2019年10月31日

唯一慰安婦だけは性奴隷ではなかった



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唯一慰安婦だけは性奴隷ではなかった
 韓国左翼が主張する「慰安婦は性奴隷である」を否定し性奴隷ではなかったことを証明する目的で書いている。慰安婦=性奴隷を論破するには明治以前の遊女が性奴隷であった歴史的事実について説明しなければならないと考えている。そして、遊女だけでなく江戸時代=封建社会には奴隷に近い人たちがいて、それが明治以後にも居たことを指摘する必要がある。
「慰安婦だけは性奴隷ではなかった」を証明するには江戸から明治の性奴隷であった遊女の解明が必要である。

チャンネル桜沖縄で金城テルさんと私がキャスターを務めた10月10日に私の「これだけは言いたい」コーナーで、江戸時代の芸妓や遊女は性奴隷であったことを話した。そして、性奴隷とは売買されたこと、報酬がないこと。職業選択の自由がないことであり、芸妓も遊女と同じ性奴隷であったことを話した。そして、沖縄では吉屋チルーは琉歌の天才として名をはせたが彼女もまた遊郭の性奴隷であり十八歳の時に売春を強要された。しかし、彼女は性奴隷になることを拒み自殺したことを話した。琉歌の天才チルーもまた性奴隷であり、自由になるには死ぬしかなかったのだ。
 チャンネル桜で沖縄は明治になっても少年は糸満売り」少女は「ジュリ売り」があったことを話した。韓国も沖縄のように売買があり、妓生のような性奴隷が居たことを話した。戦後の有名な民謡歌手糸数カメも八歳の時にジュリ売りされたことを話した。
するとチャンネル桜が終わった後に、なんと金城テルさんは糸数カメを知っていて彼女の演武も見たと言ったのだ。これには驚いた。それだけではなかった。テルさんは奄美大島にも辻があったというのである。また、テルさんが診療所で看護師見習いとして働いていた時に11歳くらいの少女が家事手伝いのために母親に連れてこられた。その時院長が父親にお金を渡すのを見たというのだ。父親は院長に何度もお辞儀をした後に少女を残して去っていった。少女の名前はイヌコといった。イヌコとは犬の子というイメージであるし、まさかイヌコではないだろうと思ってテルさんに聞いたがテルさんは少女の名前をイヌコであり、はっきり覚えていると言った。
テルさんは少女の名前を言った後に急に笑い出した。笑いながらイヌコのエピソードを話した。
ある日、ヘビースモーカーの院長がタバコを吸いたくなってイヌコに、「マッチ持ってきてくれ」といった。するとイヌコは風呂を沸かしていたかまどから燃えている薪を取り出し院長のところに持ってきたという。
マッチを持ってきてと言われたのにイヌコは燃えている薪を持ってきたのである。イヌコが薪を持ってきた情景を思い出してテルさんは笑った。テルさんの説明では大島の地方には「マッチ」に近い発音で「火」をさす方言があり、「マッチ」という共通語を知らないイヌコは院長が「マッチを持ってきて」を「火を持ってきて」と勘違いして燃えた薪を持ってきたのだろうとテルさんは言った。

イヌコは売られたのである。「売られた」という表現に反発する人は多いと思うが、減退の民主主義の視点から見ればイフコは「売られた」のである。お手伝いとして働くのはイヌコである。だから報酬はイヌコがもらうべきであるがイヌコの報酬は父親がもらった。親がイヌコを売ったという解釈ができる。
貧しい家のイヌコが手伝いとして診療所で働くことは家にとっては口減らしができるから助かる。口減らしだけでなくお金も入る。イヌコはイヌコで貧しい家よりもおいしい食事ができる。親にとってもイヌコにとってもありがたいことである。しかし、現代は働く人に報酬を払う。もし、イヌコのように診療所の家事手伝いをしたなら報酬はイヌコがもらうのが現代社会である。現代は11歳の子供がイヌコのように働くことは禁じている。義務教育があるからだ。現代は中学を卒業してから働くことになる。戦前の義務教育は小学校までだから小学校を卒業すればイヌコのように働くことはできた。現代は本人に報酬が払われるがイヌコの場合は親に払われた。それから見ればイヌコは親が院長に売ったことになる。イヌコの人権はない。

テルさんはイヌコの話をした後にテルさんが小学一年生の時に赤ちゃんをおんぶして通う少女が二人いたことも話した。赤ちゃんが彼女たちの弟妹であったなら私に話すことはなかっただろう。つまり赤ちゃんは彼女たちの弟妹ではなかった。二人はイヌコのように遠い村から子守としてやってきたのだ。
子守の話を聞いてすぐに頭に浮かんだのが「五木の子守歌」と「叱られて」だった。「五木の子守歌」は小路もの頃によく歌っていたが中学生の頃になると子守歌にしてはおかしいなと思いながら歌った。有名な子守歌として「シューベルトの子もり歌」がある。

ねむれねむれ 母の胸(むね)に
ねむれねむれ 母の手に
こころよき 歌声に
むすばずや 楽しゆめ

 子守歌とは赤ちゃんを心地よく眠らす歌と思っていた゜が五木の子守歌」は違っていた。違いに気づいたのは高校生の時である。私が衝撃を受けたのは四番であった。
四おどんがうっ死んだら   
道端ちゃいけろ   
通る人ごち 花あぎゅう
 私が死んだら墓ではなく道端にいけろというのである。そしたら、道を通る人が花を活けてくれるというのである。子守りなのだから自分の弟妹を子守りしていると思うのが普通である。それなのになぜ家族の墓ではなく道端にいけろというのか。理解できなかった。道端にいけろという理由を三番で歌っている。
三おどんがうっ死んだちゅうて   
誰が泣いてくりょか   
うらの松山 蝉が鳴く
私が死んだら松山の蝉だけが泣いてくれるというのである。我が子の死を悲しまない親はいない。子守の少女が死ねば親は悲しむはずだ。それなのに少女は親ではなく蝉が泣くというのである。考えられないことである。被害妄想の強い少女なのかもしれないと思ったこともある。貧しい農村の少女が裕福な家に子守として預けられた歴史があることを知って初めて子守の少女がその家の娘ではなく遠く離れた貧しい村の少女であることが分かった。そして、一番の歌の意味を理解した。
一おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先きゃおらんと 
盆が早よ来るりゃ 早よもどる
私はお盆で子守りの仕事が切れる。お盆から先はこの家に私は居ない。親の所に帰れる。
 一日も早く親の待つ家に帰りたい少女の気持ちをうたったのが一番である。しかし、中高生の頃の私ではおどまの意味が分からないし、盆ぎりの意味も分からなかった。盆から先きゃおらんとの意味も分からなかった。
 「五木の子守歌」は貧しい農家の少女が裕福な家の子守となり、子守の孤独の気持ちをうたった歌であった。子守奉公に出された娘たちが、背中の赤ん坊をあやしながらわが身を嘆いて歌った子守唄なのである。「竹田の子守歌」も同じである。

 「叱られて」は1920年の作品である。「叱られて」も子守りの歌である。子守の歌であることが分かるのが二番である。
二叱られて 叱られて
口には出さねど 眼になみだ
二人のお里は あの山を
越えてあなた(彼方)の 花の村
ほんに花見は いつのこと

一番の「この子は坊やを ねんねしな」で子守であることがわかる。二番で遠い村から来たことがわかる。
『叱られて』は作詞家清水かつらが21歳頃の作品である。幼い頃に母と生き別れた悲しみを、親元を離れ奉公へ出された子供の心境と重ね合わせた詩だと言われている。「口には出さねど 眼になみだ」は継母に遠慮して反抗することができなかった清水かつらが子守奉公に行く前に、「主人のいうことを聞きなさい。反抗してはいけない」と親にしつけられた子守と重ね合わせたのだろう。
「赤とんぼ」は子守りをされた子の歌である。一、三番でそのことがわかる。
一、夕焼、小焼の、あかとんぼ、
負われて見たのは、いつの日か。

子守におんぶされて赤とんぼを見たのはいつのことだろう。
三、十五で、姐(ねえ)やは、嫁にゆき、
お里の、たよりも、たえはてた。

 子守を終えて自分の里に帰った子守の姐やは十五歳で嫁に行った。嫁に行く前にはあった便りは来なくなった。

「姐や」は自分の姉ではなく、この家で子守奉公していた女中のことである。「お里のたより」は、子守をしていた姐やの故郷からこの家に送られてくる便り。

封建社会の時代は身分制度があり、身分差で裕福と貧困が決まっていた。子守り、女中は貧しい農家から身分のある裕福な家に奉公した。奉公した子守の苦しさ、孤独を歌ったのが五木の子守歌である。

おどま勧進勧進
あん人達ゃ よか衆
よかしゃよか帯 よか着物

「勧進」とは小作人のことである。あん人達とは地主層のこと。この歌では勧進を「物乞い」「乞食」という意味で用いられている。歌の意味は「私は乞食のようなものだ。(それにくらべて)あの人たちは良か衆(お金持ち、旦那衆)で、良い帯を締めて立派な着物を着ている」となる。
小作人たちは田畑はもちろん、家屋敷から農具に至るまで地主階層から借り受けて生計を立てなくてはならなかった。娘たちも10歳になると、地主の家や他村へ子守奉公に出された。五木の子守唄はこの悲哀を歌ったものである。

文化、政治、経済は明治時代になって近代化が進んでいったが、一方で江戸時代のシステムも根強く続いた。子守、女中奉公のシステムは明治以降も続いた。そして、遊郭のシステムは江戸時代のままだった。貧しい村の少女を買い、遊郭で芸、教養を教え、18歳になるとお客の相手をさせた。
村で少女を買う男を女衒と言った。遊女の居る家を妓楼と言い、主人を楼主といった。遊郭は政府によって場所が決められた。遊郭の収益は莫大であり一流企業と同じ売り上げがあり政府に払う税金も莫大であった。 
遊郭は次第に三つに分業化していく。芸に優れた芸妓は踊りや歌などで身分の高い客や金持ちの相手をした。高度な芸を身に着けることができたのはわずかである。芸妓は教養もあり、スポンサーは高額を払って見受けし、妾にするだけでなく妻にするスポンサーも多かった。
明治時代には芸妓の時代と言われた。八歳の頃から芸だけでなく、身分の高い人と接客するための教育も教育された。だから、芸妓は美貌で社交上手な女性として多くの元勲に愛され、正妻となった者も少なくなかった。グーグルで調べて驚いた。なんと明治時代の有名な政治家が芸妓を妻にしていた。

伊藤博文 - 稲荷町の遊郭・小梅(伊藤梅子)
原敬 - 新橋の遊郭・浅子
新橋の下級芸者の出で美貌でもなく無教養であったが人扱いがうまく、妾を経て正妻となった。
板垣退助 - 新橋・小清(板垣清子)
新橋金春通りの人気芸者だったが板 垣に身受けされ妻として入籍。
犬養毅 - 犬養千代子 … 元芸妓と言われている。。
山県有朋 - 日本橋「吉田屋」大和(吉田貞子)。
陸奥宗光 - 新橋「柏屋」小鈴(小兼とも。陸奥亮子)
木戸孝允 - 京都三本木・幾松(木戸松子)
井上馨 - 新橋・新井武子 … 中井弘の元妻。
桂太郎 - 新橋「近江屋」お鯉 (芸妓)
妾だが正妻病身を理由に実質的な妻として振る舞った。
芸妓は芸に優れていただけでなく、才女でもあった。だから、多くの明治の政治家か妻にしたのである。
芸妓ほど優れてはいないが踊りや歌を披露したのが芸者である。芸者は踊りや歌だけでなく性の相手もした。
芸をしないで売春だけをしたのが娼婦である。

江戸時代では城下町ができ、町人経済が発展していった。金持ちではない町人を相手の娼婦が増えていっただろう。遊郭は分業化していった。

明治33年(1900年)10月2日に発布され明治政府が制定した娼妓取締規則は「娼妓」と書いてあるように芸妓は対象ではなかった。娼婦が対象の法律であった。だから、18歳以上を条件にしたのである。娼妓取締規則が施行されてからは規則を守る業者と守らない業者が入り交ざっていっただろう。沖縄では「ジュリ売り」が戦前まであった。

慰安婦問題を追及する時、明治以前の歴史を知ることは重要である。
慰安婦は海外の日本軍が慰安所をつくり、娼妓取締規則という日本の法律を遵守させる目的の娼婦である。法律を遵守させたのが憲兵である。
断言できるのは民間には性奴隷にさせられた娼婦が多かったかもしれないが、唯一慰安婦だけは性奴隷ではなかったことである。

     つづく
  

Posted by ヒジャイ at 14:32Comments(0)

2019年10月30日

超破格な天才少女歌手東亜紀

超破格な天才少女歌手東亜紀

ユーチューブが登場して一番うれしいことは天才少女歌手に出会えたことである。
ああ、これが本物の天才なんだ。
ジャッキーエバンコを見た時にそう感じた。
7、8年前のことである。
それからは毎日ユーチューブでエバンコを見た。
エバンコはトランプの大統領就任式の時に国家を歌った。
米国では有名な歌手となった。

クラシックは好きではない。オペラ歌手の発声は嫌いである。
エバンコはオペラ歌手とは違う素直な発声で歌う。
だから、聞くことができる。だから素晴らしい。

エバンコの次に見つけたのがメリット国吉だ。
なんと彼女の祖父は読谷出身だ。
祖父はブラジルから帰国して読谷に住んでいる。
メリッサは家族で日本に移住してきた。
在日ブラジル人の色々なイベントに出演して歌っている。

天才少女歌手を探しているわけではない。
エバンコとメリッサは偶然見つけた。
それに天才少女歌手と呼ばれていても、それだけで興味が沸くものでもない。
二人は私にとって天才少女歌手であるということだ。
彼女たちを見つけた時はすごく感動し、ユーチューブで追っかけた。
今でも時々、エバンコとメリッサはユーチューブで見ている。
ジャッキーエバンコ
https://www.youtube.com/watch?v=3d_XTvLalJk

メリッサ国吉
https://www.youtube.com/watch?v=1cCSLGIPiPg


なんと天才少女歌手が日本にも居た。

長女は東京に住んでいたが結婚することに千葉県に移った。
千葉で頭に浮かぶのが日本一川幅が大きい利根川である。そして、子供の頃に聞いた三波春夫の「大利根無情」である。
「落ちぶれ果てても平手は武士じゃ・・・・」のセリフが印象的で記憶に残る。
ユーチューブで「大利根無情」で聞こうと思い、開くと歌っている歌手の中で東亜樹という小学生が居た。
小学生が「大利根無情」を歌うのか・・・・・。興味がわいてきて聞いてみた。
驚いた。歌唱力がすごい。子供が大人の歌を上手に歌っているとか、うまいということではない。
そんな域をはるかに超えている。

もうひとつ驚いたことがある。日本の歌なら一度聞いただけで覚えるし、外国のうたでも数回聞けば
覚えると長天才的な覚える能力である。
東亜樹は12歳現在でレパートリーは1000曲という。
1000曲の中には多くの外国の歌が入っている。日本語で歌うのではない。
その国の言葉で歌うのだ。英語、ラテン語、韓国語、フランス語、イタリア語・・・・・・。
「100万本のバラ」をロシア語て歌ったのには驚いた。
最初は演歌が好きで歌っていると思っていたが、そうではないようだ。
彼女は四歳の頃にはすでに施設で老人相手に歌っていた。老人たちのリクエストに
応じて歌ったから。演歌や昔の歌が中心になったのだ。

エバンコとメリッサはテレビで有名になった。しかし、東亜樹は違う。
施設の老人たちにボランティアで歌い。彼女の歌を聞きたい老人たちがどんどん増え、
老人相手のにコンサートをやることによって有名になった。今はひっぱりだこである。
コンサートはワンマンショーであり、彼女は1時間以上一人で歌う。
東亜樹は12歳、小学6年生の少女である。信じられないことである。

東亜樹をユーチューブで見ていると止めることかできない。数時間見てしまう。
一昨日は夜の2時半まで 見てしまった。
これからは見る時間は減っていくと思うし、減らしていかないと・・・・・。

東亜樹
https://www.youtube.com/watch?v=kO7OLD_Yd90

  

Posted by ヒジャイ at 11:28Comments(0)

2019年10月23日

「天皇の御影を焼いた動画」展示の「表現の不自由展・その後」への国税補助中止は当然



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「天皇の御影を焼いた動画」展示の「表現の不自由展・その後」への国税補助中止は当然
KyodoNews
https://www.youtube.com/watch?v=UaNExoYABEI
2019/10/08 に公開
愛知県の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、企画展「表現の不自由展・その後」が8日午後、約2カ月ぶりに再開された。展示中止を求める名古屋市の河村たかし市長は8日午前、会場を視察。午後には会場で座り込みの抗議をした。



名古屋で行われた「あいちトリエンナーレ」(8月1日~10月14日)での「表現の不自由展・その後」をめぐって日本の芸術、国の進路が一つの分岐点にきているのではないかとの危機感を感じているという白川昌生氏の意見が沖縄タイムス紙に載った。白川氏が危機感を感じたのは河村たかし名古屋市長が不自由展の作品は「多くの日本人の心を傷つけるものだ」として展示の即時中止を要求したことと、美術館、県にメール、電話、ファクスによる攻撃が行われ、ガソリンを撒(ま)くぞという脅迫が送りつけられることで、大村秀章愛知県知事は展覧会の中止を決め、8月4日から会場は閉鎖されてしまったことである。
 抗議の対象となったのが「平和の少女像」と、大浦信行さんの「遠近を抱えて」の2点であったが、白川氏は、前者を「慰安婦像」と呼び、後者は「天皇の御影を焼いた作品」であるとするのは「誤解」であると述べ、誤解が広まっていると指摘している。
 少女像は韓国の少女慰安婦像と寸分違わない。韓国では「少女慰安婦像」、名古屋の展示会では「平和の少女像」と同じ像を場所によって変えることは欺瞞である。
マスメディアは少女慰安婦像は写真や映像を何度も報道するが、「天皇の御影を焼いた作品」の写真はほとんど報道しない。それにNHKのニュースではありえないことが起こった。


上がNHK「ニュース シブ5時」で報道された時
の写真である。左の写真も同じデモである。「陛下への侮辱を許すのか」「天皇陛下の御真影を燃やすな」のプラカード見える。このプラカードが映らないようにするのは難しいはずである。


とろがNHKは河村市長のプラカードの「陛下への侮辱を」を映していないし、「天皇陛下の御真影を燃やすな」も映していない。二つのプラカードを完全カットしたNHKニュースである。マスコミは「天皇の御影を焼いた作品」については報道しない。
白川氏はタイムスで「天皇の御影を焼いた作品」であるとするのは「誤解」であると述べている。河村市長のデモ隊は嘘のプラカードつまり「誤解」なのかどうか。動画の写真を見ればわかる。ブログ「正しい歴史認識には写真が掲載されている。
昭和天皇の顔の城野心をガスバーナーで焼いている。


 白い馬に乗った昭和天皇の写真を焼いている。


燃えた写真を靴が踏んづけている。


天皇陛下の写真をガスバーナーで焼き、灰になった写真を靴で踏んづけるという動画である。こんな動画を芸術というのはおかしい。でも芸術だと主張するのは自由である。日本は表現の自由な国だ。しかし、こんな昭和天皇を侮辱しているだけの、芸術性のない動画を国民の税金で展示するというのはおかしい。税金を使うべきではない。この動画は芸術作品というより天皇侮辱作品である。

白川氏は社会、政治、生活とは関係を持たない純粋な美を求めるような芸術表現を否定し、社会に生きて感じる喜び、苦悩、矛盾、予感などを表現するのが芸術であると述べ、芸術が批判的精神を持つことを現政権は認めようとしないと批判するが、昭和天皇の御影を焼いた動画には白川氏の主張する喜びも苦悩も矛盾も予感もない。白川氏の芸術論でも芸術とは言えないものである。
それでも芸術だと主張して発表するのはいい。しかし、今回の問題は国民の税金を「天皇の御影を焼いた作品」の展示に使っていいかどうかの問題である。税金を使わない民間の資金で展示するなら問題ない。芸術表現は自由だから。しかし、国民の税金を使うということになると違う。税金を使う展示会と民間資金による展示会は区別するべきである。ところが白川氏は税金であろうが民間資金であろうが表現の自由を根拠にして「天皇の御影を焼いた作品」を表現するべきだというのである。
「表現の自由は表現のみならず、それと不可分の、見る・知る権利とも繋がり、民主主義体制の中ではそれは基本的人権ともつながるものなのである」と述べて、大日本帝国へ回帰したい右翼政治家には、国民に人権はいらないと発言する議員もいるのが現状であると、なんと大日本帝国主義まで持ち出していく。そして、河村たかし名古屋市長が不自由展の作品は「多くの日本人の心を傷つけるものだ」として展示の即時中止を要求したことや、美術館、県にメール、電話、ファクスによる抗議を攻撃だと決めつける。抗議をした人たちを右翼呼ばわりする。白川氏にとって「表現の不自由展・その後」批判者=右翼なのだ。

白川氏は安倍政権を右翼政権、帝国主義などと非難し、国の補助カットは「現政権にとって不都合と判断されたものは、『見させない』『聞かせない』『言わさせない』『やらせない』という文化統制的な縛りでやって行くぞ」、という意思表示だと批判しているが、中止を決めたのは愛知県知事であり、中止した理由は抗議が殺到したからであった。安倍政権は展示会の中止については全然関係がない。補助金カットの原因は展示会を中止するほどの抗議を受け、実際に中止をした、その責任は愛知県側にあるのに白川氏は安倍政権の責任だと非難する。

現在の日本は代議制の議会制民主主義国家であり、国民が選んだ議員によって国は運営されている。現政権は国民の支持によって成り立っている。国民の代理として政治を行っているのが安倍政権である。安倍政権の支持率は過半数を超えている。安倍政権か右翼政権であるならば国民は右翼であるということであり、安倍政権が帝国主義というならば国民は帝国主義ということである、そんなことはあり得ない。安倍政権は民主政権である。民主政権を右翼、帝国主義呼ばわりする白川氏は客観的に安倍政権を見る能力がないということである。ゆがんだ民主主義に凝りかたまっているのが白石氏である。

夕刊フジは、
「昭和天皇の写真を焼き、足で踏みつけるような映像作品の公開への税金投入をどう思いますか」の世論調査をした。
(投票、約66590票)
〇賛成3%
〇反対94%
〇どちらでもない3%
世論調査では税金投入反対が94%である。動画の写真を見れば国民の民意も世論調査と同じになるだろう。
 民主主義に逆行しているのは国民が反対する「少女慰安婦像」「「天皇の御影を焼いた動画」の展示を国民の税金でやろうとしたことである。国民の税金を「表現の自由」「民主主主義」の名のもとに自分勝手に使うのを主張しているのが白石氏氏である。
 
白川氏は最後に「敗戦後に作られた民主主義の崩壊に向かっているのではないかという危機感を感じざるを得ない」と述べている。
民主主義を構築していくのは国会で決める法律である。法律を破ることができない行政の安倍政権が民主主義を破壊することはできない。そもそも国民主権・議会制民主主義日本は民主主義を発展させていくのであり崩壊する方向には進まない。戦後70年がそれを実証した。
表現の不自由展・その後」への国の補助金がストップしたくらいで民主主義崩壊を危惧するというのは笑える。白石氏は妄想の世界に入り込んでしまっているみたいだ。まあ芸術家にはありがちなことではあるが・・・。「天皇の御影を焼いた動画」を展示した「表現の不自由展・その後」への国税補助中止は当然である。
  

Posted by ヒジャイ at 20:44Comments(0)

2019年10月21日

韓国の法を徴用工問題に適用することはできない そのことを指摘しない日本の識者たち

韓国の法を徴用工問題に適用することはできない そのことを指摘しない日本の識者たち
 昨年10月に韓国の大法院(最高裁)は日本企業に対して、元徴用工たちへの賠償金支払いを命じたいわゆる「徴用工判決」に対して多くの識者が意見を述べてきた。
 徴用工裁判は、1965年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決している。韓国の判決は国際法に照らしてあり得ない判断だという政府側の主張と元徴用工の「個人請求権」までを完全否定することはできない。元徴用工が裁判を起こして、自身の請求権を主張するというのは当然の権利であるという主張に分かれている。
 徴用工問題は日本で起こったことである。裁判は日本するべきであって韓国での裁判は無効であると主張する識者は居なかった。
 徴用工が奴隷のように扱われたと主張している現場は日本国内である。であるならば徴用工は日本の裁判に訴えるべきである。慰安婦問題のように。
 ところが徴用工問題は韓国の裁判で行われた。韓国の法律は韓国の国会で決める。韓国の法率は韓国内に適用するものであり、外国には適用できない。日本で韓国人が殺人を犯したからと言って韓国の裁判が裁くことはできない。逆も同じである。元徴用工たちは日本で訴訟を起こし、日本で裁判をするべきであった。日本で裁判をするべきと元徴用工に提言したなら、元徴用工は「日本で裁判をしたら日本企業の味方をして賠償金を取ることはできない。だから韓国でやる」と言っただろう。つまり日本で裁判をすれば賠償金は取れないが韓国で裁判をすれば賠償金をとれるという確信があったから韓国で裁判をしたのだ。
 日本、韓国という国家と国家の関係から見れば法は中立でもなければ平等でもない。日本は日本のエゴ、韓国は韓国のエゴの国家である。それぞれエゴ国家である。

 日本で起こった徴用工問題であるのに韓国で裁判すれば、日本側の徴用工の主張への反論ができない。元徴用工は奴隷のように扱われたと主張しているが、徴用工は奴隷のようではなかったという多くの証言が日本にはある。。
明治政府は四民平等・法治主義の国家づくりから始まった。それは奴隷の否定である。遊女は奴隷であるとイギリスの弁護士に指摘された明治政府はむ「娼妓取締規則」の法律をつくり、遊女を奴隷から解放する努力をした。アジアで初めて四民平等を掲げ、奴隷を否定したのが日本である。
日本で裁判をすれば元徴用工の嘘がばれただろう。日本の裁判では徴用工が勝てる可能性はなかった。韓国の裁判だから勝てたのである。

 韓国の法は日本に適用することはできない。この重要なことをないがしろにして意見を述べているのが日本の識者である。

日本で起こった事件を韓国の裁判で裁くということは韓国のエゴを日本に強制することであり、法の平等の精神を破るものである。韓国は日本で裁判をするかでなければ国際司法裁判所に提訴するべきであった。

元徴用工裁判問題は1965年の日韓請求権協定か個人請求権かの問題ではない。法の平等の問題である。法の平等の精神に従うなら裁判は国際司法裁判所で行うべきである。韓国での裁判に矛盾を感じていない日本の識者たちである。それが日本の深刻な問題である。
  

Posted by ヒジャイ at 12:07Comments(0)

2019年10月20日

香港デモ 学生記者が捉えた銃撃映像

香港デモ 学生記者が捉えた銃撃映像


銃撃映像

10月 1日午後4時10分ごろ、香港郊外荃湾(せんわん)地区。武装した機動隊と若者らの間で激しい衝突が起きていた。「ズーン」と機動隊員が実弾を放った。少年がその場であおむけに倒れ込み、左胸付近から血が流れた。
香港城市大の学内メディア「城市放送局」に所属する林卓賢さん(21)=経営学部3年=は、現場で取材していた。恐怖で体がすくみながら、夢中で一部始終をカメラに収めた。「銃声の瞬間、何の弾か分からなかった。でも、少年の胸から血が流れているのに気づき、(実弾だと)確信した」
倒れ込んだ少年を、別の若者が介抱しようと近づいた。その瞬間、機動隊員がこの若者を組み伏せ、拘束した。林さんはとっさに思った。「銃撃の瞬間に加えて、この後、警察が救護措置など適切な対応をするのかどうかが重要だ」。目の前で倒れ込む少年が心配だったが「これが私の役割だ」と自分に言い聞かせ、カメラを回した。
「助けてて。胸が痛い」とうめく少年。しかし機動隊員たちは少年に目もくれない。林さんが撮影した映像を見る限り、銃撃から5分が経過した時点でも救護措置は行われていなかった。林さんは「実弾で胸を撃っているにもかかわらず、極めて非人道的だ」と警察の対応を非難する。少年はその後、救急車で病院に搬送されて緊急手術を受け、一命は取り留めた。
銃撃の瞬間を撮影できていたのは、香港城市大と香港大の学生メディアだけだった。

 映像は、白い棒状のもので挑む少年に対し、機動隊員が数十センチとみられる至近距離から左胸に発砲する様子を克明にとらえている。警察当局は「警察官は襲われて生命の危機に直面し、武器を使用して制止するほかなかった。適切で合法だった」と説明している。だが映像を見る限り、少年に対し狙いを定めて銃撃しているように見える。過剰防衛と批判されてもやむを得ないだろう。銃弾は少年の心臓をわずか3センチ外れ、左肺の内部で破裂していたという。あとわずかでも位置がずれていれば、少年は命を落としていただろう。

映像という動かぬ証拠を突きつけられ、警察は守勢に立たされている。林さんは言う。「もし香港城市大と香港大の学生メディアがあの場にいなかったら、誰も何が起きたかを知ることはできなかった。私たちはとても重要な役割を果たしたと自負しています」

  

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2019年10月20日

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慰安婦だけは性奴隷ではなかった
 韓国左翼が主張する「慰安婦は性奴隷である」を否定し性奴隷ではなかったことを証明する目的で書いている。慰安婦=性奴隷を論破するには遊女が性奴隷であった歴史的事実について説明しなければならないと考えている。そして、遊女だけでなく江戸時代=封建社会には奴隷に近い人たちがいて、それが明治以後にも居たことを指摘する必要がある。
「慰安婦だけは性奴隷ではなかった」を証明するには江戸から明治の性奴隷であった遊女の解明が必要である。

チャンネル桜沖縄で金城テルさん私がキャスターを務めた10月10日に私の「これだけは言いたい」コーナーで、江戸時代の舞妓や遊女は性奴隷であったことを話した。そして、性奴隷とは売買されたこと、選択の自由がないことであるとであり、それは舞子も遊女と同じ性奴隷であったことを話した。そして、沖縄で吉屋チルーは琉歌の天才として名をはせたが彼女もまた遊郭の性奴隷であり十八歳の時に売春を強要された。しかし、彼女は性奴隷になることを拒み自殺したことを話した。琉歌の天才チルーもまた性奴隷であり、自由になるには死ぬしかなかったのだ。
 沖縄では明治になっても少年は糸満売り」少女は「ジュリ売り」があったことを話した。韓国も沖縄のように売買があり、妓生のような性奴隷が居たことを話した。戦後の有名な民謡歌手糸数カメも八歳の時にジュリ売りされたことを話した。
するとチャンネル桜が終わった後に、なんと金城テルさんは糸数カメを知っていて彼女の演武も見たと言ったのだ。これには驚いた。それだけではなかった。テルさんは奄美大島にも辻があったというのである。また、テルさんが診療所で看護師見習いとして働いていた時に11歳くらいの少女が家事手伝いのために母親に連れてこられた。その時院長が母親にお金を渡すのを見たというのだ。母親は院長に何度もお辞儀をした後に少女を残して去っていった。少女の名前はイヌコといった。イヌコとは犬の子というイメージであるし、まさかイヌコではないだろうと思ってテルさんに聞いたがテルさんは少女の名前をイヌコであり、はっきり覚えていると言った。
テルさんは少女の名前を言った後に急に笑い出した。笑いながらイヌコのエピソードを話した。
ある日、ヘビースモーカーの院長がタバコを吸いたくなってイヌコに、「マッチ持ってきてくれ」といった。するとイヌコは風呂の水を沸かしていたかまどから燃えている薪を取り出し院長のところに持ってきたという。
マッチを持ってきてと言われたのにイヌコは燃えている薪を持ってきたのである。イヌコが薪を持ってきた情景を思い出してテルさんは笑った。テルさんの説明では大島の地方には「マッチ」に近い発音で「火」をさす方言があり、「マッチ」という共通語を知らないイヌコは院長が「火を持ってこい」と勘違いして燃えた薪を持ってきたのだろうとテルさんは言った。

イネコは売られたのである。「売られた」という表現に反発する人は多いと思う。お手伝いとして働くのはイヌコである。だから報酬はイヌコがもらうべきであるがイヌコの報酬は母親がもらった。親がイヌコを売ったという解釈ができる。
貧しい家のイヌコが手伝いとして診療所で働くことは家にとっては口減らしができるから助かる。口減らしだけでなくお金も入る。イヌコはイヌコで貧しい家よりもおいしい食事ができる。親にとってもイヌコにとってもありがたいことである。しかし、現代は働く人に報酬を払う。もし、イヌコのように診療所の家事手伝いをしたなら報酬はイヌコがもらうのが現代社会である。現代は11歳の子供がイヌコのように働くことは禁じている。義務教育があるからだ。現代は中学を卒業してから働くことになる。戦前の義務教育は小学校までだから小学校を卒業すればイヌコのように働くことはできた。現代は本人に報酬が払われるがイヌコの場合は親に払われた。それから見ればイヌコは親が院長に売ったことになる。イヌコの人権はない。

テルそんはイヌコの話をした後にテルさんが小学一年生の時に赤ちゃんをおんぶして通う少女が二人いたことも話した。赤ちゃんが彼女たちの弟妹であったなら私に話すことはなかっただろう。つまり赤ちゃんは彼女たちの弟妹ではなかった。二人はイヌコのように遠い村から子守としてやってきたのだ。
子守の話を聞いてすぐに頭に浮かんだのが「五木の子守歌」と「叱られて」だった。「五木の子守歌」はよく歌っていたが昔は子守歌にしてはおかしいなと思いながら歌った。有名な子守歌として「シューベルトの子もり歌」がある。

ねむれねむれ 母の胸(むね)に
ねむれねむれ 母の手に
こころよき 歌声に
むすばずや 楽しゆめ

 子守歌とは赤ちゃんを心地よく眠らす歌と思っていたが五木の子守歌」は違っていた。違いに気づいたのは高校生の時である。私が衝撃を受けたのは四番であった。
四おどんがうっ死んだら   
道端ちゃいけろ   
通る人ごち 花あぎゅう
 私が死んだら墓ではなく道端にいけろというのである。そしたら、道を通る人が花を活けてくれるというのである。子守りなのだから自分の弟妹を子守りしていると思うのが普通である。それなのになぜ家族の墓ではなく道端にいけろというのか。理解できなかった。道端にいけろという理由を三番で歌っている。
三おどんがうっ死んだちゅうて   
誰が泣いてくりょか   
うらの松山 蝉が鳴く
私が死んだら松山の蝉だけが泣いてくれるというのである。我が子の死を悲しまない親はいない。子守の少女が死ねば親は悲しむはずだ。それなのに少女は親ではなく蝉が泣くというのである。考えられないことである。被害妄想の強い少女なのかもしれないと思ったこともある。貧しい農村の少女が裕福な家に子守として預けられた歴史があることを知って初めて子守の少女がその家の娘ではなく遠く離れた貧しい村の少女であることが分かった。そして、一番の歌の意味を理解した。
一おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先きゃおらんと 
盆が早よ来るりゃ 早よもどる
私はお盆で子守りの仕事が切れる。お盆から先はこの家に私は居ない。親の所に帰れる。
 一日も早く親の待つ家に帰りたい少女の気持ちをうたったのが一番である。しかし、中高生の頃の私ではおどまの意味が分からないし、盆ぎりの意味も分からなかった。盆から先きゃおらんとの意味も分からなかった。
 「五木の子守歌」は貧しい農家の少女が裕福な家の子守となり、子守の孤独の気持ちをうたった歌であった。子守奉公に出された娘たちが、背中の赤ん坊をあやしながらわが身を嘆いて歌った子守唄なのである。「竹田の子守歌」も同じである。

 「叱られて」は1920年の作品である。「叱られて」も子守りの歌である。子守の歌であることが分かるのが二番である。
二叱られて 叱られて
口には出さねど 眼になみだ
二人のお里は あの山を
越えてあなた(彼方)の 花の村
ほんに花見は いつのこと

一番の「この子は坊やを ねんねしな」で子守であることがわかる。二番で遠い村から来たことがわかる。
『叱られて』は作詞家清水かつらが21歳頃の作品である。幼い頃に母と生き別れた悲しみを、親元を離れ奉公へ出された子供の心境と重ね合わせた詩だと言われている。「口には出さねど 眼になみだ」は継母に遠慮して反抗することができなかった清水かつらが親に主人のいうことを聞きなさい。反抗してはいけないとしつけられた子守と重ね合わせたのだろう。
「赤とんぼ」は子守りをされた子の歌である。一、三番でそのことがわかる。
一、夕焼、小焼の、あかとんぼ、
負われて見たのは、いつの日か。

子守におんぶされて赤とんぼを見たのはいつのことだろう。
三、十五で、姐(ねえ)やは、嫁にゆき、
お里の、たよりも、たえはてた。

 子守を終えて自分の里に帰った子守の姐やは十五歳で嫁に行った。嫁に行く前にはあった便りは来なくなった。

「姐や」は自分の姉ではなく、この家で子守奉公していた女中のことである。「お里のたより」は、子守をしていた姐やの故郷からこの家に送られてくる便り。

封建社会の江戸時代には遊女、お手伝い・女中・子守しか働く場所はなかった。他にも女性が働く場所があっただろうと思うかもしれないが、そうではなかった。女性が舞台で芸を披露して収入を得ることさえ禁じられていた。歌舞伎では女を男が演じる。女を演じる役者を女形(おやま)という。女方が登場したのは女性が舞台に立つのを禁じられたからである。
歌舞伎を最初に始めたのは出雲阿国(いずもの おくに、元亀3年?(1572年) - 没年不詳)である。彼女は
阿国は派手な男装をして踊ったという。身形(みなり)や言動の風変わりな人、アウトロー的な人などを「かぶきもの」と呼び、おくにの踊りを歌舞伎と呼んだ。歌舞伎はどんどん発展するが江戸幕府は派手な踊りを禁じ、女性が舞台に立つことも禁じた。歌舞伎は江戸時代に発展したが女性が舞台に立つことは禁じられていたので男が女を演じるようになった。江戸時代には女性が表の舞台に立つことを禁じられたのだ。そのために昔から続いていた遊郭で武士や商人などの金持ちにだけ芸を披露した。遊郭以外で芸を披露することはできなかった。女性が女優として舞台に立つことができたのは明治になってからである。
明治政府の近代化政策によって、女性が舞台に立つことができるようになった。演劇はヨーロッパの戯曲を共通語に翻訳して、共通語で演じる新劇が登場した。有名な女優が松井須磨子である。
松井須磨子が演じた劇
『ハムレット』(オフヰリア)
『人形の家』(ノラ)
『復活』(カチューシャ)
『サロメ』(サロメ)
『カルメン』(カルメン)
松井須磨子が歌った歌謡
『カチューシャの唄』
『ゴンドラの唄』
『今度生まれたら』
松井須磨子が歌った『カチューシャの唄』『ゴンドラの唄』は戦後も歌われ続けた。私もラジオなどでよく聞いた。
明治時代になって近代化が進んでいったが江戸時代の経済システムも根強く続いた。吉原遊郭のシステムは江戸時代のままだった。村で少女を買う男を女衒と言った。遊女の居る家を妓楼と言い、主人を楼主といった。遊郭は政府によって場所が決められた。遊郭の収益は莫大であり一流企業と同じ売り上げがあった。 
全国511箇所の遊廓において貸座敷を営業する者は1万1154人、娼妓は5万56人、遊客の総数は1か年に2278万4790人。その揚代は7223万5400円であった。
遊郭を順調に運営するために多くの男も必要であった。江戸時代にはすでに遊郭は会社化されていたのだ。遊女の安全は男衆が徹底して守った。何百年もかけて作り上げた遊郭のシステムが簡単に崩壊するはずはなかった。
遊郭は次第に芸と性に分業化していく。つまり芸に優れた芸妓は踊りや歌などを中心に披露した。しかし、高度な芸を身に着けることができたのはわずかである。芸妓は教養もあり、スポンサーは高額を払って見受けし、妾にするだけでなく妻にするスポンサーも多かった。
明治時代には芸妓の時代と言われた。八歳の頃から芸だけでなく、身分の高い人と接客するための教育も受けた。だから、芸妓は美貌で社交上手な女性として多くの元勲に愛され、正妻となった者も少なくなかった。グーグルで調べて驚いた。なんと明治時代の有名な政治家が芸妓を妻にしていた。

伊藤博文 - 稲荷町の遊郭・小梅(伊藤梅子)
原敬 - 新橋の遊郭・浅子
新橋の下級芸者の出で美貌でもなく無教養であったが人扱いがうまく、妾を経て正妻となった。
板垣退助 - 新橋・小清(板垣清子)
新橋金春通りの人気芸者だったが板 垣に身受けされ妻として入籍。
犬養毅 - 犬養千代子 … 元芸妓と言われている。。
山県有朋 - 日本橋「吉田屋」大和(吉田貞子)。
陸奥宗光 - 新橋「柏屋」小鈴(小兼とも。陸奥亮子)
木戸孝允 - 京都三本木・幾松(木戸松子)
井上馨 - 新橋・新井武子 … 中井弘の元妻。
桂太郎 - 新橋「近江屋」お鯉 (芸妓)
妾だが正妻病身を理由に実質的な妻として振る舞った。
 芸妓は芸に優れていただけでなく、才女でもあった。だから、多くの明治の政治家か妻にしたのである。

江戸時代が町人経済が発展していくにつれて客層は広がり、芸妓の舞や歌を楽しむ大金持ち、その下のランクの町人は遊女の相手となった。芸よりも性の相手を求める客も増え、そのような客を相手にする芸のない女性も増えた。遊郭は分業化していったのである。
  

Posted by ヒジャイ at 10:39Comments(0)

2019年10月16日

1010空襲と琉球民謡「時代の流れ」



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1010空襲と琉球民謡「時代の流れ」
1010空襲があったが沖縄は復興し明るくなった 民謡「時代の流れ」
私とテルさんがチャンネル桜の日は10月10日だった。米軍が那覇市を空襲した日だった。
那覇市は九割も焼け野原させられた。毎年沖縄の新聞もテレビも10月10日に大きく取り上げるのが那覇空襲集である。那覇空襲について話したが、それだけだとマスメディアと同じである。戦後の沖縄が復興したが、それだけではない。戦前より自由に開放された。そのことを歌にしたのが琉球民謡「時代の流れ」である。





 多くのマスメディアは戦争のひどさを訴えて終わる。しかし、私たちはここからが始まりだった。
「焼け野が原の那覇市を見た人たちは戦後の沖縄の人たちは暗く貧しい生活を送っていただろう予想するだろう。戦後は「米軍の植民地」であったと左翼はいうから左翼の話を信じた人は沖縄の人々が暗く貧しい生活を送っていたと信じているだろうと話し、
「それは事実ではない」
と言い、戦後の経済は復興し戦前の数倍もよくなった。戦後の沖縄は明るく自由になったと言った。その事実を知ってもらうために、沖縄の戦後を象徴する民謡「時代の流れ」を紹介した。
私はウチナー口の詞を共通語に翻訳しながら内容を説明していった。

時代の流れ
一、唐の世から大和の世 大和の世からアメリカ世 ひるまさ変わたるこの沖縄
とーぬゆーからやまとぅぬゆー やまとぅぬゆーから [アメリカ]ゆー ひるまさかわたるくぬうちなー
○唐の世から大和の世、大和の世からアメリカの世、 不思議に変わってきたこの沖縄
二、昔 銭の計算んや一貫二貫どさびたしが今や計算まで変わて
むかせー じんぬさんみんや いっかんにかんどぅさびたしが なまやさんみんまでぃかわてぃ
〇昔のお金の計算は一貫二貫であったが、今は計算まで変わってしまった。
三、昔の那覇の行ち戻いん 歩つちる我たや行ちゃびたしが 今や居ちょて行ち戻い 昔の面影むるねらん
んかしぬ なーふぁぬ'いちむどぅいん'あっちるわったーや'いちゃびたしが なまや'いちょーてぃ'いちむどぅい んかしぬ'うむかじ むるねーらん
○昔の那覇の行き来は歩いて我々は行き来したが、今は座ったまま(バス)で行き来する。昔の面影はまったく無い。
四、昔年老と若さしや着物の模様しど分かさびたる今や差し分ちきららん 親子 むるっ子 ちゆとんちゅ
んかし とぅしゅいとぅわかさしや ちんぬ'あやっしどぅわかさびたる なまやさしわかちきらん 'うやっくわ むるっくわ ちゅとぅしんちゅ
○昔は年寄りと若いのは着物の模様で分別できたが 今は区別できない 親子も皆んな同い年だ。
五、昔女のたしなみや、髪の長さしでえびたる 今や昔とうち変て 生いとる髪んうしちみやい パーマネントしけえちじゅらち まーん変わらん鳩の巣
んかしうぃなぐぬたしなみや からじぬ ながさっすぃ でーびたる なまや んかしとぅ'うちかわてぃ みーとぅーるからじん 'うしつぃみやい パーマネントっし けーつぃじらち まーんかわらん ほーとぅぬすぃー
○昔は女のたしなみは髪のる長さであったが、今は昔とすっかり変わって生えている髪をばっさり切ってパーマネントにして神を縮らせている。鳩の巣とちっとも変わらない。
六、あど高靴小やけえくまい ウンブイコーブイ歩つちゆしや すっとん変わらん風吹ち鳥
'あどぅだかぐつぐわーやけーくまい 'うんぶいこーぶい 'あっちゅすぃや すっとぅんかわらん かじふちどぅい
○かかとの高い靴(ハイヒール)を履いて、よたよたよろよろ歩くのは強風の時に富んでいる鳥とまったく変わらない。
七、タイトスカートけえ着やい ちんしやとがらち尻まぐらち まーん変わらん七面鳥
タイトスカートけーちやい ちんしーやとぅがらち つぃびまぐらち まーんかわらんしちめんちょー
○タイトスカートを着て、膝を曲げてとがらし、尻を右左に揺らして歩くのは七面鳥とちっとも変わらない。
八、何時まで心や十七、八、眼の子の達の合点さん 自然とまぐりて行ちゃびんで
'いちまでぃくくるやじゅうしちはち みーぬっくわぬたーぬがってぃんさん しじんとぅまぐりてぃ'いちゃびーんでー
○いつまでも心は十七、八だが、 眼のある子たちが納得しない 自然にまかせて生きていこう。

 パーマ、ハイヒール、タイトスカートの女性を皮肉っているが滑稽さがあり雰囲気は明るい。自由で平等になった沖縄を感じさせる琉球民謡である。戦後の沖縄は左翼のいう軍事植民地ではなく、自由で明るい沖縄だったのだ。
 このことを知ってほしくて時代の流れの詞を説明した。
  

Posted by ヒジャイ at 11:26Comments(0)

2019年10月15日

香港を第二のハンガリーにしてはならない

香港を第二のハンガリーにしてはならない
 見たい番組がなかったので、チャンネルを変えていたがNHKの画面になった時止めた。番組はすでに始まっていた。教室の高校生が映り、ナレーターか「ハンガリーの犠牲者のために2分間の黙とうを捧げた・・・・」と話していた。私は「ハンガリーの犠牲者」と聞いた途端にそれがなんのことか分かったし、番組に興味を持った。
時代は1956年、場所は東ドイツの高校だった。高校生が教師に許可なく理由も説明しないで授業中に2分間の黙とうをしたことが問題になり、黙とうの目的、主導者ば誰かを厳しく問い詰められていった。番組は冷戦下の東ドイツで起きた高校生19人の2分間の黙とうとその後を追ったものだった。
ネットで調べると、そのことが映画化されていた。NHKは映画化を知って番組を作ったのだろう。
映画は『僕たちは希望という名の列車に乗った』である。この映画はまだ東ベルリンと西ベルリンを分ける壁ができる前のことである。ベルリンの壁ができたのは1961年であったらしい。それまでは東西ベルリンは自由に行き来できた。1956年には壁はなかったのだ。私は初めて知った。


ベルリンの壁がなかった1956年に東ドイツのスターリンシュタット(現在のアイゼンヒュッテンシュタット)の高校に通うテオとクルトが、西ベルリンに行って映画を見た。映画の合間のニュースで二人はハンガリーの民衆蜂起を伝えるニュース映像を目の当たりにした。
クラスの中心的な存在であるふたりは、級友たちに呼びかけて授業中に2分間の黙祷を実行し た。それは自由を求めるハンガリー市民に共感した彼らの純粋な哀悼だったが、ソ連の影響下に置かれた東ドイツでは社会主義国家への反逆と見なされる行為だった。
やがて当局が調査に乗り出し、人民教育相から直々に一週間以内に首謀者を告げるよう宣告された。もし、首謀者を告げなければ彼らは高校を退学させられ大学進学の道が断たれる。生徒たちは人生そのものに関わる重大な選択を迫られたのである。大切な仲間を密告してエリートへの階段を上がるのか、それとも信念を貫いて大学進学を諦め、労働者として生きる道を選ぶのか・・・・。彼らは過酷な選択を迫られた。
人生のすべてを懸けて下した彼らの決断は黙秘することだった、 脅しにも負けず大人たちに抗う彼らであったが、クラスのみんなを犠牲にすることに耐えきれず、リーダーの一人は自分がリーダーであると白状する。白状した彼は東ドイツでは一生虐げられた生活をしなければならない。彼は両親と別れて一人で西ドイツに亡命する。NHKではその後の彼らが大学に進学し、エリートの道を歩んだことも描いていた。
 
ハンガリー動乱は60年以上も前のことであり、しかもハンガリーだから知っている人はほとんどいないのではないだろうか。私は学生運動に参加し、しかも革マルだったからハンガリー動乱のことを知っている。ハンガリー動乱は革マルを誕生させたという歴史もある。

ハンガリー動乱
 ハンガリー動乱は、1956年にハンガリーで起きたソビエト連邦の権威と支配に対する民衆による全国規模の蜂起のことである。ハンガリー事件、ハンガリー暴動、ハンガリー革命ともいう。
第二次大戦直後にハンガリーでは国民選挙が行われた。独立小農業者党が大勝しハンガリー第二共和国が成立した。ティルディ・ゾルターンが大統領となった。しかし1947年にソ連軍を後盾とする共産党がクーデターをおこし、ヨシフ・スターリンに忠実だったラーコシ・マーチャーシュが全権を握った。それは共産党による代議制民主主義の破壊である。

共産党独裁のハンガリーの経済は悪化し。1952年には7割まで労働者の給料が急速に落ち込んだ。労働者の不満は工場の自主管理と労働組合の結成の自由の要求という形となり、それはサッカー場での暴動という形で現れた。また、農民たちも政府の強制的な集団化によって悲惨な状況にあり、農地の私有と耕作の自由を要求していた。共産党独裁国家では農地も工場もすべて国の所有である。
ハンガリーの国内問題を見直そうとする動きが学生やジャーナリストの間に広がった。スターリン主義者のゲレー・エルネーが選出されたが、これに反発した市民は集会禁止令にも関わらず、ブダペストで大規模なデモを行なった。そして、民主主義を求める労働者、市民とソ連軍の戦いになった。
武力に勝るソ連軍によって労働者、市民の蜂起は鎮圧され、およそ1200人が処刑され、20万人が難民となって亡命した。

テレビで「ハンガリーの犠牲者」と言った瞬間に犠牲者とはハンガリー動乱の時に犠牲になった人々のことであることを知っていた。ハンガリー動乱とは社会主義の独裁政治に反対した労働者が蜂起したことである。ハンガリー革命ともいう。蜂起はハンガリー軍ではなくソ連軍により鎮圧された。その時に数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となり国外へ逃亡した・・・と学生の時に聞いていた。ハンガリーの市民、労働者の放棄こそが本当の革命である考えていた私は、労働者の蜂起を否定した共産党や社会党には反発した。

ハンガリー動乱は日本の共産主義者に大きな影響を与えた。ハンガリー動乱で労働者の蜂起を弾圧したソ連を批判したのが黒田寛一たちであった。彼らはソ連を批判し、日本共産党もソ連を批判するべきであると幹部に要求したが幹部は軍の弾圧を容認した。
宮本顕治が党中央委員会の多数派を占める日本共産党は、ソ連の武力介入を機にハンガリー事件について、蜂起した市民、労働者を反革命家とした。
黒田寛一はハンガリー事件に対しソ連を擁護した社会党や日本共産党と絶縁した。黒田はこの後「革命的マルクス主義」という独自の思想を展開し、その実践として「日本革命的共産主義同盟」を創設し、新左翼の先駆けとなった。革共同は「反帝国主義・反スターリン主義を掲げていた。米国は帝国主義、ソ連はスターリン主義であるとして米国、ソ連を打倒するのを目指していた。革共同は革マル派と中核派に分裂する。

ソ連が崩壊すると、ハンガリーは多党制に基づくハンガリー第三共和国を成立した。1990年代にはヨーロッパ社会への復帰を目指して改革開放を進め、1999年に北大西洋条約機構 (NATO) に、2004年に欧州連合 (EU) に加盟した。

ハンガリー動乱は60年以上も前のことであり社会情勢は現在の香港と違うが香港の運動はハンガリー動乱と同じように社会主義を否定して民主主義社会を目指した闘いだ。
ハンガリーの民主主義運動はソ連の軍隊に潰されたが、香港の民主主義運動はハンガリーの二の舞になってはならない。香港の市民運動の敗北は民主主義の敗北である。勝利するのは困難であるが達成しなければならない。。
習近平国家主席は、「中国のいかなる地域で分裂を図るいかなる者も打ち砕かれるだけだ」といった。反政府抗議活動が続く香港などの問題で習氏は強硬姿勢を改めて鮮明にしたとマスメディフは報道した。しかし、ハンガリー動乱のように中国軍で弾圧すれば世界から非難されるだろう。中国は経済を発展させ、一帯一路を展開しなければならない。だから他国とは仲良くしなければならない。世界二位の経済大国になった中国は軍事力を簡単に使えなくなった。天安門事件のように軍事力を使えないのが習政権の弱点である。軍事力以外のあらゆる手を使って香港の民主主義運動潰しをしてくるだろうが香港のデモは香港中を這いずり回り、潰されても潰されてもアメーバーのように蘇生し続ける。香港の民主主義アメーバーは中国本土にも侵入し這いずり回るようになるだろう。
  

Posted by ヒジャイ at 20:45Comments(0)

2019年10月14日

新基地建設は一か所もない デニー知事の「新基地反対」訪米は無効である 

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新基地建設は一か所もない デニー知事の「新基地反対」訪米は疑問 
 玉城デニー知事は新基地建設に反対する沖縄の民意と、米軍基地を過重に負担する現状を伝えるために渡米するという。え、沖縄で新基地建設をしているって?。 秋縄で新基地を建設している場所はない。辺野古の建設は新基地ではなく普天間飛行場の移設を目的とした建設である。「新」ではなく「移設」である。それに「基地」ではない。「飛行場」である。私たちは普天間基地とは言わないで普天間飛行場という。辺野古に普天間飛行場を移設するのだから「新基地」建設ではなく「移設飛行場」建設であり、移設飛行場建設である。
 デニー知事は普天間飛行場の辺野古移設のための飛行場建設を左翼と同じように「新基地建設」と決めつけている。デニー知事は知事である。左翼活動家ではない。県民の選挙によって選ばれた公的存在である。公的存在であるのだから知事として米国訪問するのだから、辺野古飛行場建設を正確に伝える義務がある。左翼がでっちあげた「新基地」という嘘を言うべきではない。ところがデニー知事は嘘をつくのである。左翼にがんじがらめにされたデニー知事だからしようがないといえばしようがないが。
 
玉城知事は在沖米海兵隊の分散移転計画法案の確定前に訪米し、在沖海兵隊の配置見直しを直訴し、新基地建設の阻止につなげたい考えという。県幹部は「訪米と法案協議が重なるタイミング。上院案を基に、辺野古の見直しを訴えるチャンスだ」と意義を強調している。お笑いである。
デニー知事は二回目の渡米である。二回目は一回目よりも効果があり、交渉する相手が高い地位であるのが当然であると思うのが普通である。
ところが訪米して米政府関係者と面会する予定ではあるが相手は決まっていない、前回は国務省次官補に次ぐマーク・ナッパー次官補代理が対応した。日本政府関係者は「前回は、初訪米という配慮が日米にあった」と解説。「今回は面談相手のクラスが下がるだろう」という見通しだ。前回でも法案協議とは関係のない官補代理にしか会えなかったが、今回は次官補代理よりも隠下になりそうである。法案協議をする政治家に会えればデニー知事の意向の反映に期待を持てるが協議になんの影響も与えることができない次官補代理以下の人物に会うのであれば例え会えたとしても法案反映はない。それははっきりしている。そもそも、面談する相手が決まっていないのに訪米するのはおかしい。相手が決まっても法案に反映させることができるか否かの判断をしなければならない。反映する能力のないような人物が相手なら訪米はやめるべきである。相手が決まっていないのに訪米するのはとんでもないことである。

デニー知事の訪米は米政府関係者、米連邦議会議員との面談や、有識者との意見交換、大学での講演を予定しているが辺野古移設見直しを要求できる政府閣僚や法案競技者に会えない。せいぜい有識者との意見交換、講演でお茶を濁すだけの訪米である。辺野古移設阻止のための訪米というより、訪米の様子をマスメディアに掲載させて、県民に訪米をアピールするための訪米でしかない。アピール政治である。
訪米は県の左翼が敷いたレールであり、デニー知事はレールに乗っているだけである。全国トークキャラバンと同じように。
  

Posted by ヒジャイ at 14:36Comments(0)

2019年10月14日

新基地建設は一か所もない デニー知事の「新基地反対」訪米は無効である 

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新基地建設は一か所もない デニー知事の「新基地反対」訪米は疑問 
 玉城デニー知事は新基地建設に反対する沖縄の民意と、米軍基地を過重に負担する現状を伝えるために渡米するという。え、沖縄で新基地建設をしているって?。 秋縄で新基地を建設している場所はない。辺野古の建設は新基地ではなく普天間飛行場の移設を目的とした建設である。「新」ではなく「移設」である。それに「基地」ではない。「飛行場」である。私たちは普天間基地とは言わないで普天間飛行場という。辺野古に普天間飛行場を移設するのだから「新基地」建設ではなく「移設飛行場」建設であり、移設飛行場建設である。
 デニー知事は普天間飛行場の辺野古移設のための飛行場建設を左翼と同じように「新基地建設」と決めつけている。デニー知事は知事である。左翼活動家ではない。県民の選挙によって選ばれた公的存在である。公的存在であるのだから知事として米国訪問するのだから、辺野古飛行場建設を正確に伝える義務がある。左翼がでっちあげた「新基地」という嘘を言うべきではない。ところがデニー知事は嘘をつくのである。左翼にがんじがらめにされたデニー知事だからしようがないといえばしようがないが。
 
玉城知事は在沖米海兵隊の分散移転計画法案の確定前に訪米し、在沖海兵隊の配置見直しを直訴し、新基地建設の阻止につなげたい考えという。県幹部は「訪米と法案協議が重なるタイミング。上院案を基に、辺野古の見直しを訴えるチャンスだ」と意義を強調している。お笑いである。
デニー知事は二回目の渡米である。二回目は一回目よりも効果があり、交渉する相手が高い地位であるのが当然であると思うのが普通である。
ところが訪米して米政府関係者と面会する予定ではあるが相手は決まっていない、前回は国務省次官補に次ぐマーク・ナッパー次官補代理が対応した。日本政府関係者は「前回は、初訪米という配慮が日米にあった」と解説。「今回は面談相手のクラスが下がるだろう」という見通しだ。前回でも法案協議とは関係のない官補代理にしか会えなかったが、今回は次官補代理よりも隠下になりそうである。法案協議をする政治家に会えればデニー知事の意向の反映に期待を持てるが協議になんの影響も与えることができない次官補代理以下の人物に会うのであれば例え会えたとしても法案反映はない。それははっきりしている。そもそも、面談する相手が決まっていないのに訪米するのはおかしい。相手が決まっても法案に反映させることができるか否かの判断をしなければならない。反映する能力のないような人物が相手なら訪米はやめるべきである。相手が決まっていないのに訪米するのはとんでもないことである。

デニー知事の訪米は米政府関係者、米連邦議会議員との面談や、有識者との意見交換、大学での講演を予定しているが辺野古移設見直しを要求できる政府閣僚や法案競技者に会えない。せいぜい有識者との意見交換、講演でお茶を濁すだけの訪米である。辺野古移設阻止のための訪米というより、訪米の様子をマスメディアに掲載させて、県民に訪米をアピールするための訪米でしかない。アピール政治である。
訪米は県の左翼が敷いたレールであり、デニー知事はレールに乗っているだけである。全国トークキャラバンと同じように。
  

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2019年10月12日

慰安婦問題に完全決着をつける3



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慰安婦問題に完全決着をつける3明治以後も日本遊女韓国妓生はは性奴隷だった
 慰安婦問題に完全決着をつける。今までずるずると慰安婦=性奴隷が正当化されてきた原因は封建時代の舞妓、妓生を含んだ遊女たちが性奴隷であったことを解明しなかったことにある。封建時代から調べなければ慰安婦=性奴隷が間違っていることを説明することができない。
慰安婦=性奴隷は間違っていることを日本国民に説明することは重要であるしろ、今まで十分な説明ができていない。
日本で慰安婦=性奴隷を完全に粉砕するつもりだ。

「少女慰安婦像は韓国の恥である」で日本、韓国の封建時代の舞妓、妓生や遊郭などの女性のほとんどは少女の時に買われた性奴隷であったという説明が不足していた。封建時代には性奴隷であったことを説明する必要があるが、それだけでは足りない。封建時代の次の明治時代でも遊郭の女性は性奴隷であったのは歴史的事実である。この説明も足りなかった。
娼妓取締規則が施行されたのは明治三十三年である。つまり三十三年間の日本の社会では封建時代の性奴隷のシステムは容認されていたのである。そして、娼妓取締規則が施行されたが、それが社会に浸透するのには時間がかかった。特に沖縄では娼妓取締規則は全然浸透していなかった。
 子供の頃に母が話したことであるが、戦前は親のいうことを聞かない男の子には「糸満売り」すると脅したそうだ。すると男の子はおとなしくなり親のいうことを聞いたそうである。「糸満売り」とは糸満の漁師に少年を売ることである。売られた少年は漁のやり方を教えられるが、泳ぎを教える時は縄で子供の腹を縛って泳ぐことができなくても海に放り投げたそうだ。少年が海水を飲み死にそうになっても、何度も海に放り逃げたという。だから少年たちは「糸満売り」を怖がった。
女の子は「ジュリ売り」をするぞといったそうだ。ジュリ売りされると遊ぶ自由はなくなり、歌や踊りの厳しい訓練の毎日である。ジュリ売りすると言えば女の子はおとなしくなったそうだ。
ジュリとは遊女をさすことばである。近世から那覇の辻(つじ)(方音チーヂ)や仲島、渡地(わたんじ)は遊廓(ゆうかく)として発展したが、ジュリはそこの遊女をさして使われた。
戦前の沖縄には「糸満売り」「ジュリ売り」があった。
私は二十年ほど前に糸満売りをされたという男性にあった。私の家の前には400坪のほどの荒れ地があった。荒れ地を地主から無料で借りて畑にしたおじさんがいたが、彼は与那国から糸満に売られたと言っていた。

 八歳の時に辻にジュリ売りされた有名な民謡歌手がいる。名前を糸数カメという。彼女は1915年6月26日に生まれ、八歳の時に辻に売られた。大正12年である。糸数カメは戦後は民謡歌手として活躍した。彼女は民謡だけでなく踊りの達人でもあった。

 

辻とは遊郭のことであり、糸数カメは八歳から歌、踊り、三味線の英才教育を受けた。ポスターに「古典芸能を土台に諸芸能を取り組み」と書いてあるが、それは糸数カメだけでなく、全ての辻の少女が古典芸能を土台に諸芸能を取り組んだのである。その中でも糸数カメは優秀だったのだ。だから戦後は民謡歌手として活躍した。
 私が糸数カメを知ったのはユーチューブとグーグルのお陰である。戦前の民謡で軍人節というのがある。若い頃に何度も聞いたが民謡に興味のない私は聞き流していた。軍人節は反戦歌と言われている。しかし、戦前に反戦歌などなかったはずである。軍人節の詞の内容をしりたくなった。ユーチューブでは聞きたい歌を探せるので軍人節を探して聞いた。私の聞いた軍人節は嘉手苅林昌と糸数カメのデュエットだった。

軍人節
作詞・作曲 普久原朝喜
(夫)無蔵と縁結で月読みば僅か 別れらねなゆみ 国の為でむぬ 思切りよ思無蔵よ
○貴女と縁を結んで(の)日々を数えると僅か(しかない) 別れなければなるまい 国の為であるから あきらめよ 愛する貴女よ
(妻)里や軍人ぬ 何んち泣ちみせが 笑て戻いみせる御願さびら 国の為しちいもり
○貴方は軍人になったのです。なぜ泣くのですか。(私はあなたが)笑ってお戻りくださることをお願いします 国の為(に)軍人としてしっかりと働いてきて来てください。
(夫)軍人の務め我ね嬉さあしが 銭金の故に哀りみせる母親や如何がすら
○軍人の務めをするのは誇りであるし、嬉しいのだが、(私が居なくなると生活の)お金のために苦労される母親はどうなるのか(心配だ)。
(妻)例え困難に繋がれて居てんご心配みそな 母の事や思切みそり思里前
○例え困難に縛られていても ご心配なされないで母のことは 思いを切ってください。 あなた。 
(夫)涙ゆい他に云言葉やねさみ さらば明日ぬ日に別れと思ば 此の二人や如何がすらなみ
○涙以外に言葉はない 明日に日には別れなければならないこの二人はどうなるのだろうか。

 糸数カメの歌を聞いた時、彼女の声が他の民謡歌手とは違っているのに気が付いた。民謡歌手は地声で歌うが、彼女の声はオペラ歌手のように鍛え上げた声をしているのだ。糸数カメの声を聞いて頭に浮かんだのが淡谷のり子であった。糸数カメの声は他の民謡歌手と比べて上品な声をしていた。糸数カメに興味を持ちグーグルで調べた。それで糸数カメが八歳の時に辻に売られたことを知った。

 封建時代に存在していた子供の売買は明治時代になってもなくなることはなく続いていたのだ。沖縄では昭和になっても続いていた。その証拠として糸数カメのジュリ売りがある。本土でも娼妓取締規則を守らないで女の子の売買はあっただろうし遊女を性奴隷にしている遊郭は多かったはずである。

 1910年韓国併合があり、日本が韓国を統治するようになった。四民平等と法治主義を韓国にも適用したのが日本政府である。1916年に妓生や酌婦、芸妓などの遊女を奴隷から解放する貸座敷娼妓取締規則を施行したが、それは明治政府が一方的に韓国に押し付けた法律であり法律を守ろうとする韓国人はいなかったはずである。今までの歴史的伝統である性奴隷システムをしっかりと続けていたはずだ。
貸座敷娼妓取締規則を施行してもそれを守る業者は少なかった。それは沖縄も同じだ。日本兵相手の遊郭のほとんどの娼婦は業者に買われた性奴隷だったのだ。慰安婦問題で民間の娼婦のことが出てこい。不思議であるし、そのことが慰安婦が性奴隷ではないことの証明を阻んでいる。
慰安婦は日本軍が管理した娼婦であるが実際は慰安婦より民間の娼婦が多かったはずである。民間の娼婦が出してこないことが慰安婦は性奴隷ではなく売春婦であったことの証明が出ない根本的な原因である。
慰安婦問題で絶対に譲れないのが日本軍が管理していた慰安所だけは貸座敷娼妓取締規則の法律が適用され、慰安婦は職業婦人としての娼婦であったことだ。
唯一慰安婦だけは性奴隷でなかった。ところが日本政府はこの事実を認識することができないようである。政府だけでなく慰安婦は売春婦だと主張する日韓の識者や学者も同じである。
民間の娼婦が性奴隷であり慰安婦は性奴隷ではなかったことを認識していない日本政府は裁判でドジを踏む。
 韓国遺族会裁判(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件)で、裁判所に提出した金学順の略歴を見れば彼女が慰安婦でなかったことは明白であるのに日本政府は「金学順は慰安婦ではなかった」ことを立証し、主張することができなかったのだ。
もし、金学順が慰安婦であったなら、自分の意思で慰安婦になったこと、父母も賛成したことの書類を警察に提出していた。そして、慰安婦としての報酬をもらっていた。慰安婦であったと主張するならば金学順はそのことを認めなければならなかった。認めなければ慰安婦ではなかったということだ。
金学順は妓生に40円で売られている。ということは彼女は妓生になっていた。40で売られた金学順は性奴隷の世界からことは不可能だった。妓生に売られたことで慰安婦ではないことは決まっていた。。
慰安婦ならば韓国で応募して、日本軍が指定した場所に報酬や生活を管理する楼主が連れて行ったはずである。ところが妓生を管理している養父に連れられて中国に行ってから慰安婦になったといっている。慰安婦ならありえないことである。明らかに金学順は慰安婦ではない。性奴隷の妓生である。彼女の居た場所は慰安所ではなく民間の韓国人が経営する遊郭であった。日本兵相手の売春をやったとしても慰安所以外の場所での売春であった。
 金学順が慰安婦ではなかったこと。日本軍は関わっていなかったことを日本政府は立証するべきであったのにしなかった。日本政府自体が慰安婦と妓生などの民間の売春婦を区別することができなかったことがずるずると今日まで慰安婦問題が続き、慰安婦=性奴隷の主張を否定することができていないのである。
 政府たけではない。識者や学者も慰安婦が性奴隷ではないことの証明ができていない。封建社会であった江戸時代や大韓帝国時代の遊女は性奴隷だった。明治政府、韓国併合以後に性奴隷から解放する法律はできたが、民間では封建時代の慣習が続き、遊女の性奴隷が多かった。唯一国家機関である日本軍は法律を守り、遊女を性奴隷から解放した。唯一慰安婦だけは性奴隷ではなかった。

 慰安婦は売春婦だったと主張する日韓の学者たちは慰安婦は売春婦だったと主張するだけである。性奴隷ではなかったという証明はしていない。そもそも彼らは左翼と同じように性奴隷の定義をしていない。
 奴隷とは売買される人間のことである。舞妓も妓生も遊女も売られた少女である。だから彼女たちは奴隷であった。
 奴隷には選択の自由がない。彼女たちは自分の意思で辞めることはできなかった。だから奴隷である。しかし、慰安婦は自分の意思で辞めることができるから奴隷ではない。
 娼妓取締規則は売買を禁止しているし、慰安婦は自分の意思で慰安婦になることを決める。止めることもできる。だから奴隷ではない。
 奴隷には報酬がない。しかし、慰安婦には報酬がある。だから借金を返済するために慰安婦になり、借金を返済した後に慰安婦を辞める女性もいた。
 このような事実を知れば慰安婦が性奴隷ではなかったことが理解できる。性奴隷だったのは封建時代の慣習を続けた民間の娼婦だったのだ。
 元慰安婦を名乗っている女性たちはみんな民間の娼婦であった。日本軍が管理する慰安所の慰安婦ではなかった。
  

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2019年10月09日

日本の舞子、遊女 韓国の妓生、酌婦は性奴隷だった



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封建時代は売春婦=性奴隷であった その認識のない日韓学者の愚かさ2
日本の舞子、遊女 韓国の妓生、酌婦は性奴隷だった

妓生 (きしょう、기생、キーセン)
諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露したり、性的奉仕などをするために準備された奴婢の身分の女性(「婢」)。妓生は舞子と同じように少女に時に買われ、楽着を英才教育させられたのである。妓生も性奴隷であった。
遊女
 舞子や妓生に比べ芸はの質は低く酌婦とセックスを中心に客の相手をしたのが遊女であった。舞妓や妓生が身分の高い武士や大金持ちの承認を客にしていたのに比べ遊女は身分の低い武士や町人を客にした。彼女たちは吉原を中心に働いていた。時代劇によく出てくるのが吉原である。
 遊女は色々な事情で売られて吉原に来た女性たちである。
・農村・漁村などの貧しい家庭の親が、生活難のため娘を妓楼に売る。妓楼とは吉原の表通りにあった建物で遊女が客の相手をする建物である。
・貧しい下級武士の家の親が生活難のため娘を妓楼に売る
・不況や事業の失敗などで没落した商家の親が借金のカタに娘を妓楼に売る
・悪い男にダマされて若い娘が妓楼に売られる。

金額に関しては、農村部での場合、3~5両(現在のおよそ30~50万円)で幼女を女衒が買ったという記録があります。下級武士の娘の場合だと18両(およそ180万円)で買われたという記録がある。

年季は最長10年で27歳(数えで28歳)で年季明けとなり晴れて自由の身になれるのが原則であった。
 遊女は買われたのである。買われたということは妓楼主の私有物となる。私有物だから給料はなかった。だから自身が売られた時の代金は自分の借金となっていたが遊女の時は収入がなかったから返済することはできなかった。自分の着物や髪飾り、化粧品などは妓楼主が与えた。曲芸をするサルや犬と同じである。生活のための物は与えられたが彼女たちが自由に使える給料は与えられなかった。この吉原のシステムのために借金はまったく減らなかった。働いても働いても楽にならずであった。二十八歳になれば遊女としての価値がなくなる。だから年季明けにして吉原から追い出したのである。吉原から追い出された遊女は一人で生きていかなければならなかった。
年季明けになった遊女たちのその後
・そのまま妓楼に残って、「番頭新造」として花魁の雑用をする(原則お客はとらない)。もしくは「遣手(やりて)」として遊女の監視・管理係となる
・吉原のすぐ外にある「河岸見世(かしみせ)」と呼ばれる安い妓楼へ移籍する
・岡場所や宿場の女郎屋などで色を売る
・「夜鷹」と呼ばれる筵(むしろ)1枚を抱え辻に立つ最下級の街娼となる。

吉原を出る方法が年季明け以外に二つあった。一つは吉屋チルーのように死を選ぶことである。
「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば……」のセリフで有名近松門左衛門による大ヒット人形浄瑠璃『曽根崎心中』は大坂で実際に起きた遊女「はつ」と醤油屋の手代との心中事件を題材にした作品である。

死以外に吉原から出る方法は金持ちのお客さんにお金を払ってもらうことである。これを「身請(みうけ)」といった。
 身請代は、その遊女の身代金 + 遊女のこれまでの借金 + これから稼ぐ予定だったお金 + 妓楼のスタッフや遊女の妹分らへのご祝儀 + 盛大な送別会の宴会料 + 雑費などであった。
 身請金は下級クラスの遊女で40~50両(現在の金額でおよそ400~500万円)、中流クラスの遊女なら少なくとも100両(およそ1000万円)、トップクラスの花魁ともなれば1000両(およそ1億円)以上もの身請金を払ったという例もあるほどであった。やはり遊女は商品であり売買でしか決着はつかなかったのである。

 江戸時代の舞子、遊女は金で売買された性奴隷であった。日韓併合する前の大韓国帝国の妓生や酌婦なども性奴隷であった。封建社会では身分制度があり貧富の差は大きかった。そして、奴隷も存在していた。王族や武士階級が支配する封建社会までは奴隷が存在し、実技団や売春婦は性奴隷であったのだ。この歴史的事実を正確に認識しなければ慰安婦問題の真実は見えない。
 最近、痛切に感じることはほとんどの学者が封建時代の性奴隷の問題を追及しないで歴史的な性奴隷の認識なしに慰安婦問題を論じることである。慰安婦が性奴隷か売春婦を論じる前に大韓帝国時代の売春婦は妓生を含めてすべて性奴隷であったことを認識しなければならない。
 明治政府になって「娼妓取締規則」が施行された。この法律は遊女を性奴隷から解放し、職業婦人として認める法律であった。封建社会から近代社会へ移行する象徴的な法律であった。この法律はイギリス人の弁護士の批判なしには生まれなかった。
遊郭を奴隷制度だと非難し、改革させるきっかけになったのがマリア・ルス号事件であった。マリア・ルス号事件をきっかけに明治政府は遊女を奴隷から解放する。
マリア・ルス号事件
一八七二年(明治五年)七月九日、中国の澳門からペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス号が横浜港に修理の為に入港してきた。同船には清国人(中国人)苦力(クーリー)二三一名が乗船していたが、数日後過酷な待遇から逃れる為に一人の清国人が海へ逃亡しイギリス軍艦(アイアンデューク号)が救助した。そのためイギリスはマリア・ルス号を「奴隷運搬船」と判断しイギリス在日公使は日本政府に対し清国人救助を要請した。
知っている通り明治政府は四民平等を宣言した。四民平等は奴隷制度を否定している。そのため当時の副島種臣外務卿(外務大臣)は大江卓神奈川県権令(県副知事)に清国人救助を命じた。しかし、日本とペルーの間では当時二国間条約が締結されていなかった。このため政府内には国際紛争をペルーとの間で引き起こすと国際関係上不利であるとの意見もあったが、副島は「人道主義」と「日本の主権独立」を主張し、マリア・ルス号に乗船している清国人救出のため法手続きを決定した。

マリア・ルス号は横浜港からの出航停止を命じられ、七月十九日(八月二十二日)に清国人全員を下船させた。マリア・ルス号の船長は訴追され、神奈川県庁に設置された大江卓を裁判長とする特設裁判所は七月二十七日(八月三十日)の判決で清国人の解放を条件にマリア・ルス号の出航許可を与えた。だが船長は判決を不服としたうえ清国人の「移民契約」履行請求の訴えを起こし清国人をマリア・ルス号に戻すように訴えた。
この訴えに対し二度目の裁判では移民契約の内容は奴隷契約であり、人道に反するものであるから無効であるとして却下した。ところが、この裁判の審議で船長側弁護人(イギリス人)が、
「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」
として遊女の年季証文の写しと横浜病院医治報告書を提出した。
 その頃の遊女は親の借金のかた=抵当として遊女にさせられ、利子代わりつまり無報酬で働かされていた。親が借金を返すまでは遊郭から出ることはできなかった。貧しい親に借金を返済することはできるはずもなく、遊女は一生解放されなかった。それは奴隷同然であり、船長側弁護人の政府批判に明治政府は反論できなかった。痛いところを突かれた明治政府は公娼制度を廃止せざるを得なくなり、同年十月に芸娼妓解放令が出され、娼婦は自由であるということになった。
 この驚くべき事実をほとんどの人が知らないようである。

裁判により、清国人は解放され清国へ九月十三日(十月十五日)に帰国した。清国政府は日本の友情的行動への謝意を表明した。

明治政府は士農工商の身分制度を廃止して四民平等の社会にした。それは奴隷制度の否定でもある。だから、奴隷である清国人(中国人)苦力二三一名を解放したのだ。しかし、奴隷制度を否定している日本が遊女を奴隷にしていると指摘された。そのために明治政府は公娼制度を廃止し、同年十月に遊郭の娼婦たちを自由にする芸娼妓解放令を出さざるを得なくなった。明治政府は一時的ではあるが遊女を完全に自由にしたのである。

明治政府は四民平等政策を推し進めていていったが、売春禁止はやらなかった。四民平等といっても日本はまだまだ男尊女卑の社会だった。それに遊郭からの税収は莫大であったから政府としては簡単に遊郭をやめるわけにはいかなかった。芸娼妓解放令を出した明治政府であったが、遊郭を存続させたいのが本音だったのである。また、遊女を自由にしてしまうといたるところで売春ができることになり、それでは世の中が乱れてしまう。四民平等=奴隷否定と遊郭の問題で明治政府は苦心する。
明治五年に遊郭の遊女は奴隷であると指摘されて芸娼妓解放令を出してから二十八年間試行錯誤を積み重ねていった明治政府は明治三十三年に「娼妓取締規則」を制定するのである。


一八八九年(明治二十二年)、内務大臣から、訓令で、これより娼妓渡世は十六歳未満の者には許可しないと布告された。

一八九一年(明治二十四年)十二月までは士族の女子は娼妓稼業ができなかったが、内務大臣訓令によりこれを許可するとした。

一九〇〇年(明治三十三年)五月、内務大臣訓令により、十八歳未満の者には娼妓稼業を許可しないと改正された。

一九〇〇年(明治三十三年)十月、内務省令第四十四号をもって、娼妓取締規則が施行された。これによって、各府県を通じて制度が全国的に統一された。

昭和四年には、全国五一一箇所の遊廓において貸座敷を営業する者は一万一一五四人、娼妓は五万五十六人、遊客の総数は一箇年に二二七八万四七九〇人、その揚代は七二二三万五四〇〇円であった。

マリア・ルス号事件を体験した明治政府が「娼妓取締規則」を作るにあたって、最も注意を払ったのは公娼は本人の自由意志で決める職業であり奴隷ではないということであった。そのことを示しているのが娼妓取締規則の条文にある。

第三条に、娼妓名簿に登録する時は本人が自ら警察官署に出頭し、左の事項を書いた書面を申請しなければならないと書いてある。娼妓になるのは強制ではなく本人の意思であることを警察に表明しなければならなかったのである。

第十二条に、何人であっても娼妓の通信、面接、文書の閲読、物件の所持、購買其の外の自由を妨害してはならないと書いてある。娼妓の自由を保障している。

第十三条の六項では、本人の意に反して強引に娼妓名簿の登録申請又は登録削除申請をさせた者を罰すると書いてある。
娼妓の住まいを限定する一方で行動の自由を保障しているから娼妓は奴隷ではないと明治政府は主張したのである。娼妓が奴隷ではないということは四民平等を宣言した明治政府にとって近代国家として世界に認められるかどうかの深刻な問題であった。

多くの評論家が、明治政府が売春婦を性奴隷にさせないために「娼妓取締規則」を制定したという肝心な事実を軽視している。

韓国の自称元慰安婦たちが日本軍に性奴隷にされたと日本政府を訴えているが、戦前の日本政府と日本軍は「娼妓取締規則」を遵守し性奴隷をなくすために努力していた。法治国家であった日本にとってそれは当然のことである。
日本軍が強制連行をやり性奴隷にしたという自称元慰安婦たちの主張は明治政府の四民平等と法の精神を踏みにじるものである。
      「少女慰安婦像は韓国の恥である」
  

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2019年10月08日

笑ってしまう 「表現の不自由展・その後」が「鑑賞の不自由展・現在」に

笑ってしまう 「表現の不自由展・その後」が「鑑賞の不自由展・現在」に
愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」は8日午後2時10分に再開した。ところが見学するのは不自由なのだ。鑑賞したい人全員が鑑賞できるわけではない。
1回あたり30人に限られ、一日にたった2回である。その上解説する教育プログラムを受けなければならない。鑑賞する前に教育されるのだから自由な鑑賞ではなく、洗脳鑑賞である。芸術の一番大切なことは自由な気持ちで鑑賞することである。「表現の不自由展・その後」は不自由な鑑賞展である。

鑑賞に来た人々は愛知芸術文化センターの中で長い列を作り、番号が書かれたリストバンドを受け取った。芸術祭の担当者によると、その後、コンピューターによる抽選で30人が選ばれた。倍率はなんと20倍であり、20人の中のたった一人しか鑑賞できない。
自由な気持ちで鑑賞することができず、自由に鑑賞することができないのが「表現の不自由展・その後」である。正真正銘の「鑑賞の不自由展・現在」である。不自由に満ち溢れた「表現の不自由展・その後」には笑ってしまう。

報道では少女慰安婦像を問題にしているがそれよりも問題であるのは「昭和天皇の写真を焼き、足で踏みつけるような映像作品の公開」である。少女慰安婦像よりも昭和天皇の写真焼きのほうが日本国民には分かりやすい問題である。 
抗議電話をした愛知県民は、主に昭和天皇の御真影を燃やしていることについて抗議したにもかかわらず、愛知県は勝手に昭和天皇に関する部分をカットし、所謂「少女像」に関する部分だけの音声を全世界に向けて公開した。昭和天皇写真焼きが伏せられたのである。愛知県と同じようにほとんどの報道は少女慰安婦像についてだけ報道している。ほとんどのマスメディアは国民がもっとも反発し怒るであろう昭和天王写真焼きを隠しているのである。

夕刊フジは、
「昭和天皇の写真を焼き、足で踏みつけるような映像作品の公開への税金投入をどう思いますか」
の世論調査をした。
(投票、約66590票)
〇賛成3%
〇反対94%
〇どちらでもない3%

反対が94%と圧倒的に多い。当然のことである。
「鑑賞の不自由展・現在」は税金を使って展示すべきものではない。]

河村市長「やめてくれ」 不自由展再開に抗議の座り込み
2019/10/08 15:22


愛知県庁の前に座り込み、抗議の声をあげる名古屋市の河村たかし市長=2019年10月8日午後2時35分、名古屋市中区、岩尾真宏撮影
(朝日新聞)
 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の再開を受けて、河村たかし名古屋市長は8日、不自由展の会場の名古屋市東区の愛知芸術文化センター前で、再開に抗議する座り込みをした。
 河村氏は自らが率いる地域政党「減税日本」の市議や愛知維新の会の幹部ら数十人が集まる抗議集会に午後1時56分に姿を見せた。河村氏は、愛知県や市などでつくる実行委員会が芸術祭を主催することから展示内容を県民や国民が認めることになるとして「表現の自由に名を借りて、世論を暴力的にハイジャックするのはやめてくれ」などと訴えた。
 その後、「陛下への侮辱を許すのか!」と書かれたプラカードを手に約5分間座り込みをし、集会に参加した人たちの「県は公金の不正使用を認めるな」「知事は名古屋市民の声を聞け」「天皇の御真影を燃やすな」との呼びかけと共に拳を突き上げた。
 午後2時半には、愛知県庁前に移動し、シュプレヒコールをあげた。河村氏は「愛知県に抗議したい」と述べ、「昨日も(愛知県の大村秀章)知事に電話したが、勝手に再開を決めてとんでもないことですわ。暴力もはなはだしい。そんな人が何が表現の自由だ。いい加減にしてもらいたい」と訴えた。県庁前の路上に座り込み、「県は市との協議に応じろ」と拳をあげた。
 河村氏は8日午前に不自由展を視察した後、記者団の取材に「再開をやめてもらわないかん」と改めて展示中止を訴えていた。

  

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2019年10月08日

「マスクを着ける権利ある」香港デモ覚悟の抗議

「マスクを着ける権利ある」香港デモ覚悟の抗議

香港デモ動画


警察との衝突
「これまで香港では、平和的なデモで民主化や自由を訴えてきた。でも政府は対応してくれず状況は悪化するばかり。だからこうした行動に出るほかなかった」

英国から解放され、中国に返還されたときは、ようやく自由になったと喜んだが、
「それからの香港は良くなるどころか、悪化するばかりで、英国領時代に許されてきた言論の自由が今なくなろうとしている」

「私たちの多くは、元をたどれば中国人。中国の血を引く香港人がほとんどだ。だから私は、中国人を悪く言おうとは思わない。だが今の中国のように、香港に自由がなくなってしまうのは許せない」。

逃亡犯条例が可決されたら、
「一般市民だし、自分の生活に関わることはないと思う。でもこれが可決されたら、一国二制度が完全になくなってしまうも同然だ」


覆面を禁止する緊急条例が施行された香港では6日、条例を無視して数万人規模の抗議デモが行われ、警察が民主派のデモ参加者に向けて催涙弾を発射する事態となった。そうした中、深水ホ(Sham Shui Po)地区では、タクシーが取り囲む群衆の中に突っ込み、さらにタクシーの運転手が袋だたきに遭い、血まみれとなる騒ぎがあった。
 ウォン(Won)という名字を名乗った目撃者はAFPの取材に対し、「少女2人が車と衝突しはねられ、少女1人が車と商店の間に挟まれた」と説明。群衆は車を何とか押しのけて、負傷した女性から引き離したという。
  

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2019年10月07日

香港は民主主義運動 辺野古は反民主主義運動 違いを認識しよう


 沖縄タイムスの「父母への遺書持ちデモ 香港の学生、民意無視する政府と闘う 現地大学の沖縄出身教員『沖縄の若者も声上げて』」には頭にきた。。
 
タイムス記事
 竹富町小浜島出身で香港理工大学日本語教育のプログラムリーダーを務める松本真澄さん(教育学博士)が本紙の取材に対し、香港政府が中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案撤回を表明した後も「デモは激しくなっている」と話し、緊迫する現地の状況を明らかにした。名護市辺野古の新基地建設反対で闘う沖縄と香港の現状を重ねながら、「沖縄の若い人たちにもっと地元のことに関心を持って、関わってほしい。香港を見習ってほしい」と呼び掛けている。
              沖縄タイムス
 松本真澄さんは香港の五大要求運動と辺野古の飛行場建設反対運動を同一視しているのだ。冗談ではない。香港の五大要求運動と辺野古移設反対運動は全然違う。香港は民主主義の運動であるが辺野古は反民主主義の運動である。
 香港は普通選挙の実現を要求している。普通選挙は沖縄ではすでに実現している。戦後の日本では香港のような民主化運動はなかった。なぜならすでに選挙制度は確立し、三権分立も確立していたからだ。戦後の日本は民主主義国家になっていた。だから香港のような民主化運動は起こらなかった。
 学生運動は資本主義社会を否定し、社会主義国家を目指す運動であった。社会主義は議会制民主主義を否定し普通選挙も否定していた。学生運動は民主主義を否定する社会主義であった。
 辺野古移設反対運動は議会制民主主義を否定した学生運動と同じである。
 日本は議会制民主主義国家であり、法治主義である。辺野古移設は民主主義のルールによって決まった。
・辺野古沖移設が反対運動によって断念。
・県外移設の断念。
・沖縄地元の辺野古移設反対で辺野古移設決まらず。。
・Ⅴ字型滑走路で政府と名護市長が合意。
・辺野古埋め立てで政府と県知事が合意。
・民社党政権になり鳩山首相が県外移設宣言。
・受け入れ自治体は一つもなく県外移設断念。
・2010年民主党政権が辺野古移設決定。
複雑で困難な過程の中で辺野古移設は決まったのである。辺野古移設が決まるまで法律のルールに従った民主的な手続きにのっとっていた。

 現在の辺野古移設反対運動は政府と県、名護市の合意によって実現した辺野古移設を否定していることになる。それは民主的な手続きを否定することであり民主主義を否定することになる。辺野古移設反対運動は左翼による反民主主義運動である。香港の民主主義運動とは根本的に違う。ところが松本真澄さんは香港の民主主義運動と辺野古移設反対運動を同じ運動とみなしている。

松本さんは香港に住んで27年になる。「沖縄のことを常に気に掛けている」とし、オンラインニュースなどで情報を収集する。新基地建設問題について、「日本政府は沖縄県民に寄り添うと言いながら、県民の声を聞こうとしない。これまでの選挙で何度も県民の民意が示されてきたのに」と苦言を呈す。民意を無視する日本政府の姿勢は香港政府と「似ている」と批判する。
               沖縄タイムス
 松本さんは県内の友人や親戚と連絡するときに「辺野古の海を絶対守らないといけないと話し合っているという。辺野古埋め立てを初めて半年になる。大雨や台風が襲ってきたが辺野古の海が汚染されたことは一度もない。辺野古の海を守りながら埋め立てをしているのだ。辺野古の埋立て写真をみれば分かることだ。日本には公有水面埋立法があり、埋め立ての時に汚染することを禁止している。もし、辺野古の海を守るということが汚染されないことであるなら埋め立てをしても辺野古の海は守られている。松本さんの「辺野古の海を絶対守らないといけない」の考えで飛行場建設に反対するのは間違っている。埋め立て現場の写真を見れば分かることである。

「日本政府は沖縄県民に寄り添うと言いながら、県民の声を聞こうとしない。これまでの選挙で何度も県民の民意が示されてきたのに」は左翼が得意とする民意論である。左翼が主張している通り辺野古移設反対の県知事であり、国会議員も多数を占めている。県民投票では7割以上の票が埋め立て反対だった。民意は辺野古移設反対である。ただ、民意といっても県民の民意であって国民の民意ではない。
 米軍飛行場である普天間飛行場を辺野古に移設することは米国政府、日本政府、沖縄県の三者の合意によって決められなければならない。特に地元の沖縄県が賛成しないと決めるとは絶対にできない。県は政府と同等の権利があるのだ。
辺野古移設は三者の合意があって決まった。三者の合意によって決まったのだから辺野古移設を中止するには三者の合意が必要である。沖縄県だけの民意で中止はできない。これが政治の世界の民主主義である。沖縄県だけの民意だけでは三者の辺野古移設合意を破棄できない。それは米国も日本も同じだ。もし、沖縄の民意が優先されるのてあれば沖縄の権利が優先されることになるが、それは不平等であり民主主義の原則に反する。
松本さんは「日本政府は沖縄県民に寄り添うと言いながら、県民の声を聞こうとしない」というが、安倍政権は県民の声をちゃんと聞いている。聞いたうえで普天間飛行場の移設は辺野古しかないことを明言している。辺野古移設が国の民意であるのだ。松本さんは国の民意を聞き入れないで一方的に県の民意を国に押し付けているのである。
こんなやり方は県の選挙で勝つことはできても国全体の選挙では負けているし、行政の安倍政権の政策に勝つことはできない。つまり辺野古移設を阻止することはできない。日本は議会制民主主義国家だからだ。

議会制民主主義の政治を否定している辺野古移設反対運動と香港の市民が普通選挙を求めて闘っている民主主義運動を重ねてあたかも辺野古移設反対運動が香港の民主主義運動のように話す松本さんは日本の議会制民主主義を理解していないし香港の民主主義運動を真剣に考えていない。せいぜい辺野古移設反対運動程度にしか考えていないだろう。香港の民主主義運動を軽視している松本さんである。

松本さんは香港の民主主義運動を辺野古移設反対運動の宣伝に利用しているだけだ。香港のように辺野古移設反対運動も大きい運動に拡大したいのだ。松本さんは、普天間飛行場の移設のための辺野古飛行場建設を新基地建設と嘘をつき、反民主主義を民主主義に偽装している左翼の代弁者でしかない。

香港のデモはアジアの歴史で初めて起こった市民の市民による市民のための民主主義運動である。財力も権力も指導者もいない弱者の市民が立ち上がった運動である。このような市民による民主主義運動は過去のアジアにはなかった。歴史的な香港デモを辺野古に重ねるのは絶対に許されることではない。しぼんでいくだけの辺野古移設反対運動と中国に民主主義の風穴を開けるかもしれない香港デモは比べものにならない。
香港のデモは民主主義運動であるが、辺野古移設反対運動はは反民主主義である。二つは根本的に違う。
松本さんのような記事を沖縄二紙は二度と掲載してほしくない。

香港、覆面禁止法で初訴追 過激デモに政府強硬姿勢
【香港共同】香港当局は7日までに、九竜半島で行われた無許可の抗議活動に絡み、デモ参加者のマスク着用を禁じる「覆面禁止法」違反容疑で男女計2人を訴追した。5日の法施行後、訴追は初めて。2人は違法集会の容疑も持たれており、裁判所で7日、審理が開かれる。香港各紙が伝えた。

一部メディアは、6日のデモを巡り警察が同法違反容疑で5人を逮捕したと伝えた。5日には少なくとも13人を逮捕したとされ、5日の逮捕者は20人超に上るとの報道もある。市民の強い反発にもかかわらず、香港政府は過激なデモを力で抑え込む姿勢を改めて鮮明にした。

香港政府の弾圧が激しくなってきた。しかし、香港市民がくじけることはない。自由、民主主義を勝ち取る闘いに命を懸けているからだ。

  

Posted by ヒジャイ at 12:56Comments(0)

2019年10月06日

わたしは怖くない。逮捕したければすればいい

わたしは怖くない。逮捕したければすればいい

香港デモ映像



香港でろうそくを並べて抗議 “マスク禁止法”に市民反発
デモ参加者のマスク着用が禁じられた香港では、反発した市民が、夜になっても抗議活動を続けた。

香港では5日から、顔を隠してデモや集会に参加することが禁止されたが、日中は数千人規模のデモが行われ、夜になっても各地でマスクをした人たちが抗議活動を続けた。

デモ参加者は、「わたしは怖くない。逮捕したければすればいい」と話した。

一方、林鄭月娥行政長官は、動画の声明で「暴徒による破壊行為は前代未聞だった。公共の安全は明らかに脅かされ、まさに緊急状況規則条例を発動した理由だ」とデモ隊を非難した。

現地メディアは、4日に警察官に脚を撃たれた14歳の少年が「暴動参加」と「警官襲撃」の疑いで逮捕されたと報じ、6日に予定されている大規模なデモを前に緊張がさらに高まっている。

(フジテレビ)
  

Posted by ヒジャイ at 03:50Comments(0)

2019年10月05日

香港・覆面禁止法 市民らマスクつけて抗議

香港・覆面禁止法 市民らマスクつけて抗議

香港デモ映像

香港政府は5日、暴力行為を抑えるためとして覆面禁止法を施行したが、街の中心部では反発した市民らがマスクをつけた状態で抗議活動を行っている。

5日午後、香港中心部では市民ら数千人が集まり、幹線道路をふさいでデモ行進を始めた。参加者らは警察による暴力的な取り締まりの独立した調査などを訴えているほか、5日に施行された覆面禁止法にも強く反発している。

一方、香港政府トップの林鄭月娥行政長官は、5日、テレビで談話を発表し、「少数の暴徒の破壊行為を決して容認しない」とし、覆面禁止法の正当性を強調した上で市民に対して政府への支持を呼びかけた。

覆面禁止法に違反した場合、最高で禁錮1年が科されることになっており、マスク姿での抗議活動に対して、警察がどのように取り締まるのか、予断を許さない状況が続いている。
  

Posted by ヒジャイ at 21:04Comments(0)

2019年10月05日

中高生が警官に撃たれる しかし、民主化運動は拡大し続ける

中高生が警官に撃たれる しかし、民主化運動は拡大し続ける
香港デモで1日に男子高校生が警官に左胸付近を撃たれた。4日には中学生が私服警官に太ももを撃たれた。発砲したのは身の危険をふせぐためであったと香港警察は弁解している。大学生や成人ではなく中学生や高校生が撃たれたことに驚いた。香港の民主化デモは非暴力的の市民デモであるが、一部に過激な行動をする集団も居る。警察に撃たれたのが中高生であるのは過激な行動をするのが中高生が多いということかもしれない。
香港の民主化運動は中学生にも浸透しているのだ。そして、若さゆえに怒りを抑えることができなくなり過激な行動に走った・・・・。しかし、警察が中高生を撃つなんて許されることではない。。
香港の検察当局は銃撃された高校2年の男子生徒を暴動罪と警察官襲撃罪による裁判手続きを開始した。それは警察の実弾射撃を正当化するためだ。
香港の林鄭月娥(りんてい・げつが)行政長官は4日、諮問機関、行政会議の臨時会合を開き、「緊急状況規則条例」(緊急法)を発動し、デモ参加者のマスク着用を禁止する「覆面禁止法」を緊急立法で制定した。
警察の発砲、訴追、覆面禁止法と香港政府の民主主義デモへの弾圧が強化されている。しかし、香港の民主化運動は着実に拡大している。香港政府の弾圧に屈することはない。

香港デモの五大要求
(1)条例改正案の撤回
(2)デモの「暴動」認定の取り消し
(3)警察の暴力に関する独立調査委員会の設置
(4)拘束したデモ参加者の釈放-
(5)普通選挙の実施

五大要求の中の条例改正案は香港政府が撤回した。

五大要求の中に普通選挙の実施が含まれているから香港デモは民主化運動である。
市民を守るべきはずの警官の中高生への発砲は中高生の警察への激しい怒りと不信が増した。
五大要求は普通の市民の理解し賛同する要求である。だから、中学生から老人までデモに参加するのだ。中国政府が軍隊を派遣すれ確実に弾圧できるが、それをすれば世界から非難されるだろう。米国との貿易戦争にも悪影響を受ける。だから、軍隊で弾圧することはできない。

香港の民主化運動は香港政府と中国中央政府のどんな圧力を受けても負けることはない。絶対にだ。
  

Posted by ヒジャイ at 13:43Comments(0)

2019年10月04日

封建時代は売春婦=性奴隷であった その認識のない日韓学者の愚かさ



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封建時代は売春婦=性奴隷であった その認識のない日韓学者の愚かさ
「表現の不自由展・その後」が再開されることになった。少女慰安婦像像が「平和の少女像」として再び展示されることになった。少女慰安婦ではなく平和の少女になったのである。ハンギョレ新聞は「少女像の展示は日本内で代表的なタブーの一つだ」と述べているが、そうではない。少女像がタブーではなく少女慰安婦像がタブーである。
平和の少女像は駐韓日本大使館前の「平和の少女像」を制作した彫刻家キム・ウンソン氏とキム・ソギョン氏夫妻が、同じ形で作ったものだ。日本大使館前の少女像は少女慰安婦像である。韓国での少女慰安婦像を愛知県の「表現の不自由展・その後」では平和の少女像と改名するのはおかしい。それは露骨な政治プロパガンダであるといってもおかしくない。愛知県で展示されると、韓国では少女慰安婦像が日本の税金で開催された展示会で展示されたと宣伝し、少女慰安増は日本国民も認めたと主張するようになるだろう。

 最近になって痛切に感じるのは日本の政府も学者も真剣に慰安婦問題に取り組んでこなかったことである。

慰安婦について一番正しいことを書いているのは私の「彼女は慰安婦ではない 違法少女売春婦だ 少女慰安婦像は韓国の恥である」であることを改めて確信した。しかし、「少女慰安婦像は韓国の恥である」に書く足りない所がある。それは封建時代の「性奴隷」についての説明が足りない。慰安婦問題では「性奴隷」については江戸時代の士農工商の身分制度の社会と明治時代の四民平等の近代社会との歴史的比較が必要である。そうしないと韓国の少女慰安婦が慰安婦ではなく少女性奴隷であったことをはっきりと説明することができない。
江戸時代の遊郭や吉原の女性は「性奴隷」であった。だから舞子も「性奴隷」であるし、大韓帝国時代の妓生は性奴隷である。性奴隷だったのに明治政府の「娼妓取締規則」によって性奴隷から解放され足りない。彼女たちは性奴隷から身分が保証された職業婦人になったのである。明治政府「娼妓取締規則」で法的に彼女たちの人権を与えたのである。ところが日本の政府も学者もこの歴史的意義を認識していない。だから、左翼の慰安婦=性奴隷の主張を打破できないのだ。
 
 
 琉球王国時代に吉屋チルーという琉歌の天才少女がいた。彼女は読谷の貧しいに農家に生まれ、八歳の時に那覇の遊郭に売られた。琉歌の天才少女は1八歳の時に食事することを拒否して自殺する。私は読谷村の生まれであり、チルーの有名な琉歌に出てくる比謝橋の近くで育った。チルーの琉歌は私に強く影響した。私の長編小説「マリーの館」に吉屋チルーのことを書いてある。
吉屋チルー
吉屋チルーの琉歌が浮かんできた。読谷の貧しい農村に生まれた吉屋チルーはたった八歳で女の性を売る那覇仲島の遊郭に売られた。

恨む比謝橋や
 情ねん人ぬ
 我ん渡さ思てぃ 
掛きてぃうちゃら

(比謝橋よ。私はお前を恨む。非情な人間が、那覇仲島の遊郭に売られていく私を渡そうと企んで、お前を掛けたのね)
搾取され、貧しい生活を強いられたチルーの親は、少女チルーを遊郭に売らなければならない状況に追いやられた。チルーは那覇仲島の遊郭に売られることになった。生まれ育った読谷から出ていく境界には比謝川が流れていた。比謝川には比謝橋が掛かっていた。比謝橋がなければチルーは那覇仲島の遊郭に売られなくてすんだ。チルーが那覇仲島の遊郭に売られなければならない貧困に追いやったのは時の権力者であり、チルーを渡すために比謝橋を掛けたのも時の権力者だった。情ねん人=非情者=権力者。チルーは比謝橋を造った非情で冷酷な権力者に琉歌で恨みを投げつけた。

吉屋チルーは一六五〇年に生まれた。八歳の時に那覇仲島の遊郭に身売りされた吉屋チルーは硫歌の天才少女として有名になりながらも、身受けされるのを拒否し、絶食して息絶えたという。一六六八年、吉屋チルーが一八歳の時である。
平敷屋朝敏(へしきや・ちょうびん 一七〇〇~一七三四年)が書いた「苔之下」という吉屋チルーの物語は、吉屋チルーは仲里按司に恋していたが、仲里按司の母親が病気になって倒れたために、仲里按司は吉屋チルーの待つ仲島の遊郭に行かなくなった。これをよいことに抱母は吉屋チルーを仲里按司から引き離すために、黒雲殿に見受けさせようとした。吉屋チルーは、そのことに怒り、失望し、食を絶って亡くなったと書いてある。
しかし、まて。それは平敷屋朝敏の「苔之下」という俗的な悲恋物語に書かれてあることであり、吉屋チルーの実話ではない。平敷屋朝敏は吉屋チルーが死んで三十二年後に生まれた人物だ。吉屋チルーを直接知っていたわけではない。吉屋チルーが琉歌の天才であり、仲島の名花と呼ばれながらも、十八歳の時に絶食して死んだという伝説を知っていただけだ。「苔之下」以外に「若草物語」「万才」「貧家記」「雨夜物語」等を書いたように、平敷屋朝敏はロマン作家であり、「苔之下」は平敷屋朝敏が書いた悲劇ロマンだ。武士階級のロマンチスト平敷屋朝敏が庶民の天才詩人吉屋チルーの魂を理解できるはずがない。
私には分かる。若い仲里按司と恋をしたというのは吉屋チルーを悲恋物語のヒロインにするための朝敏のでっちあげ話だということを。私には分かる。吉屋チルーの死はそんなロマンチズムな死ではなかったことを。私には分かる。貧しい農家に生まれて教養がないのに歴史に残る琉歌を作った吉屋チルーは天才の中の天才であり、卓越した感受性の持ち主であり、詩人としての気高いプライドを持った少女であったことを。私には分かる。吉屋チルーは女の性を絶対に売らない純粋でプライドの高い詩人であったことを。私には分かる。少女から女の体に成長した吉屋チルーは女の性を売るように強制されたが、拒否したことを。しかし、強固な遊郭の掟は吉屋チルーの拒否を許さなかった。私には分かる。詩人としてのプライドが高い吉屋チルーは、遊郭の掟に抗議して絶食をやり、詩人としての魂を全うするために死を選んだことを。
天才詩人吉屋チルー。生まれながらの詩人吉屋チルー。天才詩人であったがゆえにわずか十八歳で死を選ばなければならなかった吉屋チルー。チルー、チルー。純粋に詩人の魂を一途に生き、そして死を選んだ琉歌の天才少女チルー。かわいそうなチルー。気高いチルー。私は止めどもなく涙が溢れてきた。

琉球王国の王族や士族たちは龍潭池で舟遊びをして優雅な生活を送っていたが、その裏では過酷な搾取によって農民は極貧生活を強いられ、吉屋チルーのように身売りされる少女の悲劇が数多く繰り返されたのだ。吉屋チルーを死に追いやったのは農民を虫けらのように扱う琉球王国支配の社会だった。チルーを死に追いやったのは琉球王国だ。琉球王国のくそったれだ。
              「マリーの館」
 琉歌の天才でも遊郭の経営者にとっては商品でしかない。高い値段で売れれば売りさばいていく。チルーも商品の一つでしかないのだ。遊郭の女性はつきつめれば性奴隷あった。それは日本中みな同じであった。
 京都の舞妓も性奴隷であった。
舞子の「水揚げ」
江戸時代の舞妓は「旦那」とよばれるスポンサーを持たなければならなかった。
旦那は自分が見初めた舞妓の着物や生活にかかる多額の費用を置屋に支払い、その対価として舞妓と男女の関係を結んだ。舞妓が初めて旦那を持つことを「水揚げ」といった。
舞妓にとっての水揚げは、一人前への大きな一歩であり、髪型もそれまでの割れしのぶからおふくに結い替えた。
舞子は水揚げを断ることはできない。命令に従うだけである。従わなければ厳しい罰が下される。
吉屋チルーも舞子も性奴隷だったのだ。奴隷とは売られた人間であり仕事の選択の自由も報酬もない人間のことである。
舞子やチルーのように遊郭に買われた女性は性奴隷である。性奴隷になることを拒否したチルーは自殺したのである。死ぬことでしか性奴隷から解放される術は遊郭の女性にはなかった。
なぜ八歳で遊郭売られたか
遊郭に売られるのは八歳くらいの少女が多い。八歳ではまだ子供であるし客相手の仕事はできないはずである。吉屋チルーの話をした先生は掃除などの仕事をしたと言った。先生の言うことを信じていたが、俳句を作っているうちに八歳で売られた理由がわかってきた。俳句や琉歌などの詩は誰でもつくれるが、優れた詩は才能のある人にしかつくれない。チルーの「恨む比謝橋」がすごい琉歌であり、俳句をつくるために色々勉強しているうちに「恨む比謝橋」はとても優れた琉歌でありチルーが天才の中の天才だからこそをつくれたのだと思うようになった。先生はチルーが比謝橋を渡った時の八歳の時につくったといっていたが、八歳の少女がつくれるはずがない。そもそも貧しい農家の少女が琉歌をつくれるはずがない。チルーが琉歌を作れるようになったのは遊郭で琉歌の作り方を教えられたからである。
 遊郭が八歳という幼い時に少女たちを買うのは踊り、三味線、琉歌などを英才教育をするためであった。質の高い芸を習得させて客に披露すれば莫大な収入になるのだ。流加の天才チルーも教養ある武士たちと琉歌を掛け合って客を集めていたのだ。
和歌には連歌といって上の句(五・七・五)と、下の句(七・七)を別の人が交互に作るのがある。琉歌にも上の句(8・8)、下の句(8・6)に分けて連歌を楽しんだ。チルーは遊郭で連歌でもてなしたのである。
遊郭の客は身分の高い武士や金持ちの承認たちであった。教養の高い彼らを満足させるために子供の時から英才教育をしたのである。
 それは日本だけでなく世界共通であり、封建社会ではどこでも遊郭のようなものが存在し、遊郭の女性は性奴隷であった。封建社会は身分差別社会であり奴隷は普通に村座していた。

 日本が併合する前の大韓国帝国は封建社会であり性奴隷の社会はあった。妓生も性奴隷であった。
  

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2019年10月01日

デニー知事に重大疑惑受注企業と契約前日に会合か



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デニー知事に重大疑惑受注企業と契約前日に会合か

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 (写真は手登根安則氏のフェイスブックより)

沖縄自民党議員の島袋大氏が9月30日の県議会で左の写真について質問している写真である。デニー知事だけが顔が見え、他の人たちは顔を隠している。
酒宴に参加したのは「万国津梁会議」に関し、会議を支援する業務を受託した会社の代表、テニー知事の義理の息子である特別秘書、県職員、そして契約によって雇用される大学の助教授と講師であった。
この酒宴の写真をアップしたのは県職員であり、発覚後にFacebookから投稿を削除し証拠隠滅を図った。

玉城デニー知事が今年5月、自身の政策の推進に向けて設置した「万国津梁(しんりょう)会議」の設置支援業務を公募した。6社が説明会に参加し、東日本大震災で沖縄に避難している被災者支援などで沖縄と関わりのある山形県の社団法人1社だけが企画提案を行い、受注した。受注額は2407万円である。業者側の会社は実績もなく代表一人の会社で、ペーパーカンパニーとの情報もある。写真の酒宴は受託した事業者と正式な契約をする前であった。

受注した山形県の社団法人の沖縄営業所所長は玉城知事の支持者で、島袋氏は「最初から受託することが決まっていた出来レースではないか」と批判した。玉城知事は「私的な懇親会だった。契約がいつかは担当部局に任せており、関知していなかった」と答弁し、問題はなかったとの見解を示した。

県も職員が参加したことに問題はないと答弁した。デニー知事は私的な懇親会であるから問題はないというが、私的な懇親会だから逆に問題である。つまり、県の受注が私的な懇親会で決まるともいえるのだ。
今後自民党県連はどのようにデニー知事を追及していくだろうか。デニー知事が返答に困る状態まで徹底して追求していくことができるか。そこが問題である。県議会で追及するだけでなく、問題の写真を県民に見せ、反デニー知事の渦を巻き起こすことも重要である。県議会でデニー知事を追い詰めたとしても、その事実を県民が知らなければデニー知事の人気は維持されるからだ。
問題は次の県議会選挙と知事選で自民党が勝つか否かである。県議会でデニー知事を追い詰めて満足するようでは駄目だ。むしろ、写真を多くの県民に見せてデニー知事が業者と癒着している可能性を県民に知ってもらうことが重要だ。
来年の県議会選の頃には辺野古側の埋め立ては終わる。移設に反対することが無駄であることを県民は認識するだろう。辺野古埋め立て反対に加えて業者との酒宴は県議会選で自民党県連を有利にする。
  

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