まれ育った人のほとんどは女男関係なく「海行かば」を歌える。学校で徹底して教えられたからである。
海ゆかば水漬く屍
山ゆかば草むす屍
大君の邊にこそ死なめ
かえりみはせじ

海で(戦いに)ゆくなら、水に漬かる屍ともなろう。
山野を(戦いに)ゆくなら、草の生える屍ともなろう。
天皇のおそばにこの命を投げ出してもけして後悔はしない。

 渡嘉敷の集団自決は、村長の弟が日本軍に自決用の手榴弾を要求したことが明らかになっている。そして、集団自決は村長がリードしたことも明らかになっている。沖縄の地方社会は民主主義の思想には程遠い社会であり、封建社会の思想のほうがまだ根強く残っていた。村長は小国の王に近い存在であり、島民にとって村長は絶対的な存在であった。日本軍よりも村長の意思が島民の気持ちを左右したのが戦前の地方社会である。
渡嘉敷島では村長が自決を決意し実行したので、島民もそれに続いた。沖縄の人が自らの命を絶つ決意をしたことは、日本軍のせいだけではなく、もっと複雑で沖縄の暗い歴史が根にある。集団自決は沖縄の人が自ら死を決意した面もあるという事実を重く受け止めなければならない。

 集団自決は、軍国主義、日本軍による手榴弾の配布、沖縄の教員による天皇崇拝教育、沖縄のリーダーたちの軍国主義思想なとの複数の原因が絡まって起こった。日本軍のせいだという単純なものではない。

 集団自決の責任は沖縄の教員や公務員にも責任があり、日本軍だけに責任を押し付けるのは間違っている。しかし、教員や公務員は戦前の暗部の行為を隠して、集団自決を日本軍のせいにしている。
 まだ、集団自決については客観的歴史として解明はなされていない。政治的に利用されているだけだ。

 八重山の教科書選択問題は、右派政治思想と左派政治思想の小さな土俵争いであり、つまらない。どつちもどっちという感じで社会への影響はほとんどない。
  

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2011年07月30日

怖い金武町の開発


  金武町は、31日に返還される米軍キンバル訓練場跡地60ヘクタールに大規模な開発を計画している。しかし、計画は最初からつまずいている。

 27億8000万円で56ヘクタールを購入する計画だったのに、購入額が値上がりして36ヘクタールしか購入することができなかった。残り20ヘクタールは年間3000万円の借地料を払うという。
 56ヘクタールを購入する予定だったのに36ヘクタールしか購入できなくて年間3000万円もの予定外の出費が増えるというのは、今後も予定外の出費が増える可能性があり、最初の計画を断念し、規模を縮小して購入した36ヘクタールの開発に計画変更したほうが妥当ではないか。
 しかし、金武町は予算がオーバーしても最初の計画通りにやるという。年間3000万円の借地料は跡地利用で7700万円の税収増が見込めるから穴埋めできるとしている。ホテルの固定資産税を5700万円と見積もっているが、固定資産税5700万円は金武町の希望通りのホテルが誘致できた場合のことであり、誘致できなかったらゼロである。足元をみられて固定資産税を安くさせられる可能性もある。

 観光ホテルは夕日が見れる西海岸に集中している。夕日が見れない東海岸に観光ホテルを建設するのを民間会社は敬遠する。東海岸であるキンバル訓練場跡に観光ホテルを誘致するのは困難だ。ホテル誘致について、義武町長は「もし、できなければ、という装丁は全然していない。必ず来てもらえると考えている」と発言している。こんな無責任な考えはない。

 気になるのは第三セクターの「地域医療施設」だ。最先端の放射線治療施設を導入する計画というが、高度な医療をするには高度な知識を持つ医者やスタッフが必要である。果たしてそのような高度な地料ができるスタッフを金武町は集めることができるのだろうか。それに高度医療をする医師やスタッフには高額な給料が必要である。
 莫大な経費が必要な「地域医療施設」は莫大な赤字が出る可能性がある。

 「地域医療施設」莫大な赤字経営になり、ホテルの勧誘に失敗したら大変なことになるし、その可能性は高い。第三セクター「ネイチャーみらい館」は赤字である。「ネイチャーみらい館」を黒字にし、ホテル建設のめどがつかない限り、ギンバル訓練場跡の開発を進めるべきではない。

 新聞は第三セクターの功罪を追求してほしい。ほとんどの第三セクター赤字である。赤字の原因として考えられるのが、第三セクターの社長が市長や町長などの政治家であることだ。政治と経営は違う。第三セクターは商売であり、商売は商売専門の経営者がやるべきである。
 
  

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2011年06月20日

欺瞞に満ち溢れた沖縄教育史





 沖縄の教育は戦前、戦後の復帰前、復帰後の三度主義主張が変貌する。
 戦前は皇民化教育を率先してやり、軍国主義の一翼を担ったのが沖縄の教育であった。中里氏は「すまん。許してくれ。戦時中あんな教育をしたことを許してくれ」と懺悔しているが、ほとんどの教育者は自分たちが皇民化教育をしたことには触れない。教え子を戦場に送り、死なせてしまったことへの懺悔とそれゆえに戦争に反対を唱える教育者はいるが、皇民化教育をやり軍国主義に加担したことを認める教育者はほとんどいない。

 その理由は、軍国主義が高揚している最中に日本は戦争に負けたので、ほとんどの国民が天皇制を受け入れ、軍国主義思想に埋没していた状態で戦後に入ったことである。日本は戦争に負けたのであって、思想闘争に負けたのではなかった。ほとんどの国民が軍国主義が悪いとは思っていなかったし、沖縄の教育者も皇民化教育が悪いとは思わなかっただろう。戦後の沖縄の教育者は軍国主義を否定していたわけではなかった。むしろ、戦争に負けたことへの無念のほうが強かっただろう。
 仲里氏が皇民化教育を反省することができたのは熱心なキリスト教信者だったからだろう。天皇制の教育を受けて育った人が戦争に負けたからといって思想を変えることは簡単にはできない。
 しかし、「自分はうその教育をしてしまった。罪ほろぼしのために、神様へのおわびのためにこれからは本当の教育をしなければならない」とキリスト教にのっとった教育を本当の教育と考えるのは傲慢である。

 戦後の沖縄は日本が祖国であるという教えが教育の始まりであった。アメリカ軍の施政権下に置かれた沖縄で沖縄の子供たちがアメリカに慣れ、沖縄を日本と思わなくなるのを沖縄の教育者は一番恐れた。だから、戦前から徹底して行われた日の丸と君が代と共通語励行の教育を沖縄の教育者は徹底してやった。
 注意すべきことは、教員や公務員を中心とした祖国復帰運動は日本が祖国だから祖国に復帰するという運動であったことだ。祖国復帰運動は反戦平和運動でもなければ民主主義運動でもなかった。単純に沖縄は日本であり、日本復帰を目指した運動だったのだ。日本の憲法が反戦平和、民主主義であるのは関係なかった。極端にいえば日本が軍紺主義国家であっても祖国復帰運動はやっていたということだ。

 小学四年生の時、君が代の君とは誰なのかという質問を先生にやった。すると先生は、「友達に君とかお前とかいいうだろう。その君だよ。つまり君とはみんなのことだよ」と説明した。君が代の君は天皇であるとは先生は絶対に教えなかった。日の丸から軍国主義を消し、君が代から天皇を消して教えたのが沖縄の教育だった。

 「戦後沖縄教育運動史」の筆者奥平氏は、「米政府は沖縄の魂をズタズタ切り裂き愚弄し、それを日本政府は終始一貫追認・黙視したことへの激しい憤りと悲痛な思い」をしているという。そして、「戦禍による言語に尽くしがたい生活破壊と劣悪な教育環境の中で、やむにやまれず沖縄は教職員会が結成されたのが1952年4月。アメリカの『軍事植民地』に対抗して『平和と民主主義』をモットーに教職員会は、島ぐるみ闘争、教育四法、教育二法阻止闘争を展開していく」と述べている。

 米政府がズタズタに切り裂き愚弄した沖縄の魂とはどんな魂だろう。沖縄は琉球王朝の封建主義と明治以後の天皇制と軍国主義を体験している。封建主義、天皇制、軍国主義はズタズタにされたほうがいい。

 戦後沖縄の法律はアメリカの法律を下地にして作った。琉球政府、立法院、裁判所と三権分立体制をつくり、主席はアメリカ民政府が任命したが、立法院の議員は選挙で選ばれた。しかし、立法しても民政府は拒否することができた。沖縄の発展に必要不可欠であるのが大学であるとするアメリカは琉球大学を設立した。戦前に比べると沖縄の社会はかなり民主化された。
 島ぐるみ闘争は、朝鮮戦争を体験したアメリカが社会主義の拡大を阻止するために沖縄のアメリカ軍を強化するために行った新たな土地接収に対する反対運動であり、島ぐるみ闘争は土地所有主義からくる反米軍基地運動であって「平和と民主主義」とは関係のない闘いだった。

 戦前の沖縄には平和や民主主義思想はなかった。三権分立や20才以上は身分や男女に関係なく選挙権があり、議員になれるのも身分や男女に関係ないようになったのは戦後であり、それもアメリカが法制化したものだ。復帰前の沖縄の教育は日の丸、君が代、共通語励行、日本が祖国であるという教育であり、平和、民主主義教育はやっていない。復帰前に教職員会が「平和と民主主義」をモットーとしたことには疑問であるし、島ぐるみ闘争、教育四法、教公二法阻止闘争は「平和と民主主義」とは関係のない闘争だった。

 教公二法は教師の政治活動を禁じた法律である。沖縄では教師は選挙運動が自由に行え、革新系の立候補者は学校に入り、教員一人一人と握手して支持を訴えるのが日常化していた。
 教公二法が立法化されようとした時、教師たちが立法院を取り巻き、立法院に入るのを阻止しようとした警官をごぼう抜きにして立法院に押し入り、「実力」で教公二法の立法化を阻止した。沖縄の教職員会はそのくらい強い組織であった。選挙で選ばれた議員の多数決を実力で阻止することが「民主主義」なのだろうか。教師は公務員である。公務員が自分たちの政治活動の自由を守るためにやった教公二法阻止闘争は大衆運動ではないし、民主化運動でもない。むしろ権力闘争であるといえる。

 奥平氏は、「日本国憲法の理念を教育に定着させるために『本土並み』が目指されていた」と述べているが、沖縄の生徒が使う教科書は全て本土で作られた教科書であり、教科書を教えることが日本国憲法の理念を教育に定着させることであり、なにも特別なことをしたわけではない。
 沖縄教職員会が主導した祖国復帰運動では、祖国復帰すれば「本土並み」に核も基地もない平和で豊かな沖縄になる。学校の設備も本土並みになるし、沖縄の学力も本土並みなると啓蒙した。しかし、復帰してみるとアメリカ軍基地は存在し、学校の設備と教員の給料は本土並みになったが、学力は全国最下位のままである。

 日本が祖国だから母なる祖国に復帰することが沖縄の悲願であるという主張から、祖国復帰すれば全て本土並みになると転換したのが1960年代だった。
 奥平氏は、「日の丸は米軍支配への抵抗、祖国復帰のシンボルであったが復帰運動の中で急速に日米共同体性の中に吸収され、その意味を失っていく」と述べている。それは復帰運動の中で意味を失っていくのではなく、復帰運動の外で意味を失っていった。復帰すれば沖縄は核抜きの基地のない平和で豊かになると復帰運動で吹聴してきたが、祖国復帰が現実になるとアメリカの軍事基地はそのまま残った。祖国復帰運動の主張が嘘であったという事実が明らかになり日の丸も色あせてきたのだ。
 しかし、祖国復帰運動のシンボルは最後まで日の丸であったし、日の丸を星条旗と交錯して燃やした琉球大学の自治会は祖国復帰運動の県民大会から排除された。

 復帰前に祖国復帰運動の象徴であった日の丸・君が代が、復帰後は反対の扱われ方をする。日の丸・君が代は軍国主義の象徴となり沖縄の教職員会から忌み嫌われる存在になったのだ。沖縄教職員会が表面きって軍国主義を否定するようになったのは、日の丸と君が代が用なしになった復帰後からである。

 戦前 皇民化教育、軍国主義に積極的に加担
 戦後 祖国復帰運動 日の丸、君が代、共通語励行教育、反米主義、親社会主義。
 復帰後 日の丸、君が代の否定。軍国主義の否定。

 沖縄の教職員会は復帰前と復帰後では日の丸、君が代に対する態度が反対になっている。その裏の事情は、教員の待遇の問題がある。戦前は教員の待遇はよかった。しかし、戦後はアメリカ流になった。アメリカは教育税を徴収し、その税金で教育関係の予算をまかなう。沖縄は貧しかったから先生の給料は安かった。ところが本土の方は戦前と同じように教員を優遇し給料が高かった。
 教員の給料を高くするには「祖国復帰」する以外になかったのだ。日の丸、君が代は日本政府へ沖縄は日本なのだから早く復帰させてくれという懇願に使われた。
 だから、復帰すれば日の丸、君が代は沖縄教職員会には必要のないものになった。復帰した途端に、本土の教職員と仲良くなるために日の丸、君が代を突き放したのだ。

 教員経験者の書いた「戦後沖縄教育運動史」は欺瞞に満ちている。  

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2011年05月27日

右も左も駄目・安波区普天間誘致問題




 比嘉元県議は、安波区内の農地に軍民共用空港を建設し、一時的に普天間飛行場や航空自衛隊を誘致する計画を安波区民に説明したという。比嘉元県議の話は眉唾ものである。日米政府にとって問題なのは普天間基地の移転であって、軍民共用空港を建設する気は全然ない。もし、安波区に飛行場をつくるのなら普天間飛行場の移転以外はあり得ない話であり、軍民共用空港の建設ではない。米軍が海兵隊のヘリコプター基地と民間空港と共用することは絶対にあり得ないことである。
 辺野古の海上への移転案の時にアメリカは民間との共用ははっきりs拒否している。いつ緊急事態になるかわからない海兵隊の飛行場を民間と共用するなんてありえない。比嘉元県議の話は区民を騙している。
 
 「海兵隊を受け入れると、東京、大阪、福岡から民間機が乗り入れる。米国とは韓国釜山に集めていた航空貨物をアハ空港に降ろし、全国に配るシステムを作ろうという話になった。雇用の場が増える」と比嘉元県議は話したという。米国と話したといっても米国の誰と話したかははっきりしない。誰と話したかは分からないが比嘉元県議の話は信用できない。韓国は沖縄より本土のほうが近い。わざわざ遠い沖縄に運ぶより本土に直接輸送したほうがいい。

  比嘉元県議の説明は明らかに嘘があり、嘘をついてでも安波区の賛同を得ようとしているのはみえみえだ。比嘉元県議ら誘致派の目的は安波区の雇用拡大や経済発展が第一の目的ではない。安波区に飛行場を誘致すれば何千億円という工事が発注される。この工事発注で莫大な収入を見込んでいるのだ。
 安波区への飛行場誘致に積極的に関わっている元東村長は「北部振興策はなくなった。北部振興策に代わるのが飛行場誘致だ」と発言している。

 北部振興策や島田懇で確実に儲けるのが土木・建築事業者だ。儲けも莫大だ。復帰後の沖縄は本土並みを名目に公共工事が大幅に増え、土木・建築業社もどんどん増えた。当然土木・建築業者は政治家に献金をして、土木・建築業者がバックアップしている政治家は国の振興策や島田懇を利用してハコモノつくりにの仕事を増やした。それが安波区の飛行場誘致の実体である。ハコモノをつくって儲けるのを目的した振興策では経済発展をするはずがない。

 一方、宮城国頭村長は国頭の自然を守り、ノグチゲラなどの鳥獣を保護して、自然との共生で村つくりをする政治だ。自然を本当に守りたいのなら国頭から全ての人間を居なくすればいいといいたくなる。自然との共生をすれば人間は貧しさを強いられる。人口も増やしてはいけない。自然との共生政策は過疎化政策と同じだ。国頭村の人口は年々減少し、現在は5,139人である。人口が減れば税収が減り、村長や公務員の給料を圧迫していく。でも、面積の23%を、米国海兵隊の訓練場が占めているから給料は心配しなくていいか。

 沖縄の政治は右は一部の人間たちの儲け主義。左は反米+自然との共生主義。右も左も市民生活の向上には関心がない。

 私は普天間基地の辺野古移設、安波移設に賛成である。やんばるの東海岸は観光地にするのは難しい。市場経済はしっかりした産業がないと発展しない。海兵隊の飛行場は産業に匹敵するものであり、経済発展が見込まれる。それに海兵隊が引き上げたら民間空港として使用できる。
 飛行場は他の軍事基地とは価値が違う。やんばるに民間飛行場があれば観光客を増やすことができる。

  

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2011年05月25日

自治体は赤字経営を承知でやっている


 風力発電導入の失敗は北谷町以外に糸満市もマイナス収支になっている。新聞に掲載されてるように伊是名村も経営に失敗し風車を撤去することになった。
 糸満市は設置に市の財政から2億円投資している。05年以降はマイナス収支になり、風車がひき起こす地上デジタル放送の受信傷害のために一機は運転停止をすることになった。ますます赤字が大きくなるだろう。
 伊是名村は収支が大幅な赤字になることが分かり、結局は撤去の方向に動いている。伊是名村は財政に余裕がないので赤字経営になることを避けたが、糸満市や北谷町の場合は黒字経営に転換できる可能性がないのに赤字経営を続けている。

 民間会社なら赤字経営をすれば倒産する。経営に成功した会社だけが生き残る。ひとつの会社の成功の裏には十社以上の倒産があるのが民間会社の常識だ。民間会社は倒産することによってケリをつけることができる。
 自治体の経営も赤字で将来黒字の可能性がないならずるずると自治体の財政で補填しないでさっさと処分することが大事なことである。ところが自治体の場合は赤字が続き黒字に転換する見通しがないのにもかかわらず、ずるずると経営を続けていくケースが非常に多い。これも自治体の財政を苦しくさせる原因だ。糸満市も風力発電経営が黒字になる見通しがないなら、風車を二束三文で処分するべきだ。

「自治体は再生可能エネルギーの普及を進めるための制度的な地ならしや地域社会との合意形成のプロセスつくりなどの公共政策をしっかりやるのが筋」と環境エネルギー政策研究所の飯田所長は発言しているが、それは正論であり、事実は糸満市、北谷町、伊是名村などのように自治体が直接経営に乗り出しているケースは多い。なぜ、自治体が風力発電などの経営に乗り出すのか。
 経営がうまくいけば天下りに利用できるという甘みがあるが、風力発電の設置で工事などを請け負う会社が儲けるというのも大きな原因である。糸満市は風力発電4機を設置したが総事業費は4億円である。風力発電の設置工事によって工事会社は潤う。工事会社にとっては風力発電の経営は関係なく設置するのが目的だ。自治体は工事会社の仕事を増やす目的で経営に直接乗り出している場合がある。
 
 環境エネルギー政策研究所の飯田所長は「自治体が失敗すると、そのリスクを税金すなわち住民が負うことになる。それはやってはならないこと」と指摘するが、彼らはそれを承知でやっているということだ。赤字経営の自治体の経営や第三セクターが多いのに、次々と新しい事業をやるのはハコモノをつくることで潤う目的があるからだ。

 自治体経営と民間会社の経営の違いを指摘しても、自治体が方針を変えることはないだろう。新聞は自治体経営の問題をもっと深く追求し、自治体が商売をすれば赤字になる原因を明らかにすべきである。
 
 新聞は自治体の経営や第三セクターの実体をもっと暴いてもらいたいものだ。
    

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2011年05月23日

なぜ第三セクターは経営に失敗するか


 沖縄の自治体がはじめた商売の多くが失敗をして赤字経営に陥っている。昨日取り上げたコリンザ、沖縄子供の国、ミュージックタウン音市場、名護市や東村の第三セクターもほとんどが赤字経営である。
 北谷町の風力発電は、09年度は457万円の黒字だったが、10年度は555万円の赤字、10、11年度は故障が続いて稼動していない。もし、北谷町の風力発電を参考にすれば風力発電は赤字経営となり、風力発電はやらないほうがいいということになる。

 北谷町は、「厳しい財政状況下、存続の可否を再検討する必要がある」と述べている。新聞は、「税金を使って運営する以上、赤字の連続は看過できないと、危機感を強めている」と述べているが、税金を使って運営しているから平気で赤字を出すのだといいたい。

 辺土名町長は「財源確保の問題もあり、勇気のいる仕事ではあったが、風車のある街というイメージに強くひかれた」から風力発電を導入したと述べている。導入する理由は色々あるし、「風車のある街というイメージに強くひかれた」から風力発電を導入するしたというのは理解できる。しかし、導入し運営するには莫大なカネがかかる。風力発電を運営するには風車の寿命までに原価焼却ができるかをきちんと計算しないといけない。沖縄は毎年暴風に襲われるし、風車が故障する可能性は高い、その時の対処の仕方や費用も算出した上で原価焼却ができるかをきちんと計算する必要がある。もし、計算をして赤字が出るならば風車の導入はあきらめなければならない。
 風車のある街というイメージに強くひかれた」としても、風力発電の専門家の意見や過去のデータなどあらゆる面から検討した上で導入を決断すべきである。ところが北谷町は、導入した後に安定供給の困難や故障した時にはドイツ製であるために修理が長引くことの問題に気づいているのである。そんなことは導入前に考え、ドイツ製であることのリスクを計算した上で導入を決定すべきである。
 「風車のある街というイメージに強くひかれた」から導入するとしても、ドイツ製の風力発電を導入するのならメリットデメリットを計算した上で導入するべきであり、「風車のある街というイメージに強くひかれた」としても採算があわなければ導入するべきではない。
 採算が合うか合わないかを徹底して調査をしないで導入したのは、たとえ経営に失敗しても市長や北谷町の議員や公務員が赤字を負担しないからだ。

 新聞は、「税金を使って運営する以上、赤字の連続は看過できないと、危機感を強めている」と評しているが、税金を使うから採算が取れるか取れないかを無視して風力発電を導入したのだ。風力発電の経営がうまくいっても北谷町の町民の生活向上には関係がない。しかし、失敗すれば税金から赤字が補填される。このようやり方がはびこっているのが沖縄の政治実体だ。

 金武町では、返還される米軍キンバル訓練場跡に総事業費150億円をかけて利用計画を進めている。がんの放射線地料を行う医療施設、リハビリターション施設、義肢を製作するフィッティングセンター、発達障害児の支援を目的とした海洋リハビリセンター、多目的グラウンド、観光体験農園、ホテルの誘致などである。
 素晴らしい計画である。しかし、ちゃんと経営がうまくいくかどうかを徹底して調査したのだろうか。名護市は産婦人科の医者を確保することで苦戦している。がんの放射線治療は器具も高いだろうし、高度な医療技術が必要である。医師の確保はできるのか、看護師は確保できるのか。経営が黒字になるほど患者は確保できるのか。疑問だらけである。医師を確保できない時や患者を確保できない時は莫大な赤字経営になる恐れがある。
 それは他の施設にもいえることだ。経営は経済の方式で動く。儀武町長が政治の力で事業をはじめたとしても、事業は政治の力で成功させることはできない。たとえ、政治の力で事業を起こしても、事業を起こす以上は儀武町長は経営者としての才能が求められる。経営者としての才能がない人間が企業を立ち上げれば、待っているのは破産である。

儀武町長は「基地経済からの脱却と自立経済へ向けたチャレンジ」というが、経済は冷酷であり、情熱やいきごみが通用する世界ではない。 儀武町長が本土も含めて医療関係者や経営者の知恵を結集した結果のチャレンジであるならば、そして、優秀な経営者に任せて事業をやるのならば成功すると思うが、専門家の知恵を借りないで自治体だけで運営をするならば失敗する可能性が高い。
沖縄の自治体の事業や第三セクターの失敗は事業の専門家を雇用しないで自分たちだけでやろうとしたのに起因するケースが多い。ひどいのは今までの失敗の学習をやらないで、同じパターンで失敗を繰り返し、赤字を自治体の財政で補っていることだ。


  


 うるま市はに具志川市・石川市・勝連町・与那城町が合併した。首長や議員は市民の生活よりも自分たちの夢やプライドを優先するけいこうがある。庁舎は彼らにとっては城であり、威厳を示すものである。高い負債を抱え、財政が苦しくても立派な庁舎を作るのが首長や議員、公務員の夢であり、その実現を優先させる。







 仲井間知事は沖縄県の失業率を本土並みにすると公約して県知事選に立候補した。ところが当選した仲井間知事は沖縄の失業率の高い原因を調査したことが一度もなかった。失業率の高い原因を解明しないで仲井間知事がやったことはグッジョブ運動であった。グッジョブ運動は沖縄の企業に新たな採用をお願いし、テレビでグッジョブ運動を宣伝するくらいで、失業率改善には全然効果のないのをやっただけである。今度は、雇用の拡大へのアイデアを募集した。仲井間知事には沖縄の失業率を本土並みにするアイデアも計画もなかったのである。
 アイデアがないのに選挙で公約したことは当選をするための方便であり、明らかな公約違反だ。しかし、沖縄の知識人や政治家やマスコミは仲井間知事の公約違反を非難しない。沖縄には政治家の公約違反を批判したり、失業率を改善しようと真剣に考える知識人や政治家やマスコミがいないようだ。
 

  

Posted by ヒジャイ at 12:33Comments(0)