2017年06月28日

日本共産党は設立した時から時代遅れで日本に必要のない政党であった



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日本共産党は設立した時から時代遅れで日本に必要のない政党であった
 日本共産党が誕生したのは、1922年7月の15日である。1917年に起こったロシア革命の5年後である。日本共産党は日本でロシアのような社会主義革命を起こすのを目的に結成した政党である。もし、ロシア革命が起こらなかったら日本共産党は誕生しなかったかもしれない。少なくとも暴力革命を目指す政党にはならなかっただろう。ロシア革命が起こり、レーニンが資本家による労働者の搾取を否定する社会主義国家をつくったから、それに触発されて誕生したのが日本共産党である。日本共産党は日本でも暴力革命で労働者を解放する国家をつくろうとした。
 しかし、ロシア革命で倒したのはプロレタリアを搾取するブルジョア階級ではなかった。300年続いたロマノフ王朝のニコライ2世が支配している帝国ロシアであった。

 ロシア革命の始まりは日露戦争の時であった。日露戦争の最中、ロシア国内では「血の日曜日」という事件が起きる。司祭ガポンに率いられた6~7万人の労働者や農民たちが日露戦争の中止、労働者の待遇改善、憲法改正と基本的人権の付与を求め直接皇帝に願い出ようと平和的なデモ行進をした。ところがデモ行進に皇帝の衛士が発砲して多数の死傷者が出た。この事件によって皇帝への市民の信頼は一気に失望へと変わった。この事件の反響は全国に波紋を呼び、ロシアのいたるところで労働者たちがストライキをし、農民は蜂起して抗議をするようになった。
皇帝側は十月宣言で立法権を持つ国会(ドゥーマという)の開設や基本的人権の付与を約束した。労働者と兵士の代表による評議会「ソヴィエト」が結成され、彼らソヴィエトが首都の支配権を握るとニコライ2世は退位を余儀なくされ帝政ロシアの時代は幕を閉じた。日本でいえば江戸幕府の終焉である。
明治政府でも藩閥政治など政府内の対立があったようにロシアでも対立があり、対立の中で最終的に政権を握ったのがレーニンであった。
ロシア皇帝が退位すると資本家や立憲民主党の政党が臨時政府をつくった。レーニンが率いる労働者や兵士が集結したソヴィエトは臨時政府によって弾圧され、レーニンはフィンランドに亡命する。臨時政府がそのまま続けば資本主義を容認した議会制民主主義国家が誕生していたはずであるが、ロシアの場合はそうではなかった。帝政派の将軍であったコルニーロフが反乱を起こして、臨時政府は危うくなるのである。臨時政府はコルニーロフ鎮圧にレーニンの協力を求めた。臨時政府に協力したレーニンはコルニーロフを鎮圧した勢いに乗って臨時政府も倒した。
そして、友人であるトロッキーと全ロシア=ソヴィエト会議の名の下で新政府の樹立を宣言した。世界初の社会主義国家の誕生である。

ロシア革命は薩長連合が江戸幕府を倒したように帝政ロシアを倒したのである。江戸幕府も帝政ロシアも封建国家であった。明治維新とロシア革命は封建国家を倒した同じ性質の革命であったといえる。革命後に日本は四民平等、法治主義、帝国主義、天皇制国家になり、ロシアは共産党一党独裁国家になった。

明治維新は1868年である。明治維新の約50年後にロシア革命は起こった。50年の間に日本は法治主義が発展し、大正デクラシーのように民主主義運動も広まっていった。そういう政治状況の中で日本共産党は誕生したのである。日本共産党が誕生した時、ロシア革命で倒した封建国家は日本ではすでになくなっていた。
社会主義革命は中国やキューバでも起こったが両国とも倒したのは封建国家であってブルジョア階級が支配する資本主義国家ではなかった。資本主義国家でプロレタリア革命が起こったことは一度もない。資本主義国家であり民主化も進んでいた日本でロシア革命が起こる可能性はなかったのである。それにレーニンの革命は共産党一党独裁である。政治も軍事も経済も一党だけでやるという独裁主義の共産党が近代化が進行していた日本に浸透する可能性は低かった。

共産主義思想が生まれたのはロシアではなくヨーロッパである。マルクス・エンゲルス共著の共産党宣言が出版されたのはヨーロッパであったし、共産党が最初に誕生したのもヨーロッパであった。ロシア革命を起こしたロシアで共産主義が誕生したのではなかった。そして、共産主義はヨーロッパで広がった。ロシアでは広がっていなかった。ところが資本主義経済が発展していたヨーロッパでは共産党による革命は起こらなかった。資本主義経済がまだ発達していない、しかも共産主義が広まっていないロシアでレーニン共産党による革命は起きたのである。革命が起こった中国やキューバも封建社会であり資本主義経済は発達していなかった。

日本でロシアのような革命が起こる可能性がなかった象徴として「大正デモクラシー」がある。
「大正デモクラシー」は政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された。このような民主化運動が展開されている日本でロシア革命のような暴力革命は起こるはずがなかった。
民主化の象徴として注目すべきことは国政選挙が行われたことである。選挙をするということは国民が間接的に政治に参加することである。選挙をしない共産党一党独裁は国民が政治に参加できない仕組みになっている。大正時代の多くの国民は選挙を拒否する共産党一党独裁を嫌ったはずである。
国政選挙の歴史
1889年(明治22年) - 大日本帝国憲法発布。衆議院議員選挙法制定(制限選挙・小選挙区制・記名投票)]。満25歳以上の男性で直接国税30円(太平洋戦争後の価値で60万円から70万円に相当)以上を納めている者に選挙権付与。
1890年(明治23年) - 第1回衆議院議員総選挙。
1900年(明治33年) - 納税要件緩和。納税条件が10円以上に引下げ。大選挙区制・秘密投票を導入。
1919年(大正8年) - 納税要件緩和。納税条件が3円以上に引下げ。小選挙区制を導入。
1925年(大正14年) - 納税条件撤廃。満25歳以上の男性全員(総人口の20.12%)に選挙権付与(狭義の普通選挙・男子普通選挙)。中選挙区制を導入。
大正7年(1918年)には平民宰相と呼ばれた原敬が総理大臣になった。

共産党が誕生したのは江戸幕府が倒され、近代化が進み、大正デモクラシーが起こり、選挙制度が発展していた1922年である。1925年には満25歳以上の男性全員に選挙権が付与された。共産党一党独裁の社会主義革命が起こる要素がなくなった時代に日本共産党は誕生したのである。

1904年2月9日深夜、日本が宣戦布告なしで旅順のロシア艦隊に攻撃を加えたことで日露戦争が開戦した。日露戦争の時のロシア皇帝はニコライ2世であった。彼は1891年に皇太子として来日したが、大津から京都へ戻る際、滋賀県警察部所属の警察官津田三蔵巡査に人力車に乗っていた時にサーベルで右耳上部を負傷させられた人物でもある。切り傷そのものはそれほど深くなかったものの、重いサーベルによる斬撃を受けたため頭蓋骨に裂傷が入り終生、傷の後遺症と頭痛に苦しむようになった。

ロシア革命の始まりは日露戦争の時であった。だから日本もロシアの政情には深い関心を持っていた。
ロシア革命が終結するのは第一次世界大戦の時である。レーニンは資本主義の発展は帝国主義になると考え、資本主義を否定した。帝国主義日本が資本主義を否定するレーニンの共産党一党独裁の国家に敵対心があったのは当然であった。
だから1918年に、捕虜としてシベリアにとどめおかれていたチェコスロバキア軍団が反乱を起こした時、これに乗じて日本はアメリカとともにシベリアに出兵した(シベリア出兵)。
しかし、ロシアの内戦はレーニンのソヴィエト政府側の勝利に終わった。最後までシベリアに残っていた日本軍は1922年に撤退した。
十月革命によって成立したレーニン率いるボリシェヴィキ政権は世界初の社会主義国家となり、全世界に大きな影響を及ぼした。ボリシェヴィキは世界革命論によってロシアの革命を世界へと輸出することを望み、ヨーロッパ諸国へ革命を波及させることを主目的の一つとして1919年3月2日にコミンテルを結成した。コミンテルの支部として設立したのが日本共産党である。

日本政府がもっとも恐れたのは日本への共産主義の浸透であった。共産主義が浸透するのを恐れ、1925年(大正14年)4月22日に法律第46号をして制定した。そして昭和16年(1941年)3月10日に治安維持法(法律第54号)を制定した。治安維持法は国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定した。
治安維持法は共産主義革命運動の激化を懸念したものであったが、やがて宗教団体や、右翼活動、自由主義等、政府批判はすべて弾圧・粛清の対象となっていった。共産党一党独裁国家を目指す日本共産党の誕生は日本の民主主義運動の弾圧を拡大させ、軍部の勢力を拡大させていった原因にもなったのである。
日本共産党は日本に誕生するべきではなかった政党である。

 共産党が日本に必要のない政党であったことは戦後に如実になる。それは中国に亡命した徳田球一の指揮で、共産党が共産主義暴力革命を起こそうとした時である。

 徳田球一は沖縄県の名護市出身である。
 球一の家業は印刷屋であった。旧制沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)卒後、旧制第七高等学校に入学するが、教官の琉球出身者に対する差別に反発して退学した。その後上京して、苦学して日本大学の夜間部を卒業し、弁護士になった。1920年(大正9年)、日本社会主義同盟に参加。1921年(大正10年)には社会主義国家になったソ連を訪問した。ロシアから帰った徳田は1922年(大正11年)、非合法の日本共産党(第一次共産党)結成に参加した。そして中央委員に選出された。徳田は1925年(大正14年)、1927年(昭和2年)にもソ連に渡った。1928年(昭和3年)2月26日に治安維持法違反で門司駅で逮捕された。徳田はそのまま戦後に釈放されるまで獄中で18年間を過ごした。
第二次世界大戦終戦後の1945年(昭和20年)に出獄すると日本共産党を再建し、同年12月の第4回党大会で書記長に就任する。1946年(昭和21年)には中華民国から帰国した野坂参三と共に衆議院議員に当選した。
しかし、1950年(昭和25年)、GHQによるレッドパージによって公職追放された。7月に団体等規正令に基づく出頭命令を拒否したため逮捕状が出され、地下に潜行した。同年10月、大阪港から中華人民共和国に亡命し、幹部による指導機関である北京機関を組織した。
徳田は亡命先から武装闘争を指示した。徳田が支持した武装闘争は毛沢東率いる人民解放軍が山村の農民の蜂起によって勢力拡大したのを根拠に考え出された武装闘争方式であり、中国の劉少奇はアジアに広げる見解を打ち出していた。これはソ連のスターリンとの相談に基づくものだった。
徳田は中国流の武装闘争を日本で実現しようと山村地区の農民を中心として、全国の農村地帯に「解放区」を組織することを指示した。これを受けて「山村工作隊」や「中核自衛隊」などの非公然組織が作られ、各地で列車の爆破、交番への焼き打ちや警察官へのテロ行為などの日本共産党による武装闘争が展開された。

日本での中国流の武装闘争は根本的な間違いがあった。
国民党との内戦になった時、毛沢東は封建地主から土地を没収して農民に分配して私有させる「土地革命」をして、農民の支持を獲得していった。ところが戦後の日本はすでに封建社会ではなかった。だから中国のように農民を搾取する封建地主は存在しなかった。すでに農民は土地を私有していたのである。つまり、すでに「解放区」になっていたのだ。土地を私有している日本で中国流の武装闘争はできるはずがなかったのである。
日本共産党がやった山村工作隊は時代遅れであり、農民の支持を得ることはなかった。逆に支持を失った。1952年10月の総選挙では共産党候補者の全員が落選したのである。日本では共産党は時代遅れであり必要がないことを明らかにしたのが「山村工作隊」であった。

世界的に共産党が時代遅れで必要がないことを明らかにしたのがソ連崩壊である。
共産党は民主主義国家の次が社会主義国家であるとして、民主主義革命をやってから社会主義革命をやるという二段階革命論を持っている。しかし、歴史は封建主義国家から社会主義国家にはなったが民主主義国家から社会主義国家になったことは一度もない。その逆はある。それが1991年のソ連崩壊である。社会主義だったソ連の国々はロシアをはじめ崩壊した。その後は議会制民主主義国家になった。日本共産党の想定とは逆になったのが現実の歴史である。
チェコスロバキア、ルーマニア、東ドイツ、ポーランド、ハンガリーなどの社会主義国家も議会制民主主義国家になった。
社会主義国家から議会制民主主義国家になるのは歴史的に必然であると言わざるを得ない。なぜ必然であるかは社会主義と議会制民主主義を比較することによって明らかでなる。

レーニンによって社会主義国家が誕生したが、ロシア革命が起こったのは1910年代である。あの時代のヨーロッパの先進国はアジアやアフリカを植民地にして国が富むという帝国主義国家であった。レーニンは資本主義国家が発展すると経済競争で勝った大資本家が増え、独占資本社会になり、国は独占資本国家になる。独占資本は国内で投資しても利益を得ることはできなくなり国外投資を目指して植民地をつくるようになる。レーニンは資本主義国家は必然的に帝国主義国家になると説いた。レーニンは帝国主義国家であるアメリカを非難し、アメリカのような帝国主義国家にならないために労働者を搾取する資本家や資本家を支持する政治家を参入させないために選挙制度を設立しないで共産党一党独裁国家の社会主義国家をつくった。
レーニンが指摘した資本経済が発展すれば資本が増大し国内投資では利益を得ることができないので海外投資をするようになるという経済論は現在でも当てはまる。
現在、日本の大企業は300兆円を貯め込んでいる。そうでありながら国内投資はしないし、従業員への還元もしない。国内投資をしないのは投資をしても利益を得る可能性が低いからだ。レーニンが生きていた時代ならアジアに植民地を拡大して投資をしていただろう。日本が戦前のように帝国主義国家であったならそれができたが、現在はそれができない。300兆円は行き所がなくて大企業の懐の中で眠っている。

資本家による労働者の搾取、帝国主義を否定して樹立したレーニンの共産党一党独裁による社会主義国家は日本の多くの思想家や政治家に影響を与えた。レーニンは理論や観念ではなく、実際にロシア革命を実現し社会主義国家を樹立したのである。日本でも社会主義国家を目指した革命が実現できると信じた者たちが現れたのは当然といえば当然であった。
同時にレーニンの理論の拡大を一番恐れたのはレーニンによって存在を否定された独占資本家の財閥や帝国主義の軍部や政治家であった。だから彼らが牛耳っている日本国家は共産主義を徹底して取り締まったのである。
共産主義の影響を受けたのは政治家だけではない。多くの芸術家も影響を受けた。文学ではプロレタリア文学があり、多くの小説家や詩人が誕生したし、劇団も誕生した。有名な俳優も居た。

共産主義には労働者を資本家の搾取から解放するという民主主義にはない理論があり、民主主義よりも秀でた思想であるという自負が共産主義思想家たちにはある。この自負が共産主義を支えているし、日本共産党を持続させている。

共産党一党独裁の社会主義国家が人間を自由にし、豊かにしていくものであったなら社会主義国家は拡大していっただろう。レーニンやスターリンによる武力によって拡大はしたが、1991年になるとソ連が崩壊するという社会主義国家の崩壊が起こった。共産党一党独裁の社会主義国家は否定されていることを歴史は証明したのである。ただ、それは共産主義が否定されたのではなく共産党一党独裁が否定されていることを私は主張したい。
共産党一党独裁というが、旧ソ連、中国、キューバなどの共産党は共産主義とは別物である。共産党一党独裁というより一党独裁である。

注目しなければならないのは崩壊したのは社会主義国家だけではないことである。帝国主義国家も崩壊した。崩壊したというより消滅したといった方がいいだろう。第二次世界大戦までの戦争の原因のほとんどは領地争いであり、植民地の獲得競争であった。植民地獲得が原因の戦争は紀元前からあり、それが第二次世界大戦まで続いた。戦争をなくすためには植民地獲得を止めることであることに気が付いた米国やヨーロッパの国々は植民地を放棄し、帝国主義と決別した。
帝国主義への決別に大きく貢献したのが議会制民主主義の発展である。帝国主義国家の原因は財閥と軍部が政治に介入して植民地を増やす政治をやっていったからである。議会制民主主義が発展していくと、財閥のような独占資本を禁止し、自由競争と公正取引きをやる経済社会をつくるようになった。そして。軍隊はシビリアンコントール下に置き、政治への介入をさせないようになった。

レーニンが資本主義は帝国主義になると指摘したのは議会制民主主義が発展していないレーニンの時代の資本主義国家である。独占資本、軍部、政治の三者が国家を握っていた時代は帝国主義国家であったが、議会制民主主義が発展していって国民主権の国家になった時には帝国主義国家ではなくなった。そのことを戦後70年の歴史が証明しているのである。

一党独裁主義国家、帝国主義国家、軍事独裁主義国家は要らない。議会制民主主義国家こそが地球全体に必要である。人間の自由、平等、生活の豊かさを実現していくのが議会制民主主義国家であるからだ。

日本共産党は誕生した時から時代遅れで日本に必要のない政党であった。共産党は日本の政党で一番古い政党であり、資金もあり運動員も多く、組織力、運動などは他の野党より秀でている。しかし、そうであっても政権党になったことがないどころか野党第一党になったこともない。それは共産党が議会制民主主義では時代遅れであり、必要のない政党であるからである。
戦後70年で共産党の勢力はゆっくりではあるが確実に衰えてきた。その流れは変わらないだろう。日本共産党が勢力を拡大するにはロシア革命の夢と決別し、共産党一党独裁主義とも決別することである。
「暴力革命」はとても魅力的である。しかし、封建社会が崩壊した後の民主主義社会では暴力革命は起こらない。
スターリンに追放され暗殺されたトロッキーは永続革命を唱えた。革命が成就しても、常に社会を変革する努力をしなければならない。それをトロッキーは永続革命と呼んだ。
議会制民主主義は選挙を繰り返し、選挙の度に立候補者は国民のための政策を訴え、国民は政策に賛同できる立候補者を投票する。そして、当選した候補者は議会で新しい法律をつくる。それがトロッキーのいう永続革命である。
日本は明治維新の時に暴力革命は終わった。そして、戦後はレーニンが指摘した帝国主義も終焉した。戦後の議会制民主主義国家日本はトロッキーのいう永続革命の時代に入ったのである。
日本共産党はこの現実に気付くべきである。二段階革命論と決別して、労働者の生活が豊かになれる政策つくりに励み、政権党になれるくらいに国民に支持される政党になる努力をするべきである。


学生の時、学生運動をやっていた私は謝花先輩と一緒に図書館前の立て看板の文字を書いていた。謝花先輩は達筆であったので彼が字を書いた。私は紙を貼り合わせたり看板に張り付けるのを手伝っていた。私たちの作業は学生の居ない夜にやった。
二人だけだったので、私は自分ではなかなか解決することができない悩みを謝花先輩に話した。悩みと言うのは米国でも暴力革命をするのかということだった。大統領は国民の選挙で選ばれる。国民が選んだ大統領を革命政党が倒していいのかということだった。学生運動をしている他の学生に話せば一笑されるかもしれないので話せなかった。先輩に話すのも遠慮していたが、夜の立て看板の仕事を続けているうちに話す勇気が湧いてきた。
「謝花さん。米国でも暴力革命をやるのか」
私が質問すると、謝花先輩は字を書きながら、
「当たり前だ」
と言った。
「でも、アメリカは民主主義国家だし、大統領は国民の選挙で選ばれるし、それでも暴力革命で倒すんですか」
謝花先輩は字を書くのを止め、立ち上がり、
「資本主義国家を根本から変革するのが革命なんだ。クーデターとは違うんだ。又吉。革命とクーデターの違いも分からないのか。勉強が足りないな」
私はなにも言うことができなくなり、これで謝花先輩との会話は終わった。それからの私は革命とクーデターの違いを勉強した。私が19歳か20歳のことであり、50年近く前の話である。
 
 あの頃、謝花先輩に質問した以外にも疑問はあった。
○日本の明治維新は暴力革命であるのかそれとも暴力革命ではないのか。
○マルクスは資本主義が発達した国に次の新しい国家は生まれるといい、アメリカが次の新しい国家になるといったが、それはどういうことなのか。
○ロシア革命は社会主義革命と呼ばれているが、革命のエネルギーは貧困に追い詰められた国民のエネルギーであるから民主主義革命と同じエネルギーであり、ロシア革命は民主主義革命でもよかったのではないか。
○共産主義が描く共産社会とはどんな社会なのだろうか。民主主義が描く民主社会とはどんな社会なのだろうか。
○共産社会と民主社会にはどんな違いがあるのだろうか。
○共産党一党独裁国家は独裁政治だから労働者、国民を弾圧する国家にはならないか。
 50年前にこのような疑問を持っていた。箇条書きにして気付いたがあの頃の私は沖縄問題で悩んだことはなかったし、沖縄問題で難しいと思ったことはなかった。

大学生の時に色々疑問があり、悩んだが。深刻な悩みではなかったから疑問を解くために本などを読んで懸命に取り組んだことはなかった。政治に深い関心があるわけではなかったし、大学を卒業すると子供が生まれて生活のための学習塾経営は忙しかったし、実現はしなかったが演劇上演に取り組んでいたから学生の頃の政治に関する疑問はそのまま放置していた。
 あれから50年近くの歳月が経過し、世界は変化していった。1991年のソ連崩壊には驚いた。まさか崩壊するとは全然予想していなかった。しかし、ソ連は崩壊した。そして、崩壊した社会主義国家は議会制民主主義国家になった。予想していなかった歴史の変化である。

 予想していなかったことが起こったのはソ連崩壊だけではなかった。インターネットの登場である。
インターネットが発達して個人の意見をブログで発表することができるようになった。そして、なんといってもグーグルなどで知りたいことを検索できるようになった。
グーグルはどんな大図書館よりも秀でた図書館である。グーグルは図書館に行って調べなければならないことを家で簡単に調べることができる。それどころが図書館で探すのにそうとうな時間をかけなければならない情報を数秒で探すことができるし、図書館では探すことができないような情報さえ見つけることができる。なんてすばらしい時代になったのだろう。インターネットの登場に感謝感激である。
50年という時間の経過とインターネットの登場によって若い頃に疑問に思っていたことに対して私自身が答えることができるようになった。そして、ブログで発表することができるようになった。本を出版することもできるようになった。ありがたい世の中になったものである。
  

Posted by ヒジャイ at 23:40Comments(0)

2017年06月27日

文大統領は、元慰安婦や遺族に渡した支援金を返還させ、10億円を返済してから「法的責任や公式謝罪」の交渉をやれ



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文大統領は、元慰安婦や遺族に渡した支援金を返還させ、10億円を返済してから「法的責任や公式謝罪」の交渉をやれ
 慰安婦問題について2015年28日に日本政府と韓国政府は合意に達した。合意した項目である。

 


これは政府と政府の合意である。この合意の提案は朴前政権から提案したものであった。安倍政権は朴政権の強引な提案にも冷静に対応して、表に書いてある項目を合意した。その合意に則って安倍政権は責任と謝罪を公に示した。そして、10億円を拠出した。日本政府は合意を実行したのである。
慰安婦問題は政府と政府が合意したものである。例え政権が変わっても合意事項を引き継がなければならない。
それに「この問題は、最終的かつ不可逆的に解決された」と宣言している。韓国政府がこの合意を変更することはできない。ところが文大統領は「慰安婦問題をめぐる日本の対応が不十分」と海外メディアに発言した。「最終的かつ不可逆的に解決された」と日韓両政府で合意したのに日本の対応が不十分であると発言するのは日韓合意を軽視していることである。軽視するならするでいいが、合意した責任は取るべきである。
朴前政権が日本政府と結んだ合意に不満であるなら、合意にいちいち文句をいう前に合意を破棄すればいい。破棄してから一から交渉を始めればいい。
文大統領は日本に追加措置求めると言っているようだが、「最終的かつ不可逆的に解決された」に合意した韓国政府が日本に追加措置を求めるなんて都合のいい勝手なやり方だ。文大統領が日本に追加措置を求めることは「最終的かつ不可逆」の合意に反することである。追加措置を求めることはできない。もし、追加措置を求めるなら文大統領は日韓合意を破棄して、交渉をゼロからやるべきである。日韓合意はそのままにして、韓国側の要求だけを付け加えるなんてできるはずがない。できるはずがないことを平気でやろうとするのが文韓国大統領である。

もし、文政権が新たに「日本の法的責任や公式謝罪」を求めるなら日韓合意をゼロにするべきである。合意をゼロにするのだから合意に則って日本政府が拠出した10億円を韓国政府は返済するべきだ。返済は単なる金銭の問題ではない。韓国政府が10億円を返済すればいいというものではない。財団がこれまで元慰安婦の生存者32人と遺族31人に受け渡した支援金は37億6200万ウォン(約3億6800万円)あるが、そのお金を韓国政府が立て替えるのではなく、元慰安婦と遺族に返済させることである。合意を破棄するのだから、合意に賛成することを許さないことになる。だから、合意に賛成して支援金を受け取ることは許されないことである。元慰安婦と遺族たちは受け取った支援金を全て本人たちが返済しなければならない。

文大統領が最初にやるべきことは元慰安婦と遺族たちが受け取った支援金を返済させることである。それから、日韓合意を破棄すればいい。破棄してから、「法的責任や公式謝罪」を加えた日韓合意を交渉するべきである。
元慰安婦と遺族たちに返済させることができないなら日韓合意の「最終的かつ不可逆的な解決」を唇を噛みしめながら認めることである。
  

Posted by ヒジャイ at 12:05Comments(0)

2017年06月24日

米軍はアジアの民主主義国家の平和を守っている。沖縄米軍基地はその一つである。



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米軍はアジアの民主主義国家の平和を守っている。沖縄米軍基地はその一つである。
 
なぜ、戦争をするのか
 10歳の頃である。私たちは公民館のブランコや滑り台や砂場でよく遊んだ。公民館の砂場で遊んだ後、家に帰る前にみんな集まって色々話し合っていたが、1歳上の西平少年がいて、彼は戦争について物知りだった。彼の話にみんな注目した。
彼の話によると、第一次世界大戦は1914年に起こり、第二次世界大戦は1939年に起こった。その間が25年である。だから第二次世界大戦から25年後の1964年頃に第三次世界大戦が起こると言った。1964年は6年後である。彼は広島や長崎に原子爆弾というとてつもない爆弾が落とされたことや原子爆弾よりすごい水素爆弾というのがつくられたということも話した。だから、次の第三次世界大戦は核戦争になると言った。
第三次世界大戦が起こったら、嘉手納弾薬庫には原子爆弾が貯蔵されているから、真っ先に沖縄に原子爆弾が落とされ、沖縄の人間はみんな死ぬと言った。もし、明日第三次世界大戦が起こるとしたら、死ぬ前に何をしたいかも話し合った。どのようなことを話していたか覚えていないが、私はお婆さんがやっている商店に押し入って、お婆さんを撥ね退けてお菓子をお腹いっぱい食べたいと思った。しかし、それは強盗になるので話さなかったことを覚えている。
嘉手納弾薬庫は私たちの村の東側にある山や原野一帯であり、畑もあった。嘉手納弾薬庫はとても広く、出入りは自由であったから私たちが遊び回る原野でもあった。山の奥の方に入った時に爆弾が積まれているのを見たこともある。沖縄のガードマンが見張っていて、私たちは追い払われた。嘉手納弾薬庫に爆弾があるのを私たちは見た。だから、嘉手納弾薬庫に原子爆弾が貯蔵されているという噂は広まっていたが、私たちは本当にあると信じていた。西平少年の話は真実味があった。

1962年にキューバ危機があった。中学1年生の時である。
キューバ危機とは、1962年10月から11月にかけてキューバに核ミサイル基地の建設が明らかになったことからアメリカ合衆国がカリブ海で海上封鎖を実施し、アメリカ合衆国とソビエト連邦とが対立して緊張が高まり、全面核戦争寸前まで達した危機的な状況になったことである。
私はキューバ危機が第三次世界大戦の引き金になり、沖縄に原子爆弾が投下されて沖縄は全滅するかも知れないと心配した。幸いにも危機は回避された。ロシアに毅然とした態度で一歩も引かずに交渉し、危機を回避したケネディ大統領は私のヒーローになった。
その後の少年雑誌は核戦争の第三次世界大戦が起こるかも知れないことを掲載し、核戦争が起こった様子を書いたSF小説も登場した。第三次世界大戦が起こるかも知れない・・・。そう思っていた。

沖縄戦のことは子どもの頃から何度も聞いていた。南部では歩くこともできないくらいに死体が溢れていたという話を聞いていたし、戦争犠牲者の死体の写真も見たが、それは過去のことであり、これからの戦争は核戦争であると信じていたから、沖縄戦のことを参考にこれからのことを考えることはなかった。
昨日は慰霊の日であった。上原愛音さん(17)=宮古高校3年は「ここに誓おう。私は、私達は、この国は、この世界は、きっと愛おしい人を守り抜くことができる。この地から私達は、平和の使者になることができる」と糸満市摩文仁の平和祈念公園で開かれた「沖縄全戦没者追悼式」の会場で語ったが、戦争は外からやってくると考えていた私は彼女がいうように沖縄の私たちが平和の使者になれると考えたことは一度もなかった。
とても小さな島の沖縄に住んでいる私たちは戦争に対して無力であると思っていた。沖縄は戦争を起こすこともできないし、止めることもできない。ただひたすら戦争が沖縄で起こらないように祈るだけである。中学生生の時に、平和の使者になれると思っている人がいたら、それは沖縄の無力を知らないで過信している自惚れ屋と思っていただろう。
沖縄が戦争に巻き込まれるのは世界大戦が起こった時であると信じていた私は世界情勢について敏感になっていた。
そして、なぜ戦争が起こるのだろうかと考えるようになった。

映画好きの私は、映画を見るお金が欲しかったので、あの頃唯一のアルバイトであった新聞配達をやりたいと親や隣近所に探してくれるようにお願いしていた。すると中学1年生の時に古堅のモーガンマナーという外人住宅にモーニングスターという新聞を配達しないかという話が舞い込んできた。私は迷わずに承諾した。中学時代の私は毎週映画を見るようになった。
映画を観ることによって、なぜ戦争をするのかその理由がわかってきた。
時代劇が好きで東映の映画をよく見ていたが、戦国時代の映画などで、戦争をやるのは世の中を平和にするためであると主人公は話していた。悪い人間が戦争を起こして正義の主人公が悪い人間をやっつけて世の中を平和するというストーリーである。あの頃は正義の主人公と悪の敵役が定番の勧善懲悪をテーマにした映画が多かった。確かに映画で説明しているように戦国時代を正義の武士である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が世の中を平定して戦国時代を終わらしたと考えることができた。平和のために戦争をやるというのを中学生の時はそれなりに納得した。しかし、高校生になるとそれでは納得することができなくなった。 
強欲で腹黒い人間が弱者を苛めて、それを正すために正義の人間が悪をやっつけるために戦争するというのとは違う別の理由があるのではないかと疑問が湧いてきた。世界史を勉強するとその疑問が大きくなった。世界史で展開される戦争の原因を時代劇のような善悪で判断することはできなかった。特にアレキサンダー大王が大帝国をつくったことは日本映画の善悪の世界をはるかに超えていた。戦争の天才アレキサンダー大王は次々と王国を滅ぼしていって、紀元前338年から紀元前323年の32歳で死ぬまでわずか5年間でエジプトやインドまで遠征して東西2400キロメートルに及ぶ歴史上最大の帝国を築いた。


戦争は正義が勝つのではなく強い者が勝って帝国を築くことを強烈に印象づけたのがアレキサンダー大王であった。

世界史で世界の戦争を見ていくと戦争は平和のためではなく植民地を確保して国が栄えるために起こしているのではないかと思うようになった。そういう視点から私なりに日本の歴史を見るようになった。

日本は明治時代になると帝国主義国家を名乗り、富国強兵を掲げて清やロシアと戦争をし、アジアに進出していった。日本はアジアを平和にするためではなくて別の目的があって戦争をしているのではないかと思うようになったが、戦争をする目的がこれだという確信が持てる理由を見つけることはなかなかできなかった。ただ、戦争を積極的に仕掛ける者たちの富を得る目的が原因ではないかという疑いが強くなっていった。その疑いが疑いではなく確信を持つようになったのは20代半ばになった頃である。

農業などの第一次産業の時代には領土が大きければ大きいほどに支配者の富は大きくなる。富を増やすために軍事力のある支配者は他の支配者を攻めて領土を拡大していった。

そんな視点から日本の明治時代から戦後までを観る前に沖縄の歴史を視てみる。
沖縄本島では14世紀に入ると、各地で城(グスク)を構えていた按司の中で軍事力に勝る按司が他の按司を攻めて配下にして領土を広めた。14世紀には三つの国にまとまった。南部の南山(山南)、中部の中山、北部の北山(山北)である。三つの王統が並立する時代が約100年続いた。いずれも中国の明帝国に朝貢し交流を深めていた。しかし、三山を統一する人物が登場する。三山のどちらの王でもなかった、南部の佐敷(現・南城市)按司の子・尚巴志である。
彼は佐敷馬天港を通じて独自の貿易を行い、農業に必要な鉄を多く仕入れ、力を蓄えていった。尚巴志は31歳の時に近隣の大里按司を滅ぼし、その3年後に、琉球最大の勢力であった中山国の王・武寧を打ち、父の尚思詔を中山王に据え、第一尚王統を開いた。さらに10年後の1416年に北山国を攻め滅ぼし、1429年には残る南山国をも攻略して、初の沖縄本島統一を成し遂げた。
領土が大きくなればなるほど収入も増す。三山を統一したから、尚巴志は佐敷を支配していた時と比べて莫大な富を得た。だから、豪華な首里城を建築して贅沢三昧に暮らすことができた。
尚家は琉球王国を築き、八重山、宮古島など、沖縄の島々も制圧して年貢を納めさせた。また、1466年(文正元年)には尚徳王が自ら3000の兵を率いて喜界島を制圧し、奄美群島を支配下に置いた。当然のことながら支配した奄美大島には年貢を納付させた。北は奄美大島、南は宮古、八重山まで支配して栄えた琉球王国であったが、1609年に薩摩藩に侵攻されて支配された。そして、莫大な年貢を薩摩藩に納めなければならなくなった。
琉球王国に属していた奄美大島にも薩摩藩は侵略した。奄美大島は薩摩藩が侵略した時に激しく抵抗したのが原因なのか知らないが、薩摩藩が直接支配した奄美大島は琉球王国よりも厳しく搾取された。全ての畑にさとうきびを植えさせて砂糖をつくらせて、そのすべてを薩摩藩に献上させた。奄美大島の農民が食べるための野菜を植える畑はなかった。奄美大島の農民は山にソテツを植え、ソテツの実を食糧とした。奄美大島の山にソテツが多いのはソテツを食糧にした名残りである。それを奄美大島では黒糖地獄と呼んだ。その事実を最近、NHKのブラタモリの番組を見て知った。沖縄ではソテツ地獄があったが、奄美大島の農民はソテツ地獄以上の苦しみを体験していたのである。

1867年に江戸幕府は大政奉還し、明治政府が誕生する。江戸時代が終わり明治政府になると薩摩藩は鹿児島県になり、琉球王国は沖縄県になり、薩摩藩の搾取も琉球王国の搾取もなくなる。
明治政府は大日本帝国憲法、富国強兵を掲げて日本は帝国主義国家になった。
江戸時代は江戸幕府が日本を支配していたが、それぞれの藩は独立していて、法律は藩が決め、流通する貨幣も藩が発行していた。藩には関所があり、藩が許可しないと入藩ができなかった。明治政府は廃藩置県をやり、法律を決めるのは帝国議会が唯一とし、貨幣も明治政府のみが発行し全国共通とした。関所を廃止して、人々は自由に移動できるようにした。本当の日本統一は明治政府がやったのである。
四民平等、法治主義を掲げて日本を統一した明治政府は日本国を欧米並みの富国にするために、憲法を大日本帝国憲法と命名したように帝国主義国家になる。
帝国主義というのはヨーロッパ諸国では昔からあったことで日本が特別ではない。むしろ帝国主義が国を豊かにするというのはヨーロッパでは常識であった。帝国主義国家を掲げたのはアジアでは日本が初めてであった。
イギリスやオランダなどのヨーロッパ諸国はインドや東南アジアやアフリカを植民地にして自国を豊かにしていた。帝国主義とは軍隊で他国に侵略して植民地を増やして搾取し富を得ることである。
植民地を確保するには軍隊が強くなければならない。富国強兵を掲げた明治政府は徴兵制度を設立し、国民を徹底的に鍛えて軍隊を強くしていった。そして、清に侵略して日清戦争を起こした。日清戦争で勝った日本は台湾を植民地にした。日露戦争で勝ったので、南樺太を植民地にした。
工業などの第二次産業を発展させて近代化を目指していた帝国主義日本の場合は封建時代の植民地政策のやり方とは違っていた。封建時代は支配した領地の農産物を納めせていたが、アジアに侵略して植民地をつくった日本は植民地を経済発展民させる政策をとった。多くの沖縄県民は日本軍が植民地にしたアジアに移住してさとうきび生産をやった。日本政府は砂糖工場を設立して砂糖の生産を増加させていった。

江戸時代は将軍や藩主が政治と軍事を司っていたが明治政府になると政治と軍事の二つに分業化した。そして、大資本家である財閥が国家の運営に参入した。帝国主義国家日本は政治家、軍部、財閥が組んでアジアに侵略していったのである。だから植民地からは3者の富が求められた。3者の富を求めてアジアに侵略し戦争が起こった。

明治政府の時は政治家、軍部、財閥の対立はなかったが、次第に政治家と軍部は対立が生じていく。昭和になるとそれが顕在化していき1932年(昭和7年)5月15日に犬養毅首相が軍部に暗殺され、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日には高橋是清 (大蔵大臣)斎藤実 (内大臣)渡辺錠太郎 (教育総監・陸軍大将)が暗殺される。暗殺することで政治家より軍部の勢力がますます強くなり、日本は軍部が進める植民地拡大主義にまい進していく。もし、政治家のほうが強くて軍部を押さえていたらもっと計画的に植民地拡大は進み、米国との戦争は起こらなかった可能性は高い。

515事件で暗殺された犬養首相と軍部は満州の植民地化のやり方で対立した。犬養首相は日本の傀儡政権をつくって表向きは満州を独立国にしようとしていた。しかし、軍部は犬養首相の案に反対していた。軍部の予算を少なくしようとしていたことと併せて軍部と対立していた犬養首相は軍部に暗殺された。
政治家中心に植民地を増やしていたら、武力で支配するのではなく傀儡政権の国家をつくって植民地の経済を発展させながら国づくりをしていただろう。そのように友好と武力の両方を駆使しながら計画的に植民地を増やしていっただろう。台湾や朝鮮はそのような植民地にしていった。台湾では学校を開いて日本語による教育もやった。沖縄県の最初の知事になった屋良朝苗氏は台湾で教員をしていた。台湾の老人たちは日本語を話せる人が多いし、植民地であったにも拘わらず日本に親しみを持っている人は多い。産業を発展させて地元にも還元しながら搾取すると言う方法であったから、財閥、政治家、軍部にも莫大な収入があったが、それは台湾の人々から搾り取るというものではなかった。
しかし、そのようなやり方は軍部が政治家を押さえたために影をひそめた。いわゆる軍国主義時代の日本は軍事力による植民地拡大主義になった。軍部中心の軍事力によって日本はどんどんアジアに進出していった。政治的に無策な軍国主義日本は米国と戦争をし、敗北した。

戦後は米国、英国などヨーロッパの国々は植民地を確保するための戦争はしなくなった。日本もそうである。第二次世界大戦が終わった時、紀元前から戦前までの長い間ずっと続いていた帝国主義が終焉した。
ただ、共産党一党独裁国家ロシアは周辺国を武力で侵略し、ロシアに有利な社会主義国家群のソ連邦を形成した。戦後の戦争は植民地確保のための戦争ではなく資本主義・議会制民主主義国家と社会主義国家の対立が原因の戦争が増えた。
帝国主義が終焉した原因は社会主義圏との対立だけではない。議会制民主主義の発展が大きく影響している。帝国主義時代は政治、軍事、財閥の三者が国家運営に参加していたが、議会制民主主義が発展すると、財閥や軍の権力を排除するようになる。ヨーロッパでは欧州連合域内における競争法(大企業や国家などの経済主体による市場に対する圧力を規制する法体系)が施行され、アメリカ合衆国では反トラスト法がそして日本では私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)が施行された。
ヨーロッパ、米国、日本では独占資本家は居なくなった。日本では帝国主義時代のように財閥が政治に参加することはできなくなった。そして、軍は政治にシビリアンコントロールされるようになった。
財閥や軍事家や政治家が植民地支配によって富を得ることは議会制民主主義ではできなくなった。また、議会制民主主義は国外の人々も平等であり人権があると認めるようになり他国を搾取する政治もなくなった。

紀元前から数千年も続いていた帝国主義を、普通選挙による議会制民主主義が終焉させたのである。議会制民主主義は人間の歴史上画期的なことである。


議会制民主種国家にとって受け入れることができないのが共産党一党独裁国家であった。ソ連、中国、北朝鮮、北ベトナム、キューバなどの社会主義国家との対立が深まって行った。しかし、国家の独立性を尊重する議会制民主主義国家が社会主義国家を侵略することはなかった。

朝鮮戦争は社会主義国家である北朝鮮が南朝鮮も社会主義国家に統一する目的で侵略してきた。米軍を中心とした連合軍は南朝鮮を守るために侵略してきた北朝鮮と戦争した。米軍は南朝鮮を植民地にするために戦争をしたのではなかった。北朝鮮を南朝鮮から排除した後も米軍は南朝鮮に駐留したがそれは南朝鮮を植民地にする目的ではなく、北朝鮮の侵略を抑止するためである。それは今も続いている。
ベトナム戦争も社会主義国家北ベトナムが南ベトナムを社会主義国家に統一する目的で地元の社会主義軍ベトコンと連携して侵略した。米軍は南ベトナムを守るために戦争をした。ベトナム戦争は米軍が負けて南ベトナムは北ベトナムが支配して社会主義国家になった。
米軍は湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争をやったが植民地にする目的では戦争をやっていない。現在もアフガンやイラクに駐留しているがアフガン政府やイラク政府を倒そうとするイスラム原理主義のタリバンやISISから守るために駐留している。

アジアの米軍は日本・韓国に軍事基地をつくり米軍を駐留させている。また、海上には原子力空母、海中には原子力潜水艦を配置している。米軍はアジアを植民地にするために存在しているのではない。北朝鮮や中国の武力によるアジア侵略を抑止するために存在している。沖縄の米軍基地は日本を守るためだけにあるのではない。韓国、台湾などの国々が侵略されないために抑止力として存在している。沖縄の米軍基地はアジアの民主主義国家の安全を守っている米軍の一翼を担っているのであって沖縄の米軍基地だけで抑止しているのではない。沖縄の米軍基地が日本を守るためだけに存在していると考えるのは間違っている。

 今回の北朝鮮への対応を見ればそのことが分かる。
ミサイル発射を繰り返して挑発行動を続ける北朝鮮をけん制するために米軍は原子力空母カール・ビンソンとロナルド・レーガンを日本海に配置した。2隻はいずれも「全長は約330メートルにも及ぶ。両空母の乗員は5500人前後で、66機前後の艦載機が搭載されている。最大射程26キロの艦対空ミサイル『シースパロー』や、巡航ミサイルなどを迎撃するための『近接防空システム(CIWS)』などを備えており、航空兵力の攻撃能力は1隻あたり、オランダやベルギー、スイスの空軍力に匹敵すると言われている。
二隻の原子力空母の日本海配置は北朝鮮にかなりの圧力であっただろう。原子力空母2隻は配置しただけでなく能登半島沖の日本海で、海上自衛隊や航空自衛隊と共同訓練を実施した。韓国軍とも訓練をした。そして、6月に日本海から離れた。
米軍はミサイル発射を繰り返し、米国、韓国、日本への攻撃を暗示するような北朝鮮に対して、原子力空母2隻を北朝鮮の近海に派遣して、もし、北朝鮮が戦争を仕掛けようとしたら何千発ものミサイルを原子力空母から発射して一気に崩壊させることを北朝鮮に暗黙の警告をした。それは北朝鮮への大きな抑止力である。
抑止に動員されたのは原子力空母だけではない。海中には原子力潜水艦が北朝鮮の近海に配置された。そして、沖縄の嘉手納基地には北朝鮮を監視している在韓米軍基地の有人偵察機U2「ドラゴンレディー」4機を一時的に配備した。北朝鮮との戦争に備えて嘉手納飛行場のF16戦闘機の訓練も増えた。

米軍基地は日本を守るためにあるという考えが国内で定着している。保守も革新も沖縄の米軍基地が日本防衛のためにあるから、保守は沖縄に感謝して、他方革新などは日本を守っている米軍基地が沖縄に集中していることを問題にして日本全体で分担して沖縄の過重負担を軽減するべきだと主張している。
沖縄の米軍基地は日本を守るために存在しているということに私は戸惑う。
戦後の沖縄は本土から切り離されていた。沖縄が日本ではなかった時から米軍基地は存在していた。あの時も沖縄の米軍基地は日本を守っていたというのだろうか。であれば沖縄を日本から分割する必要はなかった。日本を守るのだから沖縄は日本の統治下にあるべきであった。しかし、沖縄は日本ではなく米国民政府の統治下にあった。本土復帰前に沖縄米軍基地が日本を守っていたというのはおかしい。
復帰前は沖縄は韓国から台湾、フィリピンにかけての扇の要の位置にあり、沖縄の米軍基地は社会主義圏の侵略からアジアを守っていると言うのが定説だった。復帰前にはベトナム戦争があり、沖縄はベトナム戦争に行く米兵の中継基地であり休息を取る場所であった。嘉手納飛行場からは毎日B52重爆撃機が離陸しベトナムを爆撃していた。
本土復帰して沖縄は沖縄県となった。そして、ベトナム戦争も終わった。するといつの間にか72年前の沖縄戦と同じように、日本を攻撃する敵軍は沖縄から攻めてくるのだという考えが広まり、沖縄の米軍基地は日本を守るために存在しているという説が定着してしまった。復帰前はそんな説は全然なかったのに、復帰したらいつの間にか保守も革新も「沖縄の米軍基地は日本を守るために存在している」と言うようになった。
アジアの状況は韓国、台湾、フィリピンが軍事独裁国家から議会制民主主義国家になって、中国が世界二位の経済大国になったが、中国、北朝鮮が社会主義国家であり日本などのアジアの民主主義国家と対立している状況に変化はない。それなのに復帰前の沖縄の米軍基地はアジアの要石としてアジアの国々を守っていたのに、復帰後は日本を守る基地になっている。
復帰する前はアジアの要石でアジアを監視していた沖縄米軍基地であったが、本土復帰をしたので沖縄県となり、沖縄県は日本の南端の島になって72年前の太平洋戦争のように敵が最初に攻めてくるのは沖縄であり、沖縄が最初の戦場になるので、日本侵略を阻止するための米軍基地になったのである。おかしな考えである。
 沖縄の米軍基地の役目は復帰前も復帰後も同じである。本土、沖縄の米軍基地と原子力空母、原子力潜水艦などは日本、韓国、台湾、フィリピンを北朝鮮、中国などの侵略から守っているのである。

 嘉手納飛行場の役目はそれだけに留まらない。現在米軍はイラクとシリアでISISと戦っている。米軍はISISに対して戦闘機による爆撃をやっているが、飛行訓練は嘉手納飛行場でも行われている。イラク、シリアは沖縄から遠いので関係ないと思うだろうが、それは違う。飛行訓練は嘉手納飛行場でもやっているのだ。それがなぜ分かるかというと、イラク、シリア戦が始まったのに合わせて嘉手納飛行場の騒音がひどくなったからだ。嘉手納飛行場では離着陸する戦闘機が増え、深夜だけでなく明け方までエンジン調整の爆音が聞こえるようになった。現在夜の12時であるが嘉手納飛行場からエンジン調整の爆音が聞こえるし、時々飛んでいる飛行機の爆音も聞こえる。
 アフガン戦争が始まるまで嘉手納飛行場は静かだったが、アフガン戦争が始まるとエンジン調整の爆音がひどくなった。アフガン戦争の次はイラク戦争が起こり、嘉手納飛行場の爆音は続いたが、イラク戦争が終わると静かになっていた。しかし、イラクでISISとの戦争に米軍が参加して爆撃が始まると、嘉手納飛行場の爆音の時間が長くなり、それは現在まで続いている。ISISとの戦争が終わるまで嘉手納飛行場の爆音は続くだろう。

 フィリピンのミンダナオ島で過激派組織「イスラム国」に忠誠を誓う武装組織とフィリピン軍の戦闘が始まった。ドゥテルテ大統領は、ミンダナオ島に戒厳令を出して対応にあたっているが、武装組織が市の一部を占拠し、市民を人質にするなどしていて戦闘は長期化している。米軍は戦争に参加していないが、もし、フィリピンの要請があれば参加するだろう。参加することになれば沖縄の海兵隊がオスプレイでフィリピンに移動するだろう。

 アジアでは中国や北朝鮮だけでなく、「イスラム国」や共産ゲリラなどの反政府勢力が存在していてフィリピンのようにアジアのどこかで戦争が起こる可能性がある。沖縄の米軍基地はそのような戦争にもいつでも対応してアジアの平和を守る態勢にある。

 沖縄の米軍基地は日本を守るためだけに存在しているのではない。アジアの平和を守っている米軍の一つとして存在している。
  

Posted by ヒジャイ at 21:04Comments(0)

2017年06月23日

ヘリパッド建設反対派は国に莫大な税金を使わせた。そのことを政府のせいにする北上田氏はおかしい



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ヘリパッド建設反対派は国に莫大な税金を使わせた。そのことを政府のせいにする北上田氏はおかしい
政府は「工事に反対する人々によって国の所有地である進入路で車両の駐車、テント設置などの妨害行為が行われ、警備や資機材の運搬経費が増加した」と仲里利信衆院議員(無所属)の質問主意書に答えた。その増加した金額は94億円である。なんと当初契約の6億1300万円から約15倍に膨れ上がっている。費用が増加した原因を政府は工事費の増加ではなく、反対派の妨害行為による警備や資機材の運搬経費の増加であると述べている。ということは反対派の運動が原因で費用が15倍も膨れ上がったことになる。
ヘリパッドは予定通り完成した。阻止することはできなかった。しかし、最初の予定より莫大な税金が警備のために使われた。ヘリパッド建設反対派がやったことは建設を阻止することではなくて、莫大な税金を使わせたことである。それが政府の答弁で分かる。
政府の答弁が事実であることを調べてマスコミに公表したのは政府ではなくて、防衛局や福島瑞穂参院議員事務所を通して情報を入手して調べた平和市民連絡会の北上田毅氏である。
彼は法律や土木についてはプロ中のプロである。彼の情報は何度も沖縄二紙が掲載している。沖縄二紙にとっても法律・土木の専門家として彼を重宝している。

北上田氏は費用が15倍も膨れ上がった原因を彼のブログで述べている。
「契約の際は工期14ヶ月とされていたのだが、安倍首相が国会の所信表明演説で『年内完成』を打ち上げたことにより、実質的には工期4ヶ月ほどでの完成を強いられることとなった。そのために、現場では何が行われたか? 県外から500名もの機動隊を導入して弾圧を強化し、多くの違法行為を続けて工事を強行し、ヤンバルの自然に取り返しのつかない被害を与えたのである。そのために100億円近くもの巨額の費用が使われたのだから決して許されない」

警備費用が増えた原因は安倍首相による工期短縮は関係がない。工期が14ヶ月であろうと4ヶ月であろうと警備費用は増えていた。警備費用が増えた原因に北上田氏は機動隊を500名も県外から導入したことをあげているが、県外から500名の機動隊を導入した原因は、反対派が工事を実力阻止するために県道70号線に200台近くの車を並べ、1000人近くの反対派が座り込みして土砂を運ぶトラックを阻止する計画を立て実行したからである。
反対派の計画は警察に筒抜けであり、反対派がなにをやろうとしているかを警察はすでに知っていた。だから、警察は反対派の計画を取り締まるために県外から500人の機動隊を導入したのである。県外からの機動隊導入の原因は反対派にある。
多くの違法行為をしたのは機動隊ではない。反対派である。機動隊は彼らの違法行為を取り締まっただけである。警備費は全て反対派の違法行為を取り締まるための費用であった。反対派が違法行為をしないで、合法な抗議行動をしていれば機動隊を県外から導入する必要はなかったし、警備のために多くの機動隊を配備する必要もなかった。警備や資機材の運搬経費は当初契約の6億1300万円で済んだ。しかし、反対派は実力阻止を企み実行した。反対派を取り締まるために100億円の費用を使わざるを得なかったのである。100億円の責任は反対派にある。

北上田氏は100億円もの巨額が使われたのは決して許されないと述べている。であるならば反対派を決して許してはならない。

明らかに反対派が原因で100億円もの巨額の税金が使われているのに安倍首相のせいにする北上田氏は頭がおかしいというしかない。高度な知識と優れた分析力を持っている北上田氏であるが左翼イテオロギーにどっぷり埋没してしまうと正常な判断力を失ってしまうようだ。
  

Posted by ヒジャイ at 00:29Comments(0)

2017年06月20日

業者はオール沖縄から離れつつある。当然である。



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業者はオール沖縄から離れつつある。当然である。
 県知事選の時、業者がオール沖縄に加入したのは、翁長候補が知事になる可能性は高く、知事になれば県の公共工事を請け負うことができると考えていたからだ。翁長氏が県知事になったら、彼らの期待に応えて県の公共工事をオール沖縄のメンバーになっている業者に回した。
 ただ、業者にとっては政権を握っている安倍政権も大事である。安倍政権とのつながりも保ちたかった。その役割を受け持っていたのが安慶田副知事であった。しかし、安慶田副知事は共産党や教育庁に巣食う左翼の策略で副知事の座から引きずり下ろされた。安倍政権とのつながりを絶たれたのがオール沖縄の業者である。
 一方、辺野古飛行場建設工事はボーリング調査を終えて埋め立て工事に入った。
辺野古飛行場建設現場に工事車両は1日で100台以上も入っている。埋め立て用の砕石はどんどん運ばれている。辺野古飛行場に賛成した国場組の採石場から砕石は運ばれ、国場組は莫大な利益を得ている。トラック会社やコンクリート会社も儲けている。建設工事が進めば進むほどに国場組や土木建築業者は莫大な利益を手にする。辺野古飛行場建設費は一兆円である。建設工事が続く10年間は経営の安定が保証されているのも同然である。

工事がどんどん進んでいけば県民は辺野古飛行場建設を容認していくだろう。来年に迫った県知事選で翁長知事が再選されることに不安を感じているのがオール沖縄参加の業者である。もし、翁長知事が再選されなかったら、オール沖縄参加の業者は県からも国からも干されてしまう。そうなったら倒産に追い込まれてしまう。
金秀以外の業者はオール沖縄から離れつつあるという。それは当然のことである。
  

Posted by ヒジャイ at 18:37Comments(0)

2017年06月17日

沖縄差別の原因は沖縄にある1



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 沖縄差別の原因は沖縄にある1
大阪府警の機動隊員による「土人」発言で沖縄差別問題が再燃した。
沖縄差別を問題にする識者は1879年の琉球処分以降「歴史的に差別が続いている状態」であると言い、沖縄差別は人種差別であるとも述べている。そして、これからの沖縄は本土と対等に向き合い、差別する側の意識を変えることが問題解決につながると述べている。でも、沖縄差別は本当に人種差別であるのだろうか。そして、差別した側にだけ原因はあるのだろうか。差別された沖縄に差別された原因はないのだろうか。沖縄の識者は差別された側の沖縄についてはなんの調査もしていないようである。

大阪での沖縄県民差別があったのは事実である。私の後輩が大阪の会社に就職し、大阪の男性と交際をするようになったが、彼女が沖縄出身であることを知ると交際しなくなった。彼女の話では大阪では沖縄人は差別されていて大阪人とは結婚できないということであった。沖縄人であることだけで結婚しないということが大阪人にあることが信じられないことだったが、事実後輩は差別されたのである。彼女は高卒である。私の時代の高校生は共通語を使い、ウチナー口は聞くことはできても話すことはできない女生徒が多かった。後輩は演劇クラブにいたから共通語は他の女生徒よりいい方たった。
大阪は沖縄より文化が発展しているし人間は平等であるという思想は沖縄より浸透していると思っていた私は沖縄にはない差別が大阪にあることに驚いた。これは50年近く前のことである。 
なぜ、沖縄人が差別されるのだろうか。原因として考えられるのは沖縄人はウチナー口を使うことであった。ウチナー口は本土の人には分からない。ウチナー口で話していると朝鮮人に間違われたという話は何度も聞いたことがある。
私の中高時代は本土への集団就職の時代だった。高校進学をしない生徒のほとんどは集団就職をした。高校が少なかったからクラスの三分の一は本土就職組だった。本土就職組の多くの生徒が学校の成績は悪く、共通語が下手だった。共通語を話せない生徒も居た。中学三年までの九年間学校に通っていたらみんな共通語を使えるようになっただろうと思うかもしれないがそうではなかった。
戦後間もない頃に生まれた私たちは家ではウチナー口だけを使っていた。共通語を知らなかった。幼稚園で初めて共通語を習った。ウチナー口のほうが自分の考えを話しやすい。特に感情はウチナー口のほうで話した方がいい。私たちが共通語を覚えていなかったので幼稚園の時から先生は共通語の教育をしていた。共通語教育はいつも当たり前のようにやっていたので記憶に残っていないが、小学三年生の時のある授業だけは大笑いしたので覚えている。
野菜について共通語ではなんというかの授業あった。先生がウチナー口で野菜の名前を言い、生徒たちに共通語で答えさせた。先生が「ナンクワァーは」と言うと私たちは「かぼちゃ」と答えた。ゴーヤーは苦瓜(にがうり)、デークニは大根、ウージはさとうきび、シブイは冬瓜等々。分かった生徒が手を上げて答えて、正しければ先生が正しいといい。野菜の説明をした。
先生が「チュブルは共通語でなんと言いますか」と言った時、誰も答えることができなかった。チュブルを栽培している家は少ない。だからチュブルという野菜を知らない生徒も居て、誰も答えなかった。私の友達の家の中で一軒だけチュブルを栽培していたので私はチュブルを知っていたし共通語の名も前を知っていた。私が手を上げようとした時に別の生徒が手を上げた。先生が生徒を指すと生徒は「あたま」と言った。「あたま」と言ったので笑いが起こった。
実は「チュブル」は野菜の名前だけでなく「頭」のことでもある。しかし、野菜を頭とは言わないだろうと予想して、誰も答えなかったが、単純な生徒が単純に考えて「あたま」と言ったのである。それで笑いが起こったのだ。野菜の「チュブル」は「夕顔」のことである。ウチナー口の「チュブル」は頭と夕顔の二つの共通語がある。
学校の授業、童謡、歌謡曲、ラジオなどの影響で私たちは次第に共通語を覚えていくようになるが、それらのものに関心がない子は共通語を覚えるのが遅かった。

私の友人で中学を卒業した後、大阪や名古屋で働いた大城という人間がいたが、大城は彼の父親が琉球民謡をやっていたので琉球民謡に興味があり、中学生の時には三線を練習していたそうだ。だから共通語よりも民謡のウチナー口に興味があり共通語はそんなに理解していなかった。彼は名古屋の印刷屋に就職したが、最初の頃は社長や伊佐月会を教える指導者が話していることが理解できなくて苦労したそうだ。しかし、一年過ぎると名古屋弁に慣れていったという。
大阪で居酒屋でウチナー口で話していると朝鮮人に間違われて、外に出されたことがあったということも聞いたことがある。
沖縄が差別されるのはウチナー口や隣近所の迷惑も考えないで三線を弾いたりしたことが原因だろうと思った。しかし、私の後輩は共通語を話していたし言葉のハンディはなかった。それなのに沖縄人であることで結婚ができないというのは納得できなかった。沖縄差別の原因は、沖縄は遠い南の島であり文化の遅れた野蛮人とみられているのかも知れないと思ったこともあった。
しかし、それでも疑問は残った。沖縄差別について本格的に取り組めば図書館に行き資料を集めなければならないし、大変な作業になる。大変である。大変であるが、その前に沖縄差別について真剣に取り組む気はなかったので調べることはなかった。それに大阪で結婚した女性が居ることも知ったので、沖縄差別は一部の特別に沖縄を嫌っている人がいるからだろうと思うようになった。

 1879年の琉球処分以降、歴史的に沖縄差別が続いているということが時々新聞に載ったりした。沖縄が差別されていると沖縄の識者が主張し続けた。そのことは知っていた。しかし、明治維新は四民平等と法治主義を掲げて誕生した。、沖縄の農民は明治政府によって琉球王府から解放されたのであり、四民平等を掲げた明治政府が沖縄差別をするはずがないという確信はあったので、沖縄の識者のほうが間違っているのだと歴史を歪曲している彼らの主張に苦笑していた。。

 高江の機動隊による「土人」発言から沖縄差別問題が再燃した。大阪警察が沖縄差別していると言い、本土の沖縄差別を識者たちが主張していった。以前の私ならまたかと苦笑しただけで無視していたが、「沖縄内なる民主主義」を出版し、沖縄の識者や政治家批判をしている現在はそういうわけにもいかない。徹底して批判しなければならない。また、そうすることが彼らによって歪曲された沖縄の歴史を正すことにもなる。

ネットで調べていくと、復帰前の一九六三年に出版された比嘉春潮、霜多正次、新里恵二共著の『沖縄』に沖縄差別は日本政府による沖縄差別であると述べてある。
 
 一八七一年(明治四年)、明治政府は廃藩置県を断行する。次いで一八七五年(同八年)、明治政府は琉球藩王に「清との関係を断て」「明治の年号を使い、年中儀礼はすべて日本の布告にしたがえ」「謝恩のため藩王みずから上京せよ」などの要求を突きつける。これに琉球藩が抵抗すると、政府は歩兵大隊約四百人、警察官百六十人を従えた琉球処分官を派遣し、琉球藩を廃し沖縄県を設置する旨の太政大臣命令を伝達する。一八七九年(同十二年)のことである。これが、いわゆる「琉球処分」で、琉球王国は力づくで日本国に併合されてしまった。

 沖縄県に対する政府の強圧的な姿勢は、その後も続き、本土の各県とは比べものにならぬ差別政策がとられることになる。官僚はほとんど本土出身者を充て、諸制度の近代化も本土のようには進めなかった。このため、沖縄の近代化は著しく遅れた。
 政府による沖縄に対する差別は、本土の一般人の沖縄県民を見下げる態度につながった。比嘉春潮、霜多正次、新里恵二共著の『沖縄』(岩波新書、一九六三年)

 復帰前の一九六三年に出版された「沖縄」による沖縄差別論が今も沖縄識者の定番となっている。この差別論には琉球王国の身分制度を排して四民平等の沖縄社会をつくっていこうとした明治政府を理解していないところにある。明治政府は封建社会の江戸幕府を倒して近代社会を築いた。沖縄でも琉球王国を倒して四民平等の沖縄にしようとした。それが琉球処分であった。明治政府による沖縄の近代化政策を理解できない沖縄の学者たちの沖縄差別論である。はっきり言えば彼らには民主主義思想はない。だから琉球王国と明治政府の違いを理解していない。
 琉球処分は琉球王国処分であって琉球=沖縄処分ではなかった。だから明治政府による沖縄差別ではなく近代化であった。この近代化を沖縄差別を主張する識者や政治家は理解していない。
ただ、大阪では実際に沖縄差別は起こった。一部ではなくかなり広い範囲で沖縄差別はあった。ネットで調べていくとそれが分かってきた。それには大正区が関係する。大正区は沖縄の縮図と言われていている。学生の頃に大正区にいったことがあったが、大正区にはウチナー口が溢れていて、飲み屋ではみんなウチナー口だった。大正区ではウチナー口が通用するという噂は聞いていたが、その通りだった。本土で自由にウチナー口が使える世界があることに嬉しくなって、私はウチナー口で思いっきり話した。
琉大では共通語だったし、那覇市内のスナックなどでも共通語で話した。ウチナー口が使われなくなっていった沖縄に比べて大正区にはウチナー口が満ち溢れていた。大正区には言葉だけでなく沖縄の生活習慣も根強く残っていただろう。しかし、それが沖縄差別に深く関係したのである。大阪で沖縄差別があったことは事実である。琉球処分は沖縄差別ではないが、大阪で起こったのは紛れもなく沖縄差別であった。しかし、沖縄差別は政府や大阪府による政治的な差別ではなかった。民間で起こった沖縄差別だった。

 大阪府警機動隊の「土人」発言は左翼の政治家や識者は沖縄差別であると非難しているが、過去の大阪の沖縄差別は警察が沖縄人を差別したのではなく大阪市民が沖縄人を差別したのである。沖縄差別問題は政治の問題ではなく市民生活で生じた問題である。それを政治問題にしようと沖縄差別を隠ぺいしているのが沖縄の左翼政治家や識者たちである。沖縄差別は戦前に起こったが、それは政治というより大阪住民と沖縄人の問題であった。大阪住民と沖縄人の意識や生活習慣の違いが沖縄差別を生んだと言える。
江戸時代から大阪は商人の町と言われるくらいに商業が発展した場所である。沖縄はさとうきびを中心とした農業の島であった。商売の町に農業しかしらない沖縄人が昭和初期に大量に移住した。
 「郷に入れば郷に従え」という諺かあるが農業で生きていた沖縄の人間はそのような諺を知らなかったし、大阪に住むための教育も受けないで大阪に移住した。県が計画的に移住させていれば沖縄差別は起こらなかったかもしれない。しかし、昭和初期の頃に沖縄ではソテツ地獄に襲われ、沖縄で生活できなくなった人々は県外に移住した。その数は県人口の10%をはるかに超えた7万人であった。大阪にも多くの沖縄県民が移住した。彼らは本土で生活するのに必要な教育を受けないまま移住した。それが原因になって沖縄差別が起こったのである。
 
 戦後になっても本土の人間と沖縄の人間の違いでよく言われたことが「ウチナータイム」である。沖縄の人間は会う約束した時間に必ず遅れてくる。そのことを「ウチナータイム」と言った。沖縄の人間のルーズさの象徴としてよく言われたことである。沖縄人のルーズさはもっとたくさんある。

 私が学生の時、早稲田大学を卒業してから、国語の教員免許を取る目的で琉大に入学した鈴木という人が居た。彼に沖縄に来て困ったり悩んだりしたことがあったかを聞いたことがあった。すると鈴木は沖縄の学生は借りたお金や本を返さないことに困ったし、なぜ返さないのか理由がわからないで悩んだと言った。私は彼の話を聞いて驚いた。私たちの間ではそれが常識だったからだ。私は集会やデモに参加した時には女学生から25セントをよく借りた。25セントあればタバコを買いカレーライスを食べることができたからだ。返すつもりのない借金だった。大金を借りて返さないということではない。少額のお金だから、借りても返さなかったということである。学生だからそのくらいはいいじゃないかと思っていたが、鈴木は借りたお金は少額でも返すべきであると言った。鈴木の話を聞いた時、東京は気楽には生きていけない窮屈な世界だと思ったものである。
本の貸し借りはよくやった。鈴木の指摘した通り借りた本は持主が「返せ」と言わない限り返さなかったし、貸した本を再び読みたいと思わない限り「返して」とは言わなかった。
 お酒を飲む時に、私たちにはワリカンという考えはなかった。金がある学生が金をだせばいいという考えだった。
 私たちの習慣に東京からやってきた鈴木は困り悩んだのである。
東京に40年近く住んでいた同級生にこのことを話すと、「東京では借りたお金は利子をつけて返す。借りた金を返さないの東京で通用しない」と言った。
鈴木と私たちの違いは東京と沖縄の違いであるし、それは東京の歴史と沖縄の歴史の違いでもあるだろう。
本土と言わないで東京と言ったのは他の地方では沖縄と似ている地域がある可能性があるからである。沖縄差別は大阪で起こったのであり他の地域では起こっていない。だから本土全域で沖縄差別があったとは言えない。他の地域でも沖縄差別はあったかも知れないが大阪のように規模が大きい沖縄差別はなかっただろう。あったとすれば私たちの耳に届いているはずだ。大阪では私たちの耳に届くような沖縄差別はあった。その事実と原因を解明していこうと思っている。それは沖縄の歴史を知ることにもつながる。

沖縄は亜熱帯であり温帯で春夏秋冬と季節が変わる本土に比べてのんびりしているから、その性だろうと軽く考えていたがが、そういうわけにもいかない状況が沖縄にあった。沖縄の識者や政治家による本土の沖縄差別論がある。もう沖縄差別論は学問と呼べる段階である。以前なら下らん沖縄学者の理屈だと無視していたが、「沖縄内なる民主主義」を出版している現在は無視するわけにはいかない。沖縄差別論が沖縄の歴史も政治も経済も知らない沖縄の学者や識者たちの戯言であることを証明しなければならない。
それには琉球王朝時代に遡らなければならない。沖縄の琉球王国の歴史ではなくて下層の農民の歴史を知らなければならない。それこそが沖縄の本当の歴史である。
琉球王国時代には地割制度で農村は支配されていた。この地割制度が大阪の沖縄差別に深く影響している。

薩摩藩による侵攻が行われた1600年代初めの琉球王国の人口は約10万人であった。薩摩藩に支配された頃に沖縄の農業で大きな変革があった。変革の立役者が野國總管と儀間親方真常である。
農民が干ばつなどで苦しむのを見てきた野國總管は、1605年に、明代中国(現在の福建地方。福州市あたりか。福州市は琉球王国時代から交流があった。)に渡った際、現地の人物から蕃薯(ばんしょ。今で言うサツマイモ)を教えてもらい、鉢植えの苗を持って同年のうちに帰国して野国村で試作した。
悪天候に左右されない蕃薯は土地によく根付いたことから、村の農民に広められ、これによって餓死など凶作による村人の災難は防がれた。
野国総管が蕃薯の苗を持ち帰ったことを聞きつけ、野国総管から栽培法を学び、以後、琉球各地に広めたのが儀間親方である。蕃薯を沖縄では唐芋(からいも)と呼んでいたが、琉球から薩摩藩に渡り、薩摩藩から広まったので今はさつま芋と呼んでいる。
さつま芋は米などの他の野菜のように収穫時期は決まっていない。亜熱帯の沖縄では年中収穫できる。それに痩せた土地の方がおいしい芋ができるし、土を肥やしていく性質を持っている。だから、土の養分を吸い取るさとうきびと土の養分を肥やしていくさつま芋とはいいコンビであり、交互に植えていった。
さつま芋は暴風にも強かったから沖縄の飢餓を救った作物である。中国からさつま芋を持ってきた野國總管を讃える祭りが嘉手納町で今も行われている。

砂糖の製法を沖縄に伝播したのが儀間親方真常であった。さつま芋とさとうきびは沖縄農業の二大作物である。その二つを広めたのが儀間親方であった。彼はさつま芋で沖縄農民の命を救い、砂糖で沖縄経済を発展させた偉大な人物である。

沖縄の人口は1700年代初頭には約15万人になり、1700年代中頃には約20万人と増加していった。人口増加にさつま芋が大きく貢献しただろう。しかし、1771年に発生した明和の大津波によって、当時の八重山列島の人口の3分の1に相当する約1万人が死亡した。さらにこの頃の琉球各地では台風や大雨、干ばつによる飢饉の流行が度重なった。それらの災害により、1800年代初期の人口は15万人へと減少した。

砂糖は沖縄農民の豊かさには貢献しなかった。琉球王朝の豊かさに貢献した。砂糖は全て琉球王国へ献納しなければならなかったからだ。農民は砂糖を舐めることさえ禁じられていた。琉球王国は本土や中国に砂糖を輸出して富を得た。

封建社会は農民が搾取される社会である。沖縄の農民は薩摩藩と琉球王府に二重に搾取されていた。
薩摩藩に支配されていた琉球王府は、
年貢   9000石
芭蕉布  3000反
琉球上布 6000反
琉球下布 10000反
むしろ  3800枚
牛皮   200枚
以上の品々を薩摩藩に毎年献納しなければならなかった。その負担は琉球王府が負ったのではない。琉球王府は支配者として贅沢三昧の生活をしていた。薩摩藩への莫大な献納を負わされたのは農民である。薩摩に支配された琉球の農民は重税に苦しんだ。吉屋チルーのように遊郭に売られていく子供は後を絶たなかった。
こんな説明をすると沖縄の農民は極貧に苦しみ暗い生活を送っていただろうと思ってしまうが、そうではなかった。極貧を極貧とは感じなかっただろうし、それなりに楽しんで生活を送っていた。そのことを予想できるのが地割制度である。
地割制度というのは山林・原野を共有することである。耕作地は数年から数十年のスパンで割り替えられた。
現在残っている地割制度の畑である。


南城市久高島の地割制度の名残りを残す畑(「読谷バーチャル平和資料館」より

 写真で分かるように大きな畑を小石で分けている。分けられた小さな畑が一家族の畑ということである。久高島だから小さいのだろう。本島ならもっと大きかったと思う。畑の大きさは家族の人数に合わせたと思う。
 地割制度の畑は隣合わせになり、毎日顔を合わせていただろう。そして、収穫が早い農民は他の農民に分け与えていたに違いない。
地割制度では他の村と交流を禁じていた。結婚する相手も同じ村の人であった。
 沖縄の村々は他の村との交流が禁じられていたから言葉はそれぞれの村で違っていった。その名残は戦後でもあった。同じ読谷村であっても楚辺と私たちの村の発音は違っていた。冷たい水を私たちは「ヒジュルミジ」と言ったが楚辺は「ヒグルミギ」と言っていた。
 沖縄民謡に「せんする節」というのがあるが、「せんする節」はそれぞれの村の言葉の違いを歌った歌である。「私はある村の誰々であるが、村の言葉は面白い」と歌った後にその村の言葉で話すのである。発音もアクセントも違う言葉に面白さがある歌である。子供の頃よく聞いていた。最近ユーチューブで聞いたが、メロディーは同じだが、子供の頃に聞いた村とは別の村のことばを取り上げていた。
今までは村々の言葉が違う原因は、昔は交通が発達していなかったから村と村の交流が少なかったので言葉が違っていたと思っていたが、それにしても言葉の違う村が多すぎる。その原因が地割制度による他の村との交流を禁じていたからだと知った。

村は一つの家族のようなものであった。だから、お互いに作物を譲り合ったりしていたし、家も部落住民が共同して作った。日常生活に必要な物は村でつくって譲り合っていたのである。
 昔の沖縄の農民には私有意識がなかった。資産は村みんなのものであったから私産というものがなかったからだ。だから土地の売り買いはなかったし、財産の売り買いもなかった。
商業の始まりに物々交換があるが、地割制度の村では譲り合いが普通であり物々交換という考えもなかっただろう。譲り合いの心は素晴らしいように見えるが、私有財産の意識がないということは頑張って自分の財産を増やしたいという欲望が湧かないから生産意欲が湧かないことになる。他の家族より裕福になりたいと思う気持ちが湧かないから地割制度の村では競争意識も生まれなかった。だから生産が発展するということもなかったのである。

 地割制度について調べていくうち驚いたのは、地割制度の村が共産社会であるということだった。共産主義とは会社や土地を私有している者が労働者や農民を搾取する。だから資本や土地の私有をなくして資本家や大地主の搾取をなくし、搾取のない社会をつくるというのが共産主義である。モーガンという学者がアメリカの昔のインディアンには共産社会だった時代があったと書いていて、それを原始共産社会といった。どんな社会なのかイメージすることができなかったが、地割制度の村について調べていく内にその村が原始共産社会であることが分かった。
 地割制度は首里王府が農民を支配するシステムとして採用したが、薩摩藩による侵攻が行われた1600年代初めの琉球王国の人口は約10万人であった。第一尚氏王統の尚巴志王が三山統一したのは200年近く前の1429年であるから人口は恐らく7、8万人であった思われる。王府が禁止しなくても村と村の交流は少なかっただろう。村はそれぞれが独立していて地割制度に近い原始共産社会のようなものであったと思われる。
 沖縄だけでなく、世界の歴史でも村の誕生は原始共産社会であっただろう。日本でも大和朝廷時代の村々は琉球王府の頃の村と似ていなかっただろうか。

 原始共産社会に似ていた沖縄の村社会は贈与し合う贈与互酬経済のシステムであった。村人たちは私有資産、家族資産という概念がなかった。地割制度の村社会で重視されたのは、蓄えることではなく分け与えてみんなが協力し合うことだった。琉球王国時代の農村は相互に贈与し合うことによって、共生できたのである。だから、例え、極貧であっても不幸とは思わないで生きたのである。

明治政府になると地割制度は廃止され、私有財産制の社会になるが300年近く続いた地割制度による贈与互酬の精神は明治以降も沖縄の農民には続いた。そのエピソードがある。

 戦前は沖縄から多くの少女が紡績工場の女工として本土に渡った。他県の女工と沖縄の女工とは家への仕送りのやり方が違っていた。
「それでも、みんなが不思議がっていたよ。何で、あんたたち沖縄の人は、自分が汗水たらして儲けたお金全部家に送るかって……。うん、女工みんなの分は会社が天引きして送りよったけど、沖縄の人は手取りからも送りよったよ。わたしも、カマダ姉さんもせっせせっせとお金を送ったさ。二人とも競争するみたいにしてよ。姉さんが二円送ったと言えば、わたしはおやつ買うのも切りつめ切りつめして三円送ろうとしてね。そのうちに、親も楽になってきて、屋敷を買い戻す、田畑買うして、自分たちの財産を少しずつだけど取り戻していってね。一回に十円でも送るとよ、シマじゅうでパッと評判になって、どこそこの娘は偉いって。わたしたち姉妹もシマじゅうでよく送金する孝行娘っていって、親たちはうらやましがられていたってよ。
(比嘉道子「クワディーサー賛歌」)
 この文章を読んだ時、沖縄少女の純真に思わず涙を流した。那覇の港から少女たちを送る親は「手紙はいいから、お金を先に送って」と言ったというのを子供の頃から聞いていた。それは沖縄の貧しさを表し、少女たちは家の貧しさを助けるために女工になったということが分かるのが「手紙はいいから、お金を先に送って」だった。
本土という新しい世界に行って自分の夢や希望を実現するという気持ちは少女たちにはなかった。ただただ家の貧しさを救うのが彼女たちの夢であり希望であったのだ。
 このことを知人に話したら戦後も似たようなことがあったと言った。パンパンは収入を全部親に送っていたというのである。パンパンというのはアメリカ兵と同棲している女性のことである。米民政府は売春を禁じていたから、米兵相手の売春宿は沖縄にはなかった。だから同棲をして現地妻として米兵からお金をもらうのを商売にしていた女性たちが居て、彼女たちをパンパンと呼んだ。米兵と恋をして同棲をした女性も居たと思うが、知人の話ではほとんどは商売として米兵と同棲していたという。私の家の隣で家を借りていた女性も確実にパンパンであった。彼女は10年以上も隣の家に住んでいたが2、3年ごとに相手の米兵が変わっていった。

 小学6年生の時にきいた担任の教諭の女工の話である。
教諭が少年の頃、隣の家に大好きなお姉さんが居た。彼女は紡績工場に働きに行った。帰って来たときは肌が透き通るように白くなっていたそうだ。教諭は本土に行くと色が白くなって美人になるんだととても喜んだ。しかし、お姉さんは数年後に死んだ。彼女は紡績工場で働いたために肺結核になっていたのだ。教諭の死んだお姉さんの話は印象に残った。そして、紡績工場では多くの女工が肺結核で死んだことを知った。

 20代の時に、我如古より子の「女工節」が出た。沖縄民謡はリズミカルで楽しい歌が多い。ところが「女工節」は女工の気持ちをリアルに表現していた暗い歌だった。琉球民謡は好きではなかったが「女工節」は強烈に惹かれ好きになった。カラオケでもよく歌った。
 
女工節
歌 我如古より子
補作詞 我如古 盛栄

一、親元ゆ離り大和旅行ちゅし 淋しさやあてぃん 勤みでむぬよ
○親元を離れ本土に旅すること 寂しさはあっても務めであるからよ
ニ、友と別れたし島の村はじし 親とわかれたし那覇の港よ
○友と別れたのは故郷の村はずれ 親と別れたのは那覇の港よ
三、那覇までや我島 船乗りば大和 何時が銭儲けて我島帰ゆらど
○那覇までは私の故郷 船に乗れば大和 いつになったらお金を稼いで私の故郷に帰るだろうか
四、大和かい来りば 友一人居らん 桜木にかかてぃ我んや泣ちゅさ
○本土に来ると友達は一人も居ない。桜の木に(寄り)かかって私は泣くよ
五、照る月に向かてぃ 眺みゆる空や 島ぬ面影ぬ勝てぃ立つさ
○照る月に向かって眺める空(又は、身空)には 故郷の面影が強くって(浮かび)立つよ
六、ガラス窓開きてぃ 歌小あびたしが 聞かりゆみアンマ 我身ぬ歌声よ
○窓を開けて歌を歌ったが 聞こえるかしら?お母さん 私の歌声が
七、紡績やアンマ 楽んでぃる来ゃしが 楽や又あらん 哀りどアンマ
○紡績は、お母さん 楽だと言って来たけれど 楽ではないよ 辛いんだよ お母さん

 少女にとって女工として働く場所は内地でもなければ本土でもない。大和である。戦後生まれの私たちは日本の教科書を学んできたし、祖国復帰運動が盛んであったから祖国から切り離された沖縄というイメージがあり、祖国、本土、内地というイメージがある。私たちには大和というイメージはない。しかし、戦前の沖縄の村で生まれ育った少女にとって本土は大和である。彼女にとって本土は見知らぬ不安が一杯の外国なのだ。
 「那覇までや我島 船乗りば大和」の我島を故郷と訳しているが、故郷という訳は適当ではない。意味としては故郷になるが、女工の気持ちとは違う。島の周囲は海である。なにもない。それが島である。沖縄では、
「お前の故郷はどこだ」とは聞かないで「お前の島はどこだ」と聞く。子供の頃、大人にそう言われた時、違和感があった。私は読谷村の比謝に住んでいて、比謝は海に囲まれた島ではない。なぜ島というのか理解できなかった。
昔は地割制度のために村から出ることを禁じていたから、村の外は海と同じである。少女から見れば村が島のようなものである。村を出て、那覇まではなんとか島=国であるが海に浮かぶ船に乗った瞬間に外国である。少女は船に乗って大和にいくのではなく、船に乗った瞬間から島以外の世界に入った気持ちである。外の世界とは彼女にとって大和である。だから、少女は大和と言ったのである。少女の島から離れていく悲壮な気持ちを表現している。
島には国というニュアンスも入っている。だから我島は私の国という訳もできる。沖縄は日本の一部であるといういう観念がない彼女にとって我島は私の国であり本土は本土ではなく大和である。地割制度は村から出ることを禁じていたし他の村との交流も禁じていた。だから、村は規模は小さいがある意味で国のようなものであった。彼女の我島というのはそういうことからくる国意識である。原始共産社会に近い沖縄の村は少女には住み心地のいい場所であっただろう。
 
 さとうきびもさつま芋も育てるのに手間暇がかかるものではない。さとうきびは夏に枯葉をとるだけでいい。さつま芋も植えた後はたまに雑草を取るくらいである。農民は貧困ではあるが時間的な余裕はあった。
 村の人たちが集まって歌や踊りで楽しむのをモウアシビーと言った。沖縄の農民はモウアシビーが好きだった。それを盛り立てたのが三線である。
三線は14世紀に中国から渡ってきて15世紀なると琉球王国で独自に発展していった。沖縄の音楽は古典と民謡がある。二つとも三線は必要である。古典は王宮で歌われた高貴な歌であり、民謡は農民たちが歌ったはやり歌である。本土の民謡は歌い手と聞き手が分かれていて、歌は本格的に訓練を受けた歌手が歌っているし、三味線や尺八、太鼓などが加わって高度である。しかし、沖縄の民謡は三線だけを伴奏にして歌う。メロディーはリズミカルで曲は短い。短い曲を繰り返して歌い、誰でも歌えるのが沖縄民謡の特徴だ。
本土に行った沖縄県民は借家や公園に集まって歌ったり踊ったりして楽しんだ。それはモウアシビーの延長であり、三線ひとつあればモウアシビーはどこでもできた。
 私は一年前から三線を習っているが、三線はメロディーに少しだけ伴奏を加えた演奏であり、ギターやピアノより覚えやすい。三線を弾いたことのない年配の主婦でも楽しく覚えられるのが沖縄民謡の三線である。そして、三線を弾きながらみんなで歌って踊って楽しむというのが沖縄民謡である。
祝節という曲に「かりゆし遊びヨ うち晴りてぃからやヨ 夜ぬ明きてぃ太陽ぬヨ 上るまでんヨ」という歌詞がある。かりゆし遊びは夜通しで飽き足らず、夜が明けて太陽が昇るまでやるというのである。かりゆしとはめでたいという意味である。昔の農民は歌や踊りで夜明け通し楽しんだ。
本土の他の地方からも大阪や東京など都市に移住した人たちは多い。しかし、沖縄県民のように県民が集まって歌や踊りで楽しむことはなかった。それは三線一つの楽器ひとつでモウアシビーのように楽しむ習慣がなかったからだろう。

地割制度の社会には競争意欲が育たない。だから生産効率が悪かった。首里王府は地割制による地力の低下を重視して、1734年に最後の地割と配当地の永久保有をやったが、その後も各地の地割慣行を停止させることはできなかった。こうした点からいって沖縄の地割制は、幕藩制期の本土の政策的な地割制にくらべて、共同体的な性格のきわめて強い制度だったということができる。本土の場合は生産を高めるための政策を実施できたが、沖縄では王府の政策でも農民は共同意識が強くて通用しなかったようである。しかし、農村の共同意識も明治政府によって変えられる。

 明治政府になると地割制は1899―1903(明治32-36)年の土地整理事業によって廃止された。沖縄の経済システムが大きく変化した。
 沖縄の学者は明治政府による琉球処分は琉球王国を力づくで日本国に併合したと言い。明治政府は沖縄に対して差別政策を取って本土のような近代化は進めなかった。そのために沖縄の近代化は著しく遅れたと述べている。沖縄の近代化が遅れたのは中央政府の差別が原因であるというのが沖縄の学者たちの定説となっているが、それは間違いである。明治政府は本土と同じように沖縄の近代化を進めていった。本土でも近代化が進んだ地域もあればおもったほど進まなかったところもある。本土ぜんたいからみれば近代化が進んだと言えるのであって本土の全域が近代が進んだのではない。沖縄と同じ農村地域の近代化は進まなかった。だから本土でも農村から多くの男女が工業・商業地帯に移った。本土全体と沖縄を比べることは学者として失格である。
 
 明治政府の近代化に同調し、なんとか沖縄の貧しさを救おうとした人物が居た。移民の父として有名な當山久三である。當山久三は1868年(同治7年)11月9日、當山家の長男として琉球王国金武間切(現在の沖縄県金武町)並里に生まれた。久三は沖縄師範学校に入学。他の学生らと髷を切るなどして古い風習を絶ち、文明開化の先頭に立つ人間であった。
 師範学校を卒業して羽地尋常小学校の教師になるが、沖縄出身者に差別的な態度をとる本土出身の校長との間に不和が生じ、赴任からわずか2年で羽地小学校を退職した。その後、地元の金武小学校に首席教員として迎えられたが、役所や本土出身の同僚との間に軋轢が生じ、自ら首席教員の職を辞した。
 教壇を去った久三は、地元・並里の総代(現在の町議会議員と区長を兼ねた役職)に就任した。給料は教員時代の14円から4円に激減したが、熱心に村の改革に取り組んだ。しかし、村民の中には、改革者・久三をおそれ、中傷したり暴行を加えたりする者もあった。これらの一部村民に辟易した久三は、総代を辞め、一人で山にこもり晴耕雨読の生活にふけった。このころから海外移民事業について考えはじめていた。

上京した久三は古本屋で『植民論』という一冊の書籍に出会った。その本は「移民」に関する本だった。むさぼるようにこの本を読んだ久三は、沖縄の食糧・人口問題解決のためには海外移民事業が必要であるとの確信に至った。このころ謝花昇と知り合い、互いに意気投合。2人は1899年(明治32年)に帰郷した。

沖縄に帰った久三と謝花は、ともに同志をつのって政治結社・沖縄倶楽部を結成し、機関紙『沖縄時論』を発行するなど自由民権運動に関わっていった。しかし、やがて久三の情熱は、かねてからの関心である海外移民事業に向けられていった。

久三は奈良原繁知事に、海外移民事業の許可を懇願した。再三の要請にもかかわらず、奈良原知事ははじめ久三の願いを聞き入れなかったが、粘り強く交渉を続けた結果、海外移民事業の実施を条件付き(移民たちの手紙は郡長をとおして知事に見せること、金武間切だけでなく県内各地から移民を募集すること)で許可した。

久三は1899年(明治32年)に沖縄初の海外移民30名を那覇港からハワイに送り出すことに成功した。
第1回ハワイ移民は、帰郷するなり立派な家や田畑を買ったため、県民の間に「移民は儲かる」という評判が流れ、第2回ハワイ移民には申し込みが殺到した。1903年(明治36年)、第2回ハワイ移民団は沖縄を出発した。久三はこのとき移民団に同行した。
ハワイへの移民は移民というより出稼ぎである。家族でハワイに渡り、農場で何年か働いてお金を儲けたら沖縄に帰るというのが基本パターンであった。沖縄戦の時に多くのハワイ帰りの人たちが登場するが、原因はハワイ移民はハワイに永住するのではなく、お金を稼いだら沖縄に帰っていたからだ。移民の中には永住する家族も居ただろうが、永住ではなく出稼ぎ目的の移民であった。

當山久三は沖縄の貧しさを移民によって解消しようとした。久三は1909年(明治42年)、沖縄県で初めて行われた県議会議員の選挙に国頭郡から立候補し、トップ当選を果たしたが、このころから病気がちになり、翌1910年43歳の若さで死去した。


明治政府は本土で1874~1880年((明治7~明治13年)に行った地租改正に相当する土地整理を沖縄でも1899(明治32)年にはじめ、1903(明治36)年に終了した。

地租改正
江戸時代までの貢租は米による物納制度であった。物納制度土地の価値に見合った金銭を所有者に納めさせたのが地租改正である。

土地整理の要点、
1、地割制度のもとで使用していた土地をそのまま個々の農民の私有地と認める。
2、土地所有者を納税者とする。
3、物品納や人頭税を廃止して、地価の2.5%を地租として納めさせる。
4、物品納や人頭税を廃止して、地価の2.5%を地租として納めさせる。

 琉球王国時代の地割制度では米、砂糖、芭蕉布など生産物を村全体で王府に納めていたが、地租改正による土地整理ではお金を個人で政府に治めた。明治政府は畑は共有から個人の所有にし、王府に献納していた砂糖は農民の物とし、砂糖で得たお金は農民が自由に使えるようにした。そして、他村との往来を自由にしたし、本土や外国への移住も自由にした。このように沖縄の農民を自由にしたのが明治政府であった。 

土地整理は農民の生活に大きな変化をもたらした。これまでは一方的に土地を割り当てられ、耕作を強制され、物納を強いられていたが、改革後は農民自身が土地を所有し、税金をおさめることになった。唯一の換金作物であるサトウキビ栽培は普及していったし、明治政府もさとうきび生産に尽力した。
 しかし、それでも多くの農民は納税に苦しみ、借金が増えて土地を手ばなす農民も増えていった。農民の間には格差が生じ、所有地のない農民は雇用農民として働くか、もしくは県外への出稼ぎや海外移民へ目を向けざるを得なかった。 
家の貧しさや親の借金を返済するために多くの少女が本土の紡績工場に女工として就職していった。
家の貧しさのために紡績工場の女工になったのは沖縄だけではない。日本の多くの地方から少女たちが紡績工場に働きに行った。そして、多くの少女たちが粉塵で肺が犯されて死んだ。その現実を山本茂実が1968年に発表したノンフィクション文学が「あゝ野麦峠」である。「あゝ野麦峠」は戦前に岐阜県飛騨地方の農家の娘(多くは10代)たちが、野麦峠を越えて長野県の諏訪、岡谷の製糸工場へ働きに出た。吹雪の中を危険な峠雪道を越え、また劣悪な環境の元で命を削りながら、当時の富国強兵の国策において有力な貿易品であった生糸の生産を支えた女性工員たちの姿を伝えた。

このように書くと明治以後の沖縄は差別され貧困化していったように思ってしまうが、そうではない。さとうきびで裕福になった農家は多かったし、さとうきび成金と呼ばれるような農民も居た。

琉球処分により日本へ併合され、沖縄県が設置された明治時代から大正にかけての約40年で人口は約20万人増加した。人口の増加は経済が発展したことと密接な関係がある。
明治政府による機械式の製糖工場の導入によりサトウキビから砂糖への生産効率が向上した。西原村では県・国の施策で製糖工場が建設された後に沖縄製糖株式会社に払い下げられた。

1956年頃の沖縄市のゴヤゲート通りの写真である。戦前の製糖工場跡の煙突が写っている。嘉手納町の水釜には製糖工場は戦争で破壊されたが、レンガでつくった大きな窯跡があった。


産業の近代化が行われたことで、経済的発展に伴い人口が増加した。政府から派遣された官吏や寄留商人の転入も相次いだ。
沖縄の政治経済は明治政府の政策によって発展していった。

女工など多くの沖縄人が本土に移住したが社会問題になるくらいの沖縄差別はなかった。このまま順調に発展していけば沖縄差別は生まれなかっただろう。しかし、順調に進んでいた政治経済の発展も大正末から昭和にかけてソテツ地獄と呼ばれるほどに沖縄の経済は急激に失速し大不況に陥る。それが大阪で沖縄差別が生じる原因にもなる。
  

Posted by ヒジャイ at 11:01Comments(1)

2017年06月16日

野党やマスコミの「数の暴力」非難は議会制民主主義を歪曲するものである



新発売・沖縄内なる民主主義12 A5版  定価1490円(税込み)
新発売・違法行為を繰り返す沖縄革新に未来はあるか 定価1404円(税込み)

本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
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電話番号098-868-4170
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野党やマスコミの「数の暴力」非難は議会制民主主義を歪曲するものである
自民党が審議を終わらせて多数決で共謀罪法案を採決した。それに対して野党やマスヒミは数の暴力だと非難した。国会議員は国民の選挙で選ばれる。国民が選んだ国会議員の多数決で法案は採決される。それは議会制民主主義の基本中の基本である。
審議は尽くされていないのに裁決したのは数の暴力だと野党もマスコミも非難する。笑ってしまう。共謀罪に絶対反対の民進党や共産党と議論はいつまでも平行線である。いつまでたっても審議が尽くされることはない。野党の狙いは審議を長引かせて廃案に追い込むことだ。野党を説得して賛成させるのは不可能だ。多数決以外に決めることができない。自民党が審議に見切りをつけて裁決するのは当然だ。それを数の暴力だと非難するのはバカげている。

そもそも、自民党が3分の2以上の議席になったのは民進党や共産党、社民党、自由党の政策が自民党より劣っていたからだ。非常にだ。非常に劣っていたから国民は民進党、共産党の4野党より自民党を圧倒的に支持したのだ。そのことをないがしろにして数の暴力だと自民党を非難している民進党4野党は国民に支持されていない現実を無視した身の程知らずの政党である。マスコミは政治を客観的に認識する能力を失って、単純な反政権、野党応援団に堕落している。

共謀罪の採択の過程で見えたのは野党やマスコミの議会制民主主義の原点である多数決の歪曲であり、歪曲を正当化する欺瞞である。
  

Posted by ヒジャイ at 09:15Comments(0)

2017年06月13日

沖縄内なる民主主義」の初版で大田昌秀批判を掲載した。



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「沖縄内なる民主主義」の初版で大田昌秀批判を掲載した。
琉球新報
大田昌秀氏が死去 沖縄県知事、参院議員など歴任
2017年6月12日 14:49
 鉄血勤皇隊として苛烈な沖縄戦を体験し、沖縄県知事や参院議員などを歴任し、基地問題の解決や平和行政の推進、県経済の発展などに取り組んだ大田昌秀(おおた・まさひで)氏が12日午前11時50分、呼吸不全・肺炎のため那覇市内の病院で死去した。92歳。久米島町出身。

 大田氏は1925年生まれ。45年、県師範学校在学中に鉄血勤皇隊に動員され、九死に一生を得た。早稲田大学を卒業後、米国に留学し、後に金門クラブの会員にもなった。68年に琉球大教授に就任し、メディア社会学を専攻し、新聞研究・報道研究などに従事した。1990年に革新統一候補として県知事選に出馬し、現職だった故・西銘順治氏を破り、12年ぶりに県政を革新に奪還した。歴代知事が問われる沖縄の心について「平和を愛する共生の心」と表現したことで知られる。

 任期中の95年には平和の礎や県公文書館を建設し、平和祈念資料館の移転、改築にも着手した。96年には、基地のない沖縄の将来像を描き、沖縄の自立的発展を目指した「国際都市形成構想」を策定した。さらに、段階的に米軍基地を全面返還させるとした「基地返還アクションプログラム」をまとめ、国に提案した。国際都市形成構想の理念は現在の沖縄振興計画「沖縄21世紀ビジョン計画」に引き継がれている。

 基地問題を巡っては、歴代知事では最多の計7回訪米し、基地の整理縮小などを直接訴えた。95年には、米兵による少女乱暴事件が発生。地主が契約を拒んだ軍用地について、地主に変わって土地調書に署名押印する代理署名を拒否し、国に提訴された。

 98年の知事選で稲嶺恵一氏に敗れたが、2001年の参院選に社民党から出馬し、当選した。07年の参院選には出馬せず政界を引退した。

 研究者としての顔も知られ、とりわけ沖縄戦や高等弁務官の調査研究に力を注ぎ、住民視点から沖縄戦とその後の米軍統治下時代の実相を広く世に伝えた。著書は「沖縄―戦争と平和」「醜い日本人」「沖縄のこころ―沖縄戦と私」「沖縄 平和の礎」「これが沖縄戦だ」「総史沖縄戦」「沖縄の民衆意識」など70冊を超える。1998年には、沖縄研究で顕著な業績を挙げたとして東恩納寛惇賞を受けたほか、2009年には琉球新報賞を受賞した。2017年には、ノーベル平和賞候補にノミネートされた
                   (琉球新報)

2011年11月に「かみつく」を出版した。4冊目から「沖縄内なる民主主義」に改名した。「かみつく」1号で私が書いたのが太田昌秀批判であった。
元県知事・太田昌秀にかみつく
太田昌秀さんにかみつくための本を探す
 
無名の人間が有名人になるには有名人にかみつくのが一番てっとりばやい方法である。私は有名人になりたい無名な人間である。無名な私は有名人になりたいから有名人にかみつくことにした。最初に誰にかみつくかあれこれと考えた。考えた末に最初にかみつくのを太田昌秀さんに決めた。なにしろ太田昌秀さんは元琉大教授であり、元沖縄県知事であり、元国会議員である。沖縄では超がつくほどの有名な人だ。太田昌秀さんにかみついて、うまくいけば私は有名になれるかもしれない。こんな私の思いつきを、安直な考えだと笑う者がいるだろう。笑いたい者は笑えばいい。なんと身の程知らずの人間だとあきれる者がいるだろう。身の程知らずで悪かったな。万が一有名人になれたら最高じゃないか。えげつないやり方だと軽蔑する者もいるだろう。軽蔑するならけっこうけだらけ、ファックユーだぜ。勇気のある人間だと感心する人間がいるかどうかは知らないが、とにかく、無名な人間が有名人になるには有名人にかみつくのが一番てっとりばやいのは確かなのだ。
さて、かみつくにはどうすればいいか。
その方法は決まっている。太田昌秀さんの書いた本を買って読むことだ。そして、本の中からかみつくことができそうな文章を探すのだ。
 さて、大田さんの書いた本はどんな本があるのだろうか。私はネットで大田さんの本を調べた。調べるとなんと大田さんの書いた本は70冊以上もある。こんなにたくさんの本を書いていたのかと私は驚いた。

近代沖縄の政治構造、伊波普猷―人と思想(共)、伊波普猷の思想とその時代、沖縄崩壊、沖縄人とは何か、日高六郎編「軍備は民衆を守りうるか」、憲法改悪反対運動入門(共)、沖縄―戦争と平和、人間が人間でなくなるときジェノサイド、留魂の碑―鉄血勤皇師範隊はいかに戦塵をくぐったか、沖縄の決断、沖縄差別と平和憲法―日本国憲法が死ねば、戦後日本も死ぬ、死者たちは、未だ眠れ・・・・・・・・・
ううん、みんな難しそうな本だ。どの本を買えばいいのか私は悩んだ。どの本がかみつきやすいのかは本の題名を見ただけではわからない。全部の本を読めばどの本がかみつきやすいか分かるのだが、70冊もの本を読むなんて読書嫌いの私には無理な話だ。それに70冊もの本を買うと本代が10万円は超すだろう。貧乏人の私にとって10万円は大金だ。とてもじゃないが70冊もの本を買うのは無理だ。お金がもったいない。私が買うのは一冊にしよう。三、四冊も買うと読むのが大変だからな。

「こんな沖縄に誰がした」と「こんな女に誰がした」

どの本を買うか。私は試案した。私は悩んだ。本の題名を見比べてもどれがかみつきやすい本か見当がつかない。悩んだ末に私が決断したのは一番新しい本を買うことだった。一番新しい本を買うことに特に理由はない。
 一番新しい本の題名は「こんな沖縄に誰がした」だった。え、どこかで聞いたような題名だ。ああ、わかった。日本の歌謡曲に「こんな女に誰がした」という歌があった。いや違う。「こんな女に誰がした」は歌の題名ではなく、歌詞だ。歌の題名は「星の流れに」だ。ずい分昔の歌であるがなかなかいい歌なので私はスナックのカラオケで時々歌っている。

星の流れに
作詞:清水みのる 作曲:利根一郎

星の流れに 身を占って
どこをねぐらの 今日の宿
すさむ心で いるのじゃないが
泣いて涙も枯れはてた
こんな女に 誰がした

煙草ふかして 口笛ふいて
あてもない夜の さすらいに
人は見返る わが身は細る
町の灯影の わびしさよ
こんな女に 誰がした

飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
ルージュ哀しや 唇かめば
闇の夜風も 泣いて吹く
こんな女に 誰がした

私が生まれる一年前の歌だ。ぐっとくる歌詞だねえ。それに7775777575と定型詩になっていて締りのある言葉の流れが最高だ。昭和の名曲「星の流れに」は、菊池章子という歌手が歌って大ヒットした。
この歌は戦争に翻弄され、満州から引き揚げてきて、生き抜くために身を落とした女性の手記(新聞への投書)を見た「清水みのる」が、そのやるせなさを思い作詞したそうだ。最初にこの曲を貰った歌手は、「こんな娼婦の歌など唄えない」と断ったのを、菊池章子さんが引き受けて歌ったといういきさつがある。

娼婦の女と沖縄をひっかけて「こんな沖縄に誰がした」と本の題名にした大田昌秀さんもなかなか味なことをやるじゃないか。私は感心したね。戦争に翻弄された女性が娼婦に身を落としたように、戦争に翻弄された沖縄も娼婦の女のように身を落としたと大田さんは言いたいわけだ。娼婦と沖縄か。意味深な題名だな。かみつきがいがあるというものだ。
「こんな沖縄に誰がした」にかみつくことにした私は、嘉手納の水釜にあるネーブルカデナの宮脇書店に行って「こんな沖縄に誰がした」を買ってきた。私が沖縄関係の本を買うなんて何年ぶりだろう。30年以上になるのではないか。いや、もっと前かもしれない。たしか、大浜方栄さんという大浜病院の院長が書いた「教師は学力低下の最大責任者」という本を買って以来である。あの頃の私は学習塾をやっていたが、学習塾を始めた時に、沖縄の生徒の学力のあまりの低さにたまげたものだ。学力の低い最大の原因は学校の先生が復習をしないことだった。一度教えたものは100%マスターするのが子供の義務であると学校の先生は決めつけていたのだろう。だから授業では復習をしなかったというわけだ。学校の授業は教科書に敷いたレールを前へ前へとどんどん進めていった。だから、どんどん落ちこぼれが出た。人間は忘れる動物だからな。復習をして前に習ったところを思い出させてあげないと落ちこぼれる生徒が出るのは当たり前だのクラッカーだ。それを学校の先生たちは無視していた。
小学二年生の時に掛け算九九を覚えたとしても、三年生になると部分的に忘れてしまう生徒がかなりいる。だから二桁三桁の掛け算を教える前に掛け算九九の復習をやるべきである。ところが学校では復習をやらない。だから落ちこぼれる生徒がどんどん出てくる。学習塾で掛け算九九の復習をやるだけで成績がぐんぐん上がったものだ。子供の成績を上げるのは簡単だった。
学習塾をやって生徒の学力が低い原因は先生たちのいい加減な教え方が原因であるとわかってきたから、大浜方栄さんの「教師は学力低下の最大責任者」という主張に「そうだそうだ」と私は大いに賛成した。たから「教師は学力低下の最大責任者」の本を買った。沖縄の本を買うのはあれ以来だ。

「こんな沖縄に誰がした」を読む

「こんな沖縄に誰がした」の表紙は全体が朱色だ。琉球王朝の色だな。
真ん中には白い円を描いている。
黄色の字で元沖縄県知事と書いてあり、黒字で太田昌秀著と書いてある。
文字の上には黄色の沖縄本島の図がある。そして、黒字で大きく「こんな沖縄に誰がした」と書いてある。
「こんな沖縄に誰がした」の題名を見た瞬間に「お前がしたのじゃないのか」とからかいの言葉が脳裏にひらめいた。すぐ相手をケチつけようとする私の悪いくせだ。
私は冷蔵庫から2リットルのおーいお茶のボトルを出しコップについだ。居間に行き、一年中居間に居座っている電気炬燵にコップを置いて「こんな沖縄に誰がした」を開いた。耳には昼ドラの声が聞こえる。テレビはあまり見ないが見ていなくてもテレビはつけたままだ。独り暮らしだから、テレビを消すと家中が静かになり独り暮らしのわびしさを感じる。わびしさを感じないためにテレビは一日中かけっぱなしだ。
本を開いた。
朱色の紙があり、それをめくると、「こんな沖縄に誰がした」と大文字で書いてあり、その下に沖縄本島の地図、さらにその下に大田昌秀著と書かれてある。ページをめくった。すると「まえがき」という太文字が右上に小さく申し訳なさそうに立っている。私はまえがきを読んだとたんに、「え」と驚きの声を発した。

まえがき
「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」
うわ、なんてことだ。私の予想とは違いすぎる書き出しだ。
「それはないよ、太田さん」
私は思わずつぶやいていた。

   戦後の名曲「星の流れに」

「こんな沖縄に誰がした」と本の題名にしたのなら、娼婦に身を落とした「こんな女に誰がした」の深い悲しみと沖縄の悲しみを重ね合わせた本でなければならないはずだ。題名と本の内容はおおよそ一致するというのが常識ではないか。それが題名というものだ。表紙カバーにでかでかと「こんな沖縄に誰がした」と書いてあるのに本を開いた途端に「『こんな女に誰がした』もどきの泣き言」と題名を否定するような書き出しになっている。なんじゃこりゃ。期待を裏切られた私は戸惑ってしまった。「こんな沖縄に誰がした」という題名と「こんな女に誰がした」を重ね合わせて興味を持ったために本を買った人もいるはずだ。それなのに「『こんな女に誰がした』もどきの泣き言」とは・・・これじゃあサギまがいだ。
大田さんは戦争に翻弄された女性の悲しみを冷たくつっぱねて昭和の名曲「星の流れに」をあっさりと切り捨てた。

飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん

大陸から帰って来た女性はまだ家族にも会えていない。妹は飢えてはいないだろうか、お母さんに一目会いたい。必死に生きながら妹や母親の無事を願っている。敗戦が原因で娼婦に身を落としながらも妹や母の身の上を心配している女性、
そんな女性は戦後の日本にたくさん居ただろう。
悲惨な戦後の真っただ中を生きている女性の心情を大田さんは「泣き言」と冷たく突き放した。大田さんは県知事になったお人だ。知事というものは県民の生活に関心を持ち、県民の生活を向上させていくのが使命だと私は思うのだが、戦後の名曲「星の流れに」を冷たく突き放した大田さんは貧しい県民のことを考える知事ではなかったかもしれない。と、まえがきの「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」を読んだ瞬間に私は直感した。

菊池章子が歌った昭和の名曲「星の流れに」は多くの歌手に愛されている。
藤圭子、戸川純、倍賞千恵子、島倉千代子、美空ひばり、ちあきなおみ、石川さゆり、秋吉久美子、小柳ルミ子など多くの歌手がこの歌をカバーしている。なんと美輪明宏もカバー曲を出している。歌手たちの「星の流れに」への思い入れは強く、それぞれがオリジナルな歌い方をしていて、それぞれの歌が個性豊かで感動させる。ユーチューブに掲載されている「星の流れに」のファンのコメントを紹介しよう。

菊池章子の歌声は当時の世情そのものである。ちあきなおみの歌声は高度成長期に聞く戦後のイメージである。倍賞千恵子の歌声はその清純さのイメージとかけ離れた落差が大きいゆえに別な何かを醸し出す。藤圭子は不幸をキャッチフレーズに売り出した人なのでこの歌を聴くとなんか空々しい。

戦後の疲弊した世の中で否応なく身を持ち崩す女の心情を吐露するような曲ではあるが、そんな女にも会いたい母の面影を追う気持ちを知らされる。当然と言えば当然すぎる人間の心。菊池章子が歌ったものとは違った味が賠償千恵子の清純な声から窺える。まさか賠償千恵子が唄うとは思ってもいませんでした。

はい、チョコレート色の国電(こんにちのJR中央線)の中で白装束の傷痍兵さんが松葉杖をつきながらコッツコッツ歩いていたのを覚えております。

最近の日本はあまり元気がないようですが、人生と同じく山あり谷ありです。ころんだら、這い上がって、立ち上がって。長い歴史を振り返ってもこれの繰り返しですよね。これらの写真を見てつくづく日本人は立派だと思いました。がんばれニッポン

「星の流れに」ファンのコメントを読めば「星の流れに」が多くの人々に深く愛されていることがわかる。「星の流れに」を「こんな女に誰がした」もどきの泣き言と冷たく突き放す大田さんの気持ちが分からない。所詮大田さんは庶民の気持ちが分からない雲の上の御人かもしれない。
大田さんは、
「私たちの愛する沖縄の現状が日本国憲法の理念をもろもろの規定と余りにも異なり過ぎている事態を直視し、それが何に起因するのかを明らかにしたいのである。と同時に、できる限りその解決の処方箋を読者と一緒に考えてみたい」
と述べているが、なにか白々しく感じる。大田さんの愛する沖縄とはどんな沖縄なのだろう。日本国憲法の理念と沖縄の現状が違うのを問題にしているが、日本国憲法の理念といっても憲法は文字に書かれたものであるし、憲法の解釈はひとつではない。それぞれの人間によって解釈が違う。いくつもの解釈がある。自民党と共産党、社民党では憲法の解釈が大きく違う。みんなが憲法の理念をひとつにすることは不可能だ。大田さんのいう憲法の理念はつきつめていけば大田さん個人の憲法理念である。憲法を調べては沖縄を見て憲法の文章と沖縄を照らし合わせ、また、憲法を調べては沖縄を見て憲法の文章と沖縄を照らし合わせる。こんな繰り返しで沖縄の現実を正確に見ることができるのだろうか。沖縄の人間社会の矛盾、沖縄社会の不幸を理解し、解決することができるだろうか。
世界情勢も国内情勢も変化し続けているのに60年以上も前に作られた憲法を理念にして憲法通りの世の中にしようとするのはおかしいではないか。憲法は神がつくったものではない。人間がつくったものだ。憲法にも欠点はある。欠点を見つければ訂正していくべきである。憲法は固定させるものではない。国民の手によって現実に沿って改定されていくべきものだ。
60,年以上も前につくった憲法を理念に置いて、その理念を実現するという考えは時代の変化に遅れた改革しかできない。現実に生きている私たちは私たちの理念をつくり上げ、私たちの理念を実現するために憲法を改定し、私たちの理念を実現するために現実を変えていくのだ。ただ、日本は戦争に負け、天皇崇拝・富国強兵の帝国主義憲法から180度転換した民主主義の日本国憲法になったために国民のほうが憲法の理念に追いつけない状態が続いた歴史がある。しかし、憲法を絶対視して憲法の理念を実現すればいいと考えるのは世の中の変化を無視し、思想や理念の変化を無視し、現実に生きている人々のことを無視してしまう。現実に生きている人たちの幸せが一番大事な問題であって、憲法の理念に合っているかいないかが大事ではない。
戦前は天皇崇拝者だった大田さんは戦後になると憲法崇拝者に変わったようだ。大田さんにとって戦前は天皇が絶対的存在であり、戦後は憲法が絶対的な存在になったというわけだ。戦前の支配者や軍隊が自分たちの都合のいいように天皇制を解釈したように、大田さんは憲法を自分の都合のいいように解釈しているのだろう。

 昭和の名曲「星の流れに」は戦争で苦労した戦前生まれの人たちだけでなく、私のような多くの戦後生まれの人たちにも愛されている歌だ。そんな「星の流れに」を単なる女の泣き言と切り捨てる大田さんの精神を疑う。この人に人間の情というものはあるのだろうかと思いながら私は本を読み進めていった。
一週間後。一応「こんな沖縄に誰がした」を読み終わった。

   まいったな

 読後の感想は「まいったな」である。かみつくところを見つけるところがなくて困ったという意味で「まいったな」ではない。むしろ逆だ。かみつくところがあまりにも多すぎる。最初のページから最後までみんなかみつくことができそうだ。こんなにかみつきやすい本でいいのかと私は戸惑ってしまったし、かみつくところが多いと書く量が増えて難儀だ。それで「まいったな」と思ったわけである。
元琉球大学教授で、県知事になり、国会議員までなったお人だ。そんなお人が書いた本を私のような社会の底辺で生きてきた人間が簡単にかみつくことはできないだろうと思っていた。かみつくことができなくても無理やりかみつこうと思っていたのに、意外や意外である。いたるところ噛みつくことができるのだ。こんなでたらめなことをよくも書けたものだと妙な感心をしたくらいだ。本当にこのお人は県知事になった人物なのか。信じられない。

私たちの愛する沖縄の現状が日本国憲法の理念をもろもろの規定と余りにも異なり過ぎている事態を直視し、それが何に起因するのかを明らかにしたいのである。と同時に、できる限りその解決の処方箋を読者と一緒に考えてみたい。
                         「こんな沖縄に誰がした」
と、かっこいいことを述べているが、「星の流れに」から見える戦後の日本の悲惨な現実を見ることができないお人がさ、「沖縄の現状」を正しく見ることができるのだろうか。どうしても疑問が湧いてくるよ。大田さんは憲法という上から目線で沖縄を見ているが、上から目線では沖縄の足の裏を見ることはできない。きっぱりとそう言える。
 さて、かみつくとするか。この本を買った目的は有名人の大田昌秀さんにかみついて私が有名人になるのが目的だからな。噛みついて噛みついて噛みついてやろうではないか。
あ、そうだ。大田昌秀さんの略歴を記しておこう。WEBのウィキペティアから転載する。

1945年(昭和20年)- 沖縄師範学校本科2年時、学徒隊の鉄血勤皇隊に動員され、沖縄戦に参戦
1946年(昭和21年)- 沖縄文教学校卒業
1948年(昭和23年)- 沖縄外国語学校本科卒業
1954年(昭和29年)- 早稲田大学教育学部英文学科卒業
1956年(昭和31年)- 米シラキューズ大学大学院修了(社会学専攻)、琉球大学財団に勤務。
1963年(昭和38年)- 東京大学新聞研究所にて研究
1968年(昭和43年)- 琉球大学法文学部教授就任
1978年(昭和53年)- フルブライト訪問教授として米アリゾナ州立大学教授就任
1990年(平成2年)- 琉球大学辞職。11月18日の第6回沖縄県知事選挙に出馬、現職西銘順治を破り当選。石垣空港建設反対を公約にしていた。
1994年(平成6年)- 11月20日、任期満了に伴う第7回沖縄県知事選挙で当選(2期)。
1998年(平成10年)- 11月15日、任期満了に伴う第8回沖縄県知事選挙で稲嶺惠一に敗れ落選。
2001年(平成13年)- 7月29日、第19回参議院議員通常選挙(比例区・社会民主党)当選。
2007年(平成19年)- 7月29日、第21回参議院議員選挙に出馬せず
政界を引退。
現在大田平和研究所主宰

大田さんの信じられない経済論=妄想経済論

 最初にかみつくところを117ページに決めた。117ページに書いてある題名は「基地返還前後の経済変動」だ。大田さんが経済変動の具体例にしているのがハンビータウンだ。ハンビータウンはハンビー飛行場の頃から私は知っている。ハンビー飛行場に駐機しているヘリコプターを見たことが何度もあるし、貨物船が停泊していたのも那覇行きのバスの中から何度も見た。ハンビー飛行場がハンビータウンになってからも遊びや買い物に何回もいったことがある。ハンビータウンのことはよく知っているから、まずはここからかみつくことにしよう。

 大田さんは、ハンビータウンがヘリコプター基地だった頃の雇用は100人そこそこであったが、1981年に返還されてからは若者の街に変貌して、ヘリコプター基地だったころよりも経済発展し、雇用は数千人から一万人にも及んでいると述べている。うん、それはそうだろう。ヘリコプター基地だった頃はだだっ広いだけで、人の姿はみえなかった。たまにヘリコプターを見るくらいだった。返還されてハンビータウンになると次々と新しい建物が建ち、大きな商業街になった。大田さんのいう通りハンビータウンは急激に賑やかな街になり、めざましい経済発展をして雇用が増えたのはわかる。
大田さんは地元自治体に入る固定資産税は約257万円から1億9507万円に及んでいると述べている。以上の統計の事実を根拠にして大田氏は、ハンビータウンだけでなくすべての軍事基地が軍事基地であるよりも民間に開放されたほうが経済発展をするのだと主張している。
なるほど、そうだろうなあと言いたいところだが、そうはいかないよ大田さん。
大田さんはハンビータウンの経済発展イコール県の経済発展であると考えているが、ハンビータウンは小売店の街だ。ハンビータウンの経済発展をそう単純に県の経済発展であると判断できるものではない。北谷町の経済発展が県全体の経済発展につながるのなら大いに喜ばしいことであるが、北谷町の経済発展が県全体の経済発展につながらないということになれば県にとって喜ばしいこととはいえない。

 沖縄市の園田にモッズというライブハウスがあった。国道331号線沿いにあり、モッズでは民謡からジャズまで多くのミュージシャンがライブをし、沖縄では有名なライブハウスだった。そのモッズは新しい街ハンビータウンができると園田より集客力がいいハンビータウンに引っ越した。当然のことながらモッズの客は沖縄市から北谷町に流れた。北谷町の客は増えたが沖縄市の客は減ったということになる。
 ハンビータウンの隣の美浜タウンにグッドウィルという新しいパソコン専門店ができた。すると沖縄市のコリンザの一階にあったパソコン専門店は閉店に追い込まれた。コリンザのパソコン店のほうがグッドウィルより数倍大きい店であったが、元々ぎりぎりの経営状態だったので、グッドウィルに北谷町や嘉手納町の客が流れたことが影響したために赤字経営に転落したのが原因だと考えられる。コリンザのパソコン店が閉店すれば美浜のパソコン店に客は流れる。パソコン関係のコリンザの客はゼロになる。
 モッズのように沖縄市から北谷町のハンビータウン・美浜に移転した店舗がいくつもあり、多くの客がハンビー・美浜に流れた。
 客がハンビー・美浜に流れたためにコリンザのパソコン店のように閉店した沖縄市や宜野湾市の店は多い。つまりハンビー・美浜のお客は他の市町村から流れた人たちであり、他の市場から客を奪うことによって北谷町のハンビー・美浜は繁盛した。沖縄市、嘉手納町、宜野湾市などの店はハンビー・美浜に客を奪われたのだ。
 県全体から見ればハンビー・美浜の客は他の市町村から移動したのだからプラスマイナスゼロである。
 県知事だった大田さんがハンビータウンの経済発展をまるで県全体の経済発展だと錯覚して手放しで喜ぶとは信じられないことである。元県知事なら沖縄市、嘉手納町、宜野湾市などの店からどれほどの客がハンビー・美浜の店に流れて売り上げが落ちたかを調査して、ハンビー・美浜が県全体に及ぼすメリットとデメリットについて分析するべきだ。そのような市場調査をしないで、ハンビータウンの経済成長を県全体の経済成長だと喜ぶ大田さんはめでたいお人である。

 沖縄市の南側にある泡瀬ゴルフ場跡には大型店舗のイオンモールができる。沖縄市の商店経営者たちはイオンモールが開店すると壊滅的な打撃を受けるだろうと心配している。しかし、大田さんなら返還された泡瀬ゴルフ場跡にイオンモールができて経済が発展すると手放しで喜ぶだろうな。

一方が繁栄すれば一方は廃れる。それがサービス業の経済法則だ。例えば、大型スーパーが繁栄することによって個人商店やスーパーは廃れた。コンビニエンスが繁盛することによって個人商店、書店、弁当屋、パーラーなどが廃れた。新しい商業地が繁栄している裏には古い商業地が廃れているのが現実だ。そこにはプラスとマイナスの関係がある。ハンビー・美浜が栄えた分だけ他の商業地の売り上げは落ちたのであり、県経済の全体が成長したとは言えない。こんな簡単な経済法則さえ知らない大田さんが県知事だったのだ。ため息がでてしまう。

大田さんの妄想はまだ続く

現在返還問題で揺れている普天間飛行場は、このハンビー飛行場の11倍の大きさにも関わらず、二〇〇九年三月末現在で二〇七人しか雇用していない。
                         「こんな沖縄に誰がした」
普天間飛行場とハンビー・美浜は車で5、6分の距離である。大田さんは11倍も広い普天間飛行場跡にハンビー・美浜と同じような若者向けの商店街ができたら客はハンビー・美浜の11倍に増え繁盛すると考えている。普天間飛行場跡は繁盛するかもしれない。しかし、ハンビー・美浜の客は普天間飛行場跡に流れるに決まっている。ハンビー・美浜の客は激減し、沖縄市のように閉店する店が増え、ゴーストタウンになってしまうだろう。
米軍基地が全て返還され、跡地にハンビー・美浜のような小売店街ができたら、限られた客の奪い合いで多くの商店街はゴーストタウンになってしまう。沖縄経済の破綻である。
返還跡地にハンビー・美浜のような小売店街だけをつくったら沖縄経済が破綻する理由がもうひとつある。
普天間飛行場の軍用地料金は年間60億円である。軍用地料は日本政府から沖縄県内に入ってきて県内で流通するお金になる。軍用地が返還されるとそのお金が沖縄に入ってこない。県の収入は60億円のマイナスになる。一方ハンビー・美浜の小売店は本土から商品を仕入れる。商品が売れれば売れるほど商品の原価の分だけ本土にお金が出ていく。県内のお金を減らすのがハンビー・美浜の経済である。
 もし、すべての軍用地が返還され、軍用地返還跡にはハンビー・美浜のような小売店の商業街ができると仮定すると、県内に入ってくる米軍基地関係の3000億円の県内への流入は絶たれてしまい、そのかわり県外から商品を買う商店が増えるから、県外へお金が出ていくシステムが増えるようになる。県外からお金が入ってくるお金が減り、県外に出ていくお金が増えれば県全体のお金が減り続けることになる。そうなると県民のお金は減り続けるから、商品を買うお金が減り店の商品は売れなくなる。倒産する店がどんどん増えていく。経済が悪循環して県内の仕事は減り、失業者が増える。
復帰前は戦前の農業中心経済から基地経済になって人口は増え続けた。復帰後は基地経済に加えて政府からの高額交付金による公共工事によって経済が成長し人口が増えた。それに観光業やコールセンターなどやヘンチャー企業の成長が経済発展を助長した。しかし、米軍基地の撤去や海兵隊の減少は沖縄経済を下降させる。それに従って経済がマイナスに転じるだろう。
 そう、ならないためには県外からお金が入ってくる新しい企業が増えることである。コールセンターやベンチャー企業が増えているし、農産物の輸出に情熱を燃やす企業も現われている。しかし、企業が急激に増えるということはない。亀の歩みのように少しずつ増えていくしかない。沖縄の企業が新たに3000億円の収入を増やすには長い年月がかかる。米軍基地は中国の民主化に連動させてゆっくりと減少させて県経済に悪影響を与えないようにするのがいい。急激な基地経済の減少は沖縄経済に悪影響を与えて倒産が増えるだろう。

 普天間飛行場跡地の利用を考える専門家の中で大田さんのようにハンビー・美浜のような商業地を普天間飛行場跡につくろうと考えている人はいない。今提案されているのは国が土地を買って大きな公園をつくることだ。国が土地を買い取ることで地主に大金が入ってくる。地主は普天間飛行場が返還されても土地が売れるから一安心というわけだ。しかし、普天間飛行場の基地経済に匹敵する経済効果案はまだ提案されていない。というより、案がないといったほうがいい。
泡瀬ゴルフ場跡にはイオンモールができる。七月には宜野湾市の西海岸に大店舗サンエーコンベンションシティー店が開店した。ドンキーも進出する予定だ。ハンビー・美浜、泡瀬ゴルフ場跡、宜野湾市西海岸、ズケラン部隊、普天間飛行場は車で十分もあれば行ける場所である。こんな場所にハンビー・美浜のように小売店街をつくれば供給過剰になる。倒産する店が増加してゴーストタウンになる場所も出てくるだろう。大田さんは、全ての米軍基地が返還されればすべての跡地にハンビー・美浜のような街ができて経済発展すると妄想しているのだ。おめでたいお人である。

大田さんの妄想はまだまだ続く

. 嘉手納基地は成田空港の二倍の広さがある。しかし、2734人しか雇っていない。それに比べ、民間空港の成田は4万人以上が雇用されている。
このように軍事基地が返還され、その跡地が、民間に利活用されるようになると、雇用が10倍にふえるという試算がなされているが、それはあながち誇張ではない。
                  「こんな沖縄に誰がした」
 それは誇張ではない。誇張をはるかに超えた妄想だ。
嘉手納基地が返還されて、民間空港になったら、嘉手納空港は成田なみに4万人の雇用ができると妄想をすることがなぜできるのだろうか。とても不思議である。大田さんは嘉手納基地について述べる前に成田空港の旅客数と那覇空港の旅客数を調査比較しただろうか。
成田空港の年間旅客数は約二八〇六万人(二〇一一年)である。それに比べて、那覇空港の平成二一年度の旅客数は一四〇六二万人である。那覇空港の旅客数は成田空港の約半分である。
大田さんは、嘉手納飛行場は成田空港の二倍の広さがあるから、嘉手納飛行場が返還されれば成田空港の二倍の旅客が嘉手納飛行場を利用すると想定している。実に那覇空港の四倍の旅客数だ。どうして、嘉手納飛行場が成田空港の二倍だから旅客数も二倍になるというのだ。こんなことは絶対にありえないことである。
沖縄県の観光業界は観光客を増やすためにあの手この手を使って苦労している。飛行場の広さを二倍にすれば観光客も二倍になるのなら、どんどん飛行場を拡張すればいい。しかし、こんな簡単に観光客や旅客数が増えるわけがない。旅客数が飛行場の広さに比例すると考えるのは馬鹿げている。
もし、嘉手納飛行場が民間空港になったら、那覇空港と旅客の奪い合いになり、それぞれの空港の旅客数は半分ずつになり、二つの空港が莫大な赤字経営をすることになる。
 県知事体験者ならば沖縄県の経済発展を真剣に追及するはずであるが、大田さんは経済破綻をさせてしまう経済論を展開している。不思議なお人である。

大田さんはどうして見え見えの嘘をつく

 大田さんの経済論はあまりにもひどい経済論であるが、歴史観もひどい。大田さんは「こんな沖縄に誰がした」で「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を培ってきた」などと仰っている。私は沖縄の歴史をあまり知らない。そんな私でも尚巴志が三山を統一したのは知っている。三山を統一したということは武力で制圧したことである。話し合いで三山を統一したなんて話は聞いたことがない。私は歴史を調べるために「ジュニア版 琉球・沖縄史」(沖縄歴史研究会 新城俊昭著)を買った。大人用の歴史書となると字が小さくなり内容が詳しく字数の量が多い。読むのに大変だ。だから、字が大きく字数の少ないジュニア版を買った。家に帰って、テレビをつけっぱなしの居間でコーヒーを飲みながら歴史を調べてみた。

1187年頃 舜天、中山(沖縄本島中部)王に即位。
1406年 尚思紹父子、武寧を滅ぼして、尚思紹が中山王になる。
1416年 尚巴志、北山を滅ぼす
1429年 尚巴志王、南山を滅ぼして全島を統一する。
1500年 八重山のオヤケ・アカハチの乱を平定。
1571年 尚元王、奄美大島を征服。
1609年 薩摩の島津家久が琉球に侵攻し、尚寧王を連行する。

1453年五代王・尚金福がなくなると後継争いは激しくなった。争いとは口喧嘩ではない。武力による争いであり、戦争である。後継争いの戦火で首里城は焼け、後継争いをした二人も死んだという。金丸が尚円になったときも武力によるクーデターだったと言われている。王位継承争いの解決方法は話し合いではなく武力争いであった。
武寧を滅ぼす、北山を滅ぼす、南山を滅ぼすというのは武力で滅ぼすということだ。つまり琉球王朝は軍隊を持ち、戦争をしていたということであり、太田さんのいう「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌った」という歴史的な事実はどこにもない。それがまっかな嘘であるということが中学・高校生用の歴史本でわかる。元大学教授であった大田さんが中学程度の歴史を知らないのだ。信じられないことである。
琉球王朝は八重山や奄美大島も武力で制圧して、植民地にしている。「いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決した」というのは間違っている。むしろ暴力で解決したというのが正しい。
琉球人が乱暴であり、中国に嫌われたことを「ジュニア版 琉球・沖縄史」には書いてある。

琉球は明国への朝貢がゆるされると、毎年、中国へ行って貿易をおこなうようになりました、しかし、そうほうの間に何の問題もなく、平穏に朝貢貿易がつづけられていたのではありませんでした。琉球人の中には、不法行為によって厳しく処罰される者もおり、信頼を損なう事件も起こっていました。
 1475年には中国皇帝から尚円王に対し、「琉球使者の中に、殺人、放火によって強盗を働いた者がいる。犯人をつかまえて処罰せよ」と命令がありペナルティーとして「今後、中国への朝貢は2年に1貢とする」ことが言い渡された。琉球王府は、この事件に琉球人がかかわっていないことを報告し、従来通り1年1貢にもどすように嘆願を繰り返したが、1時期は1年1貢にもどったことがあったが、1年1貢は許されなかった。理由は使節にしたがってやってきた琉球人が、違法な取引をしたり、不法滞在で地元住民とのあいだでトラブルをおこしたりしていたからである。
                   「ジュニア版 琉球・沖縄史」より
琉球人が暴力を用いずに話し合いで解決したというのは嘘である。中国で暴力をふるってトラブルを起こしていた事実が歴史にちゃんと残っている。
学者である太田さんがなぜこんなみえみえの嘘をつくのか不思議でならない。

大田さんは沖縄の貧困には目を向けない

 再び「星の流れに」に話を戻す。沖縄の歴史を調べて驚くべき沖縄の貧困の事実を知ったからだ。

18世紀にはいると、台風や干ばつなど異常気象があいつぎ、困窮した農村はそのたびに飢きんと疫病にみまわれ、多くの餓死者をだしていました。
 農村がこのような自然環境の変化に大きく左右されたのは過重な税負担と、地方役人による不当な取り立てが原因でした。その為、予測される災害にすら対応がままならず、まったくの無防備な状態で災害にみまわれるありさまでした。
 こうした社会にはそれを回復させる余力など残っておらず、大量の餓死者をだしていったのです。その上飢きんにみまわれた年でも、農民の租税免除はその場限りで、ほとんどの農村が翌年にはようしゃなく年貢を取り立てられました。
 農村はますます貧しくなり、借金のかたに土地を質入れしたり、身売りしたりする農民があとを絶ちませんでした。
 身売りとは、年貢をおさめるために借り入れた米やお金を返せなくなった農民が、貸主のもとで一定年限、下男下女としてつとめることです。これによって家族が崩壊することを家内倒れといい、これと連動して、上納の責任単位である与(組)がくずれてしまう与倒れの現象も起こりました。身売り農民のひきうけもとは、地元の有力者か間切りや村役人などの特権階層でした。農村はしだいに、ウェーキと呼ばれる富農層と、ヒンスーと呼ばれる貧農層とに二極分解していきました。
                     「ジュニア版琉球・沖縄史」
薩摩藩に支配されていた琉球王府は、

年貢   9000石
芭蕉布  3000反
琉球上布 6000反
琉球下布 10000反
むしろ  3800枚
牛皮   200枚

以上の品々を薩摩藩に毎年献納しなければならなかった。その負担は琉球王府が負ったのではない。琉球王府は支配者として贅沢三昧の生活をしていた。薩摩藩への莫大な献納を負わされたのは農民である。薩摩に支配された琉球の農民は重税に苦しんだ。
吉屋チルーのように遊郭に売られていく子供は後を絶たなかった。

沖縄の貧困は琉球王朝時代で終わらなかった。四民平等になったはずの明治から昭和の戦争直前まで沖縄の農民の貧困は変わらなかったのである。
その歴史的事実が中・高校生用の本に載っている。中・高校生用の本にだよ。「ジュニア版 琉球・沖縄史」から引用する。

 当時の沖縄の人口は約60万人ほどで、その7割が農民でした。しかも、多くは零細農家で、サトウキビを主作物とする農業をいとなんでいました。
 廃藩置県後、沖縄では換金作物としてサトウキビを栽培する農家が増え、サツマイモ畑や水田までもキビ畑にかえていました。砂糖生産中心のこの生活形態は、自然環境や経済変動の影響をうけやすく、ことあれば、すぐさま食糧不足と経済危機にみまわれるという弱さを持っていました。それが最悪の形であらわれたのが、大正末期から昭和初期にかけておこったソテツ地獄でした。
 沖縄の輸出品は、砂糖のほかに、泡盛・パナマ帽子・畳表・鰹節・漆器などがありましたが、その8割を砂糖が占めていたので、国際的な糖価の暴落は県経済に深刻な影響を与えました。国税の滞納額も、1921(大正10)年以後は40%台を推移し、銀行などの金融機関にも大きな打撃を与えました。それにおいうちをかけるように、台風や旱ばつがおそい、農村は文字どおりソテツを食べて、飢えをしのがなければならない状態にまでおいつめられていきました。
 多額の借金をかかえ、生活がどうにも立ちゆかない農家では、最後の手段として身売りが公然とおこなわれました。男性は漁業に従事する糸満へ、女性は遊女として辻の遊郭へ売られました。また、海外移住や本土へ出稼ぎとして沖縄を出ていく人びともふえていきました。
                     「ジュニア版 琉球・沖縄史」
 昭和の名曲「星の流れに」は、戦争に翻弄され、満州から引き揚げてきて、敗戦後の荒廃した日本で生き抜くために身を落とした女性の歌であることを説明した。しかし、沖縄では戦争に翻弄される以前から「星の流れに」のような娼婦に身を落とす女性が多かった。戦前の沖縄では、身売りされるのは女性だけでなく男性も多くいた。いわゆる女性の辻売りと男性の糸満売りである。

 子供の頃、母親から聞いた話だが、戦前は男の子供が駄々をこねて泣くと、「糸満に売り飛ばすぞ」と脅したそうである。すると子供は泣くのをぴたりとやめた。糸満の漁師に売られた子供は漁師として徹底的に鍛えられる。泳げない子供でも縄で縛って海に放り込んだそうだ。溺れて死にそうになってもなかなか引き上げない。もし、訓練中に死んだとしても事故として片づけられる。糸満に売られたら殺されても文句が言えないということである。まさに子供にとって死ぬかもしれない過酷な運命に放り投げられるのが糸満売りであった。
 辻売りや糸満売りは琉球王朝時代の話ではない。戦前の話なのだ。私の家の前に三〇〇坪ほどの空き地があり、その空き地を借りて畑をやっていたじいさんがいたが、彼は与那国出身で、戦前糸満に売られて沖縄にやってきたと話していた。

 戦前までは辻売りや糸満売りが公然と行われていたが、その原因は沖縄の貧しさであった。大正末期から昭和にかけて沖縄ではソテツ地獄があった。昭和時代になってまで沖縄はソテツ地獄と呼ばれる飢餓があったのである。
明治以後は人身売買は法律で禁じられていたが沖縄では公然と人身売買が行われていたという。

 「星の流れに」の女性の貧困は日本の敗戦が原因であるが、沖縄の場合は敗戦以前に貧困問題があった。
大田さんは、昔の琉球は平和主義であり「命どぅ宝」を合い言葉に他者と有効的共生の生き方をして沖縄は豊かであったような印象を与えているが、とんでもないことである。豊かであったのは少数の士族階級の人間たちであり、多くの農民は貧困生活を強いられていた。
明治以降も同じであった。明治時代になり表面上は四民平等になったが実際は富む士族階級と貧しき農民階級の関係は続いていた。明治政府は人材不足であり沖縄に派遣できる人材は少なく沖縄県の政治は統治能力のある沖縄の士族層に任せた。そのためにほとんどの役人は士族出身者が占め、財産のある士族層が経済界も支配していた。明治以後でも沖縄の現実は琉球王朝時代と大差はなかった。
戦前の沖縄の産業は寄留商人と呼ばれる本土出身者と政府の手厚い保護でえた不動産や資金をもとに、貿易・金融・開墾・鉱業開発・新聞社などを経営した尚家が支配していて、人口の70%以上を占めていた小作農民は貧困生活を強いられていた。沖縄社会の70%を占める農民の生活を無視しては沖縄を語ったことにはならない。ところが大田さんは農民を無視して沖縄を語るのである。
沖縄の長い歴史の中で農民や庶民が人間らしい人権や自由を得たのは戦後である。戦前は士族階層と本土の寄留商人が政治と経済を牛耳っていて、農民は差別され、貧困にあえいでいた。土地のない農民は小作人となり低賃金で本土資本の製糖工場のさとうきび畑で働かされていた。戦後になり、米民政府によって寄留商人は沖縄から排除された。士族階層の特権は剥奪され、土地は小作人に分け与えられた。そして、商売が誰でも自由にやれるようになった。平和通り商店街の発展が戦後の沖縄を象徴している。戦後の沖縄ではアメリカ通りと呼ばれていた商店街が至るところにあり、一坪くらいの小さな店がいっぱい並んで活況を呈していた。少ない資金でも商売ができるのが平和通りやアメリカ通りであった。店を営んでいたのはウチナー女性たちであった。女性が自由に商売できるようになったのも戦後である。
米民政府は琉球銀行を設立して商売や起業を一般の人でもやりやすくした。外国資本の参入も自由にしたので外国の資本が沖縄に流入した。それをやったのは沖縄の政治家ではなく米民政府であった。戦後の沖縄経済が活発になっていったのは米民政府がアメリカ流の市場開放政策を行ったからである。
アメリカは沖縄を統治し続けたが、アメリカは中国などの社会主義国家の拡大を抑止する軍事目的で沖縄を統治したのであり、沖縄を搾取するためではなかった。そもそも世界一の経済大国であるアメリカが貧乏な沖縄を搾取するはずがない。米民政府はアメリカ流政治を沖縄に適用して沖縄社会内の差別を徹底してなくし市民が自由に活動できるようにした。米民政府は薩摩藩のように沖縄を搾取することもなく、琉球王府のように農民を搾取することもなく、多くの沖縄人を軍作業員して雇用し、アメリカ兵やその家族は沖縄の店で買い物をして多額の金を沖縄に落とした。米民政府は市場を自由にし、沖縄の産業を育成して沖縄経済を活性化させていった。
戦前の沖縄社会と戦後の沖縄社会を比較すれば戦後の沖縄社会は自由であり経済は何倍も発展していて庶民の生活も向上していることが分かる。

大田さんは沖縄が身分制度のある封建社会であるのかそれとも民主主義社会であるかを問題にしていないし、琉球王朝時代、戦前、戦後の市民レベルでの人権、自由、経済、生活を言及していない。沖縄が独立していた琉球王朝時代は士族階級の支配する不平等社会であった。農民は不自由で貧しい生活を強いられていた。明治政府になり廃藩置県が実施されて以後の沖縄は四民平等の社会であるはずであったが四民平等の思想は沖縄には浸透しないで士族階層が支配している社会であった。戦後、アメリカが沖縄を統治するようになって琉球王朝時代から延々と続いていた士族階級の支配から沖縄の民は解放されたのである。
沖縄の本当の四民平等は戦後の米民政府によって実現したといえる。もし、アメリカが統治しなかったら戦前の不平等社会が戦後も続いていただろう。
憲法、安保条約、基地問題が沖縄問題の中核ではない。沖縄の人たちの生活のありようが沖縄問題の中核である。大田さんの「こんな沖縄に誰がした」は沖縄の貧困、労働、失業、福祉、人権、学力など沖縄の深刻な問題をなおざりにし、中核から外れた問題だけに終始している。
前書きの「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」がそれを象徴している。
  

Posted by ヒジャイ at 08:48Comments(0)

2017年06月11日

憲法を理解していない憲法学者が沖縄の憲法学者高良鉄美



新発売・沖縄内なる民主主義12 A5版  定価1490円(税込み)
新発売・違法行為を繰り返す沖縄革新に未来はあるか 定価1404円(税込み)

本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

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憲法を理解していない憲法学者が沖縄の憲法学者高良鉄美
 日本は国民主権の国である。だから、国民が選出した国会議員の賛成多数で法案を採択する。国民が選んだ衆議員は多数決で「共謀罪」を採択した。それは国民が採択したことになる。日本は国民主権を議会制民主主義の間接民主制度によって実現している。高良鉄美よ。お前は憲法学者だろう。憲法学者であるにも関わらず国会で議員によって法案を決めることが国民主権であることを知らないのか。高良鉄美の「国会では国民の声を聴かずに法案を強行採決した」には笑うしかない。国民は選挙によって国会で法案を決めることを議員に委託している。高良鉄美よ。それを国民主権というのだよ。
 高良鉄美も国民であるし、キャンプ・シュワブ前の国道に集まった主催者発表の1800人の「共謀罪」反対の連中も国民だ。でもたった1800人だけが日本の国民ではない。有権者数は1億434万4170人である。ここでいう国民は有権者のことであるから国民は1億434万4170人ということになる。国会前に集まったのは主催者発表で18000人である。国会前の国民とキャンプ・シュワブの国民を合わせても19800人しか居ない。国民の極一部てある。こんな少数の国民の主張通りにならなかったからといってなにが「国会では国民の声を聞かず」だ。この意見には言葉が「極」という語が不足している。正確に書けば「少数の国民の意見を聞かず」である。しかし、その指摘は間違っている。国会は共謀罪に賛成している自民党、公明党だけではない。高良鉄美と同じ意見の民進党や共産党などの野党がいる。彼らはちゃんと国会で共謀罪の反対意見を述べている。しかし、野党は少数である。少数である野党は少数の国民の代弁者である。少数の国民の意見も聞いた上で国の衆議員は賛成多数で共謀罪法案を採択した。

普通に採択したのを「強行裁決」とは笑わせる。高良鉄美よ。あんた憲法学者だろう。県憲法普及協議会の会長もしていらっしゃる。いわゆる沖縄の憲法の最高権威者だ。沖縄の憲法の最高権威者である高良鉄美よ。憲法に「強行採択」の定義があるのかい。なにを持って「強行採決」というのだ。憲法では「国民の声を聞かず」に採択するのを強行採決というのか。国会は法案を採決するごとに国民の意見を聞けと憲法に書いてあるのか。法案を採択するたびに国民の意見を聞くとなると大変だ。それでは100分の1の法案を採決するのがやっとだ。法案の採択が滞ってしまい、国は混乱し、最悪の場合は国の機能がストップしてしまい。国が崩壊する危険がある。
そんなことにならないために、国会は国民の意見をいちいち聞かないで、予算委員会で質疑応答をした後に国会で法案を採択している。高良鉄美よ。あんたは学生に国会は法案を採択する前に必ず国民に意見を聞かなければならないと教えたのか。それは憲法にも書いてあると教えたのか。笑える笑える。
沖縄の憲法学者というのはその程度のものなのか。

国民が法案について詳しく調べたり決断することができないし、国民が賛成多数で法案を採択することが正しい判断になるという保証はない。それよりも国民の選挙で選んだ専門の政治家が判断した方がより正しい判断ができる。もし、正しい判断ができない政治家と思ったら投票をしないで当選させなければいい。国民の代わりに政治をする政治家を選挙で選ぶのを間接民主主義といい。間接民主主義は国民主権である。間接民主主義は議会制民主主義である。高良鉄美さんよ。なにが、「国会では国民の声を聞かず、共謀罪が衆院で強行採決された。日本は国民主権のはずだ」だ。あんたが共謀罪に反対しているだけではないか。あんたが共謀罪に反対だから普通の採択を「強行採決」と言っているだけだ。
国会議員は国民の代理だ。国会で採択することは間接的に国民が採択するということである。なぜ、こんな基本的なことを憲法学者であるあんたが分からないのだ。考えられないよ。

国道で政治集会を開くのは違法行為だ。違法な集会に参加して演説をするということは法律を知らないということだ。憲法学者でありながら違法な集会で演説するということは法律を理解していない憲法学者ということになる。法律を理解していない憲法学者高良鉄美。憲法を理解していないのに憲法学者であるということは憲法に書いてある文章を全て覚えているに違いない。恐らく高良鉄美は憲法の文章を丸暗記しているだけであり、理解は全然していないということだろう。だから、
「市民運動を巡り、沖縄では(共謀罪が)先取りされている状況だ。基本的人権、平和主義を守るためにも声を上げ続けないといけない」
とわけのわからないことを言い。これまたわけのわからない「廃案を訴え」るようなことをするのだろう。
憲法を理解していないから平気で違法集会の壇上上がって演説するような高良鉄美には基本的人権や平和主義を守ることはできないだろう。高良鉄美には基本的人権や平和主義を守る前にそれを正確に理解することが先だ。憲法の基本さえ知らない高良鉄美が基本的人権を守るのは無理だ。彼が声を上げれば上げるほど基本的人権を歪めていくだけだ。

間接民主主義の議会制民主主義では国会議員が国民の代理であり、彼らが間接的な国民の意見であるということを理解していないのが沖縄の憲法学者とはなあ。信じられないよ。
  

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2017年06月08日

参加者は少なく、機動隊と闘う者はなおさら少ない。それがキャンブ・シュワブの現実である。



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参加者は少なく、機動隊と戦う者はなおさら少ない。それがキャンブ・シュワブの現実である。

2016年04月04日のブログ「とうとう暴力革命主義者まで擁護する翁長知事」で共産党は暴力革命を目指しているが、共産党と同じように目取真氏も暴力革命を目指しているのだと書いた。その指摘は今も同じである。目取真氏のブログを読めはそれが分かる。一年前の「とうとう暴力革命主義者まで擁護する翁長知事」を読んでもらいたい。

とうとう暴力革命主義者まで擁護する翁長知事
民主党と維新の党が合併して民進党になったが合併する前の民主党の時、岡田克也代表は共産党との連携を示唆していた。そのことを安倍首相は、参院選は「自民党・公明党対民主党・共産党の対決」だと言った。そして、共産党は二段階革命論の政党であり、暴力革命を目指している政党であることを強調した。岡田代表は「極めてお粗末なレッテル貼りだ」と言い「相手をしてほしければ気の利いたことを言え、ということだ」と強い不快感を示した。前維新の党の松野頼久代表は「我々が共産と一緒に政権を作ることはない。あえてレッテル貼りをしている」と言った。
報道は、党内に保守系を抱えていて、岡田前民主党代表や松野前維新の党代表は安倍首相に「左傾化」を印象づけられかねないことを用心していると述べているが、安倍首相が指摘したのは「左傾化」ではない。安倍首相が指摘したのは共産党が暴力革命を目指していることの事実である。1953年に共産党は実際に暴力革命を目指す行動を起こした。その時に暴力で国家転覆を目指す運動を禁止する法律ができたくらいである。その法律が「破防法」正確には「破壊防止法」である。

破防法ができたのは共産党が原因である。
共産党は中国に亡命した徳田久一の指導で暴力革命を目指した。1951年10月16日(火)第五回全国協議会で新綱領採択した。革命を達するには暴力しかない、とする武闘闘争の正当化。2月に蒲田で火炎瓶が投げられたのがこの綱領を受けての武力闘争の始まりだった。

○破壊防止法
暴力主義的破壊活動を行った団体に対し、規制措置を定めると共に、その活動に関する刑罰規定を補正した日本の法律。特別刑法の一種。全45条。略称は破防法。
1952年5月に発生した血のメーデー事件をきっかけとして、ポツダム命令の一つ、団体等規正令の後継立法として同年7月21日に施行された。
1951年秋と1952年秋に発生した二度のメーデー事件直後に、公安保障法案と、「ゼネスト禁止、集会デモ取締、プレスコード(新聞綱領)の立法のほか防諜法案」が準備されていた。このうち、プレスコード法案は単独法としては断念され、団体等規制法案→破壊活動防止法の「せん動」行為処罰として、防諜法案は刑事特別法として成立することになる。残るゼネスト禁止法案と集会デモ取締法案、団体等規制法案が、治安三法と呼ばれていた。


政府の答弁書は、共産党に関し「(戦後)国内で暴力主義的破壊活動を行った疑いがある」と指摘し、今も内乱などを取り締まる破壊活動防止法の調査対象であることを明らかにした。
1982年の国会でも「いわゆる『敵の出方論』に立った暴力革命の方針を捨てきっていない」と答弁しており、今回の答弁書は当時の見解を踏襲したものだ。「敵の出方論」とは、党元議長の宮本顕治氏が50年代後半に「革命が平和的かどうかは敵の出方による」などと述べたことを指している。

このように現在も共産党は破防法の調査対象である。

共産党は暴力革命を目指したが、規模は小さく、革命にはほど遠いものであった。それは当然である。議会制民主主義国家であった戦後日本には暴力革命を起こせる要因はなかった。
 徳田久一の戦略には決定的が誤りがあった。徳田久一は中国共産党にならい「農村解放区」を設定して「山村工作隊」をつくって暴力革命を目指したが、中国で農村解放ができたのは中国の農民は大地主に搾取され支配されていたからである。毛沢東は大地主から農民を解放した。だから毛沢東共産党は農民の支持を得、農民の人民解放軍参加者が増え、革命に成功したが、議会制民主主義国家になっていた日本ではすでに大地主制度が廃止され、農民は解放され、土地は農民のものになっていた。毛沢東革命は日本ではすでに成就していたのである。
 徳田久一は、すでに解放されている農民を解放するというのだから時代錯誤も甚だしかった。徳田久一が主導した当時の日本共産党はすでに解放された農民の生活の安全のために働いている警官を殺したし、役所を襲ったのである。共産党が国民に嫌われるのは当然である。

破防法の調査対象となっているのが左翼関係としては日本共産党、革マル派、中核派などである。キャンプシュワブの辺野古移設反対運動の中心的な組織は日本共産党の統一連であり、山城議長が率いる平和運動センターであり、革マル派、中核派である。暴力革命を目指している彼らはキャンプ・シュワブで違法行為を繰り返している。
右翼団体としては大日本愛国党など七団体、外国人在留者団体としては在日本朝鮮人総連合会が破防法の調査対象となっている

 民主党と維新の党が合併して民進党が誕生した。「我々が共産と一緒に政権を作ることはない。あえてレッテル貼りをしている」と言った民進党は発言したが、共産党の志位和夫委員長は「参院選で自公勢力に対決するのは民共2党でなく野党5党と市民だ」と指摘し、野党共闘を目指している。しかし、民進党が共産党と共闘することは難しいだろう。選挙協力まではできたとしても共闘は避けるだろう。なぜなら共産党は二段階革命をまだ破棄しないで維持しているからだ。共産党が二段階革命=暴力革命を破棄しない限り民進党が共産党と共闘することは困難である。

暴力革命を目指している共産党だから、民進党は共闘しないのに、沖縄では驚くべきことが起こった。沖縄自民党のリーダーである翁長雄志氏が自民党を離脱して共産党と手を握ったのである。本土では絶対に起こるはずがないことが沖縄で起こったのである。なぜ翁長氏は共産党と手を握ったのか・・・。その理由は県知事選で当選するのが目的であった。そして翁長氏の計算通り県と自薦に勝って、翁長氏は県知事になった。翁長知事は暴力革命を目指している共産党と手を握ったのである。共産党と手を握った政治家は保守政治家ではないと菅官房長官は言ったがその通りである。
翁長知事は自民党県連に所属していたし、自分でも保守であると主張している。日米安保を支持しているし米軍の日本駐留も認めていると言っている。しかし、共産党は日米安保を廃棄し、日本の米軍基地を全て撤去するのを目的にしている政党である。翁長知事が共産党と手を握るということは共産党の主張に賛成ではないとしても否定をしていないことになる。

目取真氏の思想は共産党と同じように日米安保廃棄、米軍基地撤去である。そして、暴力革命を目指しているから違法行為を平気でやる。目取真氏は共産党員なのかそれとも革マル派なのか知らないが、彼の行動は共産党の実戦部隊と同じ行動をする。

目取真氏は名護市辺野古沿岸部にある米軍キャンプ・シュワブ周辺の立ち入り禁止区域内に許可なく入ったことで日米地位協定に伴う刑事特別法違反の疑いで軍警備員が拘束。第11管区海上保安本部に引き渡され、緊急逮捕された。。

翁長知事は目取真氏の逮捕を「理不尽だ」と言った。目取真氏は芥川賞作家であり、沖縄が誇る人物であるが、彼の辺野古での行動は暴力的であり違法行為を平気でやっている。日本の法治主義に唾するものである。
目取真氏は立ち入り禁止のフロートを障害物と呼んでいる。彼は「海鳴りの島から」というブラグで辺野古の海での活動を掲載している。ブログを読めば分かるが、障害物と呼んでいる立ち入り禁止のフロートを超えるのが彼の日課になっている。

目取真氏のブログより

「長崎の岩場からフロートを越え、海岸沿いに移動しながら陸上での作業がないか確認した。
 浜での作業がないかを岩場で確認してから、海底ボーリング調査に抗議に行く予定だったが、長崎の近くで海底の調査をしている作業船が1隻あった。前日は瀬嵩側の埋め立て予定海域で調査をしていたとのことで、海底の状況を音波探査し船上のモニターで確認しているらしい。
 埋め立てに向けての調査であり、そうであるなら抗議しないといけない。予定を変更して、調査船に抗議することにしてカヌー全艇がフロートを越え、作業船に近づきながら調査をやめるよう訴えた」

目取真氏のいう抗議は私たちが考えている抗議というものではない。彼らの抗議は進入禁止のフロートを超えて作業をしている作業員へ脅しをやることである。進入禁止のフロートを超えて来た集団は平気で違法行為をする危険人物たちであり作業員が恐怖するのは当然である。彼らがフロートを超えて接近したら作業員は身の安全を守るために現場から逃げる。目取真氏のブログには彼らの「抗議」で作業員が現場から離れる様子が多く書かれている。
 目取真氏は日常的に違法行為をしていた。今回も、彼は海上の立ち入り禁止を示すフロートを超えて辺野古崎付近に許可なく立ち入ったから逮捕されたのである。

 沖縄県で政治の最高の地位にあり法律を守るべき翁長知事が違法行為を日常的に繰り返している目取真氏の逮捕を「理不尽」と言ったのである。法治主義を崩壊させるに等しい翁長知事の発言である。

沖縄タイムスは米学者ラブソン氏が目取真俊氏の支援を表明したと書いている。
「不正義に抗議する作家の行動は、世界で長い歴史がある」と述べている。
ラブソン氏の意見は正しい。しかし、その意見は目取真氏には当てはまらない。目取真氏の行動は不正義に抗議する行動ではないからだ。辺野古飛行場建設は宜野湾市民の生存の権利を実現するものである。建設を阻止しようと活動している目取真氏の行動は宜野湾市民の人権を踏みにじる行動である。目取真氏は芥川賞を受賞した作家であるが、辺野古での彼は作家ではなく左翼活動家である。ラブソン氏の意見は目取真氏には当てはまらない。

ラブソン氏は沖縄タイムスのインタビューに対し、米公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師と活動を共にした世界的に著名な米作家ジェームズ・ボールドウィン氏が果たした役割について、「アフリカ系アメリカ人に対する差別と警察の過酷な暴力に抗議したボールドウィンの行動は、他の作家や知識人らに影響を与え、公民権運動を拡大した」と述べ、「辺野古の新基地建設計画に反対して行動する作家や教師への支援を表明する」と述べたという。

沖縄タイムスに見事に騙されたというかそれとも簡単に騙されたというか、そういうレベルのラブソン氏の話である。
ボールドウィンの行動はアメリカの黒人差別に対する抗議である。目取真氏は宜野湾市民の人権を守るための辺野古移設に反対する反人権の抗議=違法行為である。辺野古移設の本質を知っていないラブソン氏は沖縄タイムスの嘘に簡単に騙されたのだ。ボールドウィン氏と目取真氏を同等に見るということにはあきれて苦笑するしかない。
     「とうとう暴力革命主義者まで擁護する翁長知事」

目取真氏の2016年01月21日のブログでは次のように述べている。
「本格的な埋め立て工事の開始を考えれば、今ゲート前で起こっている混乱もまだ微々たるものといえる。1年半が経っても辺野古新基地建設に反対する行動は、ゲート前でも海上でも粘り強く続けられ、運動のすそ野は大きく広がっている。今年に入って水曜日に続き木曜日も大行動日として取り組まれている。ゲート前に300人以上の人が集まると、機動隊も簡単には排除できない」
目取真氏は300人以上集まれば簡単に排除できないというが、高江では県道70号線で1000人近くのデモ隊が座り込みをし。200台近くの車を並べたが機動隊は排除した。300人なら機動隊を増やして簡単に排除するだろう。しかし、300人さえ集まらないのが辺野古の現実である。目取真氏の2017年6月7日のブログには、
「ゲート前からごぼう抜きされた市民は、機動隊によって歩道に囲い込まれ1時間ほど拘束された。その間、K9護岸の捨て石に使用する石材や根固め用袋材に詰める栗石が、ダンプカーに積まれてゲートから入っていった。
 入れ替わりで朝いちばんに入ったダンプカーやトレーラー車が次々に出ていった。海に投下される石材が目の前を運ばれていくが、今の人の数では止めることができない。3日の大阪講演でも強調したが、市民がゲート前にどれだけ座り込むか、工事の進展はそれに左右される。週に一度でも、月に一度でもいい、可能な限り辺野古に結集を!」
と、キャンプ・シュワブのゲート前に座り込む人が少ないことを嘆き、多くの人の参加を訴えている。
目取真氏の考えは座り込みする人が多ければ多いほど工事は遅れるということである。ゲートに入る車両をストップできるくらいの人が集まることを訴えている目取真氏であるがそれだけではない。目取真氏は工事を止めるには実力行使しかないと考えている。そのことが目取真氏のブログには溢れている。

 彼は「警察の暴力に対しては、組織的に反撃すべきだ」と述べている。組織的反撃を根拠にしているのは座り込みをした女性が頭蓋骨を骨折したことにある。目取真氏は女性が怪我をしたのは機動隊の暴力的弾圧のせいだといっている。本当は女性を怪我させたのは機動隊ではない。デモ隊の屈強な男が女性にぶつかったからである。もし、本当に機動隊が怪我をさせていたのなら現場にいる弁護士がすぐに起訴手続きをしていたはずである。起訴をしなかったのは女性を怪我させたのは機動隊ではなかったからだ。
しかし、目取真氏は女性の怪我は機動隊の暴力が原因だと決めつけている。そして、機動隊の暴力に対して反対派も組織的に反撃するべきだと主張しているのだ。

反対派がいつも強調しているのは自分たちの運動は非暴力による反対運動であるということである。目取真氏もブログに非暴力の運動あることを何度も書いている。しかし、彼らは山城議長の機動隊や防衛局への暴力を表現の自由だといって誤魔化している。そして、目取真氏は警察の暴力を根拠にして組織的な暴力を正当化している。
彼らが彼らの暴力を暴力ではないと正当化しているのは明らかである。彼らが非暴力を誇張するのは本当は彼らの暴力主義を隠ぺいするためである。彼らの運動が高まっていって、暴力革命の時期がくれば暴力主義に一気に変貌する。それが共産党であり目取真氏であり山城議長である。

目取真氏の2017年6月7日のブログでは
「諸悪の根源は建設を強行する安倍政権だ。自分の『オトモダチ』には便宜を図り、政治を私物化して戦争への道を突っ走る。こういう政権は1日も早く打ち倒さなければならない」
と述べている。「オトモダチ」とは米国であり米軍のことである。
 目取真氏にとって安部政権は帝国主義米国と手を握り、「政治を私物化」して、「戦争への道」へ突っ走っている政権である。だから、安倍政権派1日も早く倒さなければならないと考えている目取真氏である。「打ち倒す」方法として辺野古飛行場建設を阻止することにある。
 目取真氏が辺野古飛行場に反対するのは大浦湾の自然、ジュゴンを守るのが目的ではない。それは口実であって本当の目的は安倍政権を打倒することにある。
 目取真氏にとって安倍政権が国民による選挙で自民党が国会の過半数になり、過半数の国会議員の支持によって成立したことは関係がない。安倍政権が国民の支持率が過半数を超えているのも関係がない。目取真氏の思想と異なれば国民によって選ばれた安倍政権でも「諸悪の根源」であり、打倒するべき政権であるのだ。
 
 目取真氏は、辺野古の海で違法行為を取り締まっている海保が沖縄で米兵による強姦事件がくり返されてきた歴史を知らないことを批判し、彼らが沖縄の歴史をきちんと学んで、自分たちがやっていることがどういう意味を持つか、沖縄にどういう結果をもたらすかを考えなければならないと述べている。
 海保は違法行為を取り締まっているのであって思想を取り締まっているのではない。日本は思想は自由であり表現も自由である。海保に思想や表現を取り締まる権限はない。だから、海保は辺野古の海の目取真氏や彼の仲間であるカヌー隊の思想や表現を取り締まっていない。フロートを超えて進入禁止海域に侵入している違法行為をしたカヌーを取り締まっているだけである。海保が学ぶべきものは沖縄の歴史ではない。法律である。考えなければならないのはカヌー隊の思想が正しいか正しくないかではない。彼らが違法行為をしたかしなかったかである。

 目取真氏は海保の皆さんも埋め立て工事を見て、本当心が痛いし工事を喜んでいる者はほとんどいないと述べているが、海保は仕事をしている時には個人的な思想を持ってはならない。ところが目取真氏は海保に個人的な思想を求めて、海保は目取真氏たちに何も言わないのに勝手に海保が心を痛めていると決めつけている。そして、「海保であれ民間警備員であれ、本来はいがみ合う必要がない者同士が、新たな米軍基地建設のため対立の構図に巻き込まれている」と勝手に決めつけて対立の構図を生み出したのは安倍政権であると主張するのである。

 辺野古飛行場は普天間飛行場の移設のために建設しているのてあり新基地の建設ではない。移設の目的は宜野湾市民の騒音被害や生命の危機を解除するのが目的である。ところが目取真氏は実現不可能な普天間飛行場の閉鎖・撤去を主張することによって辺野古飛行場建設阻止を正当化するのである。辺野古飛行場が完成しなければ普天間飛行場の閉鎖・撤去はあり得ない。普天間飛行場が存在し続け、宜野湾市民の騒音被害は続き、飛行機が宜野湾市に墜落する危険性も続く。この事実を目取真氏は無視するのである。目取真氏の思想は反米軍基地に凝り固まった思想である。

目取真氏には安倍政権が戦争に突き進んでいる独裁政権に見えるのだ。国会議員は国民の選挙によって選ばれる。日本は間接民主主義の議会制民主主義国家である。目取真氏は彼と思想が異なれば議会制民主主義によって成立した政権も否定し、独裁国家に見えてしまうのである。でもそれは目取真氏が議会制民主主義を理解していないからである。そして、民主主義の根本である多数決を理解していないからである。人はそれぞれ自分の考えが正しいと思っている。全員一致は不可能である。だから、多数決で決める。選挙は多数の票を得た者が当選する。法律は議員の賛成多数で決める。行政は法に則って行う。辺野古の海の海保も法に従って取り締まっている。

目取真氏の思想は民主主義の多数決の原理を否定するものである。民主主義思想が欠落している彼は安倍政権を力による打倒を目指している。それが彼の辺野古の戦いである。
目取真氏の辺野古での戦いは安倍政権を打倒するのが目的である。ゲート前で座り込みする人たちを増やし、警察に反撃できる組織をつくり辺野古建設を安倍政権に断念させる。安倍政権の信用を失墜させれば安倍政権の崩壊につながる。目取真氏の頭の中にはこのようなイメージがあるだろう。
しかし、それは目取真氏の頭の中にあるだけである。現実には実現不可能である。

目取真氏の野望は永遠に実現しない。キャンプ・シュワブの現実を見ればそれが分かる。
はっきり言えることはキャンプ・シュワブに集まる人の多くは目取真氏たちとは違うことである。彼らはゲート前で座り込みをしていても機動隊に暴力で対抗する気持ちはない。

頭蓋骨骨折の重傷を負った女性は東京から夫婦でやってきた。夫婦は年に一度は沖縄に来て、キャンプ・シュワブのデモに参加している。夫婦の思想は目取真氏と同じで辺野古基地建設絶対反対である。しかし、目取真氏と夫婦には決定的な違いがある。目取真氏は機動隊と暴力で対抗できる組織をつくりたいが、夫婦は警察と対決する考えはない。
座り込みをした時に夫婦が気を付けていることは怪我をしないことである。だから機動隊が排除する時は抵抗しないで機動隊の指示に従うことを夫婦はお互いに確認している。
その日も夫婦は機動隊の排除に抵抗することなく機動隊の指示に従った。そして、機動隊の囲いの中に入った。夫はトイレに行きたくなったので機動隊員にそのことを言った。すると機動隊員は夫を囲いから出した。夫がトイレに行っている時に不幸な事件は起きたのである。弁当屋をやっているので夫は妻を沖縄に残して東京に帰り、弁当つくりを再開した。そのことを夫は彼のブログで書いてある。

キャンプ・シュワブ前に集まるデモ隊はこの夫婦のような老人が多いし、怪我を恐れる参加者は多いだろう。怪我を恐れないのは活動家たちだけである。しかし、活動家は少数である。座り込みの集団は数十人くらいで少ないが、少ない集団の中でより少ないのが目取真氏のような活動家である。
全国に散在する活動家たちが彼らの支持者たちに呼びかけてキャンプ・シュワブのゲート前に集めているから座り込み運動は少人数でありながらも根強く続いている。しかし、参加者の多くは座り込みはしても、機動隊と暴力で対抗する気持ちはない。
ゲート前は座り込みをする集団の人数が少ないから工事車両を止めることができない状態が続いている。150台の車両がゲートを出入りしている毎日である。辺野古飛行場建設反対派が建設工事を止めることができないことは明らかである。
それに加えて機動隊と暴力で対抗してもいいと考えている者は参加者の中で少ない。それがキャンブ・シュワブの現実である。
  

Posted by ヒジャイ at 14:28Comments(0)

2017年06月07日

表現の自由ではない。左翼弁護士はテロを正当化する。



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表現の自由ではない。左翼弁護士はテロを正当化する。
国道329号線で、辺野古飛行場建設の工事車両の前で機動隊が複数回警告したにもかかわらず、女性は道路に寝転がったり、立ちふさがったりするなどの行為を繰り返した。だから機動隊は彼女を逮捕した。
弁護士は「表現の自由などの憲法上の権利の行使だ。妨害排除のために逮捕しなければならない事情はなく、刑事罰を問うような行為でもない。みせしめだ」と、逮捕の必要性に疑問を呈したという。
 女性の行為を表現であるという弁護士にはは呆れてしまう。表現とは自分の主張などを第三者に見てもらったり聞いてもらったりするものであり、相手の行為を妨害するものではない。国道で寝転がったり車両の前に立ちふさがったりするのは表現ではない。彼女がやったのは建設工事を阻止する目的でやった車両の通行妨害だ。彼女は表現者ではない政治活動家だ。だから逮捕されたら黙秘をしている。政治活動家だから黙秘をするのである。
通行妨害を表現だといい、憲法上の権利であるという弁護士は表現と妨害の区別もできないようだ。
 機動隊は数回警告している。それでも妨害行為を辞めなければ車両を通すために彼女を逮捕するのは当然である。彼女の行為が表見ではなく違法な妨害行為であることははっきりしている。
 交通妨害をした彼女は表現者というより武器を持たないテロリストに近い。

妨害行為を表現だというこの弁護士からみれば昨年からパリ、ブリュッセル、ニース、イギリスで起こっているテロも表現であるというのだろうな。表現は自由だから沖縄の辺野古では国道で寝転がったり立ちふさがったりして車両を止めた。そして、ヨーロッパでは爆弾を仕掛けたり、銃撃したり、刃物を振り回したりして人を殺害した。この弁護士に言わすれば、沖縄の表現は地味で、ヨーロッパの表現は派手だということかもしれない。
この弁護士は左翼弁護士であり、左翼弁護士だからテロを表現だといって正当化するのだ。
  

Posted by ヒジャイ at 00:46Comments(0)

2017年06月04日

でっかい広告。でもデモ隊は増えず、東京の女性が頭蓋骨骨折しただけ。



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でっかい広告。でもデモ隊は増えず、東京の女性が頭蓋骨骨折しただけ。

沖縄県警名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブの工事車両用ゲート前で2日、新基地建設に反対し座り込みに参加していた女性(64)が、抗議中のもみ合いの中で転倒し、名護市内の病院に救急搬送された。機動隊はデモ隊の人たちを排除する時は怪我をさせないことに気を付けて、とても丁寧に扱っている。機動隊が怪我をさせたとは思えなかったが、予想通り機動隊が怪我させたのではなく機動隊が排除した男が怪我をさせていた。怪我をした女性は機動隊によって排除されたが、同じように機動隊員に運ばれてきた男性に押される形で女性は転倒、頭部を地面にぶつけて出血したという。男は排除された後も女性が転倒して頭蓋骨骨折、急性硬膜下血腫、脳挫傷するくらいに暴れて女性を突き倒したと思われる。
 女性は沖縄県民ではない。東京都民である。怪我をさせた男については書いていないが彼も本土の人間である可能性が高い。沖縄二紙のインタビュー記事に登場するのも三人の内二人は本土の人間である。辺野古移設反対運動参加者は県民より本土の人間が多いようである。
 反対運動を展開している共産党、社民党は総力を挙げて全国動員をしているのだろう。
 頭蓋骨骨折をした女性の夫はキャンプ・シュアブの座り込みに参加してマイクを握り、「(妻の)容態は安定している。これからも沖縄の人たちと心を一つにやっていきたい」と言った。「沖縄の人たちと心を一つに」とはよく言うよと。夫婦が東京から来たのは米軍基地撤去思想が強いからである。彼にとって沖縄の人というのは彼と同じように米軍基地撤去を主張する県民であって、米軍基地に賛成する県民や無関心な県民は沖縄の人ではない。
 この夫婦は定年退職をした元日教組員だろう。高江の県道70号線の集会を何度か見たが、彼らのような夫婦をよく見かけた。知的で上品な夫婦で明らかに元教師という風情であった。日教組は東京だけでなく全国から定年退職した元日教組の教師をキャンプ・シュワブに送り込んでいるだろう。日教組も総力を挙げて辺野古移設反対のキャンプ・シュワブ前座り込み運動を展開している。

 6月3日(土)には沖縄タイムスと琉球新報の両紙に「沖縄は屈しない。私たちも諦めない」という二面を使った大きな広告があった。広告主は「沖縄意見広告運動」であり広告資金は賛同者の寄付金であるという。賛同者の総数が12,548人である。普通の人たちが寄付したようなイメージであるが、広告の内容は「基地のない平和な沖縄、そして日本を」という反米軍基地思想の広告である。
「戦争準備の新基地はいらない!今こそ兵海兵隊は撤退を」というが、今、北朝鮮が頻繁にミサイルを飛ばしている。北朝鮮の攻撃対象には米国だけでなく日本も含まれている。米軍は二隻の原子空母を北朝鮮の近くに配備しているし、自衛隊は米空母と共同訓練をしている。北朝鮮と緊張状態が続いている中で「基地のない平和な沖縄、そして日本を」とよくも言えるものだとあきれてしまう。経済と軍事力で圧力をかけることによって北朝鮮との戦争を避ける努力している最中に「戦争準備の新基地はいらない」とはあきれるしかない。

 辺野古飛行場建設は普天間飛行場を移設するためであって、移設の目的は宜野湾市民の安全を守ることである。新基地をつくっているのではない。それなのに「戦争準備の新基地はいらない」と辺野古飛行場建設を歪曲している。

 広告は普天間基地の無条件返還こそ「唯一の解決策」と主張しているが、それを実現するには無条件返還を主張する共産党や社民党が国会の過半数を取ればいい。それこそが「唯一の解決策」である。共産党と社民党は過半数にほど遠い政党である。それだけ国民の支持が低いということだ。国民の支持が低い政党が「辺野古基地建設の断念」「海兵隊の撤退」「日米安保条約の破棄」を主張しても実現できないのは明らかである。
 6月10日には「辺野古埋め立て阻止」「共謀罪廃案」を主張して国会を包囲しようとしているが、そんなことで辺野古埋め立てを阻止することはできないし、共謀罪を廃案にすることもできない。実現したいのなら国会の過半数を握ることだ。

 広告は安倍・トランプ両政府の「辺野古唯一」を許さないと主著しているが、安倍政府もトランプ政府も国民の選挙によって成立した政府である。国民に選ばれた政府の政策を許さないといっても所詮は国民に選ばれていない者たちの愚痴でしかない。お金を使って新聞で愚痴を吐いているだけである。
 
 こんな嘘だらけの広告はなんの効果もないだろう。反政府運動、反米軍基地運動に参加する人間がこの広告で増えることはない。この広告は沖縄二紙が儲けるだけである。

 この広告でキャンプ・シュワブのデモに参加する人は増えた様子はない。広告とは関係がなく東京から来た定年退職の女性が頭がい骨骨折をやっただけである。
 辺野古飛行場建設は順調に進んでいる。
  

Posted by ヒジャイ at 23:45Comments(1)