2015年06月30日

辺野古の真実を捻じ曲げる者たち


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
4月30日より県内書店で発売しました。

本の説明はこちら





県内取次店
沖縄教販
○県外は書店で注文できます。
県外取次店
(株)地方小出版流通センター

「沖縄に内なる民主主義はあるか」
第六章 八重山教科書問題はなにが問題だったか全文
第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない全文
第四章 基地経済と交付金の沖縄経済に占める深刻さ全文
第三章 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の真っ赤な嘘全文
第二章 命どぅ宝とソテツ地獄全文
第一章 琉球処分は何を処分したか全文

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辺野古の真実を捻じ曲げる者たち


辺野古移設の真実、辺野古埋め立ての真実を述べた。
 辺野古移設は普天間飛行場の危険性をなくすためである。本当は米軍基地問題ではなく人道問題である。たとえば、街の中に危険物を扱う工場があり、しかも騒音が周辺住民に被害をもたらしている。そんな工場を安全な場所に移設するのと同じことである。たまたまそれが米軍基地であっただけのことだ。
 普天間飛行場の移設については国外、県外、県内のあらゆる場所を検討した結果辺野古に決まった。国外、県外移設は不可能であり、辺野古に移設するかそれとも普天間に固定化かの二者択一が本当の問題だ。ところが辺野古移設反対派は徹底してこの真実を隠している。隠して嘘の理由を並べ立てて辺野古移設反対を主張しているのである。翁長知事、革新、沖縄二紙は辺野古移設の真実、辺野古埋め立ての真実を捻じ曲げて、嘘の理由をねつ造して辺野古移設に反対している。


○国土面積の0・6%にすぎない沖縄に、日米安全保障体制を担う米軍専用施設の73・8%が集中。
73・8%ではない。本当は22・7%だ。日本には、北海道から沖縄まで、全国各地に132か所の米軍基地がある。そのうち米軍専用基地は83か所で、他は自衛隊との共用である。共用の49所を入れないから73・8%である。共用を入れると22・7%である。共用といっても米軍が自由に使用していて専用と同じである。共用を含めると北海道が一番広い。米軍の実質的な使用施設は専用施設と共用施設であり実質は22・7%であるのに専用施設だけを計算して73・8%としている。沖縄に基地が集中しているように見せかけるためのまやかしである。
 
○嘉手納飛行場以南の米軍基地を返還しても専用施設面積の全国に占める割合はわずか0・7%しか縮小されず、返還時期も含め、基地負担の軽減とはほど遠いものである。
 嘉手納飛行場以南の米軍基地返還は沖縄本島の問題であって、全国に占める割合で考えるべきではない。嘉手納飛行場以南の人口は沖縄本島の80%を占める。沖縄本島の80%の住民の周囲から米軍基地はなくなるのである。それは大きな効果である。0・7%しか縮小されないというのは印象を小さくするためのまやかしである。

○沖縄の米軍基地問題は、わが国の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべき重要な課題である。
 辺野古移設問題は米軍基地問題でもなければ安全保障の問題でもない。普天間飛行場の危険性をなくす目的の人道問題である。人道問題を基地問題、安全保障問題にすり替えて捻じ曲げている。
日本の安全を守っているのは米軍だけではない。自衛隊も日本を守っている。安全保障の問題であるならば、米軍と自衛隊を合わせて考えるべきである。自営隊員は22万人である。4万人にも満たない米軍よりも自衛隊のほうが日本を防衛している。自衛隊基地は圧倒的に本土が負担している。
本土の主な米軍基地は、三沢空軍基地(青森県三沢市)、横田空軍基地(東京都福生市など)、横須賀海軍基地(神奈川県横須賀市)、岩国海兵隊基地(山口県岩国市)、佐世保海軍基地(長崎県佐世保市)であり、米軍基地は国民全体で負担している。沖縄が米軍基地を過重負担していると言うのは間違っている。

○基地が造られると、大浦湾の美しい風景も生物が多様にすむ海も見られなくなってしまう。
 埋め立てるのは辺野古崎沿岸部だけである。大浦湾を埋め立てるのではない。飛行場建設予定地は現在も建物が建っている。建物群が飛行場になるだけであり、大浦湾の風景が変わるわけではない。埋め立て地から大浦湾に土砂は出ない。大浦湾を汚染しない。だから大浦湾の生物が死ぬことはない。「基地が造られると、大浦湾の美しい風景も生物が多様にすむ海も見られなくなってしまう」は真っ赤な嘘である。しかし、新聞に掲載されたこの文章を読んだ人は大浦湾や辺野古の海が埋め立てられてしまうと信じるだろう。

○こんなきれいな場所を埋め立てるなんて政府の考えは理解ができない。
 これも同じである。辺野古の海や大浦湾を埋めるのをイメージさせる発言である。埋め立てる場所は新聞などに掲載している図などで分かる。辺野古の海も大浦湾も埋めないのに「こんなきれいな場所を埋め立てるなんて」というのである。事実を捻じ曲げている。
 
○ジュゴンがすむ海を守ろう。
 埋め立てするのは辺野古崎沿岸部だけである。大浦湾や辺野古の海に影響はほとんどない。ジユゴンに影響を与えることはない。そもそもジュゴンは回遊動物であり、大浦湾にも辺野古の海にも棲んでいない。ジュゴンが棲む海は金武湾南部、金武漁港から辺野古岬、安部‐嘉陽、伊部、屋我地島周辺の5個所である。
ジュゴンを保護するには、浅所にある海草場と深所の日中避難場を保存することである。ジユゴンの保存に危険なものは辺野古崎の埋め立てではなく、刺し網、定置網の設置、モズク養殖のネットである。水産養殖施設その他の水中構築物も危険である。辺野古崎沿岸部を埋め立てる辺野古基地建設はジュゴン保護には関係がない。辺野古で「ジュゴンがすむ海を守ろう」は辺野古崎埋め立てに反対する人を集めるためのでっち上げである。

○止めよう新基地建設!命育む美ら海を守り抜く。
もし、辺野古埋め立て地から土砂が流出するのなら、海底が土砂に覆われてサンゴもジュゴンの餌である藻も死滅する。飛行場建設反対派の主張は正しい。しかし、土砂は流出しない。土砂が流出しないのだから海の自然は守られる。大浦湾の全ての生物は今のままである。
 埋め立て反対派は大浦湾の自然が失われることを理由にして埋め立てに反対している。自然は失われないのだから埋め立て反対の根拠はない。彼らは嘘をついている。それも故意に嘘をついている。素人の発言に見えるが、彼らは素人を装った左翼活動家である。彼らは新聞に掲載されるのを目的に発言している。辺野古埋め立ての事実を知らない市民を辺野古移設反対に導くためである。

○観光立県なのに自然を壊して、人殺しの基地を造ることには反対。
「自然を壊して」は大嘘である。
 辺野古基地建設は普天間飛行場の移設が目的である。辺野古飛行場が人殺しの基地であるなら同じように普天間飛行場も人殺しの基地である。辺野古飛行場建設を阻止すれば普天間飛行場が残る。「人殺しの基地」は減らない。辺野古飛行場が完成すれば普天間飛行場はなくなるのだから基地が増えると言うことでもない。辺野古基地建設を阻止しようがしまいが「人殺しの基地」はあり続ける。あたかも辺野古基地は移設ではなく新基地であるように述べている。
2004年8月13日に普天間飛行場に隣接する沖縄国際大学にヘリコプターが墜落した。幸いにも死者は出なかったが、死者がでてもおかしくない事故だった。普天間飛行場と辺野古飛行場の違いは人口密集地にあるかないかである。普天間飛行場は人口密集地のど真ん中にあり、飛行機事故が起これば人の命が失われる可能性が高い。一方辺野古飛行場の周囲は海であり飛行機事故が起きても人の命が失われる可能性はとても低い。人の死ぬのに反対であるなら辺野古移設に賛成するのが当然である。ところが「人殺し」に反対という理由で辺野古基地建設に反対している。まるで普天間飛行場の移設ではないようだ。辺野古移設反対に賛成する人を増やすためのまやかしである。

○先の世代には戦争を体験させたくない。命がけで基地建設をとめたい。
 普天間飛行場を辺野古に移設するための建設である。基地を新しく建設することではない。基地は増えない。むしろ、辺野古飛行場は普天間飛行場より小さくなるし、嘉手納飛行場以南の米軍基地は撤去する。基地は減るのである。辺野古の基地建設を止めたら危険な普天間飛行場が残るだけである。
 沖縄は戦後70年間戦争がなかった。米軍が沖縄を守ってきたからだ。米軍基地が沖縄に存在する限り、沖縄が戦場になることはない。戦後の歴史がそのことを証明している。
 米軍基地があるから戦争になると思うのはひどい勘違いであり、被害妄想である。

○仲井真知事が防衛局の埋め立て申請を承認しなかったら県民同士(警官と反対派)が争わなくて済んだ。知事は辺野古に来て、県民同士の争いを見てほしい。
 議会制民主主義を否定した主張である。埋め立て申請は公有水面埋立法に則ったものであり、瑕疵がなければ知事は承認しなければならない。瑕疵がなかったから仲井真知事は承認したのだ。
 警官は県民である前に議会制民主主義国家日本の法律を国民に遵守させる義務を持つ国家公務員である。県民であろうとなかろうと違法行為をしている人間を取り締まるのが警官だ。県民同士の争いとは笑わせる。辺野古移設反対派が違法行為しているのを警官が取り締まっているのであり、県民同士の争いではない。
 そもそもキャンプシュワブで違法行為を繰り返している人間たちは全国から辺野古移設阻止を目的に集まってきた左翼活動家たちだ。過激な違法行為をして警官に逮捕された人間の多くは本土からやってきた者たちであり、県民はとても少ない。彼らは共産党や社民党や革マル派や中核派に属する人間たちであり、市民というより左翼活動家である。彼らの目的は辺野古移設を阻止することだけではない。彼らの目的は辺野古移設を阻止し、普天間飛行場を閉鎖・撤去し、日本の米軍基地を撤去し、日米安保条約を破棄することである。彼らは市民を装った左翼活動家だ。

自然を愛する市民を騙すプロパガンダたち

キャサリン・ミュージック
 キャサリン・ミュージックさんは名護市辺野古沖の大浦湾を訪れ、ハマサンゴやアオサンゴの群集するポイントに潜り、視察した。「まだ大丈夫。美しい」と笑みを浮かべ「世界中で(美しい海が)失われている。辺野古の海は絶対に守る。私は諦めない」と話した。

キャサリン・ミュージック=1948年生まれ。海洋生物学者。世界中の海をフィールドにし、1980年代に石垣島新空港建設計画があった白保でサンゴの保護活動に関わり、その後­沖縄に述べ11年滞在し、現在はハワイ在住。

 キャサリンさんはこれまでプエルトリコの海やグレートバリアリーフ(オーストラリア)など世界各地の海に潜り、サンゴ礁の調査をしてきた。米軍普天間飛行場の移設に伴う辺野古海域の埋め立てについては「恐ろしい行為。ばかなこと」と批判している。
「辺野古の海には千種を超える魚がいる。サンゴも400種以上が生きている。新種もまだいるはずだ。こんなにも美しく、貴重な海は世界中どこにも残っていない」
と指摘し、
「軍事基地ではなく、海洋公園にするべきだ。世界中の人に辺野古の海の美しさを知ってもらいたい。そうすればきっと、ばかな行為(新基地建設)は止められる」と語り、「カリブ海など世界中でサンゴ礁が失われている。温暖化や赤土汚染、酸性化など理由はさまざまだが、(基地建設で)わざと殺すのは信じられない」と大浦湾の世界的な価値を強調した。
「大浦湾は山と川があり、マングローブの生物など、全てを備えたエコシステムだ。軍事基地より海洋公園にした方が雇用や教育の面でも効果がある」と指摘し、「破壊か調和か、沖縄の人には選ぶことができる。スコットランドと同じで、沖縄には民主主義が生きている」と語った。

キャサリンさんは「(基地建設で)わざと殺すのは信じられない」と米軍基地建設が自然破壊するかのように発言している。キャサリンさんは間違っている。米軍基地は自然を破壊をしない。防衛局は環境アセスを県に提出し、県が検討した結果埋め立てを許可したのである。辺野古飛行場建設で自然を破壊することはあり得ない。しかし、キャサリンさんは自然破壊をするという。キャサリンさんの学者としての見識を疑わなければならない。
 キャサリンさんは、「山ぬはぎねー、海んはぎん、海んはぎねーウチナーんはぎん(山がはげれば海もはげる。海がはげれば沖縄もはげる)」としまくとぅばで語ったという。その通りである。山からの栄養を含んだ水が海に流れ出て、その養分が海の植物や動物を育てる。山の自然を保つということは海の自然を豊かにするということである。大浦湾の周囲は山である。山の自然が大浦湾の自然を豊かにしているのは事実である。
キャサリンさんの言う通りであるが、しかし、「山ぬはぎねー、海んはぎん」にはひとつ大事なことが抜けている。川である。山の水は川を伝って海に流れ込む。だから、山の自然が保たれたとしても川が汚染された場合は山からの水は汚れてしまい。汚れた水が海に流れ込んでしまう。川が汚れていると海も汚れてしまう。
川を汚染する正体は川沿いにある工場や住宅や畑である。工場や住宅や畑から汚染水が流れ出て、川を汚し海を汚すのである。山は自然のままであっても川が汚染されていると海は汚染されてしまう。

大浦湾は沖縄本島の東側にあり、名護湾は西側にあるが、二つの湾は同じ山から水は流れている。それなのに大浦湾は自然が豊かでジュゴンが食する藻が生えている。しかし、名護湾は大浦湾ほどには自然が豊かでないからジュゴンの藻は育っていないしジュゴンもやってこない。昔は名護湾にもジュゴンが来たことはある。その頃は名護湾も汚染されていなかったのだろう。しかし、今はそうではなくなった。
名護湾も大浦湾も同じ山から水が流れている。しかし、名護湾と大浦湾には大きな違いがある。名護湾は北部最大の名護市街地になっていて、川は赤土や生活排水などで汚染されている。しかし、大浦湾の周囲は人口が少ない。汚染度は低い。だから大浦湾の自然は豊かである。キャサリンさんの「山ぬはぎねー、海んはぎん」は川の汚染を考慮していない中途半端な理屈である。名護湾にそそぐ川の汚染を防げば大浦湾と同じように名護湾にもジュゴンはやってくるだろう。
 キャサリンさんが海洋生物学者であるならば大浦湾と名護湾を比較するべきである。そして、大浦湾と名護湾の違いを指摘し、名護湾の自然も豊かにするように指導するべきである。キャサリンさんは大浦湾だけを観察するのではなく北部全体を見て、適切なアドバイスをしてほしいものだ。
             
 キャサリンさんは「大浦湾は山と川があり、マングローブの生物など、全てを備えたエコシステムだ。軍事基地より海洋公園にした方が雇用や教育の面でも効果がある」と指摘しているが、その指摘には疑問が残る。
 大浦湾には二見川、大浦川、汀間川、美謝川がある。二見川は上流にダムがあり、雨が降らないときはほとんど水が流れていない。雨が降ると溜まった生活排水を海に流し込む。
キャサリンさんが言う通り、大浦川には沖縄で一番大きいマングローブ林がある。マングローブが植わっている場所は上流から赤土が流れてきて堆積している場所である。
 大浦川の川沿いは住宅とウコン畑が続いている。ウコン畑の溝は川につながっている。雨が降らない時は山の水が大浦湾に流れ出るが雨が降ると生活排水や畑の赤土が大浦湾に流れ出る。二見川、大浦川、汀間川の河口は赤土の混ざった砂である。白い色ではなく茶色にくすんだ色の砂である。汚染された砂である。
 三つの川は住宅や畑沿いを流れて赤土や生活排水を大浦湾に流しているが美謝川は違う。美謝川はキャンプシュワブ内を流れていて、住宅や畑からの排水が流入することはない。山の水がそのまま大浦湾に流れ込んでいるのが美謝川である。実はジュゴンの食する藻が繁茂している場所は美謝川河口である。大きな藻が生えているのも美謝川河口の近くにある。民間地を流れている三つの川の河口にジュゴンの藻が繁茂しているという記事はまだ一度も載ったことがない。もし、軍事基地を撤去し美謝川沿いが住宅や畑になったら美謝川も他の三つの川と同じように汚染されてジユゴンの藻は生えなくなるだろう。キャンプシュワブが民間地になれば大浦湾の汚染がもっと進み、キャサリンさんのいうエコシステムは破壊される可能性が高い。
 大浦湾は東側にあり高い山に囲まれている。早く日が暮れる。夕日も見れない。沖縄の観光ホテルやリゾートが西海岸に多いのは日が暮れるのは遅く美しい夕日が見れるからである。大浦湾を海洋公園にしても訪れる人は少ないだろう。莫大な維持費に無駄な税金を使うだけである。

 「山ぬはぎねー、海んはぎん、海んはぎねーウチナーんはぎん(山がはげれば海もはげる。海がはげれば沖縄もはげる)」は辺野古飛行場の埋め立てとは関係のない理論である。なぜなら、辺野古埋め立ては海のほうであり山はなにも変わらないからだ。
「山ぬはぎねー、海んはぎん」は嘉手納飛行場以南の北谷、宜野湾、浦添、那覇市、豊見城市、糸満市などの人口密集地にはてはまる理論である。北谷町から那覇市にかけては緑の山はほとんどない。山を切り拓いて草木を切り倒し住宅や工場をつくったからだ。そのために山ははげたのである。それが原因で海岸の多くのサンゴは死滅していった。藻なども少なくなり魚は激減していった。「山ぬはぎねー、海んはぎん、海んはぎねーウチナーんはぎん」である。
 サンゴを再生させようとサンゴの苗を植える活動をしているが、サンゴの再生に必要なのは苗を植えることではない。山を元に戻すことである。川をきれいにすることである。もう山を元に戻すことできないかも知れないが、川の汚染をなくし、海を浄化することはできる。サンゴは一つのサンゴから何十万もの種を放出する。種は海流に乗りあらゆる所に落ちる。海が浄化しサンゴが育つ環境をつくれば自然にサンゴは増える。
 川をきれいにすることがサンゴや海の動植物を保護する最良の方法である。

 辺野古飛行場は辺野古崎の沿岸部分を埋め立てる。山は関係がない。「山ぬはぎねー、海んはぎん」の指摘は的外れである。それに辺野古崎の沿岸部だけを埋めるだけであるから大浦湾の被害は微少である。
皮肉なことであるが、キャンプシュワブがあったから大浦湾の自然は保たれている。キャンプシュワブが民間地であったなら大浦湾は他の民間地域と同じように汚染されていただろう。海洋学者キャサリン・ミュージックさんの指摘は的外れである。


「山ぬはぎねー、海んはぎん」のキャサリンさんが真っ先に非難するべき対象は辺野古飛行場建設ではなく、大浦湾の北側にある広大なカヌチャリゾートである。カヌチャリゾートは約80万坪(東京ドーム約60個分)あり、広大な自然の山を破壊してホテル、ゴルフ場、コンドミニアムをつくった。自然を破壊してゴルフ場やホテルをつくったカヌチャリゾートこそが「山ぬはぎねー」である。カヌチャリゾートを一言も批判しないで辺野古飛行場建設を批判するのは、キャサリンさんは海洋学者というより海洋生物学者の肩書を利用した辺野古移設反対のプロパガンダである。


もっともらしく「埋め立ては産業破壊」などという大城忠
沖縄で生産されるもずくの6割~7割は辺野古以南の宜野座・金武・うるま市・南城市の海域で生産収穫されています。特に勝連、知念は主生産地で地域活性の重要産業となっています。もずくの生産量は自然環境(波浪・日照量・水温・潮流等)に大きく左右されるだけでなく、陸からの生活排水や都市開発、農業生産の管理によっても影響を受けます。それは、もずくもサンゴと同じ透明で綺麗なイノーの海でしか生育しないからです。
もし、辺野古基地建設が強行され、埋立てが進めば大量の土砂は、10月頃のミーニン(新北風)により拡散し、宜野座・金武・うるま市・沖縄市・北中城・知念・奥武島まで南下します。もずく養殖に不可欠なもずく母藻の育苗やもずく網への種付、沖出し後の芽出しに、大きな影響を及ぼし不作の原因となります。
年々、沖縄の海の環境は悪化し続ける現状で、さらなる埋立工事はもずくやアーサだけでなく他の水産物(魚類や貝、エビ等)にも影響があると思います。
                                       「大城忠」
大城忠氏(57)は もずくを販売しているイトサン(糸満市)会社の社長である、過去に糸満市沖の埋め立てでモズクが不作となった経験を踏まえ、「辺野古が埋め立てられればモズク産業は破壊する。沖縄の自立はストップする」と述べている。モズクが不作になる原因は辺野古基地建設が強行され、埋立てが進めば大量の土砂が大浦湾に流れ出てしまい、土砂は10月頃のミーニン(新北風)により拡散し、南下するからだという。大城氏は多くの埋め立て地を見てきたはずである。どのようにして埋め立てが行われるかも知っているはずである。
 大城氏は「過去に糸満市沖の埋め立てでモズクが不作となった」というがモズクが不作になった原因を述べていない。私は糸満市に15年近く住んでいた。埋め立ても見てきた。糸満の埋め立てで土砂が外海に流れ出た話は一度も聞いたことはないし、なかった。埋め立て地の海岸は魚が多く絶好の釣り場だった。土砂が流れ出なかったから絶好の釣り場になったのだ。糸満でもずくを栽培しているという話は聞いたことがなかったが、栽培していたとしてももずくが不作になった原因は予想できる。
 埋立ては豊見城市から糸満市にかけて行われた。広大な埋め立てであった。海で自然を育む場所は海岸近くの浅瀬である。浅瀬には植物や微生物が繁茂し栄養が豊富である。山と同じように浅瀬が海の自然を豊かにする。埋め立てによって豊見城市から糸満市の広大な浅瀬はほとんど埋め立てられた。それだけではない。山のほうは住宅が増えていった。キャサリンさんのいう「山ぬはぎねー、海んはぎん」である。それに浅瀬がなくなったから糸満の海はやせていった。もずくが不良になったとしたら山に住宅が増え、浅瀬が埋められたからである。
 大城氏のいう通り埋め立てによってもずくが不作になったことは事実であると思うが、原因は埋め立てで土砂が海に流れたことではなかった。海岸の広大な浅瀬は埋められ山ははげていったからである。
 辺野古飛行場の埋め立ては辺野古崎沿岸だけである。大浦湾の海岸のほとんどは埋め立てられることはない。山もそのままである。糸満市の埋め立てとは全然違う。もずく養殖について詳しいのなら糸満市の埋め立てと辺野古の埋め立ての違いを知っているだろうし、辺野古の埋め立てがもずく養殖に被害を及ぼさないことも知っているはずだ。もし、本当にもずく養殖に被害を及ぼすのならもずくを養殖している業者たちが大反対するばずだ。

辺野古は海底ボーリング調査を終えると、埋め立て工事が始まるが、すぐに土砂で埋めるのではない。防衛局は埋め立て本体工事の最初の手続きとして業者との契約を結んだが、最初に始める工事は傾斜堤護岸約320メートル、二重締切護岸約550メートル、ケーソン2工区で計430メートルの計1300メートルを整備する。埋め立てる前に埋め立て区域の外周の壁をつくるのである。今回の契約では全体約4900メートルのうち約27%を占めるという。
外周の壁をつくり、埋め立て地からは土砂どころか海水も漏れない状態にしてから土砂を埋めるのである。つまり、埋立地から大浦湾に土砂は出ない。大城氏が糸満市の埋め立てを見てきたのならそのことは既に知っているはずである。大城氏は知っていながら埋立地の土砂が大浦湾に流れ出ると言うのである。彼は嘘をついている。嘘ついていることを彼自身は知っている。なぜ大城氏は見え見えの嘘をいうのか。答えは大城氏のブログを見れば分かる。

安倍総理大臣は、4月から1千7百億円の国民の血税を投入し、本土大手建設会社を使い辺野古、大浦湾を埋立てを軍国主義のごとく強行に進めています。
沖縄の宝の海の一つ、辺野古、大浦湾の自然豊かな海は、次の世代に受け渡さななければならないものです。そして、その海をより豊穣にしてくれる山原の森や川も保全しなければならない、とても貴重な生態系です。
 人も、命の種を自分の子や孫を通じて受け継がれていくのと同じように、豊かな沖縄の自然も次の世代に残すことが、今を生きる私達県民の義務であると思います。
さらに、県民一丸となって辺野古、大浦湾の埋め立てを阻止する事は、海人の生きる糧(かて)や術(すべ)を守るだけでなく、沖縄の真の宝の物である沖縄の精神性や人間性(アイデンティティー)に対して大きな自信と誇りを取り戻し、やがて沖縄の自立と平和国家へと繋がります。
                              大城忠「海人ブログ」より
大城氏は安倍首相を軍国主義呼ばわりしている。「次の世代に残す」「県民一丸となって」「沖縄の精神性や人間性(アイデンティティー)」等々、大城さんの使う言葉は革新と同じである。つまり、大城さんは革新活動家であるのだ。革新活動家であるがゆえに自分の専門知識をひけらかしながら、辺野古埋め立てが自然破壊をするような真っ赤な嘘をつき、なにも知らない市民を騙して辺野古移設反対運動に巻き込んでいこうとしているのである。

キャサリン・ミュージックさんも大城忠氏も自然を愛する市民を騙すために存在するプロパガンダである。

島袋純琉球大学教授は学者ではない左翼政治屋だ
島袋純琉球大学教授のいう「民主主義の基本」は本当の民主主義の基本ではない。
島袋教授は辺野古移設に反対した稲嶺氏が名護市長選に当選したから、名護市民は辺野古移設に反対を明示した。だから日本政府は辺野古移設を断念するのが当然でありそれが民主主義の基本であると述べている。安っぽい民主主義論である。
政府が辺野古移設を決断した理由は、第一に辺野古飛行場建設は現在の軍用地をそのまま利用し、新たな土地接収は必要なかったことと、地主の反対がなかったことである。第二に辺野古区民が移設を容認したからである。もし、辺野古区民が反対すれば政府は辺野古移設の方向に動くことはなかった。辺野古区民の容認を得た政府は名護市長と県知事の説得に取り掛かった。そして、名護市長と県知事の賛成も取り付けた。辺野古区民、名護市長、県知事の三者が辺野古移設に賛成したから辺野古移設の実現に政府は動いた。政府・辺野古区民・名護市長・県知事の4者の合意があって初めて辺野古移設が決まったのである。これが議会制民主主義国家のやり方である。
辺野古飛行場建設は名護市の事業でもなければ県の事業でもない。国の事業である。だから、4者の合意が必要であった。莫大な事業費がかかり大きな工事である辺野古飛行場建設はいったん計画が始まれば簡単に止めることはできない。
過去の名護市長は辺野古移設を認めた。国の事業であるのだから、次の名護市長が反対したからといって簡単に止めることはできない。4者の合意で始まった国の事業を新しい名護市長が止める権限はない。合意は契約であり、4者の同意で成立した契約を名護市長の反対で破棄することはできない。それが日本の議会制民主主義がつくった法律である。
名護市長が賛成したら工事をやって、次の名護市長が反対したら工事を止め、次の市長が再び賛成したら工事を再開する。しかし、次の市長が反対したら再び工事を止める。そんなことをしたら国の事業はめちゃくちゃになる。日本の国がめちゃくちゃになる。島袋教授が主張しているのはそういう民主主義のことである。そんなバカげた民主主義はない。
地方の自治体が国の計画の実権を握る理屈になってしまう島袋教授の民主主義論は議会制民主主義の否定でしかない。

島袋教授のいう民主主義は、名護市に関係するものは全て名護市民に決定権があるということである。国、辺野古、前名護市長、県知事の4者で決めたことを新しい名護市長一人の心変わりで計画を頓挫させることが民主主義だというのである。そんなのは民主主義ではない。国家を破壊するローカルテロ主義だ。
名護市は辺野古移設に反対した候補が当選したが、八重山市長選、沖縄市長選では辺野古移設に賛成した候補が当選している。普天間飛行場の辺野古移設は名護市だけの問題ではない。県全体、国全体の問題である。名護市だけが反対したからといって中止するわけにはいかない。

島袋氏のいう民主主義にはもうひとつ問題がある。
島袋教授は辺野古移設反対を掲げて稲嶺氏が当選したのだから、名護市民は辺野古移設に反対している。だから、地元である名護市民の反対を聞き入れて辺野古移設を断念するのが民主主義であると言う。しかし、名護市民の多くは西海岸に住んでいるが、辺野古は西海岸から十キロメートルも離れている東海岸にある。地図を見れば本当の地元は辺野古であることが分かる。辺野古区民は移設を容認している。島袋氏のいう民主主義は地元の主張を聞き入れるのが基本であるなら名護市民は辺野古区民の要求を聞き入れて辺野古移設に賛成しなければならない。名護市民が辺野古移設に反対するのは地元辺野古の無視になる。辺野古では辺野古移設に賛成した区長が当選したから、島袋教授のいう民主主義では辺野古移設賛成ということになるのではないか。ところがこの事実を島袋教授は無視している。明らかに故意に無視している。その事実を認めれば島袋教授のいう地元主義の民主主義論では辺野古移設を認めてしまうからだ。島袋教授は辺野古移設反対のために理屈を組み立てている。自分勝手な民主主義論である。
もし、辺野古区長が辺野古移設に反対する候補が当選し、名護市長選では辺野古移設賛成の候補が当選したら、島袋教授は地元の辺野古が反対しているから辺野古移設は止めるべきであると主張していただろう。

島袋氏は琉球大学の教授である。議会制民主主義国家について知り尽くしているはずである。国、県、名護市、辺野古の政治的な権限について知っているだろうし、4者が同意した国の事業である辺野古移設を新しい名護市長が反対したからといって中止できないことは知っているだろう。それが議会制民主主義国家の基本であることは島袋教授は知っているはずだ。
稲嶺市長が市のあらゆる権限を使って辺野古移設を阻止しようとしたが、遅らすことはできても中止させることはできなかった。辺野古移設反対候補が知事になっても辺野古の工事を遅らすことはできても中止させることはできない。翁長知事が徹底して抵抗すれば太田昌秀元知事の時のように国は裁判を起こすだろう。法律に従って進めてきた国が裁判で勝つことは目に見えている。
島袋教授は学者としての議会制民主主義の知識より、辺野古移設反対のイデオロギーを優先させている。
島袋教授は学者ではなく左翼政治屋である。

辺野古でのテロ行為を正当化する佐藤学沖国大教授
 佐藤学沖縄国際大学教授は左翼活動家のテロ行為を正当化している。
 佐藤教授は、「海上での阻止行動を『特異な風景』と捉える向きが若者を中心に少なくない。沖縄が直接的な行動で止めるしかないほど追い込まれたことをもう一度確認したい」と述べて、今までの辺野古の経過を説明する。
二〇一〇年以降の県内選挙で辺野古移設反対の結果が続き、東京行動で安倍首相に建白書を渡し、辺野古移設反対は最高水位に達した。しかし、県関係の自民党国会議員、自民党県連が次々と転び、知事が埋め立てを承認したために、県民は民主的な方法を崩され、直接的な力に頼るしかなくなったというのが佐藤教授の説明である。
佐藤教授は東京行動は辺野古移設反対を主張したように述べているが、それは違う。東京行動の目的はオスプレイ配備撤回であった。オール沖縄はオスプレイ配備撤回で結成したのである。

建白書 
内閣総理大臣 安倍晋三殿
われわれは2012年9月9日、日米両政府による垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの強行配備に対し、怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるため、10万余の県民が結集して「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」を開催した。
にもかかわらず、日米両政府は、沖縄県民の総意を踏みにじり、県民大会からわずかひと月もたたない10月1日、オスプレイを強行配備した。沖縄は米軍基地の存在ゆえに幾多の基地被害を被り、1972年の復帰後だけでも、米軍人の刑法犯罪件数が6千件近くに上る。沖縄県民は、米軍による事件・事故、騒音被害が後を絶たない状況であることを機会あるごとに申し上げ、政府も熟知しているはずである。特に米軍普天間基地は市街地の真ん中に居座り続け、県民の生命・財産を脅かしている世界一危険な飛行場であり、日米両政府もそのことを認識しているはずである。このような危険な飛行場に、開発段階から事故を繰り返し、多数に上る死者を出している危険なオスプレイを配備することは、沖縄県民に対する「差別」以外何物でもない。現に米本国やハワイにおいては、騒音に対する住民への考慮などにより訓練が中止されている。
沖縄ではすでに、配備された10月から11月の2カ月間の県・市町村による監視において300件超の安全確保違反が目視されている。日米合意は早くも破綻していると言わざるを得ない。その上、普天間基地に今年7月までに米軍計画による残り12機の配備を行い、さらには14年から16年にかけて米空軍嘉手納基地に特殊作戦用離着陸輸送機CV22オスプレイの配備が明らかになった。言語道断である。オスプレイが沖縄に配備された昨年は、いみじくも祖国日本に復帰して40年目という節目の年であった。古来琉球から息づく歴史、文化を継承しつつも、また私たちは日本の一員としてこの国の発展を共に願っても来た。この復帰40年目の沖縄で、米軍はいまだ占領地でもあるかのごとく傍若無人に振る舞っている。国民主権国家日本のあり方が問われている。
安倍晋三内閣総理大臣殿。沖縄の実情を今一度見つめていただきたい。沖縄県民総意の米軍基地からの「負担軽減」を実行していただきたい。以下、オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会実行委員会、沖縄県議会、沖縄県市町村関係4団体、市町村、市町村議会の連名において建白書を提出する。
1、オスプレイの配備を直ちに撤回すること。及び今年7月までに配備されるとしている12機の配備を中止すること。また嘉手納基地への特殊作戦用垂直離着陸輸送機CV22オスプレイの配備計画を直ちに撤回すること。
2、米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設を断念すること。
                                    「建白書」
建白書で主張しているのは米軍基地からの「負担軽減」でありオスプレイ配備撤回である。それを県民総意としている。東京行動は「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」の延長であった。
「米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設を断念すること」も要求しているが、それはオスプレイ配備撤回にとってつけたものであり県民総意とは言えない。それに建白書に記してあるのは辺野古移設反対ではなく県内移設断念である。
東京行動の時のオール沖縄ではまだ辺野古移設反対に統一してはいなかった。
建白書の文言は普天間飛行場の閉鎖・撤去の文言であったが、代表者の翁長知事は閉鎖・撤去ではなく県外移設を主張し続けた。その時点ではそれぞれが県外移設と閉鎖・撤去を主張していたのだ。東京行動の時はオスプレイ配備反対が盛り上がっていたのであり辺野古移設反対が盛り上がっているわけではなかった。建白書の文言では断念要求が「県内移設」であり「辺野古移設」ではなかつたことからもうかがえる。

辺野古移設反対が盛り上がったのは県知事選の時からである。県知事選の時、翁長知事は沖縄アイデンティティー論を考え出して、イデオロギーは腹六分に押さえることを主張し、県外移設と閉鎖・撤去のイデオロギーは押さえて辺野古移設反対で統一することを提案した。翁長知事の提案に革新は同調し、独自の立候補を立てないで翁長知事を支持した。辺野古移設反対の公約で翁長知事と革新は手を組んだのである。辺野古移設反対が盛り上がったのはそれからである。
佐藤教授は「県民は民主的な方法を崩され、直接的な力に頼るしかなくなった」と述べている。民主的な方法を崩されたから直接的な力つまり非民主的な方法で辺野古移設阻止をするしかなくなったと主張している。佐藤教授は民意か県民にあり政府が県民の民意を踏みにじり民主的な方法を崩したと主張したいだろうが、それは違う。日本は議会制民主主義国家である。政府は民主主義のルールを重んじているから政府は徹底して民主的な手続きをやってきた。
仲井真知事は民主主義ルールに則って埋め立てを承認した。辺野古移設反対派は民主的な方法を崩されたのではなく民主的な方法では辺野古移設を阻止できなかったのである。「直接的な力に頼るしかなく」と佐藤学教授は述べているが「直接的な力」とは議会制民主主義を否定した違法な暴力行為である。

佐藤教授は辺野古移設反対が東京行動から県民総意であったと嘘をつき、仲井真知事の申請承認で県民の民主的方法は崩されたといい、直接的な力に頼るしかなくなったと主張している。そして、「沖縄には直接行動で基地の拡張を止めざるを得なかった歴史がある」と述べ、実際にあった事例を述べている。
具志川の昆布土地闘争、金武町の104号超え実弾演習阻止、恩納村の都市型施設建設阻止、国頭村の安波バリアーパット建設阻止を上げ、辺野古はその延長線上にあると佐藤教授は述べている。それは違う。

○具志川の昆布土地闘争
ベトナム戦争中の1966年1月、米軍が具志川市の天願桟橋強化のため昆布の土地約8万2000平方メートルの接収を計画した。しかし、地元の地主の反発は強く、強い阻止行動などにより、米軍は71年3月に計画を断念した。
○金武町の104号超え実弾演習阻止
1973年の金武村の104号越え実弾演習阻止闘争のこと。
県道104号越え実弾砲撃演習の移転先の一つ、北海道・矢臼別演習場を抱える別海町の佐野力三町長、議員ら計6人が22日、同演習の実施地、金武町を視察した。佐野町長は吉田勝広金武町長と会談後、報道陣の質問に対して「演習受け入れも選択肢の一つ」と明言。受け入れ容認の条件として治安悪化防止策の確立を挙げ、「(米兵外出時の)防衛施設局職員のエスコートを、米軍が了解するのかが最大のポイントになる」と話した。104号越え実弾演習は北海道に移転した。
○恩納村の都市型施設建設阻止
1989年に、キャンプ・ハンセンの恩納村域にグリーン・ベレーの都市型戦闘訓練施設の建設が発覚した。地元恩納村や住民の猛反発は猛反発し座り込み闘争を展開した。米軍は施設使用を断念した。
○国頭村の安波バリアーパット建設阻止
 1981年1月国頭村安波で米軍のハリアーパット建設計画が発表された。住民は建設予定地の山の中に入り激しい抵抗運動を展開した。米軍は建設を断念した。

元具志川村の昆布土地接収、金武町の104号超え実弾演習、恩納村の都市型施設建設、国頭村の安波バリアーパット建設と辺野古飛行場建設とは根本的に違う。
○4つの場合は地元住民が反対していたが、辺野古飛行場建設は地主も地元の辺野古区民も容認している。
○4つの場合は新設であったが、辺野古飛行場建設の場合は普天間飛行場の移設である。
○4つの場合は危険が増えるが辺野古飛行場建設は普天間飛行場の危険がなくなる。
○4つの場合は米軍の一方的なものであったが、辺野古飛行場建設は政府の民主的な手続きを経たものである。

辺野古飛行場の直接影響を受ける辺野古区民や漁民は移設を容認している。辺野古は4つの闘争の延長線上にはない。佐藤教授は、「「県民は民主的な方法を崩され」と嘘の理屈をつくり、「直接的な力」つまりテロ行為に頼るしかないと述べて、左翼活動家のテロ行為を正当化している。彼らの主張は辺野古移設反対、普天間飛行場閉鎖・撤去である。彼らの目的は普天間飛行場の閉鎖・撤去であり、安保廃棄である。
「基地を造らせないための最大の勝負どころは海上ボーリング調査だ。工事着手でひるむことなく陸上、海上ともさまざまな行動を続けていく」連中というのは左翼活動家集団であり、普天間飛行場の閉鎖・撤去、安保廃棄の立場から辺野古移設を反対しているのである。左翼の本性を隠し、民主主義を装った左翼活動家のテロ行為を佐藤沖国大教授は正当化しているのである。

稲嶺市長の「ジュゴンを守る」は大嘘
美謝川の水は管理され、赤土を大浦湾に流出しないようにしている。大浦湾の自然を育んでいるのが美謝川である。大浦湾に流れている川は美謝川、二見川、大浦川、汀間(ティマ)川があるが、美謝川以外の三つの川沿いには住宅や畑がある。河口は泥砂が広がっている。
二見川と大浦川と汀間川は水が汚れているからジュゴンの食する藻は育たない。新報が書いているように美謝川から流れているきれいな水がジュゴンの藻やサンゴを育てている。
「埋め立てにより、河口が地下水路になる時点で無謀過ぎるが、地下水路が長くなればなるほどさらに魚類などの生息域は減る」(琉球新報)
沖縄防衛局の計画は美謝川を地下水路(暗渠(あんきょ))にするものであった。距離は1022メートルになる。琉球新報は沖縄防衛局の計画を批判している。しかし、区域が現行の240メートルから1022メートルに沖縄防衛局は辺野古ダムから最短距離で海に注ぐものであった。しかし、沖縄防衛局は辺野古ダムから最短距離になる案を準備したがその案を稲嶺市長は承認しないと発言したので、沖縄防衛局は計画変更の申請をまだやっていない。新報はそのことを書いていない。美謝川の計画が地下水路1022メートルに延びた状態のままである原因は稲嶺名護市長にある。地下水路1022メートルであると今のように美謝川河口にジュゴンの食する藻は生えないかもしれない。
琉球新報は地下水路計画は防衛局にあるように書いているが、それは違う。本当の責任は稲嶺名護市長にある。
稲嶺名護市長は「ジュゴンを守る」と何度も演説しているが、稲嶺市長にジュゴンを守る気がない。稲嶺市長は辺野古移設を阻止する口実に「ジュゴンを守る」と言っているのだ。
稲嶺市長の「ジュゴンを守る」は嘘八百である。ただひたすらに辺野古建設を阻止したいのである。

2015/06/18 に公開
平成27年6月18日木曜日に放送された『沖縄の声』。沖縄県議会の6月定例会が16­日開会し、与党5会派が埋め立てで使用する土砂など埋立用材に特定外来生物が侵入しな­いよう防止する条例案を提案、それにより沖縄の各地で行われている埋め立て工事の工期­の遅れが心配される。本日は、2つのテーマ「なぜ土砂条例が必要なのか?なぜ埋め立て­に県外の土砂が使われているのか?」キャスターのsacom氏に詳しく解説していただ­きます。
※ネット生放送配信:平成27年月6月18日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
ゲスト
 sacom(沖縄支局担当キャスター・つり人)


2015/06/25 に公開
平成27年6月24日水曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、6月23日に糸満市平­和祈念公園にて行われた慰霊際を政治的な発言の場に利用した翁長知事、そして、沖縄の­被害者意識を詩に書いた落合恵子の「沖縄の辞書」についてキャスターの又吉康隆氏が徹­底批判します。
※ネット生放送配信:平成27年6月24日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)


次回放送は平成27年7月8日水曜日
  

Posted by ヒジャイ at 01:05Comments(6)

2015年06月28日

短編小説・江美とジュゴンとおばあちゃん



「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
4月30日より県内書店で発売しました。

本の説明はこちら





県内取次店
沖縄教販
○県外は書店で注文できます。
県外取次店
(株)地方小出版流通センター

「沖縄に内なる民主主義はあるか」
第六章 八重山教科書問題はなにが問題だったか全文
第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない全文
第四章 基地経済と交付金の沖縄経済に占める深刻さ全文
第三章 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の真っ赤な嘘全文
第二章 命どぅ宝とソテツ地獄全文
第一章 琉球処分は何を処分したか全文

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「沖縄に内なる民主主義はあるか」は沖縄タイムスに自費出版を断られた。それも陰険なやり方で。沖縄タイムスは自費出版を募集している。だから私は原稿を送り自費出版を依頼した。ところが一週間過ぎても沖縄タイムスからは連絡がなかった。最初に依頼したボーダーインクもなんの連絡もなく、一週間後に私から電話をすると自費出版を断られた。
沖縄タイムスもボーダーインクと同じパターンだろうと思って電話をしなかった。案の定、その後沖縄タイムスからは電話はない。原稿も返却されていない。
自費出版拒否についてのいきさつは「沖縄に内なる民主主義はあるか」の第一章に書いてある。


去年琉球新報の短編小説新人賞に応募した。残念ながら落選した。
辺野古移設問題と絡ませながら、思春期の少女が悩み考え成長していく姿を描いた。自意識の芽生えの過程である。
私としてはうまく描けたと思っている。

江美とジュゴンとおばあちゃん


江美は小学六年生。家は那覇市の郊外にある。家族はお父さんとお母さんと小学三年生の弟の良樹と幼稚園生の妹の亜実の五人である。江美の家の隣には一人暮らしをしているおばあちゃんの家がある。
江美はおばあちゃん子だ。江美が生まれた頃はお母さんも働いていたから、江美の面倒はおばあちゃんがみた。
江美は小学一年生になってからずっとおばあちゃんの家で勉強をしている。おばあちゃんは小学校の先生をしていたから、江美の分からないところを教えてくれたし、ノートの書き方や勉強のやり方なども教えてくれた。おばあちゃんのお蔭で、学習塾に通わなくても江美の成績は優秀だ。

江美がおばあちゃんの家で勉強をしている時、おばあちゃんはテレビを消しているが、ニュースの時間だけはテレビをつけた。その日もいつものようにおばあちゃんはニュースの時間になったのでテレビをつけた。勉強している江美の耳に普天間飛行場という言葉が聞こえたので、算数の問題を解いていた手を休めて江美はテレビを見た。普天間飛行場に江美は敏感に反応する。アナウンサーは、普天間飛行場の移設先である辺野古の海の埋め立てを仲井真知事が承認したと話した。
普天間飛行場は宜野湾市の真ん中にあり、周囲は住宅が密集している。世界一危険な飛行場と言われている。飛行機が墜落するとたくさんの人が死ぬ。何回も墜落したという飛行機オスプレイが普天間飛行場に配備されたからますます普天間飛行場は危険になった。辺野古の海の埋め立て承認のニュースを聞いて、江美はほっとした。
「おばあちゃん。よかったね」
おばあちゃんはテレビをじっと見ていた。
「これで宜野湾市の人が死なないで済むんだ。ああ、よかった」
「なにがいいもんか」
おばあちゃんは不機嫌になっていた。江美はおばあちゃんが喜ぶと思っていた。でも、おばあちゃんは不機嫌だ。なぜだろう。
「だってさ、オスプレイが墜落したら普天間飛行場の周りのたくさんの人が死ぬんでしょう。辺野古に移ったら人が死ななくて済むよ。おばあちゃんはうれしくないの」
「うれしくないね」
「どうして」
おばあちゃんは答えないで、
「ヨーカンを早くお食べ。ジュースも飲んでいないじゃないか」
と言った。イライラしているおばあちゃんは辺野古の海の埋め立てについて江美と話したくないのか、ヨーカンを食べるように江美をせかした。江美はおばあちゃんにせかされて、ヨーカンを食べてジュースを飲んでからおばあちゃんに訊いた。
「どうして、おばあちゃんは辺野古の海の埋め立てがうれしくないの」
「辺野古の海を埋めたら、ジュゴンが死ぬ、魚が死ぬ、サンゴが死ぬ。辺野古の海が死ぬ。辺野古の海を埋め立ててはいけない」
江美は納得できなかった。
「普天間飛行場があると周囲の人が死ぬとおばあちゃんは言ったんだよ。ジュゴンや魚やサンゴの命より人の命が大事だよ」
「江美はいつから自然の命を大事にしない薄情な人間になったのか」
江美にはおばあちゃんの言っていることが分からなかった。おばあちゃんは人の命が一番大事、命どぅ宝と何度も江美に教えた。だから江美は人の命が一番大事だと信じている。
「だって、人の命が一番大事だっておばあちゃんは江美に教えたんだよ」
「人の命も大事。ジュゴンや魚の命も大事。サンゴの命も大事」
江美は人の命が一番大事だとずっとおばあちゃんに教えられてきた。急にジュゴンや魚やサンゴの命も大事だと言われても納得することはできなかった。江美は混乱した。
「でも」
やっぱり人の命のほうが大事だよと言いたい江美だった。しかし、おばあちゃんの声は鋭く、怖い顔をしていた。おばあちゃんの権幕に押されて江美はなにも言えなかった。
「さっさと勉強をしなさい」
そう言うとおばあちゃんはお茶を飲んだ。 
江美は勉強を始めようとしたが、意味不明のおばあちゃんの怒りに動揺し、勉強をすることができなかった。江美の目から急に涙が出てきた。涙は一つ二つとノートに落ちた。涙は止まりそうもない。もう、勉強どころではない。泣いているのをおばあちゃんにばれたくない江美は立ち上がり、教科書とノートを抱えて玄関に向かった。急に立ちあがった江美におばあちゃんは驚いた。
「あれ、江美、どうしたのか。勉強は終わったのか。ヨーカンはまだ残っているよ」
江美は振り返らないで出て行った。

 二階の勉強部屋に入ると、声が外に洩れないように口を押えて江美は泣いた。江美は泣き虫だ。算数の問題が解けないと泣くし、おばあちゃんに叱られるとすぐ泣いてしまう。
「江美は泣き虫だねえ」
とおばあちゃんはあきれる。
 江美はおばあちゃんの前でよく泣いた。でも、今日は泣いているのをおばあちゃんに見られたくなかった。だから、おばあちゃんの家を出た。こんなことは生まれて初めてだ。
 おばあちゃんが厳しい顔で「江美はいつから自然の命を大事にしない薄情な人間になったのか」と言った時、江美の頭の中は真っ白になった。頭の中が真っ白になりながら、「だって、人の命が一番大事だっておばあちゃんは江美に教えたんだよ」と言ったのはおばあちゃんに反発したからではなかった。江美はおばあちゃんの教えをちゃんと守っているんだよと訴えたかったのだ。「ああ、そうだったねえ。江美はおばあちゃんが教えたことをちゃんと守っているんだ。ごめんごめん」という返事がおばあちゃんの口から出るのを江美は期待した。でも、おばあちゃんの口から出たのは違っていた。「人の命も大事。ジュゴンや魚の命も大事。サンゴの命も大事」と今まで聞いたことがないおばあちゃんの言葉だった。江美の考えは間違っているとおばあちゃんに言われた気持ちになった。
大好きなおばあちゃんの教えを守ってきたのに、江美の訴えをおばあちゃんは分かってくれなかった。江美の気持ちを理解されなかったことがくやしくて悲しかった。

 おばあちゃんは江美を姫ゆりの塔や摩文仁の丘などの戦跡地によく連れて行った。そして、人の命は一番大事だと教えた。人の命を奪う戦争は絶対やってはいけないと教えた。江美はおばあちゃんの話は難しくてよくわからなかったが「うんうん」と素直に聞いた。
おばあちゃんと一緒に戦跡地に行くとアイスクリームやお菓子を買ってくれるしレストランにも連れて行ってくれるから江美はピクニック気分で行っただけだった。しかし、少しずつおばあちゃんの教えが分かるようになってきた。二年前のオスプレイ配備反対の県民大会に江美はおばあちゃんに連れられて行った。いつ墜落するかもしれない恐ろしい飛行機オスプレイ。灰色の不気味な姿の写真を見るだけで江美は怖くて体が震えた。そのオスプレイが普天間飛行場に配備されるという。おばあちゃんは絶対反対だと言い、江美も反対だった。県民大会でおばあちゃんも江美も「はんたーい」の拳を突き上げた。でも、オスプレイは配備された。

 普天間飛行場の周囲には住宅が密集している。オスプレイが墜落したらたくさんの人が死んでしまう。普天間飛行場は一日も早く移さなければならない。だから、仲井真知事が辺野古埋め立てを承認するというニュースが流れた時、宜野湾市の人たちの命が助かると思って江美はうれしかった。おばあちゃんと一緒に喜ぼうと思った。でも、おばあちゃんは不機嫌になった。
人の命が一番大事だとおばあちゃんは江美に教えてきたのに、おばあちゃんはジュゴンや魚の命も大事だと意味の分からないことを言って江美を突き放した。おばあちゃんの教えを守ってきたつもりの江美だったからおばあちゃんの話に納得できなかったし、突き放されたことがすごく悲しかった。
夕食の時、お母さんが呼びにきたが、江美はおばあちゃんと顔を合わせるのが嫌だったから、宿題をやってから食べると言って、下りていかなかった。暫くしてお腹がぐーぐーと鳴った。江美は部屋を出てゆっくりと階段を下りた。するとおばあちゃんの声が聞こえた。江美は勉強部屋に戻った。それから三十分ほど過ぎて、とてもお腹が減った江美は部屋を出て、階段をゆっくりと下りた。おばあちゃんの声は聞こえない。それでも用心しながら階段を下りた。おばあちゃんは居なかった。江美は一階に下りて行きご飯を食べた。

 翌日、江美はおばあちゃんの家に行かなかった。心配したおばあちゃんは江美の部屋にきたが、ドアの鍵を掛けた江美はおばあちゃんの呼びかけに「今日は一人で勉強する」と言っておばあちゃんの家に行くのを断った。
夕食の時、お母さんが呼びに来た。おばあちゃんに会いたくない江美は宿題があるから後で食べると言った。でも、お母さんは後で食べるのを今日は許さなかった。
「駄目。夕食はみんなで食べるものよ。さっさと下りてきなさい。いいね」
江美は仕方なく一階に下りて行った。
江美はいつものようにおばあちゃんの側に座った。
「今日も一人で勉強かい」
江美は黙ってうなずいた。
「明日はおばあちゃんの家においでよ」
江美は行きたくなかった。でも、断ることもできない。江美はじっと黙っていた。
「江美。ちゃんと返事をしなさい。おばあちゃんに失礼ですよ」
「いいよいいよ、順子さん。江美も小学六年生になったんだ。思春期なんだよ。色々悩み事があるんだよ。口を利きたくない日だってあるさ」
お母さんはおばあちゃんに「躾はちゃんとしないといけないですから」と断ってから、
「江美、ちゃんと返事をしなさい。明日はおばあちゃんの家に行くわね」
と言った。長女である江美にお母さんはいつも厳しい。江美はお母さんには逆らえない。江美は仕方なくうなずいた。
「うなずくだけでは駄目。ちゃんと返事をしなさい。明日はおばあちゃんの家に行くわね」
「はい」
江美は返事した。
「順子さん。無理強いしてはいけないよ」
と言いながら、おばあちゃんはニコニコしていた。江美が明日家に来るのでおばあちゃんはうれしいのだ。

 その夜、江美は夢を見た。ジュゴンが辺野古の海を泳いでいる。すると突然上から黒い雲のような物が落ちてきてジュゴンを覆った。落ちてきたのは土砂だった。非情な土砂はどんどんジュゴンに落ちてきた。ジュゴンはもがき苦しんだ。土砂に包まれたジュゴンは暗い海底に沈んでいった。
「ジュゴンを殺さないでー」
江美は起き上がった。ジュゴンがとても可哀そうで、江美は肩を震わせて泣いた。

 辺野古の海を埋め立てたらジュゴンが死ぬ。魚も死ぬ。サンゴも死ぬ。ジュゴンが死ぬのは嫌だ。魚が死ぬのも嫌だ。サンゴが死ぬのも嫌だ・・・でも・・・オスプレイが墜落したらたくさんの人が死ぬ。ジュゴンや魚が死ぬより人が死ぬのが嫌だ・・・・でも・・・ジュゴンの夢を見た江美はジュゴンや魚やサンゴが死ぬのも嫌だと思うようになった。
 どちらが死ぬのもかわいそうだ。どちらも死なない方がいい。でも・・・。人の命とジュゴンの命を比べればやっぱり人の命が大事だと江美は思う。やっぱり辺野古の海を埋め立てたほうがいい。でも、オスプレイはまだ墜落していない。もしかするとオスプレイはずっと墜落しないかも知れない。辺野古の海を埋め立てたらジュゴンは必ず死んじゃう。やっぱり辺野古の海は埋め立てない方がいい。しかし、オスプレイが墜落しないとは絶対に言えない。いつかは墜落するだろう。一〇年前には沖縄国際大学にヘリコプターが墜落したのだからきっと墜落する。明日墜落するかもしれない。来月か、来年か、五年後か、十年後か。オスプレイはいつか墜落する。オスプレイが墜落したらたくさんの人が死んじゃう。やっぱり、辺野古は埋め立てたほうがいい。でも、ジュゴンが死ぬのは嫌だ。
人が死ぬのも嫌、ジュゴンや魚やサンゴが死ぬのも嫌。おばあちゃんのいう通りだ。でもやっぱり人の命が一番大事。人の命が助かるためにはジュゴンや魚やサンゴが死ぬのは仕方がない。仕方がないけど・・・・・。 ジュゴンや魚やサンゴが死ぬのを認めてしまう江美は悪魔の心になってしまった気持ちになる。江美は悪魔の心にはなれない。やっぱりジュゴンや魚やサンゴが死ぬのは嫌だ。
普天間飛行場のことや辺野古の海のジュゴンや魚やサンゴのことを考え、悩んでいるうちに悲しくなってきて江美の目から涙がこぼれてきた。江美がこんなに悩み苦しむのは生まれて初めてだった。

江美はおばあちゃんの家に行く決心がつかなかった。お母さんと約束したから行かないといけない。でも、気が重い。江美は溜息をついた。
コンコンとドアを叩く音がした。振り返るとドアがバーッと開いて、お母さんが、
「江美。江美の大好きなシュークリームがあるってよ。おばあちゃんが食べにおいでって」
おばあちゃんはわざわざ江美の大好きなシュークリームを買ってくれた。大好きなおばあちゃんが江美に会いたがっている。でも・・
・。以前だったら走っておばあちゃんの家に行ったが、今日の江美は違っていた。おばあちゃんに会うのは気が重かった。
「さあ、早く行って」
江美の悩みを知らないお母さんは江美をせかした。でも、江美は行くかどうか迷った。
「なに、もたもたしているの。早く行って」
短気なお母さんは怒った。お母さんに怒られるのが一番怖い江美は教科書とノートを持つと急いで部屋を出た。

 江美はおばあちゃんの家の玄関の前で立ち止まった。
「江美かい。お入り」
おばあちゃんの声が聞こえた。江美はゆっくり玄関の戸を開けた。江美の姿を見たおばあちゃんは立ち上がり、冷蔵庫に行った。
「ほら、シュークリームだよ。早くお食べ」
おばあちゃんはにこにこしていた。
「昨日は、なんでおばあちゃんのところに来なかったのかい。宿題が多かったのかい。だったらおばあちゃんが宿題を手伝ってあげたのに。ああ、そうか。宿題は自分でするもんだと教えたのはおばあちゃんだった。うっかり忘れていたよ」
シュークリームのとろけるようなおいしさとおばあちゃんのとぼけた話を聞いて江美の心がほぐれた。江美は笑った。いつものおばあちゃんと江美に戻った。
勉強をしながらおばあちゃんと話している内に、普天間飛行場や辺野古の難しい悩みは江美の頭からすーっと消えていった。

 おばあちゃんが風邪を引いた。風邪は重く、三日間入院した。
退院した日、江美は学校から帰るとすぐにおばあちゃんの家の玄関を開け、
「おばあちゃーん」
と大きな声でおばあちゃんを呼び、
「なんだい江美」
とおばあちゃんの声が聞こえると、
「ランドセルを置いてくるねえ」
と言って、家に走って行き、タッタッタッと階段を上ってランドセルを置くと、教科書とノートを持ってタッタッタッと階段を下りておばあちゃんの家に行った。
 おばあちゃんは体がだるいと言って横になっていた。
「おばあちゃん、大丈夫」
「大丈夫だ。少し体がだるいだけだ。二、三日すれば元気になるよ」
江美は勉強を始めた。時々おばあちゃんは咳をした。その度に江美は手を止めて、「おばあちゃん大丈夫か」と言いながらおばあちゃんの様子を見た。「大丈夫だ。勉強を続けて」とおばあちゃんは言った。
暫くして、おばあちゃんは起き上がろうとした。
「どうしたの」
「ちょっとトイレに」
おばあちゃんは起き上がるのにしんどそうだった。江美はおばあちゃんが立ち上がるのを手伝った。
「おばあちゃん。江美が連れて行ってあげる」
江美はおばあちゃんの腕を肩に回した。その時、あれっと思った。以前は、つま先立ちをしないとおばあちゃんの肩を担ぐことができなかったのに、今は逆に膝を曲げなければならなかった。まっすぐ立てばおばあちゃんの肩をはずしそうだ。・・・おばあちゃんの身長はこんなに低かったかな・・・。江美はおばあちゃんの身長が低くなったかしらと思った。
でも、それは江美の勘違いだった。江美の身長が伸びたのだ。江美の身長が伸びたのでおばあちゃんの身長が低くなったように感じたのだ。体が大きくなった江美にはおばあちゃんの体重も軽くなったように感じた。前みたいにおばあちゃんの体の重みでふらつくことはなかった。
「おばあちゃんは軽くなったみたい」
「それは江美が大きくなって力が強くなったせいだよ。おばあちゃんより江美のほうが身長は高くなっている。これからは江美の身長がどんどん伸びていって、おばあちゃんが江美を見上げるようになるねえ」
おばあちゃんはうれしそうに言った。
江美はうれしさ半分さびしさ半分だった。江美は今までずっとおばあちゃんに包まれているような気持ちで生きてきた。おばあちゃんはいつまでも江美より大きいと思っていた
。おばあちゃんが大きいから江美はおばあちゃんといると安心感があった。江美が大きくなったということはうれしい。でも、もうおばあちゃんは江美を包むことができなくなった。それは少しさびしい気がする。
 おばあちゃんより大きくなった江美には、おばあちゃんに頼るだけではなくおばあちゃんを守っていこうという気持ちが芽生えてきた。なんだか、おばあちゃんとは今までよりも身近な関係になったような気がした。

「おばあちゃん。江美がお湯を沸かしてあげる」
「玄関を掃除するね」
テーブルを拭いたり、お茶を入れたり、洗濯物をたたんだり、肩を叩いたり、足をもんだり、江美はおばあちゃんのために色んなことをやるようになった。
「江美は大人になったねえ」
おばあちゃんは江美を誉めた。それが江美には嬉しかった。

辺野古のジュゴンの夢のことは江美の頭から消え、思い出すことはなかった。ところが人間とは不思議なもので消えていた記憶がなにかのきっかけでふと蘇ることがある。
学校の帰り道で、仲良しの多恵ちゃんが本部町にある美ら海水族館に行ったことを話した。江美も何回か美ら海水族館に行ったので、二人は美ら海水族館の話をした。イルカショー、ウミガメ、マナティーのことを話したが、ジュゴンに似ているマナティーではなく、水族館のジンベエザメの話をした時、なぜか夢に見たジュゴンが江美の頭に浮かんだ。多恵ちゃんと別れて、歩きながら、なぜジンベエザメのことを話した時ジュゴンの夢を思い出したのかを考えた。すると夢の中のジュゴンが水族館のジンベエザメと同じ斜め上の角度に見えたことに気が付いた。そうか、水族館で見たジンベエザメが夢の中のジュゴンになっていたのだ。だから、ジュゴンはジンベエザメのように斜め上に見えたのだ。
江美は立ち止まった。夢が変だ。なにかおかしい。なんだろう。江美は歩き始めた。夢のなにが変なんだろう。なにがおかしいのだろう。そうか、土砂だ。土砂が変だ。夢の中のジュゴンは土砂に包まれて海底に沈んでいった。土砂がジュゴンを包むのはおかしい。土砂は布とは違う。布だったらジュゴンを包むが、土砂は水の中ではバラバラに広がっていくはずだ。土砂が布のようにジュゴンを包んで海底に沈んでいくのはおかしい。江美が見た夢の中の土砂はまるで意思を持っているようにジュゴンを包んでいった。それはおかしい。土砂に意思はないはずだ。土砂は水の中では散っていくはずだ。江美が見た夢の土砂の動きは間違っている。
江美は忘れていた辺野古のジュゴンのことを再び考えるようになった。

ジュゴンや魚はサンゴと違って自由に泳げる。
「そうだ。ジュゴンは泳げるのだから土砂が落ちてくれば急いで逃げればいい。土砂は散らばるから逃げることができるはずだ。たくさんの土砂が落ちてきても土砂に包まれることはないからジュゴンは逃げることができる。辺野古の埋め立て工事が始まればジュゴンや魚は辺野古の海から逃げればいい。そうしたら埋められない」
埋め立てがあってもジュゴンは埋められない。だから、サンゴは死ぬけどジュゴンは死なない。ジュゴンは逃げて生き延びる。江美は大発見をした。
「ジュゴンが死なないことをおばあちゃんに教えよう。江美が発見したことを話せばおばあちゃんは喜ぶはずだ」
と江美は思った。しかし、そう思った後におばあちゃんの厳しい顔が浮かんだ。江美の考えを話したら、もしかするとおばあちゃんはまた怒るかも知れない。おばあちゃんの怒った顔を思い出すと江美の心は萎えた。
 江美はおばあちゃんに話す勇気がなくなった。もしかするとなんらかの理由でジュゴンは逃げられないかも知れない。辺野古の海に沈められていくかもしれない。だから、おばあちゃんはジュゴンが死ぬといったかもしれない。でも、どうしてジュゴンや魚は死ぬのだろう。
辺野古の海が埋め立てられたらジュゴンは生き延びることができるのだろうか、それともできないのだろうか。江美は再び辺野古のジュゴンについて悩むようになった。ジュゴンは死ぬのかそれとも・・・・・・・。

 悩んでいる内に、江美は辺野古の海のことを知らないことに気が付いた。そういえばジュゴンのこともほとんど知らない。ジュゴンの大きさや棲んでいる所やジュゴンが泳ぐ速さなどを江美は知らない。辺野古の埋め立てにしてもどんな方法で埋めるのか全然知らない。あれもこれも知らないのだから江美には手に負えない問題だ。これはジュゴンや辺野古の海や埋め立てについて知っている人しか解けない問題だ。江美があれこれ考えても正しい答えを出すことはできないだろう。ジュゴンがどうなるかはジュゴンや辺野古の海のことをよく知っている人に訊くしかない
。おばあちゃんに訊くのは駄目。おかあさんはきっと知らないだろう。お父さんは知っているだろうか。でもお父さんに訊けばおばあちゃんにばれるかもしれない。それは嫌だ。辺野古のジュゴンのことを調べていることをおばあちゃんには知られたくない。
 江美は色々考えた末に、担任の玉城朱里先生に訊くことにした。朱里先生は先生だからなんでも知っているはずだ。でも、朱里先生は学校の勉強以外のことを教えてくれるだろうか。江美は不安になったが、朱里先生に訊く以外に方法はなかった。江美は朱里先生に訊くことにした。

「朱里せんせー」
三時限目の終わり、江美は廊下に出た朱里先生を追いかけた。
「どうしたの江美さん」
「朱里先生。教えてください。お願いします」
「江美さんが質問するなんて珍しいわね。なにを訊きたいの」
「朱里先生。辺野古の海を埋め立てるとどうしてジュゴンや魚は死ぬんですか」
「え、なんのこと」
江美の質問に朱里先生は面食らった。
「サンゴは逃げることができないから死ぬと思います。でもジュゴンや魚は泳げるから逃げることができると思います。逃げることができるのにどうして死ぬんですか」
江美の質問を朱里先生は理解できなかった。
「なんの話をしているの。先生には江美さんの話の意味が分からないわ。落ち着いて、先生に分かるように説明して」
江美は辺野古の海を埋め立てるとジュゴンや魚やサンゴが死ぬとおばあちゃんに言われたことを話した。そして、ジュゴンが土砂に包まれて海の底に沈んでいく夢を見たことも話した。
「ふうん、そんな夢を見たの。それが本当ならジュゴンが可哀そうだね。
江美さんが訊きたいのは辺野古飛行場埋め立てのことね。最近は毎日のように新聞に載っているし、先生の知っている人が辺野古に行ったという話も聞いたわ。先生も江美さんの話と似たようなことを聞いたことがある。でも、先生は詳しく知らないの」
江美はがっかりした。江美がうつむいて黙ったので、
「ジュゴンや魚が埋め立てで死ぬということはありえないと思うわ。でも江美さんはちゃんとしたことを知りたいのよね」
江美はうなずいた。
「二、三日待ってくれない。先生が調べてみるわ。それでいい」
「はい」

 三日後に、朱里先生は昼休みの時に職員室に来るように江美に言った。
昼休みに江美は職員室に入り、朱里先生を探した。
「江美さん。こっちよ」
職員室の奥のほうで朱里先生が手を振った。江美が来ると、朱里先生は沖縄地図を取り出し、北部の地図を開いた。
「江美さん。ここが辺野古のキャンプシュワブよ。そして、ここが辺野古の海で、ここが大浦湾よ。この突き出た岬があるでしょう。ここが辺野古崎といって辺野古飛行場ができるところなの」
朱里先生は辺野古崎の周りを赤鉛筆で記した。
「辺野古飛行場はこのくらいの大きさになるわ」
江美が想像していたのより辺野古飛行場は小さかった。
「埋め立てるといっても、辺野古崎の沿岸部だけよ」
「ここだけですか」
「そうよ。だから、辺野古の海や大浦湾を埋め立てるのではないわ」
「想像していたよりもずっと小さいです。ほっとしました」
「そうよね。先生も調べてみて驚いたわ。辺野古の海が埋め立てられる。大浦湾が埋め立てられると聞いていたから、もっと大きい飛行場だと思っていたわ」
朱里先生は江美を向いた。
「それからね、江美さんが見た夢のことだけど、埋め立てについて江美さんは勘違いしているわ。江美さんは海に土砂を入れると考えているようだけど、埋め立てをやるときは、コンクリートの壁で周囲を囲って海と遮断するの。それから埋め立てるのよ。だから、ジュゴンが泳いでいる上から土砂をかけるということはないわ」
「そうなんだあ」
ジュゴンは土砂に覆われることはない。江美はほっとした。
「埋め立て地域は辺野古崎沿岸だから、大浦湾のサンゴが死滅することもないと思うわ」
「サンゴも死なないんですか」
「そうよ」
「ああ、よかった」
江美はほっとした。ほっとした途端に涙が出た。朱里先生はハンカチを江美に渡した。
「江美さんは辺野古埋め立てのことでとっても悩んだのね。自然を愛する気持ちはとっても大事よ。江美さんの辺野古の埋め立てを心配する気持ちは素晴らしいわ。江美さん、ひとつだけ気になることがあるの、見て」
朱里先生はキャンプシュワブを流れている川を指した。
「この川の名前は美謝川というの。美謝川の上流は緑で覆われた森林地帯なの。森林地帯からは養分をたくさん含んだ水が湧き出るのよ。美謝川に養分豊富な水が流れて、ほら見て、美謝川は大浦湾に出ている。だから大浦湾の自然は豊かなのね。でも美謝川の河口付近は辺野古飛行場になってしまうの。美謝川の河口付近にジュゴンが食べる藻がたくさん生えているらしいけど、ジュゴンの食べる藻場は埋め立てられるわね」
江美はショックを受けた。
「それじゃあ、ジュゴンは飢え死にするのですか」
朱里先生は苦笑した。
「いいえ、そんなことはないわ。ジュゴンの食べる藻はここだけではないの。ジュゴンは別の場所の藻を食べると思うわ」
「その場所はどこにあるのですか」
「それは先生も分からない」
「やっぱりジュゴンは死んじゃうんですか」
泣きそうな江美を見て、朱里先生は困った。
「ジュゴンが藻を食べる場所は辺野古だけではないの。多分北の方に藻場はたくさんあると思う。ジュゴンは一年に五、六百キロも移動するの。ほら、アフリカの像やしま馬やキリンなど多くの草食動物が食べ物を求めて大移動するでしょう。ジュゴンも同じよ。ジュゴンも草食動物だから藻を求めて移動するの。ジュゴンは辺野古に棲んでいるわけではないわ。辺野古には藻を食べにやってきているの。今でもジュゴンは辺野古以外の色々な場所に行って藻を食べているのよ。辺野古の藻場がなくなってもジュゴンは大丈夫よ。元気に生きていくわ」
「本当ですか」
「本当よ。だから、ジュゴンの心配をしなくていいわ」
江美の顔が明るくなった。
「それにね、美謝川の河口は塞ぐのではなくて、辺野古飛行場の隣に河口を移すから、いつかは新しい河口近くに藻が生えてきて、ジュゴンがやってくると思うわ」
「そうなんだ。よかったあ」
江美の悩みは朱里先生の説明で解決した。江美の心のもやもやは消えた。
「朱里先生、ありがとうございました」
「私もとてもいい勉強になったわ。私が江美さんにお礼を言いたいくらいよ」
江美は笑顔で朱里先生にお辞儀をし、職員室を出た。
職員室を出た江美は朱里先生に教えてもらったことを学校から帰ったらすぐにおばあちゃんに話そうと思った。しかし、教室に着くころになるとおばあちゃんに話すかどうか迷った。
あの時のおばあちゃんを思い出した。
「辺野古の海を埋めたら、ジュゴンが死ぬ、魚たちが死ぬ、サンゴが死ぬ。辺野古の海が死ぬ。辺野古の海を埋めたらいけない」
おばあちゃんの顔は江美が見たことのない怖い顔だった。おばあちゃんがなぜあんなに怒ったのか江美には分からない。でも、おばあちゃんはとても怒っていた。
 朱里先生から訊いた話をするとおばあちゃんはどうするだろうか。
「へえ、先生から訊いたの。偉いわね。ああ、そうだったの。おばあちゃんが間違っていたねえ」
と、にこにこしながら江美の話に納得してくれるだろうか。それとも・・・・。朱里先生のように上手に説明できる自信が江美にはない。上手に説明できないと・・・・。おばあちゃんの怖い顔が浮かんだ。江美はおばあちゃんに話すのをあきらめた。

 江美は考えた。辺野古のジュゴンや魚たちのことで江美がとても悩んだことをおばあちゃんは知らない。今はいつもの仲のいい江美とおばあちゃんだ。江美が辺野古のことを心の中に仕舞ってしまえば仲のいい江美とおばあちゃんの関係は続いていく。
もし、江美の本当の考えを話したらおばあちゃんは怒るかもしれない。江美を嫌いになるかもしれない。おばあちゃんの家に行けなくなるかもしれない。それは嫌だ。おばあちゃんとはいつまでも仲良くしていきたい。
おばあちゃんに辺野古の話はしないほうがいい。それが江美のためであるしおばあちゃんのためだ。考えた末の江美の結論だった。
 
 江美にとって困ったことが起きた。おばあちゃんが辺野古に行こうと言いだしたのだ。八月二十三日に辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前で大きな集会があるという。おばあちゃんはその集会に江美と一緒に行こうと言った。今までの江美だったら喜んで行った。帰りにおいしい料理やお菓子が食べられるからだ。しかし、江美は辺野古に行きたくなかった。こんな気持ちになったのは初めてだ。
「なぜ行きたくないのかい。帰りに恩納村にあるお菓子御殿に寄ろうと思っているよ。江美の大好きな紅芋タルトが食べられるよ。紅芋タルトの手作り体験もあるらしいよ」
紅芋タルトのことを聞いて江美は生唾をごっくんした。「うん、行こう、おばあちゃん」と言いそうになった。でも、辺野古に行きたくない気持ちのほうが強かった。
「ごめんね、おばあちゃん。江美は行きたくない」
「どうして」
行きたくない理由は言えない。
「どうしても」
おばあちゃんはがっくり肩を落とした。それからのおばあちゃんは元気がなくなった。体も小さくなったように感じた。 

「エミ。辺野古に行かないんだって。おばあちゃん寂しそうだよ。行ってあげたら」
数日後に、お母さんが言った。お母さんがそんなことを言うのは意外だった。小学四年生の時、おばあちゃんが江美をオスプレイ配備反対県民大会に連れて行った時、お母さんとおばあちゃんは大喧嘩をした。
「小さな子供を県民大会に連れていくのは止めてください」
「いいじゃないか。子供の時から反戦平和の考えを持つのは大事だ」
お母さんは一週間もおばあちゃんと口を聞かなかったくらいに怒っていた。そんなお母さんだったのに、おばあちゃんと辺野古に行ってあげてと江美に言う。
「お母さんは二年前は反対したよ。どうして今度は江美に行けと言うの」
「最近のおばあちゃん元気がないわ。辺野古に行ったら元気になるかもしれない」
それはお母さんの言う通りかもしれない。二年前の県民大会でのおばあちゃんは元気だった。昔の友だちと楽しそうに話し合い、孫の江美を自慢していた。おばあちゃんは十歳も二十歳も若返ったように元気になっていた。
しかし、おばあちゃんが元気になるとしても江美は辺野古に行きたくなかった。おばあちゃんはジュゴンや魚やサンゴが死ぬ話をするだろう。おばあちゃんのジュゴンたちの話を聞くのが江美は嫌だった。

おばあちゃんが行きたがっていた八月二十三日は過ぎた。江美はほっとした。でも、辺野古の集会はまたやってくるだろう。次も行かないというとおばあちゃんはとてもがっかりするに違いない。次も行かないとは言えない。どうしよう。江美は悩んだ。
江美は「右の耳から左の耳」ということわざをお父さんから聞いたことを思い出した。お母さんにどんなに叱られても平気なわけはそのことわざがあるからだとお父さんは話していた。辞典で調べると意味は、右の耳から入ったことが左の耳からすぐ抜けていく。聞いたことを片っ端から忘れてしまうことのたとえだった。そうだ、おばあちゃんの話を右の耳から聞いて左の耳から抜かしていけばいい。そうすればおばあちゃんの話を聞くことができるはずだ。江美は辺野古に行っても嫌な思いをしない方法を見つけた。

辺野古の浜で県民集会が九月二十日に開催されることになった。予想通りおばあちゃんは江美を誘った。心の準備をしていた江美は辺野古に行くと返事した。
「辺野古に駐車はできないから、宜野座村の友達のところまでおばあちゃんの車で行って、そこからはタクシーで行こうね」
「タクシーに乗るの。お金がもったいない。バスで行こうよ」
「あそこはバスはあまり通らない。バスを待つのが大変。だからタクシーでいく。江美、恩納村においしい沖縄そば屋があるの。帰りにそばを食べよう」
「うれしい。でも江美はお菓子御殿に行きたい。紅芋タルトを食べたい」
「じゃ、お菓子御殿に行こう。それから沖縄市においしいアイスクリームを売っている店があるから、その店にも寄ろうね」
「おばあちゃん大好きー」
辺野古でおばあちゃんはジュゴンや魚やサンゴが死んでしまう話をするだろう。江美は「うんうん」と、おばあちゃんの話を素直に右の耳から聞いてあげる。そして左の耳からこっそり抜かしていく・・・。

江美はちょっぴり二重人格者になったようだ。おばあちゃんに従順な江美と、おばあちゃんに従順なふりをする江美に。悩んで考え悩んで考えを繰り返していきながら心が少しずつ成長していく思春期の江美である。

「おばあちゃん。紅芋タルトの手作り体験もするんだよね」
「そうだよ。さあ、早く車に乗って」
九月二十日の朝、江美とおばあちゃんは辺野古に向かって出発した。

2015/06/18 に公開
平成27年6月18日木曜日に放送された『沖縄の声』。沖縄県議会の6月定例会が16­日開会し、与党5会派が埋め立てで使用する土砂など埋立用材に特定外来生物が侵入しな­いよう防止する条例案を提案、それにより沖縄の各地で行われている埋め立て工事の工期­の遅れが心配される。本日は、2つのテーマ「なぜ土砂条例が必要なのか?なぜ埋め立て­に県外の土砂が使われているのか?」キャスターのsacom氏に詳しく解説していただ­きます。
※ネット生放送配信:平成27年月6月18日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
ゲスト
 sacom(沖縄支局担当キャスター・つり人)


2015/06/25 に公開
平成27年6月24日水曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、6月23日に糸満市平­和祈念公園にて行われた慰霊際を政治的な発言の場に利用した翁長知事、そして、沖縄の­被害者意識を詩に書いた落合恵子の「沖縄の辞書」についてキャスターの又吉康隆氏が徹­底批判します。
※ネット生放送配信:平成27年6月24日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)


次回放送は平成27年7月8日水曜日
  

Posted by ヒジャイ at 08:42Comments(1)

2015年06月27日

辺野古埋め立ての真実


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
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4月30日より県内書店で発売しました。

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県内取次店
沖縄教販
○県外は書店で注文できます。
県外取次店
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「沖縄に内なる民主主義はあるか」
第六章 八重山教科書問題はなにが問題だったか全文
第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない全文
第四章 基地経済と交付金の沖縄経済に占める深刻さ全文
第三章 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の真っ赤な嘘全文
第二章 命どぅ宝とソテツ地獄全文
第一章 琉球処分は何を処分したか全文

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辺野古埋め立ての真実


 辺野古飛行場予定地の辺野古崎は東海岸にある。人口が集中している名護市街地は西海岸にある。辺野古と名護市西海岸は山を挟んでおよそ10キロメートル離れている。普天間飛行場なら浦添市を越え、那覇市の南はずれの国場側河口まで離れていることになる。同じ名護市といっても東海岸の辺野古と東海岸の名護市街地では浦添市・那覇市の二つの市を挟んでいるくらいに遠く離れているのである。
 西海岸は辺野古飛行場から遥かに離れていて影響は全然受けない。辺野古飛行場の地元として名護市西海岸側を入れるのは本当は問題がある。
 東海岸側の辺野古区・豊原区・久志の3区(久辺3区と呼ばれている)は移設を受け入れている。過疎化が進んでいるので人口は少ないが、久志岳、久志岳ゴルフガーデン、キャンプシュワブなどがある久辺3区は面積では西海岸側にひけを取らない大きさである。
 久辺3区が辺野古移設に反対であるなら地元が反対していると言える。しかし、久辺3区は移設を受け入れている。辺野古移設に反対しているのは久辺3区以外の地域の名護市民である。人口が集中している西海岸の名護市民に反対の声は多く、その結果、移設反対の稲嶺進氏が市長に当選した。だから、名護市全体では辺野古移設反対である。東海岸の久辺3区の主張は西海岸の市民に封殺されたと言える。

昔は辺野古のある東海岸は久志村であった。久志村の主な産業は林業から農業へと変わったものの、過疎化により人口は減少。山を隔てて西海岸の名護町などの町村から合併の動きが出てきた。合併に反対してきた久志村であったがこのままでは村を維持するのは困難であったため、結局1970年8月1日に名護町・屋部村・羽地村・屋我地村と合併し名護市となり、300年近くの歴史に幕を閉じた。久志村役所は名護市久志支所となった。
合併しても経済発展したのは西海岸だけであった。1975年沖縄県の本土復帰記念事業として沖縄県国頭郡本部町で沖縄国際海洋博覧会が開催された。海洋博公園のお蔭で名護市の西海岸経済はどんどん発展していった。しかし、経済発展するのは西海岸だけであり、東海岸の久辺3区は過疎化していった。このままでは過疎化に歯止めがかからない。名護市に頼ることもできない。久辺3区は普天間飛行場の辺野古移設容認を条件に過疎化脱出を図ったのである。
久辺3区は「生活排水処理のための下水道整備」や「公園、集会所の整備」「基地負担に見合った住民への補償的施策」など18項目を政府に要請した。交渉の結果、振興策の実現に向けた協議会を設置することが決まった。

西海岸であるというだけで経済が発展し、東海岸であると言うだけで過疎化していく。それが沖縄本島北部の実態である。東海岸の困難を省みない西海岸の名護市民だから普天間飛行場の辺野古移設に反対をし、久志3区の過疎化に平然としているのである。
同じ名護市でも辺野古飛行場の地元は東海岸の辺野古区である。西海岸は地元ではない。地元ではない西海岸の住民が辺野古移設反対しているのだが、翁長知事・稲嶺市長・革新・沖縄二紙は「地元名護市の反対」に捻じ曲げているのである。


大浦湾と辺野古埋め立て予定地である。埋め立て地は辺野古崎の沿岸部だけである。辺野古の海や大浦湾のほとんどは埋めない。沿岸部の埋め立てだけで大浦湾の自然に影響を与えるのはあり得ないことである。
 辺野古飛行場の滑走路はV字型である。離着陸の時に人家の上を飛ばないためにV字型にしたのである。
 辺野古飛行場はキャンプシュワブ内に建設される。現軍用地に建設するから新たな土地を接収する必要がない。辺野古以外なら新たな土地を接収する必要がある。辺野古以外なら飛行場建設は不可能である。
 周囲は海である。墜落事故があっても普天間飛行場のように人命や人家に被害を及ぼすことはない。
 飛行場に一番近い辺野古区でも1キロメートル離れている。辺野古区と飛行場との間には丘があり、騒音被害も小さい。

このような好条件は本土にもないし沖縄にもない。宜野湾市民の騒音被害、生命と財産を守るために辺野古移設は必要である。辺野古移設は人道問題であって基地問題ではない。

埋立ての土砂は外に出ない



埋め立て反対は埋め立てで土砂をどんどん海の中に流し込むイメージを与えている。もし、土砂をどんどん流し込むと土砂が広がって海底の広範囲を埋めてしまう。そうなるとものすごい大量の土砂が必要になる。それにそのような埋め立て方法だと反対派の言う通り大浦湾も辺野古の海も土砂で埋まり死滅するだろう。しかし、そのような海の広範囲を汚染する埋め立ては日本では行われていない。公有水面埋立法で自然環境を破壊する埋め立ては禁じているからだ。
それではどのようにして海を埋め立てるのかを説明する。
最初に海底に土台をつくった後、コンクリート製の箱船を埋め立て地の周りに隙間無く並べる。この箱船の名前はケーソンと言う。ケーソンの底の栓を抜くと水が入って沈む。傾かずに沈むように海底の状態を修正する。沈んだケーソンに岩石や解体ビルの破片などを入れて重くする。
土砂も同時に入れる。ケーソンの上に上部コンクリート壁を築く。消波ブロック(テトラポット)は魚巣にもなる。
全部沈むと埋め立て地の外壁ができあがる。海水は最初は吸い上げない。だから外海の水圧の影響は受けない。囲いの中に土砂を流し込む。それに応じて海水を吸い上げ放出する。中に土砂を流し込んで埋め立て地の出来上がり。土砂が外海に出ることはない。浅瀬はケーソンを使わない。

大浦湾の藻が繁茂している原因
 キャンプシュワブ内を流れている美謝川の写真である。川は見えない。美謝川は左上の辺野古ダムから国道339号線の下を抜け、緑の木々の中を流れている。山の自然の水がそのまま海に流れ出ているのが美謝川である、


埋め立て反対派グループの報告である。
「特にキャンプ・シュワブ大浦湾側、つまり普天間代替飛行場移設事業による直接の埋め立て地の中が最も多くジュゴンに利用されている」
グループはキャンプシュワブ側に藻が最も多く生えていると報告している。だから、埋め立てるとジュゴンに多大な被害を与えると主張していて辺野古埋め立てに反対している。グループはキャンプシュワブ側に藻が繁茂している原因は報告していない。原因を報告するのは彼らにとって不都合であるからだ。
藻が繁茂している場所はキャンプシュワブを流れている美謝川河口付近である。つまり藻が繁茂している原因は美謝川にある。
美謝川は畑の赤土や生活排水に汚染されないでキャンプシュワブの山の豊富な養分をそのまま大浦湾河口に運んでいる。それが藻が繁茂している原因である。大浦湾には二見川、大浦川、汀間川が流れ出ているが、川沿いには人家や畑があり生活排水や赤土が川に流れ込み、川はそれらを大浦湾に運んでいる。人家は少なく、畑の規模も小さいので大浦湾の汚染度は低いが、三つの川が大浦湾を汚染しているのは確実である。美謝川だけが汚染されないで山の栄養豊富な水を大浦湾に供給しているのである。
 美謝川は飛行場建設予定内を流れているし、河口も埋め立て予定地に入っている。河口は北の方に移す予定である。防衛局は飛行場の地下を通る設計をしている。およそ1キロメートル以上の川になる。国としては辺野古ダムから新美謝川河口までまっすぐにして半分の距離にしようとしているが、それには稲嶺市長の許可が必要である。辺野古移設絶反対の稲嶺市長は変更を拒否すると発言した。もし、稲嶺市長が拒否するのであれば、稲嶺市長には大浦湾の自然を守ろうという考えがないということだ。

大浦湾・辺野古の海が豊かなのはキャンプシュワブの山のお蔭である
 キャンプシュワブの山は昔のままである。その山から大浦湾に流れている美謝川が大浦湾の自然を豊かにしている。
 川沿いに住宅や畑のある二見を流れる川の河口には赤土が流れ出て汚染されている。大浦湾の北側には広大なカヌチャゴルフ場がある。ゴルフ場も海の汚染こそすれ、自然を豊かにはしない。大浦湾・辺野古の海が豊かなのはキャンプシュワブの山のお蔭であるといっても過言ではない。山の自然が保たれれば大浦湾の自然も保たれる。それが真実だ。

ジュゴンについて
2001年3月6日の政府のジュゴン予備調査報告では東海岸で5頭、西海岸で1頭が確認されたという。最近は三頭である。10年で沖縄近海のジュゴンは半分になった。辺野古飛行場建設はまだ始まっていないのにだ。三頭は家族である。父は西海岸に棲息し、母子は東海岸に棲息している。現状ではジュゴンが繁殖する可能性はゼロであるという。沖縄のジュゴンの絶滅危機である。ジュゴンの絶滅危機と辺野古基地建設は関係がない。
ジュゴンの体重は300キロから400キロある。草食動物のジュゴンは大食いであり毎日体重の十%(三十キロ~四〇キロ)を食する。多い時には十六%も食べると言われている。ジュゴンは辺野古の海に棲んでいるのではない。そもそも辺野古より嘉陽の海のほうが藻が多く、辺野古より嘉陽の海のほうでジュゴンは多く見られている。
ジュゴンは一か所で棲息してはいない。アフリカの像やしまうま、キリンなどの大型の草食動物がエサを求めて大移動するように、ジュゴンも藻を求めて移動している。ジュゴンは餌を求めて一年に数百キロメートル移動する。
 ジュゴンを守りたいのなら沖縄の川の水質をよくし、ジュゴンの食する藻を繁茂させることである。辺野古基地埋め立てを阻止することがジュゴンを守ることにはならない。そのことを専門家も指摘している。
三重大学生物資源学部のジュゴン研究会によって「沖縄産ジュゴンの保護のために」をWEBで発表している。

沖縄本島周辺の海草の分布は極めて貧弱である。海草群落を有する海岸は全海岸線の10%程度にすぎない(環境庁, 1996)。主要群落は金武湾南部、金武漁港から辺野古岬、安部、嘉陽、伊部、屋我地島周辺の5個所である。沖縄のジュゴンは、この乏しい海草群落と沖合いの避難場所との間を日周移動して生活している。
このような状況にあるジュゴンを保護するには、浅所にある海草場と深所の日中避難場を保存し、そこでのジュゴンの安全を保障するだけでなく、両者を結ぶ回廊部の保全と通過時の安全の確保が重要である。今回の航空機調査中に金武湾では定置網が4個所確認された。既に沖縄では定置網や刺し網による混獲の事例も発生しているし、漂着死体は漁業による混獲に起因している可能性がある。沖縄のジュゴンのような小個体群の場合には、これまで記録された2年に1頭程度の事故死でも重大な影響を及ぼす可能性がある。ジュゴンの生活圏においては刺し網や定置網の設置を避けることが望まれる。
モズク養殖のネットによるジュゴンの混獲は記録がないが、4月時点では沿岸のいたるところで養殖が行われ、8月の藻場の調査時には既にネットは除去されていたが、海草群落の中にもその痕跡が認められた。ジュゴンの羅網の可能性と海草群落自体への悪影響が懸念される。
海草群落の保存上の脅威には、水産養殖施設その他の水中構築物による直接の破壊のほかに、富栄養化による底質の劣化や赤土の流出による藻場の消滅が考えられる。その防止が望まれる。
「日本産ジュゴンの現状と保護」
 ジュゴン研究会はジュゴンの死の原因は定置網や刺し網による混獲であると指摘している。保存に危険なものは刺し網、定置網の設置、モズク養殖のネットである。ジュゴンを保護するには刺し網や定置網の設置を避けるこどであり、浅所にある海草場と深所の日中避難場を保存することである。そして、水産養殖施設その他の水中構築物も危険である。辺野古崎沿岸部を埋め立てる辺野古基地建設はジュゴン保護には関係がない。むしろ、二見川、大浦川、汀間川の汚染のほうがジュゴン保護にはマイナスであるのだ。

漁師が辺野古区民の真実を話す
テント村の人達は辺野古区民としてはうるさくて迷惑している。あんなことはやってほしくない。
辺野古移設については漁師は全会一致で容認している。賛成ということではないです。賛成でもなければ反対でもない。容認です。ちゃんと漁業への補償などをやってくれることなど、私たちの要求を受け入れてくれるなら容認するということです。私たちが移設を容認していることがなぜか外には伝わっていません。
 テント村の人達に地元の人はほとんどいません。私が見る限り一人も居ないです。おじいちゃんとかおばあちゃんとかがたまに二、三人テントに居たりしますが、彼らはお金で雇われているようです。私はそのように聞いています。
 実はですね。私がメディアに辺野古の実情を一部始終話してもほとんどカットされます。県民には伝わらないです。
「辺野古の人を助けたい」と言って辺野古にやってくる人がかなり多いですが、ほとんどの人がメディアの間違った情報を信じているんです。それをどうにかしたいのですが、私たちの考えが外には伝わらないのでどうしようもありません。
普天間では人の頭の上を軍用機が飛んでいるというし、とても危ないですよ。だったら早めに辺野古に移設したほうがいい。私や辺野古の人はみんなそう思っています。とにかく、早めに移した方がいい。
テント村の人たちですが、高江に居たりしているし、この前は泡瀬に居たようです。なんでもかんでも反対している人間のように私には見えます。辺野古の人もみんなそう思っています。私たちに危害を加えることはないから、まあ、やりたいように勝手にやったらいいという感じです。一人になると彼らはなにもできない。団体だとワーワー騒いでうるさいですが、一人だと大人しくて全然話をしないです。
埋め立てる時に土砂は流出しないのだから魚がいなくなるというのはあり得ない。ただ、海流に変化が起こるのでそれが漁にどのような影響があるのかは分からない。それは気になります。しかし、テトラポッドが設置されるので海が今よりきれいになるのは確実です。それにテトラポッドは漁礁にもなるので魚が増える可能性もある。
メディアは私たち辺野古民の気持ちや意見をちゃんと正確に報道してほしい。賛成・反対は別として、反対なら反対の意見をいう人の反対する理由をちゃんと報道すればいいし、賛成の意見を言う人が居るなら賛成の理由をちゃんと報道してほしい。それが私の切なる願いです。
ある老辺野古民は訴える
 チャンネル桜の水島氏が船に乗るために移動していると、見知らぬ老人が近寄ってきて水島氏を呼び止めた。水島氏はテント村の連中と勘違いされないために「私たちは反対運動じゃないです」と言った。老人をそれを承知で水島氏を呼び止めたようである。老人は「なにも考える必要はない」と言い、手振りを交えながら、「普天間飛行場は危ないだろう。一日でも早くこっちに移した方がいい」と言った。そして、「物事は理性で判断するべきだ。あれたちはなんでもかんでも感情的だ」とテント村の連中を非難した。水島氏と話し合った老人はすっきりした顔になり、「ああ、話してよかった」と言い、帰っていった。
昔から脈々と受け継がれている隣人を憐れみ思いやるウチナー魂を老人は見せてくれた。


2015/06/18 に公開
平成27年6月18日木曜日に放送された『沖縄の声』。沖縄県議会の6月定例会が16­日開会し、与党5会派が埋め立てで使用する土砂など埋立用材に特定外来生物が侵入しな­いよう防止する条例案を提案、それにより沖縄の各地で行われている埋め立て工事の工期­の遅れが心配される。本日は、2つのテーマ「なぜ土砂条例が必要なのか?なぜ埋め立て­に県外の土砂が使われているのか?」キャスターのsacom氏に詳しく解説していただ­きます。
※ネット生放送配信:平成27年月6月18日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
ゲスト
 sacom(沖縄支局担当キャスター・つり人)


2015/06/25 に公開
平成27年6月24日水曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、6月23日に糸満市平­和祈念公園にて行われた慰霊際を政治的な発言の場に利用した翁長知事、そして、沖縄の­被害者意識を詩に書いた落合恵子の「沖縄の辞書」についてキャスターの又吉康隆氏が徹­底批判します。
※ネット生放送配信:平成27年6月24日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)


次回放送は平成27年7月8日水曜日

  

Posted by ヒジャイ at 10:39Comments(2)

2015年06月26日

辺野古移設の真実


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
4月30日より県内書店で発売しました。

本の説明はこちら





県内取次店
沖縄教販
○県外は書店で注文できます。
県外取次店
(株)地方小出版流通センター

「沖縄に内なる民主主義はあるか」
第六章 八重山教科書問題はなにが問題だったか全文
第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない全文
第四章 基地経済と交付金の沖縄経済に占める深刻さ全文
第三章 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の真っ赤な嘘全文
第二章 命どぅ宝とソテツ地獄全文
第一章 琉球処分は何を処分したか全文

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辺野古移設の真実

辺野古移設が決まるまでの過程を見ると日本が議会制民主主義国家であることがよく理解できる。国家事業だからといって国が勝手に事業を進めることができないのが議会制民主主義国家である。地方自治体に認められた権利を国が破ることは許されない。国家事業も地元の自治体が同意しない限り進めることはできない。それが議会制民主主義国家である。 
民主主義の冠に「議会制」を置いているのには理由がある。日本は直接民主主義国家ではなく議会制民主主義国家であるが、だからというわけではない。民主主義にはまやかしの民主主義もあり、民主主義といっただけではまやかしの民主主義に非難されたりするからだ。本当の民主主義とか本当ではない民主主義とかで主張し合うのは消耗するだけである。革新も民主主義を主張しているし、辺野古移設反対の翁長知事が当選し、また世論調査でも辺野古移設反対が80%もあり、沖縄の民意は辺野古移設反対であり、民主主義であるならば辺野古移設を中止するのが当然であると革新は主張している。本当に革新の主張が民主主義なのかと論争しても並行線になるだけだろう。はっきり言えることは日本は民主主義国家であることだ。
共産党は資本主義社会の議会制民主主義を資本民主主義と呼んでいる。資本主義社会の国家は労働者階級を搾取している資本家階級のための国家であるということをレーニンが理論にし、日本共産党はレーニンの理論を受け継いでいるからだ。共産党は資本民主主義に対抗して民族民主主義なるものを考えだした。革新が主張している民主主義は共産党が考えだした民族民主主義のことであり資本主義社会である日本の議会制民主主義のことではない。彼らは日本の議会制民主主義を認めていない。翁長知事や革新も議会制民主主義を無視している。無視した上で民主主義を主張している。民族民主主義も翁長・革新の民主主義もまやかしの民主主義である。議会制民主主義のほうが本当の民主主義である。
政府は議会制民主主義に則って辺野古移設計画を進めていった。政府は辺野古区、名護市、県の了承を得るために粘り強く民主的な交渉をした。そして、辺野古移設を決めた。辺野古移設は議会制民主主義の手続きによって決まったのである。それが辺野古移設の真実である。
1995年
9月4日米兵による少女暴行事件発生。

1996年
3月22日 大田知事が橋本首相との会談で普天間基地の早期返還を要求。首相は「現状は厳しい」と発言。
4月12日 橋本首相とモンデール駐日米国大使が普天間飛行場を5年から7年以内に返還すると発表。
4月14日 普天間返還は移設条件付であることが判明。
6月.26日 米軍が普天間移設3候補地(キャンプ・シュワブ、キャンプ・ハンセン、嘉手納弾薬庫)を提案していたことが判明。
9月17日 橋本首相来県、講演で撤去可能な海上基地建設検討を表明。
10月18日 日本政府は関係省庁の専門家で構成するグループ、および学識経験者を中心とするグループ、TAG( 技術支援グループ)を設置し、施工法について研究を行った。TAGの座長は横浜国立大学教授だった合田良実。初会合は10月18日防衛庁で開催された。
海上ヘリポートに求められた土木的な条件
○沖縄本島東岸沖
○滑走路の長さは1500m。
○沖縄本島周辺の100年確率波浪などに対して安全性、耐久性を確保すること。
○想定水深は5m、25mの2案。
これを民間団体や企業に提示して技術提案を募り、その内容を検討した。

検討を経て、最終報告では杭打ち桟橋、ポンツーン方式メガフロート、セミサブ方式メガフロートの3案が現実的に実現可能として併記された。

1、杭打ち桟橋工法(QIP工法)
海底に固定した鋼管杭により、滑走路や建築物の基礎となる上部工を支持する構造。
施工はまず鋼板製のフローティングモジュールを工場等で製作し、次いで海上の設置場所まで曳航する。モジュールには予め支えにする鋼管杭の何割かを取り付けておき、設置場所でジャッキによりおろして海底に固定する。その後、今度は杭を更に伸ばしてモジュールを海面よりも上に持ち上げる。これらの作業が終わった後に残りの鋼管杭を取り付け、隣接するモジュールとの接続作業を実施する。基本計画の作成から設計に1年半、施工には3年程度と見積もられた。費用は100万平方メートル規模で2000億円(想定水深25m)。陸上とは連絡橋を用いて行き来する。設計技術、安全基準の評価が進み、実用化が最も進んだ工法と言われている。

2、メガフロート(ポンツーン方式)案
提案したのは1990年に設立された造船、鉄鋼、建設など96社で構成する「マリンフロート推進機構」であった。1995年4月には運輸省などの支援を受けて造船、鉄鋼など17社からなる「メガフロート技術研究組合」が発足し、3ヵ年で本方式のメガフロートを実現するための研究に着手した矢先に、基地移設問題が出てきた。研究会はこの時既に神奈川県横須賀市沖に、長さ100m、幅20m、厚さ2mの鋼製の浮体ユニットを展開し実験を開始していた。
設計には1年、施工には4年半かかると見積もられた。使用する鋼材は90万トン。1トン当たりの建設費は20万円であった。
 揺れの問題については米軍筋から疑問が呈され、「いくら防波堤があるとは言え、台風が来れば海面は揺れるし、橋の通行が不能になれば軍事基地の用をなさない」と使用上の制約に難色を示していた。

3、メガフロート(セミサブ式)案
関西国際空港1期工事の工法を検討していた1970年代後半に提案されたことがあるが、当時コストと耐久性についての技術的課題が未解決であったため棄却された経緯がある。長さ、幅はポンツーン方式と同じで厚さは12m。内部の利用法もポンツーン方式と同じである。メガフロートとしてはポンツーン方式より先に考案されたが、波浪を防波堤で遮断しないため構造物の強度が必要になる。メリットとしては水深の深い場所でも建設が可能なことである。コスト面ではポンツーン、QIPより割高で、両工法に比較して2倍以上。また、陸上との連絡方式は船舶となる。

その他の提案
SACO中間報告などを前提に日本政府でヘリポート検討が進められるのと並行して、民間からも様々な提案が行われた。

重力着底型プラットフォーム案
英略称SBSP。大林組により1996年10月、防衛庁に提案された。水深100mまで対応可能。コンクリート製の重力式基礎を海底に設置し、海面上に鋼製脚を伸ばしてデッキを上に載せ連結する。波の影響を受けにくく、コストや環境の面でも有利であり、メガフロートよりも安価に出来ると説明された。工事期間は2年から2年半で、波に強い特性から防波堤は不要である。

移動海上基地(MOB)案
アメリカ軍が研究を始めていた。1996年9月に橋本首相が海上ヘリポート案を示した際一気に世間の注目を浴び、一時は有力候補と目され、当時の海兵隊司令官であったクルラックなど、関係者が期待を示している。

11月16日 久間章生防衛庁長官が「キャンプ・シュワブ沖が有力」と言及。

普天間飛行場の移設について海外移設も含め多くの案が検討された。

海外移設案
アメリカ海軍系のある研究機関ではオーストラリアへの移転も含めた撤退シナリオも研究していたという。これは、佐世保と横須賀の海軍基地の維持のために、普天間については手放すシナリオを想定した内容であった。
当時のアメリカ軍には朝鮮半島の緊張状態は早期にカタがつくという楽観論があり、かつ将来の仮想敵である中国との戦いでは海兵隊は有用ではなく、海兵隊の活躍の場は湾岸にあるという考えがあった。
しかし、米豪の国防当局者は「アメリカ海兵隊のオーストラリアでの訓練の拡大は、沖縄における米軍基地の整理、縮小の動きとは関係ない」との理由で海外移転は棄却された。

国内移設の検討
日本本土の移設候補地としては高知県、苫小牧東などが検討対象に上がった。沖縄本島内での移設候補地は、多数の案が俎上に上がった。
日米は移設候補地の選定ではまず嘉手納弾薬庫地区と嘉手納飛行場が候補地として取り沙汰される。候補地に挙げられた地元の反応は早く、この時点で反対集会が実施された。
候補地は嘉手納弾薬庫、キャンプ・ハンセン、キャンプ・シュワブ、嘉手納飛行場となっており、宜野座村の潟原海岸を埋め立てて使う案もあった。その他に浦添沖、ホワイト・ビーチ訓練水域のある本島南部の中城湾なども候補地に挙がったこともあった。
日本側は5月9日に国内調整を進めるために「普天間返還作業委員会」(委員長:古川官房副長官)を組織した。

嘉手納弾薬庫案
アメリカ側から海兵隊のヘリが集結するのに十分な大きさを持つ基地として、嘉手納弾薬庫地区が最適地に挙げられた。しかし、弾薬庫への移転案については読谷村など予定地周辺が農業用ダムの水源となる森林地帯で、希少動物の宝庫であることから環境に悪影響が出るとして強く反対した。
嘉手納弾薬庫地区は開発の波に晒されず、豊かな自然が残された。この点に着目した反対派は同地で調査を行い、15種の希少生物が生息していると発表した。こうした動きから、県も地元と同様の見解を防衛庁に伝え、7月初頭には本案は沙汰止みとなった。

嘉手納飛行場統合案
嘉手納弾薬庫地区の次に浮上したのが、嘉手納飛行場への統合案であった。

アメリカ軍は3点の理由から日本側に反対した。
1.低速のヘリと高速の戦闘機を管制官が同時に管制するのは負担が大きい。
2.移設が実行されれば平時でもヘリ、戦闘機が各々60~70機ずつ訓練を行う飛行場となる。有事には増援などにより2~3倍の機体が集結すると考えられ、それを嘉手納一ヵ所で賄う事は不可能。
3.嘉手納は当時から騒音が問題視されており、P‐3Cの駐機場を移転したり、防音壁を設置したりしていた。普天間の機体を収用すれば嘉手納、北谷両町にとっては更に劣悪な環境となる。

嘉手納統合案については海兵隊は移転可能との意見を出したが、嘉手納に駐留する空軍の第18航空団は否定的意見だった。

嘉手納統合に代わる移設候補地も検討した。

嘉手納弾薬庫地区(新設)
キャンプ・シュワブ(新設)
伊江島への移転(既設)
県外自衛隊基地への移転(既設)

しかし、いずれも普天間飛行場の代替基地には不適当であると判断された。

キャンプ・ハンセン案[
1996年5月27日に開催したSACOで日米は作業班の設置を決め、嘉手納統合案などと平行してキャンプ・ハンセンおよびキャンプ・シュワブに対する検討を実施した。
キャンプ・ハンセン移転案については次の点が問題視された。
○平坦な地形ではないため工事が難航する。
○経費面で問題。
○森林伐採による赤土流出の可能性がある。
○現状でも夜間ヘリ訓練で騒音問題が発生している。

地元の反発は強く、キャンプ・ハンセンでは6月27日、キャンプ・シュワブでは7月8日以降集会や議会による反対決議などが相次いだ。

橋本首相による海上ヘリポート構想の表明
嘉手納案が消えた際、次に考えたのが陸上から離れ、米軍の使用水域を活用したキャンプ・シュワブ沖の活用案であった。
防衛庁は兵員輸送や住宅など陸上の付属施設の点で難題が多いと慎重姿勢だった。
橋本首相は9月17日、沖縄での講演で海上ヘリポート構想について明らかにした。以降、この発想が世間一般でも広く知られるようになった。

11月16日 防衛庁長官であった久間章生は、「現在地からそう遠くてもいけない。騒音問題もある。キャンプ・シュワブ沖合がかなり有力になるのではないか」と発表する。
12月2日 SACO最終報告が提出された。その中で、代替施設となる海上ヘリポートの機能としては1,300メートルの撤去可能な滑走路を備えることを挙げている。

1997年
8月23日 橋本首相来県、講演で「普天間返還は海上基地建設が前提」と明言。
11月5日 久間防衛庁長官来県、名護市と県に海上基地基本案を提示し、協力要請。
12日21日 ヘリ基地建設の是非を問う名護市民投票(反対:16,254票,賛成:14,269票)で反対が賛成を約2300票上回る
12月24日 比嘉名護市長が橋本首相に海上基地受入を伝え、辞職すると表明。大田知事は海上基地の結論を出す前に翌年1月中旬以降の再会談を約束。

1998年 
2月6日 大田知事、海上基地受入れ拒否を表明。

大田知事が海上基地受け入れ拒否をした理由は県内移設だからであった。革新系の大田知事は県内の全ての米軍基地を撤去する考えであったから、例え普天間飛行場の危険性をなくすためであっても県内移設であれば反対であった。
 
※1995年)9月28日に大田知事は代理署名拒否を表明した。海上基地受入れ拒否を表明したのと理由は同じである。
米軍基地反対の大田知事は一坪反戦地主の代理書名を拒否したのである。一坪反戦地主が署名を拒否した時は県知事が代理署名することを法律で決まっていた。ところが大田知事は代理署名を拒否したのである。それは違法行為であった。これに対して政府は、1995(平成7)年9月29日、地方自治法に基づき、駐留軍用地特措法の規定により義務付けられた本件公告縦覧の手続きに応じるよう沖縄県に勧告し、同年11月29日には「命令」を行った。しかし、大田知事は拒否した。国は知事の代理署名拒否は想定外であったので、代理署名を拒否した場合の対処法をつくっていなかった。反戦地主の契約更改ができなければ米軍基地使用に支障する。追いつめられた国は沖縄県知事を被告とする職務執行命令訴訟を、同年12月7日に福岡高等裁判所那覇支部に提起した。判決の結果、県は敗訴した。県は最高裁判所に上告するが、最高裁判所の判決で上告は棄却され、1996(平成8)年8月28日に沖縄県の敗訴が確定した。

米軍用地の強制使用手続きをめぐる代理署名訴訟の上告審で、最高裁大法廷(裁判長・三好達長官、15人は28日、駐留軍用地特別措置法を合憲と認定、大田昌秀知事の署名拒否は「著しく公益を害することは明らか」として、国側が全面勝訴した1審判決を支持して、大田知事の上告を棄却した。 判決は15人全員一致だった。
判決では、駐留軍用地特措法の適用が「わが国の安全と極東における国際の平和と安全の維持にかかわる国際情勢、土地等の必要性の有無・程度、提供することによってその所有者や周辺地域の住民などにもたらされる負担や被害の程度など諸般の事情を総合考慮してなされるべき政治的、外交的判断を要する」として、国の裁量にゆだねられていると判断し、県側の違憲主張をすべて退けた。
審査の範囲については、国による強制使用認定の適否を審査の範囲外とした福岡高裁那覇支部の判断を否定して、砂川裁判最高裁判決を維持。その上で、使用認定には無効にしなければならないような落ち度はないとの判断を示し、合憲とした。
 反戦地主の代理署名を拒否したような大田知事であったから、辺野古海上案に反対するのは当然と言えば当然である。大田知事が望んでいるのは沖縄からすべての米軍基地が撤去されることであり、普天間飛行場が県内に移設することには反対であった。

2月8日 名護市長選で移設容認派が推進する岸本建男氏が1万6253票を獲得し当選、玉城氏に1150票差。投票率は82.35%。
5月15日 普天間飛行場の県外移設など要請で大田知事訪米。
11月11日 小渕首相 海上基地見直し表明。
11月15日 知事選で県内移設容認(15年使用期限付軍民共用)の稲嶺恵一氏が37万4833票を獲得し初当選。大田昌秀氏との表差3万7464表。投票率76.54%。
1999年
8月21日 宜野湾市議会が県内移設要請決議。
9月.24日 名護市辺野古区行政委員会、陸上・埋め立て案反対決議。
9月.27日 名護市議会「北部地域への新空港早期建設に関する要請決議」否決。
10月15日 沖縄県議会「普天間飛行場の早期県内移設に関する要請決議」可決。
11月19日 第13回沖縄政策協議会が開かれる。稲嶺知事が「早期に移設候補地を表明したい」と発言。政府は北部振興策などの取組方針7項目を提示。
11月22日 稲嶺知事、移設先は名護市の辺野古沿岸沖(キャンプ・シュワブ水域内)と発表。
11月25日 稲嶺知事候補地決定を政府へ伝え、15年使用期限を要請。
12年3日 稲嶺知事が岸本名護市長に移設受入要請。
12月23日 名護市議会、徹夜審議で辺野古沿岸地域への移設促進決議。
12月27日 「普天間」で岸本名護市長、条件付き受け入れ表明。
12月28日 代替施設を「キャンプ・シュワブ水域内名護市辺野古沿岸域」と閣議決定。

2000年
8月25日 普天間飛行場代替施設の基本計画を協議する「代替施設協議会」の初会合開催。国と県、移設先地元の名護、東、宜野座3市村で構成。第15回沖縄政策協議会も開かれ、21世紀プラン最終報告を決定。
1月16日 第5回代替施設協議会。
①くい打ち桟橋(QIP)
②メガフロート(ポンツーン方式)      
③メガフロート(セミサブ式)
3工法について協議。
岸本名護市長は使用期限と基地使用協定で「基本計画と同時並行的に進めてほしい」と要望。工法でも環境に配慮した必要最小限の工事・施設を要請。

6月8日 第7回代替施設協議会、第6回北部振興、第4回移設先・周辺地域振興、第4回跡地対策準備協議会を開催。代替協では代替施設案として3工法8案を提示。岸本名護市長は「基地使用協定、使用期限、振興策は平行して進めるべき、それらの問題に進展がない状況では、早急に結論を出すつもりはない」と明言。提示された工法の工期は6年から18.5年、建設費は1400億円から1兆円、年間維持管理費は7000万円から7億7000万円と試算。
12月27日 第8回代替施設協議会、第8回北部振興、第5回移設先・周辺地域振興、第6回跡地対策準備協議会を開催。建設位置「リーフ上」で可能な限り北東側に建設することで合意。岸本名護市長は「軍民共用でできる限り縮小」との考えを表明

2002年
9月27日 稲嶺知事が県議会で15年使用期限の解決なくして着工はないとの立場を表明。
11月17日 県知事選で稲嶺氏が大差で再選。

2002年8月4日 第九回代替施設協議会で合意された普天間代替施設の基本計画に反発している移設先の名護市辺野古区行政委員会(宮城利正委員長)は3日午後、岸本建男名護市長を招いて会合を開き、決定案より施設を100メートル以上外洋側に移すことなどを口頭で要望した。会合後、岸本市長は、地元の要望に対し「努力したい」と述べ、政府に求める構えを示した。同区行政委は要望を四項目にまとめ、5日午後、岸本建男名護市長に正式に文書で要請する。一方、同市豊原区は3日、同区公民館で行政委員会(城間正昭委員長)を開き、決定案がリーフに掛かる外洋を求めた地元要望と違うとして、移設先3区の全行政委員が集まる拡大合同委員会で、岸本建男名護市長や防衛施設庁に説明を求めることを決めた。
辺野古区の要望
(1)基本計画案より施設を100メートル以上外洋側に移す。
(2)施設を南西側に100メートルから200メートルほど寄せる。
(3)施設自体の幅(730メートル)を100メートル縮小する。
(4)作業ヤードは施設工事完了後、区に無償譲渡する。
これまで区が求めてきた案より、踏み込んだ内容。会合では、岸本市長らが基本計画について、工事の危険性などから現在地に決まった、と説明し理解を求めた。行政委は市に提示していた「外洋側」の2案を挙げ、「ぎりぎりの判断で提示した譲れない内容」と強調した。
                                  「琉球新報」参考
※辺野古沿岸移設でも、同じ場所に作業ヤードを作り、施設工事完了後は区に無償譲渡する約束であった。しかし、現稲嶺市長は作業ヤードを作ることを市長権限で取り消した。

2003年
4月8日 政府が辺野古沖で現地技術調査を開始。

2004年
8月13日 米海兵隊ハワイ所属の大型輸送ヘリCH53Dが沖縄国際大学 の一号館本館に接触、墜落、炎上した。
      幸いなことに犠牲者は出なかったが、人口密集地のど真ん中にある普天間飛行場の危険性を浮き彫りにした事件であった。ヘリコプター墜落は辺野古沖への移設に拍車をかけると思われたが、意外なことが起こる。2004年9月9日に防衛施設局の辺野古沖でボーリング調査が開始されたが、移設反対派はボーリング調査用のやぐらを占拠してボーリング調査を妨害したのである。
※沖国大にヘリコプターが墜落炎上したことは、普天間飛行場周辺の住民の生命が危険であり、危険性をなくすためには辺野古海上に移設したほうがいいことは周知の事実である。しかし、革新系市民は移設に反対し、やぐらを占拠してボーリング調査を暴力で阻止したのである。宜野湾市民の騒音被害や命の危険を危惧するよりも県内移設することに断固反対する革新派市民は人権を軽視している。
 政府は反対派の妨害により海上移設を断念する。

10月1日 小泉首相が在沖米軍基地の本土移転推進の意向を初表明

2005年
2月6日 政府が辺野古移設の見直しを検討していることが明らかに。
2月15日 米連邦議会の海外基地見直し委員会が在沖基地視察で来沖。稲嶺知事が海兵隊の県外移設を要求。
3月10日 小泉首相が辺野古移設の見直しを指示していたことが判明。海上移設を断念した小泉首相は、稲嶺知事の要求もあり、県外移設を目指し、調査を開始した。

※馬毛島は鹿児島県にある無人島である。住民の住んでいる島から12キロメートル離れた場所に馬毛島はある。馬毛島は米軍空母艦載機の離着陸訓練の候補地になっていた。完成すれば嘉手納飛行場の戦闘機も馬毛島で離着陸訓練をやる予定であった。
「馬毛島」のある鹿児島県西之表市の市議会議員らが来県し、嘉手納飛行場を視察した。市議たちは嘉手納飛行場の戦闘機の轟音に驚いた。嘉手納飛行場を視察した市議たちを中心に馬毛島の離着陸訓練への反対運動が広がった。県や地元4市町の反対によって馬毛島の滑走路の建設は中止している。12キロも離れている無人島の「馬毛島」で戦闘機の離着陸訓練する滑走路を造るこことにさえ反対するのが本土の住民である。
普天間飛行場用地の大きさは馬毛島の離着陸訓練用滑走路の比ではない。普天間飛行場移転となると馬毛島と違って海兵隊もやってくる。沖縄のマスコミや米軍基地反対派の人たちは米軍基地被害の凄まじさや海兵隊員の恐ろしさを本土の人たちに発信し続けてきた。だから本土の住民は米海兵隊がやってくることに恐怖し拒否反応が起こるだろう。住民の住んでいる場所から12キロメートルも離れている馬毛島の離着陸訓練用滑走路建設にさえ反対するのだから、普天間飛行場の移設ならもっと激しい反対運動が起こるだろう。西之表市の市議会議員らの「馬毛島」の陸上着陸訓練滑走路建設への拒否反応をみれば、本土の住民が普天間飛行場を受け入れるのは不可能であることがわかる。

6月23日 小泉首相「自分の所へ来てくれるなという地域ばかりだ」と普天間飛行場の本土移転を困難視。本土の自治体の「総論賛成、各論反対」のために県外移設を断念する。
9月27~30日 日米審議官級の非公式協議で、日本のキャンプ・シュワブ陸上案と米側の辺野古リーフ内縮小案(浅瀬案)で調整難航
10月1日 稲嶺知事が県選出国会議員らと意見交換し、普天間代替案のキャンプ・シュワブ陸上案と辺野古リーフ内縮小案(浅瀬案)に否定的な見解を示す。
10月13日 額賀福志郎自民党安保・基地再編合同調査会座長が小泉首相に「沿岸案」を提案。
10月15~17日 米国務・国防省高官が県や県議会ら地元関係者に「普天間」の県内移設を条件に、嘉手納基地以
南の基地を北部に集約する案を説明。
10月26日 日米審議官協議で辺野古沿岸案基本合意。
10月31日 稲嶺知事、北原防衛施設庁長官と会談、午後、沿岸部移設拒否を表明。
11月1日 那覇防衛施設局、辺野古沖調査の一時中止を発表。
11月1日 辺野古、豊原、久志3区の区長が北原防衛庁長官と会談、沿岸案拒否を伝える。
11月7日 宜野座村議会、沿岸案反対を可決。
11月8日 額賀福志郎防衛庁長官が来県し稲嶺知事、岸本建男名護市長と会談。
11月9日 額賀防衛庁長官が記者会見、沿岸案の修正を否定。
11月10日 政府、米軍再編中間報告の取り組み方針を閣議決定。
11月16日 ブッシュ米大統領来日、小泉首相と会談、中間報告の合意内容の実施を要求。
12月3日 麻生太郎外相とラムズフェルド米国防長官が会談。3月の最終取りまとめに向け作業内容確認。
12月16日 県議会が沿岸案反対の意見書を全会一致で可決。
1 2月21日 宜野湾市議会、沿岸案反対を賛成多数で決議。
12月26日 自民党の山崎拓沖縄振興委員長が記者会見、沿岸案推進を言明。

2006年
1月22日 名護市長で沿岸案に反対し、修正案に柔軟姿勢を示す島袋吉和氏が初当選。
2月9日 島袋名護市長が上京。小池百合子沖縄担当相、山崎沖縄振興委員長らと会談。沿岸案反対伝える。
2月23日 自民党県選出・出身国会議員が小泉純一郎首相に沿岸案修正を要請。首相は修正を拒否。
3月9日 稲嶺知事が額賀防衛庁長官と会談。沿岸案拒否を伝える。
3月9日 小泉首相と山崎氏らが会談。シュワブ沿岸部移設案修正を否定。
3月17日 政府、沿岸案の滑走路の向き変更の検討明らかに。
3月21日 小泉首相と額賀防衛庁長官が会談。首相が微修正を容認。
3月5日 沿岸案をめぐり島袋名護市長と額賀防衛庁長官が協議。
3月26日 島袋市長と額賀防衛庁長官が再協議。
3月28日 小泉首相、額賀防衛庁長官、山崎自民党安全保障調査会長、守屋武昌防衛事務次官が会合。沿岸案を原則とする方針を確認。
3月30日 額賀防衛庁長官と金武、恩納、宜野座、東の4町村長が会談。
3月31日 名護、金武、恩納、宜野座、東の5市町村長が会合。
4月4日 島袋市長、額賀防衛庁長官との再協議で上京。100メートル以内で沖合移動 辺野古沿岸案 政府が新微修正案。
名護と政府は4日の会談で、
(1)住民の安全を考慮。
(2)環境保全に考慮。
(3)実現可能性のある移設案を追求。
3点の基本方針を確認した。

4月7日 島袋名護市長が滑走路2本案(V字形案)で政府と合意。宜野座村も政府と基本合意書締結。
5月4日 稲嶺知事、キャンプ・シュワブ陸上部に暫定へリポート整備を求めることなどを盛り込んだ「米軍再編に関する県の考え方」を発表。
5月30日 政府、県の反対を押し切り、米軍再編最終報告の実施に向けた方針を閣議決定。「合意案(V字形案)を基本」としたが具体的な内容は見送り。1999年の閣議決定廃止、新協議機関の設置も決定。
8月18日 稲嶺知事と額賀長官、普天間移設の協議機関の早期設置に向け調整することで合意。知事は暫定ヘリポート案本格討議を要求。
9月26日 安部内閣が発足。久間章生氏が防衛庁長官に就任。
10月7日 稲嶺氏後継として知事選に出馬表明した仲井真弘多氏が政策発表「現行のV字形案では賛成できない」と表明。後に「普天間飛行場の3年内閉鎖状態の実現」を公約。
10月30日 仲井真氏、「(移設先の)ベストは県外だが、県内移設もやむを得ない」とキャンプ・シュワブ沿岸部移設容認を示唆。
11月19日 仲井真氏、県内移設反対の糸数慶子氏を退け、知事に初当選
11月28日 久間長官、「3年内閉鎖状態」について「事実上できない」と否定

2007年
.1月19日 第3回普天間移設措置協議会開催。名護市が約350メートル沖合いに移動する修正案提示。政府は2010年1月ごろの埋め立て工事開始を提示。
2月5日 守屋武昌防衛事務次官が仲井真知事との会談で場周経路の見直しを柱とする普天間飛行場の危険性除去策を提示。
4月25日 仲井真知事、島袋名護市長らとともに防衛省で久間防衛相と会談。市、県が求める沖合移動は進展なし。
8月7日 防衛施設局が県などに環境アセス方法書送付。県と名護市は受け取りを保留。
8月14日 環境アセス方法書の公告縦覧。
10月23日 仲井真知事は「環境アセス手続きの一つとして受け取らざるを得ない」とし、方法書の受け取り保留を解除。

普天間代替施設、政府案より沖へ90m…政府が譲歩方針
 政府は、沖縄県のキャンプ・シュワブ沿岸部(名護市)に建設予定の米海兵隊普天間飛行場(宜野湾市)の代替施設を、2006年に日米両政府が合意した案より90メートル程度、沖合に移動する修正を行う方針を固めた。
 沖縄県や名護市も受け入れに前向きな姿勢を見せている。これにより、1996年の返還合意から12年近く停滞している普天間移設問題が動き出す可能性が出てきた。
 普天間移設問題では、旧防衛庁と名護市が06年4月、シュワブ沿岸部にV字形滑走路を建設することで基本合意した。名護市はその後、300メートル以上、沖合に移動する試案を提示し、沖縄県も同調したが、政府が難色を示し、平行線をたどったまま環境影響評価の手続きが進んでいる。政府は09年8月には周辺海域の埋め立てを県に申請し、14年に代替施設を完成させる計画だ。
 県や名護市が沖合移動を求めるのは、騒音や事故の際の危険性を低減するためだ。政府は米側との再調整が必要になることなどで否定的だったが、周辺海域の埋め立てには知事の承認が不可欠であるため、町村官房長官らが主導して県側に譲歩すべきだと判断した。
 沖縄県の環境影響評価条例の施行規則では、大幅な計画の変更は手続きのやり直しが必要だ。移動距離が約55メートル以内ならやり直す必要はないが、県や名護市はさらに大幅な移動を主張している。政府は県側の要求にできるだけこたえるため、代替施設の当初位置から約90メートル沖合にある「長島」ぎりぎりまで移動する案を軸に検討する構えだ。
 米側との調整について、政府は「90メートル程度の移動なら運用上の問題も生じず、協力を得られる」と見ている。ただ、名護市が求める滑走路の短縮については、米側の反発が予想されるため、政府は使用協定を結んで騒音の大きい訓練を制限することなどで市に理解を得る考えだ。
 こうした政府の方針に対し、沖縄県の仲井真弘多知事は読売新聞の取材に、「名護市の意向を尊重して考えたい。移動距離は、政府といったん合意できれば、その後に要求を上積みするつもりはない」と語った。名護市も「100メートル近く移動できれば地元に説明できる。滑走路の長さの問題も、使用協定を結んで使い方を限定すればクリアできる」(幹部)としている。
 政府は環境影響評価の方法書に対する知事の意見を1月21日までに聞き、そのうえで調査を始める。知事の意見表明後の1月下旬に沖縄県や関係市町村とつくる普天間移設協議会を開き、調査開始への理解を得る方針だ。こうした動きと並行して県や市と政府案の修正を非公式に検討し、3月にも協議会の議題にしたい考えだ。ただ、県内移設に反対する革新陣営や市民団体の反発が予想され、流動的な要素も残っている。
「読売新聞2007年12月31日」

2008年
2月7日 第6回協議会で町村官房長官が「沖合い移動も念頭に置き、建設計画の問題などについても協議する」と表   
     明。
2月14日 沖縄防衛局が追加修正資料の修正版を沖縄県に提出し、方法書を確定。
3月14日 沖縄防衛局が方法書の追加修正資料の修正版を沖縄県に提出し、方法書を確定。

2009年
1月20日 バラク・オバマ氏が第44代米大統領に就任。
3月7日 麻生太郎首相が就任後初来県し、仲井真知事が沖合修正をあらためて要請。
4月1日 沖縄防衛局が環境影響評価基準書を県へ提出、沖合移動の複数案を比較検討した結果、日米両政府合意案で準備書を作成。
9月25日 鳩山連立政権発足。鳩山首相は県外移設が前提との考えを表明。

※自民党政府と沖縄県で最終的な合意がなされ、辺野古移設が決まる寸前であったが、衆院選で民主党が大勝し、鳩山連立政権が誕生したために辺野古移設は頓挫する。鳩山首相は「できるなら国外、最低でも県外」を公約する。しかし、それは過去に小泉首相が県外移設をしようとしてできなかったことを知らなかったがゆえの鳩山首相の無知による公約であった。

10月13日 環境アセス準備書に対する知事意見提出。
10月19日 鳩山首相は新たな代替地を検討する可能性を指摘。
10月29日 うるの会が硫黄島移設案を提案・・・すぐに可能性がないと指摘されて提案は消える。
10月30日 鳩山首相は参院代表質問で「県民に苦渋の選択を押し付けるつもりは毛頭ない。最後は私が決める」と明言
12月15日 鳩山首相が現行案以外の移設先検討を明言。「できるなら国外、最低でも県外」を宣言した。国外は無理であることを知った鳩山首相は県外移設を明言した。

鳩山由紀夫内閣時代に検討された移設案の概要

1 九州移設案(新田春・築城基地移設案)
2 嘉手納基地統合案
3 キャンプハンセン移転案
4 関西国際空港移転案
5 馬毛島案
6 伊江島案・下地島案
7 自衛隊基地への移設案
8 勝連沖埋立案
9 グアム・テニアン島案
10 キャンプ・シュワブ陸上案
11 メガフロート案
12 辺野古杭打ち桟橋案
13 徳之島案
14 腹案
15 九州ローテーション案
16 その他
17 無条件撤去論

※ほとんどは小泉首相時代に検討され、実現が困難であると判断された案であった。

2010年
1月24日 名護市長選で稲嶺氏が初当選
2月24日 県議会が普天間の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し、国外・県外移設を求める意見書を全会一致で可決。
3月8日 沖縄基地問題検討委員会で、社民が国外や県外移設、国民新がシュワブ陸上と嘉手納基地統合などの移設案を提案
3月26日 北沢俊美防衛相が仲井間知事との会談で「現行案は極めてゼロに近い」と明言。
4月9日 鳩山首相が移設先として鹿児島県徳之島を明言。
     県外移設先の候補地は一か所も上げることができなかった鳩山首相であった。徳之島を候補地にあげたが、徳之島との事前交渉はなく、一方的に鳩山首相が決めたものである。
4月12日 鳩山首相がオバマ米大統領と非公式会談で沖縄の負担軽減に理解を求める。
4月18日 「米軍基地徳之島移設断固反対1万人集会」に1万5000人が参加。鳩山首相が徳之島を候補地に挙げると徳之島はすぐに反対の声を上げた。

※徳之島の人口は約25,000人である。1万5000人は人口の60%である。沖縄本島の人口は約129万人である。もし沖縄本島なら77万人が参加したことになる。

4月20日 徳之島3町長が平野博文官房長官との会談を拒否、徳之島の強烈な反対運動に徳之島案はあっけなく頓挫した。鳩山首相は県外移設を諦める。
4月25日 「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と、県内移設に反対し国外・県外を求める県民大会」で9万人が参   
      加。
5月4日 鳩山首相が初来県し県内移設を明言。
5月10日 米軍普天間飛行場をめぐる関係閣僚会議で現行案を修正する形での移設案を確認。
5月16日 伊波宜野湾市長と稲嶺名護市長が県内移設反対で共同声明。普天間基地包囲行動に1万7000人が参加。
5月23日 鳩山首相が再来県し、名護市辺野古への移設を明言。
5月28日 日米両政府が辺野古崎地区とこれに隣接する水域を移設先とする共同声明発表。
6月4日 鳩山氏が首相退陣、菅直人氏が首相に就任し、日米合意の踏襲を明言した。

※2010年6月4日で辺野古移設の政治決着がついたと判断するのが常識である。辺野古移設が最終的に決まったのは民主党政権時代であった。 

 自民党の小泉首相、民主党の鳩山首相の時代に県外移設は不可能であるということがはっきりしたのである。良識ある政治家であるなら実現の可能性がない県外移設を公約にしない。ところが沖縄の政治家は県外移設を公約にするのである。実現不可能である県外移設を公約にすることは県民を騙しているし政治家として失格である。

 政治決着したとしても辺野古埋め立てがすぐにできるのではない。埋め立てには公有水面埋立法に則った計画書を作成して、県知事に申請し承認を得なければならない。自然保護など公有水面法には厳しい条件がある。
 政治的決着がついたので防衛局は埋め立て申請の準備に入った。防衛局は県に3年後に公有水面埋め立て承認申請書を申請する。

2013年
3月22日 沖縄防衛局は22日午後3時40分、米軍普天間飛行場の名護市辺野古沖への移設に向けた公有水面埋め立て承認申請書を名護市の県北部土木事務所に提出した。申請書には埋め立て水域の漁業権を持つ名護漁業協同組合の同意書も添付した。県は申請書類を確認し、不備がなければ受理することになる。
12月18日 沖縄防衛局は米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に向けた環境影響評価を補正した評価書を県に提出。
12月27日 仲井真知事は那覇市の知事公舎で記者会見し、政府が米軍­普天間飛行場の移設に向けて申請した名護市辺野古沿岸部の埋め立てを承認したことを正­式に発表した。 

埋め立て申請を承認した記者会見で仲井真知事とTBSの金平茂紀キャスターが奇妙な対話を展開する。「産経新聞は「辺野古埋め立て承認 仲井真知事 『日本語能力』問うTBSキャスターに猛反論 」という題名でWEBに掲載した。歴史に残る迷対話だと思うので全文掲載する。

金平氏=仲井真さんは、日本国民としての日本語能力を、常識的な日本語能力をお持ちの方だと思うからお聞きするのだが、公有水面の埋め立ての申請があった場所は県内か、県外か。
県土木建築部長=埋め立て申請のあった場所は当然県内でございます。
金平氏=県内に埋め立てをして、そこに移設をしようという、その承認を求めるところに今日公印を押されているんですね。交付されたということは、辺野古に、つまり県内移設を認めるということに同意されたというふうに、普通の一般的な日本語の能力を持っている県民の方が理解するというのは当たり前のことだと思いますよ。それと、今、おっしゃってた県外移設を自分の公約としてこの間の参院選の時におっしゃいましたね。それを覆しているという思いはないというふうなことをおっしゃってましたが、どう考えたってですよ、どうやってその間に整合性を付けるのか。片方では県外移設については私は変えていないと言いながら、県内移設を進める方のもとに県知事が承認をされたんですよ。県知事っていうのはロボットじゃないですから、明らかに。
仲井真氏=今のご質問ですか。私に対する批判ですか。何を言いたいんですか。要するに。質問をしてください。
金平氏=その整合性について、どういうふうに説明をするのかということを申し上げたいんです。
仲井真氏=だから説明をずっとしているじゃありませんか。何をご質問されてんですか。要は。だから承認をしましたよ。これは法の手続きに従って承認をしたんです。それで、どこがどうだとおっしゃってるんですか。ご質問の趣旨が。私もあなた同様に、日本語はあんた並みには持っているつもりですが、何ですか。
金平氏=えー、ですから申し上げてるんですが…。
仲井真氏=ですから、私も聞いとるんです。ちゃんと質問してください。
金平氏=整合性について、どういうふうに…。
仲井真氏=だから、どこがどう整合、不整合だと思っているんです。質問のご趣旨がよく分かりませんよ。
金平氏=埋め立てを承認するという立場と県外移設を進めるという立場が、この声明の中では併存しているんじゃないかということを申し上げている。
仲井真氏=当然でございますよ。だって、まず(日米)両政府が、辺野古に埋め立てしたいということはどうぞと。これ、どうぞっていうより、それは法律上の手続きとして承認致しますと、こういうことですよ。だけど、これいったい何年かかるって、あんた現実を今度は見てください。あなたも有名な方だとすれば。何年かかるか分からないのに、この基地がそのまま宜野湾の真ん中にあり続けるということに問題があると、県知事として前から申し上げているんです。危険だから。これは両政府も前からそう言ってんですから。だから、これは一方で早く、この危険を減らす、ゼロにするというのは、これは安倍晋三首相も菅義偉官房長官も共有していると言ってるじゃありませんか。だから、これはこれで手を打たないとダメなんですよ。だから、これは辺野古だとかなりの時間がかかるから、この間今政府は9・5年と言っているんですか、おそらくこれはかかると僕は予測をしています。そうすると、それよりももっと早く、どこかこの機能を停止させ、移すしかないじゃありませんか。これは並行して存在し得ると言っているんです。当然でしょ。
金平氏=並行して…。
仲井真氏=どこが。当たり前じゃありませんか。だって、長年かかる。まだその5年ぐらい以内にもっと移せる場所を探せと言っているんですから。探してもらいたい。それで探しましょうと政府は言っているんですから。そのご質問は政府にもぜひやられたらいいですよ。
金平氏=先ほど(他のマスコミの)記者がおっしゃったように、この承認によって日米両政府が辺野古移設に向けて淡々と作業を進めていくのではないか。
仲井真氏=それはあなたに言われなくても政府の仕事ですよ。それで。
金平氏=県知事としての高度な政治判断というのはあるでしょう。これはただ申請があったから、そのまま適格かどうかを認めるというだけではなくて、県知事としての政治判断というのはあるでしょう。
仲井真氏=ですから、ぜひね、簡潔なちょっと質問の形式にしてくれませんか。今あなたと議論を僕はする気は毛頭ありません。
金平氏=する気がないのであれば、私が今申し上げたようなことに対して、県知事がおっしゃっているような答えが県民にもし理解が得られないとした場合は、県知事としての責任をどうお考えか。
仲井真氏=そういうことが質問に、もし何々であればどう責任を取りますかというのを、あなたに聞かれる理由は1つもありません。もうここに書いてある通りだから、今日はここだけをよく読んで、理解をしていただきたいと思うんです。もし、理解ができなければ、ではありません。あなたの方でまずこれ読んで、普天間基地の問題をよく理解していただきたいというのが私の切なる願いですよ。
金平氏=今この瞬間も…。
仲井真氏=ですから、もう終わりませんか。あなたとのこのお互いの議論のやり取り。
                                    「産経ニュース」
実直タイプの仲井真知事と革新系政治屋ジャーナリスト金平氏の対話である。ほほえましいというか、笑えるというか。アホらしいというか。
「交付されたということは、辺野古に、つまり県内移設を認めるということに同意された」「県内移設を進める方のもとに県知事が承認をされたんですよ。県知事っていうのはロボットじゃないですから、明らかに」「そのまま適格かどうかを認めるというだけではなくて、県知事としての政治判断というのはあるでしょう」
金平氏は高度な政治判断で防衛局が提出した公有水面申請を不承認することができると主張し、県外移設を主張しているのなら不承認にするべきであると仲井真知事を批判している。なんと、ジャーナリストが権力の乱用をやるように知事に求めたのである。ところが権力の乱用を勧められた権力者の知事は法令順守にこだわっているのである。普通、政治家とジャーナリストとの対話はジャーナリストが政治家の権力の乱用を批判するものだが仲井真知事と金平氏の対話では逆になっている。奇妙なシーンである。
防衛局が提出した埋め立て申請は政治的なものではない。純粋に法的なものである。埋め立て申請を承認するかしないかの判断に辺野古埋め立てに賛成反対は関係がない。仲井真知事が県外移設を公約にしていても埋め立て申請に瑕疵がなければ承認しなければならない。もし、承認を拒否すれば政府は訴訟を起こすだろう。裁判で埋め立て申請に瑕疵がないと判断すれば政府が勝訴するのである。そのことをやんわりと説明できない仲井真知事はイライラが募っていく。金平氏は仲井間知事の政治判断で埋め立て申請の承認不承認を左右することができると主張し続ける。法より政治が優先すると主張しているのが金平氏である。革新系政治屋ジヤーナリストの真骨頂発揮だ。仲井真知事と金平氏の記者会見での対話は平行線で終わった。
金平氏は辺野古の海で進入禁止フロートを越えて進入禁止区域に入ったことを全国放送で話した人間である。自分が違法行為したことを平気で話すのが革新系政治屋ジャーナリスト金平氏である。

自民党政府が最初に辺野古移設を提案した時、辺野古区民、名護市長、名護市議会、県知事の4者が反対していた。県側の提案を政府が拒否したこともあった。お互いの主張と妥協を繰り返しながら政府と地元は合意に達した。しかし、民主党政権に代わると、合意を無視した鳩山首相は県外移設を主張した。本土では普天間飛行場を受け入れる地域はなく鳩山首相の県外移設はとん挫した。鳩山首相は再び辺野古移設に戻った。その時に初めて辺野古区民、名護市長、県知事、日本政府、米政府の5者が同意した。これで辺野古移設が決定したのである。
 その後は、県から埋め立て承認を得るために公有水面埋立法に則った書類作成の段階に入ったのである。これが議会背民主主義のやり方である。議会制民主主義を理解できない金平氏の仲井真知事への批判はお門違いであった。

菅直人首相が日米合意の踏襲を明言した2010年6月4日に辺野古移設が最終的に決まった。それ以後は、辺野古移設を阻止するには日米両政府を移設断念させる以外に方法はなかった。ところが翁長知事は自分が知事になれば辺野古移設を阻止できるようなことを公言した。辺野古移設反対を公約にした翁長知事が当選しても、日米両政府が断念しない限り辺野古移設を阻止することはできない。それなのに辺野古移設を阻止できるような公言をした翁長知事は県民を騙したのである。それだけではない。辺野古移設ができなければ普天間飛行場が固定化する。県外移設が不可能であることは鳩山首相が実現できなかったことで明らかである。翁長知事が不可能な県外移設を前提に辺野古移設反対を公約にしたのは二重に県民を騙したことになる。

2015/06/18 に公開
平成27年6月18日木曜日に放送された『沖縄の声』。沖縄県議会の6月定例会が16­日開会し、与党5会派が埋め立てで使用する土砂など埋立用材に特定外来生物が侵入しな­いよう防止する条例案を提案、それにより沖縄の各地で行われている埋め立て工事の工期­の遅れが心配される。本日は、2つのテーマ「なぜ土砂条例が必要なのか?なぜ埋め立て­に県外の土砂が使われているのか?」キャスターのsacom氏に詳しく解説していただ­きます。
※ネット生放送配信:平成27年月6月18日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
ゲスト
 sacom(沖縄支局担当キャスター・つり人)


2015/06/25 に公開
平成27年6月24日水曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、6月23日に糸満市平­和祈念公園にて行われた慰霊際を政治的な発言の場に利用した翁長知事、そして、沖縄の­被害者意識を詩に書いた落合恵子の「沖縄の辞書」についてキャスターの又吉康隆氏が徹­底批判します。
※ネット生放送配信:平成27年6月24日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)


次回放送は平成27年7月8日水曜日
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Posted by ヒジャイ at 08:18Comments(1)

2015年06月24日

「沖縄に内なる民主主義はあるか」第六章 八重山教科書問題はなにが問題だったか全文


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
4月30日より県内書店で発売しました。

本の説明はこちら




県内取次店
沖縄教販
○県外は書店で注文できます。
県外取次店
(株)地方小出版流通センター

「沖縄に内なる民主主義はあるか」
第六章 八重山教科書問題はなにが問題だったか全文
第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない全文
第四章 基地経済と交付金の沖縄経済に占める深刻さ全文
第三章 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の真っ赤な嘘全文
第二章 命どぅ宝とソテツ地獄全文
第一章 琉球処分は何を処分したか全文

  
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第六章 八重山教科書問題はなにが問題だったか


教科用図書八重山採択地区協議会規約 全文
第1章総則
(名称及び構成)
第1条 本会は、教科用図書八重山採択地区協議会(以下「協議会」という。)と称し、石垣市教育委員会、竹富町教育委員会及び与那国町教育委員会(以下「採択地区教育委員会」という。)をもって構成する。
(事務局)
第2条 協議会の関係事務を処理するため、事務局を置く。2事務局は、会長が所属する教育委員会事務局に置くものとする。
(目的)
第3条 協議会は、採択地区教育委員会の諮問に応じ、採択地区内の小中学校が使用する教科用図書について調査研究し、教科種目ごと一点にまとめ、採択地区教育委員会に対して答申する。
第2章組織
(委員)
第4条 協議会の委員(以下「委員」という。)は、採択地区内の次に掲げる者をもって充て、協議会が委嘱又は任命する。
1採択地区教育委員会教育長
2採択地区教育委員会教育委員1人
3PTA連合会代表1人
4 学識経験者1人2教科用図書の採択に直接の利害関係を有する者は、委員となることができない。3委員の任期は、1年とし、再任を妨げない。
(役員会)
第5条
1 協議会に、次の役員会を置く。
2 会長1人、副会長2人
3 監査員会2人
4 役員は、委員の互選により選任する。
5 役員の任期は1年とし、再任を妨げない。
6 会長は、協議会を代表し、会務を総理する。
7 副会長は、会長を補佐し、会長に事故があるとき又は会長が欠けたときは、その職務を代理する。
8 監査員は、協議会の会計を監査する。
(定期総会)
第6条 協議会は、原則として毎年6月に定期総会を開くものとする。
(会議)
第7条
1 定期総会及び協議会の会議(以下「会議」という。)は、会長が招集し、その議長となる。
2 会議は、委員の過半数の出席がなければ開くことができない。
3 会議の議事は、出席委員の多数決で決するものとする。可否同数の場合は再投票し、なおかつ可否同数の場合は、役員会で決する。4会議に出席できない委員は、委任状を提出するものとする。
第3章教科用図書調査員
(調査員)
第8条
1 協議会に教科用図書の調査研究を行うため、教科用図書調査員
(以下「調査員」という。)を置く。
2 調査員は、教科の専門知識を有する者の中から教科別に3人で構成する。
3 調査員は役員会が選任し、会長がこれを委嘱又は任命する。
4 調査員は、沖縄県教育委員会による指導・助言・援助の一環として作成された教科用図書選定資料をもとに、教科書の調査研究を行い、教育法規、学習指導要領、採択地区教育委員会の教育方針、沖縄県及び採択地域に関連する教材などの観点から、県の選定資料に付記する形で追加文書等を作成し、調査研究の結果を報告する。
第4章答申作成と教科用図書採択決定の手続き
(答申作成と教科用図書採択決定の手続き)
1 第9条協議会は採択地区教育委員会への答申を作成する会議を開く。
2 協議会は、必要に応じて調査員に教科用図書の特徴等についての説明を求めることができる。
3 協議会は、教科種目ごとに採択地区として採択すべき教科用図書の答申をまとめ、県の選定資料及び追加文書等を添えて、採択地区教育委員会に報告する。
4 採択地区教育委員会は、協議会の答申に基づき、採択すべき教科用図書を決定する。
5 採択地区教育委員会の決定が協議会の答申内容と異なる場合は、沖縄県教育委員会の指導・助言を受け、役員会で再協議することができる。
第5章雑則
(経費)
第10条 協議会の運営に係る必要経費は、採択地区教育委員会が負担する。
(会計年度)
第11条 協議会の会計年度は、毎年4月1日に始まり翌年の3月31日に終わる。
(その他)
第12条 この規約に定めるもののほか、協議会の運営に関し必要な事項は、会長が会議に諮って定める。

附則この規約は、議決のあった日から施行する。
附則この規約は、平成23年8月10日から施行する。
以上「教科用図書八重山採択地区協議会規約」の全文を掲載した。

公的な協議会である教科用図書八重山採択地区協議会にはちゃんとした正規の規約がある。その規約を決めるにもルールがあり、ルールに従って規約を決めた上で、2011年8月23日の教科用図書八重山採択地区協議会は「教科用図書八重山採択地区協議会規約」に従って協議し、国が八重山地区の中学校に無償給付する教科書を採択したのである。規約に違反していなかったら採択は有効であり、規約に違反したやり方で教科書を採択したのなら採択は無効になる。
8月23日の八重山地区採択協議会で中学三年生の公民は育鵬社の教科書を採択したが、それもちゃんと「教科用図書八重山採択地区協議会規約」に従って協議し、賛成多数で採択したのである。だから、八重山地区の中学三年生の公民は育鵬社版を国が無償給付することに正式に決まった。
ただし、八重山地区採択協議会で決めたのは国が無償給付する教科書であり、石垣市、竹富町、与那国町の中学校で使用する教科書を決めたわけではない。八重山地区採択協議会が決めることができるのは国が無償給付する教科書であり、各市町の中学校が使用する教科書を決めることはできない。各市町の中学校が使用する教科書を決めるのは各市町の教育委員会である。
生徒が教科書を使用するまでには二つの法律が関係する。「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(地方教育行政法)と「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」(無償措置法)である。教科書が市町村の学校で使用されるまでにはこの二つの法律を遵守しながら手続きを進めていかなければならない。

「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」は市町村の教育行政全般についての法律である。
地方教育行政の組織及び運営に関する法律の抜粋
第一章 総則
(この法律の趣旨)
第一条 この法律は、教育委員会の設置、学校その他の教育機関の職員の身分取扱その他地方公共団体における教育行政の組織及び運営の基本を定めることを目的とする。
(基本理念)
第一条の二地方公共団体における教育行政は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)の趣旨にのつとり、教育の機会均等、教育水準の維持向上及び地域の実情に応じた教育の振興が図られるよう、国との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。

(教育委員会の職務権限)
第二十三条
教育委員会は、当該地方公共団体が処理する教育に関する事務で、次に掲げるものを管理し、及び執行する。
一 教育委員会の所管に属する第三十条に規定する学校その他の教育機関(以下「学校その他の教育機関」という。)の設置、 管理及び廃止に関すること。
二 学校その他の教育機関の用に供する財産(以下「教育財産」という。)の管理に関すること。
三 教育委員会及び学校その他の教育機関の職員の任免その他の
人事に関すること。
四 学齢生徒及び学齢児童の就学並びに生徒、児童及び幼児の入
学、転学及び退学に関すること。
五 学校の組織編制、教育課程、学習指導、生徒指導及び職業指導に関すること。
六 教科書その他の教材の取扱いに関すること。
七 校舎その他の施設及び教具その他の設備の整備に関すること。
八 校長、教員その他の教育関係職員の研修に関すること。
九 校長、教員その他の教育関係職員並びに生徒、児童及び幼児の保健、安全、厚生及び福利に関すること。
十 学校その他の教育機関の環境衛生に関すること。
十一 学校給食に関すること。
十二 青少年教育、女性教育及び公民館の事業その他社会教育に関すること。
十三 スポーツに関すること。
十四 文化財の保護に関すること。十五ユネスコ活動に関すること。
十六 教育に関する法人に関すること。
十七 教育に係る調査及び基幹統計その他の統計に関すること。
十八 所掌事務に係る広報及び所掌事務に係る教育行政に関する相談に関すること。
十九 前各号に掲げるもののほか、当該地方公共団体の区域内における教育に関する事務に関すること。
小中学校で使用する教科書は市町村の教育委員会が決める
地方教育行政法で、教科書の採択に関する規定は教育委員会の職務権限を定めた第二十三条の六、「教科書その他の教材の取扱いに関すること」である。地方教育行政法は市町村の小中学校で使用する教科書を市町村の教育委員会が決めるということを規定している。

義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律の抜粋
第1章 総 則
(この法律の目的)
第1条 この法律は、教科用図書の無償給付その他義務教育諸学校の教科用図書を無償とする措置について必要な事項を定めるとともに、当該措置の円滑な実施に資するため、義務教育諸学校の教科用図書の採択及び発行の制度を整備し、もつて義務教育の充実を図ることを目的とする。
第2章 無償給付及び給与(教科用図書の無償給付)
第3条 国は、毎年度、義務教育諸学校の児童及び生徒が各学年の課程において使用する教科用図書で第13条、第14条及び第16条の規定により採択されたものを購入し、義務教育諸学校の設置者に無償で給付するものとする。
(採択地区)
第12条
1 都道府県の教育委員会は、当該都道府県の区域について、市若しくは郡の区域又はこ
れらの区域をあわせた地域に、教科用図書採択地区(以下この章において「採択地区」という。)を設定しなければならない。
(教科用図書の採択)
第13条
1 都道府県内の義務教育諸学校(都道府県立の義務教育諸学校を除く。)において使用する教科用図書の採択は、第10条の規定によつて当該都道府県の教育委員会が行なう指導、助言又は援助により、種目(教科用図書の教科ごとに分類された単位をいう。以下同じ。)ごとに一種の教科用図書について行なうものとする。
4 第1項の場合において、採択地区が2以上の市町村の区域をあわせた地域であるときは、当該採択地区内の市町村立の小学校及び中学校において使用する教科用図書については、当該採択地区内の市町村の教育委員会は、協議して種目ごとに同一の教科用図書を採択しなければならない。
八重山地区の学校に無償給付する教科書は一種類だけ
「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」は第一条に明記しているように義務教育の諸学校の教科書を国が無償給付するための法律である。第13条4には採択地区内の教科書は種目ごとに同一の教科書を採択しなければならないと規定している。このことから八重山地区の学校に国が無償給付する教科書は一種類だけである。無償給付する教科書を二種類にすると無償措置法に違反することになる。

八重山採択地区協議会は地方教育行政法によって設置したのか、無償措置法によって設置したのか
地方教育行政法は「教育委員会の設置、学校その他の教育機関の職員の身分取扱や地方公共団体における教育行政の組織及び運営の基本を定めることを目的」としている。地方教育行政法は、それぞれの市町村内の教育行政を規定した法律であり、教科書を採択するにあたっては、各市町村の教育委員会は自ら所属する自治体の小中学校で使用する教科書だけを採択するものであり、他市町村と一緒になって共通の教科書を採択する規定は地方教育行政法にはない。
一方、無償措置法の第12条には複数の市町村が一緒になって採択地区を設定するように指示している。
1 都道府県の教育委員会は、当該都道府県の区域について、市若しくは郡の区域又はこれらの区域をあわせた地域に、教科用図書採択地区(以下この章において「採択地区」と略す)を設定しなければならない。
八重山採択地区協議会は無償措置法によって設置した機関
このことから、八重山採択地区協議会は無償措置法によって設置した機関であるといえる。注意しなければならないのは、八重山採択地区協議会は地方教育行政法と無償措置法二つの法律が適用されているのではなく、無償措置法だけが適用されていることである。
なぜ、このように八重山採択地区協議会が無償措置法によって設置してあることを説明したかというと、八重山採択地区協議会の規約が無償措置法には合わない文言表現になっている箇所があるからである。
八重山採択地区協議会の規約の(目的)第3条に「採択地区内の小中学校が使用する」と述べている箇所がある。無償措置法は国が小中学校に「無償給付する教科書」を決める法律であって、小中学校が「使用する教科書」を決める法律ではない。それなのに八重山採択地区協議会の規約は「使用する」という文言になっている。無償措置法によって設置した協議会の規定にはふさわしくない文言である。
無償措置法によってつくられた協議会の規定なら「採択地区内の小中学校に無償給付する」がふさわしい文言である。八重山採択地区協議会の規約の「採択地区内の小中学校が使用する」という文言は、無償措置法の表現としては誤った表現である。
八重山採択地区協議会の規約第3条は「採択地区内の小中学校が使用する教科用図書」ではなく、「採択地区内の小中学校に無償給付する教科用図書」とするべきである。

無償措置法 国が地区の小中学校に「無償給付する」教科書を決めるための法律。
地方教育行政法 市町村の小中学校で「使用する」教科書を決めるための法律。

竹富町は教科書の有償を自ら選択した
国が無償給付する教科書の採択について規定しているのが無償措置法であり、無償措置法の実行機関が八重山採択地区協議会である。石垣市、竹富町、与那国町の小中学校が使用する教科書の採択を規定しているのが地方教育行政法であり、実行機関は三市町の教育委員会である。八重山採択地区協議会は八重山地区の小中学校に無償給付する教科書を決め、市町村の教育委員会は市町村の小中学校が使用する教科書を決める。ふたつの組織は違う仕事をやるのである。「国が無償給付する」教科書を決める仕事と三市町のそれぞれの小中学校が「使用する」教科書を決める仕事である。

➀八重山採択地区協議会        八重山地区の小中学校に国が無償給付する教科書を決める。
➁石垣市、竹富町、与那国町の教育委員会  八重山採択地区協議会の採択を参考にしながらそれぞれの小中学校で使用する教科書を決める。
教科用図書八重山採択地区協議会は、八重山地区の小中学校に国が無償給付する教科書を決める機関である。8月23日に八重山採択地区協議会が公民を育鵬社版に決めたということは、国が八重山地区の中学三年生に無償給付する教科書は育鵬社版に決まったということである。
国が育鵬社の教科書を無償給付することになったことに対して、石垣市と与那国町の教育委員会はそれぞれの中学校で使う教科書を育鵬社版に決めた。しかし、竹富町の教育委員会は東京書籍版に決めた。
文部科学省が無償給付する教科書は育鵬社版と決まっているから、東京書籍版を採択した竹富町に国は育鵬社版の教科書を無償給付することができなくなったということになる。竹富町が育鵬社の教科書を採択しなかったということは、育鵬社版の教科書を国が無償給付することを竹富町が断り、有償の東京書籍の教科書を使用することを自ら選んだということである。

竹富町は違法行為をしたのではない
八重山採択地区協議会が育鵬社の教科書を採択したのに、竹富町が東京書籍版を採択したとしても違法行為にはならない。八重山採択地区協議会は竹富町に無償給付する教科書を決めたのであり、竹富町が使用する教科書を決めたわけではないからだ。
竹富町の教育委員会は竹富町の中学生三年生が使用する公民の教科書を東京書籍版に決めた。竹富町の中学生が使用する教科書を決めるのは竹富町の教育委員会の権限であり、八重山採択地区協議会も他の市町村の教育委員会も、県教育庁も文科省も竹富町の小中学校が使用する教科書を決めることはできない。竹富町の教科書は竹富町の教育委員の自由意志で決めることができる。ただ、理解しなければならないのは、竹富町の教育委員会は竹富町の小中学生が使用する教科書を決めることはできるが、竹富町に無償給付する教科書を決めることはできないということである。竹富町に無償給付する教科書を決めることができるのは八重山地区採択協議会であり、八重山地区採択協議会が無償給付する教科書を育鵬社版に決めたことを竹富町の教育委員会が否定したり変更したりすることはできない。

○ 八重山採択地区協議会は、石垣市、竹富町、与那国町の学校に無償給付する教科書を決めることはできるが、三市町の小中学校が使用する教科書を決めることはできない。

○ 石垣市、竹富町、与那国町の教育委員会は、それぞれの市町の小中学校が使用する教科書を決めることはできるが、国が無償給付する教科書を決めることはできない。

八重山採択地区協議会   無償措置法により、八重山地区の小中学校に無償給付する教科書
を決める。
石垣市教育委員会   地方教育行政法により、石垣市の小中学校で使用する教科書を決
める。
竹富町教育委員会   地方教育行政法により、竹富町の小中学校で使用する教科書を決
める。
与那国町教育委員会   地方教育行政法により、与那国町の小中学校で使用する教科書を
決める。

8月23日、無償措置法の実施

八重山採択地区協議会 八重山地区の中学校に無償給付する公民の教科書を育鵬社版に
決めた。

8月26日、地方教育行政法の実施

石垣市教育委員会 石垣市で使用する公民の教科書を3対2で育鵬社版に決めた。
与那国町教育委員会 与那国町で使用する公民の教科書を全会一致で育鵬社版に決めた。

8月27日、地方教育行政法の実施

竹富町教育委員会 竹富町で使用する公民の教科書を全会一致で東京書籍版に決めた。

8月31日 最後の八重山採択地区協議会

第4章 答申作成と教科用図書採択決定の手続き
4 採択地区教育委員会は、協議会の答申に基づき、採択すべき教科用図書を決定す
る。
5 採択地区教育委員会の決定が協議会の答申内容と異なる場合は、沖縄県教育委員会の指導・助言を受け、役員会で再協議することができる。

教科用図書採択決定の最後の手続きが5の役員会の再協議である。だから、3市町の教育長による協議会を開き、三市町で使用する公民教科書の一本化についての協議は決裂したが八重山採択地区協議会は閉会をした。無償給付する教科書を一本化するのが八重山採択地区協議会の仕事であり、すべての教科書をそれぞれ一本化したことで八重山採択地区協議会の仕事は終わっている(公民は育鵬社版に一本化している)。使用する教科書を一本化するのは八重山採択地区協議会の仕事ではないので協議は決裂したが閉会をした。

竹富町は国の無償給付を断った
石垣市と与那国町は育鵬社の教科書を使用することに決めたので、文部科学省は石垣市と与那国町には育鵬社の教科書を無償給付することになった。しかし、竹富町は文部科学省が無償給付することになっている育鵬社の教科書ではなく東京書籍の教科書を使用することに決めたので竹富町には無償給付することができなくなった。
八重山採択地区協議会で、国が無償給付する教科書を育鵬社版に決めたのに、竹富町は使用する教科書を育鵬社版に決めなかった。それは、文部科学省が育鵬社版の教科書を無償給付するのを竹富町が断ったことになる。無償措置法により、八重山地区に無償給付する教科書は育鵬社版一種だけと決まっているので、文部科学省は竹富町に教科書を無償給付することができなくなったわけである。
文部科学省が無償給付しないことを決めたのではなく、竹富町が文部科学省の無償給付を断ったのだ。竹富町が矛盾しているのは、自分のほうで無償給付すると決まっている育鵬社の教科書に決めないで、無償給付をしないと決まっている東京書籍の教科書を使用すると決めたのに、文部科学省に東京書籍の教科書を無償給付するように要求したことである。
無償措置法では、無償給付する教科書は一種類に決めるように規定している。もし、文部科学省が石垣市と与那国町には育鵬社の教科書を無償給付して、竹富町には東京書籍の教科書を無償給付したら、行政機関である文部科学省が無償措置法を破ることになる。行政の最高機関である文部科学省が法律を破ることはできない。文部科学省は竹富町に東京書籍版の教科書を無償給付しないのではなくできないのだ。
竹富町が無償給付を受けるためには育鵬社の教科書を使用することに改める以外にはなかった。

使用する教科書を三市町が同一にしなければならないという法律はない
9月8日の全委員協議で東京書籍の教科書が採択されたが、全委員協議が有効か無効かの問題は別にしても、無償措置法は文部科学省が八重山地区の三市町に無償給付する教科書を決めただけであり、三市町が使用する教科書を決めたわけではない。無償措置法は三市町の使用する教科書を決めることはできない。
地方教育行政法は、三市町のそれぞれの教育委員会がそれぞれの小中学で使用する教科書を決める法律だから、地方教育行政法では八重山地区三市町の教科書を統一することはできない。
三市町の使用する教科書を同一にする法律は無償措置法にも地方共育行政法にもないのだから、使用する教科書を同一にする義務は採択地区協議会にも教育委員会にも全委員協議にもない。

県教育庁義務教育課が無償措置法第13条に「構成市町村の教育委員会は協議して同一の教科書を採択しなければならない」を根拠にして、三市町が使用する教科書は同一にしなければならないと主張したのは無償措置法に対する勘違いの解釈をしたからである。無償措置法第13条は、国が三市町に無償給付する教科書を同一にしなければならないと規定しているのであり、三市町が使用する教科書を同一にしなければならないとは規定していない。そもそも、無償措置法には三市町で使用する教科書を決める権限はない。

憲法の精神を放棄した竹富町
竹富町は12月1日までに、来年度の教科書の購入費用を計上しない方針を固めたが、すでに文科省は竹富町に無償給付をしないと断言している。もし、竹富町が購入しなければ教科書は有償になってしまう。そのことを知った上で竹富町は教科書購入の予算を計上しないことに決めた。憲法の精神を守らなければならないのは政府だけではない。地方の自治体も憲法の精神を守らなければならない。憲法26条の義務教育の無償を文科省に守らせようとしながら、教科書購入の予算を計上しないことに決めたということは竹富町は生徒に教科書の無償給付をしないと決めたわけであり、竹富町は憲法26条の精神を放棄したことになる。
川満栄長竹富町長は、「竹富の教育委員は子どもたちのことを考えて東京書籍を選んだ。教育委員会の考えを尊重したい」と述べている。そうであるならば、文科省が無償給付しなかった場合は竹富町が購入するのが当然である。ところが、「教育委員会の考えを尊重したい」と言いながら竹富町の予算では教科書を購入しないということを決めたのである。
川満栄長竹富町長は憲法の「義務教育は無償」の精神を尊重し、教育委員会の考えを尊重したのに教科書は有償にするというのである。理解できないやり方である。憲法の「義務教育は無償」の精神を尊重し、教育委員会の考えを尊重するのなら教科書代金は竹富町が負担するのが当然である。ところが竹富町は負担しなかった。
市民が教科書代金を負担することで、教科書は無償給付されることになったが、だからといって竹富町の憲法の精神に反した行為の責任は消えない。

合法でも無償給付をしないケースがある
12月6日、大城県教育長は、八重山採択地区協議会の答申と異なる採択をした竹富町に対して、地方教育行政法を根拠に「採択権限は各市町村教育委員会にあり、竹富町のケースは合法」と述べた。ところが、文科省が同町に教科書の有償購入を促す方針を示していることには「竹富町が有償となる法的根拠を示されていない」と疑問を示している。
無償給付を決めるのは地方教育行政法ではなく、無償措置法である。無償措置法の実行機関である八重山採択地区協議会は国が無償給付する教科書を育鵬社版に決めた。それなのに竹富町は東京書籍版を採択した。文科省は育鵬社版なら無償給付できるが、東京書籍版なら無償給付はできない。竹富町が東京書籍にこだわるなら有償購入しかない。文科省が竹富町に教科書の有償購入を促すのは当然である。
竹富町は12月14日に、「1、育鵬社版を選定した八重山採択地区協議会の答申に従わず、東京書籍版を採択した場合は有償とする根拠。2、なぜ採択協議会の答申に従わなければならないのか」の説明を文科省に求めた。
1の問題は、八重山採択地区協議会は国が無償給付する教科書を決める機関であり、8月23日の八重山採択地区協議会が育鵬社の教科書を採択したということは、国が八重山地区に無償給付する教科書は育鵬社版だけであり、育鵬社版以外の教科書は無償給付をしないことになったということである。
2の問題は、採択協議会の答申には従わなくてもいい。その証拠に竹富町は八重山採択地区協議会に従わないで東京書籍の教科書を採択したが、国から変更するように命令されていない。だから、竹富町は教育委員が採択した教科書を使用することができる。それは八重山地区採択協議会の答申には従わなくてもいい証拠である。
八重山採択地区協議会と竹富町の教育委員会の関係は「従う従わない」の関係ではない。八重山採択地区協議会と竹富町の教育委員会の関係は、八重山採択地区協議会が採択した教科書と同じ教科書を竹富町の教育委員会が採択すれば国は竹富町に教科書を無償給付するし、八重山採択地区協議会が採択した教科書とは違う教科書を採択すれば国は竹富町に教科書の無償給付はしないという関係である。八重山採択地区協議会の採択が竹富町教育委員会の採択を拘束するものではない。

竹富町は無償措置法の呪縛を解いた
竹富町は地区採択協議会の呪縛を解いたことでは画期的である。1963年の教科書無償措置法の制定後50年間も地区採択協議会が採択した教科書を市町村の教育委員会は採択してきた。そこには地区採択協議会が採択した教科書を市町村の教育委員会は採択しなければならないという呪縛があったからだ。
しかし、地区採択協議会が採択した教科書を市町村の教育委員会は必ず採択しなければならないという法律はない。市町村の教育委員会は、地区採択協議会が採択した教科書に呪縛されないで自由に自分たちの学校が使用する教科書を選ぶことができる。地区採択協議会が採択した教科書以外の教科書を採択すれば無償給付を受けることができないだけであって、法的なペナルティはない。教科書代金を自治体や有志の寄付などで負担すれば市町村の教育委員会は自由に教科書を採択することができる。
市町村で使用する教科書は採択地区協議会の採択に従って採択するよりも教育委員の自由な意思が反映されることを優先するべきである。ところが、1963年に教科書無償措置法が制定されてからは採択地区協議会が採択した教科書を市町村の教育委員会はずっと採択してきた。これでは市町村の教育委員会は採択地区協議会に従属していると思われても仕方がない。
法的には市町村の教育委員会は自立していて、採択地区協議会に従属はしていない。だから、竹富町のように八重山採択地区協議会の採択とは違う教科書を採択することができるのである。国の無償給付を受けなければいいだけのことだ。竹富町は市町村の教育委員会が採択地区協議会の採択に従属しなくてもいいことを行動で示したのである。採択地区協議会に束縛されないで教科書を採択したのは、1963年に教科書無償措置法が制定されてから初めてであり、竹富町は採択地区協議会の呪縛を断ち、市町村の選択の自由の道を切り開いた。

9月8日の全委員協議は成立しない
➀ 石垣市、竹富町、与那国町の三市町はそれぞれが独立した関係にある自治体であり、お互いに介入できない関係にある。全委員協議のように無償措置法による新しい「教科書採択機関」をつくるには三市町の同意がなければならない。しかし、石垣市と与那国町は、全委員協議を教科書を採択する機関にするのに反対した。反対する市町がある限り全委員協議は教科書採択機関としては成立することができない。
➁ 全委員協議を正式な機関にするには、八重山採択地区協議会のように時間をかけ、協議を重ねて三市町が同意する規定をつくらなければならない。しかし、9月8日の全委員協議は規定をつくっていない。規定のない全委員協議を正式な公的機関として認めることはできない。
➂ 8月23日の八重山採択地区協議会に法的な落ち度はなかった。法的な落ち度がない八重山採択地区協議会の採択を、全委員協議が「否決」できる法律は無償措置法にも地方教育行政法にもない。八重山採択地区協議会が決定したことを全委員協議が「否決」する法律はないのだから、「否決」する法律をつくらない限り八重山採択地区協議会の採択を全委員協議が「否決」することはできない。それなのに八重山採択地区協議会の採択を全委員協議は「否決」した。三権分立の日本では、行政は法律に基づいて行動しなければならない。民主主義は法治主義を徹底してこそ成り立つ。9月8日の全委員協議が八重山採択地区協議会の採択を否決したことは法治主義を逸脱した行為であった。
➃ 教育委員は石垣市5人、竹富町5人、与那国町3人である。全員協議で多数決をやると3人しかいない与那国町は不利である。だから、与那国町は全委員協議を無償給付する教科書を採択する協議会にするか否かを多数決で決めることに反対した。与那国町が賛成しない限り、全委員協議を無償給付する教科書を採択する協議会にするか否かを多数決で決めることはできない。しかし、全委員協議は与那国町の反対を無視して多数決を強行した。全委員協議を無償給付する教科書を採択する公的な協議会とするのは法律上は認められない。
➄ 石垣市の人口は4万7766人、竹富町の人口は3,968人、与那国町の人口は807
人である。与那国町を3とした場合の人口比率は石垣市が177、竹富町が15である。

9月8日の全委員協議の教育委員数は石垣市5人、竹富町は5人、与那国町は3人である。9月8日の全委員協議は人口の比率に合わせた教育委員の構成になっていないから、民主的な決定機関であるとはいえない。全委員協議を民主的な決定機関にするには、人口比にあわせた教育委員の構成にするべきである。すると全委員協議の教育委員は石垣市177人、竹富町15人、与那国町3人になる。
石垣市が3対2に意見が分かれた場合の比率は、106人対71人になる。竹富町と与那国町の全員が石垣市の少数派に加わった場合は、106人対89人になる。竹富町と与那国町の全員が少数派に加わっても石垣市の決定をひっくり返すことができない。人口比で全委員協議を構成すると、石垣市の決定が全委員協議の決定になってしまう。もし、9月8日の全委員協議が三市町の人口比で教育委員を構成していたら、育鵬社の教科書に決まっていた。
 9月8日の全員協議は三市町の人口を考えれば民主的な協議会とは言えない。しかし、人口比だけで協議会の委員を構成すれば石垣市にすべてを決定されてしまう。それでは少数の竹富町や与那国町の意見は封殺されてしまう。
このような現実のさまざまな問題に配慮し、諸問題をクリアしながらつくったのが八重山採択地区協議会である。全委員協議は安直な多数決主義であり、民主主義ではない。八重山採択地区協議会のほうが民主主義の精神に沿っている。
➅ 県教育庁から派遣された課長は全委員協議には拘束力があると発言した。しかし、無償措置法には拘束力はない。拘束力がないのに、全委員協議会の採択には拘束力があるとしたのは、無償措置法に新たな法律をつけ加えたことになる。

11月29日に、県教育委員会は東京書籍の教科書を採択した9月8日の全員協議に基づき、三市町の教育委員会に東京書籍の教科書の必要冊数を報告するよう求める文書を送付した。この県教育委員会の行為は、9月8日の全委員協議で全員協議には拘束力があると発言したことに基づいた行為である。無償措置法には拘束力はないのに、東京書籍の教科書の必要冊数を報告するよう求めたということは無償措置法に県の行政が「拘束力」という新しい法律を加えたことになる。無償措置法は立法機関である国会がつくった。無償措置法に新しい法律を加えるのは国会であり県の行政がやってはいけない。それなのに行政機関である県の教育庁は無償措置法に拘束力があるという法律を新たにつくった。それは違法行為である。拘束力のない無償措置法を拘束力があるとした全委員協議は無償措置法の公的機関としては認められない。
県教育庁が報告を受けるのは、三市町の教育委員会が採択した教科書の冊数である。それはそれぞれの三市町が使用すると決めた教科書の冊数であり、国が無償給付する教科書の冊数ではない。県教育庁は八重山地区の教科書を同一にするように指導する義務はあるが、同一にさせなければならない義務はない。指導しても同一にすることができなければあきらめるしかない。

以上、9月8日の全員協議が成り立たない理由を➀から➅まで述べた。
全員協議が成り立たない理由を6つ掲げたが、6つの理由があるから成り立たないのではなく、6つの内の1つの理由だけでも教科書の無償給付を決める協議会としては成立しない。つまり、成り立たない理由が6つ以上もあるのである。9月8日の全委員協議が教科書を採択する正規の機関として成立しないのは明らかである。
8月31日の三教育長の協議が決裂した時に、
〇八重山地区に無償給付する公民の教科書は育鵬社の教科書である。
〇石垣市、与那国町が使用する教科書は育鵬社版。竹富町が使用する教科書は東京書籍版である。
〇石垣市、与那国町には国が教科書を無償給付する。竹富町には無償給付しない。
ということが決まったのだ。法律的には8月31日に八重山教科書問題は終わっていた。全地域に無償給付をやりたい文科省は、竹富町が育鵬社の教科書に変更するのを待ったが竹富町は変更しなかった。
〇9月8日の全委員協議は法的に成立しない。
〇無償給付できる教科書は無償措置法により一種と限定されているので、文部科学省は東京書籍の教科書を竹富町に無償給付はできない。
八重山教科書問題は無償措置法と地方教育行政法というふたつの法律の問題であり、大衆運動の圧力で変更することができるような問題ではなかった。
県教育庁をはじめ、多くの教育関係の市民団体や知識人は9月8日の全員協議が有効であると主張し続けた。しかし、彼らの要求を受け入れるということは法律を破ることになるから、行政のトップ機関である文部科学省は彼らの要求を受け入れなかった。文部科学省の法治主義の壁は厚く、東京書籍の教科書を竹富町に無償給付させることはできなかった。
新学期になり、8月31日に決定したことが粛々と実行されていった。

無償措置法にも不適切な文言が使われている。
無償措置法は、国が市町村の小中学校に無償給付する教科書を採択するための法律である。市町村の小中学校で使用する教科書を採択するための法律ではない。それなのに無償措置法は「使用する」という文言を使っている。

(都道府県の教育委員会の任務)
第10条
都道府県の教育委員会は、当該都道府県内の義務教育諸学校において使用する教科用図書の採択の適正な実施を図るため、義務教育諸学校において使用する教科用図書の研究に関し、計画し、及び実施するとともに、市(特別区を含む。以下同じ。)町村の教育委員会及び義務教育諸学校(公立の義務教育諸学校を除く。)の校長の行う採択に関する事務について、適切な指導、助言又は援助を行わなければならない。

第13条
1 都道府県内の義務教育諸学校(都道府県立の義務教育諸学校を除く。)において使用する教科用図書の採択は、第10条の規定によって当該都道府県の教育委員会が行なう指導、助言又は援助により、種目(教科用図書の教科ごとに分類された単位をいう。以下同じ。)ごとに一種の教科用図書について行なうものとする。
2 都道府県立の義務教育諸学校において使用する教科用図書の採択は、あらかじめ芸定審議会の意見をきいて、種目ごとに一種の教科用図書について行なうものとする。
3 公立の中学校で学校教育法第71条の規定により高等学校における教育と一貫した教育を施すもの及び公立の中等教育学校の前期課程において使用する教科用図書については、市町村の教育委員会又は都道府県の教育委員会は、前2項の規定にかかわらず、学校ごとに、種目ごとに1種の教科用図書の採択を行うものとする。
4 第1項の場合において、採択地区が2以上の市町村の区域をあわせた地域であるときは、当該採択地区内の市町村立の小学校及び中学校において使用する教科用図書については、当該採択地区内の市町村の教育委員会は、協議して種目ごとに同一の教科用図書を採択しなければならない。

(同一教科用図書を採択する期間)
第14条 義務教育諸学校において使用する教科用図書については、政令で定めるところにより、政令で定める期間、毎年度、種目ごとに同一の教科用図書を採択するものとする。

無償措置法は、国が無償給付をする教科書を決める法律であるのに第10条、第13条第14条は「無償給付する」教科書ではなく「使用する」教科書を決める文言になっている。
無償措置法の第一条、第二条、第三条では、無償措置法は無償給付する目的の法律であると明言しているのにも拘わらず使用する教科書を採択するという文言を使っている。
太文字の「使用する」の文言通りであるならば、採択地区協議会が市町村の小中学校で使用する教科書を決めることになる。もし、採択地区協議会が市町村の小中学校で使用する教科書を決めるのであれば、採択地区協議会が教科書を採択した後に開かれる各市町村の小中学校が使用する教科書を採択するための教育委員会を開く必要がない。いや、開いてはならない。採択地区協議会が採択した教科書を追認するような教育委員会を開く価値はないし、もし、教育委員会を開いてしまうと今回の八重山教科書問題のように採択地区協議会が採択した教科書とは違う教科書を市町村の教育委員会が選ぶトラブルが発生する可能性がある。
もし、「使用する」の文言通りに無償措置法を実施するのなら、無償措置法の第一条を訂正して、地区の小中学校が使用する教科書を無償措置法によって採択すると明記するべきである。名称も無償措置法ではなく「無償給付&使用教科書の採択法」に訂正したほうがいい。
そして地方教育行政法から、市町村の教育委員会が小中学校の使用する教科書を採択する規定になっている第二十三条6の条文を削除して、教科書使用するための市町村の教育委員会を開かないようにしなければならない。しかし、そうすると無償措置法が地方自治の権限を奪ってしまうことになり、賛否の論議が浮上するだろう。地方自治の権限を守り、市町村で使用する教科書は市町村の教育委員会で採択するのであれば、無償措置法は国が教科書を無償給付するという表現に徹するべきであり、誤解を与えるような「使用する」の文言をやめて「無償給付する」の文言に変更するべきである。

県が9月8日の全委員協議を開催する根拠にしたのが、無償措置法の第13条4項である。県は「使用する」の文言を根拠にして全委員協議の採択には拘束力があると主張した。
第13条4項だけを読めば県の主張も間違っていない。八重山教科書問題は、不適切な文言を使っている無償措置法をつくった国会にも責任がある。

     筆者自己紹介
1948年4月2日、読谷村大木に生まれる。4歳の時比謝に引っ越す。古堅小中学校、読谷高校を経て、1967年琉球大学国語国文学科に入学する。
演劇クラブに入る。一年次の4月にベケットの「勝負の終わり」の上演があり、「勝負の終わり」にカルチャーショックを受ける。演劇クラブは翌年にジャン・ジュネの「黒んぼたち」、その翌年にフェルナンド・アラバールの「ファンドとりす」の上演に頓挫する。次第に他のクラブの学生も参加して酒を飲みながら論争する宴会が増えていく。演劇クラブは酒飲みクラブと呼ばれるようになる。我が青春の演劇クラブであった。
B52重爆撃機の墜落炎上をきっかけに学生運動に参加し国文学科委員長になる。マルクスの「経済学・哲学草稿」に深く影響を受ける。昼の学生運動は「反帝国主義・反スターリン主義」、夜の演劇クラブは「芸術至上主義」という昼夜が分裂した状態の精神的に苦しい生活を送る。五年次の時学生運動から離れる。作・演出「いちにち」を上演して演劇クラブからも離れる。
なんとか七年で卒業すると糸満ロータリーで学習塾養秀学園糸満校を開く。東風平校、豊見城校も開く。三十代半ばに一人芝居「女Aのこと」を作・演出で糸満のライブハウスFと那覇ジャンジャンで上演する。40歳の時に学習塾を閉じ、読谷村に戻り嘉手納ロータリーでレンタルビデオ店を開く。数年後に具志川のコンビニエンスストアのオーナーとなる。現在は深夜パートをやりながら細々とした生活を送っている。
七年前からブログでヒジャイという名前で詩、小説、評論などを発表するようになる。




参考文献
駐留軍用地跡地利用に伴う経済波及効果等PDF 沖縄県知事公室基地対策課
平成22年度版経済情勢PDF 沖縄県企画部
WEB百科事典ウィキペディア
琉球新報紙
沖縄タイムス紙
琉球処分を問う 琉球新報社
こんな沖縄に誰がした 大田昌秀
ジュニア版琉球・沖縄史  新城俊昭
沖縄「自立」への道を求めて 宮里政玄・新崎盛暉・我部政明編著
沖縄産業の恩人(故)サムエル・C・オグレスビー氏を讃えて オグレスビー氏産業開発会
沖縄幻想 奥野修司
基地はなぜ沖縄に集中しているのか NHK取材班
沖縄現代史 新崎盛暉
決断できない日本 ケビン・メア
沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史 佐野眞一
「普天間」交渉秘録  元防衛事務次官守屋武昌
誰も語れなかった沖縄の真実 恵隆之介
  

Posted by ヒジャイ at 18:28Comments(4)

2015年06月24日

「沖縄に内なる民主主義はあるか」第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない全文


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
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「沖縄に内なる民主主義はあるか」
第六章 八重山教科書問題はなにが問題だったか全文
第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない全文
第四章 基地経済と交付金の沖縄経済に占める深刻さ全文
第三章 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の真っ赤な嘘全文
第二章 命どぅ宝とソテツ地獄全文
第一章 琉球処分は何を処分したか全文

  
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第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない



沖縄県の人口の推移

大正 9年(1920年)  57万1,572人
大正14年(1925年) 55万7,622人
昭和 5年(1930年)  57万7,509人
昭和10年(1935年) 59万2,494人
昭和15年(1940年) 57万4,579人
昭和25年(1950年) 69万8,827人
昭和30年(1955年) 80万1,065人
昭和35年(1960年) 88万3,122人
昭和40年(1965年) 93万4,176人
昭和45年(1970年) 94万5,111人
昭和50年(1975年) 104万2,572人
昭和55年(1980年) 110万6,559人
昭和60年(1985年) 117万9,097人
平成 2年(1990年) 122万2,398人
平成 7年(1995年) 127万3,440人
平成12年(2000年) 131万8,220人
平成17年(2005年) 136万1,594人
平成22年(2010年) 139万2,503人

戦前の沖縄の人口は60万人が限度だった
人口の推移で注目すべきは、1920年から1940年の人口は50万人台で増えたり減ったりしていて60万人を超えた年がないことである。これは偶然ではない。戦前の沖縄の産業は農業中心であった。農業は一家族が普通に生活するためには一定の広さの畑が必要である。沖縄全体の農地では農業中心の沖縄ならば人口は60万人が限界であると言われていた。人口調査にみられるように戦前の沖縄の人口は60万人近くで増減を繰り返していて、60万人を超えた年がなかった。これは偶然ではなく、60万人を超える人間は沖縄では生きていけないことを示している。
戦後は電気、水道、車、電化製品などが生活の必需品となり、戦前よりもお金のかかる生活になった。もし、戦後の沖縄が農業中心であったなら、沖縄の人口は戦前の人口60万人よりかなり下回るはずである。

農業中心の沖縄の人口を推計する
沖縄県全体の農業収入は約930億円であり、2009年度の県民の平均所得は約204万円である。農家の所得を県民所得と同じ204万円とし、肥料、農器具、運送などの必要経費が70万円と推定すれば農家の年収は274万円である。沖縄が農業中心社会だとすると、
930億円÷274万円=3万3941戸
一戸五人家族とすると、
3万3941戸×5=16万9705人

2009年度の県民の平均所得と同じ所得を農家が得るとしたら農家の人口は16万9705人
である。沖縄全体が農業中心になり、農地が現在の1・5倍になったと仮定すると、農家の人口も1・5倍になるから25万4558人となる。県の人口が農業人口の1・5倍だとすると38万1837人が県の人口と推計できる。
農業中心の沖縄県の人口はどんなに多く想定しても40万人くらいである。戦前の沖縄は電気・ガスや電化製品・車などがなかったから60万人近くの人々が生存することができたが、文化製品に囲まれた戦後の生活なら生活費が高騰しているから戦前より人口はかなり減少してしまう。現在の沖縄の人口は140万人である。農業中心の沖縄なら100万人近くの人間が沖縄から消えなければならない計算になる。
沖縄本島の北部や離島は過疎化が進んでいるが、過疎化が進む原因は北部や離島の産業が農業中心だからである。北部や離島の実態が沖縄が農業中心の社会になった時の姿である。
美しい自然と農業で豊かな生活が築けると考えるのは大間違いである。農業中心の社会は大地主だけが豊かになる社会であり、土地を持たない人間は貧困生活を強いられるか沖縄を出ていかなければならない運命にある。戦前の沖縄がそうであった。
沖縄が農業中心の産業であったら人口は40万人くらいであっただろうという私の推計をあなたは信じないかも知れない。しかし、それが現実であることを示す実例がある。奄美大島の戦後の人口推移である。奄美大島は沖縄と同じように米軍の統治下にあったが、沖縄より19年も前に本土復帰を果たした。奄美大島には米軍基地はない。産業の中心は農業であり、さとうきびつくりが盛んである。米軍基地のない沖縄が奄美大島と似た経済になるのは間違いない。
奄美大島の人口推移をみると。
昭和 25年 21万6110人
平成 22年 7万0400人
米軍基地がある沖縄の人口は、戦前は60万人以内だったものが平成22年には139万に増加した。しかし、米軍基地のなかった奄美大島の人口は21万6110人から7万0400人へなんと三分の一まで人口は減少しているのだ。もし、沖縄に米軍基地がなくて奄美大島のように農業中心の産業であったら奄美大島と同じように沖縄の人口は減少し続け、戦前の人口60万人の三分の一の20万人になっていた可能性が高い。私の予想の40万人の半分の人口である。
もし、沖縄が戦前と同じ農業中心の産業であったなら、沖縄の人口は20万人からどんなに多くても40万人であったことはまぎれもない事実である。実に100万人から120万人の人間が沖縄から消えることになる。沖縄農業の経済的実力は非常に小さいことを私たちは認識しなくてはならない。特にさとうきびの経済的実力は小さい。さとうきびは1トン2万1000円前後であるが、その内の1万5000円が政府補助金である。さとうきび代金の4分の3は補助金なのだ。
もし、政府の補助金がなければさとうきび産業は壊滅する。さとうきびから経済力の高い農作物への転換はどうしても克服しなければならない沖縄農業の重要な課題である。


沖縄の人口増加は基地経済が原因
沖縄と奄美大島の大きな違いは米軍基地があるかないかである。米軍基地のある沖縄は人口が増え続け、米軍基地のない奄美大島は人口が減り続けた。米軍基地経済が沖縄の経済発展と人口増加に貢献してきたのは明らかである。私たちはこの事実を冷静に受け止めなければならない。
1945年の沖縄戦で10万人近くの県民が戦争の犠牲になったにもかかわらず、1950年の人口は沖縄戦前の1940年より10万人以上も増えて、69万8,827人になっている。敗戦により南方や大陸に移民していた人たちが沖縄に戻されたのとベビーブームの影響だろう。
注目すべきことは、戦前は60万人が人口の限度であるといわれていたのに、戦争が終わって5年後の1950年には沖縄の人口が60万人をかなり超えて70万人近くになっていることである。戦前の農業中心の沖縄では起こるはずのないことである。それも沖縄戦で焦土化した沖縄の農業はまだ回復していなかったはずだから60万人が住むのさえ困難であった。それなのに沖縄の人口は70万人近くになったのである。激戦で焦土化した沖縄で70万人の人々が生活できたのは奇跡である。奇跡が起こったのは戦後の沖縄が農業中心の経済から基地経済へと移ったからである。米軍基地がもたらした経済が沖縄の人口を70万人に引きあげたのである。戦後、沖縄の人口は増え続け、平成23年には140万人を突破した。戦前の農業中心の人口に比べて2倍以上の人口である。
宜野湾市の戦後の経済発展の要因
宜野湾市の人口推移
大正 9年(1920年) 1万2,704人
大正14年(1925年) 1万2,569人
昭和 5年(1930年) 1万2,857人
昭和10年(1935年) 1万3,346人
昭和15年(1940年) 1万2,825人
昭和25年(1950年) 1万5,930人
昭和30年(1955年) 2万4,328人
昭和35年(1960年) 2万9,501人
昭和40年(1965年) 3万4,573人
昭和45年(1970年) 3万9,390人
昭和50年(1975年) 5万3,835人
昭和55年(1980年) 6万2,549人
昭和60年(1985年) 6万9,206人
平成 2年(1990年) 7万5,905人
平成 7年 (1995年) 8万2,862人
平成12年(2000年) 8万6,744人
平成17年(2005年) 8万9,769人
平成24年(2012年) 9万3、189人

1920年から1940年までの人口は1万2,000人代で推移していてほとんど変化していない。戦前の沖縄は農業中心であり、宜野湾も農業中心の村であった。農業を営むには広い農地が必要である。人口に変化が見られないのは農業を営むのに1万3,000人前後が限界であったからだろう。これ以上人口が増えると生活できない者が増える。農地を持たない次男、三男は宜野湾から出て行かなければならなかった。宜野湾が農業中心であったなら、戦後も人口は増えなかったはずである。
終戦直後の宜野湾市の人口は1万5,930人となり戦前よりわずかに増え、その後はどんどん増えていった。人口が増えた原因は農業から基地経済に転換していったからである。軍雇用員、軍用地料、米兵と米兵の家族相手の商売によって宜野湾市の経済はどんどん発展していった。

米軍基地のある宜野湾市の人口増加は6万3688人
昭和35年(1960年) 2万9,501人
平成24年(2012年) 9万3、189人
米軍基地のない糸満市の人口増加は2万5630人
昭和35年 (1960年) 3万3,580人
平成24年 (2012年) 5万9、210人
米軍基地のない石垣市の人口増加は1万0314人
昭和35年(1960年)  3万8481人
平成24年 (2012年) 4万8795人

宜野湾市の人口増加は6万3688人、糸満市の人口増加は2万5630人、石垣市の人口増加は1万0314人である。糸満市も石垣市も経済発展の環境は好条件であり目覚ましく経済は発展しているほうである。しかし、米軍事基地のある宜野湾市に比べると経済発展に大差がある。
普天間飛行場が占める土地のうち、およそ92%は私有地である。このため、賃借料が地主に支払われており、2000年代は軍用地料が60億円台で推移している。宜野湾市には普天間飛行場だけでなくキャンプズケランもある。基地経済が宜野湾市の経済をうるおしているのは間違いない。
普天間飛行場など全ての軍用地が返還されれば、宜野湾市への経済的影響は大きい。

沖縄に米軍基地が存在している理由
沖縄の米軍事基地は沖縄の経済を発展させるために存在しているわけではない。基地経済は付随的なものであり、アメリカが沖縄の米軍基地を必要がないと判断すれば、沖縄の経済とは関係なくアメリカはさっさと米軍基地を撤去するだろう。
アメリカが沖縄に基地をつくったのは旧ソ連、中国等の社会主義圏に対する抑止力のためである。戦後の社会主義国家はすごい勢いで勢力を拡大していった。アメリカは社会主義をもっとも嫌い、もっとも恐れた。アメリカは社会主義の拡大を抑止するために韓国、南ベトナム、台湾、フィリピンなどの国家をバックアップすると同時に、日本本土や沖縄の軍事基地を増強した。本土は自衛隊の軍事力が強化されるに応じて米軍基地を減らしていった。


沖縄の米軍基地強化と密接な関係がある旧ソ連圏の脅威的な拡大
レーニンの死後、独裁的権力を握ったスターリンは、ポーランドやルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国を社会主義化し、自国の衛星国とした。ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄するとともに侵攻し、ポーランドの東半分を占領した。またバルト3国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国に進駐した。さらに親ソ政権を組織し、反ソ連派を粛清、或いは収容所送りにして、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、領土を割譲させた。さらに隣国のフィンランドを冬戦争により侵略してカレリア地方を併合した。 さらに占領地域であった東欧諸国への影響を強め、衛星国化していった。その一方、ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。 また、開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を承認させた。更にこれらの新領土から多くの住民を追放あるいはシベリアなどに強制移住させ、代わりにロシア人を移住させた。また、極東では日本の領土であった南樺太及び千島列島を占領し、領有を宣言した。さらに、1945年8月14日に連合国の一国である中華民国との間に中ソ友好同盟条約を締結し、日本が旧満州に持っていた各種権益のうち、関東州の旅順・大連の両港の租借権や旧東清鉄道(南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた。
第二次世界大戦によって大きな損害を蒙っていた西欧諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。とくにフランスやイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影はなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。1947年に入ると、3月12日にトルーマンは一般教書演説でイギリスに代わってギリシアおよびトルコの防衛を引き受けることを宣言した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」である。さらに6月5日にはハーヴァード大学の卒業式でジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、西欧諸国への大規模援助を行った。こうして戦後アメリカは、継続的にヨーロッパ大陸に関与することになり、孤立主義から脱却することになった。
東欧諸国のうち、ドイツと同盟関係にあったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、スロバキアにはソ連軍が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権であったが、法務、内務といった主要ポストは共産党が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束されたポーランドでも、ロンドンの亡命政府と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や閣僚が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。またその前年の10月にはコミンフォルムが結成され、社会主義にいたる多様な道が否定され、ソ連型の社会主義が画一的に採用されるようになった。



沖縄の米軍基地強化と密接な関係がある中国の勢力拡大
1930年代から中華民国・南京国民政府と内戦(国共内戦)を繰り広げてきた中国共産党は、第二次世界大戦終結後に再燃した内戦で相次いで国民政府軍に勝利をおさめ、1949年4月には共産党軍が南京国民政府の首都・南京を制圧した。この過程で南京国民政府は崩壊状態に陥り、中国国民党と袂を分かって共産党と行動を共にしたり、国外へと避難したりする国民政府関係者が多数出た。その為、共産党は南京国民政府が崩壊・消滅したと判断し、同年10月に毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した。なお、崩壊状態に陥った南京国民政府は蒋介石の指導の下で台湾に撤退し(台湾国民政府)、引き続き現在にいたるまで中華民国と名乗っている。冷戦を経て現在中華民国を国家承認している国は30ヶ国未満であるが、二つの「中国」政府が並立する事態は台湾問題として東アジアの国際的政治問題となっている。
建国当初の政治を担ったのは、中国人民政治協商会議であった。この段階では共産党独裁体制は確立されておらず、「新民主主義論」のもと共産党、中国民主同盟、中国農工民主党、中国国民党革命委員会などの諸勢力が同会議の中心となった。1950年、土地改革法が成立して全国で土地の再配分が行われた。法の内容自体は穏健的なものであったが、地主に対して積年の恨みを抱いていた貧農などによって運動は急進化し、短期間で土地改革は完了した。

中華人民共和国の発足直後は、旧国民党、富裕層などによる反共・反政府運動が続発した。このため、「反革命活動の鎮圧に関する指示」が出され、大衆を巻き込んだ形で反政府勢力の殲滅を図った。1953年までに71万人を処刑、129万人を逮捕、123万人を拘束し、240万人の武装勢力を消滅させたことが、中国の解放軍出版社より出版された国情手冊に記されている。

1950年に中ソ友好同盟相互援助条約を結び、朝鮮戦争で北朝鮮を支援して参戦するなど、社会主義陣営に属する姿勢を鮮明にした。ただし、1954年のネルー・周恩来会談で平和五原則を示したこと、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)にも積極的に関わったことに見られるように、常にソビエト連邦一辺倒なのではなく、第三勢力としての外交も行った。また、1956年のソ連共産党第20回大会においてフルシチョフが行った「スターリン批判」に対して、中国共産党は異なった見解(功績7割、誤り3割)を示した。これ以降ソビエト連邦との関係は徐々に悪化、のちの中ソ論争や中ソ国境紛争へとつながっていく。
国内では、1953年頃より社会主義化を本格的に進め始め、人民政治協商会議に代わって人民代表大会を成立、農業生産合作社を組織した。1956年に行った「百花斉放百家争鳴」運動にて知識人から批判をうけたため、これを弾圧するために1957年6月に批判的な知識人に対する反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ、投獄した。1958年、毛沢東は大躍進政策を開始し、人民公社化を推進した。しかし、無計画に進められた大躍進政策は2000万人~4000万人以上とも言われる大量の餓死者を出して失敗に終わった。同じ頃、チベットの中国との同化を図り、「解放」の名目で軍事制圧し、ここでも数十万人の大虐殺を行なったとされる(根拠なし)。チベットの最高指導者、ダライ・ラマはインドに亡命し、未だ帰還していない。
毛沢東時代の中華人民共和国は、社会の共産主義化を推進した。建国直後の1949年にウイグル侵攻を行いウイグルを占領した。1950年にはチベット侵攻を行いチベットを併合した。1952年には朝鮮戦争に介入し、韓国軍と、アメリカ軍を主体とする国連軍による朝鮮統一を阻止した。毛沢東の指導のもとで大躍進政策と核開発を行ない、多くの餓死者と被爆者を出しながらも核保有国としての地位を確保する。1959年のチベット蜂起を鎮圧すると、1962年にはチベットからインドに侵攻した(中印戦争)。1974年には南シナ海に侵攻し、ベトナム支配下の西沙諸島を占領した(西沙諸島の戦い)。

沖縄の米軍基地強化と密接な関係があるアジアの冷戦
中国大陸では、戦後すぐにアメリカの支援する中国国民党と中国共産党が内戦を繰り広げたが、中国共産党が勝利し1949年に共産主義の中華人民共和国を建国。1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約を結んでソ連と連合した。
一方、中国国民党は台湾島に逃れ、アメリカの支援のもと大陸への反攻をねらった。また、中華人民共和国は朝鮮戦争に出兵することで、アメリカと直接対立した。すでにモンゴルではソ連の支援の下で共産主義のモンゴル人民共和国が1924年に成立していたが、戦後になって米英仏等が承認した。
日本が統治していた朝鮮半島は、ヤルタ会談によって北緯38度線を境に北をソ連、南をアメリカが占領し、朝鮮半島は分断国家となった。このため、1950年6月にソ連の支援を受けた北朝鮮が大韓民国へ突如侵略を開始し、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争には「義勇軍」の名目で中華人民共和国の中国人民解放軍も参戦し戦闘状態は1953年まで続いた。
フランス領インドシナでは、ベトナムの共産勢力が独立を目指し、第一次インドシナ戦争が起こった。1954年にフランスが敗北したため、ベトナムが独立を得たが、西側は共産主義勢力の拡大を恐れ、ジュネーブ協定によって北緯17度で南部を分割し、南側に傀儡政権を置いた。これは後のベトナム戦争の引き金となる。また、フランスとアメリカが強い影響力を残したラオス(1949年独立)、カンボジア(1953年独立)でも共産勢力による政権獲得運動が起こった。

これら共産勢力のアジア台頭に脅威を感じたアメリカは、1951年8月に旧植民地フィリピンと米比相互防衛条約、9月に占領していた旧敵日本と日米安全保障条約、同月にイギリス連邦のオーストラリア・ニュージーランドと太平洋安全保障条約(ANZUS)、朝鮮戦争後の1953年8月に韓国と米韓相互防衛条約、1954年に中華民国と米華相互防衛条約を立て続けに結び、1954年9月にはアジア版NATOといえる東南アジア条約機構(SEATO)を設立して西側に引き入れた他、中華民国への支援を強化した。また中東でも、アメリカをオブザーバーとした中東条約機構(バグダッド条約機構、METO)を設立し、共産主義の封じ込みを図った。

沖縄の米軍基地強化と密接な関係があった朝鮮戦争
1950年6月25日早朝、朝鮮人民軍は38度線を突破して南部への進撃を開始した。李承晩政権の朝鮮武力統一を未然に防止し、「南半部」を解放する、というのがその理由だった。
朝鮮人民軍は進撃をつづけ、1950年6月28日には韓国の首都ソウルを陥落させた。一方、在日米軍は7月1日、釜山に上陸して北上を開始し、沖縄駐留のB‐29が北朝鮮爆撃を開始した。また、6月27日には第七艦隊が台湾海峡に展開した。7月7日、国連は国連軍総司令部の設置を決定、東京の連合国軍最高司令官マッカーサーを国連軍総司令官に任命し、米軍を中心に16カ国からなる国連軍が編成された。

朝鮮人民軍の勢いは、国連軍参戦後もやまず、1950年8月下旬には、国連・韓国軍は、半島南東部の釜山・大邱などがある一角においこまれた。朝鮮半島の95%を北朝鮮が占領した。

9月15日、マッカーサーの指揮のもとに国連軍はソウル近郊の港町仁川への上陸を決行、韓国内の朝鮮人民軍を南北から挟撃した。
これを機に戦局は逆転し、1950年9月26日に国連軍はソウルを奪回、10月1日には韓国軍が38度線を突破し、つづいて7日に国連軍も同線を突破した。そしてこの日、国連総会は武力による朝鮮統一を承認した。国連・韓国軍はなおも北上して19日に平壌を占領。一部の部隊は26日に鴨緑江まで到達した。
しかしその前日、中国人民義勇軍が参戦して朝鮮人民軍とともに反撃に転じ、1950年12月4日に平壌を奪回、翌51年1月4日にはソウルを再占領した。これに対し、2月1日、国連総会は中国非難決議を採択、3月14日には国連・韓国軍はソウルを再奪回した。
戦線は38度線を境に膠着(こうちゃく)状態におちいり、打開策として中国本土やソ連領シベリア諸都市への原爆攻撃を主張したマッカーサーは、トルーマンにより、1951年4月11日に国連軍総司令官を解任された。以後も戦線膠着状態を打開するために、細菌弾、毒ガス弾も使用されたが、決定的な戦局の転換はおきなかった。
戦線が膠着状態になったのをみて、1951年6月23日、ソ連の国連代表マリクはラジオで休戦を提案、関係各国はこれを受けいれ、7月10日に開城を会場(10月に板門店に移動)として休戦交渉がはじまった。しかし、交渉は遅々として進まず、断続的に2年間におよび、ようやく53年7月27日板門店において、国連軍総司令官マーク・クラーク、朝鮮人民軍最高司令官金日成、中国人民義勇軍司令員彭徳懐の間で休戦協定が調印された(韓国は拒否)。

朝鮮戦争の死者と負傷者
国連・韓国軍側戦死者        50万人
負傷者            100万人
朝鮮人民軍・中国人民義勇軍戦死者 100万人
戦傷者        100万人
民間人の死亡者、行方不明者南北あわせて 200万人以上

普天間飛行場強化は共産主義勢力の封じ込み戦略のひとつであった
ソ連、中国、北朝鮮、北ベトナム、ラオス、カンボジアなどの共産勢力のアジア台頭に脅威を感じたアメリカは、日本、オーストラリア・ニュージーランド、韓国、中華民国への支援を強化し、共産主義勢力の封じ込みを図った。沖縄の軍事基地強化は共産主義勢力の封じ込み戦略のひとつであり、普天間飛行場も共産主義勢力の封じ込みを目的に拡大強化していった。

普天間飛行場は宜野湾市大山二丁目に所在しており、その面積は約480㏊である(宜野湾市野嵩・新城・上原・中原・赤道・大山・真志喜・字宜野湾・大謝名にまたがる)。これは宜野湾市の面積の約25%にあたる。那覇都市圏を構成する沖縄県の中でもっとも人口が過密な地帯の一部であり、普天間飛行場、キャンプ瑞慶覧(面積160㏊)、陸軍貯油施設(面積2㏊)を除くと使用可能な市域の面積が1294㏊となり、1995年の時点で人口密度は約6252人/㎢になった。

普天間飛行場は航空基地として総合的に整備されており、滑走路のほか、駐留各航空部隊が円滑に任務遂行できるための諸施設として、格納庫、通信施設、整備・修理施設、部品倉庫、部隊事務所、消防署、PX、クラブ、バー、診療所などが存在する。

普天間飛行場の歴史

1945年 沖縄戦の最中に、宜野湾一帯がアメリカ軍の支配下に置かれると、アメリカ陸軍工兵隊の発注により中頭郡宜野湾村(現・宜野湾市)の一部土地を接収し、2,400m級の滑走路を持つ飛行場が建設された。目的は日本本土決戦(連合軍側から見た場合ダウンフォール作戦)に備えるためであり、兵員及び物資の輸送に供することであった。
1945年 台風の直撃により建設途中の沖縄の各軍事施設が打撃を受ける。
1948年 リビー、デラ、グロリアの3台風が相次いで沖縄を直撃した。特に1949年6月のグロリアによる沖縄米軍基地全体の損害は8000万ドルに達した。その原因は基地施設がカマボコ兵舎に代表される簡易的な物が多く、天災に耐えるだけの恒久性を持っていないことにあった。これは戦後の軍事予算削減の影響を受けたものだったが、被害の大きさからより恒久的で台風や地震に耐えられる基地施設建設の機運が高まった。
1950年 朝鮮戦争勃発に伴い沖縄の戦略的価値が見直され、基地の恒久化を目的とした建設が進められることとなった。普天間もこれによる影響を受けていく。
1950年 GHQ下の極東軍司令部は1950年7月1日に遡及し、米軍が占領した民有地の借料の支払いを開始するように琉球民政府に指示した。
1953年 滑走路が2,800メートルに延長され、ナイキミサイルが配備された。
1955年 米軍は伊佐浜の土地を10万坪(立ち退き家屋32戸)接収すると通告し、住民は「土地取上げは 死刑の宣告」などのノボリを立てて反対した。しかし、7月19日の夜明け前、武装兵に守られたブルドーザーやクレーンにより家屋が取り壊され、32個136名の住民が住む家を失った。
1957年 陸軍から空軍へ管理を移管。
1960年 施設管理権がアメリカ空軍からアメリカ海兵隊へ移管された。民有地については、琉球政府が住民から土地を一括で借り上げたうえで米海兵隊に又貸しをし、軍用地料(基地・飛行場の土地賃借料)についてはアメリカ側から琉球政府に支払われたものを住民に分配する方法が採られた。
1969年 ●普天間第二小学校の創立。
1972年 沖縄返還に合わせて事務が琉球政府から日本政府(防衛施設庁那覇防衛施設局)に引き継がれ、日米地位協定第二条第一項に基づく米軍施設および区域と定義される。
1974年 嘉手納飛行場にP‐3Cが移駐されたことに伴い、その補助飛行場として使用するための滑走路を全面的に再整備。
●第15回日米安全保障協議委員会にて一部の無条件返還・移設条件付返還を合意。
1976年 ベトナム戦争終結後の海兵隊再編に伴い、上級司令部たる第1海兵航空団司令部が岩国よりキャンプ・バトラー(中城村)に移駐し、機能強化が図られた。
1976年 返還予定の中原区から航空機誘導用レーダーを移設。
1977年 ●10.9㏊を返還(12月15日代替施設として飛行場内に宿舎等を追加提供)。
1977年 ●0.3㏊を返還。
1977年 ●2.4㏊を返還。
1978年 ハンビー飛行場の返還に伴って格納庫、駐機場、隊舎等を移設。
1980年 米兵、一部一般市民の犯罪に対抗して周辺住民が組織していた自警団制度を廃止する。
1980年 格納庫等建物2600平方メートルを追加提供。
1981年 「防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律」に基づき第1種区域(住宅防音工事
対象区域)を指定(4740世帯)。
1983年 宿舎等建物11500平方メートルを追加提供。
1985年 ●宜野湾市消防庁舎用地として0.7㏊を返還。
1986年 隊舎として建物5,700平方メートル等を追加提供。
1987年 格納庫として建物5400平方メートル等を追加提供。
1992年 ●道路用地等として1.5㏊を返還。
1996年 ●普天間第二小学校校庭用地として0.9㏊を返還。
2000年 基地周辺の小学校において海兵隊員による英会話の実習を開始。

普天間飛行場は終戦の時にはすでにあった。1950年宜野湾の人口は1万5930人と少なく、普天間飛行場の周囲に人家はなかった。普天間飛行場の軍用地が返還されるようになると、返還された土地に人家や公共施設が建設されていった。
米軍には返還した土地を管轄する権利はない。普天間飛行場の周囲に人家や公共施設が増えていった原因は普天間飛行場の周囲を管轄していた宜野湾市の政策にあったといえよう。

「1955年7月11日、米軍は伊佐浜の土地を10万坪(立ち退き屋敷32戸)接収すると通告し、住民は『土地取上げは 死刑の宣告』などのノボリを立てて反対した。しかし、7月19日の夜明け前、武装兵に守られたブルドーザーやクレーンにより家屋が取り壊され、32個136名の住民が住む家を失った。伊佐浜の水田は収穫量も多く、戦前から『チャタンターブックヮ』(北谷のたんぼ)」と呼ばれる美田が広がっていました。戦時中も米軍の土地接収からもまぬがれ、戦後もかつてのように稲が植えられていました」
米軍が基地の拡大強化のためにフルドーザーと銃剣で強引に土地接収した行為として有名な話である。悪徳非道のようにみえる米軍の土地接収であるが、ブルドーザーと銃剣で強引に土地接収したのは共産勢力のアジア拡大を抑止する目的があった。
死者350万人以上という戦後最大の凄惨な戦争が朝鮮半島で起こった。ソ連、中国、北朝鮮、ベトナムなどの社会主義国家と韓国、台湾、南ベトナム、フィリピン、アメリカとの対立はいつ戦争が起こってもおかしくない状態にあり、アメリカ軍は早急にアジアの駐留軍を強化する必要に迫られていた。アジア全体の軍備強化のひとつとして伊佐浜の強制土地接収があった。
もし、アメリカ軍が沖縄・日本に駐留していなかったら、沖縄はチベットやウイグル地区のように中国の人民解放軍の武力によって占領されていたはずである。米軍基地がなければ平和で豊かな沖縄になれたと考えるのは非現実的な妄想だ。
土地を接収された伊佐浜の農民が土地闘争をするのは理解できるが、米軍が強引に土地接収した背景には第二次世界大戦後の世界を二分にしたソ連・中国の社会主義圏とアメリカ・ヨーロッパの資本・民主主義圏との熾烈な対立があったからであり、伊佐浜の土地接収を問題にするのなら背景にある中国、北朝鮮との対立、朝鮮戦争、ベトナム戦争、チベット侵略など社会主義圏と資本・民主主義圏の深刻な対立も問題にするべきである。

私が住んでいる読谷村でも大規模な土地接収があった。
海の近くにあった渡久地区の住民全員が通信基地トリイステイション設立のために立ち退きとなり、私が住んでいた比謝の隣に引っ越してきた。米軍は木や草が生えている広大な丘をブルドーザーであっというまに整地した。丘をあれよあれよという間に平地にしていったブルドーザーの威力に驚嘆したのを覚えている。ブルドーザーを警備しているガードマンが友達の父親だったので、父親の許しを得て、私たちはブルドーザーに乗ったりして遊んだ。整地された広大な広場は子供たちの絶好の遊び場であった。雪合戦ならぬ泥を丸めて投げ合う泥合戦もやった。
楚辺区も通信基地トリイステイション内にあったので全住民が強制的に立ち退きされて、米軍が整地した現在の場所に移った。
嘉手納弾薬庫では大湾、比謝橋、比謝、牧原、伊良皆、長田などは家をつくるのを禁じられ、すでにあった家は強制立ち退きをされた。トリイステイションや嘉手納弾薬庫は伊佐浜とは比べ物にならないほどの広大な土地である。しかし、伊佐浜のような抵抗運動はなかった。
唯一、強制立ち退きに抵抗して頑張った家が一軒だけあった。その家は幼稚園の時からの友達であるUの家だった。彼の父親は人民党員だった。だから最後まで立ち退きに抵抗したのだろう。彼の家のまわりには人家がなく、畑や雑草が茂っている広場が広がっていたので絶好な遊び場所だった。私は彼の家の近くでよく遊んだものだ。彼の家のある場所には伊佐浜のように米軍の設備を立てる目的はなかったので、米軍による銃とブルドーザーによる強制撤去はなかった。数年後に私の家から数百メートル離れた所に彼の家族は引っ越してきた。

何度も米軍による銃とブルドーザーによる強制立ち退きのことが話題にされるのだが、ほとんどは伊佐浜か伊江島である。伊佐浜と伊江島以外が話題になったことはない。もしかしたら強制立ち退きに抵抗したのは伊佐浜と伊江島だけだったかもしれない。
マスコミや知識人は銃とブルドーザーによる強制撤去は何度も話題にするが、辺野古が米軍基地を受け入れて、経済が奇跡的に発展したことはほとんど話題にしない。そして、辺野古の驚異的な経済発展の影響で土地闘争が崩れていった事実も話題にしない。

普天間第二小学校
宜野湾市立普天間第二小学校は、宜野湾市の北、国道58号線と国道330号線を結ぶ県道81号線の中ほどにあり、学校の北側には普天間三叉路があり、その周辺に普天間神宮や商店街などが立ち並んでいる。南側は米軍普天間飛行場とフェンス越しに向かい合っている。そのため、輸送機やヘリコプターの離着陸の騒音にさらされている。宜野湾村が市になった1962(昭和37)年ごろから人口が増え、中心地の普天間小学校の児童数も限界に近づいていたことから普天間第二小学校の建設は計画され、1969(昭和44)年に分離開校した。現在の校舎は1996(平成8)年に普天間飛行場を0.9㏊返還させて拡張した新校舎であり、オープン教室となっている。
普天間飛行場の危険性を問題にするときに必ず取り上げるのが普天間第二小学校である。子供たちが遊んでいる校庭の向こう側から数機の軍用ヘリコプターが一斉に飛び立つ映像はまるでベトナム戦争を見ているようで背筋が凍る。
非常にインパクトがある映像に多くの人は普天間飛行場の危険性を痛切に感じる。普天間飛行場からの騒音は教室内でも100ベシレル以上あり騒音で授業は中断されることも起こっている。普天間第二小学校の騒音被害を報じるたびに一日も早い普天間飛行場の撤去を訴える。
政治家、知識人、学者、教師、市民など多くの人たちが普天間飛行場の危険性を主張し移設を訴える。ただ、彼らのほとんどは日米政府が計画している普天間飛行場の辺野古移設には反対している。普天間飛行場の撤去を訴えている人の多くは「県外移設」を主張している。不思議なことに普天間第二小学校の移転を訴える人はほとんどいない。
普天間第二小学校の騒音問題を取り上げるマスコミも普天間飛行場の「県外移設」を問題にすることはあっても普天間第二小学校の移転を問題にすることはない。政治家、知識人、学者、市民運動家も普天間第二小学校の騒音被害や危険性を問題にしても移転を主張することはない。不思議な現象である。普天間第二小学校が騒音被害を受け、ヘリコプター墜落の危機を抱えているのなら、一日も早く普天間第二小学校を安全な場所に移転するのが最重要な課題であるし、普天間飛行場と違って宜野湾市政がその気になれば移転を実現することができる。ところが誰も移転を提案しない。普天間第二小学校の移転を提案するのはタブーなのだろうか。
普天間第二小学校は1969年に創立している。1969年といえば、ベトナム戦争が激しくなっていた頃である。前年の1968年には嘉手納飛行場からベトナムに向けて飛び立とうとしたB52重爆撃機が墜落炎上し、大爆発を起こして県民を恐怖のどん底に落とした。その年に「命を守る県民共闘会議」が結成され、県民の反基地運動が一番盛り上がった時であった。その時に宜野湾市は普天間第二小学校を普天飛行場の金網沿いにつくったのである。普天飛行場の金網沿いにつくれば騒音被害、飛行機墜落の危険があるのは当然である。それを承知の上で宜野湾市は普天間飛行場の金網沿いに普天間第二小学校を設立したのだ。信じられないことである。
子どもの人権を踏みにじる行為をしたのは宜野湾市政である。非難されるべきは宜野湾市政であり米軍ではない。
米軍の飛行機が墜落炎上する恐れを一番感じている時に宜野湾市は普天間飛行場の金網沿いに普天間第二小学校をつくった。人間の常識としてありえないことである。子どもたちを基地被害の人身御供にして、基地の危険性をアピールするために普天間第二小学校をつくったのではないかと疑ってしまう。

普天間第二小学校の移転問題
1969年当時は普天間第二小学校周囲には空き地が多かった。普天間飛行場から離れた場所でも小学校をつくることは楽にできたはずである。それなのに宜野湾市政はわざわざ金網沿いに小学校をつくった。なぜ、金網沿いにつくったのだろうか。学校は広い敷地が必要であり、土地購入代金の負担が大きい。そのために学校をつくる場所はできるだけ土地代が安い所を選ぶ傾向にある。だから、住宅街からは遠く離れた土地代が安い場所に学校をつくることが多い。人家の少ない場所に学校ができ、その後に人家が増えていくパターンが普通である。沖縄国際大学も那覇市の土地が高いので土地の安い普天間飛行場の近くにつくったという経緯がある。そのように考えると普天間第二小学校を普天間飛行場の金網沿いにつくったのは、その土地が安かったからであろう。普天間飛行場の金網沿いにつくれば子どもたちの騒音被害や飛行機墜落の危険は明らかであった。それなのにつくった。子どもの人権よりお金の節約なのである。
読谷村にも金網に囲まれた小学校がある。字大木の西外れにある古堅小学校である。私が在籍していた頃は古堅小中学校であり、私は9年間在籍した。古堅小学校は西と南が金網でL字状に囲まれていて、ボール遊びをするとボールが金網の中に入ることが度々あった。ボールを取りに金網を飛び越えて基地内に何度も侵入した経験がある。私たちにとって基地侵入は日常茶飯事であった。基地侵入は犯罪であるが、それをやらなければならなかったのが金網に囲まれた学校の生徒の宿命であった。金網に張り付いて移動する競争や誰が金網を早く飛び越えるかの競争もやった。子供は周りのものを全て遊びにする。たとえ、米軍基地でも。

普天間飛行場の金網沿いに小学校をつくるということは騒音が大きいし、ヘリコプターの墜落の可能性があるのははっきりしている。それに金網を目の当たりした学校生活は生徒に閉塞感をもたらす。米軍基地の金網沿いに学校をつくるのは教育上非常に悪いことである。
普天間飛行場の金網沿いに小学校をつくったということは、子どもの人権をないがしろにした宜野湾市の市長、議員、市民であったということである。

1987年(昭和57)に、普天間第二小学校から200メートルしか離れていないところに米軍ヘリが不時着炎上した。当時、宜野湾市長だった安次富(あしとみ)盛信さん(79)によると、これまでも爆音被害に悩まされていたが、炎上事故を受け、小学校に米軍機が墜落しかねないとの不安が広がり、移転を望む声が地域の人たちから沸き上がった。
 安次富さんらは移転先を探したが確保できなかったため米軍と交渉した。約1キロ離れた米軍家族用の軍用地のうち8千坪を校舎用に日本に返還することで合意。防衛施設庁とも協議して移設予算も確保した。
 ところが、市民団体などから「移転は基地の固定化につながる」などと抗議が殺到した。安次富さんは「爆音公害から少しでも遠ざけ危険性も除去したい」と説明したが、市民団体などは「命をはってでも反対する」と抵抗したため、計画は頓挫した。
 その後、昭和63年から平成元年にかけ、校舎の老朽化で天井などのコンクリート片が落下して児童に当たる危険性が出たため、基地から離れた場所に学校を移転させる意見が住民から再び持ち上がった。だが、やはり市民団体などに「移転せずに現在の場所で改築すべきだ」と反対され、移転構想はストップした。それどころか普天間飛行場の0・9ヘクタールを開放させて、学校の敷地を拡大した。普天間飛行場から離れるどころかますます普天間飛行場に食い込んだのである。信じられないことである。

1968年に嘉手納飛行場でB52重爆撃機が墜落炎上爆発した翌年に普天間第二小学校をつくり、小学校から200メートル離れた場所でヘリコプターが不時着炎上したのに移転はしなかった。老朽化した時にも移転の希望が持ち上がったが結局は移転しなかった。普天間飛行場の金網沿いに学校をつくれば騒音被害は当然起こることである。宜野湾市は騒音被害が起こるのを知りながら金網沿いに普天間第二小学校をつくったのだ。1969年から40年以上も移転をしないで普天間第二小学校の子供たちを騒音被害にさらしてきたのは宜野湾市政である。宜野湾市政の責任は大きい。
普天間飛行場の騒音が子供たちの人権を犯していると主張する人は多いのに、宜野湾市政を非難する人はいない。普天間飛行場の「県外移設」を主張する人は多いが普天間第二小学校の移転を主張する人はほとんどいない。なにかがおかしい。とてもおかしい。

普天間第二小学校移転問題と普天間飛行場移設問題は別の問題であり、子どもの人権を守るために普天間第二小学校は一日も早く安全な場所に移転するべきである。安次富さんが移転しようとしていた外人住宅地は現在使用していない。その場所に一日も早く移転するべきである。普天間第二小学校の移転より普天間飛行場の移転が先であると主張するのは頭がおかしいというしかない。

普天間飛行場のクリアゾーンに人が住んでいるのは誰の責任か
クリアゾーンとは滑走路の両端から900メートルは航空機事故が起きる可能性が高いとして土地利用を禁じた場所のことである。クリアゾーンはアメリカは設定しているが、日本は設定していない。
宜野湾市の普天間飛行場では「クリアゾーン」の中に、住宅約800戸、公共施設、保育所、病院が18カ所存在し、約3600人が暮らしている。世界一危険な飛行場と呼ばれている所以である。なぜ、「クリアゾーン」の中に3600人もの人たちが住むようになったのだろうか。それは米軍の性なのだろうか。
しかし、米軍が管轄できるのは基地内である。普天間飛行場の外は米軍が管轄することはできないし、アメリカの法律を適用することもできない。普天間飛行場の外に適用されるのは日本の法律であり、人を住まわすか住まわせないかを判断するのは宜野湾市政である。宜野湾市政が普天間飛行場周辺をクリアゾーンとして設定し、人が住むのを禁じていれば普天間飛行場のクリアゾーンに人が住むことはなかった。しかし、宜野湾市政はクリアゾーンを設定しないどころかクリアゾーンに小学校、公共施設、保育所、病院などをつくり、住宅も約800戸の建設を許可し、3600人もの人たちが住むようにしたのである。
普天間飛行場のクリアゾーンに公共施設、保育所、病院、住宅をつくらせたのは米軍ではない。宜野湾市政である。宜野湾市政は軍用地が返還された場所にどんどん公共施設、保育所、病院、住宅をつくらせた。もし普天間飛行場の周辺にアメリカ政府の方針を反映させていたならクリアゾーンに公共施設、保育所、病院の建設を許可しなかったはずである。クリアゾーンに建設を積極的にやったのは米軍ではなく宜野湾市政であった。クリアゾーンに住宅約800戸、約3600人の住民が暮らしているのは米軍が望んだことではなく、宜野湾市政が望んだことであり、宜野湾市政の方針があったから、米国では危険地帯として人が住むのを禁じているクリアゾーンに約3600人もの人々が住んでいるのである。
宜野湾市政には普天間飛行場の騒音や危険から住民を守る人権擁護の思想がなかったということであり、クリアゾーンを設定する意思がなかったということである。
宜野湾市は普天間飛行場の金網沿いに普天間第二小学校をつくった。普天間第二小学校をつくったのは宜野湾市政の方針であり、沖縄国際大学をつくらせたのも宜野湾市政の方針である。普天間第二小学校や沖縄国際大学を設立したことに米軍は一切関係していない。
普天間飛行場周辺の騒音被害や危険性は以前からあったことであり、宜野湾市政はそのことを知っていながら普天間飛行場のクリアゾーンに人を住まわせたのである。騒音被害や事故の危険性を無視したのは宜野湾市政である。

普天間飛行場の移設問題
1996年に3人の米兵による婦女暴行事件をきっかけに反米・反基地運動が高まった。危機感を持った日米両政府は8000人の海兵隊のグアム移転と嘉手納飛行場以南の米軍基地の撤去と普天間飛行場の辺野古移設を発表した。しかし、辺野古移設が反対運動の抵抗に会い計画は難航している。
世界一危険な普天間飛行場は三通りの移設方法が持ち上がっている。国外移設、県外移設、辺野古移設である。
沖縄の反戦・平和運動は「沖縄に米軍基地があるから戦争に巻き込まれる」という理由で沖縄の米軍基地の撤去を主張してきた。米軍基地の撤去とは国外に撤去するということである。米軍基地がなければ沖縄は平和で豊かな社会になると反戦・平和運動家や革新政治家は主張してきた。
一方、米軍基地は中国の脅威を抑止するためには必要であるし、基地経済は県経済を潤すと考える保守系政治家は辺野古移設を主張してきた。
革新系の普天間飛行場の閉鎖又は国外移設の主張と保守系の辺野古移設の二分した主張が続いていたが、新たに「県外移設」の主張が加わった。
「できるなら国外、最低でも県外移設」を選挙公約にした民主党は選挙戦に圧倒的に勝利した。民主党が与党になったので、「できるなら国外、最低でも県外移設」の公約が実現するものと県民は期待した。首相になった鳩山氏は「できるなら国外、最低でも県外移設」を公言した。国外移設候補はグアムであり、グアム移設か県外移設で揺れたが、次第にグアム移設が困難であることが明確になるにつれて「最低でも県外移設」と発言し続ける鳩山元首相に県民の期待が集中し、「県外移設」は盛り上がった。民主党の国会議員のほとんどは与党になった途端に「県外移設」を口にしなくなったが、鳩山元首相だけは「県外移設」が実現できると思い込み、移設場所を必死に探した。色々な候補地があがったが、ほとんどの場所が小泉元首相時代に移設を断念した場所であり、鳩山元首相の「県外移設」は頓挫した。そして、「辺野古移設」に戻った。県民の多くが鳩山元首相の辺野古回帰に落胆した。そして怒った。
鳩山元首相の「県外移設」は頓挫したが、県民の「県外移設」への要求は熱いままである。
鳩山元首相は沖縄の過重な基地負担を軽減するとして、いわゆる沖縄への同情から普天間飛行場の「県外移設」を主張してきたが、市民の側からは「県外移設」は当然の権利とする理論が登場した。それが構造的差別論である。
国土の1パーセントにも満たない沖縄に、日本の米軍基地の75パーセントが集中しているのは日本政府が沖縄を差別しているからだという考えが構造的差別論である。
沖縄の差別をなくすために沖縄の米軍基地は日本全体で平等に負担するべきであり、そのためにも普天間飛行場は本土に移設するべきであると構造的差別論者は主張する。構造的差別論は「沖縄の負担を軽減する」という思いやり的な考えに対して「県外移設」は沖縄の構造的な差別を解消するための正当な要求であり、沖縄の権利であると主張している。

国外移設運動の歴史
1968年11月19日に、嘉手納飛行場でB52の墜落炎上事故が起こり、沖縄住民にあらためて米軍基地の危険性、嘉手納弾薬庫の核爆弾の恐怖を喚起させた。その年の12月7日に、「生命を守る県民共闘会議」が結成され、スローガンに「命どぅ宝」を掲げた。「なによりも一番大事なのは命であり、戦争は武装した人間同士が殺りくを繰り返すこと、あるいは武器を手にした人間が武器を持たない人間の命を奪うことであり、戦争は愚かで悲しく、絶対に許されない行為である」と「生命を守る県民共闘会議」を中心に沖縄の反戦・平和運動は沖縄の米軍基地のすべてを撤去するように主張し続けてきた。国外移設を主張することは反戦・平和を主張することと同じことであった。反戦平和・米軍基地撤去運動は共産党、社民党、社大党の革新政党や沖縄教職員組織等が中心となって推進してきた。
普天間飛行場の国外移設候補地はグアムだった。社民党はグアム移設に積極的だったが、現地調査では、沖縄本島の半分以下の面積であるグアム島に、すでに面積の3分の1をアメリカ軍基地が占めていて、普天間飛行場を移設するのは困難であることや、グアム島ではヘリコプターがアジアの緊急事態に対応することができないという米軍の主張もあり、グアム移転は困難視された。「国外移設」の主張は次第に萎んでいった。

県外移設運動の歴史
県外移設を最初に検討したのは小泉元首相であった。辺野古海上移設は移設反対派の激しい抵抗で断念せざるをえなかった。辺野古海上移設を断念した小泉元首相は県外に普天間飛行場の移設場所を探した。しかし、一年近く県外移設場所を探したが見つけることはできなかった。小泉元首相は県外移設を断念して辺野古の陸上に移設することにした。辺野古移設の検討は小泉首相の退陣後も続けられ、最終的にV字滑走路にすることで県側、名護市の了承を取った。ところが移設工事をする前に、自民党政権から民主党政権に変わり、新しい政権の長となった鳩山元首相は「最低でも県外移設」を公約にした。「県外移設」に県民の期待が集まったが、結局は移設先を見つけることができなくて辺野古移設に戻った。
自民党だけでなく、野党のときは国外・県外を主張していた民主党も政権を握ったら辺野古移設になった。
しかし、沖縄県民の「県外移設」への期待は熱いままである。「県外移設」を望むマスコミや知識人は「県外移設」を正当化する構造的差別論を主張するようになった。沖縄の構造的差別をなくすために普天間飛行場は本土に移設するべきだというマスコミや知識人や政治家の主張は根強い。

沖縄の構造的差別は本当か
1パーセントの土地に75パーセントの米軍基地があるのは日本政府の沖縄への構造的差別である。構造的差別を解消するためには沖縄の米軍基地は全国で平等に負担するべきであり、普天間飛行場は本土に移設するべきであると主張しているのが構造的差別論である。構造的差別論には日本を守っているのは米軍であるという印象が強い。しかし、日本を守っているのは米軍だけではない。自衛隊がいる。全国の自衛隊員は22万8536人である。構造的差別を主張している人たちは自衛隊の存在を計算に入れていないように感じる。

➀ 航空自衛隊の主要装備
F-15戦闘機201機(F15運用国ではアメリカに次いで第2位の保有数である)、F‐2戦闘機80機、F‐4戦闘機約64機、合計345機余と、E-2早期警戒機が13機、E‐767早期警戒管制機が4機と、早期警戒機の数も多く、またKC‐767空中給油機が4機と自衛隊の防空能力は高い。
➁ 海上自衛隊の装備
通常動力型潜水艦16隻、護衛艦約50隻、ヘリコプター、哨戒機、電子戦機合計で約300機保有する。
➂ 陸上自衛隊の装備
戦車2、542両、装甲車両3、081両、自走砲1、307両、火砲・ロケット1、651台、誘導弾1、369個、ヘリコプター1、138機、航空機311機。

軍事力は在日米軍よりはるかに自衛隊のほうが勝っている。日本の防衛は自衛隊と在日米軍のコンビネーションでなりたっているのであって米軍だけが日本を防衛しているわけではない。本土の自衛隊基地の存在を無視して、1パーセントの土地に75パーセントの米軍基地があると、在日米軍だけが日本を防衛しているように考えるのは間違いである。むしろ、米軍よりもはるかに自衛隊のほうが日本を防衛している。
日本の軍事力は自衛隊と在日米軍の合計で判断するべきであり、沖縄の米軍基地は日本全体の自衛隊基地と米軍基地の配置のありかたを問題にするべきである。

自衛官の総計 22万8536人
本土所在米軍人 2万2078人
在沖米軍人 2万2772人 (自衛隊比10%)
在日米軍合計 4万4850人 (自衛隊比19・6%)
自衛隊員+米軍人 27万3386人
米軍人の全体比 16%、
在沖米軍人の全体比 8・3%

在日米軍だけの比率でみれば本土所在米軍人2万2078人、在沖米軍人2万2772人であり、在沖米軍人の比率は約50%である。自衛隊も合わせた全体の人数の比率からみれば在沖米軍人は8・3%である。
8・3%でも1%の面積しかない沖縄には比率が高いといえるが、沖縄に米軍基地が集中したのには、米軍が沖縄に上陸した時に戦争が終わったという歴史的な偶然と、対立していたソ連、北朝鮮、中国、ベトナムなどアジアの社会主義圏とは地理的に扇の要の位置にあるという軍事的な必然もあった。
日米政府は嘉手納飛行場以南の米軍基地は返還し、8000人の海兵隊をグアムに移動すると提案したのだから、沖縄の米軍基地は半減し、在沖米軍人の全体比は5・4%になる計算になる。それを考慮に入れると、米軍基地が沖縄に集中しているとは言えない。皮肉なことに米海兵隊と基地削減計画を阻んでいるのが辺野古移設反対運動である。
沖縄に米軍基地があるから日本の安全が守られてきたと、まるで米軍だけが日本を守っていると考えるのは間違った考えである。自衛隊が22万8536人も居て、在沖米軍人が2万2772人しかいないことから分かることである。
アジアに駐留している米軍が日本を守っているのは確実であるが、たった、2万2772人の在沖米軍だけが日本を守っているというのは大げさである。日本と沖縄を防衛しているのは自衛隊と在日米軍以外にアジアに駐留している米軍とのコンビネーションである。
軍事ジャーナリストの惠隆之介氏によると、米軍専用基地は確かに75%が沖縄にあるが、全国にある米軍基地を自衛隊との共用基地も含めて計算すると沖縄の米軍基地は24%にしかならないという。
構造的差別論は、米軍だけが日本を守っているという考えであり、米軍が本土で自衛隊と共同使用している基地を計算に入れていないし、自衛隊を日本を守る軍隊として計算に入れていない。構造的差別論は事実を正確に把握していない理論である。

構造的差別論は反戦・平和主義ではない
1968年に「命をまもる県民共闘会議」を結成して以来、革新政党や教職員組合等は平和憲法を重んじ、「命どぅ宝」をモットーとした反戦・平和運動を展開し、米軍基地の撤去を主張し続けてきた。反戦・平和主義による米軍基地撤去とは米軍基地の国外移設のことであり、国外移設には反戦・平和主義が根底にある。
一方、普天間飛行場の「県外移設」の主張は日本政府の沖縄への構造的差別を問題にしている。沖縄だけがいつまでも基地の過重な負担を背負い続ける構図は「構造的差別」であり、普天間飛行場の辺野古移設は沖縄への構造的差別を続けることになる。構造的差別をなくすために普天間飛行場は本土に移転するべきだと主張している。構造的差別論は米軍基地が沖縄に集中していることを問題にしているのであり、米軍が日本に駐留することは容認している。日本の米軍駐留を容認している構造的差別論は反戦・平和主義を放棄したことになる。
○ 反戦・平和主義=日本の米軍基地を認めない。米軍基地の国外撤去。
○ 構造的差別論 =日本の米軍基地を容認、米軍基地の日本全体への平均的な配置。
県外移設論は米軍基地を日本国内に移設することであり、日本国内から米軍基地を撤去するという考えはない。構造的差別論は米軍基地の日本国内での現状維持を認めている。「米軍基地があるから戦争に巻き込まれる」「沖縄・日本が戦争のない平和で豊かになるためには米軍基地は日本からなくすべきである」「命どぅ宝」という反戦・平和主義の思想は構造的差別論にはない。構造的差別論は反戦・平和主義ではない。極言すると単純平和主義である。
共産党、社民党は平和憲法遵守の立場であり、全てのアメリカ軍が日本から撤去することを主張している。「県外移設」を主張することは米軍基地の「本土受け入れ」に賛成することであるから、共産党・社民党が「県外移設」を主張することはありえない。「国外移設」は反戦・平和主義であり、「県外移設」は反戦・平和主義ではない。「国外移設」運動と「県外移設」運動は性質が違う運動であり、相容れない運動である。

普天間飛行場の国外移設=グアム移設は可能か
普天間飛行場の国外移設候補地になったのはグアムである。ハワイやアメリカ本国も候補地に上ったが、アジアから遠すぎるのですぐに候補からはずれた。グアム移設に積極的だったのが社民党と共産党だった。アメリカ政府はアジアから遠く、緊急事態に対応できないという理由で普天間飛行場のグアム移設に反対した。
すでにグアム島の面積の3分の1をアメリカ軍事基地が占めている。島の北部には3,000m級滑走路が2本あるアンダーセン空軍基地が存在する。沖縄本島に駐屯しているアメリカ海兵隊8,000人がグアムに移駐する予定であり、それに加えて普天間飛行場の移設となるとグアムの負担は大きい。沖縄本島の半分しかないグアムでは普天間飛行場の移設は困難であることが明確になってきた。
沖縄の構造的差別を主張する市民団体は、日本政府に差別されている沖縄民族、アイヌ民族と同じようにグアムの先住民・チャモロ族もアメリカに差別されている民族であると主張し、チャモロ族の、「米軍増強は、われわれが現在甘んじている政治的立場とあいまって、先祖代々受け継いだ文化と民族の誇りに対するジェノサイド(大虐殺)をもたらす」という主張に同調し、普天間飛行場のグアム移設に強く反対している。
アメリカ政府の反対、グアム現地の反対に加え、沖縄の構造的差別を主張する市民団体の反対もあり、グアム移設の主張は小さくなっている。
グアム移設は不可能である。




普天間飛行場の「県外移設」は可能か
県民の多くは「県外移設」に賛成している。仲井真知事や沖縄自民党は「県外移設」を公約にしている。沖縄民主党も「県外移設」を主張し、多くの知識人も「県外移設」を主張している。「県外移設」に反対の立場であるはずの共産党や社民党も「県外移設」に表だって反対はしていない。
沖縄の大勢は「県外移設」であるが、県民の大多数が賛成するだけでは「県外移設」を実現することはできない。県外移設が実現する絶対的な条件がある。普天間飛行場の受け入れを承知する県がなければならないことだ。移設場所の住民が賛成し、住民が住んでいる市町村が賛成し、県が賛成し、アメリカ政府が賛成して初めて普天間飛行場の移設は実現する。普天飛行場受け入れに住民、市町村、県が賛成するところが本土にあるとは思えない。
県外移設を最初に検討したのは小泉元首相であった。辺野古海上移設は困難だと考えた小泉元首相は県外に普天間飛行場の移設場所を探した。しかし、見つけることはできなかった。本土への移設を断念した小泉元首相は辺野古の陸上に普天間飛行場を移設する方針に転換した。小泉元首相の意思を受け継いだ自民党首脳は紆余曲折を経ながらV字滑走路の飛行場にすることで辺野古、県、名護市の了承を得た。しかし、移設工事を始める前に、政権が自民党から民主党に変わり、新しく首相になった鳩山氏は「最低でも県外移設」を公約にした。しかし、鳩山元首相は本土に普天間飛行場を移設できる場所を見つけることができなくて辺野古移設に戻った。
自民党・民主党の両政府の最高権力者である首相が県外に移設場所を求めながら結局は見つけることができなかった。この事実は重い。この事実は「県外移設」は不可能に近いということを示している
「県外移設」を主張する沖縄の政治家や知識人は多い。しかし、彼らは自民党、民主党の両政府の首相が移設場所を見つけることができなかった事実を軽視している。彼らは政府や官僚が「県外移設」を真剣にやろうと思えば実現すると主張し、「県外移設」ができないのは政府や官僚が真剣に取り組んでいないからだと主張している。多くの県民は沖縄の政治家や知識人の影響で政府がその気になれば「県外移設」ができると信じている。本当にそうだろうか。

馬毛島は鹿児島県にある無人島である。住民の住んでいる島から12キロメートル離れた場所に馬毛島はある。馬毛島は米軍空母艦載機の離着陸訓練の候補地になっていた。完成すれば嘉手納飛行場の戦闘機も馬毛島で離着陸訓練をやる予定であった。
「馬毛島」のある鹿児島県西之表市の市議会議員らが来県し、嘉手納飛行場を視察した。市議たちは嘉手納飛行場の戦闘機のごう音に驚いた。嘉手納飛行場を視察した市議たちを中心に馬毛島の離着陸訓練への反対運動が広がった。県や地元4市町の反対によって馬毛島の滑走路の建設は中止している。
12キロも離れている無人島の「馬毛島」で戦闘機の離着陸訓練する滑走路を造ることでさえ反対するのが本土の住民たちである。沖縄の米軍基地反対派の人たちは米軍基地被害のひどさや海兵隊員の恐ろしさを本土の人たちに発信し続けてきた。だから本土の住民は米海兵隊がやってくることに恐怖し拒否反応が起こる。
普天間飛行場の大きさは馬毛島の離着陸訓練用滑走路の比ではない。普天間飛行場移転となると馬毛島と違って海兵隊もやってくる。住民の住んでいる場所から12キロメートルも離れている馬毛島の離着陸訓練用滑走路建設にさえ反対するのだから、普天間飛行場の移設ならもっと激しい反対運動が起こるだろう。西之表市の市議会議員らの「馬毛島」の陸上着陸訓練滑走路建設への拒否反応をみれば、本土の住民が普天間飛行場を受け入れるのは不可能であることがわかる。

普天間飛行場の本土移設にはもうひとつ重要な問題がある。普天間飛行場は海兵隊が使用する飛行場であるから海兵隊が駐留している沖縄から離れすぎた場所に移設することはできない。普天間飛行場の移設先は距離が限られている。与論島から徳之島、九州南部あたりが限界といわれている。しかし、その場所で受け入れ可能な場所がないのはすでに調査済みである。移設ができないという結論が出た地域に移設場所を探すことは不可能に近い。

県外移設論者たちのずるさ
政府は小泉首相時代と鳩山首相時代に「県外移設」をやろうとしたが移設場所を探すことができなかった。二度も「県外移設」に失敗した政府は「県外移設」を諦めて辺野古移設一本に絞っている。政府が今後「県外移設」を模索することはないだろう。日米両政府は辺野古に移設するまでは普天間飛行場を維持するつもりでいる。沖縄側が「県外移設」を政府に訴えても政府が動くことはありえない。

「県外移設」を断念した政府に「県外移設」を要求しても平行線が続くだけで、時間が無駄に過ぎていくだけである。
「県外移設」を実現する残された方法はひとつしかない。「県外移設」を主張する政治家、団体、識者、マスコミ等が一致団結して「県外移設場所」を探すことだ。移設候補地は国内だから情報は集めやすいし移設候補地に行き来するのも自由だ。「県外移設」を否定している政府に頼らないで、自分たちで移設先を探す以外に「県外移設」を実現する方法はない。
「県外移設」を主張する政治家、団体、識者、マスコミ等が「県外移設」を実現する会を結成して、全力で移設できそうな場所を調査するのが「県外移設」実現のための第一歩である。普天間飛行場の移設候補地を見つけたら、候補地の住民を説得して移設を承諾してもらう。住民の承諾を得たら政府と交渉する。このやり方が「県外移設」を実現する唯一の方法である。
しかし、今まで、「県外移設」を主張している国会議員、県知事を頂点とする沖縄の政治家や団体、マスコミ等が、政府は頼りにならないから自分たちで県外移設場所を探すと発言したことは一度もない。政府が「辺野古移設しかない」と断言しているのにもかかわらず、沖縄の「県外移設」を主張する人たちは自分たちで移設先を探そうとはしない。自分たちで移設場所を探そうとしないのはなぜか。理由ははっきりしている。国会議員、県知事を頂点とする沖縄の政治家や団体、マスコミ等は「県外移設」ができないという現実を知っているからである。馬毛島の例があるように本土の住民は米軍基地への拒否反応は強い。もし、「政府が探さないなら自分たちで探す」と宣言して県外移設場所を探したら、県外移設場所がないことを自分たちで明らかにしてしまうことになる。そして、「県外移設」の運動に自分たちで終止符を打ってしまう。国会議員、県知事を頂点とする沖縄の政治家や団体、マスコミ等はそのことを知っているのだ。だから、自分たちで普天間飛行場の県外移設場所を探すとは絶対に口に出さないのだ。

「県外移設」を主張し続けるためには、自分たちで移設場所を探さないことである。だから、誰ひとりとして「県外移設」場所を自分たちで探そうとは言わない。自分たちで探すとは言わないで、政府に「県外移設」を要求している間はいつまでも「県外移設」を主張することができ、県民の支持を集めることができる。「県外移設」を主張している人たちのずるさを感じる。
普天間飛行場の受け入れに賛成する住民は本土にはいない。普天間飛行場の「県外移設」は不可能である。
政治評論家の岡本行夫氏は普天間飛行場の県外移設は可能であるが、実現には20年かかると言っている。気の遠くなるような時間であり、実現しないのと同じである。20年後ならアジア全体が自由貿易地域になり、領土争いや武力対立は解消の方向に進んでいるだろう。中国の民主化もかなり進み、中国の脅威はゼロに近くなっているだろうから、沖縄の米軍基地は撤去しているか撤去の方向に進んでいるだろう。


辺野古移設は可能か
稲嶺名護市長は、辺野古移設は不可能といい、仲井真知事も辺野古移設は不可能と言っている。仲井真知事が辺野古移設は不可能であるという根拠は辺野古移設反対派の稲嶺氏が名護市長に当選し、市議会も革新系の議員が過半数になったからである。自民党である仲井真知事の本心は辺野古移設に賛成である可能性は高い。

辺野古が過疎化するのは時間の問題である。それなのに、県も名護市も辺野古の過疎化を食い止める政策を示していない。過疎化阻止を県にも名護市にも頼ることができない辺野古区民が選択したのが普天間飛行場の辺野古移設である。辺野古に米軍のヘリコプター飛行場ができれば雇用が増える。米兵相手の商売も増える。辺野古飛行場を見学する観光客も増えるだろう。道の駅をつくれば辺野古飛行場を見学に来た人たち相手の商売もできる。将来、アメリカ軍が撤去すれば辺野古の飛行場を民間飛行場として使い、やんばるに観光客を直接呼ぶことができる。
辺野古の過疎化を食い止める方法が普天間飛行場の移設だと辺野古区民は考え、普天間飛行場の辺野古移設に賛成している。
地元の辺野古区民が移設に賛成しているのだから辺野古移設は可能である。全国で普天間飛行場の受け入れに賛成しているのは辺野古だけである。辺野古以外に普天間飛行場を移設できる場所はない。辺野古移設は可能である。

辺野古は米軍基地を受け入れて繁栄した過去がある
「銃器とブルドーザー」で土地接収している米軍に立ち向かい、島ぐるみの土地闘争が盛り上がっていた1956年に、辺野古は軍用地受け入れを決意した。その時の辺野古は久志村であり、名護市に併合されていなかった。
「どんなに反対しても銃とブルドーザーで土地を接収されるなら、むしろ受け入れを表明して、こっちの要求も聞いてもらおう」というのが辺野古が軍用地受け入れを決意した理由である。それは苦渋の選択であった。
一 農耕地はできる限り使用しない。
二 演習による山林利用の制限。
三 基地建設の際は労務者を優先雇用する。
四 米軍の余剰電力および水道の利用。
五 損害の適正保障。
六 不用地の黙認耕作を許可する。
辺野古はこのような要求を受け入れの条件にして米軍と交渉した。

「銃とブルドーザー」による米軍の土地接収については何度も報道され、体験談も数多く発表されている。米軍の強引な土地接収に対して島ぐるみの土地闘争が盛り上がったこともマスコミは頻繁に報道している。しかし、土地闘争のその後についてはほとんど報道していない。
苦渋の選択で軍用地を受け入れた辺野古に思わぬ奇跡が起こる、それは辺野古の史上空前の繁栄であった。人口も4倍に増えた。辺野古の繁栄は他の地域に影響を与え、基地を誘致する地域も現れた。
辺野古の繁栄は土地闘争にも影響を与え、米軍の土地接収に断固反対を貫く意見と地元や地主が受け入れるなら米軍と妥協点を探っていこうとする意見に分かれた。島ぐるみ闘争は分裂し、やがて衰退していく。
この事実についてはNHK取材班が出版した「基地はなぜ沖縄に集中しているか」に詳しく書かれている。この本を読むまで辺野古が米軍基地を受け入れた過去があったことを知らなかったし、土地闘争が分裂し衰退していったことも知らなかった。

今も中国・北朝鮮と周辺国との緊張状態は続いている
2010年3月に韓国軍の艦船が沈没させられ、11月には北朝鮮が黄海の南北境界水域に近い韓国の延坪島を砲撃した。北朝鮮と韓国は停戦状態であって、戦争が終結したわけではない。まだ緊張状態が続いている。米軍が韓国に駐留していることが北朝鮮への抑止力となっている。
沖縄がアメリカから日本へ施政権が移り、日本が沖縄を防衛するようになると、領海の防衛力の弱い日本の弱点を見抜いて中国漁船団が尖閣諸島の領海で漁をするようになった。中国漁船の振る舞いは横暴になり、日本の巡視船に体当たりをくらわすほどになった。
中国はフィリピンやベトナムとも領海を巡って争っている。1995年には南紗諸島にあるミスチーフ礁に中国が進出し実効支配をした。
今度は南シナ海のスカボロー礁で中国とフィリピンの監視船が睨み合いを続けている。中国では「対話重視」より「実力行使」の声が日に日に大きくなっている。中国機関紙は、「弱小国でも強力な反撃に遭う運命にある」とフィリピンに圧力をかけている。
アキノ大統領は、「わが国の安全と主権が脅かされた時、米国と日本以上に頼りになる友はいない」と、領土紛争問題上の中国の脅威から日米両国が守ってほしいとアピールした。
フィリピン国軍と米軍が実施した第27回合同軍事演習は、過去最大規模の野戦合同演習となった。また、フィリピン政府は南沙諸島周辺海域の陸・海軍力増強に向け、約1億8400万ドルを追加投入した。
中国の外交部は7日、南沙諸島は中国固有の領土であると強硬な態度で主張、フィリピン側の主張を真っ向から否定した。中国は国連に文書を提出、フィリピンが1970年代以降、中国の領土である南沙諸島に侵入を続け、領有権を主張していることを非難し「フィリピンの主張は一切受け入れられない」と強い態度を示した。
中国海軍の各大艦隊は最近、実戦訓練を強化しており、特に南沙諸島を管轄している南シナ海艦隊の駆逐艦分隊は、水上戦闘艦総合攻防訓練を実施した。また、多くの漁業監視船を南シナ海に送り込み、主権を強くアピールしている。中国初の空母「ヴァリャーグ(瓦良格)」号のテスト運航が今年の夏に実施された後、南シナ海艦隊に配属されるという噂もある。
中国とフィリピンとの南沙諸島(スプラトリー諸島)をめぐる領土紛争がエスカレートしており、双方ともに対抗措置をちらつかせ、一発触発の状態に陥っている。

ベトナム政府は中国と領有権を争う南シナ海の南沙(英語名スプラトリー)諸島にある仏教寺院を修復し、僧侶を常駐させる方針を決めた。ベトナムの領有権主張の一環である。初の国産警備艇も就役し、南沙諸島をにらむ南部の海軍基地に配備されており、中国への“反撃”が着々と進んでいる。
230ともいわれる島礁からなる南沙諸島のうち、ベトナムは17島程度の領有権を主張している。この中の複数の島には、ベトナムが1975年まで使用していた寺院が残っている。だが、無人のまま今や朽ち果て、政府は修復と6人の僧侶の派遣を決めた。
直接は、南沙諸島を沖合に望むニャチャンを省都とする、南部カインホア省の人民委員会が主導。6人の僧侶は同省内の別々の寺院に帰属している。それぞれが複数の島に寺院の僧院長として近く、赴く予定で、政府による船の手配を待っているところだという。
今回の決定について、消息筋は「ベトナムの領有権を、中国に認めさせるための努力の一環だ」としている。南沙諸島では1988年、中国、ベトナム両軍が衝突し、複数のベトナム兵が死亡した。僧侶らは、そうした「ベトナム領内で命を奪われた兵士たちの魂も鎮めたい」という。
軍事力に勝る中国は領海を広げていった。中国と周辺国との対立は緊迫が増しており、韓国、台湾、フィリビン、ベトナムはアメリカ軍の助けを望んでいる。もし、アジアにアメリカ軍が駐留していなければ、北朝鮮と韓国、中国と日本の領海問題、中国と台湾問題、フィリピンやベトナムとの領海問題が紛争に発展する可能性が高くなる。

このように中国と周辺諸国とは領土・領海紛争が続いている。北朝鮮や中国に対抗するために韓国、日本、台湾、フィリピン、ベトナムなどの国々はアメリカを頼っている実情がある。
沖縄は、北は北朝鮮から南はフィリピンまでの扇の要の位置にあり、米軍と周辺国との軍事連携には重要な場所である。
アメリカ軍は中国の周辺国との軍事連携で中国、北朝鮮を抑止しようとしている。だから、海兵隊は沖縄から周辺国に出かけて軍事訓練をしている。扇の要に位置する沖縄の米軍基地が周辺国との軍事連携をすることによって中国への抑止力を保っている。アジア情勢をみれば普天間飛行場は必要であることがわかる。
抑止力は海兵隊だけにあるのではなく、アメリカ空軍、海軍、海兵隊と周辺国の連携にある。

米軍基地があるから戦争に巻き込まれない
「米軍基地があるから戦争に巻き込まれる」というのが革新系の政治家や知識人等が米軍基地撤去を主張する根拠である。ところが戦後66年間米軍が駐留し続けているのに沖縄は一度も戦争に巻き込まれていない。戦争に巻き込まれたことが一度もないどころか、沖縄が戦争に巻き込まれそうになったことさえ一度もない。
戦後のアジアの歴史をみると「米軍基地があるから沖縄は戦争に巻き込まれる」ではなく「米軍基地があるから沖縄は戦争に巻き込まれなかった」と考えるのが正しい。
66年間もの長い間一度も沖縄が戦争に巻き込まれたことはなかったのに、「米軍基地があるから沖縄は戦争に巻き込まれる」というのは現実を正しく認識していない。
私は子どもの頃に、「戦争がはじまったら沖縄が真っ先に攻撃される」と言う話を何度も聞いた。嘉手納飛行場と嘉手納弾薬庫の隣で生活していた私はびくびくしたものだ。しかし、沖縄を攻撃するということはアメリカと戦争を始めることである。世界最強の軍事力を誇るアメリカに戦争をしかける国はアジアにはない。アメリカと戦争をする可能性のある国といえば中国が第一候補にあげられるが、中国がアメリカと戦争をしようとしたことは一度もなかった。アメリカが沖縄を統治していた時は、中国漁船が尖閣諸島に侵入することはなく、沖縄の漁師にとって安全な漁場であった。中国漁船が尖閣諸島に侵入するようになったのは沖縄の施政権が日本政府に移ってからである。中国はアメリカ軍を刺激することは避けてきた。アメリカ軍が撤退してから中国はフィリピンと領海争いをしている。
中国が、アメリカ軍が駐留している沖縄を攻撃する可能性は全然なかった。「戦争がはじまったら沖縄が真っ先に攻撃される」といっても、アジアにアメリカと戦争をする国はなかったのだから、「戦争がはじまったら」という仮定は成り立たない。

沖縄にヘリコプター基地は必要
普天間飛行場はヘリコプター基地である。ヘリコプターは空中で停止したり狭い場所にも着陸できるので民間では救急ヘリや山岳の遭難者の救助や小さな離島への物資移動に活躍している。
アジアに駐留しているアメリカ軍が訓練中に事故を起こしたり、台風や地震などで被害が起こった時になくてはならないのがヘリコプターである。アメリカ軍がアジアに大規模に駐留している限りヘリコプター基地はなくてはならない。普天間飛行場には抑止力がないから沖縄に普天間飛行場を設置する必要はないという意見があるが、ヘリコプター基地は抑止力だけが目的ではなく、救助や極地への物資輸送など平常時でも重要な任務を担っている。極地的な紛争や戦争が起こり、アメリカ軍が介入する時はヘリコプターがなくてはならない存在となる。アメリカ軍にとってヘリコプター基地は必要である。
普天間飛行場の辺野古移設は不可能であると発言する米議員でも辺野古移設の代替案として嘉手納飛行場など県内移設を提案しているのであり、県外や国外への移設提案はない。辺野古移設に反対している米議員もヘリコプター基地は沖縄に設置しなければならないという考えなのであって県外移設や国外移設を主張しているのではない。

これまで検討してきたことを根拠にすれば、普天間飛行場は辺野古に移設するしかない。メア氏は辺野古移設ができなければ普天間飛行場は固定化すると発言した。それが現実論である。県内ではメア氏の発言に反発する意見が多いが、ほとんどが感情論である。政治は現実問題であり、感情論や理想論では解決できない。

辺野古移設と嘉手納飛行場以南の米軍基地の撤去、在沖海兵隊8000人のグアム移動は橋本元首相がアメリカ側の抵抗をねじ伏せて実現したことを忘れてはならない。橋本元首相は沖縄の基地負担の軽減には並々ならぬ思いがあった。ところが、嘉手納基地以南の米軍基地撤去には賛成であるが、普天間飛行場の辺野古移設には反対という、現実のアジア情勢を無視した主張のために、16年間も普天間飛行場はこう着状態が続いている。
中国が共産党一党独裁国家であり、尖閣諸島の所有権を主張し、日本の領海を中国の領海であると主張する限り、中国は脅威であり、アメリカと共同で中国の圧力を抑止する必要がある。アメリカ軍がアジアに駐留している間はヘリコプター基地は沖縄に必要である。
普天間飛行場の県外移設・国外移設は不可能であり、地元の辺野古が普天間飛行場の受け入れに賛成しているのだから、辺野古意外に移設できる場所はない。



普天間飛行場移設問題とは関係なく、
一日も早い、
普天間第二小学校の移転を訴える。

  

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2015年06月24日

「沖縄に内なる民主主義はあるか」第四章 基地経済と交付金の沖縄経済に占める深刻さ全文


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「沖縄に内なる民主主義はあるか」
第六章 八重山教科書問題はなにが問題だったか全文
第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない全文
第四章 基地経済と交付金の沖縄経済に占める深刻さ全文
第三章 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の真っ赤な嘘全文
第二章 命どぅ宝とソテツ地獄全文
第一章 琉球処分は何を処分したか全文

  
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第四章 基地経済と交付金の沖縄経済に占める深刻さ

県から出ていくお金・県に入ってくるお金
私たちの家には冷蔵庫、テレビ、クーラー、パソコンなどの電化製品がある。これらの電化製品は県内で製造したものではない。県外で製造されて県内に入ってきた商品である。商品が県内に入ってきて私たちが買うということは、商品と引き換えに商品の仕入れ値と等価のお金が県外に出ていくことになる。
電化製品だけではなく食料品や車などさまざまな商品が県外から県内に入ってくる。同時に商品の仕入れ値と等価のお金が県外に出ていく。
平成二十二年に発表した沖縄県企画部の統計によると、平成二十年度(2008年)の県の移入・輸入は、

移(輸)入  1兆4012億5200万円
商品  1兆3427億9300万円
原油  1507億1900万円

である。平成二十年は県外から1兆4012億5200万円分の商品と原油が県内に入ってきた。それらの輸入・移入商品が私たちの生活を支えている。1兆4012億5200万円分の商品と原油が入ってきたということは同時に1兆4012億5200万円のお金が県外に出て行ったことになる。
お金は天から降っては来ない。地から湧いても来ない。1兆4012億5200万円のお金が県外に出て行ったということは県外からそれだけのお金が入って来なければならない。

県外から県内にお金が入ってくるお金には移出、輸出があり、観光収入があり、基地関係の収入があり、政府からの交付金がある。

県外から入ってくるお金
A 移(輸)出     3943億0500万円
B 観光収入    4298億8200万円
C 米軍基地からの要素所得 1397億4500万円
軍雇用者所得 520億3500万円
軍用地料    783億7500万円
米軍等への財・サービス提供 686億5100万円
D 交付金     2574億6100万円

沖縄のリアルな第一次・第二次産業の経済力
第一次・第二次産業の移(輸)出額は3943億0500万円である。一方県外からの移(輸)入は1兆4012億5200万円である。
移(輸)出と移(輸)入の差は、

1兆3427億9300万円―3933億5300万円
=9494億4400万円

マイナス9494億4400万円ある。移(輸)出と移(輸)入の差は大きく、移(輸)入金額は移(輸)出金額の約3・4倍である。沖縄の一次二次産業が非常に弱いことを示している。
県の移(輸)出入の赤字は9494億4400万円であるから、もし、県外からの収入が移出・輸出だけだとすると赤字額の9494億4400万円の商品を私たちは買うことができないことになる。実に70パーセントの移入・輸入製品が私たちの生活から消えることになる。それが沖縄の第一次二次産業のリアルな経済力である。私たちの生活から70パーセントの製品が消えれば私たちは戦前の生活レベルに戻ることになる。恐らく沖縄県の人口は激減し、ソテツ地獄を生きていた琉球王国時代の農民生活のレベルになるだろう。
戦前の沖縄の輸出品は砂糖が八割を占めていた。砂糖以外には泡盛、パナマ帽子、畳表、鰹節、漆器くらいであった。戦前は米軍基地からの収入はなかったし日本政府からの交付金もほとんどなかった。戦前の沖縄の人たちがいかに貧しかったか。貧しい農家は家族が生きるために子供を身売りした。男は糸満へ、女は遊女として辻の遊郭に売られた。明治以後、人身売買は禁じられていたが、沖縄では半ば公然と人身売買が行われていた。
沖縄の土地は農業に向いていないし、沖縄には石油や鉄鋼などの資源が埋蔵しているわけでもない。沖縄は元々豊かになれる自然環境ではない。だから、琉球王国時代から戦前まで沖縄
の民は貧しかった。

観光収入で補填してもまだ赤字
県外からお金が入るケースには製品の移(輸)出以外に観光収入がある。観光収入は県外からお金が入るので移(輸)出入の赤字を補填することができる。観光収入は4298億8200万円である。
移(輸)出入の赤字から観光収入を引くと、

9494億4400―4298億8200万円
=5195億5800万円

観光収入で移(輸)出入の赤字を補填しても県の赤字は計5195億5800万円である。移(輸)出と観光収入が沖縄の産業であり、沖縄の産業は毎年5195億5800万円くらいの赤字を出している。観光収入を合わせても移入・輸入の63%しかない。もし、県外からの収入が第一次・二次産業製品の移出・輸出と観光産業だけであるとすると、私たちの生活から37%の移入・輸入商品が消えることになる。私たちはこの現実を直視するべきである。沖縄の産業は未熟であり、5195億5800万円という莫大な赤字を生み出しているのだ。産業を発展させて赤字を縮小させていくのが沖縄経済の重要な課題である。
この赤字は那覇新都心の経済が補填することはできない。観光収入は県外から県内にお金が入ってくるが、那覇新都心で1000億円の売り上げがあったとするなら、商品の原価が60%であれば600億円ものお金が県外に流出するのが那覇新都心の経済である。

やんばるでしいたけ栽培が始まった。大量生産する計画だという。県内で売られているしいたけの99パーセント以上が県外からの移(輸)入品である。やんばるのしいたけの生産が増し、県内の半分の売り上げに達したら、県外からの移(輸)入を50パーセント減らすことになる。それは移(輸)出に匹敵するものであり、県全体の経済発展に寄与することになる。大量に生産をして移(輸)出するようになればますます県経済の発展に寄与する。金額は小さくても、このようなベンチャー企業を多く輩出することが沖縄の自立経済を促進することになる。

基地経済と交付金の沖縄経済への貢献
観光収入で補填しても、まだ5195億5800万円の赤字である。県外から入ってくるお金には第一次・二次産業製品の移出・輸出、観光収入の他に米軍基地関連の収入と政府からの交付金がある。

米軍基地からの要素所得 1397億4500万円
軍雇用者所得  520億3500万円
軍用地料    783億7500万円
米軍等への財・サービス提供 686億5100万円

基地関係総収入の合計 3388億0600万円

3388億0600万円―5195億5800万円
=マイナス1807億5200万円

基地関係総収入を補填しても1807億5200万円の赤字である。最後に県に入ってくるお金として政府からの交付金が2574億6100万円ある。

2574億6100万円―1807億5200万円
=767億0900万円

交付金を補填して、やっと767億0900万円のプラスになる。

移(輸)出  3943億0500万円
観光収入  4298億8200万円
基地関係総収入 3388億0600万円
交付金(純)  2574億6100万円

移(輸)出が3933億5300万円であるにも拘わらず移(輸)入が1兆3427億9300万円と計9494億4400万円の貿易赤字が出せるのは、観光収入、基地関係収入、交付金(純)が1兆0261億4900万円あるからである。観光収入、基地関係総収入、交付金(純)の三大収入が沖縄経済を大きく支えている。

(注)観光産業はホテルの内装や交通の車や燃料、観光客が買う商品などには県外から仕入れたものが多いからそれらの原価は県外に流出する。それにホテルが本土資本であれば収益が本土に流れる。観光収入の最低3割くらいのお金は県外に出ていくと考えられる。4298億8200万円は7割(3009億1740万円)程度が移(輸)入の補填になるのではないかと思われる。交付金も建設工事の多くが本土資本に入札される。利益の多くは本土企業に流れる。資材も県外からの移輸入が多いから交付金の中から県外に流出するお金がかなりあるだろう。しかし、軍雇用員の給料は全部を軍雇用員が受け取る。軍用地料も直接軍用地主に支払われる。軍用地主は4万人以上いて軍用地料の平均は100万円以下であるから軍用地料は生活費に使う率が高い。観光収入や交付金に比べて基地関係総収入のお金が県内で流通する率は高いと思われる。

基地経済がGDPの5%しか占めていないと経済効果の低さを強調する沖縄の識者や政治家は多いが、GDPからみれば観光産業も6%くらいであり基地経済と大差はない。GDPは県民所得の総合計だから、県経済を下で支えている経済と那覇新都心経済のように下の経済に支えられている上の経済が混合している。GDPで基地経済の効果を判断するのは間違っている。

那覇新都心の経済は県外へお金を流出させる経済である。那覇新都心の経済はお金を県内に流入させる基地経済に代わる存在にはなれない。県議会事務局が那覇新都心の経済が基地経済の代わりになると想定したのは根本的に間違っている。
県議会事務局が那覇新都心の経済効果を基地経済の代わりになるとしたのは根本的な誤りであり、根本的な誤りは経済政策の大きな誤りを生む可能性がある。

基地経済に代わることができる産業は県外からお金を流入させる観光産業や生産・製造業や商品をアジアから仕入れて本土に売る卸業やコールセンターやIT産業のような本土へのサービス業である。

T県議会長の主張の根拠は崩壊した
T県議会長は、県議会事務局の試算で基地が全部返還した時の経済効果が年間9155億5千万円に上るとの試算結果を根拠にして、復帰後1972年~2011年の間に沖縄に投じられた国の予算(9・9兆円)の少なさを指摘している。
「振興策について政府内からは『沖縄を甘やかしてはいけない』という議論があるが、試算を見れば39年間で9・9兆円とは、支援策としてあまりにもたりないことは明白だ」
T県議会長は復帰後、米軍基地が全て撤去されていた時の方が沖縄の経済は数倍も発展していたと主張し、「ポスト振興策の議論が始まる中、米軍基地による経済影響を正確に把握し、沖縄の自立経済を確保するため国の支援を求める根拠としたい」と述べている。
T県議会長、「基地が全部返還した時の経済効果が年間9155億5千万円に上る」という試算は那覇新都心の経済効果を根拠にしている。那覇新都心の実質的な県への経済効果はゼロである。那覇新都心の実質的な県への経済効果はゼロなのであるから9155億5千万円の経済効果というのは本当はゼロである。T県議会長が国の支援が少ないという根拠は崩壊した。
もし、復帰した時に米軍基地が撤去され、政府の援助も少なかったら、沖縄はどうなっていただろうか。
基地がなくなれば軍用地料はなくなり、軍雇用員も全て解雇されて、アメリカ軍兵士や家族からの収入はゼロになる。復帰のころの沖縄の経済は基地経済以外はさとうきびやパインなどの農業が中心であった。さとうきびやパイン産業は沖縄を貧困にするだけである。沖縄だけの経済力では観光産業が発展するためのホテルや交通やビーチ開発などに投資する資本金がなかった。観光産業は今のように発展していなかっただろう。米軍基地が撤去していたら沖縄の人口は半減して沖縄全体が過疎化していた可能性が高い。
沖縄は農業に向いていないし、資源もない。産業が育つには最悪の地である。戦前までの沖縄の経済を見れば一目瞭然である。戦後の沖縄の経済発展は経済力が世界一位のアメリカと世界二位の日本の莫大な援助があったからであり、そのお蔭で第一次、二次産業が発展しなくても、第三次産業が発展して140万人の人間が住めるようになったのである。
今までがそうであったように、これからも米軍基地は縮小し続け、いずれはゼロに近くなる。政府の高額交付金もなくなるだろう。沖縄の将来のためには県全体がプラスになる産業を開発し発展させなければならない。沖縄の将来に責任のある県議会が那覇新都心の経済論を振り回して、基地を返還するだけで県経済は発展していくというたわごとを言っているようでは沖縄の将来は危ういものだ。

沖縄の経済発展に米軍基地が足を引っ張っているというのは嘘
T県議会長は、
「ポスト振興策の議論が始まる中、米軍基地による経済影響を正確に把握し、沖縄の自立経済を確保するため国の支援を求める根拠としたい。」
と述べているが、自立経済の確保は農業や工業の生産力を高めることである。県内への供給力を高めるとともに移出・輸出に貢献するような企業の成長にある。また、観光とかコールセンターなどの県外からの収入を高める産業の成長が必要である。生産する企業、県外からの収入を高める企業が沖縄の自立経済を高めるのであり、那覇新都心のような消費経済は沖縄自立経済の発展とは関係がない。
沖縄の経済を発展させる工場や会社の立地場所は米軍基地とは関係がない。観光ホテルや観光場所は米軍基地以外の場所に確保されているし、観光客を増加させるには観光開発や観光客の誘致努力にかかっているのであって、米軍基地の存在が邪魔をしているわけではない。(嘉手納飛行場が一望できるかでな道の駅は連日観光客で賑わっている。米軍基地も観光産業に寄与している)
沖縄の工業関係の事業所は減少状態にあり、米軍基地がなければ工場の場所を確保できないで困るという状態ではない。それどころか、すでに工場を立地する場所は確保されている。
国や県は基地経済からの脱却を目指して、埋め立て事業に1880億円を投じて特別自由貿易地域をつくった。ところが特別自由貿易地域への入居社は23%しかなく、広大な空き地が広がっているのだ。入居が少ない原因は沖縄の電気料金、物流コストが高いことである。米軍基地の存在とは関係のない問題である。それに沖縄には製造業の歴史が浅いので技術力がなく、製造業を発展させるには本土の企業を誘致するしかないというのも、沖縄の製造業が脆弱である原因だ。
県議会事務局の「米軍基地があるゆえに経済が発展していない」と主張するのは、米軍基地が返還された小録、ハンビータウン・美浜、那覇新都心のようなサービス業が飛躍的に発展した地域を根拠にしているからである。このような消費のためのサービス業は県の実質的な経済成長には関係がない。返還された基地跡に新たな観光客を呼ぶような設備をつくるのなら経済効果があるが、那覇新都心のような街をつくるのなら経済効果はない。
那覇新都心の経済は経済を発展させるのではなく、経済が発展して人口が集中した場所で発展する消費経済である。
基地経済に代わる経済は生産業や観光産業のように県外からお金を流入させる企業である。那覇新都心のような販売・サービスの経済は基地経済の代わりにならない。だから県の経済発展に米軍基地があるないは関係ないし、米軍基地があるから沖縄の経済は発展しないというのは真っ赤な嘘である。

基地経済に代わる経済はベンチャー企業
基地経済に代わる経済は、観光産業、IT産業、製造業や新しいベンチャー企業が造りだす経済であり、米軍基地が返還された場所につくった那覇新都心のような経済ではない。沖縄経済の問題は基地を返還するかしないかではなく。それぞれの産業が質的な変革をして大きく成長するかしないかである。

○農業
 さとうきびやバイン産業から脱皮して、農業の大規模化、専門化、加工技術向上が重要だ。それに本土や国外への販売網の開発ももっと積極にやるべきである。
キク栽培、かぼちゃの大量生産、久米島の冷熱農業・県産シイタケ量産栽培、植物工場レタス、月桃からの化粧水。アグー豚のブランド化等々。
○水産業
加工品の開発。水産業の大規模化、専門化、加工技術向上が重要だ。
マグロのブランド化・日本一を誇る久米島の車エビ・シラヒゲウニ養殖企業、スヌイ、アーサの加工品等々。
○工業多くのベンチャー企業が誕生している。県は有望なベンチャー企業を強力に援助し、成長を促進するべきである。本土企業の沖縄進出も増加しているが、まだ少ない。もっと誘致運動に力を入れるべきだ。
○本土からの進出
昭和金型沖縄進出・東京計装県沖縄内進出・電気バス製造等々。
○台湾企業とのタイアップ
蛍光灯型LED灯製造。
○沖縄ベンチャー企業
センダンから薬品・ガソリン車をEV車に・県産カバン全国出荷へ・県産月桃化粧品・小型潜水艦海外販売・水中可視光通信等々。
○IT産業は特に有望である
沖縄のIT企業は、216社が県内進出している。2011年度生産額は推計3165億円となり、06年度調査の2252億円に比べ約40%増となった。雇用3万2985人である。10年後は1・8倍を目標としている。

経済を発展させる第二次・三次産業は工業用地として埋め立てた造成地やすでに存在する空き地や建物で場所は確保できる。米軍基地跡である必要はない。
肝心なことはベンチャー企業が増えることと成長することである。うるま市の特別自由貿易地域にある金型技術センターを中心とした県内企業など約15社がマイクロEV(電気自動車)を完成させた。沖縄の製造業も発展している。
観光産業、IT産業、製造業、農業の全体が発展することが大事だ。人間には向き不向きがある。観光業だけ発展しても沖縄の人間のそれぞれの才能を生かすことにはならない。ITに向いている人間はIT企業に就職し、製造業に向いている人間は製造業に就職できるように幅広く産業を育てることが大事だ。
中国や東南アジアの経済成長が沖縄の経済発展に大きく影響するだろうし、東南アジアへの進出を県は強力に推進するべきだ。
沖縄の米軍基地は社会主義国家中国への抑止力として存在しているのであり、沖縄経済を発展させるために存在しているわけではないし、経済の発展を阻害するために存在しているわけでもない。
米軍基地が存在するゆえに戦後の沖縄の経済はめざましく発展した。それは認めるべきである。ただ、沖縄の経済の発展に寄与する意思のない米軍基地は中国の脅威が低くなれば減少し、中国が民主主義国家となり脅威がなくなれば沖縄の米軍基地のほとんどは撤去するだろう。
沖縄経済にとって米軍基地は徐々に撤去することがいいことである。今まではそうであった。しかし、嘉手納飛行場以南の米軍基地すべてを撤去するのは、今までにない広範な米軍基地撤去である。県が経済対策を誤れば沖縄経済が衰退する可能性がある。

泡瀬ゴルフ場にイオンモールが建つ予定であるが、そうなれば美浜、ハンビータウンの客がイオンモールに流れ、美浜の経済は下降する可能性がある。県や市が、返還されるすべての場所を那覇新都心のように住宅とサービス業中心の街を計画しているならば沖縄経済は大きく減速し、崩壊の危機に直面するだろう。
観光ホテルを増やせば観光客が増えるわけではない。今のところ観光客を増やす有効な方法は外国資本によるホテル産業の参入とカジノであろう。基地返還跡地はカジノ以外にも経済を発展する方法があるのか。
県は県議会事務局の全部の米軍基地が返還されれば、9155億5千万円の経済効果があるというでたらめな試算を撤回して、早急に嘉手納飛行場以南の米軍基地が返還される跡地の経済効果を何通りもシミュレーションをして、効率的な経済発展の計画を立てるべきである。
  

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2015年06月24日

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第三章 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の真っ赤な嘘

2010年9月11日、琉球新報に「全基地返還で年9155億円 経済効果2.2倍に」の記事が掲載された
県議会(T議長)は10日、在沖米軍基地がすべて返還された場合の経済及効果の試算を発表した。全面返還の生産誘発額は年間9155億5千万円。一方で現状の基地が沖縄経済にもたらしている生産誘発額は軍用地料などの基地収入から基地周辺整備費などの国の財政移転、高率補助のかさ上げ分までを含め年間4206億6100万円にとどまる。全面返還されれば経済効果は2・2倍になると試算した。
 基地の経済効果について高率補助のかさ上げ分を含んだ試算は初めて。嘉手納以北の基地返還と周辺海域の漁業操業制限を解除した場合の経済波及効果の試算も初。T議長は「他府県からは基地があるため国からの財政移転が相当あると思われているが、実際には基地あるがゆえの逸失利益が相当大きい。国にも振興策の中で検討するよう求める」と述べた。
 雇用面も好影響が生まれ、現状の基地関連の2・7倍となる9万4435人の雇用が生まれるとした。
 基地がもたらす効果は高率補助のかさ上げ分(2008年度実績)以外は03~07年度の5年の平均値。軍用地料や基地内工事などの直接の投下額は3255億8400万円とした。
 全面返還され跡地利用された場合の生産誘発額は総額年間4兆7191億400万円だが、県内の他地域からの需要移転(パイの奪い合い)などの影響を差し引いた割合は総額の19・4%と推計し、全面返還効果を算出した。
〈新報解説〉かさ上げ分算入が特徴 振興策の議論焦点(Y・S記者)
第三章 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の真っ赤な嘘
県議会がまとめた基地の経済効果試算は基地収入以外に沖縄振興特別措置法に基づく高率補助のかさ上げ分を算入したのが特徴だ。高率補助は本来、戦後、日本の施政権から切り離されて生じた格差の是正が目的。基地とのリンクではないとされてきた。しかし今試算であえてかさ上げ分を加えたのは「沖縄は基地のおかげで国からの予算が潤沢だという誤解が国にも他府県にもある」(T県議会議長)との思いからだ。同試算では、返還後の跡地利用のインフラ整備や建築投資などは「期間や投資額が予測困難」として含めていない。返還後、他地域からの需要移転も那覇新都心や北谷の事例から単純合計の19・4%と厳しく推計している。現状の経済効果はかさ上げ分などを盛り込んで多めに、全面返還の推計値は少なく見積もっても経済波及効果は2・2倍の格差が生じる。今後は基地あるがゆえの逸失利益を新たな振興策の議論にどう乗せていくかが焦点だ。ただし同試算は県が条件設定の難しさを理由に難色を示し、議会事務局が代わって算定した。基地が経済発展の阻害要因になっていることを内外に認識させるためにも、県の積極姿勢が望まれる。

県議会事務局が9155億5千万円の試算結果を発表
県議会事務局(T議長)は、もし、米軍基地がすべて返還された場合の経済効果は年間4兆7191億400万円であると具体的な数値の試算を出した。試算の内訳は嘉手納基地の以南では9109億6900万円であり、嘉手納基地の以北の経済効果は3兆7350万円、100ヘクタール以下の小規模面積施設730億9400万円と試算した。合計すると4兆7191億400万円の経済効果になるという。しかし、現時点の県内経済規模で実現可能な経済効果は、全部返還した効果の19・4%にとどまるとして、年間9155億5千万円の経済効果に上るとの修正試算結果を県議会事務局は発表した。米軍基地から現在生じている経済効果の2・2倍に当たるという。

雇用効果は9万4435人
県議会事務局は雇用効果も試算している。県議会事務局によれば、米軍基地があるために生じる雇用効果3万4541人に対し、全部の米軍基地が返還された場合の雇用誘発者数は48万6754人になるという。平成24年2月の県全体の就業者数は60万8千人である。10%の土地の米軍基地が返還されると雇用誘発者数が48万6754人にもなるというのは途方もない試算である。

県議会事務局は実現可能な雇用効果(19・4%)は米軍基地があるがゆえの効果より2・7倍に当たる9万4435人であるという。沖縄県の完全失業率は7・5%であり、完全失業者数は5万人である。基地が全部返還された時の雇用効果9万4435人は、米軍基地関連の雇用効果3万4541人と完全失業者5万人を合計した8万4541人を上回っている。基地関連雇用者と完全失業者すべて雇用しても、9894人の労働者不足になる。失業率ゼロどころか、県外から9894人の労働者を募集しなければならなくなる。ものすごい雇用効果である。
それにしても、奄美大島、八重山、宮古島には米軍基地はないが、米軍基地のある沖縄本島に比べて経済は発展していない(嘉手納基地以南の人口密度は東京都並みである)。米軍基地がないほうが経済は発展するという法則は沖縄本島だけにあり、奄美大島、八重山、宮古島にはこの経済法則はないのだろうか。
T県議会長は、県議会事務局の試算で基地が全部返還した時の経済効果が年間9155億5千万円に上るとの試算結果を根拠にして、復帰後1972年~2011年の間に沖縄に投じられた国の予算(9・9兆円)の少なさを指摘し、
「振興策について政府内からは『沖縄を甘やかしてはいけない』という議論があるが、試算を見れば39年間で9・9兆円とは、支援策としてあまりにもたりないことは明白だ」と述べている。
T県議会長は復帰後、米軍基地が全て撤去されていた時の方が沖縄の経済は数倍も発展していたと主張し、「ポスト振興策の議論が始まる中、米軍基地による経済影響を正確に把握し、沖縄の自立経済を確保するため国の支援を求める根拠としたい」と述べている。

那覇新都心の経済効果
那覇新都心とは、那覇市の北に位置する再開発地区のことである。1987年(昭和62年)5月に全面返還された米軍牧港住宅地区の跡地を造成したもので、高層マンションや大型ショッピングセンターや総合運動公園などが設置されている。
那覇新都心は天久、おもろまち、銘苅、上之屋などに広がり、面積は214㏊である。返還された土地を、県と市の要請を受けて地域振興整備機構(現都市再生機構)が土地区画整理事業を施行し、総事業費約1,110億円(土地区画整理事業費約508億円)をかけて造成した。
那覇市中心部のほとんどが那覇空港の制限表面区域内にあるために超高層ビルを建てることができない。ところが、那覇新都心は、那覇空港の制限表面の区域外となっているために超高層ビルを建てることができる。2009年(平成21年)時点では沖縄県で最も高い高層ビル(高さ89.8m)が那覇新都心にある。 平成12年から平成18年にかけて、那覇新都心地区の人口が2,577人から14,873人へと大きく増加した。那覇新都心は返還された米軍基地の中で最高の経済効果を生み出している。
県議会事務局は、「那覇新都心地区の経済効果は、プラスの生産誘発額が874億円であるのに対し、マイナスの生産誘発額は55億円と約16分の1であった。こうしたことから、地域経済的観点でみると那覇新都心地区の開発は県経済に大きなプラスである」と述べている。

県議会事務局による駐留軍用地が全て返還された場合における跡地利用等の経済波及及び効果9155億5千万円の根拠

A 那覇新都心における返還跡地利用事例・駐留軍用地に伴う経済波及効果等検討調査会報告書(平成19年度3月)返還後における立地企業による販売活動等の経済波及効果
生産誘発額 660億3800万円
所得誘発額 181億9600万円
雇用誘発者数 5702人
住民数 1万4873人 (雇用誘発者数1人につき住民は2・6人の試算となる)
B 那覇新都心の経済効果を参考に米軍基地全てが返還された時の県議会事務局による試算
生産誘発額 4兆7191億400万円
所得誘発額 1兆2420億9000万円
雇用誘発者数 48万6754人
住民数 126万5560人(著者の試算)

生産誘発額については、返還予定地の全てが那覇新都心並みに整備されるという前提に立ったものであり、雇用誘発者数については周辺地域における土地利用等を勘案・試算したものであるが、実現に向けては、同額程度の県内経済の拡大、もしくは県内他地域からの需要移転が必要にとなる点に注意が必要である。

C 現時点の県内経済による「全部返還効果」の実現可能性(推計値)は19・4%であると県議会事務局は発表している。
生産誘発額 9155億5000万円
所得誘発額 2409億7700万円
雇用誘発者数 9万4436人
住民数 24万5533人(著者試算)

「全部返還効果」の実現に向けては、必要条件として同額程度の県内経済の拡大が挙げられるが、現実問題として、経済拡大で対応できるのは一定程度分に限られ、それ以外の経済波及効果分については、県内地域からの需要移転(奪いあい)でまかなうことが想定され、結果として試算を下回るものと考えられる。そこで、現時点の県内経済力で、どの程度実現することが可能なのかを推計し、修正率として加味したと県議会事務局は発表している。

以上が県議会事務局の試算である。

超破格な県議会事務局の試算
県議会事務局は米軍基地の全部が返還された場合の試算を「那覇新都心並みに整備・発展する」という前提に立って出した。すると、全ての米軍基地が返還された時の経済効果は4兆7191億400万円になった。この金額は平成16年度の沖縄県のGDP3兆5,721億円をはるかに上回る。米軍基地返還跡地の住民数は126万5560人となり、県人口140万人に近い人数になる。
米軍基地は沖縄県の約10%の面積を占めている。県議会事務局の試算では約10%しか占めていない米軍基地が返還されたら、返還された米軍跡地の経済効果は県の平成16年度のGDP3兆5,721億円をはるかに上回る4兆7191億400万円であるというのである。土地の広さが約10%しかない米軍基地が返還されたら90%を占めている地域よりもGDPは1兆1470億4000万も高い経済効果が出ると県議会事務局は試算している。

4兆7191億400万円―3兆5,721億円=1兆1470億4000万

10%を占める土地のGDPが90%を占める土地のGDPより1兆1470億4000万も多いなんてあり得ないことであり、とうてい信じられないことである。まるで米軍基地には特別な宝物が埋まっているみたいである。しかし、米軍基地に特別な宝物が埋まっているはずはない。米軍基地の土地は米軍基地以外の土地と同じ普通の土地である。普通の土地でしかないのに約10%の土地が返還されて民間のものになれば4兆7191億400万円もの経済効果があり、平成16年度GDP3兆5,721億円よりもはるかに高いというのである。それはおかしい。ありえないことだ。県議会事務局の試算のやり方には大きな矛盾があるはずである。
県議会事務局は、米軍返還跡地には雇用誘発者数48万6754人が生ずる試算を出している。那覇新都心では雇用誘発者数の2・6倍が住民数であるから、私の試算では米軍返還跡地の住民数は雇用誘発者数48万6754人の2・6倍の126万5560人となる。県の人口の約140万人に近い人数である。信じられない試算である。
もし、126万5560人の県民が10%の米軍基地跡に移り住んだら、現在住んでいる90%の土地には14万人だけの県民が住むことになる。県議会事務局の試算は荒唐無稽というしかない。

県議会事務局は、「県内の他地域からの需要移転(パイの奪い合い)などの影響があり、「現時点の県内経済規模で実現可能な経済効果は、全部返還効果の19・4%にとどまる」と述べ、実現可能な経済効果は4兆7191億400万円の19・4%の9155億5千万円であるとしている。「現時点の県内経済規模」とはなんのことかは具体的には説明していないが、県議会事務局は、試算は4兆7191億400万円になるが現実的には約5分の1の9155億5千万円の経済効果であると述べている。
なぜ、パイの奪い合いだけで80%以上も経済効果が減るのか疑問であるが、それ以前に、10%を占める米軍基地が返還されれば、なぜ県のGDPをはるかに超える4兆7191億400万円という驚くべき経済効果の試算が出たのか、そして県全体の10%しかない返還地の住民数が126万5560人となるのか、県議会事務局の行った試算が正しい方法なのかについて納得のいく説明が必要であると思うが、県議会事務局は説明していない。

今まで返還された米軍基地は南部、中部、北部の沖縄本島全域にまたがる。全ての米軍基地が返還されたときの経済効果を試算するのならそれぞれの地域で返還された土地の経済効果を参考にして試算した方が正確である。
ところが県議会事務局は那覇新都心の経済効果をほとんどの米軍基地に当てはめたのである。今までに返還されたのは南部にもあるし、那覇市の小禄地区、北谷町のハンビーや美浜、読谷村の瀬名波通信所、読谷飛行場、トリイステイション南側の渡久地などがあり、恩納村にも返還された土地があるし、恩納村以北の市町村にも返還された土地はいくつかある。それぞれの地域で返還された土地を参考にして試算を出すことができる。それなのに県議会事務局はほとんどの米軍基地に那覇新都心の経済効果を当てはめたのである。その結果4兆7191億400万円という超破格な試算を出したのである。
県議会事務局は、全ての米軍基地が返還された場合の試算に那覇新都心の経済効果を当てはめることが適切であったのかを説明していない。本当に那覇新都心が適切であったのか疑問である。
県議会事務局の最初の試算の内訳では嘉手納飛行場以南の経済効果は9109億6900万円であり、嘉手納飛行場以北の経済効果は3兆7350万円となっている。平成16年度の沖縄県のGDPが3兆5,721億円である。県議会事務局の試算では嘉手納飛行場以北の経済効果が県のGDPを上回る。そんなことは絶対にありえないことである。
読谷飛行場跡は190㏊である。那覇新都心が214㏊であるから、土地の広さに大差はない。那覇新都心は高層マンションや大型ショッピングセンターなどがあり経済発展はめざましい。人口も急激に増えている。しかし、読谷飛行場跡地の人口は全然増えていない。建物は読谷村役所、読谷中学校、JAおきなわのファーマーズマーケットがあるだけで、他の土地は総合グラウンド以外はすべて畑である。収入は畑作より軍用地料のほうが高いから、読谷飛行場跡地は軍用地だったときのほうがはるかに収入は多かったはずである。トリイステイションの南側にある渡久地は返還されている。渡久地は一戸建て住宅や小さなアパート以外には畑が広がっている。ツタヤやマックスバリューなどの店舗はあるが那覇新都心に比べれば店舗の規模ははるかに小さい。
返還された読谷飛行場跡地の経済効果はマイナスであり、那覇新都心の経済効果より遥かに低い。読谷村にはまだ返還されていないトリイステイションや嘉手納弾薬庫がある。読谷飛行場跡や渡久地の経済効果をみれば、トリイステイションや嘉手納弾薬庫の経済効果に那覇新都心の経済効果をあてはめるのはあまりにも無謀であることがわかる。
読谷飛行場跡は農業ができるからある程度の収入が見込める。しかし、金武町の射撃練習場の山々には無数の爆弾が打ち込まれており、返還されても使用するのは不可能である。国頭村のゲリラ訓練場は山の中にあり、返還されても元の山に戻るだけであり、収入はほとんどないだろう。


県議会事務局のキャンプハンセンの経済効果試算
県議会事務局試算結果
生産誘発額 1754億円7100万円
所得誘発額 457億3200万円
雇用誘発者数 1万8841人
住民数 4万8986人(著者試算)

実現可能な経済効果試算(19・4%)
生産誘発額 348億円1737万円
所得誘発額 88億7200万円
雇用誘発者数 3655人
住民数 9503人(著者試算)

バズーカ、迫撃砲、野砲などの射撃訓練もやったことがあるキャンプハンセンの射撃訓練場には不発弾が多いだろうし、弾が撃ち込まれた山は返還しても使用できないはずなのに、キャンプハンセンの経済効果の試算は1754億7100万円である。雇用誘発者数は1万8841人である。金武町の人口は1万1039人なので、雇用誘発者数のほうが金武町の人口よりも多い。キャンプハンセン跡に那覇新都心型の街をつくるとなると住民は雇用誘発者数の2・6倍になるから4万8986人となる。1万8841人の金武町に4万8986人もの人口が増えることになる。あり得ないことである。
実現可能な経済効果試算における住民増加数は9503人である。それでも金武町の人口に近い。一体、金武町の人口に近い人たちがどこから移転してくるというのか。隣の宜野座村の人口は5249人である。宜野座村の全住民が移転しても県が試算したキャンプハンセン跡地の人口を満たすことはできない。もし、宜野座村の全住民がキャンプハンセンに移転したとしたら、宜野座村の人口はゼロになり経済もゼロになる。県議会事務局は宜野座村の経済がゼロになる試算は出していない。

県議会事務局の嘉手納飛行場・弾薬庫の試算
嘉手納飛行場・弾薬庫の全面積は4698㏊であり、都市的利用面積は3190㏊である。那覇新都心214㏊のおよそ15倍の広さである。

県議会事務局試算
生産誘発額 2兆6850億1500万円
所得誘発額 7018億200万円
雇用者誘発数 28万8134人
住民数 74万4914人(著者試算)

実現可能な経済効果試算(19・4%)
生産誘発額  5208億9291万円
所得誘発額  136億1530万円
雇用者誘発数 5万5898人
住民数   14万5334人(著者試算)

読谷村の人口  4万0760人
旧具志川市の人口 6万8864人
旧石川市の人口 2万3453人
北谷町の人口  2万7696人
嘉手納町の人口  1万3770人
沖縄市の人口   13万1597人 面積4900㏊

県議会事務局の嘉手納飛行場・弾薬庫の返還跡地の経済効果の試算は2兆6850億1500万円である。返還跡地には74万4914人が住むという試算になる。県の人口の半分近くが嘉手納飛行場・弾薬庫の返還跡地に住むということになる。あまりにもひどい試算である。

実現可能な生産誘発額は5208億9291万円であるが、その金額でも大きすぎる。
人口が13万1597人の沖縄市の生産誘発額は1659億9900万円である。人口が沖縄市とほぼ同じである嘉手納飛行場・弾薬庫跡地の生産誘発額は5208億9291万円であり、沖縄市の3倍以上である。地の下に宝が埋まっているわけでもない嘉手納飛行場・弾薬庫跡地の生産誘発額が沖縄市の3倍以上というのはありえないことである。

嘉手納飛行場・弾薬庫跡地の住民数は14万5334人の試算になる。嘉手納飛行場・弾薬庫跡地の試算住民数は沖縄市の人口より多い。読谷村の人口は4万0760人、旧具志川市の人口は6万8864人、旧石川市の人口は2万3453人、北谷町は2万7696人、嘉手納町の人口は1万3770人である。嘉手納町、北谷町、読谷村から嘉手納飛行場・弾薬庫跡に住民が移転すると嘉手納町、北谷町、読谷村はゴーストタウンになる。周囲がゴーストタウンになってしまった那覇新都心型の嘉手納飛行場・弾薬庫跡の経済が発展するのは考えられないことである。

嘉手納基地以北の米軍基地が変換された場合における跡地利用の経済波及効果試算
土地数値は、施設面積100㏊を超える北部訓練場、伊江島補助飛行場、キャンプ・シュワブ、辺野古弾薬庫、キャンプ・ハンセン、嘉手納飛行場、嘉手納弾薬庫地区、キャンプ・コートニー、トリイ通信施設、陸軍貯油施設、ホワイトビーチ地区など。

県議会事務局試算結果
生産誘発額 3兆7350億4200万円
所得誘発額 9732億5000万円
雇用誘発者数 40万1017人
住民数 104万2644人

実現可能な経済効果試算(19・4%)
生産誘発額 7245億9815万円
所得誘発額 1888億1050万円
雇用誘発者数 7万7797人
住民数 20万2272人

嘉手納飛行場以北は那覇市のような人口密集地ではない。むしろ仕事がなくて過疎化が進んでいる。経済力は那覇市に比べて非常に低い。それなのに県議会事務局は嘉手納飛行場以北の経済効果の試算を出すのに那覇新都心の経済を当てはめて、経済効果は3兆7350万円という超破格な試算を出した。信じられない試算である。住民数も104万2644人である。嘉手納飛行場以南のほとんどの人が以北に移住することになる。あまりにも破格な金額であり住民数であるので、県議会事務局は「現時点の県内経済規模で実現可能な経済効果は、全部返還効果の19・4%にとどまる」と述べて、なんとか現実性を帯びさせようと苦心している。しかし、たとえ、19・4%にとどまるとしても嘉手納飛行場以北の経済効果は7245億9815万円となっている。実は、この金額でさえも超破格なのである。
2010年の県の農業生産額は農作物554億円、畜産が370億円で合計924億円である。観光収入は約4070億円である。農業と観光収入を合計すると4994億円である。県議会事務局が試算した嘉手納飛行場以北の経済効果は7245、9億円であるが、その金額は県全体の農業と観光収入の合計の約1・5倍である。
嘉手納飛行場以北の米軍基地が返還された場合、農業と観光収入の合計の約1・5倍の経済効果があるとは考えられない。嘉手納飛行場以北は山が多く、軍用地の多くは山間部である。返還されても高層マンションどころか畑に転用することもできない場所が多い。県全体の畑作による農作物収入が554億円であるのに対し、軍用地料が932億円であるのを考慮すると北部の経済効果は大きなマイナスの試算が出ると推測できる。
過疎化が進んでいる恩納村以北は米軍基地以外にも広大な未使用の空き地が多くある。空き地と米軍基地は隣接していて、米軍基地だけが経済発展に最適な場所というわけではない。米軍基地と空き地は経済発展する条件は同じである。それなのに米軍基地が返還されたら農業と観光収入を合計した4994億円よりもはるかに高い7245億9815万円の経済効果があると県議会事務局は試算している。
嘉手納飛行場以北は7245億9815万円の経済効果であるとする県議会事務局の試算を信じることができない。嘉手納以北は7245億9815万円どころかマイナスの経済効果であるだろう。

県議会事務局の超破格な試算の原因
県議会事務局は米軍基地が返還した時の経済効果を4兆7191億400万円という県のGDPを遥かに超える試算を出した。なぜ、那覇新都心の経済効果をあてはめたらこのような超破格な試算が出たのだろうか。
原因は、那覇新都心が県内トップクラスの人口密集地であり、那覇新都心の周囲も東京都並みの人口密集地であることにある。那覇新都心は返還された米軍基地の中でも群を抜いた経済発展をしている。県内でトップの経済発展をした那覇新都心の経済効果をすべての米軍基地返還経済効果の基準にしたために4兆7191億400万円という超破格な試算が出たのである。県議会事務局が実現可能と主張する試算の19・4%でも超破格な試算であり非現実的な試算である。県議会事務局が那覇新都心を米軍基地返還地経済効果の基準にしたことは根本的に間違っている。



那覇新都心の人口増加は県人口の増加ではない
基地経済と那覇新都心の経済は性質が根本的に違う。県議会事務局は那覇新都心の経済発展は県経済に大いに貢献していると述べているが、それはとんでもない勘違いである。基地経済は県経済に貢献するが、那覇新都心の経済は県経済にほとんど貢献しない。そう、那覇新都心の経済は県経済への貢献度は限りなくゼロに近いのである。

那覇新都心の土地利用構成は、商業・業務地・沿道型商業地、中高層住宅地、低層住宅地、公共施設用地、道路、公園・緑地である。
那覇新都心には農業をやる畑地はないから那覇新都心では農業生産をやらない。那覇新都心には工業用地もないから那覇新都心には工場がない。だから製品を製造することはしない。那覇新都心の経済は農業生産、工業生産はゼロである。ショッピングセンター、スーパー、家電販売店、飲食店などのサービス業の売り上げが那覇新都心の経済の大半を占める。那覇新都心は生産をしない広大な消費地である。

那覇新都心が軍用地の時は沖縄人の住人はゼロであった。軍用地が返還され、区画整理をした後にマンションやアパートが建ち住民がどんどん増えた。那覇新都心の経済を成長させたのは那覇新都心の新しい住民である。那覇新都心の高層マンションやアパートや住宅に住むようになった住民は家賃や電気料、ガス料金を払う。そして、生活のために消化する商品を那覇新都心のスーパーや電化製品店などで買う。美容院、病院、飲食店でお金を使う。
那覇新都心の近くにはモノレールも走っている。那覇新都心は国道58号線沿いにあり、交通が便利だから那覇新都心以外に住んでいる人たちも那覇新都心で買い物をしたり食事をしたりする。
住民がゼロだった那覇新都心の人口はどんどん増え、人口密集地となり経済は目覚しく発展した。
那覇新都心の経済発展の原動力となっている住民はどこからやってきたのだろうか。那覇市内から移転した人もいるだろう。那覇市内で仕事をしていながら宜野湾市に住んでいた人が会社が近い理由で那覇新都心に移転したケースもあるだろう。人それぞれの理由で那覇市内の人たちや那覇市外の人たちが那覇新都心に移転した。
0人だった那覇新都心の人口が2万人になった時、県の人口は2万人増加しただろうか。那覇新都心に移転してきた人のほとんどは県内に住んでいた人たちであるから那覇新都心の人口が増加しても県の人口は増加しない。那覇新都心の人口増加は那覇市の人口増加には影響を与えるだろうが県の人口増加にはほとんど影響がない。

那覇新都心の経済発展は県経済の発展には貢献しない
経済も人口と同じように考えることができる。
西原町に住んでいたAさんは西原町で買い物をしていたが、那覇新都心に移り住むと那覇新都心で買い物をするようになる。久茂地に住んでいたBさんが那覇新都心に移転したら那覇新都心で買い物をするようになる。那覇新都心に2万人の人が移転してきたとすると、県内のどこかで買い物をしていた2万人の人たちは那覇新都心で買い物をするようになる。那覇新都心は売り上げが上昇するが、2万人が以前に住んでいたそれぞれの場所は那覇新都心の売り上げが伸びた分だけ落ちることになる。
那覇新都心以外に住んでいる人が那覇新都心で買い物をするケースもある。それも同様に那覇新都心以外で買い物をしていたのが那覇新都心で買い物をするようになっただけであり、那
覇新都心の売り上げが伸びた分だけ別の場所の売り上げが落ちる。
那覇新都心の売り上げが伸びるということは同時に別の場所の売り上げが落ちるということであるから、県全体から見れば那覇新都心の経済効果はプラスマイナスゼロである。
那覇新都心の新しい住民のほとんどは沖縄県内に住んでいた人たちである。那覇新都心の売り上げが伸びたからといって、彼らは県内に住んでいたのだから県全体の売り上げが伸びたわけではない。
県全体から見れば那覇新都心の経済効果はプラスマイナスゼロであり、那覇新都心の経済発展は県経済には全然貢献していない。
県議会事務局は那覇新都心地区の使用収益開始後15年目(平成25年)における、地区内に立地する商業・サービス業の経済活動規模は、売上高1918億円にまで拡大すると推計している。
しかし、那覇新都心の売り上げが1918億円になるということは、県内の那覇新都心以外の場所では売り上げが1918億円減るということであり県全体の売り上げは変わらない。



県経済に貢献する基地経済・貢献しない那覇新都心経済
平成二十二年に発表した沖縄県企画部の統計によると、平成二十年度(2008年)の軍雇用員の所得は520億円である。軍雇用員が給料をもらった時、日本政府から県内に520億円のお金が入ってくることになる。軍用地料は783億である。軍用地料783億円が地主に払われた時、日本政府から県内に783億円のお金が入ったことになる。政府から県内に流入してきた軍雇用員の所得520億円と軍用地料783億円は県内で流通して、県経済に大きく貢献する。
那覇新都心で県外から移入・輸入された商品が874億分売れたとすると、もし商品の原価が60%であるとするなら約524億円のお金が県外に出ていくことになる。残りの350億円は県内で再び流通する。
基地経済は日米政府から県内にお金が入ってくる経済であり、那覇新都心の経済は県外へお金が出ていく経済である。

県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算は真っ赤な嘘である。

沖縄県知事公室基地対策課は「駐留軍用地跡地利用に伴う経済波及効果等」で「事例3地区のうち、那覇新都心地区の経済効果は以下のとおり。プラスの生産誘発額が(活動+整備)の874億円であるのに対し、マイナスの生産誘発額は55億円と約16分の1であった。こうしたことから、地域経済的観点でみると那覇新都心地区の開発は県経済に大きなプラス」と発表している。県議会事務局は那覇新都心地区の経済効果をそのまま県全体の米軍基地返還による経済効果としている。しかし、今まで説明した通り那覇新都心地区の経済効果は県経済にはプラスマイナスゼロである。とすれば、55億円は日本政府やアメリカ政府から米軍基地時代の那覇新都心の地主や働いていた人たちに流入していたお金であったのだから、本当は那覇新都心が県に与える影響は55億円のマイナスなのである。
那覇新都心の経済効果は、県全体から見ればゼロの経済効果であるから、那覇新都心の経済効果を全ての米軍基地が返還された場合の経済効果に当てはめるとすれば、本当は県経済にとっては9155億5千万円のプラスではなく、4206億6100万円のマイナスになることになる。莫大なマイナスの経済効果である。
本当はマイナスであるのに、9155億5千万円の経済効果があるという試算を出したのは米軍基地は経済発展にもマイナスであると主張するための政治的な意図によるものである。米軍基地撤去の政治目的のために県議会事務局が出した基地返還経済効果の試算は真っ赤な嘘である。

嘘の9155億5000万円の基地返還経済効果試算を発表した県議会事務局は発表を撤回し県民に謝罪するべきである。
  

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2015年06月24日

「沖縄に内なる民主主義はあるか」第二章 命どぅ宝とソテツ地獄全文


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
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「沖縄に内なる民主主義はあるか」
第六章 八重山教科書問題はなにが問題だったか全文
第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない全文
第四章 基地経済と交付金の沖縄経済に占める深刻さ全文
第三章 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の真っ赤な嘘全文
第二章 命どぅ宝とソテツ地獄全文
第一章 琉球処分は何を処分したか全文

  
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第二章 命どぅ宝とソテツ地獄
「命どぅ宝」の格言はいつ生まれたか
 数年前、「命どぅ宝」という格言はいつ頃生まれたのかを話題にしているコラムがあった。三十代の女性が書いているコラムであったが、「命どぅ宝」という格言は戦後の伊江島の土地闘争で生まれた説や40年ほど前に生まれたという説など複数の説があるが、どの説も彼女が生まれる前のことであり、どれが本当なのかわからないと書いてあった。
 私は「命どぅ宝」の格言が戦後に生まれたという説があることに驚いた。「命どぅ宝」は昔からある格言と聞いてきたし、子供の頃に何度も耳にした格言であった。
「命どぅ宝」には私なりのこだわりがあり、若い頃に調べた経験があった。「命どぅ宝」は琉球王国時代からある格言であり、戦後に生まれたというのはありえないことである。私はそのことを新聞に投稿しようと思い立った。しかし、私の記憶だけで説明するのでは説得力がない。私はインターネットで「命どぅ宝」に関する資料を集めることにした。ところがネット検索をして再び驚いた。ネットでは琉球王国時代からあったと説明しているブログやホームページは一つもなかったのだ。

ウェブサイトの言葉辞典には、

【ぬちどぅたから】 何をおいても命こそが大切であるという意味。沖縄戦の際、難民の一人によって叫ばれたとも伝えられる。1950年代に伊江島土地闘争のスローガンとして用いられ、さらに1980年代の反戦平和運動のなかで広く普及した。
と書いてあった。別のブログやホームページも検索したが、ネットでは、「命どぅ宝」は沖縄の反戦平和運動のスローガン、シンボルであると説明していて、反戦平和以外の格言であるという説明はひとつもなかった。

「命どぅ宝」の格言が生まれた時期の諸説
 「命どぅ宝」の格言が生まれた時期については諸説あった。格言が生まれた時期が一番古い説は明治の初めであった。

いくさ世もすまち みろく世ややがて
 啼くなよ臣下 命どぅ宝
「戦の時代は終わった。やがて、平和で豊かな時代がやって来るだろう。嘆くな臣下たち。命を粗末にはするな。」
という琉歌を琉球王国最後の王尚泰が詠んだので、この琉歌から「命どぅ宝」は世間に広がったという説であった。
しかし、この説は琉球王国の歴史の事実とは合わない内容である。その頃の琉球王国は薩摩藩に支配されていて武器は取り上げられ戦争をやる能力は失われていた。それに薩摩藩に支配された1609年以降の琉球王国は戦争を一度もやっていない。琉球王国は250年以上も戦争のない平和な時代を過ごした。だから、尚泰が戦争を体験したはずはなかった。戦争をしていない尚泰が「いくさ世もすまち」と詠むのはありえないことである。
 別のブログでは、この琉歌は尚泰が詠んだのではなく、沖縄県出身の画家で作家の山里永吉氏(1902年・・1989年)が昭和7年(1932年)に書いた戯曲『那覇四町昔気質』の幕切れに舞台上の尚泰が「いくさ世もすまち みろく世もやがて 嘆くなよ臣下 命どぅ宝」と詠む台詞があり、「命どぅ宝」は『那覇四町昔気質』の上演から広まっただろうという説であった。
 もし、その説が本当であるとするなら昭和7年から、沖縄では「命どぅ宝」だから戦争には反対であるという反戦平和の思想が広まったことになる。この説も怪しい。
日本は日清戦争、日露戦争に勝利した。沖縄の人々も大国清やロシアに小国日本が勝利したことを喜び、清、ロシアに勝ったことで日本人としてのプライドが高くなった。太平洋戦争のきっかけとなった日本軍による真珠湾攻撃を沖縄県民は拍手喝采している。沖縄の人々は反戦平和どころか戦争を謳歌し、戦争の勇者を称えた。
1932年に満州事変が起こり、満州を日本が支配するようになると、満州を新天地として沖縄からも夢を抱いた人々が移住した。日本軍が南方の島々を武力で制圧し植民地にしたおかげで沖縄の人々はサイパン、グアムなど南方の島々に移住してさとうきびを栽培することができた。勝ち戦は領土が拡大し、豊かな生活を求める人々の移住が増える。勝ち戦は沖縄の人々に夢を与えた。戦前の沖縄には反戦平和運動が広まる要素はなかった。事実、反戦平和運動が広まったという記録がない。反戦平和運動がなかった沖縄に反戦平和運動のシンボルとして「命どぅ宝」が広がったというのはありえないことである。
大田昌秀氏の「命どぅ宝」の説
 元琉大教授であり、県知事でもあり、国会議員でもあった大田昌秀氏は「命どぅ宝」について著作「こんな沖縄に誰がした」で、
「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を持っていた。そして、『命どぅ宝』、すなわち何よりも『命こそが大事』を合い言葉にして、他者との友好的共生の生き方を心掛けてきた」
と述べている。学者である大田氏は「命どぅ宝」の格言は琉球王国時代の昔からあったと述べている。大田氏の説が正しいとすれば「いくさ世もすまち みろく世ややがて啼くなよ臣下 命どぅ宝」の琉歌から「命どぅ宝」が広まったという説は否定され、戦後に生まれたという説も否定される。

大田昌秀氏の「命どぅ宝」説は歴史に合わない
 しかし、大田氏が説くように「命どぅ宝」の格言が琉球王国時代の昔に生まれたのは事実だとしても、大田氏の説明には納得できないところがある。大田氏は「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い」と述べているが、琉球王国以前の沖縄は、南山、中山、北山と国が三山に分かれて権力争いをしている時代があった。1429年に南山の按司(豪族)であった尚巴志が武力によって三山を統一した。三山を統一した後も武力による戦争はあった。
三山を統一した琉球王国は八重山と奄美大島を武力で制圧して植民地にした。昔の琉球は武器を持った士族階級が支配していた社会であり、戦争に勝つことによって支配地を広げていった。これは史実である。「いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い」という大田氏の説は琉球の史実に反する説である。三山時代から琉球王国が奄美大島を支配するまでの沖縄は戦争をやっていた時代であり、琉球は大田氏のいうような武器も持たず戦争を忌み嫌う国ではなかった。
大田氏は琉球王国時代の人々を士族階級と農民階級の区別をしないで人括りに「琉球の人々」と呼んでいる。まるで琉球王国時代は武器を持たないで戦争を嫌い身分制度のない平等な社会であったような印象を与える。しかし、琉球王国は身分制度のある社会であり、支配する士族階級と支配される平民階級、搾取する士族階級と搾取される平民階級に分かれていた。

琉球王国の身分構成
身分         戸数        割合
王子         2戸        0・002%
按司         26戸       0・032%
親方(総地頭)    38戸       0・047%
脇地頭親方(親雲上) 296戸    0・367%
一般士族       2、0759戸   25・79%
平民         5、9326戸   73・71%

「琉球処分はなにを処分したか」でも指摘したが、琉球王国を実質的に支配しているのは身分の高い士族階級であり、戸数の割合でいえば全戸数のわずか0・448%の戸数であった。琉球王国はわずか0・448%の戸数の士族が支配している独裁国家だった。農民は政治に関わることはできなかった。ひたすら農業をやり士族階級に搾取されていた。
大田氏のいう「琉球の人々」とは政治や外交を行っている人々のことであり、支配者階級の士族を指している。戸数の73.71%を占める農民などの平民は大田氏のいう「琉球の人々」には含まれていない。

琉球王国の平和は薩摩藩に支配・保護されていたから
薩摩藩に支配され、武器を取り上げられた琉球王国は、1609年以来250年以上も戦争をしていない。大田氏がこの事実を根拠にして「琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い」と述べたとしたら歴史の事実を正確には説明していないことになる。
1609年3月、薩摩の大名であった島津家が3000人の兵で琉球王国に攻め入った。琉球王国の尚寧王は軍隊を動員して抵抗するが、豊富な戦いの経験をもち、しかも鉄砲を使う薩摩軍に琉球王国の軍隊はまったく歯が立たず、4月には首里城を明け渡してしまった。琉球王国は戦争で島津の軍隊に敗北したのである。敗北した琉球王国は薩摩藩に支配された。
薩摩藩に支配された琉球王国は政治上の実権はないものの表面上は独立王国の形を残した。その理由は中国との貿易を続行させて琉球王国の利益を薩摩藩が得るためであった。尚寧王は捕虜となり薩摩へと連行された。江戸に行き徳川家康と秀忠にも謁見した。2年後に尚寧王は琉球へ戻されるが、薩摩藩に忠誠を誓う起請文を書かされた。薩摩藩は琉球王国の存続は認めながらも琉球王国を実質的な支配下に置いた。薩摩藩の支配下に置かれることを拒んだ謝名親方は処刑された。
これが客観的な史実である。大田氏の述べている「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を持ってきた。そして、『命どぅ宝』、すなわち何よりも『命こそが大事』を合い言葉にして、他者との友好的共生の生き方を心掛けてきた」という事実は歴史のどこにもない。

薩摩藩に武器を取り上げられたために琉球王国は武器で戦うことができなくなった。そのために素手で戦う方法を中国から導入した。それが空手である。空手の目的は素手で相手を殺すことである。目付き、喉突き、急所蹴り、手や足の指を刃のように鍛えて内臓を破壊して殺すのが空手の本来の技であった。
薩摩藩に武器を取り上げられても琉球士族は空手を鍛えて武士としての戦う精神は失わなかった。命をかけて戦うことを本分としている武士階級に「命どぅ宝」の格言があったはずがない。
琉球王国は中国や韓国と貿易をしていた。貿易は商売だからお互いの信頼が大事であり武器を使わない平和的な交渉が大前提である。大田氏のいう「他者との友好的共生」が貿易のことを指しているのなら、貿易は「友好的共生」が絶対的な要素であるのだから、わざわざ「命どぅ宝」を合い言葉にする必要はなかった。
薩摩藩は琉球王国が謀反を起こさないように琉球王国から武器を取り上げて、武器を持つことを禁止した。琉球王国は大田氏の言うように武器を持たなかったのではなく武器を持つことができなかったのだ。戦争を忌み嫌ったのではなく戦争をする能力がなかったのである。
250年以上戦争がなかったのは琉球王国だけではない。江戸幕府をはじめ日本全国で戦争がなかった。琉球王国が他国に攻められることもなく平和であったのは薩摩藩の保護下にあったからであり、琉球王国が「武器を持たずに他者との友好的共生の生き方を心掛けてきた」から平和であったのではない。

「命どぅ宝」と「物喰ゆすどぅ我が主」
「命どぅ宝」と「物喰ゆすどぅ我が御主」は昔から言い伝えられてきた沖縄の格言である。私が子どもの時は「命どぅ宝」と「物喰ゆすどぅ我が主」は沖縄の二大格言であると教えられた。
学校の教師は「命どぅ宝」は人間の一番大切なものは命であるという格言であると説明した。
命が一番大切であるというのは誰もが思うことであり、この格言は真実をついている。しかし、命が一番大切というのは別の見方をすれば命が惜しいということである。命が惜しいから命を守るためには強いものの言いなりになるということにもなる。高校時代の私は「命どぅ宝」は命が惜しくて権力者にぺこぺこしている人間をイメージした。
「物喰ゆすどぅ我が御主」は直訳すると物をくれるのが私のご主人ということである。物をつくり物を士族に与えるのが農民である。だから、私の考えでは農民が主人となるのだが、「物喰ゆすどぅ我が御主」の我が主は物を与える農民ではなく物を与えられる士族が主人である。理由は土地は士族のものであるからである。土地からの収穫は作物をつくる農民のものではなく、土地所有者の士族のものであるというのが琉球王国時代の考えだった。農民は自分でつくった作物なのに自分のものとは考えなかった。士族のものであると考えた。琉球王国時代の農民は士族から物をもらうという考えであったから、士族が主人であった。士族は下男や女中として農民を雇用することもあり、それらを総じて、物を与えてくれるのが私のご主人という格言が生まれたのであろう。「物喰ゆすどぅ我が御主」は農民がみずから士族の奴隷であることを認めているようで私の嫌いな格言だった。

ヒーローたちは命を惜しまずに戦う
 幕末のヒーローである坂本龍馬は命の危険を恐れずに新しい日本を築くために奔走した。そして、命を落とした。命を賭けて新しい日本をつくるのに活躍した坂本龍馬の生き方に多くの少年があこがれたように私も坂本龍馬の生き方にあこがれる少年であった。命が惜しいからなにもしないで権力者にぺこぺこするのをよしとする沖縄の「命どぅ宝」の格言は私を惨めにさせる格言であった。
 愛する者たちや虐げられた人たちのために権力者と命を賭けて戦う主人公を描く映画がほとんどである。命が惜しくて権力者にぺこぺこするような人物は人間のくずとして映画では描かれている。人間のくずを正当化しているのが「命どぅ宝」であると高校時代の私は思っていた。

 中国では毛沢東が人民解放軍を率いて革命を起こした。キューバではカストロやゲバラがキューバ革命を起こした。フランスのシャンソン歌手のイヴ・モンタンは第二次世界大戦の時レジスタンスとしてドイツ軍と戦ったことで有名だった。私にとって、人のため世のために命をかけて戦うのがかっこいい人間であった。
チェ・ゲバラが捕まって処刑されたと報道されたのは高校生の時だった。キューバ革命を成功させたゲバラは革命の貢献者としてキューバで悠々たる生活を送ることができたのにその生活を捨てて、新たな革命を起こすために苦難の道を選んだ。ゲバラはかっこいいしヒーローだった。
世界史はフランス革命やロシア革命など、人々が命をかけて権力者と戦い、新しい社会をつくったことを教えた。人間を圧政者から解放するには命をかけて戦わなければならないことを映画や歴史教科書は教えていた。それなのに沖縄の格言は権力者にぺこぺこする「命どぅ宝」や「物喰ゆすどぅ我が主」である。私は沖縄の格言が嫌いだった。

琉大生の反戦・平和主義に反発する
一九六五年、高校二年生の時に読谷飛行場でパラシュート降下訓練のジープに少女が圧殺される事故が起こった。圧殺事故への抗議集会が喜名小学校であり、読谷高校生であった私は他の生徒と一緒に抗議集会に参加した。
集会が終わると多くの人がバス停留所に集まったので、バスに乗るのにかなりの時間を待たなければならなかった。私はバスに乗らないで歩いて帰ることにした。多くの人がぞろぞろと喜名から嘉手納方向に1号線(現在の国道58号線)を歩いていたが、私の隣を歩いていた琉大生が私に話しかけてきた。彼と私は討論になった。学生は平和憲法の話をやり平和のために日本は軍隊を持つべきではないといい、沖縄の米軍基地は撤去するべきであると話した。
私たちが歩いている1号線の左側には嘉手納弾薬庫の丘が黒く横たわり、正面には嘉手納飛行場の明かりが煌々と輝いていた。嘉手納弾薬庫には核爆弾が貯蔵されているという噂は子どもの頃から聞いていた。第三次世界大戦が起こったら核爆弾を貯蔵している沖縄は真っ先に攻撃されて沖縄の人間は一瞬のうちにみんな死んでしまうという話は何度も聞かされた。もし、明日第三次世界大戦が起こるとしたら死ぬ前になにをしたいかなどと子ども同士で話し合ったこともあった。
だから、私は子どもの頃から戦争には敏感になっていた。中学生の時にキューバ危機があった。ソ連がキューバにミサイル基地を造ろうとしたのに対してケネディ大統領はもしキューバにミサイル基地をつくるならソ連と戦争するのも辞さないと宣言し、ミサイル基地をつくろうとソ連の輸送船がキューバに向かった時、ケネディ大統領の命令で核爆弾を積んだ多くの爆撃機が飛び立ち、ソ連と一触触発の事態になった。このニュースを聞いた時、私はいよいよ第三次世界大戦が始まるかも知れないとびくびくした。幸いなことにキューバ危機は回避され、世界大戦に発展することはなかった。キューバ危機の回避は勇気あるケネディ大統領のお陰だと思った私にとってケネディ大統領はヒーローだった。
高校生のときはベトナム戦争が激しくなっている時期であった。毎日嘉手納飛行場からB52重爆撃機がベトナムへ飛び立ち爆弾を落として帰ってきた。エンジン調整の爆音は一晩中続いた。テレビの音も話し声も聞こえないくらいに爆音はひどかった。あの頃が嘉手納飛行場の爆音が一番ひどい時期であった。
毎日ベトナム戦争の悲惨な状況が報道されていた。しかし、私は沖縄の米軍基地を撤去してほしいという考えはなかった。むしろ、米軍基地をすべて撤去すれば、他の国が沖縄を攻めてくるかもしれないという恐怖のほうが強かった。
私は、アメリカ軍がベトナム戦争に敗北した時、南ベトナムを占領した北ベトナムやベトコンはアメリカ軍基地がある沖縄を攻撃するかどうかについて考えたこともある。
アメリカがベトナム戦争でなかなか勝てないのは核兵器を使わないからである。もし、アメリカが戦争に勝利することだけを目的にして北ベトナムやベトコンの居る場所に核爆弾を落とせばアメリカが勝利するのは簡単である。しかし、アメリカは核爆弾を使わなかった。アメリカは南ベトナムを守るのが目的であり、なにがんでもベトナム戦争に勝つのだという考えがアメリカにはなかったからだ。それに核爆弾を使えばアメリカは世界から非難されただろう。アメリカは核爆弾を使うわけにはいかなかった。
南ベトナムを支配した北ベトナムとベトコンが沖縄を攻撃した時にアメリカ軍はどうしただろうか。その時は、ベトナムに核爆弾を投下してベトナムを廃墟にしてしまうことも辞さなかっただろう。そのことを知っている北ベトナムやベトコンが沖縄を攻撃するのはありえないというのが私の考えだった。アメリカ軍が沖縄に駐留している間はベトコンだけでなくどの国も沖縄を攻撃することはないと私は考えていた。

私は、「命どぅ宝」と「物喰ゆすどぅ我が主」の格言への反発や子どもの頃から戦争に対して敏感になっていたから、琉大生の憲法9条の平和論や米軍基地の撤去論に納得できなかった。自衛隊を廃止し、米軍が撤去した日本・沖縄は戦いに弱い国になる。弱い国が他の国に侵略された歴史は数多くあった。米軍基地がなくなれば平和で豊かになるという考えは非現実的であると高校生の私は考えていた。日本が無防備になれば日本を植民地にしようと侵略してくる国は絶対あるはずである。どこかの軍隊が侵略してくれば武器を持たない日本・沖縄は簡単に占領されてしまう。沖縄の人々は抵抗することもなく奴隷にされてしまうだろう。
私は琉大生の話に反発した。内心では、「お前のようなきれいごとを言っても冷酷な世界には通用しない」と思いながら、「外国が攻撃したら日本・沖縄はどうすればいいのか」と私は琉大生に質問した。話の腰を折られた琉大生は一瞬言葉に詰まったが、軍隊がいなくても大丈夫であると色々説明をした。琉大生の話した内容は記憶に残っていないが彼の説明に私は納得できなかったことを覚えている。軍隊がいなければ敵に支配されるのは明らかであり、単純明快な理屈である。琉大生の説明に納得しない私は、「外国が攻めてきたらどうするのか」という質問をしつこく繰り返した。
私のしつこい質問に困り果てた琉大生は人民軍を結成して敵と戦うと言った。私は人民軍も軍隊ではないかと琉大生に言うと、彼は自衛隊やアメリカ軍は軍隊であるが人民軍は軍隊ではないと言った。
琉大生は、自衛隊やアメリカ軍は国家がつくった軍隊であり支配者の利益のための軍隊である。しかし、人民軍は人民がつくる軍隊であり人民のための軍隊であるから自衛隊やアメリカ軍とは違うというような説明をしたと思う。学生は中国の人民解放軍をイメージして話したのだろう。
民主主義国家の軍隊はシビリアンコントロールされているから人民軍と同じであるという考えが私にはあったが、高校生の私は筋道をたてて説明することはできなかった。琉大生と私は話がかみ合わないまま終わった。

 敵が攻めてきたら自分たちを守るために戦うのは当然である。沖縄戦の時、民間人が日本軍と一緒に戦ったのを私は当然の行為だと思った。中学生が鉄血勤皇隊として勇敢に戦ったのを私は賞賛するほうだった。戦後生まれの私は軍国主義少年ではない。天皇のために戦う考えはなかった。しかし、敵が沖縄を攻めてきたら家族、親戚、仲間や沖縄の人々を守るために戦うのは当然であると考えていた。占領されれば奴隷になる。奴隷にならないためには戦うしかない。そのように私は考えていた。
 「命どぅ宝」の思想は命が惜しいから侵略してきた敵軍と戦わないで降伏し、敵の奴隷になる思想である。沖縄の「命どぅ宝」と「物食ゆすどぅ我が主」の格言は奴隷の精神である。二つの格言は沖縄の農民の奴隷精神の表れだと考えるようになった私はふたつの格言を誇らしげに話す教師にむかついた。

「命どぅ宝」の重さ
 多くの格言は戒めや幸福や倫理について述べている。「命どぅ宝」、「物喰ゆすどぅ我が主」のような奴隷精神の格言はない。もしかすると二つの格言には教師の説明や私の解釈とは違うもっと深い別の内容があるのではないかと私は気になった。本で調べようとしたが高校の図書館には「命どぅ宝」について説明している本はなかった。琉球大学に入学したので、琉球大学の図書館にはあるだろうと思い、「命どぅ宝」について書いてある本を探した。本はあった。それは沖縄の格言について書いてある小冊子だった。その本には「命どぅ宝」と「物喰ゆすどぅ我が主」についての説明が載っていた。小冊子は「命どぅ宝」の格言が生まれたのは琉球王国時代の農民の極貧が原因であると書いてあった。何度も大飢饉に襲われて農民は困窮し、家族が生き残るために愛する我が娘を那覇の遊郭に売らなくてはならなくなった時、那覇の遊郭に売られるのを嫌がる娘に、娘が遊郭に行かなければ家族みんなが飢え死にする。家族が生き残るためには恥もプライドも捨てなければならないと親は娘を諭し、生き抜くことがなによりも大事つまり「命どぅ宝」であると娘を説得した。そういう話が載っていた覚えがある。

厳しい農民の生活
沖縄の畑は赤土で痩せている。それに毎年やって来る台風で作物は被害を受ける。島国である沖縄は水事情も悪くひでりが続くとすぐに水が不足した。沖縄の農民は何度も大飢饉に襲われた。
それに琉球王国は一六〇九年に薩摩藩の支配下に置かれために薩摩藩への作物の献上を強制された。琉球王府は、
年貢9000石、
芭蕉布3000反、
琉球上布6000反、
琉球下布10000反、
むしろ3800枚、
牛皮200枚、
を毎年薩摩藩に収めなければならなかった。
しかし、この負担があるからといって琉球王府の王や士族が倹約生活をしたわけではない。琉球王府の王や士族も贅沢な生活をした。その負担は一方的に農民に課せられた。琉球王国時代の農民は薩摩藩への献納と琉球王府への租税の二重負担を強いられた。そのために農民はほとんど蓄えがなく、干ばつの時には疫病死者や餓死者が多く出た。 
 干ばつの年は農民の租税免除があったが租税免除はその年限りで、翌年には容赦なく年貢が取り立てられた。農民はますます貧しくなり、借金返済のために子供の身売りが後を絶たなかった。貧しい農家は漁村に男の子を売り、女の子は那覇の遊郭に売った。農民の娘であった歌人の吉屋チルーは七歳で那覇の遊郭に売られた。遊郭に連れて行かれる途中に比謝橋があり、比謝橋がなければ遊郭に売られなかったのにと、

恨む比謝橋や 情ねん人ぬ 
わん渡さ思てぃ かきてぃうちゃら

と詠んだ話は有名である。農民は生き延びるために愛する我が子を遊郭や漁師に売ったのである。
薩摩藩と琉球王府の二重搾取のために税が重いばかりでなく、地方の間切りや村役人などの特権階級は租税以外にも農民から取り立てて私腹を増やしていたという。そのために農民はいっそう貧しかった。だから、台風や干ばつに襲われると蓄えがほとんどない農民は毒があり調理を失敗すると死んでしまうソテツの実を食べて飢えをしのばなければならなかった。それをソテツ地獄と呼んでいる。沖縄の農民はソテツ地獄と呼ばれる大飢饉に何度も襲われた。
ソテツは台風にも干ばつにも強い植物であり、農作物が全滅するような台風や干ばつでもソテツだけは生き残った。しかし、ソテツの実は少ない。ソテツを食べる頃にはすでに餓死する者も多く出ていただろう。農民は命をつなぐためにソテツを食べた。いつ死んでもおかしくない状況がソテツ地獄であっただろう。「命どぅ宝」の格言は飢え死にするか否かの極限の生活の中で必死に生き延びようとした農民によって生まれた叫びの格言であった。

 大正末期から昭和初期にかけてもソテツ地獄があった。
 沖縄の輸出品は砂糖が八割を占めていた。砂糖以外には泡盛、パナマ帽子、畳表、鰹節、漆器くらいであった。
 国際的な砂糖の値段の暴落は県経済に深刻な影響を与え、農民の収入が激減する中に台風や干ばつが襲い、農民は貧困の極みに陥った。大飢饉に襲われた農民はソテツを食べて餓えを凌がなければならなかった。貧しい農家は家族が生き延びるために子供を身売りした。男は糸満へ、女は遊女として辻の遊郭に売られた。明治以後、人身売買は禁じられていたが、沖縄では半ば公然と人身売買が行われていた。

死に直面した農民に唯一残されていた希望は自由や幸福や豊かさなどではなく、ひたすら生き延びることであった。ひたすら生き延びることだけが農民の希望だったのだ。自由・平等の世界を思い描く余裕は沖縄の農民にはなかった。小冊子を読んだ後の私は「命どぅ宝」に対する考えが変わった。
「あなたにとって何が一番大事ですか」と質問された時、多くの人は「幸福」や「愛」に関係あるものや、子供とか、妻、親、仕事などと答えるだろう。「命」と答える人はいないだろう。「命」は空気と同じで存在して当たり前のものであるからだ。大病や大怪我をして九死に一生を得た人間でない限り「命」が一番大事とは思わない。死ぬかも知れない体験をした人が「生きているだけで幸せ」と言う。琉球王国時代の農民は死と向かい合いながら生きていた。生き延びるのが精一杯である「命どぅ宝」の生活を送ったのだ。
日本には「命どぅ宝」に近いことわざとして、「生きているうちが花」「命あってのものだね」などがある。しかし、「命どぅ宝」とはニュアンスが違う。「生きているうちが花」「命あってのものだね」には生きているといつかは幸せや楽しみがあるという内容が含まれている。しかし、「命どぅ宝」にはそのような「幸」「楽」「花」がない。「生きているだけで幸せ」の幸せも「命どぅ宝」にはない。ただ単純に、「生きるのが宝」だという格言である。
 「命どぅ宝」はとてもシンプルであり簡単に作れる格言のように思われるが、本土の格言にも「命どぅ宝」に似たような格言がないように、人間の幸せ、生き甲斐、倫理など人間の生きるための哲学とは無縁である「命どぅ宝」は本当はなかなか生まれてこない格言である。ソテツ地獄を何度も体験し死と直面しながらひたすら生き延びようとした琉球王国時代の農民だったから「命どぅ宝」の格言は生まれたのだろう。
 「命どぅ宝」は死と隣り合わせの生活の中から生まれてきた格言であり、琉球王国最後の王尚泰や作者の山里永吉や尚泰を演じた伊良波尹吉が生み出せる格言ではない。
 「命どぅ宝」は、生死の瀬戸際で必死に生き抜こうとした農民の自分に鞭打った格言であり、生きることへの執念が凝縮された格言である。
 「命どぅ宝」は私にとってずしりと重い格言になった。
  
生命を守る県民共闘会議の誕生
1960年4月28日
復帰運動の母体である復帰協が結成される。祖国復帰運動の始まりである。復帰協の先頭に立ったのは沖縄教職員会であり、復帰協の会長は教職員会から選出された。初代の復帰協の会長は教職員会事務局長である喜屋武真栄氏であった。
復帰協には革新政党の社大党、人民党、社会党が加入し、沖縄自民党は加入しなかった。

沖縄自民党
   復帰については現段階では時期尚早であるという段階的復帰論であり、基地については
「本土なみ」基地であり、基地を容認していた。
社大党 
早期の祖国復帰を主張していた。復帰の時点で「本土なみ」基地が残るのはやむをえないという姿勢であった。
人民党、社会党 
即時全面祖国復帰を主張し、米軍基地の撤去を求めていた。

復帰協を結成した初期の方針は、安保条約には原則的に反対との立場を取りつつも、祖国復帰を優先させていたから米軍基地に対しては反対とか撤去というはっきりした方針はなかった。むしろ、基地問題を取り上げることによって復帰が遅れるのを恐れたので、基地問題を取り上げなかった。復帰協の軸となったのは、教職員会や労組、民間団体などであり、政党ではなかった。

1968年 復帰協は「米軍事基地反対」の方針を打ち出す。
1968年 三大選挙が行われる。
11月10日、主席・立法院選が行われ、主席選は屋良朝苗が西銘順治に対して3万票
余りの差をつけて当選。立法院選は保守18議席、革新14議席となった。
1968年11月19日
嘉手納飛行場で、ベトナムに飛び立とうとしたB52重爆撃機が墜落、爆発炎上する。
1968年12月1日
那覇市長選は革新共闘の平良良松(社大党)が自民党候補に圧勝した。
1968年12月7日 
B52重爆撃機が墜落、爆発炎上がきっかけとなり、革新政党によって「生命を守る県民共闘会議」が結成された。
1969年3月22日
復帰協は第14回定期総会において「基地撤去」を運動方針に掲げる。

1968年11月19日、B52重爆撃機が嘉手納飛行場で墜落炎上して大爆発をした。その衝撃は大きく、嘉手納飛行場の周辺の住民を恐怖のどん底に落とした。嘉手納飛行場から2キロも離れていない場所に私の実家があったが、ニュースを聞いてすぐに実家に帰った私に、爆発の音はすさまじく戦争が起こったのではないかと思い、死の恐怖に襲われたと家族は話した。
B52重爆撃機が墜落炎上して大爆発をおこしたことで反基地運動は県全体に広まった。消極的に学生運動に参加していた私だったが、B52重爆撃機が墜落炎上をきっかけに積極的に参加していくようになった。

戦後すぐに反戦平和運動があったと思っている人は多いだろう。しかし、意外と思うかもしれないが戦後間もない頃は反戦平和の思想は沖縄にはなかった。だから反戦平和による軍事基地撤去運動もなかった。米軍による土地接収に対する反対運動は全県的に盛り上がったが、それは先祖代々引き継がれてきた土地を異民族である米軍に取られることに反対した土地闘争であり、反戦平和や軍事基地反対の思想ではなかった。
沖縄戦で日本兵、民間人合わせて20万人近くの犠牲者が出たが、それでも沖縄の人々は終戦直後まで日本の勝利を信じていた。沖縄戦の最中は軍国主義精神の絶頂期であり、天皇崇拝が高揚している時であった。人々の思想が天皇崇拝絶頂のときに、昭和天皇が玉音放送で敗北宣言をして戦争は終わった。ほとんどの日本人や沖縄人は戦争に負けるとは思っていなかったので、降伏を宣言した玉音放送に大きなショックを受けた。多くの国民が天皇崇拝の精神状態であったまま太平洋戦争が終わったのである。軍国主義から反戦平和主義へと沖縄の人々の精神が180度転換するのは簡単にできるものではない。
沖縄の人々は軍事基地への反発より異民族アメリカに支配されているという屈辱のほうが強かったはずである。だから、先祖代々引き継いできた土地を異民族である米軍に取られるのに反対した。異民族に支配されている沖縄の人々は祖国日本への復帰を熱望した。祖国日本へ復帰する理由は日本が民主主義であり、平和憲法の国家であったからではない。アメリカの異民族支配から脱したいからであり日本を祖国と考えていたからである。
沖縄の大衆運動は土地闘争に始まり、途中から祖国復帰運動に転換した。異民族に支配されるのを嫌った祖国復帰運動は1960年に始まるが、復帰協が軍事基地反対を掲げたのは1967年の復帰協第12回定期総会においてである。しかし、その時は軍事基地反対であり、軍事基地撤去を主張したわけではなかった。
復帰協が軍事基地撤去の運動方針を掲げるのは、1969年の第14回定期総会においてである。復帰協が軍事基地撤去の方針を掲げたのに反対した同盟系組織は復帰協から脱退した。同盟系組織が抜けることによって、人民党や社会党などの革新政党の影響が強くなり復帰運動は急進的になっていった。復帰協は「基地撤去」を強く主張するようになった。祖国復帰をすれば「核も基地もない平和で豊かな沖縄になる」というのが祖国復帰運動のうたい文句だった。

沖縄は、わずか数ヶ月で10万人近くの民間人の命が奪われるという凄惨な体験をした。沖縄戦を体験した人々には戦争への恐怖心は根強くあっただろう。米軍基地を見れば沖縄戦を思い出してしまう人も多かっただろう。
「沖縄に米軍基地があるから、もし戦争になったら真っ先に沖縄が攻撃される」「米軍基地があるから沖縄は戦争に巻き込まれて沖縄の人々の尊い命が奪われてしまう」「米軍基地がなくなれば沖縄は戦争に巻き込まれないで平和で豊かな島になる」これが「生命を守る県民共闘会議」の米軍基地撤去を主張する理由であった。

米軍基地のある沖縄を攻撃する国はなかった
 「生命を守る県民共闘会議」が主張する、沖縄に米軍基地があるから沖縄が戦争に巻き込まれるという説には不可思議なことがひとつある。どの国が沖縄を攻撃するのかが明確にされていないことである。「命を守る県民共闘会議」を主催する革新政党は沖縄に軍事基地があるから、戦争になったらまっさきに沖縄が攻撃されると主張し、沖縄を再び戦場にしないために沖縄の米軍基地は全て撤去するべきだと主張はしても、沖縄を攻撃するかもしれない国を名指しすることは一度もなかった。
アジアを見渡せば、沖縄を攻撃する可能性のある国は限定できる。最初に予想できるのは中国である。次に北朝鮮、そして、旧ソ連である。それらの国は社会主義国家であり、日本、アメリカのような民主主義国家と対立している国々である。 
それでは中国や北朝鮮が沖縄を攻撃する可能性があっただろうか。朝鮮戦争の時は韓国の95パーセントを北朝鮮が支配したが、アメリカ軍が北朝鮮軍を押し返した。それ以後アメリカ軍は韓国に駐留し続けて北朝鮮が侵略するのを防いできた。台湾でもアメリカ軍の存在が中国の台湾侵略を防いできた。
もし、中国の人民解放軍が日本・沖縄を急襲すれば、一時は日本・沖縄を占領することができるかも知れない。しかし、日本・沖縄を攻撃することはアメリカに宣戦布告をすることである。中国の人民解放軍が日本・沖縄を占領することはできても、太平洋を隔てたアメリカ本国を占領するのは不可能だ。アメリカを屈服させることはできない。 
アメリカ軍は韓国、フィリピンにも駐留していた。アジアの海を航行している原子力空母もあった。原子力潜水艦もアジアの海を潜行していた。中国が日本・沖縄を攻撃すればアジアに駐留しているアメリカ軍が一斉に中国を攻撃するだろう。アメリカから飛び立った核爆弾を搭載した重爆撃機も中国を攻撃するだろう。中国全土が破壊されて中国が敗北するのは明らかだった。
世界最強のアメリカ軍が駐留している日本・沖縄を中国や北朝鮮が攻撃する可能性はなかった。
しかし、「生命を守る県民共闘会議」の主催者は沖縄に米軍基地がある限り沖縄が戦争に巻き込まれると主張し続けた。現実には起こるはずがない沖縄攻撃を吹聴したのが「生命を守る県民共闘会議」であった。
革新政党の政治家たちは米軍基地があるから戦争に巻き込まれると盛んに主張したが、沖縄を攻撃する国があるとすれば中国や北朝鮮であるのだが、中国や北朝鮮と親しい関係にある革新政党の政治家たちは決して中国や北朝鮮が沖縄を襲ってくるかもしれないとは言わなかった。
沖縄を攻撃する国を具体的に名指しはしないという奇妙な理屈が「沖縄に米軍基地がある限り沖縄が戦争に巻き込まれる恐れがある」「戦争が始まれば米軍基地がある沖縄がまっさきに攻撃される」であった。「米軍基地があるから攻撃される」という理屈は直感的にはもっともらしいが、よく考えてみると首をかしげるおかしな理屈であった。

大学生になると高校生の時には知ることができなかったアメリカの軍事戦略、ソ連や中国の内情やアジアの情勢、世界情勢を知ることができた。アジアの状況を知れば知るほど沖縄が旧ソ連や中国に攻撃される可能性はないと確信できた。アメリカが沖縄に駐留しているから沖縄が戦争に巻き込まれる危険がなかったのは戦後66年間沖縄が一度も外国から攻撃を受けなかった事実が証明している。戦後に沖縄が外国から攻撃を受けるかも知れないという情報があったことは一度もない。ところが革新政党の政治家たちはアメリカ軍基地があるから沖縄が戦争に巻き込まれるといい、沖縄が戦争に巻き込まれないためにアメリカ軍基地の撤去を主張した。これは世界の政治・軍事情勢を無視した間違った主張である。
 B52重爆撃機が嘉手納飛行場で墜落炎上して大爆発をしたのは事故であり戦争ではなかった。沖縄が戦争に巻き込まれるかどうかの問題でもなかった。しかし、革新政党はB52重爆撃機の事故を戦争と結びつけて「生命を守る県民共闘会議」を結成し、多くの県民が犠牲になった凄惨な沖縄戦体験のトラウマを呼び起こして、反戦平和の名のもとに人々を結集させた。

「命どぅ宝」と「生命を守る県民共闘会議」
私は「命どぅ宝」の格言は琉球王国時代の過酷な死と隣り合わせの窮乏の中で生き抜くために自分を勇気付ける農民の格言であっただろうという考えにいきついていた。琉球王国時代の農民は生き抜くことで精一杯であり自由を主張するどころではなかったのだと私は納得し、高校時代に反感を持っていた「命どぅ宝」に自分なりの終止符を打った。
 ところが、1969年に「命どぅ宝」を意外な場所で耳にすることになる。場所は与儀公園であった。与儀公園は県民大会がよく行われる場所であった。その日は「命を守る県民共闘会議」の県民大会が開かれた日だった。
 県民大会の壇上で革新政治家たちや労組代表はB52重爆撃機の墜落炎上させた米軍を非難し、沖縄戦で十万人もの住民が犠牲になったことと関連させながら、沖縄に米軍基地がある限り沖縄は戦争に巻き込まれて二十数年前のように多くの住民が犠牲になると演説した。
戦争が起こったら罪のない女子供の命も失われると戦争の悲惨さを語り、人間は命が一番大事である、「命どぅ宝」であると県民大会に集まった人々に訴えた。演説は何度も「命どぅ宝」を繰り返した。この瞬間から「命どぅ宝」が反戦・平和のキャッチフレーズになった。
 革新政治は社会主義思想を根にしている。社会主義はアメリカの資本主義を否定し資本主義の次の社会を目指している政治であるとあの頃の私は信じていたから、「沖縄に米軍基地がある限り沖縄が戦争に巻き込まれる恐れがある」「戦争が始まれば米軍基地がある沖縄がまっさきに攻撃される」と主張する革新政治家に反発する一方、革新政治には将来を導く政治思想があるはずだと期待しているところがあった。
ロシア革命、中国革命、キューバ革命と社会主義は輝かしい社会変革を実現してきた。沖縄や日本を変革するのが社会主義であるはずである。沖縄の次の社会をどのようにするのか、私は革新政党に次の時代の指針を示すキャッチフレーズが欲しかった。しかし、沖縄の革新政党がキャッチフレーズにしたのは「命どぅ宝」であった。「命どぅ宝」は命さえあればいいという思想であり、人間としての夢も希望もない思想である。「命どぅ宝」は明治維新の四民平等にも劣る思想である。私は革新政治家たちが「命どぅ宝」を連呼すればするほど革新政治に失望していった。

 1963年にキューバ危機があった。ソ連がキューバにミサイル基地を建設しようとしたのに対して、ケネディ大統領は核戦争も辞さないと強いメッセージをソ連に送った。核戦争を回避したいアメリカとソ連の首脳によってキューバ危機は回避されたが、核戦争に懲りたケネディ大統領は核戦争になる前に極地戦争で解決しようとするキッシンジャー教授が唱えた局地戦に戦略を転換した。それがベトナム戦争だった。ベトナム戦争はアメリカ軍が南ベトナムでベトコンと戦争していたが、ベトコンに沖縄を攻撃する能力はなかった。中国は台湾に攻める気配は見せたが、台湾のバックにはアメリカ軍が存在していたから中国が台湾に侵攻することはできなかった。
 中国がアメリカと直接戦争するのは考えられなかった。キューバ危機を体験したソ連もアメリカと直接戦争をするのは避けていた。
世界の政治情勢をみれば沖縄が戦争に巻き込まれる可能性はゼロであることは容易に理解できた。それなのに革新政治家たちはアメリカ軍が駐留していると沖縄が戦争に巻き込まれると主張し、「命どぅ宝」を連呼しながらアメリカ軍基地の撤去を主張した。
生命を守る県民共闘会議の運動は、沖縄の人々のトラウマになっている沖縄戦の死の恐怖を刺激し、命を守ろうとする動物的本能に訴える運動であった。人権、自由、幸福とは無縁の政治運動であった。
 沖縄の将来を築かない、沖縄の人々の思想を後退させる思想が「命どぅ宝」であった。私は革新政治に失望し次第に革新政治から離れていった。

軍隊があるから戦争が起きるのか
 沖縄の反戦平和思想には「軍隊があるから戦争が起こる。世界中の軍隊をなくせば戦争は起こらない」という考えがある。軍隊がなければ戦争は起こらないのは確かである。しかし、軍隊があると必ず戦争が起こるのだろうか。アメリカとイギリスが戦争する可能性があるだろうか。フランスとドイツが戦争をする可能性があるだろうか。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどのヨーロッパの国どうしが戦争するとは考えられないことである。ヨーロッパの国々は民主主義国家であり、国民を代表する政治家が国を運営している。民主主義国家と民主主義国家はたとえ軍隊を持っていても戦争はしない。
イスラエルとパレスチナは戦争をしている。原因は領土の争いである。イスラエルは民主主義国家であるがパレスチナは民主主義国家ではない。もし、パレスチナが民主主義国家になればイスラエルとの交渉は政治交渉が中心になり戦争はしなくなるだろう。アメリカはイラク、アフガンと戦争をした。アメリカは民主主義国家であるがイラク、アフガンは独裁国家だった。独裁国家だったイラクはイランやサウジアラビアとも戦争をした。
戦争が起こる原因は色々ある。軍隊があるから戦争が起こるという単純な理論で世界の戦争を判断するのは間違いだ。
沖縄に米軍基地があるのは中国や北朝鮮の社会主義国家と資本・民主主義国家アメリカ・日本やアジアの国々との対立が原因である。資本・民主主義国家と社会主義国家の対立は戦後に生まれたものである。
戦後の国と国との対立の内容は戦前とは違う。戦争の内容も戦前と戦後では異なる。沖縄戦の体験からは戦後の戦争の原因を知ることはできない。沖縄の米軍基地の存在理由を知るには戦後の世界情勢を知る必要がある。「命どぅ宝」の反戦平和の視線で沖縄の米軍基地を見つめるのでは沖縄の米軍基地の存在の理由を知ることはできない。
「命どぅ宝」の思想は戦後の世界の戦争を見る目を盲目にしている。
戦前の日本のように軍部が政権を握った軍国主義国家と戦後の日本のように国民の代表が政権を握った民主主義国家では軍隊の性質が全然違う。軍部が政権を握れば国民を弾圧し領土を広げようと戦争を起こす。戦後の民主主義国家では軍隊には政治権力がなく、国民に選ばれた国会議員によって構成された政府の指揮下で行動するから自衛隊は国民のために働く。同じ軍隊でも戦前と戦後では軍隊の性質が違う。
「命どぅ宝」の思想は、軍隊は命を奪う戦争をするためにあると決めつけているから、軍国主義国家の軍隊と民主主義国家の軍隊の違いを正しく理解することができない。東日本大震災で米海兵隊や自衛隊は人命救助や瓦礫処理、不明者捜索等で活躍した。戦後の日本の軍隊は戦争だけのために存在はしていない。国民を襲うあらゆる災害から国民を守るために存在している。「命どぅ宝」の思想では自衛隊の本質を理解することができない。 
軍隊があるから戦争するというのは安易な考えだ。軍隊をつくるつくらないは政治であるし、戦争するしないは軍隊の問題ではなく政治の問題である。

民主主義思想のない「命どぅ宝」 
1969年、生命を守る県民共闘会議の県民大会で反戦平和のシンボルとしての「命どぅ宝」は登場した。あれから40年以上が経ち、いまでは、「命どぅ宝」は反戦平和のシンボルとして定着している。多くの人が「命どぅ宝」は最初から反戦平和の格言として生まれてきたと信じている。
反戦平和の思想が生まれる前から「命どぅ宝」の格言はあった。しかし、この事実を知っている人でさえ本当のことを言わなくなった。ネットで「命どぅ宝」の本来の意味を説明しているサイトひとつもない。私の子供の頃は「命どぅ宝」を反戦平和とは違う意味で日常的に使っていた。
 
 苦い薬を飲むのを嫌がる子どもに親は「命どぅ宝どう」と諭して飲ました。
危険な遊びをしている子供に、「命どぅ宝どう」と言って危険な遊びをやめさせた。
辺野古に住むある老人が「命どぅ宝」だから普天間基地の辺野古移設に賛成すると話しているのが新聞に載ったことがある。「命どぅ宝」が反戦平和のシンボルだと思っている人は老人のいう「命どぅ宝」を矛盾していると思っただろう。老人は「命どぅ宝」を生きていくためには背に腹は代えられないという意味で使った。辺野古は過疎化が始まっていて、辺野古の過疎化イコール辺野古の死であると老人は考え、過疎化を食い止めるためには普天間飛行場の受け入れも仕方がないという意味で「命どぅ宝」と言ったのである。

テロリストアルカイダはニューヨークの貿易センタービルに旅客機を衝突させて貿易センタービルを破壊し多くの命を奪った。ペンタゴンにも衝突してペンタゴンに大きな被害を与えた。ホワイトハウスも航空機で爆破しようとした。アメリカ軍がアフガンに侵攻したのはアメリカをテロの標的にしているアルカイダを殲滅するのが目的であった。アルカイダはアフガンを根城にし、タリバン政権がアルカイダを匿っていたからだ。
アメリカはタリバン政権を倒してアフガンを民主主義国家にすることと、アフガンにいるアルカイダを殲滅することを目的にアフガンに攻め入った。「命どぅ宝」をシンボルにした沖縄の反戦・平和主義者たちはアメリカが目的としているアフガンの民主化にはほとんど関心を示さないで戦争反対を掲げてアメリカのアフガン攻撃に反対した。
イスラム原理主義のタリバンが独裁支配していたアフガンは、アルカイダを匿っていただけではなく、国内のすべての音楽を禁止していて、娯楽や文化を否定していた。市民に対する見せしめでもある公開処刑を日常的に行っていた。耳そぎや鼻そぎの刑も日常的に行われていた。女性は学校に行くことも働くことも許されなかった。過酷な女性差別のためにアフガンの女性は悲惨な生活を強いられていた。働くことを許されない未亡人は乞食をして生活を支えるしかなかった。
タリバンが独裁支配していたアフガンの悲惨な社会に沖縄の反戦・平和主義者たちは目を向けることはなく、アメリカ軍のアフガンへの攻撃を「罪のない女や子供が犠牲になる」と主張して大反対した。
アメリカ軍はタリバン政権を倒しアフガンを民主主義国家にした。アメリカはアフガンの国家が女性の人権を守り、自由と平等の社会を築く方向に進むように努力している。
アメリカ軍はフセイン独裁政権を倒した。そして、イラクを民主主義国家にした。イラクが民主主義国家を自力で築くことができるようになると、宗教対立による爆弾テロや反政府の爆弾テロは絶えることはないがアメリカ軍はイラクから引き上げた。アメリカ軍はアフガンからも2014年に引き上げる予定である。
もし、アメリカ軍がタリバン政権やフセイン政権を倒さなかったら、現在もアフガンとイラクは独裁国家であり、市民は弾圧され自由のない差別社会で苦しみ、罪のない多くの人たちが刑務所に入れられたり処刑されたりしていただろう。アフガンとイラクが民主主義国家になったことは非常に喜ばしいことである。


●「命どぅ宝」の反戦・平和主義者たちはアフガン・イラクが民主主義国家になったことにはなんの興味も示さない。
●「命どぅ宝」の反戦・平和の思想は単純に戦争がなくなればいいという思想である。戦争さえなければ、人民を弾圧し、搾取する独裁国家であっても黙認するのが「命どぅ宝」の反戦・平和の思想である。
●「命どぅ宝」の反戦・平和主義は人権、自由、平等の民主主義の思想が欠落している。
●「命どぅ宝」の反戦・平和主義では人権・自由・平等の民主主義社会を築けない。
  

Posted by ヒジャイ at 18:06Comments(1)

2015年06月24日

「沖縄に内なる民主主義あるか」第一章 琉球処分は何を処分したか


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
4月30日より県内書店で発売しました。

本の説明はこちら




県内取次店
沖縄教販
○県外は書店で注文できます。
県外取次店
(株)地方小出版流通センター

「沖縄に内なる民主主義はあるか」
第六章 八重山教科書問題はなにが問題だったか全文
第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない全文
第四章 基地経済と交付金の沖縄経済に占める深刻さ全文
第三章 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の真っ赤な嘘全文
第二章 命どぅ宝とソテツ地獄全文
第一章 琉球処分は何を処分したか全文

  
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この本をもって、琉大演劇クラブ時代のよき仲間、
ゼンジー(又吉全次)・ケン(新城清憲)・テイ(仲里貞雄)
への鎮魂歌とする。








狼魔人日記の江崎さんに感謝する
 自費出版をしようと決心し、ネットで自費出版を募集している出版社を探した。B出版社は県産本を売り出すのに積極的であり自費出版にも力を入れているので、B出版社に原稿を送り見積もりを依頼した。ところがB出版社から原稿が届いたという連絡が二日過ぎても三日過ぎてもなく、とうとう一週間が過ぎてもなかった。私は不安になり、B出版社に電話をした。すると受付の女性は原稿については編集の人しか知らないので、後で編集の人に電話させるからと言って電話を切った。
しばらくして編集の人が電話してきて、私の原稿を自費出版することはできないと遠回しに話した。全然予想していなかったことだったので相手の話を私はなかなか理解できなかった。暫く問答をしてやっと自費出版が断られていることに気がついた。表現の自由の先頭に立つべきである出版社が私の自費出版を断るとは信じられないことである。一瞬、私は言論弾圧されていた戦前の日本に居るような錯覚を覚えた。
自費出版を断られたことをブログに書いたら、ブログを読んでいる人から自費出版を募集している出版社の情報があり、二つの出版社に原稿を送った。しかし、結果は同じだった。自費出版を募集している出版社に自費出版を依頼して断られたのだ。あり得ないことである。
私は活動家でもなければ反社会的な団体に属してもいない。私は沖縄で60年余り生きてきたひとりのウチナーンチュである。ストレートな気持ちで書いたこの本は私の純粋な意見発表である。自費出版を断られる理由がない。しかし、断られた。
「沖縄に内なる民主主義はあるか」という私の問いに出版三社は、「ない」と答えたのだ。沖縄の出版社までもが民主主義思想がないことに私は愕然とした。
断られた時は頭が真っ白になったが、こんなことで悲嘆にくれるような私ではない。次第に私の反骨精神が頭をもたげてきた。「なんとか自費出版をお願いします」と頭を下げながら出版してくれる会社を探すより自分で出版社をつくったほうがいいと考えるようになった。
出版社をつくる決心をした私はネットでISBNコードを取得する方法を探し、狼魔人日記の江崎さんに原稿を送り添削・校正をお願いした。私は江崎さんと面識はなかった。私のブログを狼魔人日記に数回転載したことがあるだけだ。面識のない江崎さんに突然添削・校正をお願いするなんて無鉄砲なことであるが、私は時々こんな無鉄砲なことをやる人間だ。私の突然の依頼に江崎さんは快く引き受けてくれた。これもまた嘘のようだが本当の話だ。江崎さんに感謝する。江崎さんがいなければこんなに早く本を出版することはできなかった。
自費出版を断られた時、私は原稿をブログで公開した。すると、琉球王国の士族の人口比を5%にしてあることが間違いであることを篠原章さんが指摘してくれた。篠原章さん、ありがとう。
ブログを通じて知り合った多くの人々がこの本の出版の後押しをしてくれた。とても感謝する。
 シロウトがつくった本だ。少々の失敗には目をつむってくれ。
江崎孝 狼魔人日記・http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925
篠崎章 批評・COM・http://www.hi-hyou.com/
民間の出版会社で言論封殺があるのはとても残念である。沖縄の出版界は表現の自由の先頭に立ち、法を犯していない限り、思想的な内容で自費出版の是非を決めるのはなくしてほしい。



第一章 琉球処分は何を処分したか

明治政府の近代化と法治主義
明治政府は江戸幕府の士農工商の身分制度を廃止して四民平等の社会にした。そして、廃藩置県を行い幕藩政治から近代中央集権政治をつくり上げていった。廃藩置県は日本の近代化の始まりであり、明治政府の近代化政策と琉球処分は密接な関係にある。明治政府の近代化の歴史を知ることによって、琉球処分がなんであったかを理解することができる。
明治政府はヨーロッパの先進国と肩を並べるために近代国家をめざした。近代国家の第一歩は中央政府のつくった法律を全国に一律に適用して法治主義に徹することである。そして、軍事・教育・司法・財政の四つを中央政府が主導権を握ることである。明治政府は廃藩置県を行って日本を中央集権化すると同時に、大日本帝国憲法を制定して全国を一律の法律で統治する法治主義社会を確立させていった。明治政府樹立の一八六七年から、法治主義と司法権の独立を確立させた一八九一年までの明治政府の歴史を辿ってみる。歴史をみれば、沖縄だけが特別に琉球処分をされたのではなく、日本の近代化の流れの中で琉球処分があったことが分かる。

明治政府 一八六七年―一八九一年
一八六七年、慶応三年十月十四日―第十五代将軍の徳川慶喜が明治天皇に統治権の返還を表明し、翌日、天皇はこれを勅許した(大政奉還)。同年十二月九日(一八六八年一月三日)に江戸幕府は廃止され、新政府(明治政府)が設立された(王政復古)。
一八六九年(明治二年)、版籍奉還がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と人民に対する統治権をすて
て天皇に奉還した。
   (沖縄は琉球王朝だったために、版籍奉還ができなかった。明治政府は琉球王朝を琉球藩にしてから版籍奉還をすることにする) 注 明治政府が法的手続きを重視していることが分かる。
第一章 琉球処分は何を処分したか
一八七一年(明治四年)、廃藩置県が行われ、名実共に藩は消滅し、国家権力は中央政府に集中された。
(すべての藩がその年に廃藩置県をしたわけではない。明治二十一年に廃藩置県をした藩もある。琉球藩の廃藩置県も遅い。明治政府は琉球王朝が特殊なケースだったので琉球処分官を置いて廃藩置県の施策を行った)
一八七一年(明治四年)、士族の公務を解いて、農業・工業・商業の自由を与え、また、平民もひとしく公務に就任できることとした。(四民平等・身分制度の解体)
一八七二年(明治五年)徴兵制度を採用し、国民皆兵主義となったため、士族による軍事的職業の独占は破られた。このようにして、武士の階級的な特権は廃止された。

共通語励行を特に必要としたのが全国から兵士を集める軍隊であった。方言では話が通じな
い。軍隊では意思疎通のために方言を排し、共通語励行を実施した。方言の問題は言葉だけでなく発音の問題もある。沖縄の方言には本土とは違う発音が多い。沖縄方言には「だ」という発音はない。沖縄方言は「だ」と「ら」の間の発音をする。本土の人には「ら」と聞こえる。子どもの頃にこんな笑い話を聞いたことがある。
ある上官が、沖縄出身の初年兵に向かって、「お前は朝飯を食ったか」と聞くと、沖縄出身の初年兵は「いいえ、まらです」と答えたという。日本語で「まら」は男根のことである。大真面目で「まら」と答えた沖縄出身の初年兵に上官は大笑いした。
沖縄方言だけを使っている人は、早口言葉の「どろぼうがどろに転んでどろだらけ」が苦手である。「どどぼう」と言ったり「ろろぼう」と言ったりする。
一八七五年(明治八年)、立憲政体の詔書(漸次立憲体樹立の詔)が出された。元老院、大審院、
地方官会議を置き、段階的に立憲君主制に移行することを宣言した。
一八七八年(明治十一年)府県会規則を公布して、各府県に民選の府県会(地方議会)を設置した。これが日本で最初の民選議院である。
一八八一年(明治十四年)、国会開設の勅諭が発された。
一八八五年(明治十八年)太政官制を廃止して内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣となった。
一八八九年(明治二十二年)大日本帝国憲法が発布され、国民に公表された。
一八九一年(明治二十四年)、日本を訪問中のロシア皇太子・ニコライ(のちのニコライ二世)が、滋賀県大津市で警備中の巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した。いわゆる大津事件である。この件で、時の内閣は対露関係の悪化をおそれ、大逆罪(皇族に対し危害を加える罪)の適用と、津田に対する死刑を求め、司法に圧力をかけた。しかし、大審院長の児島惟謙は、この事件に同罪を適用せず、法律の規定通り普通人に対する謀殺未遂罪を適用するよう、担当裁判官に指示した。かくして、津田を無期徒刑(無期懲役)とする判決が下された。この一件によって、日本が立憲国家・法治国家として法治主義と司法権の独立を確立させたことを世に知らしめた。

琉球処分は悪いことなのか
沖縄では、明治政府が行った琉球処分を悪い意味で琉球が処分されたと解説する人が多い。沖縄の知識人の多くが琉球処分を日本政府が沖縄の独立性を奪ったこととして否定的に考えている。本当に琉球処分は琉球の人々にとって悪いことだったのか。
明治政府は日本全国で廃藩置県をおこなった。それは明治政府が日本の近代化のための政治改革であった。琉球処分というのは廃藩置県のことであり、日本全体の政治改革の流れの中に琉球処分はあった。廃藩置県は封建社会から近代社会へ転換させる日本の一大政治改革であった。
大和朝廷から江戸幕府まで、日本は地方の独立した国々に分かれ、中央政府が日本全体を直轄する政治をしたことはなかった。天下を統一したといわれている江戸幕府でも、地方は藩の独自の法律があり、政治・経済は江戸幕府から独立していた。江戸幕府の命令で参勤交代や江戸幕府が工事をする時の資金や労役を江戸幕府に提供する義務はあったが、藩内の政治・経済は江戸幕府から独立していて藩が支配していた。
廃藩置県は、藩の独立を廃止し、藩の代わりに県を設置して中央政府が直接管轄するシステムに変えることであった。琉球処分を理解するには廃藩置県について知る必要がある。

廃藩置県
廃藩置県とは明治四年七月十四日(一八七一年八月二十九日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。
廃藩置県は明治四年に始まり、明治二十二年(一八八九年)には三府四十三県(北海道を除く)となって最終的に落ち着いた。廃藩置県をなし遂げるには十八年という長い歳月が掛かった。
平安時代後期から江戸時代までずっと続いてきた特定の領主がその領地・所領を支配するという土地支配のあり方を否定し、藩を解体して、明治政府が政治権力の中心となる中央集権政治を目指したのが廃藩置県である。江戸幕府が全国を統一したといわれるが、本当の意味で全国を統一したのは明治政府だといえる。廃藩置県は日本の過去の歴史にはない新しい政治体制つくりであり、明治政府はヨーロッパの国を参考にしながら暗中模索の中で政治改革をやった。
廃藩置県の目的は軍事・教育・司法・財政の四つを明治政府が主導権を握ることであった。江戸幕府時代は、藩は独立していて軍事・教育・司法・財政はそれぞれの藩が独自に行っていた。お金も藩札があり、それぞれの藩で発行していたが、藩札を廃止して貨幣の発行を明治政府に一元化することも廃藩置県でやらなければならない大きな事業であった。

廃藩置県で明治政府が恐れたのは藩の反乱であった。藩が一斉に政府に反発して反乱を起こせば明治政府が滅びてしまう恐れがある。明治政府は藩が反乱しないように神経を使い、できる限り武力を行使しないで粘り強く説得しながら着実に廃藩置県を実現していった。
第一章 琉球処分は何を処分したか
明治二年(一八六九年)、二七四藩の大名から版籍奉還が行われ、土地と人民は明治政府の所轄する所となった。しかし、それは廃藩置県ではなかった。一気に廃藩置県をやれば反発する大名もいたからだ。だから、最初のステップでは土地と人民は明治政府の所轄する所となったが、反発を和らげるために各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たった。版籍奉還は幕藩体制の廃止の一歩となったものの版籍奉還の現状は江戸時代と同様であった。
明治政府は二年後の明治四年(一八七一年)に在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。廃藩置県をすることによって年貢は新政府に収めさせることになった。廃藩置県で明治政府は中央集権を確立して国家財政を安定させた。
藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住を命じられた。各県には知藩事に代わって新たに中央政府から県令が派遣された。中央集権国家の始まりである。
各藩の藩札は当日の相場で政府発行の紙幣と交換されることになった。貨幣の全国統一の始まりである。
新しい県令などの上層部には旧藩とは縁のない人物を任命するためにその県の出身者を起用しない方針を採った。
しかし、幾つかの有力諸藩ではこの方針を貫徹できない県もあったが、明治六年(一八七三年)までには大半の同県人県令は廃止されている。
当初は藩をそのまま県に置き換えたため現在の都道府県よりも細かく分かれていて、三府三百二県あった。また飛地が多く、地域としてのまとまりも後の県と比べると弱かった。そこで明治四年(一八七一年)には三府七十二県に統合された。しかし、地域間対立が噴出したり事務量が増加するなどの問題点が出て来た。そのため分割・統合が進められて、明治二十二年(一八八九年)には三府四十三県(北海道を除く)となって最終的に落ち着いた。
このように廃藩置県は明治政府にとって一大事業であり、日本という国を根本から政治変革するものであった。琉球王国から沖縄県にするまでを明治政府は琉球処分と呼び、「琉球処分官」を置いて、琉球王府側と交渉をした。琉球処分は全国の廃藩置県のひとつとして行われたのであり、沖縄だけ特別に行われたのではなかった。
明治政府は琉球王府側の色々な反発を跳ね除けながら、明治五年から明治十二年までの七年をかけて廃藩置県を実現した。

琉球王国時代は富む士族と貧しき平民に分かれていた
琉球処分を否定するかそれとも肯定するか、その判断をするためには琉球王国時代の社会を知る必要がある。

 琉球王国の身分構成

身分        戸数        割合
王子        2戸        0・002%
按司        26戸       0・032%
親方(総地頭)   38戸       0・047%
脇地頭親方・親雲上 296戸      0・367%
一般士族      20、759戸   25・79%
平民        59,326戸   73・71%

琉球王国の中でも財産があり、豊かであったのは、王子2戸(0・002%)、按司26戸(0・032%)、親方38戸(0・047%)、脇地頭親方296戸(0・367%)だけであり、事実上琉球を支配していたのは全戸数のわずか0・448%の戸数の士族であった。
士族の戸数は全戸数の26・29%を占めていたが、士族の98%を占める一般士族は王府勤めを待ち望む無禄士族であり、実際に王府に勤めていたのはごく一部であった。多くの一般士族は貧しい生活を送っていた。

琉球王国はわずか0・448%戸の士族が支配している独裁国家であった。わずかの人間たちだけが贅沢な生活をやり、平民は貧しい生活を強いられていた。琉球王国は一六〇九年に薩摩藩に支配されたので、毎年薩摩藩に多くの産物を献納しなければならなかった。

年貢   9000石
芭蕉布  3000反
琉球上布 6000反
琉球下布 10000反
むしろ  3800枚
牛皮   200枚

沖縄の農民は薩摩藩と琉球王府に二重に搾取されていたことになる。そのために琉球の農民の生活は苦しく、蓄えがほとんどなかったので干ばつに弱く、農民は干ばつになるとソテツを食べて命をしのいだ。それをソテツ地獄という。琉球王国の農民は餓死者が出るソテツ地獄に何度も襲われ、極貧の生活を送った。

これが琉球王国の実態である。首里城の豪華さは農民の貧困の裏返しであった。

沖縄県の誕生は近代化の始まり
日本は、坂本龍馬など多くの維新の志士たちが活躍して一八七八年に新しい国家をつくった。新しい国家は四民平等の社会をつくりあげ、人々の国内の移動が自由になった。そして、軍事・教育・司法・財政の四つを中央政府が行う中央集権政治をやるようになった。
琉球王朝が沖縄県になると琉球王府の代わりに知事が中央政府から派遣された。
琉球処分で琉球王国から沖縄県になった沖縄はどのように変わっただろうか。
第一章 琉球処分は何を処分したか

一、琉球王府に代わり中央政府から派遣された知事が沖縄を統治した。
二、身分制度が廃止され、四民平等になり、農民と武士の人権が等しくなった。
三、琉球王府の裁判権は剥奪され、全国一律の法律が適用された。
四、琉球王府の軍隊・警察は解体され、明治政府の軍隊・警察が沖縄に配備された。
五、沖縄県は明治政府が発行する全国統一された貨幣を使用するようになった。
六、沖縄の人々の本土への渡航が自由になった。
七、謝花昇のように貧しい農家出身でも才能があれば出世できるようになった。
八、八重山地方の人頭税が廃止された。
九、 義務教育が実施され、武士階級だけに行われていた教育が、身分に関係なく県民全員が小学校
教育を受けるようになった。

琉球処分は明治政府が全国で行った日本の近代化政策の沖縄版であり、琉球処分というのは琉球を独裁支配していた琉球王府を処分し、琉球王国の古い身分制度を廃止して、沖縄を四民平等の近代社会にすることであった。
琉球処分をマイナスとして考えるのは琉球王国の独立を重んじ、他国が琉球王国へ介入することへの反発が原因である。琉球処分を否定的に捉える人たちは琉球のことは琉球が決めるという琉球の独立性を尊重している。彼らの思想は琉球独立主義であり琉球民族主義とでも呼べるものである。
琉球独立主義、琉球民族主義は琉球の政治をつかさどるのは琉球人の自主性に任せるべきであって他民族が介入するべきではないと考える。しかし、彼らは琉球の独立性だけにこだわり、琉球が身分制度のある封建政治であるのか、独裁政治であるのか、それとも自由・平等の民主主義政治であるのかを問題にしない。彼らは琉球が琉球民族で占められ他国から政治介入がなければ琉球が独裁国家であっても琉球の民は幸せであると錯覚している。
琉球王国は一部の士族だけが裕福で豊かな生活を送っていただけであり、多くの農民は自由もなく貧困生活を強いられていた。琉球王国時代の農民は貧しく不幸であった。
日本が江戸幕府から明治政府になると、明治政府は廃藩置県を琉球処分と称して「琉球処分官」を配置した。明治政府は琉球王府の要求をすべてつっぱねて強引に廃藩置県を実現した。琉球民族主義者からみれば日本政府の琉球処分は理不尽な行為であるし、琉球の法律を一方的に廃止して、日本政府の法律を押し付け、琉球の人々の人権を無視した侮辱行為であると考える。しかし、琉球民族主義者は、搾取する者と搾取される者、富める者と貧しき者、支配する者と支配される者の階級差別のある琉球王国の内部の矛盾を考えない。琉球王国が農民を搾取して虐げていた独裁国家であったことを琉球民族主義者は軽視している。
琉球王国は身分制度社会であり、士族階級が支配している社会であった。全体の73・71パーセントの戸数を占める農民や漁民などの平民の生活が貧しかったのはいうまでもない。それだけでなく士族階級の98パーセントの戸数を占める下級武士も貧しい生活を強いられていた。琉球王国時代の99パーセントの戸数は貧しい人々が占めていたということになる。豊かであったのは琉球王国の0・448パーセントの戸数を占める身分の高い士族だけであった。
琉球処分に反対したのは、財産があり豊かな生活を送っている琉球王府の身分の高い士族たちであり、彼らは自分たちの豊かな生活を守る目的で琉球処分に反対した。琉球王国/時代は政治をやるのは士族階級であり、農民は政治に参加できなかった。明治政府との交渉は身分の高い士族がやった。交渉を行った身分の高い士族は自分たちの既得権を守ろうとしたのであって琉球の人々のために政治交渉をしたのではなかった。

明治政府と琉球王府の裁判権についての駆け引き
明治政府はすべての裁判を明治政府がやると通達したが、琉球王府の池城親方らは、他府県人と琉球の人間が絡んだ事件は明治政府の出張所で裁いてもいいが、琉球の人間同士の事件ならば琉球藩庁に裁判権を与えるように要求した。
琉球王府は琉球藩の独立性を維持したかった。そのためには琉球の民だけは琉球王府の支配下に置きたかった。琉球王府は琉球藩が本土他府県とは違うことを強調し、琉球藩の独自性を政府に訴え、藩内人民と他府県人がからむ事件については、刑事民事を問わず内務省出張所で裁くのもやむをえないとしても、琉球人に関する事件は、刑事民事共に藩庁に裁判権を与えてもらいたいと要請した。それは琉球のためというより琉球王府の政治権力を維持し、琉球の民を琉球王府が支配するシステムを維持させるのが目的であった。

琉球王府は日本軍の沖縄駐留も阻止しようとした。しかし、中央集権国家を目指している明治政府が琉球王府の要求を聞き入れることはなかった。
明治政府は琉球王府の要求のほとんどを受け入れないで、琉球処分を強行し、琉球王府の権力をすべて奪った。
明治政府の強引なやり方に対して琉球処分を批判する人が多いが、琉球王国時代の社会と廃藩置県後の社会を比較して琉球処分を評価するべきである。
琉球処分は、琉球藩の政治実権を握っている琉球王府にとっては嫌なことであっただろうが、士族に搾取されて貧しい生活を強いられていた農民にとっては歓迎すべきものであった。琉球処分を否定的に評価するということは琉球王国の独裁政治を認めることになる。民主主義思想からみれば身分制度を廃して四民平等の政治改革をやった明治政府の琉球処分は大いに評価できる。

沖縄は植民地になったのではなく日本になった

明治政府が沖縄を政府の管轄に移行する様子を大田昌秀氏は「こんな沖縄に誰がした」の「裁判権の有様に見る国家権力の思惑」に次のように書いている。

明治政府は明治五年(一八七二年)に琉球王国を「琉球藩」とした。藩にすることによって他の藩と同じように琉球王朝を日本のひとつに組み入れた。それから五年後に、大久保利通内務卿は太政大臣三条実美あてに出した文章でこう述べている。

先般琉球藩に対し、日本の刑法を遂行すべき事を指示したけれども、よく考えてみると、琉球藩はいまだ頑迷で、万事において未発達の状態にあるので、その実施は容易なものではない。したがって同藩内の人々相互間に生ずる事件の裁判については、刑事・民事事件とも同藩に委任してもよいかと思う。

しかし、琉球藩に居住する内地人民と藩内人民との間に起こる刑事民事の裁判に至っては頗る難事にして、若し誤刑失判等あるときは不足の患害を生ずることなきを保たずと存じ候。然れば該地に在る当省出張所に裁判の権を分有せしめ、琉球人同士の刑事・民事事件については同藩の裁判に委ね、内地人民及び兵員は随いて出張所と営所と所管事項を各分して裁判すべき乎。然れども国法を同じうして裁判権を各分するは(軍律は特殊のものなるを以って営所は別に裁判権を有するは論なし)国権に関係し遂に当分専ら御詮議ある所の支那云々の事件に差響き甚だ不可然。

したがって、琉球藩に裁判所を設置するのはよいとしても、同藩の現状からして、裁判所と出張時の両方を維持するのは、不経済である。そのため、今後は琉球藩士の裁判権を解いて、内務省出張所に権限を移し、そこの官吏に判事や判事補の仕事を兼任させ、同時に内地人に対する警察事務も出張所に委嘱する旨を琉球藩王と内務省へ通達していただきたい。
「こんな沖縄に誰がした」より

明治政府の目的は琉球王国を琉球藩にしてそれから沖縄県に移行して沖縄に全国一律の法律を適用することであった。それを実現するには琉球藩の政治を行う人間たちの理解が必要となる。大久保利通内務卿は、琉球藩は文化の遅れがあり琉球藩が日本の刑法を理解してそれを遂行できるかどうかを不安視している。そのために、琉球人同士の刑事・民事事件については同藩の裁判に委ねたほうがいいと考えるが、そうすると全国同一の法を適用する法治主義と矛盾することになる。大久保利通内務卿が琉球藩の特殊事情と明治政府の政治改革の間で悩んでいる様子が伺える。大久保利通内務卿が悩んだ末に選択したのは裁判も警察も明治政府が行うことであった。
大久保利通内務卿の要求を受けて太政大臣三条実美は、琉球藩内の人民も琉球藩外の人民も区別しないで全ての人間を内務省出張所で裁判を行うと琉球王府に通知した。
一、 藩内人民相互の間に起こる刑事(事件)は藩庁これを鞠訊し、内務省出張所の裁判を求むべし。
二、 藩内人民相互の間に起こる民事及び藩内人民と他府県人民(兵員と普通人民とを論ぜず)との間
に相関する刑事民事(事件)は直ちに内務省出張所に訴えしむべし。
太政大臣三条実美の通知は明治政府が目指している中央集権を念頭におき、明治政府の定めた法律で日本全国一律に裁判をするという法治主義に徹底した通知であった。

大田昌秀氏は「こんな沖縄に誰がした」で、琉球藩の藩内の人々の裁判を琉球藩がやることを明治政府が認めなかったことを批判している。大田昌秀氏は、「沖縄は新付の『植民地』以外のなにものでもなかった」と、明治政府が琉球藩の藩内の人々の裁判を琉球藩がやることを認めなかったことを沖縄を日本の植民地にする施策・態度であったと解釈している。
大田昌秀氏の主張しているような沖縄を植民地にするという目的は明治政府にはなかった。沖縄を植民地にするというのは、沖縄を武力で支配し、沖縄の人々の人権を認めないで沖縄の人々を搾取することである。薩摩藩は琉球を武力で支配し、琉球を搾取していた。だから琉球は薩摩藩の植民地であったといえる。しかし、明治政府が琉球王府の要求を認めないで、藩内の刑事・民事の全てを内務省出張所による裁判をするというのは琉球王府による士族支配をやめさせて、琉球藩を日本国の中のひとつの県にすることであった。それは沖縄が日本になることであって日本の植民地になることではない。

琉球王府は士族階級が支配する政治を維持しようとしている勢力である。大田氏が琉球王府の主張を支持するということは沖縄の士族階級の独裁支配を認め、身分制度を認めることになる。
大田氏は廃藩置県の内容を検証しないで、明治政府イコール強大な国家、琉球王国イコール弱小国とみて、琉球処分を大国が小国を強引に支配する構図としてみたのである。大田氏は「琉球処分」の過程で、明治政府が、内務省出張所の平役人に裁判官の役目を委任したり、警察事務を兼務させたことで、「明治政府首脳の目には新付の『植民地』以外のなにものでもなかったのだ」と述べ、「実際には武力で平定した主従関係でしか見ていなかったからだ」と明治政府の琉球処分は沖縄を植民地にする施策だと批判している。

明治政府は、廃藩置県に琉球王府が実力で反対した場合は武力を用いると琉球王府を脅したこともあった。大田氏の主張するように琉球王府が明治政府の要求を頑として受け入れなかった場合は、明治政府は武力を使って琉球王府を滅ぼし、廃藩置県を断行していただろう。
明治政府が琉球藩に使う武力は沖縄の民を弾圧するものではなかった。沖縄の支配者である琉球王府を倒すための武力であり、沖縄の民を琉球王府の支配から解放する武力であった。

大田氏は、明治政府が琉球王府首脳の反対を押し切って琉球藩を大阪上等裁判所の管轄内に置いたことを、「裁判権の所在をめぐる日本政府と琉球藩との以上のような対話を見ていると、戦後のアメリカ軍政も、明治政府の琉球政策をまるでそのまま踏襲したのではないか、という気さえするほどだ。強大な国家支配権力の弱小国に対する施策・態度は、所詮民族の違いの如何にかかわらず似たり寄ったりというほかない」と述べている。
八重山や奄美大島は昔は独立国であった。沖縄本島も三山時代があり三つの独立国に分かれていた。尚巴志が三山を統一して琉球王国をつくった。そして、琉球王国は八重山や奄美大島の国々を武力で倒し支配した。その琉球王国は薩摩藩に戦争で負けて薩摩藩の支配下に置かれた。
琉球王国が薩摩藩に支配されるまでの歴史は大田氏が述べた通りである。
しかし、明治政府が行った琉球処分は琉球王国が八重山、奄美を支配したり、薩摩藩が琉球王国を支配したこととは内容が違う。
琉球王国や薩摩藩は弱小国を植民地にして民から搾取をしたが、明治政府が琉球処分で処分したのは琉球王府であり、琉球の民ではなかった。明治政府は琉球の民を琉球王府の支配から解放し、身分制度を廃して四民平等の社会にした。琉球処分後の琉球は琉球王府の支配する社会でもなく、薩摩藩の植民地でもなく、明治政府の植民地でもなかった。琉球は沖縄県となり日本の一部となった。

琉球処分は沖縄の近代化の始まりであった
日本政府が行った沖縄への裁判所設置は、明治政府のつくった法律を全国一律に適用する目的があったのであり沖縄だけを特別視したわけではない。明治政府は沖縄を全国と同じように四民平等の社会にし、軍事・教育・司法・財政の四つの全国統一した政治を沖縄にも実施したのだ。
大田氏のように琉球王国の独立性を重視して、「強大な国家支配権力の弱小国に対する施策・態度」にこだわれば琉球王国から沖縄県になったことの本当の姿を見誤る。明治政府の裁判は明文化された法律に従い、裁判を受ける全ての人に平等に適用するものであったが、琉球王府の裁判は琉球王府の士族による裁判であり、不平等裁判であった。琉球王府による裁判は明治政府のように法律は明文化されていなくて士族に有利な裁判が行われた。
琉球藩は士族階級の琉球王府が支配する差別社会である。琉球藩は沖縄人同士の事件は琉球藩に裁判させるように要求したが、琉球藩の裁判が身分差別の裁判になるのは確実だ。武士が農民を犯したり殺したりしても重い罪にはならなかっただろうし、無罪になったりもしただろう。逆に農民が士族に危害を加えれば重罪に課せられただろう。
明治政府は法律をつくるために先進国であるヨーロッパから法律を学んだ。明治政府の法律は琉球藩の法律より近代的であり四民平等の法律であった。大田氏は明治政府が琉球藩の要求をすべて跳ね除けて、全ての裁判を明治政府が行うことを琉球藩に強制していく様子を強大な明治政府が弱小国琉球藩を強引に支配していくと理解しているが、そのような理解は間違いである。明治政府は廃藩置県で琉球藩を沖縄県にした。明治政府は琉球藩を弱小国と見たのではなく日本のひとつと見たのだ。明治政府は沖縄県を他県とは別の法律を適用して差別したのではなく、日本全ての県と同じにして沖縄と他県を平等にしたのだ。他県では明治政府のやり方に反発した武士たちが決起して乱を起こしたところもある。乱はことごとく明治政府によって鎮圧され、決起した武士たちは処刑された。琉球処分を研究するときは明治政府の歴史を理解し、他県との比較検討をするべきだ。
琉球王朝は実質的には薩摩藩の植民地でありながら表向きは独立王国を装っていたので他県とは事情が異なるが、明治政府が沖縄を沖縄県にした目的は、沖縄の民を薩摩の支配から解放し、琉球王府からも解放して、日本国の中の国民にすることであった。

大田氏は日本国と琉球王国を対比させている。日本国は大国であり琉球国は小国である。強い大国日本は弱小な琉球王国の意見は聞かずに一方的に大国のやりたいことを小国に強制すると解釈している。日本国、琉球王国という国と国の関係で考えるとそういうことが言える。
しかし、廃藩置県を国と国の関係で考えるのは間違っている。明治政府は四民平等を掲げる政府であったが、琉球王府は士族階級が支配する身分制度を維持しようとしている独裁国家であった。琉球処分を琉球すべての処分とみるかそれとも琉球の支配者である士族階級の処分とみるかで琉球処分の評価は分かれる。
琉球処分をどのように評価するかは評価する側の思想によって違ってくる。民主主義の目からみれば、琉球処分は琉球王府の独裁支配から沖縄の民を解放して四民平等の社会をつくったと理解する。そして、沖縄の近代化への始まりであったと理解する。明治政府が沖縄を植民地にしたのが琉球処分であると考えるのはあまりにも愚かな思想である。
  

Posted by ヒジャイ at 17:58Comments(1)

2015年06月20日

伊佐浜の激しい抵抗運動の裏の存在非合法沖縄共産党


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伊佐浜が激しい抵抗運動になった原因

 伊佐浜の強制撤去
伊佐浜の水田は収穫量も多く、戦前から「チャタンターブックヮ」(北谷のたんぼ)」と呼ばれる美田が広がっていました。戦時中も米軍の土地接収からもまぬがれ、戦後もかつてのように稲が植えられていました。
 米軍は1954(昭和29)年12月に住民へ立ち退きを勧告しましたが、翌年1955年3月11日、武装兵とブルドーザーを出動させ、約3万坪の土地を接収しました。また3月14日には、伊江島の真謝でも約300人の武装兵が島に上陸し、家から住民を追い出した後、13個の家屋をブルドーザーで破壊して焼き払い、10万8千坪の土地が米軍に接収されました。
 その状況に対し、琉球政府立法院でも住民の生命と財産を守る基本的な立場から米側に対して軍用地収容取り止めの請願を再三行いました。
「土地収用家屋立退き指令撤回要求決議案」第5回臨時第5号 1955年3月4日 
 同年7月11日、米軍はさらに伊佐浜の土地を10万坪(立ち退き家屋32戸)接収すると通告し、住民は「土地取上げは 死刑の宣告」などのノボリを立てて反対しました。しかし、7月19日の夜明け前、武装兵に守られたブルドーザーやクレーンにより家屋が取り壊され、32個136名の住民が住む家を失いました。
 この土地の強制収容は県民に大きな衝撃を与え、米軍の占領支配への抵抗運動として「島ぐるみ闘争」へと発展していきました。
                 「沖縄県公文書」
 有名な銃剣とブルドーザーによる伊佐浜の土地接収である。1954(昭和29)年12月、米軍は宜野湾村伊佐浜の住民へ立ち退きを勧告、55年3月に再度通告したが区民、支援者は座り込みで反対した。米軍の武力による強制接収の時には多くの逮捕者や負傷者が出た。土地接収は伊佐浜や伊江島だけではなかった。他の多くの場所で土地接収があった。
米軍は1953(昭和28)年4月3日に琉球列島米国民政府布令第109号「土地収用令」を公布し、同年4月11日に真和志村(現那覇市)の銘苅と安謝の一部、ついで天久と読谷村渡具知、楚辺、同年12月には小禄村具志で土地接収をやった。だが、伊佐浜のように土地接収に反対し、座り込みなど激しい抵抗運動をしたのは他の土地ではなかった。戦争で勝利した米軍に住民が命がけで抵抗する気力はなかったはずである。伊佐浜と伊江島の抵抗運動は特殊なケースであったのだ。
戦前は中央集権時代であり、沖縄の政治は中央政府から派遣された知事が絶大なる権力を握っていた。沖縄の住民は中央政府に支配されていたし、軍国主義時代も沖縄の住民は政府に従順であった。日本軍が沖縄に飛行場や軍事基地を造るための土地接収をした時も無抵抗であった。嘉手納飛行場をつくるために土地を接収された人に、「日本軍の土地接収に抵抗をしなかったのか」と聞いたことがある、その人は「反対したら日本刀で斬り殺されたかも知れない」と言い、日本軍を恐れおののいていた。沖縄の人たちにとって日本軍は絶対権力者であり、頼もしい存在であるとともに怖い存在でもあった。
戦後の沖縄の人々は米軍を戦前の日本軍と重ね合わせていただろうから米軍も恐ろしい存在に見えただろう。米軍に抵抗したらひどい目に合わされると信じていただろうから強制土地接収に対して抵抗運動は起こさなかった。伊佐浜の農民が自然発生的に激しい抵抗運動を起こすことはあり得ないことである。なぜ、伊佐浜は激しい抵抗をやり銃剣とブルドーザーによって強制接収されたのか。それには原因がある。伊佐浜の激しい抵抗運動の裏には沖縄の非合法共産党の存在があった。そして、伊佐浜の激しい抵抗運動は日本共産党が本気で暴力革命を目指していたことに深く関係していた。

日本共産党の暴力革命
日本共産党の歴史
1920年12月、労働条件の改善という高まる社会運動とロシア革命の影響を受けて、日本社会主義同盟が結成。
1921年4月、ロシア革命の影響を受けた堺利彦や山川均らにより日本共産党準備委員会が結成。日本共産党宣言、日本共産党規約が採択。
1921年7月15日、日本共産党創立大会が開かれ、堺利彦が委員長となった。
1921年11月、コミンテルン支部・日本共産党として承認された。
1923年2月、日本共産党綱領草案が審議された。
1923年5月、早稲田軍教事件を機に共産党の存在が明らかになり、当局は堺、山川、徳田,市川正一、野坂参三ら党員を逮捕し 29 名を治安警察法違反で起訴した。
1924年2月、解党を決議した。
1925年1月、コミンテルンは解党に反対し上海会議で党再建を指示。9月に機関紙、無産者新聞を発刊。
1926年12月、山形県五色温泉で再建 (第3回) 大会を開催した。福本和夫が理論的指導者となる。
1927年7月、コミンテルンは福本イズムを分裂主義として批判。党再建の組織方針と日本革命の基本的方針を示した。
1927年12月、中央委員会は工場細胞の建設、機関紙赤旗を 創刊。
労農党、日本労働組合評議会、日本農民組合、全日本無産青年同盟などをとおしての労農運動、対支非干渉運動,初の普通選挙などに活動した。
1928年、1929年、三・一五事件、四・一六事件の大検挙で党組織と労農党は大打撃を受けた。しかし満州侵略に反対する闘争で党勢を拡大した。
1932年10月、川崎第百銀行大森支店襲撃 3 万円余強奪事件などで信頼失墜した。さらに熱海事件と呼ばれる代議員が一斉検挙されたことで壊滅的打撃を受けた。
1933年12月、赤色リンチ事件で宮本顕治、袴田里見が逮捕され党中央部は解体した。
1945年10月、占領軍の指令で獄中にあった徳田、志賀義雄らは釈放され、機関紙赤旗が発刊され活動再開。
敗戦時の食糧難と労働運動で盛り上がりを見せた。
1946年4月、戦後初の総選挙で 5 名の当選者を出した。1949年1月、35 名を当選させた。

1951年10月、平和革命方式から武力革命方式に転換。山村工作隊や火炎瓶闘争などの軍事方針を実施した。
1952年、総選挙で前回の得票数 298 万表から 89 万表 (議席はゼロ) に激減した。国民大衆の支持を失うに至った。
1955年7月、武装闘争を放棄し大衆運動との結合をはかった。原水爆禁止運動、基地反対闘争、警職法闘争、安保闘争を展開。
1961年7月の党大会で反米・反独占の民族民主主義革命を経て社会主義革命を達成するという綱領を採択した。
中央委員会議長に野坂参三、書記長に宮本顕治の 50 年問題で分裂した両派の幹部を選出した。


日本共産党はロシアや中国のように武力によって日本国家を倒し、社会主義国家を樹立するのを目的に結成した党である。
日本共産党は戦後に本気で武力革命をやろうとした。それが山村工作隊の結成である。
山村工作隊とは、1950年代前半、「日本共産党臨時中央指導部」(「所感派」がつくった非正規の集団)の指揮のもとに武装闘争を志向した非公然組織である。毛沢東の中国共産党が農村を拠点として革命を成功したのにならったものである。
1949年11月、中国の劉少奇は中国流の武装闘争方式を日本を含むアジアに広げる見解を打ち出していた。日本共産党は中国共産党のアジア戦略に呼応じようとしたのである。
1950年6月4日、参議院選挙で日本共産党から3人が当選すると、6月6日、マッカーサーは中央委員24人の公職追放を指令し、その政治活動を禁止した。日本共産党の書記長徳田球一らはこの弾圧を自らの党支配を実現する絶好の機会とし、政治局会議や中央委員会を開催せず、党規約にない手続きで「臨時中央指導部」を指名した。徳田らは、意見の異なる宮本顕治ら7人の中央委員を排除して、非公然の体制に入った。
レッドパージ後、中国に亡命した徳田球一らは北京機関を設置し、1951年2月23日の第4回全国協議会(四全協)において反米武装闘争の方針を決定し、中国共産党の抗日戦術を模倣して、山村地区の農民を中心として、全国の農村地帯に「解放区」を組織することを指示した。同年10月16日の第5回全国協議会(五全協)では「農村部でのゲリラ戦」を規定した新たな綱領的文書『日本共産党の当面の要求』が採択され、「山村工作隊」や「中核自衛隊」などの非公然組織が作られた。
各地で列車の爆破、交番への焼き打ちや警察官へのテロ行為などの武装闘争が展開された。そして、1952年7月に日本共産党の武装闘争を取り締まるため破壊活動防止法が制定・施行された。直接的な火炎瓶闘争は1952年夏頃から下火になったが、軍事方針は続き、農村部での活動が継続された。事件はひとつひとつが単発であり、日本共産党の革命運動が広がることはなかったが、事件の多さには驚く。信じられないことだが、日本共産党は本気で暴力革命を目指していたのだ。

●1951年10月16日(火)第五回全国協議会で新綱領採択。
革命を達するには暴力しかない、とする武闘闘争の正当化。2月に蒲田で火炎瓶が投げられたのがこの綱領を受けての武力闘争の始まりだった。
●1951年12月26日(水)練馬署旭町駐在所勤務伊藤巡査(当時32歳)殺害事件。
製紙労組員を暴行傷害事件で逮捕後、ビラ貼り、駐在所押し掛けなどの嫌がらせが続いていた。ビラには「伊藤今に引導を渡すぞ O労組」など書かれていた。26日深夜「O製紙先の路上に人が倒れている」との通報で出かけたまま行方不明。翌朝撲殺死体で発見さる。拳銃も奪われる。あとには夫人と3歳と1歳の幼児が残された。
●1951年12月末~昭和27年1月27日(火)小河内山村工作隊。
日本共産党が中国共産党にならい「農村解放区」を設定しようとしたものが「山村工作隊」である。都内では小河内山村工作隊が最も活発であった。
●1952年1月21日(月)白鳥事件。
札幌市南6条の通りで、日本共産党党員が、中央署の白鳥警備課長を射殺。それまでに、自宅に数百通の脅迫状が来ていた。日本共産党札幌委員名の「みよ、ついに天ちゅう下さる。(ママ)」のビラが市内に撒かれた。
●1952年2月3日(日)長野県南佐久郡田口村で、無灯火自転車に乗った日本共産党の一団が5人の警官に暴行を加えピストルを強奪。逃げ遅れた日本共産党地区委員をその場で逮捕。
●1952年2月21日(木)蒲田署警官襲撃事件。
日本共産党が「反植民地闘争デー」を期して軍事方針に基づき行動した集団暴行事件。午後5時すぎ、大田区糀谷の電業社付近に約70人が集まり、不穏な状況に対し蒲田署K巡査が職質したところ、「この野郎、人民の敵だ、殺してしまえ」と襲いかかり暴行、手錠をかけ拳銃を強奪した。その後250人位に増えた暴徒は、2隊に分かれ無届けデモを行った。目つぶし、投石、派出所を襲撃破壊した。
●1952年2月23日(土)京都税務署を日本共産党員が襲撃。
●1952年2月28日(土)荒川署を日本共産党員が襲撃。
●1952年3月16日(月)鶴見、川崎税務署火炎瓶襲撃事件。
●1952年3月20日(木)京都の派出所を日本共産党員が襲撃。
●1952年3月28日(金)一連の日本共産党が引き起こした暴力革命闘争に対応するため「破壊活動防止法」案の綱領を発表。
●1952年5月17日(土)栃木県那須郡金田村村役場事件。
日本共産党党員らにより三月以来、人糞の投げ込み、集団脅迫、傷害が続いていたが村役場での会議中20名あまりの日日本共産党員が乱入。
●1952年6月2日(月)大分県菅生で交番が爆破される。4日襲撃首謀者逮捕。
●1952年6月10日(火)京都で朝鮮人50人が警官隊と衝突、パトロール車に火炎瓶投入、警官ら火傷。
●1952年6月25日(水)朝鮮動乱2周年記念集会、前夜祭のデモ隊は「人民電車」を動かし吹田で警官隊と大乱闘。
デモ隊2500人は新宿前で警官隊4000人と乱闘衝突。東口広場は「火炎瓶広場」と化した。
●1952年6月28日(土)東芝府中工場火炎瓶事件。
●1952年7月4日(金)破防法案は衆院本会議で可決成立。
●1952年7月7日(月)名古屋大須球場で訪ソ・中視察報告大会後デモ隊火炎瓶で警官隊と衝突、路上車放火 121人検挙。
●1952年年7月16日(水)都下恩方村山村事件。
 前村長宅に数名の「山村工作隊」の男が表門のくぐり戸をぶちこわして侵入、風呂場のガラス戸15枚、玄関や十畳間の雨戸五枚を破壊しこぶし大の石を投石。
●1952年年7月21日(月)破防法公布施行。公安調査庁発足。
●1952年7月30日(水)山梨県曙村山村地主襲撃事件。
就寝中の小中学生3人を含む家族を竹槍で突き刺す。3人は血の海の中に息も絶え絶えになって横たわっているところを
駆けつけた警官に救われた。
●1952年年8月6日(水)都下町田町の朝鮮人集落とマーケットより、時限爆弾製造法等が書かれた日共秘密文書「料理献立表」など押収。
●1952年8月7日(木)横川元商工大臣が埼玉県河村で襲撃され重傷。日共党員の容疑者3人を逮捕。
●1953年2月16日(月)小岩派出所侵入事件。
●1953年3月3日(火)警察爆破の陰謀発覚 日共党員3人を検挙。岡谷市署川岸村の旧防空壕に隠してあったダイナ
マイト50本、導火線10mなどを押収した。
●1953年3月5日 スターリン死亡。
●1953年5月17日 舞鶴引き揚げ援護局不法監禁事件。
 第三次中共帰還の際、舞鶴で援護局女子職員をスパイだとして吊し上げ、軟禁した。後に日本共産党員国民救援会事務局長小松勝子と都立大教授在華同胞帰国協力会総務局長阿部行蔵を検挙。
●1953年10月14日 徳田球一北京で病死。その死は1955年まで公表されなかった。
●1953年11月5日 高萩炭鉱所長宅爆破事件。
●1953年11月11日 京都荒神橋事件。
学生を含む800人が不法デモ。中立売署県警本部等に投石、窓ガラス破壊の乱暴狼藉。警官隊により鎮圧。警官7人学生4人が負傷。
●1953年11月12日 新潟県で講演内容が気にくわないと県教組(日教組)が文部常任専門員を吊し上げる事件発生。
●1953年11月12日 日鋼・赤羽争議事件。
中立労組員第2組合員とピケを張って就業を阻む第1組合員との間で乱闘。就業希望者側の女性(21)ら7人に重軽傷。

日本共産党のロシア革命、中国革命のような暴力革命を目指した闘いは当時の国民に不安と反感を与え、1951年の総選挙で300万票34席の当選を出したものの、1952年年10月の総選挙ではわずか89万票で全員落選した。武装闘争は日本国民の反感を生み、日本共産党は衰退したのである。日本共産党の暴力革命は国家打倒というスケールの大きい戦略のわりには数多くの「小さな事件」のまま収束した。日本共産党の革命運動が国民に広がることはなかった。

ロシアを始め東欧の社会主義国家は民主化運動によって1989年から1991年にかけて崩壊し議会制民主主義国家になった。社会主義国家の次の国家は議会制民主主義国家であるのは歴史的必然である。日本共産党の暴力革命の失敗は、共産党一党独裁の社会主義国家の次に議会制民主主義国家があることを証明したものであった。つまり社会主義国家=共産党一党独裁国家の次は議会制民主義国家になるのが歴史の必然であるし、日本はすでに社会主義国家を乗り越えた議会制民主主義の国家になっていたのである。
日本は江戸幕府を倒して明治政府が誕生した。平和裏に明治政府になったが、それは江戸幕府が大政奉還をしたからであって、もし江戸幕府が大政奉還を拒めば戦争になっていた。明治維新は実質的には暴力革命であった。明治政府は四民平等・法治主義を掲げ、大日本帝国憲法を制定し、帝国議会で法律をつくった。法律は全国、全国民に平等に適用した。四民平等・法治主義の思想は大正時代にはテモクラシーと呼ばれる民主化運動も起こした。軍部が政権を掌握して軍国主義国家になったが、軍国主義時代でも四民平等・法治主義は維持された。日本は軍国主義国家にはなったが軍事独裁国家にはならなかったのである。
戦後は軍部は解体し、四民平等・法治主義が発展した普通選挙による議会制民主主義国家になった。日本には明治時代から独裁国家になる要素はなかったし、共産党一党独裁国家が生まれる可能性はなかったのである。戦後はなおさら暴力革命によって共産党一党独裁国家になる可能性はなかった。議会制民主主義国家はプロレタリア革命を乗り越えた国家であり、共産党一党独裁国家を超えた国家である。時代錯誤した共産党は暴力革命を目指したが国民に受け入れられずに「小さな事件」で終わったのであった。それは歴史的必然である。

 日本共産党の「農村部でのゲリラ戦」の方針は沖縄にも影響した。沖縄では「山村工作隊」や「中核自衛隊」などのような過激な行動は起こさなかったが、非公然組織が作られ、「アメリカ帝国主義の沖縄の植民地化に対する闘争」を展開した。沖縄共産党は、米帝国主義は沖縄人民を搾取や弾圧する存在であると決めつけていた。

琉球人民党大島地方委員会(党綱領の改正はなぜ必要になったか,とくに改められている部分はどこか,アメリカ帝国主義は完全に琉球を植民地・軍事基地・奴隷化した,アメリカ帝国主義は琉球の独立国家を企んでいる,琉球の解放は祖国日本の解放・独立と不可分である,一般的要求,政治的要求,労働者の要求,農民の要求,社会的日常要求,教育文化の問題,琉球を解放するものは誰か)
「金沢資料1 党文書「琉球人民党改正綱領草案」1953年12月 謄写版17ページ」
 復帰前の沖縄の共産党と言えば人民党のことであり、代表者は瀬長亀次郎氏だと思われているが、瀬長亀次郎は表の合法的な活動をした共産党員であり、裏には非合法的な日本共産党が存在していた。非合法日本共産党のリーダーが国場幸太郎(国場組社長と同姓同名の別人)であった。非合法組織というのは国がその存在を認めない組織のことである。非合法日本共産党とは国家転覆を企む組織である。沖縄では合法共産党が人民党であり瀬長亀次郎がリーダーであった。一方非合法日本共産党は国場幸太郎がリーダーであった。

一九五二年十一月の末党地方委員会は中央から派遣された同志国場幸太郎が持って来た党中央の指導によって,
(1)中央に南方地域特別対策委員会がつくられたこと,
(2)琉球の党組織はこの下におかれること,
(3)現在の党組織とメンバーを正式な正規の手続きがとられるまで暫定的に認めること,
(4)急いで正式な手続を完了する旨の指示を受けた。
「 金沢資料1 党文書「琉球人民党改正綱領草案」
沖縄人民党は表向きは日本共産党に属していなかった。だから日本共産党本部の指導は非合法共産党員によってなされた。米軍の「反共攻撃」と向き合う沖縄人民党を地下で指導していたのが非合法共産党のリーダーであった国場幸太郎だったのである。
国場幸太郎は1951年に日本への「留学生」として東京大学経済学部で学んだ後、1953年に沖縄に戻り、人民党員として土地闘争その他の活動にかかわるが、非合法共産党のリーダーであった彼は米軍対敵諜報部隊の厳しい監視下にあった。国場幸太郎は1950年代末の島ぐるみ運動の退潮のなか、1960年に本籍地を東京に移す形で沖縄を脱した。

奄美共産党の働きかけによって生まれた沖縄の非合法共産党については,合法政党沖縄人民党の影に隠れて,公然と語られることは少ない。それは,沖縄人民党自身が米軍から「共産主義者」として弾圧されてきた「反共攻撃」の歴史と重なり合い,人民党幹部が共産党員であることは厳しく秘匿されてきた歴史と関わっている。ようやく最近になって,当事者の一人である国場幸太郎氏が,「現代世界史の中の沖縄」(『現代思想』2000年6月号),「沖縄の50年代と現在」(『情況』
2000年8/9月号)などで,なお断片的だが,その存在を語り始めている。
           加藤 哲郎(一橋大学大学院教授・政治学)

 新聞報道では沖縄人民党の背後の地下組織の存在や「本土」との暗号連絡がクローズアップされていて、それはそれで重要であるが、長く戦前戦後の各国共産党史や日本共産党文書を見てきた私には、むしろ、沖縄共産党の「本土」共産党とは異なる動きが、驚きであった。
 だから、米軍の「反共攻撃」と向き合う沖縄人民党を地下で指導していた共産党の存在が明るみに出ても、長く沈黙を守ってきた人民党関係者にとって、不名誉なことではない。「五〇年問題」で分裂し孤立した「本土」の共産党から相対的に自立した組織をもち、独自に島民と結びつき、瀬長亀次郎氏を那覇市長に押し上げる原動力になりえたことを、誇りとすべきだろう。当時の「本土」共産党の極左方針に従うだけの党であったならば、党員たちが復帰運動の先頭に立つことはできなかったであろう。
                    加藤 哲郎(一橋大学大学院教授・政治学)
 共産党は労働者階級の解放を目指した闘いであった。労働者とは自分の労働力を売ってお金をもらう人間である。戦前は労働者を無産階級と呼んでいた。共産党は財産を持たない無産階級である労働者の解放を目指していたから、土地所有者は解放の対象ではなかった。社会主義国家では私有財産は許されていない。土地も会社も住宅もすべて国が管理している。
 労働者の解放を目指す沖縄共産党は労働者の組織化を目指した。

奄美共産党では一九五三年十月以降日本共産党の琉球地方委員会としての方針のもとに琉球地方特に沖縄の基地労働者を中心とする琉球の十万労働者の組織化に重点をおき奄美地区と沖縄の同志とが密接な連絡をもってアメリカ帝国主義の植民地化に対する闘争を組織する方針をたて、
「沖縄・奄美非合法共産党文書」
 この方針が沖縄共産党の方針であった。労働者の組織化は国家打倒を目指した闘いに発展することを前提としていた。つまり革命を目指した運動である。だから方針を表に出すことはできなかった。沖縄共産党は合法と非合法を巧みに使い分けながら運動を展開した。

合法面では人民党を始め各種社会団体議会を通じて労働法規の制定,条約三条の撤廃,即時祖国復帰,アメリカ軍の土地取り上げ反対,人権ヨーゴを訴え議会においては決議案などを上程するなど植民地政策をバクロし,これに対する抵抗組織の確立をはかり,
                        「沖縄・奄美非合法共産党文書」
非合法面では党員の獲得と組織の拡大と党の政策の合法面における実践化につとめ重点を当面基地労働者の組織において努力した結果,一九五二年六月には琉球において始めての日本道路会社スト闘争を組織し,ついに完全勝利をかちとったのである。日本道路ストは沖縄を始め全琉球の労働者を目覚めさせ,団結させる歴史的意義をもち一般人民にも植民地政策にめざめさせ,これに対する抵抗を組織する方向を与えた革命的記念闘争であった。
                         「沖縄・奄美非合法共産党文書」
 このように合法的な大衆運動を組織しながら沖縄共産党は共産党員を増やしていったのである。国場幸太郎を中心とした非合法沖縄共産党の目的は暴力革命を目指している共産党本部と同じように沖縄でも「山村工作隊」を結成して「農村解放区」をつくることであっただろう。

労働運動と植民地反対闘争の革命的基礎はこれを出発点としてなされ,この労働者たちを中心として急速に成長し発展した。琉球地方委員会は琉球の労働者階級に根を張り,十分労働者を組織する基礎を確立し,琉球住民の民族解放民主統一戦線の基礎をつくった。
松村組,清水組砕石工場,K・O・T等々,これらのすべての闘争は党によって指導された。琉球地方委員会はほとんど奄美出身の党員によって構成され,沖縄細胞として活動したが,名実ともに琉球地方委員会になると共に正式には日本共産党の指し示す民族解放民主革命の達成のためにその一翼として琉球の祖国復帰による住民解放の綱領を決定し,党中央の承認をうけるため,一九五二年七月沖縄に於いて琉球地方委員会を開催して,この方針を決定したが,この地方党大会はつねに革命え[へ]の道を共にして来た人民党の瀬長亀次郎書記長と島袋嘉順組織部長の両氏を始め他の沖縄出身者が[数文字空白=「入党」?]として党の方針の実現をみた。  
                          「沖縄・奄美非合法共産党文書」
 非合法文書では民族解放民主統一戦線、民族解放民主革命、住民解放、革命の文言を使っている。それは国家転覆を目標にしている組織であることを明示している。
 革命という目標は共産党本部と同じでも本土と沖縄の実情が異なっていたために本土のような警官殺害、火炎瓶闘争などの過激な行動を沖縄ではできなかった。沖縄では共産党本部の極左的指令を敢えて無視し、土地接収反対運動や「本土」と比較にならない低賃金・無権利の労働者を組織して「島ぐるみ闘争」に入っていった。

 伊佐浜は銃剣とブルドーザーによる土地接収として有名であり、繰り返し繰り返し伊佐浜のことを報道をするので米軍は全ての土地を銃剣とブルドーザーで接収したようにイメージしてしまうが事実は全然違う。北谷村,浦添村,真和志村,越来村,読谷村など多くの場所で土地接収を行ったが、激しい抵抗をしたのは伊佐浜と伊江島だけであり、他の多くの場所では抵抗運動は起こっていない。読谷村では楚辺と渡具知の部落は全て接収されて新しい場所に移動したが抵抗運動はなかった。
 伊佐浜は非合法沖縄共産党が裏で暗躍したから激しい抵抗運動が起こったのである。非合法沖縄共産党の中心的メンバーだった国場幸太郎は米軍に逮捕され、拷問されて沖縄共産党員の名前を自白したという噂がある。そのために瀬長亀次郎から党を除籍されたという。

 土地接収反対運動は辺野古の経済発展をきっかけに下火になっていく。

辺野古は「島ぐるみ闘争」の最中に条件付きで米軍の土地接収を受け入れた。「土地取上げは 死刑の宣告」だと伊佐浜では徹底抗戦をやったのに辺野古では逆に土地接収を受け入れたのである。どんなに反対しても伊佐浜のように強制接収されるのなら、条件をつけて受け入れをするというのが辺野古民の考えだった。
 辺野古民の出した条件は、
1 農耕地はできるだけ使用しない。
2 演習による山林利用の制限。
3 基地建設の際は労務者を優先雇用する。
4 米軍の余剰電力および水道の利用
5 損害の適正保障
6 扶養地の黙認耕作を許可する。
の6項目であった。要求がすべて受け入れられたのではないが、米軍と辺野古区は友好関係になり、キャンプシュワブが建設された。
 すると、辺野古の経済は空前の活況になる。五年間で辺野古の人口は4倍になり、多くの青年男女が、建設工事、PX(売店)、クラブ、メスホール(食堂)の職員として従事するようになり、彼らの給料は民間会社や地方公務員よりも高かつた。軍作業の人気も高まっていった。
水道の整備は米民政府の援助で行われた。辺野古の土地造成工事も米民政府が陣頭指揮をとって協力した。辺野古の驚異的な発展の噂はまたたく間に県内に広がり、経済発展を望んで米軍基地を受け入れる村がどんどん増えていった。そのために土地闘争は衰退していった。
基地経済が沖縄を貧困から救うということが分かった時から、沖縄の人々は米軍を受け入れるようになっていったのである。戦前の貧困を体験した沖縄の人たちにとって戦後の基地経済による繁栄は天国であった。

戦後米軍は、沖縄の人々の健康と政治、経済向上に尽力した


朝鮮戦争、中国の共産主義化などアジアの共産主義の拡大があったために沖縄の米軍基地の拡大の必要に迫られ強制的に土地を接収していった。アジア情勢を知れば米軍の土地接収を理解することができる。
米国は民主主義国家であり、米軍は民主主義軍隊である。米軍は沖縄を植民地支配する気はなかった。むしろ沖縄の人々の健康と生活向上に尽力した。

植民地支配をする気なら莫大な経済援助をするはずがない。米軍が沖縄の人々の幸福のために尽力したひとつが医療政策である。
終戦直後にすぐに米軍が取りかかったのが沖縄の人々の健康・衛生の改善であった。1946年1月には、米海軍指令90によって、公衆衛生部の管理機構の再編が行われ、公衆衛生部の運営管理責任を、米海軍政府長官から軍政府本部専任軍医に委譲し、軍政府職員、沖縄人職員の診療、医療の一切の責任を持つこととした。
1945年(昭和20年)8月23日、沖縄終結後、米軍は全島の住民を地域別に集結させた「コロニー制」を採り、一時、住民をチェックしたが、特に伝染病患者のチェックは厳しかった。その際、在野のハンセン病患者や、戦争中愛楽園から離散した患者は「軍指令第11号」、「同5号」によってことごとく愛楽園に強制的に収容され、その数は一説によると1948年3月間で150名に及んでおり、その半数は戦争によって発病した者とされていた。
その他、軍政府は外地及び日本本土に在住する沖縄県出身患者の沖縄返還を許可し1946年以来、愛楽園に転入園した患者の総数は301名に及んだ。

 戦後米軍政府が行った医療改革

(1)官営医療制度
     軍政府は戦後直ちに官営医療制度を実施し、医師の個人自由開業を禁止した。医師は各地区の病院や診療所などの医療機関に公務員として勤務することとし、非常事態に対応したのである。
(2) 介輔制度
     戦後の医師の絶対数不足の中で旧日本軍の衛生兵、戦前に医学教育を受けていて、戦争のため学習を中断せざるを得なかった元学生などが医師助手として医療活動に従事させられた。彼らはその後、地域医療に大きく貢献することになった。
(3) 本土医学生留学制度
     軍政府は医師不足の解決のため医師養成の必要性を重視し、1949年に契約医学留学制度を開始した。
(4) 保健所の設立
     保健衛生行政の対策として、軍政府は各地区に次々と保健所を設立した。以後保健所は、本土同様、保健衛生指導に大きな役割を果たしてきた。
(5) 公衆衛生看護婦の育成
    保健所の設立と同時にコ・メディカルズの育成にも力が入れられていったが、そのなかでも特に公衆衛生看護婦(公看)の育成が進められ、各保健所を中心に地域に密着した保健医療の担い手として当時深刻な問題であった結核、ハンセン病の予防と治療などに重要な役割を担った。
(6) 臨床検査技師の育成
伝染病や寄生虫の疫学的調査を行うなど、地域衛生業務には欠かせない臨床検査技師の 養成も進められた。

米軍は医療や道路など生活環境を整理した後に政治・経済の発展に取り掛かった。

米軍による政治改革
戦前は地方議員に対して報酬(月給)を支払うことは法律で禁じられていた。地方議会議員は名誉職的に考えられていて、生活に困らない資産家が立候補する例が大半であった。
戦前の沖縄は中央政府から派遣された知事が権力を握っていたから、地方自治は有名無実だった。戦前に自治の体験をした政治家はいなかったのだから戦後の沖縄には自治能力はなかったと言っても過言ではない。
米軍はそんな沖縄に自治能力を育てていったのである。

立法院 
1952年4月1日、定員31人(任期2年)の議会として発足。
立法院は、米国民政府布令第68号「琉球政府章典」により設置された、琉球政府の立法機関である。立法院の権限は、沖縄に適用されるすべての立法事項について立法権を行使することができるが、米国民政府の制約下にあり、法令の無効を命じられることもあった。
1952年4月1日、定員31人(任期2年)の議会として発足。
1952年5月1日、議長・副議長が議員の互選となる(それまではアメリカ上院にならって行政副主席が議長になっていた)。
1953年12月26日、奄美地区が日本に返還される。
1954年2月1日、民政府布令第57号「立法院議員選挙法」改正第5号により、立法院議員の選挙制度が「中選挙区制」から「小選挙区制」になる。また、民政府布令第68号「琉球政府章典」改正第6号により、定員が29人となる。
1954年7月29日、立法院新議事堂が完成し、移転する。
1954年10月21日、沖縄人民党の瀬長亀次郎議員が議員資格を剥奪される(人民党事件の軍事裁判で懲役2年の判決が下ったため)。
1956年1月31日、立法院制定の立法院議員選挙法(1956年立法第1号)が公布される。
1962年2月19日、大統領行政命令改正により、立法院議員の任期が3年になる。
1965年5月28日、立法院議員選挙法が改正され、立法院の定員が32人となる。

立法院の権限

(1)立法権
米国民政府の布告・布令・指令に反しない限りにおいてその範囲内ではあるが、日本本土においては法律で定めるべき事項に対して立法権を行使した。立法院が制定する法令は立法と呼ばれる法形式が取られており、米国民政府の承認を経て施行されていた。「立法」は「旧日本法(1945年のニミッツ布告公布時点での日本法)」に優越するため、立法をもって旧帝国議会制定の法律の改廃が可能であった。よって、日本の地方議会の条例のように「2年以下の懲役・禁固もしくは100万円以下の罰金もしくは没収、5万円以下の過料」という罰則の制限はなく、法理論上は死刑を含む刑罰を定めることができた。
立法提出権は議員のみが有し、行政主席には与えられなかった。その代わり、立法が必要とされる場合には行政主席は参考案が付いた立法勧告書(メッセージ)を提出することができた。

(2)規則制定権
立法院における会議その他の手続及び内部の規律について「立法院規則」を制定する権限を有する。

歴代立法院議長
初代 - 泉宇平(1952年4月1日-1952年4月30日)※行政副主席
2代 - 護得久朝章(1952年5月31日-1953年12月26日)
3代 - 平良幸市(1954年4月5日-1954年9月13日)
4代 - 大浜国浩(1954年9月13日-1956年3月31日)
5代 - 与儀達敏(1956年4月12日-1958年3月31日)
6代 - 安里積千代(1958年4月7日-1960年11月30日)
7代 - 長嶺秋夫(1960年12月1日-1967年5月12日)
8代 - 山川泰邦(1967年5月12日-1968年11月30日)
9代 - 星克(1968年12月7日-1972年5月14日)
          
米軍は沖縄の議会制民主主義を育てていったが、沖縄の革新勢力は議会制民主主義を破壊する行為に出た。それが教公二法阻止運動である。教公二法には教員の政治活動を規制した条文があり既に本土では制定された法律であった。しかし、沖縄の教職員は政治活動を規制されることを嫌い、教公二法阻止闘争を展開した。
民主党(自民党系)は教公二法案の成立への手続きは進んでいった。危機を感じた教職員は10割年休闘争を決定して立法院を取り巻いた。そして、1967年2月24日、民主党が教公二法を強行採決しようとした時、教職員は警護している警察管をごぼう抜きにして立法院に突入して教公二法の議決を阻止した。 教公二法闘争は教職員の政治力の強さを証明した事件であった。
アンガー高等弁務官は「教公二法案を可決することは沖縄における民主主義がかかっています。民主主義や多数決のルールに従うのか、それとも暴徒のルールに従うかです。教師の政治活動や子供への影響の問題も重要なことですが、より深刻なのは、果たしてこの島で民主主義が生き残れるかということです」と心配した。
革新系政治家や知識人から植民地支配をしていると言われている米軍民政府のアンガー高等弁務官が「果たしてこの島で民主主義が生き残れるか」と教職員の立法院乱入を民主主義を破壊する行為とみなしたのである。アンガー高等弁務官は、米国は沖縄の民主主義を守る側にあると認識していたのだ。アンガー高等弁務官の発言から米国が沖縄を民主主義社会にしようとしていたことが窺える。
アンガー高等弁務官は、対立が沖縄人同士であるという理由で琉球政府からの米軍の直接介入の要請を断っている。これもまたアメリカ流の民主主義である。


行政主席

行政主席は琉球政府の行政府の長である。今でいう県知事である。戦前の知事は中央政府から派遣されていたから沖縄出身の知事はいなかった。行政主席が歴史上初めての沖縄出身の首長ということになる。
琉球政府の行政権は行政主席に属するとされたが、実際の権限は米国民政府が掌握しており、行政主席の権限は制約されたものであった。
行政主席は、立法院の立法案(予算案等も含む)に対して異議のある場合は、理由を明示して立法院に返送することができる(いわゆる拒否権の行使)。ただし、立法院の3分の2以上の多数で再議決された場合は、米国民政府の民政副長官(後の琉球列島高等弁務官)の決定を待たなければならない。また、行政主席は法案提出権や議会解散権を持たないなど、都道府県知事や市町村長の権限と大きく異なるところがあった。

行政主席指名権
立法院発足当初はなかったが、自治権の拡大にともない、行政主席を指名することが可能になった。1968年に行政主席公選制が実現し、発展的解消された。
1952年 - 57年 米国民政府による直接任命
1957年 - 61年 立法院の代表者に諮って、米国民政府が任命
1962年 - 65年 米国民政府の受諾できる者を立法院が指名し、米国民政府が任命
1965年 - 68年 立法院議員による間接選挙
1968年 - 72年 住民による直接選挙 沖縄の歴史上初めてである。
 このように米民政府は、直接任命から直接選挙へと発展させていった。

○琉球大学 1950年に首里城跡後に設立した。
○米琉親善記念日の制定
1853年5月26日のペリー提督来琉を記念して、5月26日を米琉親善記念日に定め、様々な記念行事が行われた。その後、この日の前後1週間を米琉親善週間と定めた。
○広報活動
米国民政府は、『今日の琉球』『守礼の光』の2種類の月刊誌を発行していた。これらの雑誌は、戸別に無料で配布されたほか、各地の琉米文化会館や琉米親善センターでも無料で入手することができた。
『今日の琉球』 1957年に創刊された米国民政府発行の月刊誌である。米国民政府の宣伝や施策の解説や琉米親善活動の記事が多かった。
『守礼の光』 1959年に創刊されたPR用の月刊誌である。上記の「今日の琉球」とは異なり、主として沖縄文化やアメリカの歴史などを紹介し、親しみやすく編集されていた。実際の編集は、東南アジアの共産勢力向けのプロパガンダをしており、沖縄に印刷工場や放送局を有していた米陸軍第7心理戦部隊が行っていた。
○琉米親善委員会の組織化
1950年代後半に、琉米相互の親善と理解を図ることを目的とした琉米親善委員会が組織された。しかし、親善団体というよりは、米国民政府に対する援助要請窓口という色彩が濃くなっていった。
○文化施設の建設
琉米文化会館琉米文化会館 米国民政府の文化施設で、名護市・石川市(現うるま市)・那覇市・平良市(現宮古島市)・石垣市・名瀬市(現鹿児島県奄美市)に設置された。アメリカ型の文化施設で、図書室・ホール・集会室が完備されていた。復帰時に日本政府に買い上げられて、各自治体に無償譲渡された。
○琉米親善センター 琉米文化会館と同じ目的の施設であるが、こちらは自治体の施設で、米国民政府の援助と地域住民の寄付によって建てられた。コザ市(現沖縄市)・糸満町(後市制施行し糸満市)・座間味村にあった。

○琉球銀行設立 1948年5月1日。
戦後のインフレ抑制と沖縄経済の正常な発展のため、「金融秩序の回復と通貨価値の安定」を目的とし、米国軍政府布令に基づく特殊銀行として設立されました。
○製糖工場設立 1952年  
ハワイの遊休2製糖工場の機械設備を導入 1953年に1回目の操業を行い亜硫酸法による耕地白糖を製造。

 米民政府は沖縄の医療、政治、経済、文化などあらゆる分野の発展に尽力したのである。


沖縄産業の恩人 サムエル・C・オグレスビー
沖縄を愛し、経済の発展に全力を注いだ人がサムエル・C・オグレスビー氏である。沖縄産業の90パーセントにオグレスビー氏は関わったと言われている。彼は沖縄産業の恩人と呼ばれ、今でも経済界の人たちは毎年命日には泊の外人墓地にあるオグレスビー氏の墓を参拝している。


オグレスビー氏は1911年10月アメリカ合衆国バージニア州で生まれ、メリーランド大学で学士号及び博士号を習得、さらに、エール大学で極東問題と日本語の研鑽を積み卒業した。同氏は1950年に米国民政府職員として沖縄に赴任し、沖縄の経済、特に諸工業復興の趣旨を撒き芽を育て、戦前の沖縄では夢想だにできなかった各種の近代的工業の隆昌を見るに至ったことは、真に沖縄を愛し、沖縄の繁栄を願う同市の16年余にわたる献身的努力の賜物である。
               「沖縄産業の恩人 サムエル・C・オグレスビー氏を讃えて」

オグレスビー氏は1950年(昭和25年)に、琉球列島米国民政府経済局次長として沖縄に赴任した。当時の沖縄の経済は、戦前より製糖産業以外の産業がまともに存在しておらず、戦争で焼け野原になった事もあって、ほぼ何もない状態であった。オグレスビー氏は赴任早々に、製糖産業とパイナップル産業の発展に着手し、この2つの産業を「沖縄二大産業」と呼ばれるくらいまで成長させた。
1953年(昭和28年)に琉球工業連合会(現・社団法人沖縄県工業連合会)が設立されると、会のアドバイザーとなり、産業界への融資や新しい機械の導入を進めて、沖縄の経済特に工業の振興に献身的に尽くした。彼が携わった産業には、製糖、味噌醤油、製油、ビール、セメント、鉄筋、合板、菓子類など数多くあり、沖縄の製造業の90%はオグレスビー氏の支援や指導によるものと言われている。1965年(昭和40年)10月1日より琉球開発金融公社の3代目理事長に就任し、翌1966年(昭和41年)4月まで務めた。
1966年12月20日、宜野湾市にて死去。55歳没。「自分が死んだら沖縄に埋葬してほしい」と遺言していた事もあって、那覇市泊にある国際墓地にタイス夫人と一緒に眠っている。
オグレスビー氏の告別式に参列した政治家、経済人
 琉球商工会議所会頭・宮城仁四郎   沖縄経営者協会会長・船越尚友   
 琉球分蜜糖工業会会長・石橋好徳  琉球工業会会長・具志堅宗精
友人代表
 松岡政保、長峰秋夫、小波蔵政光、久手堅憲次、崎山秀英、宝村信雄、大城鎌吉、国場幸太郎、稲嶺一郎、仲田睦男

 オグレスビー氏に関する本は「沖縄産業の恩人 サムエル・C・オグレスビー氏を讃えて」一冊だけである。この本は研究者が書いた本ではなく、オグレスビー氏の死去から20年の節目を記念して、「オグレスビー氏産業開発基金」が発行した本であり、内容は生前のオグレスビー氏と交友のあった経済人や政治家の思い出を書いたものである。本に書かれたオグレスビー氏の説明をするより、宮城仁四郎氏の告別式での弔辞のほうがオグレスビー氏の人物像が分かってくると思うので弔辞を紹介する。

宮城仁四郎の告別式での弔辞
 私とオグレスビーさんが最初にお会いしたのは1950年、オグレスビーさんが沖縄へ来られて直後だと思います。それも当時、琉球政府、民間人から「沖縄の農業は、甘藷作りでなければならない、又、工場も昔と違って初めから大型分蜜糖工場にするべき」との意見書が、民政府に出されていて、民政府ではハワイ、ルイジアナその他から専門技術者を招聘し、これらの方々の意見書が出てその結論を今日言い渡される様であるが、「どうも良いことではないようだから一緒に行ってくれ」と琉球政府の糖業関係の係員が来て頼まれました。
 私は当時、勢理客で製塩業をして居りましたが、要望があってお会いしたのがオグレスビーさんでした。案の定、オグレスビーさんは沖縄の糖業は専門家の意見では、「大型工場にする程もない。せいぜい黒糖工場でやっていく程度だ」とのことでした。それで私は立ち上がってオグレスビーさんを指さして「それなら沖縄はどんな農業をすれば良いというのか!沖縄の農業について貴方より私の方が詳しいつもりだ」と随分、失礼な云い方をしたのですが「それでは君が、毎日でも来て私を説得してみろ」とのことで「よろしい」と別れました。当時はキャンプ桑江には、自動車がないと乗り入れが出来なかったが、私の製塩会社にはトラックが1台配車されていたので、約1年ほど毎週2回位行って琉球製糖建設の話をしたものでした。いつも午後1時に行って帰りは日暮れでした。いつの間にか二人は仲良くなり、砂糖以外の沖縄の産業についても意見を交換するようになりました。桑江キャンプには5つのセクションにそれぞれ部長が居て沖縄問題はこれらの方々の合意により処理された様でしたが、オグレスビーさんは遂にこの方々と沖縄群島民政官を説得され、ガリオア資金により琉球製糖工場を建設されることになりました。琉球製糖は始まっても金もないのでハワイの遊休工場を13万8千ドルの全くの捨て値で購入して建設したのですが、工場を知らない人達から色々なデマや誹謗があって常に苦労をし、私は琉球製糖を引かざるを得ないようになりました。後で分かったことですが、オグレスビーさんも大変な非難を受けられた様ですが、私には一言もそれらしいことは云われませんでした。
 或る経済団体の祝賀会で、オグレスビーさんは「琉球製糖建設で私も10年歳を取ったが、宮城さんも10年ふけた」と云って笑われたのを想い出します。
 普通の官吏であれば、それにこりて後は事なかれ主義で通したと思われますが、その後も沖縄に於ける新しい企業には例外なく、オグレスビーさんが努力されて実現しています。今日、沖縄にある二次産業の90%はオグレスビーさんのお蔭で出来たといっても決して過言ではありません。
 もう一つ忘れてならないのは、石垣島で沢山のパインアップルが栽培されて収穫期になるのに工場建設は未だ手つかずの有り様で、それを振興開発金融公社に融資申請しても恐らく許可を得て建設までは1年もかかると思われるので収穫期には間に合わないので、「各工場の建設資金を民政府で一括し、直接融資をしてもらいたい」と申し出のです。それには振興開発金融公社の悪口も随分云ったので初めはオグレスビーさんも怒っていましたが、民政官の直接調書をもらって2日で決定し、機械設計、建設に進みパイン企業初年度の業績を上げ、パインもほとんど腐らさずに処理できて後で民政府から逆に例を言われました。
 オグレスビーさんは、この5~6年余り、健康がすぐれない様子でしたが、時々訪問すると「この仕事で今晩は12時まで家でやらなければ」ということが続いていたようでした。最近でも沖縄の糖業問題を聞かれたり、北部製糖のことで随分気を使われて近々、話し合いたい、と云われていましたが、遂にその機会もなく逝去されました。
 役人の立場でオグレスビーさんほどお仕事の出来る方は、私は世の中にそんなに沢山は居られないと思います。オグレスビーさんの偉業は、沖縄繁栄の礎となって永久に残るでしょう。
 ご冥福を心から御祈り申し上げお別れの言葉とします。
               「宮城仁四郎の告別式での弔辞」

 その時の軍政本部商工局長は、分からず屋で通った男だった。いったん認可した機械の払い下げを、朝鮮戦争勃発による事情急変を理由に取り消しを通告してきた。その時窮地に陥った私のために、商工局長とのあっせんの労をとってくれ、機械の払い下げを約束通り実現してくれたのがオグレスビー氏である。赤マルソウ味噌醤油合名会社を那覇市与儀から現在地の首里寒川町に移し、工場を拡張できたのもそれからのことである。昭和26(1951)年1月末から本土との自由貿易が再開され本土産品の大量輸入で大ピンチを迎えた地元醤油業界に対しても彼は救援の手を差し伸べてくれた。
 操業間もないわれわれ生産業者の窮状の訴えに対し、早速関係者を説き伏せて、昭和28(1953)年4月「醤油の輸入全面停止」の実施に力を注いでもらった。
 この措置が、米民政府のとった、地元産業育成の第1号となった。
                     赤マルソウ、オリオンビール株式会社創設者具志堅宗精
 
私は3年前のブログでオグレスビー氏について書いてある。
「沖縄に内なる民主主義はあるか」2012年06月05日
探し求めていた本がやっと手に入った。それはある人物について書いた本である。
彼は世界的に有名な人物ではない。日本でも有名ではない。しかし、沖縄の経済界ではとても有名な人物である。その人物の名前はサムエル・C・オグレスビーという。私はサムエル・C・オグレスビーという人物を知らなかった。10年近く前に沖縄の経済発展に貢献した人物であると紹介し、上官に「貴方は6ヶ国の博士号を持っているが、貴方の知識は字引と同じで死んでいる」と言ったり、資金援助を渋る経理担当には「お前の金庫は何かの悪魔か・・・昔の馬鹿な王様のカギが掛かっている」と責めたという記事があり、オグレスビーという人物に興味が湧いた。しかし、新聞を保存しなかったので、名前を覚えることができなかった。
数日前の新聞に彼の名前が載っていたので、さっそくインターネットで彼に関する本を探した。アマゾンには彼に関する本はなかった。沖縄の古本屋で「沖縄産業の恩人 サムエル・C・オグレスビー氏を讃えて」という本があったので注文した。その本はサムエル・C・オグレスビー氏への追悼本である。彼に関する本はこの一冊だけのようだ。
サムエル・C・オグレスビーは1950年から16年間沖縄の産業発展に尽力した人物である。
彼は、砂糖、肥料、たばこ、セメント、ビール等沖縄のほとんどの産業の創立に尽力した人物である。
戦前の沖縄には製糖以外の産業らしい産業はなかった。製糖でさえも原始的な黒糖製造であり、機械を使った白糖生産ではなかった。
戦後の沖縄の産業は本当にゼロからの出発であった。お金はないし、技術もなかった。産業界への融資、新しい機械の導入などに熱心に尽力したのがサムエル・C・オグレスビー氏だったのだ。だから、彼は「沖縄産業の恩人」と呼ばれている。
「沖縄人以上に沖縄を愛した人」とも言われている。
故稲嶺一郎氏は「敵国の住民に対してどうしてこんなに優しい気持ちを持って真剣になれるのだろうかと、アメリカという大国の国民性か、あるいはこの人だけのパーソナリティなのかと、不思議な感じすらした。妙なものだが、実際、日本人が敵国の住民をこのように慈しむことができるだろうか、さえ感じたものである」と述べている。
サムエル・C・オグレスビー氏は彼の遺言通り、泊の外人墓地でタイス夫人と一緒に眠っている。
ブログ「沖縄に内なる民主主義はあるか」

オグレスビー氏の功績を記念して二つの賞が創設された。

(1)オグレスビー氏工業功労者賞
 沖縄の工業発展に著しく功績のあった者や沖縄の産業開発に有益な事業を興した者に授与する。
○新規企業を導入して成功した者
○新製品を開発して成功した者
○その経営する企業によって沖縄経済に大きく貢献した者
○人格高潔なる者
○その他
2015年度受賞者
 沢岻カズ子  株式会社御菓子御殿代表取締役会長
 金城博  株式会社トリム代表取締役会長

(2)工業関係学生の学資援助
 オグレスビー氏奨学金は、工業関係学科の在学生に対して、心身健全、志操堅固、学業優秀で、経済的に学資の支出が困難な学生に学資の一部を支給している。
2015年度受賞者
 沖縄高専の安元康貴さん
2014年度受賞者
美里工業高校の上江洲紅歌さん
浦添工業高校の松本勇志さん
 
オグレスビー氏工業功労者賞と工業関係学生の学資援助は現在も続いている。


 銃剣とブルドーザーによる強制土地接収、墜落事故、騒音被害、婦女暴行、交通事故等々が報道され続け、米軍は悪であるというのが沖縄では定着している。それは「アメリカ帝国主義は完全に琉球を植民地・軍事基地・奴隷化し」と決めつけている共産党の論理が深く浸透していったからである。革新、沖縄タイムス、琉球新報も米軍に対する思想は共産党の影響を強く受けている。革新や沖縄二紙が反米軍基地運動していた裏で、米軍は医療で沖縄の人々の健康を守り、立法院、行政主席、裁判所を設立して沖縄の民主化を進め、琉球大学を設立して沖縄発展のための人材を養成するシステムをつくり、経済を目覚ましく発展させたのである。それが民主主義国家米国の民主主義米軍の真実である。




2015/06/12 に公開
平成27年6月11日木曜日に放送された『沖縄の声』。沖縄県中頭郡嘉手納町、沖縄市­、北谷町にまたがるアメリカ空軍基地「嘉手納飛行場」は、極東最大の空軍基地といわれ­、総面積は約19.95km²、3,700mの滑走路2本を有し、200機近くの軍用­機が常駐している。本日は、キャスターの又吉康隆氏による「嘉手納飛行場」の周辺リポ­ートをお送りします。
※ネット生放送配信:平成27年月6月11日、19:00~


2015/06/11 に公開
平成27年6月10日水曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、キャスターの又吉康隆­氏に「キャラウェイ高等弁務官と沖縄マスコミ そして翁長知事」、「翁長知事は普天間問題を最初から放棄していた」の2つのテーマに­ついて解説いただきます。
※ネット生放送配信:平成27年6月10日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
  

Posted by ヒジャイ at 13:01Comments(4)

2015年06月18日

森本元防衛相のバカげた「九州の南、西は可能」論


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
4月30日より県内書店で発売しました。

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○県外は書店で注文できます。
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森本元防衛相のバカげた「九州の南、西は可能」論


普天間移設先「九州の南、西は可能」 森本元防衛相が持論
森本敏元防衛相は17日、日本記者クラブで会見し、米軍普天間飛行場の移設先について「九州の南、西半分のどこかにあれば、抑止力は落ちるが、何とかやっていける」と述べ、軍事上は県外移設が可能だとの認識を示した。森本氏はこれまで、海兵隊の陸上、航空、後方支援部隊をまとめたMAGTF(マグタフ=海兵空陸任務部隊)が「日本の西半分のどこかに、機能する状態ならば(普天間の移設先は)沖縄でなくてもよい」との認識を示していたが、より踏み込み、九州の南方と西方を移設可能な場所として初めて言及した形だ。
 森本氏は「沖縄だったら抑止力だ、隣の鹿児島県なら抑止力にならない、そんなことがあり得るのか。軍事的にはナンセンスだと思う」と指摘した。九州の南方、西方への移設が軍事上可能な理由として「陸上連隊と揚陸艦、飛行部隊、後方支援部隊が三位一体となって戦力を発揮できる」とし「そこ(九州)から東側は明らかに中国から見たら(米軍が)引いていった、出てこないと思われる」との持論を展開した。
 一方、民主党政権時に全国各地の候補地を検討したことを強調した上で、県内移設の利点として「抑止をするときに、戦略的に効果的な場所にある」との考えも示し、政治的な観点を含めると沖縄が効果的だとの考えも述べた。
 防衛相在任中に移設候補先として上がった鹿児島県徳之島への移設について「報道が出ると反対者がどんどん出てきてつぶされる。だから政治的に無理だ」と説明した。その上で「政治的に円満に解決し、どうぞ使ってくださいという県があれば(県外移設の)交渉の余地がある」との考えを示した。
琉球新報社
 普天間飛行場の本土移転は軍事上は可能であることはすでに分かっていることである。だから小泉元首相は県外移設をやろうとした。しかし、普天間飛行場を受け入れる自治体はひとつもなかった。沖縄の米軍基地負担を軽減するために普天間飛行場を本土に移転することを全国の首長は賛成しているが、自分の所に移転するとなると反対した。小泉元首相はそのことを「総論賛成各論反対」と言い、本土移転を断念して辺野古移設に戻った。
 問題は政治的な問題であって軍事的な問題ではない。それはずっと前から知られていることだ。
 
 中国への抑止力は、
三沢米軍基地・・・F16攻撃機を主力とする第35戦闘航空団とスパイ衛星の運用をはじめ情報収集部隊である第373情報監視群の基地。
横田米軍基地・・・在日米軍司令部と第5空軍司令部(在日米空軍司令部)、第374米輸送航空団が配備され、C130輸送機14機が常駐している。国連軍司令部も併設している。
横須賀米海軍基地・・・在日米海軍の本拠地であり、第7艦隊の出撃基地である。
厚木米軍基地・・・米空母の艦載機部隊、第5空母航空団の基地です
岩国米軍基地・・・沖縄の第一海兵航空団(キャンプ・フォスター)指揮下の第12海兵航空群が配備されている海兵隊航空基地である。
佐世保米軍基地・・・海外で唯一の強襲揚陸艦部隊の拠点であること。強襲揚陸艦ボノム・リシャールをはじめとする4隻の揚陸艦、4隻の掃海艦の母港
嘉手納基地・・・第18航空団の出撃基地
普天間飛行場・・・航空戦闘部隊である第1海兵航空団第36海兵航空群
ホワイトビーチ・・・攻撃型原潜の出撃・補給基地
トリイ・ステーション・・・陸軍通信部隊

中国への抑止力は上記の日本全体の米軍基地の総合力であるのであって普天間基地の抑止力うんぬんに矮小化してはならない。
森本元防衛相は「そこ(九州)から東側は明らかに中国から見たら(米軍が)引いていった、出てこないと思われる」「(県内移設の利点として抑止をするときに、)戦略的に効果的な場所にある」と述べているが、九州の東側に移転したとしても抑止力が下がるということはない。普天間飛行場が九州に移転しようが辺野古に移転しようが抑止力としての戦略的な効果においては大した違いはない。抑止力は米軍基地総合力の問題であって普天間飛行場の移転とは関係のない問題である。

問題は県外移設が政治的にできないことに尽きる。

森本元防衛相の「政治的に円満に解決し、どうぞ使ってくださいという県があれば(県外移設の)交渉の余地がある」は非現実的でありバカげた考えである。
田原 総一朗氏は、鳩山元首相が普天間飛行場を徳之島に移転しようと内密に徳之島の有力者と交渉しようとしたら官僚にリークされて報道されてしまい、交渉ができなくなったと言い、もしリークされなかったら可能性があったような印象を与え、官僚が真剣にやれば県外移設ができるような発言をしている。田原 総一朗氏の考えは間違っている。徳之島で移設反対1万人集会に1万5千人が集まった。それは徳之島の人口の6割である。政府が有力者と裏交渉をしたとしても移設することは不可能だ。
森本元防衛相も「報道が出ると反対者がどんどん出てきてつぶされる。だから政治的に無理だ」と報道の性にしているが、報道されようとされまいと住民の多くが反対するから県外移設はできない。それが現実だ。

種子島から西方12㎞離れた東シナ海上に無人島馬毛島がある。面積は8.20㎞、周囲16.5㎞である。馬毛島に米軍の離着陸の訓練のための滑走路をつくる計画があったが、住民の反対で実現しなかった。
 住民が住んでいる種子島から12㎞離れた無人島で滑走路をつくることさえ困難である。普天間飛行場の移設は不可能である。
 
 辺野古移設に反対している革新は本土への移設にも反対している。もし、本土に移設しようとすれば革新による辺野古のような過激な反対運動が本土でも起こるだろう。辺野古より動員力は増え、運動も過激になるはずだ。

 辺野古移設ができるのは地元辺野古区民の容認が大きい。辺野古区民が反対すれば辺野古移設はできなかった。議会制民主主義国家である日本で、国の事業であっても地元の了解なしでは実行することはできない。辺野古区民の容認が第一である。
辺野古区民の容認だけではない。名護市長、県知事の容認も必要である。辺野古移設は、辺野古区民、名護市長、県知事の三者が容認して初めて計画を実行することができたのである。
 本土は「総論賛成各論反対」であり、普天間飛行場の移設を容認する自治体は一か所もない。

「普天間移設先「九州の南、西は可能」発言は元防衛相としては抑止論が間違っているし、「政治的に円満に解決し、どうぞ使ってくださいという県があれば(県外移設の)交渉の余地がある」発言は学者として現実を正確に把握していない。

花より野菜

 ゴーヤー、キューリ、ヘチマ、モウイ、オクラなどの庭の野菜がどんどん大きくなってきた。
ゴーヤーが一番実をつけている。

シークワーサーの枝を這っているヘチマにも実がついた。そろそろ食べごろである。


モウイは実は大きいし沢山実がなっている。

 
 というわけで、毎日が野菜三昧である。野菜作りには肥料などのお金がかかっているから、せめて肥料代分は食べなければならない。スーパーで野菜は買わないで、庭の野菜だけを毎日食べている。

6月の半ばなのにグラジオラスが咲いた。二本のグラジオラスは咲き終わり茎が枯れていこうとしている時に咲いた。遅咲きにしても遅すぎる。





2015/06/12 に公開
平成27年6月11日木曜日に放送された『沖縄の声』。沖縄県中頭郡嘉手納町、沖縄市­、北谷町にまたがるアメリカ空軍基地「嘉手納飛行場」は、極東最大の空軍基地といわれ­、総面積は約19.95km²、3,700mの滑走路2本を有し、200機近くの軍用­機が常駐している。本日は、キャスターの又吉康隆氏による「嘉手納飛行場」の周辺リポ­ートをお送りします。
※ネット生放送配信:平成27年月6月11日、19:00~


2015/06/11 に公開
平成27年6月10日水曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、キャスターの又吉康隆­氏に「キャラウェイ高等弁務官と沖縄マスコミ そして翁長知事」、「翁長知事は普天間問題を最初から放棄していた」の2つのテーマに­ついて解説いただきます。
※ネット生放送配信:平成27年6月10日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)

  

Posted by ヒジャイ at 12:27Comments(2)

2015年06月16日

日本の米軍基地


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
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ソ連は崩壊したが、中国はまだ社会主義国家である。そして、領土拡大主義であり、尖閣諸島に侵略しようとしている。
南沙諸島ではフィリピンやベトナムの領海を中国の領海だと主張して侵略している。
中国が社会主義国家である限り、抑止力として日本の米軍基地は必要である。
中国が民主主義国家になり、米国や日本、その他アジアの国々と友好関係になれば日本の米軍基地は必要なくなる。その時には日本の米軍基地のほとんどを撤去するだろう。

 韓国、台湾、フィリピンを中国の侵略から守るために存在しているのがアジアに駐留している米軍である。
中国を抑止し、アジアの平和を守っているのは、米軍の戦闘機・爆撃機、情報機関、原子力空母、原子力潜水艦、海兵隊の総合力である。


アジアの平和のために日本の米軍基地は必要である
 
 米軍基地があるから攻撃されると引退した自民党の老政治家や革新政治家たちは言っているがそれは妄想からきたたわごとである。
もし、日本の米軍基地に攻撃を加える国があると主張するのなら、それはどの国であるのか、なぜその国は米軍基地を攻撃するのか、その原因を説明するべきである。しかし、彼らは日本の米軍基地を攻撃する国がどの国であるかを言わないし、攻撃をする原因も説明しない。ロシア、韓国、台湾、ベトナム、フィリピン、インドネシア、シンガポールなどのアジアの国々が米国と戦争する可能性はない。米国は民主主義国家である。ヨーロッパで見られるように民主主義国家と民主主義国家は戦争をしない。ヨーロッパの民主主義国家はEUという共同体をつくっている。民主主義国家と民主主義国家はやウ交感系を高めていく。米国が韓国、台湾、フィリピン、インドネシア、シンガポールなどアジアの民主主義国家と戦争をすることはあり得ないことである。むしろ友好関係を高めていくだろう。
アジアに民主主義国家ではない国がある。北朝鮮と中国とベトナムである。ベトナムは米国とベトナム戦争をやったが、現在はTPP参加を表明し、アジアの日本、フィリピンなどの民主主義国家や米国と友好関係にある。米国と友好関係を築いているベトナムが日本の米軍基地を攻撃することはあり得ない。もし、米国と戦争を始め、日本を攻撃するとすれば北朝鮮か中国である。
北朝鮮は韓国に侵略しようとしているが韓国には米軍が駐留して北朝鮮の侵略を韓国軍と共に阻止している。中国は日本の尖閣諸島に侵略しようとしているが尖閣は日米安保の適用範囲であると米国は宣言し中国の侵略を抑止している。南沙諸島には現実に中国は侵略している。これ以上の侵略を阻止するために米国はフィリピンに軍隊を派遣し、中国の侵略を抑止している。米軍の北朝鮮や中国への抑止は朝鮮戦争以来60年以上も続いている。米軍は朝鮮戦争、ベトナム戦争をしたが日本が攻撃される可能性は一度もなかった。
米国は朝鮮戦争で現在の韓国を助け、台湾の中国侵略を徹底して防いだ。
台湾海峡危機
1950年代から1990年代にかけて中華人民共和国と中華民国(台湾)の間での軍事的緊張が高まった事件の総称を台湾海峡危機と呼んでいる。4度にわたり緊張が高まったが、アメリカの介入などにより全面戦争に発展することはなかった。

第一次台湾海峡危機(1954年 ― 1955年)
1954年9月3日、中国人民解放軍は金門島の守備に当たっていた中華民国国軍に対し予告もなく突然砲撃を行った。1955年1月18日には解放軍華東軍区部隊が軍区参謀長張愛萍の指揮の下、一江山島を攻撃、陸海空の共同作戦により一江山島は解放軍により占拠された。
一江山島を失った台湾側は付近の大陳島の防衛は困難と判断、2月8日から2月11日にかけてアメリカ海軍と中華民国海軍の共同作戦により大陳島撤退作戦が実施され、浙江省の拠点を放棄したことで事態は収束を迎えた。

第二次台湾海峡危機(1958年)
1958年8月23日、中国人民解放軍は台湾の金門守備隊に対し砲撃を開始、44日間に50万発もの砲撃を加え、金門防衛部副司令官である吉星文、趙家驤、章傑などがこの砲撃で戦死している。この砲撃に対し台湾側は9月11日に中国との空中戦に勝利し、廈門駅を破壊するなどの反撃を行った。この武力衝突でアメリカは台湾の支持を表明、アイゼンハワー大統領は「中国はまぎれもなく台湾侵略」を企図しているとし、また中国をナチスになぞらえた。9月22日にはアメリカが提供した8インチ砲により中国側への砲撃を開始、また金門への補給作戦を実施し、中国による金門の海上封鎖は失敗、台湾は金門地区の防衛に成功している。
10月中旬、ダレス国務長官は台湾を訪れ、蒋介石が金門・馬祖島まで撤収することを条件に、援助をすると伝えた。蒋介石は10月21日からの三日間の会談でアメリカの提案を受け入れるが、大陸反撃を放棄しない旨もアメリカへ伝えた。
10月6日には中国が「人道的配慮」から金門・馬祖島の封鎖を解除し、一週間の一方的休戦を宣言し、アメリカとの全面戦争を避けた。

国光計画(1962年)
1962年、大躍進政策に失敗し国力を疲弊させた中華人民共和国に対し、蒋介石は大陸反攻の好機と捉え攻撃の計画(国光計画)に着手した。具体的に政府及び軍部に大陸反攻のための組織を設置、同時にアメリカの支持を取り付けようとしたが、アメリカは国光計画に反対を表明、実際に軍事行動に発展することはなかった。

第三次台湾海峡危機
1995年-1996年台湾海峡危機又は1996年台湾危機とも呼ばれる第三次台湾海峡危機は、1995年7月21日から1996年3月23日まで台湾海峡を含む中華民国周辺海域で中華人民共和国が行った一連のミサイル試験の影響であった。1995年半ばから後半にかけて発射された最初のミサイルは、一つの中国から中華人民共和国外交政策を引き離すものと見られていた李登輝の下の中華民国政府に対する強力な信号を送ろうとしたものと見られている。第二波のミサイルは、1996年初めに発射され、1996年中華民国総統選挙への準備段階の台湾総統選挙に対する脅迫の意図があると見られた。
アメリカ合衆国政府はベトナム戦争以来の最大級の軍事力を行使して反応した。クリントン大統領は1996年3月にこの地域に向けて艦船の増強を命じた。ニミッツを中心とした二つの航空母艦群(英語版)や第7航空母艦群(英語版)、インディペンデンスを中心にした第5航空母艦群が、この地域に存在し、台湾海峡に入ったと公式発表された。

フィリピン対テロ戦争

フィリピン南部ミンダナオ島では、40年以上政府とイスラム系住民との武力紛争が続いてきた。10万人を超える死者を出している。アメリカ軍は「フィリピンにおける不朽の自由作戦」でミンダナオ島におけるイスラム勢力と対決するフィリピン軍を訓練や助言などの方法で援助している。フィリピン国軍やアメリカ軍による共同軍事作戦、掃討作戦が行われイスラム反乱軍はほぼ壊滅・弱体化したといわれている。

米軍は中国とも戦争を辞さない態度をとってきた。中国のほうが米軍と戦うのを避けてきた。アジアで米軍と戦う国はない。つまり日本が攻撃されるというのはアジアの情勢を知らない者の妄想である。注目するところは蒋介石が大陸反攻をしようとした時、米国が反対したことである。米国はすべての国の侵略行為に反対しているのだ。朝鮮戦争もベトナム戦争も侵略を阻止するのが目的であったし、現在もそうである。

6月16日(火)に時事通信から以下の報道があった。
南シナ海埋め立て「近く完了」=米との対立回避へ妥協か―中国

 【北京時事】中国外務省の陸慷報道局長は16日、中国が南シナ海の南沙(英語名スプラトリー)諸島で進めている埋め立て工事について談話を発表し、「既定の作業計画に基づき、近く完了する」と明らかにした。その上で次の段階として、軍事・防衛のほか、海上救難や災害対策、航行安全などに使用する施設を建設すると表明した。
 中国による南シナ海での埋め立てに対し、米国は中止を要求し、継続するなら「人工島」周辺に米軍機や軍艦を派遣する構えを見せていた。23、24両日にワシントンで開かれる米中戦略・経済対話を前に、対立激化を回避したい中国は、埋め立て工事終結の方針を示すことで妥協を探った可能性もある。 
                      「時事通信」

日本の米軍基地は日本を防衛するだけでなくアジアの平和を守るために存在している

日本の米軍基地は北朝鮮と中国の脅威に対峙し、抑止している。日本に米軍基地があるから攻撃されるのではなく、北朝鮮、中国から日本、韓国、台湾、フィリピン等のアジアの民主主義国家を守っているのである。
日本の米軍基地を調べていくとその事実が明確になる。


日本の米軍基地
米軍基地は日本全国に132か所(1027平方キロメートル)ある。米軍専用基地は83か所で、他は自衛隊との共用である。日本の主な米軍基地は、三沢空軍基地(青森県三沢市)、横田空軍基地(東京都福生市など)、横須賀海軍基地(神奈川県横須賀市)、岩国海兵隊基地(山口県岩国市)、佐世保海軍基地(長崎県佐世保市)と沖縄の米軍基地群。
沖縄が負担している割合は23%てあり、約75%というのは専用施設に限ったことであり、事実とは異なる。都道府県別米軍施設の面積ランキング」では1位は北海道で、3万4463㌶。沖縄は2位で、2万3671㌶である。以下、静岡、大分、山梨と続く。

○北海道の米軍基地
現在18か所、面積では全国第一位。
米軍専用基地は、「キャンプ千歳」の1か所。残りはすべて共同使用基地。
沖縄の県道104号越えの実弾射撃訓練演習が移転された矢臼別演習場は、日本で最大規模の自衛隊演習場。米軍はこの
演習場で沖縄ではできなかった実弾射撃訓練を繰り広げてきた。北海道の中規模演習場もすべて共同使用基地。
航空自衛隊千歳航空基地は共同使用基地。
嘉手納基地所属のF15戦闘機の「訓練移転」では、滑走路の拡張によって、米軍機が嘉手納基地と同様、激しい訓練をおこなっている。

〇三沢米軍基地
F16攻撃機を主力とする第35戦闘航空団とスパイ衛星の運用をはじめ情報収集部隊である第373情報監視群の基地。第35航空団は、F16攻撃機40機を擁し、在韓米軍のF16部隊と一体となって、地上攻撃能力を強化する訓練をおこなっている。
 対地爆撃を主たる任務とするF16は、東北地方に設置されたグリーン・ルートやピンク・ルートなどの低空飛行訓練ルートで、低空飛行訓練をくり返している。
 三沢基地の北、姉沼地区に「セキュリティ―・ヒル」という小高い丘に、19個のパラボラ・アンテナ群が並び周辺のあらゆる電波情報を収集し解析する「象のオリ」アンテナなどが置かれている。米空軍の第373情報監視偵察群指揮下の三沢安全保障センターで、中国や北朝鮮など周辺国の電波や通信を傍受し、瞬時に解析するスパイ基地。

「ミサイル防衛」の最前線として増強
 三沢基地を中心とする青森県での「米軍再編」は、「ミサイル防衛」の最前線基地としての増強がすすめられた。
 日本海に面する青森県つがる市には、米軍Xバンド・レーダーが設置され、自衛隊基地内に米軍「車力通信所」が設置された。このレーダーは、アメリカの世界的規模の「ミサイル防衛」網の一環で、米国本土を攻撃する弾道ミサイルを監視・探知するレーダーである。北朝鮮や中国の弾道ミサイル用といわれている。

〇横田米軍基地と首都圏の米軍基地
在日米軍司令部と第5空軍司令部(在日米空軍司令部)、第374米輸送航空団が配備され、C130輸送機14機が常駐している。国連軍司令部も併設している。日本に飛来する外来米軍機の中継・輸送基地の役割を担っている。
 2012年3月には、横田米軍基地に、航空自衛隊航空総隊司令部(当時は府中市)が移駐し、戦後初めて「航空自衛隊横田基地」が発足した。
西太平洋における唯一の輸送航空団の中継基地である横田基地は、世界のどこにでも展開する準備を整えている遠征部隊である。それが大規模な訓練をおこなっている理由である。つまり、この訓練は、世界のどこにでも出撃できる軍事態勢づくりのためである。こうした横田基地での新たな訓練とともに、横田基地に「強襲着陸用滑走路」も設置された。

※日本の米軍基地がアジアの情勢を常に見守り、いざ紛争が起こるとアジアのどこにでも駆けつける態勢にあることが理解できる。日本の米軍基地はアジアの平和を守っている。
首都圏の空を支配する「横田エリア」
 横田基地を中心とした首都圏の空には、横田ラプコン(通称「横田エリア」)という米軍専用空域が68年間続いている。「横田エリア」は、北は新潟県から東は栃木県、西は群馬、長野、埼玉、東京、山梨、神奈川、静岡県の1都8県にまたがる広大な区域である。高度は、海面上から2万3000フィート(約7000メートル)の空域である。民間航空機は、米軍の許可なくこの空域に入ることができません。JAL(日本航空)機が御巣鷹山に墜落した事故では、ここが「横田エリア」の中だったので、捜索隊は米軍の許可のもとに入った。
 
〇横須賀米海軍基地と神奈川の基地群

 横須賀基地は、在日米海軍の本拠地であり、第7艦隊の出撃基地である。
揚陸指揮艦「ブルーリッジ」を旗艦とする第7艦隊は、ハワイの太平洋艦隊の指揮下にあり、東は日付変更線から西はアフリカ東岸までの西太平洋、インド洋、日本海という地球の5分の1の広大な海域を作戦区域とする艦隊だ。原子力空母ジョージ・ワシントンをはじめ11隻の戦闘艦が横須賀基地を母港としています。乗組員約5350人の原子力空母ジョージ・ワシントン(今秋よりロナルド・レーガンに代わる)は、「ミサイル防衛」用のイージス・システムを搭載している7隻の艦船で編成される第15駆逐戦隊とともに「空母打撃群」を編成しています。これらは、アフガン、イラク戦争の最前線で攻撃の先頭に立ってきた。

横須賀基地の「米軍再編」
横須賀基地は、「米軍再編」によって、あらたに原子力空母として、核(原子力)基地化の増強がすすめられている。

※原子力空母を主体とする第七艦隊もいざという時はアジアに駆けつける。
厚木米軍基地
 厚木基地は、米空母の艦載機部隊、第5空母航空団の基地です。FA18スーパー・ホーネットで編成される4つの戦闘攻撃飛行隊(VFR)(約52機)やF18グラウラー電子戦飛行隊、早期警戒飛行隊などが配備されている。第5航空団は、米国唯一の911航空団であり緊急事態で運用される「殴りこみ」航空団である。
厚木基地は、米軍専用地区と共同使用地区からなっており、航空基地としての中心となる滑走路、管制塔、作戦センターは、自衛隊が使用する国有財産で、米軍との共同使用となっている。
神奈川県は、沖縄に次ぐ「第二の基地県」と言われている。米軍専用基地数では沖縄についで13か所の米軍基地がある。キャンプ座間には、在日米陸軍司令部が置かれている。基地には、第9戦域支援コマンドが置かれ、太平洋軍担当地域での紛争の際の補給支援をおこなう部隊が配備されています。また、第78航空大隊やスパイ部隊である第500軍事情報旅団の指揮下にある第441軍事情報大隊が配備されている。
 
〇キャンプ富士
静岡県御殿場市にあるキャンプ富士(「富士営舎地区」)は、沖縄の米海兵隊基地司令部の管轄下に属する地区で、東富士演習場を統括する部隊が駐留している。
東富士演習場は、富士山麓に広がる米軍と自衛隊の共同使用演習場です。1968年までは米軍専用演習場であったが、米軍が経費節減のため、日本に返還し、自衛隊所有の訓練場となったが、米軍が年間270日間にわたって自由に使うことができる。270日間は、土・日を除けば「毎日」という意味である。自衛隊演習場であるが、実質は米軍演習場というしくみになっている。
東富士演習場は、沖縄の県道104号越え実弾射撃訓練が移転し、年間1か月近く、昼夜を問わずの訓練がおこなわれている。東富士演習場の近傍にある今沢海岸には、「沼津海浜訓練場」があり、ベトナム戦争やイラク戦争では上陸作戦演習が頻繁におこなわれた。

〇岩国米軍基地
岩国基地は、沖縄の第一海兵航空団(キャンプ・フォスター)指揮下の第12海兵航空群が配備されている海兵隊航空基地である。FA18スーパー・ホーネット戦闘攻撃機など約36機配備されています。また、AV8Bハリアー垂直離着陸攻撃機6機、FA6Bプラウアー電子戦偵察機、CH53D大型ヘリ8機など約57機の軍用機が配備されている。
 岩国基地上空には、「岩国エリア」という米軍専用空域が存在し、北は島根県江津市や浜田市、山口県、広島県の上空から、南は四国の愛媛県上空にまで及んでいる。
 岩国基地では、2010年5月29日から新滑走路が運用開始になり、基地機能は格段に強化されました。この計画により、基地面積は1.4倍、滑走路は、45mから60mに拡幅され、戦闘攻撃機が2機編隊で離着陸が可能となった。格納庫や弾薬庫、燃料タンクが増設された。これまでにはなかった200m超の岸壁が沖合いの突端に建設され、喫水13mで3万トン級艦船の接岸が可能になりました。

〇佐世保米軍基地
第一の特徴 海外で唯一の強襲揚陸艦部隊の拠点であること。強襲揚陸艦ボノム・リシャールをはじめとする4隻の揚陸艦、4隻の掃海艦の母港であり、世界の7割の海岸線から陸地に侵入できるLCAC(エアクッション型上陸艇)の海外唯一の前進配備基地である。強襲揚陸艦は、乗組員約1200名、海兵隊員約1800名を収容し、「殴りこみ」戦闘の最前線に立つ艦船である。
第二の特徴 西太平洋の燃料・弾薬の補給、中継拠点であること。米第7艦隊の艦船約70隻を3ヵ月間行動させることが可能な約85万キロリットルの燃料と、約4万トンの弾薬を貯蔵している。

〇沖縄の米軍基地

沖縄の海兵隊基地
沖縄には、沖縄全土の10.2%、本島の18.4%に米軍基地が配備されている。その中心は、米海兵隊基地である。
在沖米海兵隊の中心は第3海兵遠征軍で、司令部は、キャンプ・コートニー(うるま市)に設置されている。地上戦闘部隊である歩兵部隊(第4海兵連隊)がキャンプ・ハンセン(金武町)とキャンプ・シュワブ(名護市)に、砲兵部隊である第12海兵連隊がキャンプ・ハンセンに、航空戦闘部隊である第1海兵航空団第36海兵航空群が普天間基地(宜野湾市)に置かれています。また、補給・後方支援部隊である第3海兵兵站群司令部が、キャンプ・キンザー(牧港補給地区・浦添市)に置かれています。これらは、それぞれが米海兵隊太平洋軍の指揮下にあり、「空地任務部隊」として、地上戦闘ばかりでなく、航空戦闘、海上戦闘を担う{殴りこみ}能力を保持しています。
第31海兵遠征隊(MEU)は、海兵隊の空地任務をもつ主たる戦闘部隊です。海兵隊はそもそも、第二次世界大戦から本格的な水陸両用戦闘を担う部隊となり、ソ連崩壊後、「遠征隊」がその主力となりました。「遠征隊」は、普天間の航空部隊や地上戦闘部隊と一体となって機動的に編成され、アフガンやイラクなどの紛争に迅速に介入する目的をもっています。
普天間基地は、「世界一危険な基地」と称され、宜野湾市の中心部にあり、住民に墜落の危険と爆音被害を与えています。普天間に配備されている第1海兵航空団は、司令部をキャンプ瑞慶覧(フォスター)に置き、指揮下部隊には、岩国基地の第12海兵航空群やハワイのカネオヘ・ベイ米海兵隊基地の第24海兵航空群があります。これらは、軍事的に一体となって配備・展開され、岩国のFA18戦闘攻撃機などが沖縄の訓練海空域で頻繁に戦闘・爆撃訓練をおこなっています。2004年8月、沖縄国際大学に墜落したCH53Dはハワイから岩国に配備されていた大型輸送ヘリコプターで、普天間での訓練中に墜落したものです。
キャンプ・キンザーは、在沖米軍が使用する日用品から弾薬(弾薬庫は、嘉手納、辺野古)までを貯蔵・補給する海兵隊兵站部隊の基地です。
嘉手納基地(嘉手納町)
 嘉手納基地は、第18航空団の出撃基地で、F15戦闘機(約50機)を主力として、KC135空中給油機、E3空中警戒管制機が配備されています。また、空軍の特殊作戦機であるMC130Hコンバット・タロンⅡ、「ミサイル防衛」のためのRC135コブラボールなどに加え、海軍のP3C対潜哨戒機、陸軍のPAC2・PAC3(パトリオット・ミサイル)部隊(第1防空砲兵部隊)も置かれている。90機以上の航空機が配備されている。

ホワイト・ビーチ(うるま市)
勝連半島の先端にある米海軍基地で、横須賀基地の第7艦隊主力艦やグアムを母港とする攻撃型原潜の出撃・補給基地となっています原潜の出撃・補給基地
陸軍の第1特殊部隊群(空挺)第1大隊など、陸・海・空の基地群が集中しています。

トリイ・ステーション 陸軍通信部隊
ジャングル戦闘訓練場 北部訓練場
キャンプ・ハンセン 中部訓練場


本土6基地沖縄4基地が日本・アジアの安全を守っている。

三沢米軍基地・・・F16攻撃機を主力とする第35戦闘航空団とスパイ衛星の運用をはじめ情報収集部隊である第373情報監視群の基地。
横田米軍基地・・・在日米軍司令部と第5空軍司令部(在日米空軍司令部)、第374米輸送航空団が配備され、C130輸送機14機が常駐している。国連軍司令部も併設している。
横須賀米海軍基地・・・在日米海軍の本拠地であり、第7艦隊の出撃基地である。
厚木米軍基地・・・米空母の艦載機部隊、第5空母航空団の基地です
岩国米軍基地・・・沖縄の第一海兵航空団(キャンプ・フォスター)指揮下の第12海兵航空群が配備されている海兵隊航空基地である。
佐世保米軍基地・・・海外で唯一の強襲揚陸艦部隊の拠点であること。強襲揚陸艦ボノム・リシャールをはじめとする4隻の揚陸艦、4隻の掃海艦の母港
嘉手納基地・・・第18航空団の出撃基地
普天間飛行場・・・航空戦闘部隊である第1海兵航空団第36海兵航空群
ホワイトビーチ・・・攻撃型原潜の出撃・補給基地
トリイ・ステーション・・・陸軍通信部隊

東アジアで米軍基地があるのは韓国と日本だけである。韓国の米軍基地は北朝鮮の抑止力になっているが、フィリピンのクラーク空軍基地とスービック海軍基地が返還された今では日本の米軍基地は韓国、台湾、フィリピンなどアジアの国々の中国からの侵略の抑止力となっている。
日本の米軍基地は中国のアジア侵略を抑止し。アジアの民主主義国家の平和を守っている。

自衛隊は日本国を防衛するしかできない。アジアの民主主義国家を守るのは米軍しかない。フィリピンのクラーク空軍基地とスービック海軍基地は1991年に返還され、現在は日本の米軍基地だけであるが、アジアの民主主義国家の平和を維持するには米軍が必要であることを知らしめたのは、皮肉にも米軍のフィリピンからの撤退であった。
フィリピンから米軍が撤退すると、1995年に中国はフィリピンが領有権を主張しているミスチーフ礁などを占領して建造物を構築した。軍事力に優る米軍が駐留していたら中国はミスチーフ礁を占領していなかっただろう。フィリピンの軍事力が弱いのを見通したうえでのフィリピン侵略であった。フィリピンの中国に対する甘い考えが招いた中国のミスチーフ礁侵略である。
2011年2月末から5回以上にわたり、中華人民共和国探査船がフィリピンが主張する領海内において探査活動をくり返し、5月には無断でブイや杭などを設置した。
2015年5月には、中国が南シナ海で進める岩礁埋め立てや施設建設について「中国の主権の範囲内の問題だ」などと述べ、中止しない方針を表明した。埋め立ての目的については「軍事防衛の必要を満たすため」とし、軍事利用を含むことを明確に認めたのである。
中国に圧力をかけることができるのはアジアには一国もない。米政府だけが中国に圧力をかけることができる。米政府は今後、スプラトリー諸島の12カイリ以内に米軍機を進入させる可能性を表明した。
フィリピンは米軍に対し、フィリピン軍施設の共同使用や、補給物資貯蔵施設などの建設を認め、米艦船などの巡回配備を活発化させているが、時すでに遅しである。フィリピンに比べて日本政府は中国の本質を見抜いていた。
1972年に沖縄は本土復帰したが、ベトナム戦争で多大な戦費を使い、経済が破綻寸前であった米政府は沖縄から米軍基地を撤退する積もりでいた。日本とフィリピンの米軍基地があれば北朝鮮、中国への抑止力は保つことができると考えていたのだと思う。沖縄の米軍基地撤去に反対したのは日本政府であった。米軍基地の維持には日本が「思いやり予算」を出すことで沖縄の米軍基地は残った。
 日本政府が「思いやり予算」を出して米軍の沖縄駐留を維持させたのは正しい判断であった。

  

Posted by ヒジャイ at 15:42Comments(3)

2015年06月13日

アジアの平和のために米軍は必要である


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アジアの平和のために米軍は必要である



 黒い部分はソ連邦が崩壊する前の1980年代の社会主義国圏である。アジア大陸はほとんどが社会主義国であった。東アジア大陸ではわずかに韓国だけが非社会主義国であった。
社会主義圏が急激に広がったのは武力による拡大が原因である。

1917年にロシア革命が起き、史上初の社会主義国家が誕生した。1924年のレーニンの死後に独裁的権力を握ったスターリンは、ポーランドやルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国を社会主義化し、自国の衛星国とした。スターリンはソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄するとともにポーランドに侵攻し、ポーランドの東半分を占領した。またバルト3国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国に進駐した。さらに親ソ政権を組織し、反ソ連派を粛清、或いは収容所送りにして、ついにバルト三国を併合した。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、領土を割譲させた。さらに隣国のフィンランドを冬戦争により侵略してカレリア地方を併合した。  さらに占領地域であった東欧諸国への影響を強め、衛星国化していった。その一方、ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。 また、開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を承認させた。更にこれらの新領土から多くの住民を追放あるいはシベリアなどに強制移住させ、代わりにロシア人を移住させた。また、極東では日本の領土であった南樺太及び千島列島を占領し、領有を宣言した。さらに、1945年8月14日に連合国の一国である中華民国との間に中ソ友好同盟条約を締結し、日本が旧満州に持っていた各種権益のうち、関東州の旅順・大連の両港の租借権や旧東清鉄道(南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた。
第二次世界大戦によって大きな損害を蒙っていた西欧諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。とくにフランスやイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影はなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。1947年に入ると、3月12日にトルーマンは一般教書演説でイギリスに代わってギリシアおよびトルコの防衛を引き受けることを宣言した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」である。さらに6月5日にはハーバード大学の卒業式でジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、西欧諸国への大規模援助を行った。
東欧諸国のうち、ドイツと同盟関係にあったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、スロバキアにはソ連軍が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権であったが、法務、内務といった主要ポストは共産党が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束されたポーランドでも、ロンドンの亡命政府と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や閣僚が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。またその前年の10月にはコミンフォルムが結成され、社会主義にいたる多様な道が否定され、ソ連型の社会主義が画一的に採用されるようになった。
このようにスターリンによって社会主義国圏は急拡大していってヨーロッパの民主主義国家を脅かす存在になった。武力による社会主義圏の拡大を抑止するには米国の軍事力が必要であった。
           
沖縄の米軍基地強化と密接な関係がある中国の拡大

1930年代から中華民国・南京国民政府と内戦(国共内戦)を繰り広げてきた中国共産党は、第二次世界大戦終結後に再燃した内戦で相次いで国民政府軍に勝利をおさめ、1949年4月には共産党軍が南京国民政府の首都・南京を制圧した。この過程で南京国民政府は崩壊状態に陥り、中国国民党と袂を分かって共産党と行動を共にしたり、国外へと避難したりする国民政府関係者が多数出た。その為、共産党は南京国民政府が崩壊・消滅したと判断し、同年10月に毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した。なお、崩壊状態に陥った南京国民政府は蒋介石の指導の下で台湾に撤退し(台湾国民政府)、引き続き現在にいたるまで中華民国と名乗っている。冷戦を経て現在中華民国を国家承認している国は30ヶ国未満であるが、二つの「中国」政府が並立する事態は台湾問題として東アジアの国際的政治問題となっている。

建国当初の政治を担ったのは、中国人民政治協商会議であった。この段階では共産党独裁体制は確立されておらず、「新民主主義論」のもと共産党、中国民主同盟、中国農工民主党、中国国民党革命委員会などの諸勢力が同会議の中心となった。1950年、土地改革法が成立して全国で土地の再配分が行われた。法の内容自体は穏健的なものであったが、地主に対して積年の恨みを抱いていた貧農などによって運動は急進化し、短期間で土地改革は完了した。
中華人民共和国の発足直後は、旧国民党、富裕層などによる反共・反政府運動が続発した。このため、「反革命活動の鎮圧に関する指示」が出され、大衆を巻き込んだ形で反政府勢力の殲滅を図った。1953年までに71万人を処刑、129万人を逮捕、123万人を拘束し、240万人の武装勢力を消滅させた。


1950年に中ソ友好同盟相互援助条約を結び、朝鮮戦争で北朝鮮を支援して参戦するなど、社会主義陣営に属する姿勢を鮮明にした。ただし、1954年のネルー・周恩来会談で平和五原則を示したこと、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)にも積極的に関わったことに見られるように、常にソビエト連邦一辺倒なのではなく、第三勢力としての外交も行った。また、1956年のソ連共産党第20回大会においてフルシチョフが行った「スターリン批判」に対して、中国共産党は異なった見解(功績7割、誤り3割)を示した。これ以降ソビエト連邦との関係は徐々に悪化、のちの中ソ論争や中ソ国境紛争へとつながっていく。
国内では、1953年頃より社会主義化を本格的に進め、人民政治協商会議に代わって人民代表大会を成立、農業生産合作社を組織した。1956年に行った「百花斉放百家争鳴」運動が知識人から批判をうけたため、これを弾圧するために1957年6月に批判的な知識人に対する反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ、投獄した。  
1958年、毛沢東は大躍進政策を開始し、人民公社化を推進した。しかし、無計画に進められた大躍進政策は2000万人~4000万人以上とも言われる大量の餓死者を出して失敗に終わったと言われている。同じ頃、チベットの中国との同化を図り、「解放」の名目で軍事制圧し、ここでも数十万人の大虐殺を行なったとされる。チベットの最高指導者、ダライ・ラマはインドに亡命し、未だ帰還していない。

毛沢東時代の中華人民共和国は、社会の共産主義化を推進した。建国直後の1949年にウイグル侵攻を行い、ウイグルを占領した。1950年にはチベット侵攻を行い、チベットを併合した。1952年には朝鮮戦争に介入した。毛沢東の指導のもとで大躍進政策と核開発を行ない、多くの餓死者と被爆者を出しながらも核保有国としての地位を確保する。1959年のチベット蜂起を鎮圧すると、1962年にはチベットからインドに侵攻した(中印戦争)。1974年には南シナ海に侵攻し、ベトナム支配下の西沙諸島を占領した(西沙諸島の戦い)

ウイグル進攻
1949年の晩夏、人民解放軍は甘粛省の河西回廊に進み、新疆に圧力をかけた。1949年の秋、共産党勢力は国民党と三区との間で新疆の政治的主導権に関して個別の合意に達した。中国共産党は国民党の地方政府と軍を説得し、指導者は新しく成立した中華人民共和国への三区自治の編入に合意した。彼らは降伏した国民党将官と共に中華人民共和国政府の要職につけられた。人民解放軍は1949年10月に新疆に展開し、広大な地域を1950年春までに占領した。

チベット侵攻
第1段階 アムド地方やカム地方の北部・東部・南部を制圧(1948年‐1949年)。
第2段階 チベット政府ガンデンポタンを屈服させ、カム地方の西部やウー・ツァン地方、ガリ地方を制圧、これにより、チベットの全域を制圧することとなった(1950年‐1951年)。

※中国共産党は人民解放軍という名の軍隊によってウイグルやチベットを占領したのである。

          
沖縄の米軍基地強化と密接な関係がある朝鮮戦争・中国の拡大
 
1950年6月25日早朝、朝鮮人民軍は38度線を突破して南部への進撃を開始した。李承晩政権の朝鮮武力統一を未然に防止し、「南半部」を解放する、というのがその理由だった。朝鮮人民軍は進撃をつづけ、1950年6月28日には韓国の首都ソウルを陥落させた。
一方、在日米軍は7月1日、釜山に上陸して北上を開始し、沖縄駐留のB‐29が北朝鮮爆撃を開始した。また、6月27日には第七艦隊が台湾海峡に展開した。7月7日、国連は国連軍総司令部の設置を決定、東京の連合国軍最高司令官マッカーサーを国連軍総司令官に任命し、米軍を中心に16カ国からなる国連軍が編成された。
朝鮮人民軍の勢いは、国連軍参戦後もやまず、1950年8月下旬には、国連・韓国軍は、半島南東部の釜山・大邱などがある一角においこまれた。朝鮮半島の95%を北朝鮮が占領した。
9月15日、マッカーサーの指揮のもとに国連軍はソウル近郊の港町仁川への上陸を決行、韓国内の朝鮮人民軍を南北から挟撃した。
これを機に戦局は逆転し、1950年9月26日に国連軍はソウルを奪回、10月1日には韓国軍が38度線を突破し、つづいて7日に国連軍も同線を突破した。そしてこの日、国連総会は武力による朝鮮統一を承認した。国連・韓国軍はなおも北上して19日に平壌を占領。一部の部隊は26日に鴨緑江まで到達した。しかしその前日、中国人民義勇軍が参戦して朝鮮人民軍とともに反撃に転じ、1950年12月4日に平壌を奪回、翌51年1月4日にはソウルを再占領した。これに対し、2月1日、国連総会は中国非難決議を採択、3月14日には国連・韓国軍はソウルを再奪回した。
戦線は38度線を境に膠着(こうちゃく)状態におちいり、打開策として中国本土やソ連領シベリア諸都市への原爆攻撃を主張したマッカーサーは、トルーマンにより、1951年4月11日に国連軍総司令官を解任された。以後も戦線膠着状態を打開するために、細菌弾、毒ガス弾も使用されたが、決定的な戦局の転換はおきなかった。
戦線が膠着状態になったのをみて、1951年6月23日、ソ連の国連代表マリクはラジオで休戦を提案、関係各国はこれをうけいれ、7月10日に開城を会場(10月に板門店に移動)として朝鮮休戦交渉がはじまった。しかし、交渉は遅々として進まず、断続的に2年間におよび、ようやく53年7月27日板門店において、国連軍総司令官マーク・クラーク、朝鮮人民軍最高司令官金日成、中国人民義勇軍司令員彭徳懐の間で休戦協定が調印された(韓国は拒否)。
           
国連・韓国軍側戦死者 50万人
負傷者        100万人
朝鮮人民軍・中国人民義勇軍戦死者 100万人
戦傷者              100万人
民間人の死亡者、行方不明者南北あわせて 200万人以上

※沖縄戦で民間人・日本兵が20万人死んだことを沖縄では問題にしているが、私たちは沖縄戦だけにこだわってはならない。戦後朝鮮戦争で300万人もの住民や兵士が死んだことも問題にするべきである。
 

沖縄の米軍基地強化と密接な関係があったアジアの冷戦

中国大陸では、戦後すぐにアメリカの支援する中国国民党と中国共産党が内戦を繰り広げたが、中国共産党が勝利し1949年に共産主義の中華人民共和国を建国。1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約を結んでソ連と連合した。一方、中国国民党は台湾島に逃れた。
日本が統治していた朝鮮半島は、ヤルタ会談によって北緯38度線を境に北をソ連、南をアメリカが占領し、朝鮮半島は分断国家となった。このため、1950年6月にソ連の支援を受けた北朝鮮が大韓民国へ突如侵略を開始し、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争には「義勇軍」の名目で中華人民共和国の中国人民解放軍も参戦し戦闘状態は1953年まで続いた。朝鮮戦争では兵士・住民の犠牲者300万人も居たといわれている。
フランス領であるインドシナでは、ベトナムの共産勢力が独立を目指し、第一次インドシナ戦争が起こった。1954年にフランスが敗北したため、ベトナムが独立を得たが、西側は共産主義勢力の拡大を恐れ、ジュネーブ協定によって北緯17度で南部を分割し、南側に傀儡政権を置いた。これは後のベトナム戦争の引き金となる。また、フランスとアメリカが強い影響力を残したラオス(1949年独立)、カンボジア(1953年独立)でも共産勢力による政権獲得運動が起こった。

これら共産勢力のアジア台頭に脅威を感じたアメリカは、1951年8月に旧植民地フィリピンと米比相互防衛条約、9月に占領していた旧敵日本と日米安全保障条約、同月にイギリス連邦のオーストラリア・ニュージーランドと太平洋安全保障条約(ANZUS)、朝鮮戦争後の1953年8月に韓国と米韓相互防衛条約、1954年に中華民国と米華相互防衛条約を立て続けに結び、1954年9月にはアジア版NATOといえる東南アジア条約機構(SEATO)を設立して西側に引き入れた他、中華民国への支援を強化した。また中東でも、アメリカをオブザーバーとした中東条約機構(バグダッド条約機構、METO)を設立し、共産主義の封じ込みを図った。

共産主義の封じ込みを担ったのが米軍である。韓国、日本、沖縄、フィリピンに軍事基地をつくり、北朝鮮、中国、北ベトナムの社会主義国家のアジア拡大を抑止したのが米軍であった。
  
         
 

拡大を続けていた社会主義国圏であったが、1960年代からヨーロッパでは民主化運動が始まり、民主化運動は次第に広がり社会主義を崩壊させる。

ベラとはチェコスロバアの体操選手ベラ・チャスラフスカのことである。1968年のメキシコ五輪で、体操をやるベラに非常に感動した。琉大の男子寮の食堂の映りの悪い白黒テレビであったが、ベラの体操に私の目は釘付けになった。スポーツを見てあれほど感動したことはなかった。19歳の私は感動を詩に書いた。

ベラ

われる拍手と歓声の中で
乱れた金髪を後光にほほえむベラ
踊り終えた肉体は安らぎ
安らいだ心が
生を終えた心が
よろこびをかみしめる

沈黙の世界がいつしかおとずれる
棘をもたない花
金貨で買えない真珠
目が遠い宇宙をみつめる
そこにはなにもない

血のにじむ練習
自信 転落 絶望 回転
喜び 躍動 希望 自信
過去の世界
宇宙塵と散った過ぎし日
過去も見えない未来も見えない 現実も

真空の無時間の世界であなたは生きていた

平均台
マット
鞍馬

生きていた場所から去ったあなたはよろこびを噛みしめる
ああ すばらしいあなたの姿
女神よりも尊いあなたの姿
涙を一粒
喜びのあなたの涙が私の胸に落ち
わたしはうちふるえ 高鳴り 熱くなり
よろこびとも悲しみとも言えない
涙があふれでる

チャスラフスカはメキシコオリンピックで、跳馬 、段違い平行棒、床そして個人総合で金をとり、平均台と団体種目では銀メダルをとって女子体操の6種目すべてでメダルを獲得した。しかし、メダルを取った以上に、彼女にはメダルを越えたなにかがあり、彼女の魅力に私は惹かれた。
なぜ、私はあれほどに感動したのか。その理由はかなり後になって分かった。

チャスラフスカは1968年のチェコスロバキアの民主化運動(「プラハの春」)の支持を表明して「二千語宣言」に署名した。同年8月のワルシャワ条約機構によるロシアが軍事介入をして、プラハに侵攻してきた。弾圧から逃れるために彼女は身を隠さざるを得なかった。彼女のメキシコオリンピック参加は非常に危ぶまれていたが、オリンピック直前にようやく出国を許可された。彼女はこのとき、祖国の屈辱をはね返すために、最高の演技を誓い競技に臨んだ。そして、圧倒的な強さを見せたのである。弾圧に屈しない彼女の内に秘めた闘いの魂は体操の演技に昇華して私を感動させたのだ。

二千語宣言
1968年のチェコスロバキア改革運動、いわゆる「プラハの春」を象徴する文書のひとつ。4月の『行動綱領』が党による改革の指針であるのに対して、『二千語宣言』は市民社会側からの改革への支持・期待の表明であった。起草者は、作家のルドヴィーク・ヴァツリーク。
エミール・ザトペックやベラ・チャスラフスカをはじめとする著名人が名を連ね、1週間たらずで3万人以上の市民が署名した。
『二千語宣言』に署名したチャスラフスカは金メダリストとしての栄誉をはく奪され、職を失い、苦しい生活を強いられる。うつ病にもなったという。しかしそれでも彼女の不屈の精神は弾圧に負けず転向することはなかった。1989年にチェコスロバキアが民主化されるまでの21年間、彼女は耐えに耐えて生き抜いたのである。
1989年11月、ビロード革命によって共産党体制が崩壊すると、彼女はハベル大統領のアドバイザー及びチェコ・日本協会の名誉総裁に就任した。大統領府を辞した後には、チェコオリンピック委員会の総裁も務めている。

チェコスロバキアの民主化革命をビロード革命と呼んでいる。
 1989年11月17日に共産党支配を倒したがこの革命は、1か月後のルーマニア革命のように大きな流血に至る事態は起こらなかったことから、軽く柔らかなビロード(ベルベット)の生地にたとえて名付けられた。

民主化革命は労働者や文化人が中心となって起こしている。これこそが真のプロレタリア革命であると私は思う。プロレタリアとは労働者階級のことである。労働者には家族がいる。家族も労働者階級に属する。学生の頃、私はそのように考えていた。労働者というのは自分の労働を売る人間のことをいう。労働を売ってお金=給料をもらう人間だ。働いて給料をもらう人はすべて労働者である。
民主化革命はいろんな労働者が力をあわせて自分たちの権利を勝ち取った。ロシア革命などの社会主義革命は労働者ではなく政治家が中心になって起こした革命だ。だから本当のプロレタリア革命ではなかった。共産党一党独裁の社会主義国家を倒した民主化革命こそが本当のプロレタリア革命だったのだ。


フランスの五月革命の意義
事件の発端は1966年に起こったストラスブール大学の学生運動で、教授独占の位階体制に対する民主化要求からはじまった。短編小説「一九七一Mの死」で書いてあるように私が琉球大学の学生運動に参加していた時、革マルが家族闘争の模範としたのがストラスブール大学の学生運動から始まった「フランスの五月革命」であった。「フランスの五月革命」は民主化運動であったが、革マルは革命を目指した運動である。学生の頃は民主化運動と革命運動の狭間で私は悩んだ。

ストラスブール大学の民主化運動はナンテールに波及し、1968年3月22日にはベトナム戦争反対を唱える国民委員会5人の検挙に反対する学生運動に発展、ソルボンヌ(パリ大学)の学生の自治と民主化の運動に継承された。アナーキストのダニエル・コーン=ベンディットと統一社会党のジャック・ソヴァジョ、毛沢東主義者のアラン・ジェスマル、トロッキストのアラン・クリヴィンネが指導し、フランス全体の労働者も同趣旨から民主化に賛同し、運動は拡大した。その頃から民主化運動の枠を超えて政治運動に転換していった。
ベトナム戦争反対は民主化運動ではないが、しかし、国民委員会5人の検挙は表現の自由への弾圧であり、彼らの逮捕に反対する運動は民主化運動である。
5月2日から3日にかけて、カルチエ・ラタンを含むパリ中心部で大規模な学生デモがおこなわれた。5月21日にはベトナム戦争、プラハの春事件等の国境を越えた国家権力の抑圧に反対し、自由と平等と自治を掲げた約1千万人の労働者・学生がパリでゼネストを行った。これに対して、機動隊がこの参加者を殴打したため、抗議した民衆によって工場はストライキに突入し、フランスの交通システムはすべて麻痺状態に陥った。「中央委員会」は間接的に援助、各大学もストライキに突入し、このゼネストは第二次世界大戦以来の政府の危機をもたらした。
運動は民主化を越えた反政府運動へと発展していった。

シャルル・ド・ゴール大統領は、軍隊を出動させて鎮圧に動くと共に、国民議会を解散し、総選挙を行って圧勝した。ド・ゴール大統領が戦記よに圧勝したことは注目すべきである。つまりフランス国民は民主化運動には賛成したが、民主化運動に乗じたアナーキーやトロッキストたちの反政府運動=革命運動には反対したのである。
五月革命によって、労働者の団結権、特に高等教育機関の位階制度の見直しと民主化、大学の学生による自治権の承認、大学の主体は学生にあることを法的に確定し、教育制度の民主化が大幅に拡大された。民主化運動の勝利である。

東欧革命または東欧民主化革命または共産主義の崩壊は、1989年にソビエト連邦(ソ連)の衛星国であった東ヨーロッパ諸国で共産主義国が連続的に倒された革命である。1989年革命と呼ばれる事もある。

ポーランド民主化運動
ハンガリー人民共和国は1980年代初頭には既に経済の自由化や議会の複数候補制などの改革を進めていたが、1988年5月に社会主義労働者党(共産党)のカーダール・ヤーノシュ書記長が引退すると、社会主義労働者党内ではより急進的な改革を主張する勢力が実権を掌握するようになった。1989年2月に急進改革派は事実上の複数政党制を導入し、5月にはネーメト内閣がハンガリーとオーストリア間の国境を開放し、鉄のカーテンに穴を開けた。
1989年10月には、社会主義労働者党は社会民主主義政党のハンガリー社会党へと改組、さらに10月23日には新憲法「ハンガリー共和国憲法」が施行され、ハンガリー人民共和国は終焉した。

ベルリンの壁崩壊
クレンツ政権のスポークスマン役を担っていたシャボウスキーは、規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまった。この発表は、東ドイツ政権内部での事務的な手違いによるものだとされる。この記者会見を観た東ベルリン市民がベルリンの壁の検問所に殺到し、殺到した市民への対応に困った国境警備隊の現場指揮官は11月9日の深夜に独断で検問所を開放した。11月10日に日付が変わると、どこからともなく持ち出された重機などでベルリンの壁は破壊され、その影響は世界史的に広まった。

ブルガリアの民主化
ジフコフ長期政権が崩壊し、後任となったムラデノフらはあくまでも一党独裁制の枠内での自由化を進めようとしたがこれをきっかけに市民側のデモが活発化し、12月には党の指導性を放棄することや自由選挙の実施などを決定せざるを得なくなった。1990年の自由選挙ではブルガリア社会党(共産党が改名)が過半数を制して政権を維持し、ムラデノフが大統領となった。しかし、1990年6月になると前年にデモの武力鎮圧を示唆したとされるムラデノフの発言が問題視され、ムラデノフは大統領を辞任し、翌1991年に行われた2回目の自由選挙で社会党は下野した。

ビロード革命
ベルリンの壁崩壊を受けて、東欧の共産党国家の連鎖的な崩壊が始まった。チェコスロバキア社会主義共和国では、ポーランドやハンガリーのような予告された民主化の約束はなかった。しかし、ベルリンの壁崩壊に勇気付けられたチェコスロバキアでは、1989年11月17日に至り、民主化勢力を中心にデモやストライキ・ゼネストを度重なって行った。それらの事態を収拾できなくなった共産党政府はなし崩し的に民主化勢力との話し合いによる解決を模索することとなり、結果、両者は共産党による一党独裁体制の放棄と複数政党制の導入を妥結した。この「革命」では後のルーマニアのような流血の事態には陥らなかった。これを指してビロード革命と言う

ルーマニア革命
ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、チェコスロバキアでは国内の政権移譲が穏健に済んだのに対して、当初から国内の改革に全く否定的で共産党が政権の座に固執し続けたルーマニア社会主義共和国では、1989年12月16日に民主化革命が勃発し、治安維持部隊と市民の間で、衝突が起こり多数が犠牲となった上、12月25日にはルーマニア共産党の最高指導者であったニコラエ・チャウシェスクが射殺されて終結した。チャウシェスクの死体はテレビを通じて世界中に晒され、チャウシェスクの死によってルーマニア社会主義共和国は崩壊し、民主政体を敷くルーマニア共和国が成立した。
 
コマネチの亡命
チャウセスク独裁政権下のルーマニアでは個人の自由は認められず、警察も含め、誰もチャウセスク一家に逆らう事は出来なかった。
ナディア・エレーナ・コマネチは1976年に行われたモントリオールオリンピックで3個の金メダルを獲得し、オリンピックの舞台で初めて10点満点を獲得した選手であった。1984年から1989年まで彼女はルーマニア体操協会のコーチとしてジュニア選手の育成にあたったが、ニコラエ・チャウシェスク大統領の次男ニクが毎晩のように夜の街へ付き合うように求められ、愛人関係となることを強いられた。身も心もボロボロになったコマネチは、1989年11月28日、命がけでルーマニア脱出を敢行、6時間歩いて地雷が埋められた国境を越えハンガリーに逃れた。しかし、ハンガリー国境警察に逮捕されてしまう。ここでも彼女は決死の脱走を計り、オーストリアに脱出しアメリカ大使館に駆け込む。12月1日彼女はアメリカに渡り、自由を得た。
コマネチの亡命はルーマニア国民を奮い立たせ、12月22日、チャウシェスクの演説中群集はチャウシャスク打倒デモ隊と化した。大統領夫妻はブカレストを脱出したものの近郊のトゥルゴビシュティで逮捕、25日に特別軍事法廷で死刑判決を受け即刻処刑された。

共産党一党独裁国家を倒した民主化運動
共産党一党独裁国家を倒したのが民主化運動であった。冷静な目で歴史を見れば、共産党一党独裁国家の次にやって来るのが民主主義国家であることが分かる。これは否定することができない歴史的事実であり、必然である。
 共産党一党独裁国家はプロレタリア革命によって樹立され労働者を解放した国家と思われているが、実際は労働者を弾圧する国家であった。そもそもロシア革命は労働者が立ち上がった革命ではなかった。武力で国家打倒を主張する政治家を中心とした農民、労働者、軍隊による武力革命だった。中国は毛沢東などの政治家が農民中心の軍隊をつくって蒋介石軍と戦い、勝利して国家をつくった。
労働者が立ち上がり労働者のための国家をつくったのはロシアや中国の革命ではなくかった。東欧の共産党一党独裁国家を倒した民主化運動であった。これこそがプロレタリア革命であったのだ。民主化運動によってできた国家は議会制民主主義国家であり、三権分立・法治主義が確立している国である。議会制民主主義国家は実質的にプロレタリア革命を成就している国家である。つまり、米国、日本などの議会制民主主義国家はプロレタリア革命を乗り越えた国家であるのだ。
 
 小学生の時、先生が「水を通さない」と言った時、私は戸惑った。水が電気を通すことを体験していたからだ。子供の頃、親子ラジオというのがあって、各家庭に有線でラジオ放送をしていた。台風の時、ラジオの線が切れて道路の水たまりに接触することがよくあった。水たまりに指を触れるとビリビリと電気が走った。だから、水は電気を通すことを私は知っていた。水は電気を通すのに先生は電気を通さないと言った。先生が嘘をつくはずはない。なぜだろうと私は悩んだ。中学の時に電解質が電気を通すことを知って納得した。
学生の時に言われていたプロレタリア革命論は電気を通さない実験室の純粋な水のようなものである。あの頃のプロレタリア革命論と言えば、工場などの生産に関わっている単純生産労働者が立ち上がり、国家を暴力で倒し、新しい労働者国家を樹立するというものであった。しかし、労働者は工場生産をしている人間たちだけではない。自分の労働力を売って収入を得る者は全て労働者だから、小売業、マスコミ、通信、交通、娯楽等々で働いている人たち全てが労働者である。労働者は多種多業に渡る。また課長、係長、部長、社長も労働をして収入を得ているから労働者である。収入が多いのは労働の質が高いからであって支配階級に属しているから収入が多いのではない。

労働をしないのに収入を得るのを資本家というが、資本家は会社の所有者である。株式会社では会社の所有者は株主である。株主が資本家であり、共産党は、資本主義国家ではブルジヨア階級がプロレタリア階級を支配し搾取しているという。つまり米国や日本では株主が労働者を支配し搾取しているというのである。しかし、議会制民主主義国家である日本や米国は株主が労働者を支配し搾取しているようには見えない。株主の政治力が強いようには見えない。
資本家階級が労働者階級を支配しているのが資本主義国家だと言われているが、米国、日本、イギリス、フランスなど資本主義が発達している国家は同時に議会制民主主義国家も進んでいる国家である。議会制民主主義国家は資本家(株主)階級が労働者階級を支配する仕組みになっていない。
多くの労働者が立ち上がり新しい国家をつくったのが東欧民主化革命であった。新しい国家は議会制民主主義・三権分立・法治主義である。米国、日本、イギリス、フランスなどの議会制民主主義国家はプロレタリア革命をすでに乗り越えているのである。

 日本の学生運動は民主化運動ではなく革命運動であった。米国を帝国主義国家と決めつけ、米国でのプロレタリア革命を主張し、日米安保の廃棄を目指していた。なぜ、日本の学生運動が民主化運動でないかは、彼らは共産党から分離した組織であったからである。共産党は共産主義革命を目指しているし、革マル派と中核派は共産党から分離した組織であり革命を目指していることは共産党と同じであった。
 共産党、革マル派、中核派はフロレタリア革命を起こし、共産党一党独裁国家を樹立することを最終目標にしている。しかし、東欧の民主化革命で証明されたように、歴史的には共産党一党独裁国家は議会制民主主義国家の前の段階の国家である。60年安保闘争、70年安保闘争に見られるように日本の学生運動は革命運動であり民主化運動ではなかった。プロレタリア革命はすでに議会制民主主義によって乗り越えられている。日本の学生運動は未来を目指した運動のように見えるが、彼らが帝国主義国家と呼んで打倒の対象にしている米国にすでに乗り越えられている運動なのだ。

革命を目指した日本の学生運動の中にあって日本大学の闘争は唯一の民主化運動であった。「1968」というホームページがある。日大闘争を闘った人のホームページである。

はじめに

急に書きたくなった、35年経って何を急にというかも知れないが、胸にある記憶を、思いを文章にしたくなった。
地方に住んでいる私は卒業してから20数年、全共闘の話は妻以外の誰にもしなかった。
やっと語れだしたのは、息子が全共闘だった私の年に近づいたこの10年だ。
この35年、何度胸からほとばしり出る思いを止めたのだろう。
辛いことがあると、あの時の事を思い出した。
「日大全共闘は最後の最後まで闘うぞー、最後の最後まで闘うぞーー、」シュピレフコールが事あるごとに頭の中にひびきわたった。

時系列やデータの考証はしていない、あくまで私の憶えている範囲で書いている。嘘は書いていないが、内容に間違いがあるかもしれない。 話が前後しているかもしれない。経過の正確さを求めるため時間を掛けるつもりはない。日大闘争に「直感」で参加したあの時と同じだ。個人の情報はなるべく記述しないつもりだ。
日大闘争をデータとして知るにはすばらしいホームページが他にあるのでそちらを見て欲しい。

私はリーダーでも何でもなかった。ヘルメットを被り、角材を手にバリケードの最後まで戦った、ただの一兵卒だ。
最初から最後まで自分の意思で判断し、その結果も受け止めた。ここに語っているのは私個人の歴史だ。(2003年9月30日、記)
■不正

日大の授業料は安くなかった。理工学部では当時30万円ほどだった。実験費などはまた別に徴収される。その他を合わせると結構な額になった。 庶民が年収100万円足らずの時代にだ。 日大で経理の不正が発覚した。使途不明金が20億円も出てきたのだ。古田会頭を始めとする一部理事が大学の公金を私物化していたと言われた。 不明な使途の中には、体育会を牛耳る者や理事に繋がる右翼団体にも不正に流れたものもあるといわれた。 私達には、(親が)苦労して払った授業料が何に使われたのか、不正は無かったのか真相を質す権利があった。
先進的学友が真相を質すため立ち上がった。その集会に、体育会系学生と思われる集団が襲い掛かった。道路で集会をおこなう学生に、学内の2階3階から椅子、机、消火器など手当たり次第に投げ、消火栓で放水を浴びせた。また構内では学生を追いまわし、殴る、蹴るの暴行を働いた。私の仲間はこの時日本刀で背中を切りつけられた。制服の警官が出動したが、彼らは暴行学生を取り締まらなかった。
日大の多くの学部で、旧自治会や有志で「理事会はこの問題に納得できる回答を出せ」と五つの要求をした。
その回答が、要求する学生に対する一連の暴力・暴行だったのだ。先進的学生は、大学の息の掛かったそれまでの自治会ではこの局面への対応は無理と判断し、自治会の主要メンバーで「共闘会議」をそれぞれの学部で設立した。
大学の会計を賄う過半数の、いや圧倒的多数の日大生が、自分たちが出した学費の使途を問いただし回答を求め、答えない理事会に責任をとって退陣せよと突きつけただけだ。日本は民主主義の国だ。道理が通らず、ルールを無視したのは、日本大学を経営する古田会頭以下理事会だ。私達は民主的手段で、クラス討論、学科幹事会、学部自治会と手順を踏んで話し合い、結論をつみあげっていった。だからこそあの「民青」諸君も、私たちに異を唱えることが出来ず一時期一緒に行動した。
だが、理事会はことごとく学内の民主的な意見を無視し、彼らが託った暴力で黙らせようとしてきた。今までの日大がそうであったように。
私(達)には「政治的」な意図はなかった。 悪い事は悪い、と言っただけだ。あまりにも大きな学生のパワーに、問題が「政治化」しただけだ。
                                 ホームページ「1968」
父は何も言わなかった。一緒に帰省した。帰ると待っていた母親に泣かれた。私は戦列に復帰する事しか考えていなかったし、親がどんなに心労していたかは其のときは分からなかった。それよりも早く東京へ戻りたい気持ちが勝っていた。自分が親となった今、親の辛さを思うと、如何に親不孝だったか痛感している。今更遅いが、「母さんごめんなさい」
                                 ホームページ「1968」
 日大闘争は民主化運動であったが、家族や世間には理解されないで孤立していた。政治運動である全共闘を彼らは拒否したから学生運動でも孤立した闘いであった。フランスの五月革命を成功させたフランスと日大闘争が孤立した闘いを強いられた日本の違いは学生や市民の民主主義思想の違いではなかっただろうか。




ソ連は崩壊したが、中国はまだ社会主義国家である。そして、領土拡大主義であり、尖閣諸島に侵略しようとしている。
南沙諸島ではフィリピンやベトナムの領海を中国の領海だと主張して侵略している。
中国が社会主義国家である限り、抑止力として沖縄の米軍基地は必要である。
中国が民主主義国家になり、米国や日本、その他アジアの国々と友好関係になれば沖縄の米軍基地は必要なくなる。その時には沖縄の米軍基地は撤去するだろう。

 韓国、台湾、フィリピンを中国の侵略から守るために存在しているのがアジアに駐留している米軍である。
中国を抑止し、アジアの平和を守っているのは、米軍の戦闘機・爆撃機、情報機関、原子力空母、原子力潜水艦、海兵隊の総合力である。

嘉手納飛行場、普天間飛行場、原子力潜水艦が寄港するホワイトビーチ、アジアからの情報を集めているトリイ通信基地など沖縄の米軍基地は中国の侵略を抑止しているアジアの米軍の一員である。

沖縄の米軍基地はアジアの平和を維持するためにはなくてはならない存在である。

2015/06/12 に公開
平成27年6月11日木曜日に放送された『沖縄の声』。沖縄県中頭郡嘉手納町、沖縄市­、北谷町にまたがるアメリカ空軍基地「嘉手納飛行場」は、極東最大の空軍基地といわれ­、総面積は約19.95km²、3,700mの滑走路2本を有し、200機近くの軍用­機が常駐している。本日は、キャスターの又吉康隆氏による「嘉手納飛行場」の周辺リポ­ートをお送りします。
※ネット生放送配信:平成27年月6月11日、19:00~


2015/06/11 に公開
平成27年6月10日水曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、キャスターの又吉康隆­氏に「キャラウェイ高等弁務官と沖縄マスコミ そして翁長知事」、「翁長知事は普天間問題を最初から放棄していた」の2つのテーマに­ついて解説いただきます。
※ネット生放送配信:平成27年6月10日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)

  

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2015年06月08日

辺野古基金は県議会選挙運動の資金に?・・・


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
4月30日より県内書店で発売しました。

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辺野古基金は県議会選挙運動の資金に?・・・

辺野古基金設立趣意書

今年は戦後70年の節目の年です。私たち沖縄県民は悲惨な地上戦により住民の4人に1人が犠牲となりました。戦後27年間米軍占領統治下におかれ、日本国憲法は適用されませんでした。本土復帰から43年目をむかえる今も、米軍基地があるがゆえの事件や事故に苦しみ続けています。

沖縄県民は長年に渡り、自ら望んで持ってきたわけではなく、「銃剣とブルドーザー」で強制接収されて造られた米軍基地を挟んで「容認派・反対派」と互いにいがみあい、県民同士が分断をされ続けてきました。
こうしたなか、昨年1月に行われた名護市長選挙では、辺野古移設反対を掲げる稲嶺進市長が再選を果たし、9月の市議会議員選挙でも新基地建設反対の議員が議会の多数を占めました。

そして、11月に行われた沖縄県知事選挙は、普天間基地の名護市辺野古への移設問題が最大の争点として行われ、「あらゆる手法を駆使して新基地はつくらせない」とする翁長雄志新知事が、移設容認の前知事に10万票の大差をつけて圧倒的勝利をおさめました。

続く12月の衆議院選挙でも沖縄小選挙区の全てで「辺野古新基地建設反対」の候補者が勝利し、沖縄県民の圧倒的多数の民意がゆるぎないものであることが示されました。

ところが、安倍政権は、仲井眞前知事が公約を翻し行った公有水面埋め立て承認を盾に、辺野古新基地建設を強行しています。

こうした政府の行為は、沖縄県民の意思を侮辱し、日本民主主義と地方自治の根幹を破壊する暴挙と言わざるをえません。私たちは2013年1月に安倍総理に提出した建白書を総意として「オスプレイの配備撤回、普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設断念」を強く求めているのです。

このたび、日本国内の新聞をはじめ米国紙への意見広告など「辺野古新建設ノー」の沖縄の声を国内外に発信すると同時に県内移設を断念させる運動(活動)の前進を図るために物心両面からの支援を行い、沖縄の未来を拓くことを目的として「辺野古基金」の設立を行いました。
多くの皆様のご協力、ご支援を心からお願いいたします。
2015年4月9日
辺野古基金の使い道

○翁長雄志知事が「4月以降のなるべく早い時期」に訪米する意向を示していることから、基金設置が間に合えば意見広告は知事の訪米に合わせて掲載し、訪米の効果を高めることにつなげる。
○米政府と議会対策。米政府関係者や上下両院の議員へのロビー活動を後押しする。
○シンポジウム開催も検討し、米国の有識者の理解を広める。
○国内では、新聞への意見広告掲載のほか、パンフレット作成などで建設反対を訴える。
○全国の地方議会にも、政府に対応を改めることを求める決議などで意思を示すよう働き掛ける。

 
辺野古基金の共同代表
呉屋守将
建設関連事業、スーパーマーケットを核とした流通業をはじめ、ゴルフ・リゾートホテル等の観光サービス業へと事業を展開している金秀グループの会長。沖縄経済界の大物。翁長氏の選対本部長を務めた。
宮城篤実氏
前嘉手納町長
平良朝敬
かりゆしグループのCEO(最高経営責任者)、
長浜徳松
沖縄ハム総合食品会長
佐藤優
 元外務省主任分析官
菅原文子
2014年11月に死去した俳優菅原文太さんの妻
大城 紀夫
連合沖縄の会長
高里 鈴代
基地・軍隊を許さない行動する女たちの会共同代表。強姦救援センター・沖縄(REICO)代表
友寄 信助
社民・護憲議員
比屋根 照夫琉球大名誉教授
由井 晶子
うないフェスティバル実行委員長、ハンセン病問題ネットワーク
吉元 政矩元沖縄県副知事
宮崎駿氏
アニメ映画監督
鳥越俊太郎
 ジャーナリスト

基金の設立会見で呉屋守将共同代表は、
「昨年の一連の選挙で何度も明確に示した県民の意思に、安倍政権は全く耳を貸そうとしない。(その姿を)『民主主義の盟主』を標榜(ひょうぼう)する米国政府と米国民に直接訴えたい」と述べている。

 米国政府と米国民に直接訴える方法は新聞広告とロビー活動に辺野古基金を使うことを呉屋守将共同代表は名言している。しかし・・・

辺野古基金への意気込み

 やるべきことは無数にある。米国、中でもワシントンDCで講演会やシンポジウムを開き、基地に苦しんだ沖縄の戦後史、日本政府によって民意をないがしろにされている現実を、知事らが切々と訴えるのは効果があろう。米国の有力紙への意見広告もいい。市民運動だけでなく、れっきとした地方政府の代表者たる知事も含めて訴えるのはインパクトが違う。
 もちろん米政府への直接の訴えも必要だ。米国ではシンクタンクに籍を置く人が政府に入ることが多い。次期政権を見据えてシンクタンクを行脚するのもいい。
 翁長雄志知事は5月後半に訪米の予定だが、無論1回で済むはずがない。今回はともかく、将来は国連での訴えも検討すべきだ。
 これらを賄うには相当な費用がいる。その費用を県予算だけで賄うのは難しい。民間ベースでの基金設立だが、知事が「頼もしい。同じ目標に向かい頑張る基礎ができた」と喜んだのもうなずける。
 国内でもまだ「沖縄は基地で食べている」といった誤解は多い。基金を使い、全国行脚でこうした誤解を払拭(ふっしょく)するのも必要だろう。
 基金の効用は、こうした周知活動を資金面で支えるのにとどまらない。重要なのは、基金自体が国内世論を喚起する点だ。
石原慎太郎元東京都知事が提起した尖閣諸島買い取り基金は、賛同者から資金を集めたばかりでなく、国粋主義的ナショナリズムを喚起した。辺野古基金は新基地建設にとどまらず、石原氏の志向とは正反対の、平和を求める国民世論を喚起することになろう。まさに「日本の平和と民主主義を守るための基金」(呉屋氏)となる。

 辺野古基金は、辺野古移設反対の声を国内外に発信するのに使うのが目的である。すでに国内や米国の新聞に意見広告を掲載することを決めており、それ以外の使途は今後検討すると辺野古基金代表者は述べていた。しかし・・・


 翁長沖縄県知事は「沖縄の民意」を説明する目的で27日に渡米し、6月5日に帰ってきた。およそ10日間の長期渡米であった。翁長知事は辺野古移設計画の撤回を求めて米政府や米議員らと対談をした。
 渡米をしたのは翁長知事だけではなかった。知事とは別行動をした訪米団が居た。
渡久地修県議(共産)が団長を務め、知念博那覇市議(新風会)が副団長、山内末子県議(県民ネット)が事務局長を務める総勢15人の訪米団である。
メンバーはかりゆしグループ前最高経営責任者の平良朝敬、糸数慶子参院議員、城間幹子那覇市長、稲嶺進名護市長、石嶺傳實読谷村長日本共産党の古堅茂治市議ら那覇市議5人等々であった。
訪米団長の渡久地修県議は「米国世論に沖縄の実態を訴えていく任務がある。知事を支えて頑張ろう」
かりゆしグループ前最高経営責任者の平良朝敬氏は「沖縄は基地経済で成り立っているという誤解がある」と指摘。経済の視点から基地が経済発展の最大の阻害要因と伝える考えを示した。
訪米団は米連邦議会議員(補佐官対応含む)やシンクタンク等と会合をやった。
訪米団は費用を個人で負担するという。辺野古基金から出ないようだ。
辺野古基金は意見広告や米政府や議会対策として使う趣旨であったのだから、訪米団の費用を辺野古基金から出すのが当然だと思ったのだが、辺野古基金から出さなかったようだ。
それだけではない。辺野古基金の趣旨には「日本国内の新聞をはじめ米国紙への意見広告など『辺野古新建設ノー』の沖縄の声を国内外に発信する」と書いてある。翁長知事の渡米は辺野古基金を使う絶好のチャンスであった。ところが辺野古基金が新聞広告に使われた様子がない。

 翁長知事の「辺野古に新基地はつくらせない」という強い意気込みを持っての渡米である。ありったけの辺野古基金を使って応援するのが当然である。辺野古基金を投入しなかったのは設立した趣旨に反する。
渡米前にはすでに2億円以上の寄付があった。翁長知事の渡米は辺野古基金を使う絶好のチャンスだったのに使わなかった。辺野古基金の代表者は寄付をした人たちの気持ちを裏切ったのである。

翁長知事が米国から帰った日に琉球新報に奇妙な記事が掲載された。

辺野古基金3億突破 運営委、新たな支援先検討

 米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設阻止を目的とした「辺野古基金」の事務局は4日、寄付の総額を発表し、3日現在で3億1536万7686円、件数で2万8114件になったことを明らかにした。4月9日の基金設置から2カ月足らずで3億円を突破した。8日には那覇市旭町の金秀本社で第3回基金運営委員会を開き、基金の新たな活用方法について議論する。
 基金の活用方法についてはすでに、新基地建設阻止の運動を展開する「ヘリ基地反対協議会」と「沖縄建白書を実現し未来を拓(ひら)く島ぐるみ会議」の支援が決まっており、3回目の基金運営委ではその他の支援先などを検討する。
 これまでの議論では新基地建設阻止の活動に取り組む市町村単位の組織を支援することや、県外・海外の新聞などに新基地建設反対の意見広告を掲載する案などが挙がっている。
   琉球新報 6月5日(金)
 寄付金が2カ月足らずで3億円を突破した。これはすごいことである。
 しかし、この記事を読んで奇妙に感じたことがある。第3回基金運営委員会を金秀本社で開いたことである。金秀は商売をやっている会社である。辺野古基金は商売ではない。なぜ、辺野古基金運営委員会を金秀本社で開いたのか。不自然である。
 WEBで調べてもっと驚いた。辺野古基金事務局は金秀本社に設置していたのだ。商売をしている金秀本社に事務局を設置し、基金運営委員会も金秀本社で開くのは不自然である。WEBを見ながら頭に浮かんだのがキャンプシュワブの新入社員研修のことだった。
 金秀は研修として新入社員をキャンプシュワブに集め、辺野古移設反対の訓示を聞かせた。それは辺野古移設反対の政治思想を新入社員に強要することである。辺野古移設に反対するのも賛成するのも社員一人一人の自由である。金秀がやったことは社員への政治思想の強制である。それは思想・心情の自由を保障している憲法に反する。金秀は堂々と憲法違反をやったのである。

 辺野古基金の代表者は現役引退をした老人や本土の有名人が多くを占めていて、直接辺野古基金を運営に関わることができる人物は少ない。いわゆるほとんどの代表者は客寄せパンダであり、辺野古基金の運営に関わっていないだろう。
金秀本社に辺野古基金事務局があり、運営委員会は常に金秀本社で開いている。運営基金運営委員会の中心人物は金秀の呉屋守将氏であることが推測できる。
 キャンプシュワブで新入社員の研修をしたり、金秀本社に辺野古基金事務局を設置している呉屋氏は公私混同を平気でやっている。いわゆるワンマンであり独裁者タイプの人間である。
 経営は失敗した時の責任は代表者が取るから独裁でいい。しかし、政治は違う。代表者が独善的にやってはいけない。辺野古基金は多くの人々の寄付によって集まったものであり、辺野古基金の趣旨に従って使わなければならない。一部の代表者の思いのままに使ってはならない。
 
 基金の活用方法についてはすでに、新基地建設阻止の運動を展開する「ヘリ基地反対協議会」と「沖縄建白書を実現し未来を拓(ひら)く島ぐるみ会議」の支援が決まっており、3回目の基金運営委ではその他の支援先などを検討する。
       「琉球新報」
の記事は妙である。辺野古基金設立趣意書では、

日本国内の新聞をはじめ米国紙への意見広告など「辺野古新建設ノー」の沖縄の声を国内外に発信する。

 新聞広告をして国内外に「辺野古新建設ノー」を発信することを最初に述べている。辺野古基金は国内外への宣伝を主な目的にしている。
 ところが6月5日の琉球新報の報道では辺野古基金を国内外に「辺野古新建設ノー」を発信するのに使うことではなく、「ヘリ基地反対協議会」と「沖縄建白書を実現し未来を拓(ひら)く島ぐるみ会議」の支援をすることであった。

 本土や国外に辺野古移設反対が広がったのは「ヘリ基地反対協議会」と「沖縄建白書を実現し未来を拓(ひら)く島ぐるみ会議」が活躍したからではない。沖縄タイムスや琉球新報が本土に発信し、翁長知事が国内外の記者を相手に会見を開き、それが国内外に報道されたからである。国内外に辺野古移設反対の主張を広げるためには新聞や放送などの広告を利用する必要があり、それには莫大な費用が必要であるから辺野古基金を設置したのである。
 「ヘリ基地反対協議会」と「沖縄建白書を実現し未来を拓(ひら)く島ぐるみ会議」に資金を提供しても国内外に辺野古問題を広げる効果は薄い。

 翁長知事が訪米した時に米国の新聞に公告を載せなかったのは妙である。また、第二回の基金運営委員会でも国外や国内の新聞に公告を載せる計画は出されなくて、県内の「ヘリ基地反対協議会」と「沖縄建白書を実現し未来を拓(ひら)く島ぐるみ会議」を支援することを決め、辺野古基金を設立した目的からずれているのも妙である。本当に国内外へ辺野古問題を広める目的で辺野古基金を設立したのか疑問である。
 

ヘリ基地反対協議会とは

正式名称は「海上ヘリ基地建設反対・平和と名護市政民主化を求める協議会」、略称が『ヘリ基地反対協議会』です。

ヘリ基地反対協議会HPより

緑豊かな山々とサンゴの海に抱かれた、辺野古・大浦湾。
人々は、地域特性を織り合わせ独自の歴史を紡いできました。
1997年、新たな米軍基地建設計画に対し、名護市では「大事な事はみんなで決めよう」と市民が立ち上がり、市民投票で「基地ノー」の意志を示しました。
しかしその後名護市民の意志は無視され、新基地計画は中身を二転三転させながら、10年後の現在まで続いています。
その間、日本政府によるさまざまな「アメとムチ」政策は地域共同体に亀裂を生みだし、多くの人々が悩み苦しんできました。
ところで、米軍連邦地裁に提訴されたジュゴン訴訟によって、V字形沿岸案の実像は日本政府が国民・県民向けに行っていた説明とは全く違い、巨大な軍事要塞であることがあきらかになりました。
現在、日本政府は基地建設を前提に環境現況調査を辺野古・大浦湾海域で強行していますが、環境アセス法に違反する調査に、市民や専門家からも厳しい批判と抗議の声が上がっています。


ヘリ基地反対協議会に資金が回ればキャンプシュワブの反対運動を強化することができる。テントを新しいのに代え、食事や運送の費用が潤沢なる。動員を増やすこともできるだろう。しかし、それは闘争資金であって広告資金ではない。
「県内移設を断念させる運動(活動)の前進を図るために物心両面からの支援」にはなるし辺野古基金の趣旨に反してはいないが、肝心な国内外へ辺野古移設反対の発信の計画は立てなくて「ヘリ基地反対協議会」や「島ぐるみ会議」への支援を決めるのはやはり妙である。
 辺野古基金は表向きは国内外への発信であるが裏では別の目的がある。それは辺野古基金を選挙運動の資金にするということである。

いつの間にか「オール沖縄」は消え、その代わり「島ぐるみ会議」が増えてきた。

 オール沖縄が誕生したのは県知事選があった前年の2013年である。オール沖縄の先頭に立った翁長知事は県知事選に圧勝し、オール沖縄派の翁長陣営と革新陣営は衆議院選でも圧勝した。しかし、衆議院選の後はオール沖縄の声は少なくなり、今ではほとんど聞かなくなった。
 県知事選や衆議院選は沖縄全体の選挙である。オール沖縄は県知事選や衆議院選に勝つための選挙戦略であった。選挙が終わるとオール沖縄は用なしになる。
 来年は県会議員選挙がある。選挙はそれぞれの市町村が戦場となる。オール沖縄ではなく、市町村別の組織が必要になってくる。その組織が市町村で続々と誕生している島ぐるみ会議である。

2015年4月20日(月)の「赤旗」にうるま市の島ぐるみ結成会の様子が掲載されている。
 
新基地反対で団結 「島ぐるみ会議」結成

 沖縄県名護市辺野古への米軍新基地建設に反対し、垂直離着陸機オスプレイ配備撤回・米軍普天間基地の閉鎖・撤去・「県内移設断念」を求める「建白書」の実現に向け、うるま市・「島ぐるみ会議」が19日、結成され、同市で結成大会が開かれました。新基地反対で団結しようと、会場を埋め尽くす約400人の市民や議員らが結集しました。

 「会議」は、市における「オール沖縄」的な島ぐるみの連帯の強化と運動の発展を目指します。冒頭、埋め立てが狙われている辺野古の大浦湾を紹介する映像がスクリーンに映され、参加者は美しい海にため息をもらし、食い入るように見つめました。

 共同代表に、照屋大河、山内末子両県議、県立中部病院の元院長平安山英盛氏、元裁判官の仲宗根勇氏らが就任しました。ヘリ基地反対協議会の安次富浩共同代表、島ぐるみ会議共同代表の平良朝敬氏(かりゆしグループ最高経営責任者)らがあいさつしました。

 活動方針として、今後の県民集会への参加、辺野古の現地抗議行動の参加者の組織と毎週木曜日のバス運行、ステッカーやTシャツの作成・販売、写真展や学習会、講演会を開催していくことなどが提起されました。
         「赤旗」
共同代表に照屋大河、山内末子両県議がなっている。島ぐるみ会議は大衆運動のように見えるが、実は大衆運動にみせかけた選挙運動である。その証拠が県議が共同代表に名を連ねていることである。県議が代表になることで来年の選挙運動を兼ねているのである。

市町村の島ぐるみ会議は読谷村、北谷町、沖縄市、糸満市、今帰仁村、名護市、うるま市、宮古島市等々続々と結成している。

糸満市島ぐるみ会議
共同代表 元市長の上原博氏、本土復帰前に立法院議員を務めた仲松庸全氏(元県議)、琉球大学名誉教授の金城正篤氏

今帰仁村島ぐるみ会議
 共同代表 大城清紀副村長、内間利三元村議会副議長、山内聰元村議

名護市島ぐるみ会議
共同代表 稲嶺進名護市長、屋比久稔市議会議長、玉城義和、具志堅徹両県議、玉城義和県議、

うるま市島ぐるみ会議
共同代表 照屋大河、山内末子両県議、県立中部病院の元院長平安山英盛氏

 島ぐるみ会議に辺野古基金を使うことは辺野古基金が選挙基金になっている。
 翁長・革新陣営は、オール沖縄は用無しになったから消して、来年の県議会選挙に勝つために市町村別の島ぐるみ会議をつくっているのである。その島ぐるみ会議に辺野古基金を使う計画を立てている。

 翁長知事陣営と革新陣営は来年の県知事選に向けてすでに動いている。

 翁長・革新陣営のやり方を批判はするが非難する気はない。選挙は仁義なき戦いである。あらゆる知恵と金を行使する戦いだ。
 辺野古基金を設立し3億円もの金を集め、選挙運動の島ぐるみ会議に金を回す。
 さすがだと思う。翁長・革新陣営は戦いに勝つために必死であり、ありったけの力を注いでいる。
 それに比べて自民党県連はどうなのであろうか。翁長・革新陣営のような必死さが伝わってこないのは気のせいなのだろうか。




2015/05/28 に公開
平成27年5月27日水曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、キャスターの又吉康隆­氏に「辺野古移設問題を故意に米軍基地問題へ転換している」、「落合恵子・詩「沖縄の­辞書」を批判」の2つのテーマについてお話いただきます。



次回放送は平成27年6月10日水曜日です。
  

Posted by ヒジャイ at 10:14Comments(1)

2015年06月03日

沖縄二紙の神話の勝利・・・しかし・・・


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沖縄二紙の神話の勝利・・・しかし・・・

「辺野古取り消し」77% 県内移設反対83% 71%作業停止求める 新報・OTV世論調査

 琉球新報社は沖縄テレビ放送(OTV)と合同で5月30、31の両日、米軍普天間飛行場移設問題に関する県内電話世論調査を実施した。名護市辺野古への移設阻止を前面に掲げ、埋め立て承認についても有識者委員会の提言によって取り消す方針を示している翁長雄志知事の姿勢を77・2%が支持した。県内移設への反対は83・0%となった。同様の質問を設けた調査では、2012年5月に辺野古移設反対の意見が88・7%となったことに次ぎ、同年12月の安倍政権発足以降の本紙調査では最高の値となった。一方で、埋め立てに向けた作業を継続している政府への批判が依然として根強く、県内全域に広がっていることが明らかとなった。調査は戦後70年を迎えたことに合わせて実施した。 仲井真弘多前知事が承認した名護市辺野古沖の埋め立てについて、翁長雄志知事は県の第三者委員会が承認取り消しを提言すれば、取り消す方針を示している。この知事方針について「大いに支持」が52・4%、「どちらかといえば支持」が24・8%で、合わせて77・2%が支持すると回答した。
 辺野古移設に反対する翁長県政の発足後も政府は移設に向けて辺野古沖での海上作業を継続し、近くボーリング調査を再開させるとみられる。こうした政府の対応について「作業を止めるべきだ」が71・6%を占めた。「作業を続けるべきだ」は21・0%だった。
 普天間飛行場問題の解決策については「国外に移設すべきだ」が最も多い31・4%。「無条件に閉鎖・撤去すべきだ」が29・8%、「沖縄県以外の国内に移設すべきだ」が21・8%と続き、これら県内移設に反対する回答を合わせると83・0%となった。
 「名護市辺野古に移設すべきだ」は10・8%、「辺野古以外の沖縄県内に移設すべきだ」は3・4%だった。
        「琉球新報」
 琉球新報社、沖縄テレビ放送(OTV)の合同世論調査では県内移設への反対は83・0%と圧倒的多数である。民意は県内移設反対である。翁長知事が主張しているように民意に応じて辺野古移設を止めたとしよう。しかし、それではなにも解決しない。普天間飛行場移設問題が振り出しに戻るだけである。

普天間飛行場問題の解決方法の世論調査では

国外に移設すべきだ・・・31・4%。無条件に閉鎖・撤去・・29・8%、
県外移設・・・21・8%
県内移設・・・14・2%

 となっている。県内移設反対は83・0%と圧倒的多数であるが、普天間飛行場の解決方法になるとそうではない。解決方法は県内移設も含めて4つに分かれるが、一番多い「国外に移設すべきだ」でも31・4%。であり、過半数にほど遠い。4つのすべの案が過半数にほど遠い。過半数に達したものがないということは普天間飛行場の解決方法には民意がないということになる。民意通りにすれば、辺野古移設はストップするがめ普天間飛行場は固定化してしまうことになる。

 去年の国外移設、県外移設、県内移設、普天間固定化の4つに絞った世論調査では国外移設、県外移設が40%弱で並び、どちらも過半数に届かなかった。辺野古移設反対では80%を超えていたとしてもそれが普天間飛行場の解決策にはつながらないのである。
 もし世論調査の民意に従って実行するとすれば普天間飛行場は固定化してしまう。ところが普天間飛行場の固定化を望む県民は数パーセントであり、圧倒的に少ない。そこに民意の矛盾が出てくる。民意では普天間飛行場問題は解決できないのが現実である。
琉球新報の世論調査は普天間飛行場問題は解決しないと結論づけている。
 
 県外移設派の翁長知事は閉鎖・撤去派の革新と手を組み、辺野古移設反対を選挙公約にした。辺野古移設反対に賛成している県民は国外移設、閉鎖・撤去、県外移設を主張している県民であり合計83%である。県民の多くが翁長知事に投票し、仲井真前知事に10万票をつけて当選した。辺野古移設反対を選挙公約にした翁長知事の選挙戦略は大成功した。
 しかし、翁長知事と革新は本来一緒になることができない関係である。

県外移設・・・日米安保容認
閉鎖・撤去・・・日米安保廃棄

日米安保容認と廃棄は政治的に対立しているから一緒になることはできない。しかし、翁長知事はイデオロギーは腹6分に押さえて沖縄アイデンティティーで手を組むというアイデアを考えた。それによってイデオロギーでは対立する両者が辺野古移設反対を選挙公約にし手を組んだのである。そして、知事選に大勝した。
 県知事になった翁長氏はあらゆる手段を使って辺野古移設を阻止すると宣言し、宣言した通りにあらゆる手段を使って辺野古移設阻止に走っている。

 翁長知事によって辺野古移設阻止が成功した場合、普天間飛行場はどうなるのか。県外移設の翁長知事陣営と閉鎖・撤去の革新陣営は主張が違うから対立し辺野古移設反対派は2つに分解してしまう。世論調査の民意と同じで普天間飛行場問題は振り出しに戻るだけであり解決はしない。
 翁長知事は革新と手を組んで辺野古移設反対を選挙公約にしたが、その瞬間に選挙には勝利する確率がぐんと高まったが、一方では普天間飛行場問題の解決を放棄したことになる。
 翁長知事は保守と革新の支持を得て、仲井真前知事に10万票もの差をつけて当選したが、それは普天間飛行場の解決を放棄した結果であった。

 辺野古移設は普天間飛行場問題を解決するのが目的だった。翁長知事は県知事に当選するために肝心な普天間飛行場問題を放棄したのである。
 
翁長雄志知事は県の第三者委員会が承認取り消しを提言すれば、取り消す方針を示している。この知事方針について「大いに支持」が52・4%、「どちらかといえば支持」が24・8%で、合わせて77・2%が支持すると回答した。
          「琉球新報」
県民の絶大な支持を受けた翁長知事の方針である。取り消しをすれば辺野古移設工事ストップし政府はピンチに追い込まれそうであるが、そういうことにはならない。なぜなら、第三者委員会は翁長知事の私的諮問機関であって公的な組織ではない。法的にはなんの権限もない。第三者委員会の提言で承認取り消しをしたとしても法的には根拠のない取り消しであり拘束力はない。翁長知事は第三者委員会の提言を根拠に訴訟を起こすことさえできないだろう。たとえ、県民の77・2%の支持があったとしてもだ。

 翁長知事の選挙公約自体が矛盾したものであった。日米安保容認の翁長知事と日米安保廃棄の共産党が米軍基地問題で手を組むことは不可能である。たとえ、辺野古移設に反対であっても普天間飛行場の解決方法は県外移設と閉鎖・撤去に分かれているのだから両者が手を組むことはしてはいけなかった。それが政治家の倫理である。手を組むとしたら県外移設か閉鎖・撤去かのどちらかにまとめなければならなかった。
 ところが両者は一つにまとめることはしなかった。両者ともひとつにまとめることができないことを知っていたからだ。両者は最初からひとつにまとめることを放棄したのである。まとめないことを口実にしたのが沖縄アイデンティティーであった。沖縄アイデンティティーで安保容認と安保廃棄が同居したのである。
 
 鳩山首相時代に県外移設も閉鎖・撤去も不可能であることが判明し辺野古移設に戻ったという歴史的事実がある。翁長知事はその事実を無視して県外移設を主張した。その上、選挙に勝つためにこれまた実現不可能な閉鎖・撤去を主張する革新と手を組んだのである。
 翁長知事の選挙公約は実現するのが目的ではなく選挙に勝つためであったのだ。
 県外移設、閉鎖・撤去、辺野古移設阻止は実現不可能であることが初めから知っていることである。
 仲井真前知事が実現不可能な普天間飛行場の五年以内停止を公約にしたが、実現しそうもない夢の政治を公言する沖縄の政治を52年前に批判した人物がいる。悪名高いキャラウェイ高等弁務官である。

キャラウェイ高等弁務官は1963年3月5日、ハーバービュークラブで金門クラブ員を対象に演説を行った。いわゆる「沖縄の自治は神話」と騒がれることになる演説である。。

金門クラブとは
米陸軍省後援による米国留学を経験した人たちの親睦団体。初期の留学生たちは、軍輸送船で金門橋(ゴールデン・ゲートをくぐったので、これにちなんで命名された。1947年7月にスタートし、施政権が返還された1972年までに支給された米留学奨学資金件数は1,110件、そのうち、博士号取得者は28人、修士号262人、学士号155人。


 金門クラブは米留学をしてアメリカ民主主義を学んだエリート集団である。キャラウェイ高等弁務官の演説は彼らに向けた演説であり、沖縄の一般人に向けた演説ではなかった。演説は民主主義と自治に関するものであり内容はかなり高度であった。当時の一般の人が理解するのは困難だったと思う。
 演説で、キャラウェイ氏は政治についてこのように語っている。

「政治とは実際的な問題を処理していくことであって空想的な計画を作ったり、圧力団体がスローガンを叫ぶことではないのである」

 キャラウェイ高等弁務官は政治は実際に起こっている問題を処理するものであると述べている。現実に実現できるかどうかを模索し、模索しながら実現に努力していくものが政治であり、実現不可能=空想的なものを政治は対象にしてはならないと言っている。また、圧力団体がスローガンを叫ぶのも政治ではないと述べている。

キャラウェイ高等弁務官は当時の沖縄の政治の欠点を指摘したのである。52年前の指摘である。
 52年前の指摘が今でも通用してしまうのが沖縄の政治である。沖縄の政治は50年も前から進歩をしていないのだ。残念なことである。沖縄に生まれ育った者として虚しさを感じる。

 県外移設は空想である。現実ではない。それを証明したのが自民党時代の小泉首相であり、民主党時代の鳩山首相であった。
 政治家なら両首相が県外移設に失敗した事実を認識するべきである。それでも県外移設を主張するなら県外移設がではなかった原因を追究し、県外移設が可能であることを模索し、移設できる可能性を明らかにした上で県外移設を公約にし、移設場所を示すべきである。
まともな政治家なら県外移設場所を示すことができなければ県外移設を主張してはいけない。政治は実現できるか否かが問題であり、実現できる可能性がないのを実現できるように県民に吹聴してはいけない。
 翁長知事は県外移設の神話、閉鎖・撤去の神話を無理やり合併させて辺野古移設反対のムードをつくり、翁長知事が当選すれば辺野古移設が阻止できるという神話をつくって大勝した。

翁長知事の勝利に大きく貢献したのが辺野古神話をつくった革新、沖縄タイムス、琉球新報である。辺野古神話は県内に広がり、県外にも広がっていった。翁長知事と菅官房長官、安倍首相との会談の後は全国のマスコミが注目するようになり辺野古神話はますます広がった。

今や全世界にも広がった。ホワイトハウス前でも県系人抗議行動を展開している。

「日本の小さな島にたくさんの米軍基地が押し込められている」
「海兵隊の新基地は必要ない」
「人権、自然、民主主義という言葉は世界の共通語。沖縄で起きている問題は世界の人たちの共感を呼ぶ」

 人口密集地にある危険な普天間飛行場を安全な辺野古に移すというだけのことである。つまり人権問題の解決としての辺野古移設である。ついでに言えば、軍用地内に移設するから新たな土地接収はない。辺野古に移設した跡の普天間飛行場は返還される。他の軍用地も返還されるし海兵隊も8000人は沖縄から出ていく。軍用地は減るし海兵隊も減るというのが辺野古移設の事実である。辺野古移設の本当の問題は人権問題と米軍基地縮小の問題であって、米軍基地問題、日米安保条約問題とは関係がない。
翁長知事、革新、沖縄タイムス。琉球新報によって事実とはかけ離れた神話がつくられたのである。

現実
閉鎖・撤去・・・不可能
国外移設・・・不可能
県外移設・・・不可能
辺野古移設・・・可能
普天間固定化・・・可能

 現実的に考えれば、閉鎖・撤去、国外移設、県外移設は不可能である。実現可能は辺野古移設か普天間固定化である。県民に普天間飛行場の解決策を問うなら、閉鎖・撤去、国外移設、県外移設が可能であるか不可能であるかを明確にしなければならないが、真剣に突き詰めていけば辺野古移設か普天間固定化しかないことが分かる。県民に問うべきは辺野古移設か普天間固定化かのどちらを選択するかである。
ところが沖縄2紙は今まで閉鎖・撤去、国外移設、県外移設が可能か不可能かについて徹底して追求したこみとはない。それに世論調査では「希望」を調査しているのであって実現できるかできないかを問題にしていない。

希望=非現実
閉鎖・撤去・・・不問
国外移設・・・不問
県外移設・・・不問
辺野古移設・・・不問
普天間固定化・・・不問

世論調査は市民の希望を聞くだけである。希望だから実現するしないは関係ない。閉鎖・撤去を調査アンケートに入れることは、空を飛びたい調査で、グライダーで飛ぶ、パラグライダーで飛ぶ、ヘリコプターで飛ぶ、ジェット機で飛ぶ等の中に、手をパタパタさせて空を飛ぶも入れるようなものだ。

実現が可能か不可能かを問題にしない琉球新報の世論調査では、辺野古移設反対が83・0%と圧倒的多数ではあっても普天間飛行場の解決では過半数がひとつもなく民意がなくなるという矛盾が生じるのである。

 「自民党小泉政権時代と民主党鳩山政権時代に県外移設をしようとしたができませんでした。あなたは県外移設ができると思いますか」
「鳩山元首相は『できるなら国外、最低でも県外』を公約しましたが、国外はすぐにあきらめました。国外移設はできると思いますか」
「普天間飛行場の閉鎖・撤去はできると思いますか」
というような世論調査を沖縄2紙はやったことがない。
「政治とは実際的な問題を処理していく」というキャラウェイ高等弁務官の指摘を無視したのである。
 琉球新報の世論調査は政治に関する世論調査のように見えるが本当は政治から離れた空想的な希望の世論調査である。調査結果は政治的な世論ではなく、空想的な世論である。

 辺野古移設問題は空想的な世論、神話がつくられ、翁長知事はどんどん沖縄神話を述べるようになっていった。

「沖縄は今日まで自ら基地を提供したことは一度もない。土地を奪っておいて、辺野古が唯一の解決策だという話をすること自体、日本の国の政治の堕落だ」
「工事の現状は、銃剣とブルドーザーによる基地建設の様相を呈してきた」
、「(新基地建設を止めるための)知事の権限を有効に使って、名護市長とともに新基地を造らせない。それができるという確信も持っている」
、「こんなことが世界のメディアで知らしめられたとき、本当に日本は民主主義国家として世界から、尊敬し、愛されるだろうか」
などなど、翁長知事の記者クラブで言い放った神話がマスコミを賑わしている。


 官邸と沖縄の戦いは、まるで映画『仁義なき戦い』の組長・山守と子分・広能の理不尽なそれだが、官邸も外務・防衛官僚も、大国の狭間でしたたかに生き延びてきた“琉球王国の外交力”を少し甘く見ているのではないか。法的対抗策と独自“外交”の経過と記録は、そのまま「独立カード」を手にするための痕跡=証拠ともなる。いまは表だって口にしなくても、地固めは“粛々と”進んでいることになる。

 「辺野古を勝手に他国へ売り飛ばさないでくれ」と現地で訴えた直後に亡くなった俳優・菅原文太さんが生きていたら、「安倍さん、カードはまだ1枚、残っとるがよぉ」と言う場面だ。
   「プレジデント ジャーナリスト 藤野光太郎」
このような記事を掲載するように、翁長知事の神話に賛同するマスコミが増えた。

 空想的な世論、でっち上げた神話で県民を騙すことはできる。県民だけでなく、日本のマスコミ、世界のマスコミを騙すことはできる。
 しかし、法律を騙すことはできない。安倍政権を騙すことはできない。

【東京】中谷元・防衛相は2日午前の閣議後会見で、訪米中の翁長雄志知事が沖縄の民意を無視した名護市辺野古への新基地建設工事は安倍政権が掲げる積極的平和主義に反すると批判したことについて、「これまでも沖縄県側と協議をしながら進めてきた」と述べ、批判はあたらないとの認識を示した。
 中谷氏は辺野古移設について「基地自体も縮小され、海上移転によって安全性も軽減し、騒音面も普天間は全くなくなる」と移設の必要性を強調。「結局辺野古に移設するのが、現在考え得る唯一の手段だ」と述べ、新基地建設に全力を挙げる姿勢を示した。
沖縄タイムス 6月2日
 神話に振り回されているマスコミと違い、中谷元・防衛相は冷静に翁長知事に反論している。菅官房長官は翁長知事が申請を取り消したら訴訟も辞さないと述べている。安倍政権は神話に冷静に対応し、辺野古移設を着実に進めている。

 翁長知事はキャラウェイ高等弁務官の故郷である米国に渡った。辺野古移設を断念させるためだ。しかし、米国で待っているのはキャラウェイ高等弁務官のような生粋のアメリカ民主主義者たちである。翁長流神話が通用する国ではない。神話は軽くはじかれて砕かれるだろう。翁長知事は砕かれた神話を繕うだけで精いっぱいになるはずだ。
「私が(辺野古移設に)反対しているというような認識を感じておられる。私からすると、(日米両政府は)つくるということしか考えていない認識ですからね。お互いさまで、それを非難される筋合いはさらさらないので」
というように。
翁長知事は菅官房長官との会談で、「普天間も含めて基地は全て強制接収された。普天間は危険だから、危険除去のために沖縄が(辺野古で)負担しろと。こういう話がされること自体が、日本の政治の堕落ではないか」と述べた。そのあとも「日本の政治の堕落」を繰り返している。それは安倍政権が堕落していると言っているのと同じであり、安倍政権を侮辱した発言である。安倍政権は怒り諌めるべきであるのだが、しかし、安倍政権は翁長知事を諌めることはしない。沖縄を甘やかしているからだと思う。
米国の人間は侮辱されることには黙っていない。
翁長知事は、
「日米安保体制は民主主義という共通の価値観を持つ国々との連帯で中国に対抗しようとしている。自国民にそれらを保障したうえで連帯の輪を作ることが品格のある日米安保体制だ」と言い、現在の日米安保は品格がないとでもいうような発言をした。それは米国を侮辱したのに等しい。だから米国人は黙っていない。クローニン上級顧問は
「米政府にとっては、翁長知事にわざわざ時間を割く動機がほとんどないだろう。翁長知事は怒りをあおる言葉を使い過ぎている」
とすぐに厳しく反応している。それが米国だ。「辺野古に基地はつくらせない」と勇んで米国に渡ったが、手厳しく跳ね返されるは目に見えている。

 でっちあげた神話で県民の高い支持を得、日本、世界のマスコミを席巻している翁長知事であるが、政治の世界では壁また壁にぶつかり前進できない。
 
普天間飛行場問題を放棄して知事になった翁長知事であるから、普天間飛行場の固定化を避けるための代替案については「日本政府が第一義的に考えるべきだ」と安倍政権に丸投げをしている。
辺野古移設が唯一の解決方法である主張している安倍政権に丸投げすれば辺野古移設に決まるのが当然である。「日本政府が第一義的に考えるべきだ」は翁長知事が政治的に敗北することになり絶対に口に出してはいけないことである。しかし、県外移設も閉鎖・撤去も言えない状態に追い詰められてきたからといって「どうしていいか分からない」と敗北を認めることは口が裂けても言えない。敗北をしているのにかろうじて敗北ではないように見せかけているのが「日本政府が第一義的に考えるべきだ」である。アホらしい発言である。

辺野古飛行場建設は着実に進み、翁長知事の辺野古阻止は確実に破たんする。辺野古移設に関してはなにも危惧することはない。しかし、翁長知事、革新、沖縄タイムス、琉球新報が創りあげた神話は生き続けるだろう。沖縄の本当の政治的不幸は神話が生き続けることである。
  

Posted by ヒジャイ at 16:55Comments(1)

2015年06月01日

自民党県連批判


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○自民党県連批判

 革新は普天間飛行場の閉鎖・撤去を主張し、辺野古移設を新基地建設と呼んであたかも新しい基地をつくるというイメージを県民や国民に植え付けながら辺野古基地建設反対を主張している。沖縄の革新をリードしているのは共産党であり社民党であり社大党である。彼らの正体は社会主義である。社会主義であるから反米主義であり、日米安保を廃棄し日本の米軍基地をすべて撤去するのが革新の最終目標である。
 彼らは辺野古に飛行場をつくらせないためには嘘を言い、詭弁を使う。新基地建設反対、大浦湾を埋めてはいけない、ジュゴンが危ない、藻が危ない、サンゴが死滅する、辺野古以南のもずく栽培が危ない・・・・すべて嘘である。嘘を振りまいて辺野古移設を阻止しようとしているのが革新である。革新の嘘に振り回されているのが自民党県連である。

琉球新報に掲載された元自民党県連会長外間盛善氏の意見である。
「世界一危険と言われた普天間飛行場を一日も早く移設しないといけない。そのためには人の少ないやんばるへ持っていこうと日米両政府は考えたかもしれないが、私は憤まんやるかたない。知事も両政府には従わざるを得ないと埋め立てを承認されたのだろうが、このことについては県民は納得していないと思う」
「大浦湾は海と山の自然景観のバランスが本当に優れた場所だ。しかもジュゴンやウミガメもいる。きれいな海にしか回遊しないといわれるジュゴンが来る海は沖縄にもなかなかない。『ああ松島や』と歌われた松島湾(宮城県)にも負けないほど景観が豊かだ」
「松島を埋めるのと同じという意味か」という記者の質問に外間氏は「そうだ」と答えている。外間氏は大浦湾のほとんどを埋めると思いこんでいるのだ。外間氏が辺野古埋め立てに興味がなく、真剣になって調べていないから、「松島を埋めるのと同じだ」と自分の無知ぶりをさらけ出すのだ。そして、革新の主張を応援してしまうのだ。埋め立てをするのは辺野古崎の沿岸部であり、大浦湾を埋めるようなことはしない。それに大浦湾にジュゴンが棲んているのでもない。そんなことさえ知らないのが自民党の大御所である。外間氏は辺野古については沖縄二紙の報道を鵜呑みにしている。
 自民党県連は辺野古問題については革新の主張に押され、革新に同調する傾向にある。なぜ、このように革新の主張に飲み込まれるようになったのか。2006年、2010年の知事選を見れば理解できる。

2006年の県知事選に立候補したのは仲井真弘多氏であったが彼は自民党県連の実質的なリーダーではなかった。仲井真氏は社会的実績と知名度があったから自民党県連が県知事に担ぎ出したのである。仲井真氏は自民党県連に担がれたのであり、自民党県連を率いてきたのではなかった。
仲井真氏は通商産業省を務めた後、1987年に民営化を前にした沖縄電力の理事に就任して。1990年に当時の革新系の沖縄県知事・大田昌秀のもとで沖縄県副知事となった。退任後は沖縄電力に戻り、社長や会長を歴任した。
2006年に自民党県連は県知事立候補として仲井真氏を推す。

沖縄は反マニフェスト選挙

日本の政界は有権者の支持を得るために実現できそうもないバラ色的な選挙公約をやっていたが、2003年の衆議院議員総選挙の頃から、実現できるのを選挙公約にするようになった。「政権公約」と言い、それがマニフェストである。日本の選挙はマニフェスト選挙になっていったが、沖縄は反マニフェスト選挙が続いた。
 
2006年の沖縄県知事選挙には自民党県連・公明党陣営の仲井真弘多候補と革新陣営の糸数慶子の闘いとなった。この時普天間飛行場問題については自民党陣営と革新陣営の候補の選挙公約が同じになるという不思議な現象が起こる。糸数候補は革新がずっと主張している普天間飛行場の閉鎖・撤去を掲げていたが、一方仲井真候補は普天間飛行場の3年以内閉鎖を掲げたのである。
糸数候補が当選したとしても普天間飛行場の閉鎖・撤去が実現するはずはない。ただ、米軍基地撤去を目標にしている糸数候補が閉鎖・撤去を掲げるのは選挙公約というより政治的主張として認めることはできるが、日米安保を容認している自民党県連からの立候補である仲井真氏が普天間飛行場の3年以内閉鎖を選挙公約にするのはおかしい。
なぜ、仲井真候補いや仲井真候補というより自民党県連は3年以内の閉鎖を公約にしたのか。それは選挙に勝つためであった。飛行機の墜落、騒音被害、米兵の婦女暴行、交通事故、住宅進入等々革新と沖縄2紙は徹底して米軍の事件・事故を県民にキャンペーンしてきた。米軍を認めることは選挙で不利になると自民党県連は考え、革新の反米軍基地の主張に相乗りしたのである。仲井真候補の3年以内閉鎖は糸数候補の閉鎖・撤去とは「閉鎖」がダブっていた。閉鎖の内容に多少のずれがあるが、革新と同じ閉鎖を公約にすることで基地問題の争点をあやふやにする効果があった。基地問題の争点をあやふやにすれば経済面に強い自民党県連の候補が有利になる。だから、3年以内閉鎖という選挙公約を掲げたのである。その効果もあり仲井真候補は当選した。実現できない反マニフェストの選挙公約の尻拭いをさせられたのが自民党政府である。
仲井真氏が県知事選に当選した後に、久間章生防衛庁長官は閣議後記者会見で「3年での閉鎖は事実上できない」と言明したのである。仲井真氏の公約は、12月10日の知事就任を前に退けられた。選挙に勝つために実現できないことを選挙公約にし、後で政府が尻拭いするというのが自民党県連の選挙パターンである。マニフェスト選挙に逆行していたのが自民党県連の選挙のやり方であった。
仲井真前知事は、3年以内の閉鎖を否定されても久間防衛庁長官に反論はしないで、天間移設問題では「日米間で頭越しに協議が進められたことに強く抗議する」と言い。普天間の早期の「危険除去」に向け「あらゆる方策を検討し解決に取り組む」と発言して、3年以内の閉鎖をうやむやにした。そして、「V字案に賛成できないに尽きる」と述べていた仲井真知事であったが、V字案に賛成する方向に進んでいく。
「3年閉鎖」の選挙公約は当選するための方便であり、本気で「3年閉鎖」をする気はなかった。基地問題に関しては選挙に勝つための手段として選挙公約をするのが自民党県連のやり方であった。

仲井眞前知事は辺野古基地問題に関して、「(掃海母艦を出すのは)銃剣を突きつけているような連想をさせ、強烈な誤解を生む。防衛省のやり方はデリカシーに欠ける」と発言し、政府の強硬策を牽制したが、2008年2月11日に沖縄駐留アメリカ軍兵士が中学3年の少女に対する暴行・強姦容疑で逮捕された件で、「強い怒り」を表明したが、普天間飛行場の機能をキャンプ・シュワブ沿岸部へ移設する計画には全く影響しないと語り、辺野古移設に賛成するようになっていた。
辺野古移設推進派に転身した仲井真前知事は辺野古移設推進の先頭に立ち、県議会では野党と何度もバトルを繰り返してきた。仲井真前知事は読売新聞の取材に、「名護市の意向を尊重して考えたい。移動距離は、政府といったん合意できれば、その後に要求を上積みするつもりはない」と語っている。名護の経済界から辺野古飛行場を海の方へ移動するように要望があり、島袋前名護市長は仲井真前知事に移動するように要求した。仲井真前知事は要求を受け入れて政府に移動を要求した。
自民党政権の時にほとんど決まりかけていた辺野古移設であったが、衆議院選挙で民主党が圧勝し、鳩山政権が誕生することによって事態は急変した。
鳩山元首相は「できるなら国外、最低でも県外」を公約し、県外移設をやろうとした。しかし、本土の壁は厚く、県外移設はできなかった。鳩山元首相は2010年5月23日に再来県し、名護市辺野古への移設を明言した。仲井真前知事は辺野古移設に賛成していたから当然鳩山元首相の辺野古移設に同意した。その年の6月4日に鳩山氏は首相退陣したが、菅直人氏が首相に就任し、日米合意の踏襲を明言した。

2010年6月4日で辺野古移設の政治決着がついたと判断するのが常識である。

ところが自民党県連に異変が起こる。辺野古移設推進派だった自民党県連が急に県外移設を主張するようになった。
2010年6月の第22回参議院議員通常選挙で島尻候補は、辺野古移設を容認していた従来の主張から一転して普天間基地の県外移設を主張したのである。最低でも県外移設を公約にした鳩山元首相が辺野古移設に戻ったが、沖縄2紙は辺野古移設を明言した鳩山元首相を連日非難し、県外移設を信じていた多くの県民は失望した。
鳩山元首相が県外移設を断念したことは政府が努力しても県外移設は非常に困難であることを示したものであったが。沖縄2紙や識者はそのことには触れないで県外移設を断念した鳩山元首相を非難し続けた。沖縄のムードは県外移設であり、辺野古移設を選挙公約にすれば落選する危険があると考えた自民党県連は島尻候補の選挙公約を辺野古移設から県外移設に変えたのである。そして、当選した。

同じ年の11月28日には知事選挙があった。仲井真前知事は辺野古移設を推進してきた。だから、2010年の県知事選では辺野古移設推進を公約に掲げるつもりであった。しかし、選挙公約は県外移設であった。
県外移設を公約にしていたのに結局は辺野古へ回帰した鳩山政権であったが、沖縄2紙や識者は県外移設の熱をかき立てていた。そのムードに乗って県外移設を選挙公約にするように主張したのが当時那覇市長をしていた翁長知事であった。
自民党県連や公明党県本部は、ヤマトへの怒り、沖縄ナショナリズムを追い風にしない限り勝ち目はないとみて、渋る仲井真前知事に「県外移設」への方針転換を明確化するよう迫っていたが、決定打は、「県外移設」を主張してきた翁長氏の選対本部長受諾だった。
仲井真知事と違い翁長氏は叩き上げの政治家である。那覇市議会議員から県会議員になり、そして那覇市長になった。自民県連の裏も表も熟知しているし、自民党県連内の第一の実力者といっても過言ではなかった。翁長知事が県外移設を選挙公約にしないと選対本部長を引き受けないと言われた仲井真前知事はしぶしぶ県外移設を受け入れたのである。
辺野古移設推進をやってきた仲井真前知事が県外移設へ転換するのは考えられないことである。しかも、辺野古移設は政治的に決着していた。県知事が県外移設を覆すことができない状態になったのである。それなのに県外移設を選挙公約にするということは議会制民主主義の法律を無視することである。たとえ、県外移設を選挙公約にしても実現するのは不可能に近い。それなのに県外移設を選挙公約にするということは実現するか否かが問題ではなく、選挙に勝つための選挙公約であった。県外移設を選挙公約にした仲井真候補は当選した。

2012年12月の衆院選は自民党県連の立候補者は県外移設を選挙公約に掲げ1区は自民新人の国場幸之助、3区は自民新人の比嘉奈津美、4区は自民元職の西銘恒三郎が当選した。2区の宮崎政久は比例で当選したので自民党県連は全員当選した。選挙に勝つための選挙公約を掲げる方法は成功し、2010年の参院選と知事選、2012年の衆院選に自民党県連は勝利した。

しかし、選挙に勝つための選挙公約をするやり方が崩壊する時がやってくる。安倍政権の登場である。

 安倍政権の登場により、自民党県連の反マニフェスト選挙が破たんする。
安倍政権は普天間飛行場の危険性除去のために辺野古移設することを明言する。
その時の自民党幹事長だった石破氏は、
「普天間基地の危険性の一日も早い除去が原点でした。これは橋本総理がモンデール大使との間で、不可能とも思われた普天間基地の返還ということで全てが動き出しています。もう一度、この原点は何であったのか。世界で一番危険と言われる普天間基地、そしてその後の10年前、私は当時防衛庁長官でしたが、ヘリ墜落事故も起こりました。一日も早い危険性除去が原点だった。しかし、いろいろな事情があって、今日までそれが進捗を見ておりません。私どもの原点であった普天間基地の一日も早い危険性除去に、もう一度立ち戻ろうということであります」
と述べ、辺野古移設推進に動いたのである。
安倍政権の決意は強く、自民党県連の県外移設の公約にもメスを入れた。
石破前幹事長は一つの政党に辺野古移設と県外移設の違う公約があってはならないと言い、自民党県連の国会議員が県外移設の公約に固執するなら除名すると警告したのである。
石破幹事長の警告に五人の国会議員はあえなく陥落し、辺野古移設を容認した。これをきっかけに国会議員だけでなく自民党県連も辺野古移設を容認した。その時のことを私はブログに、
「石破幹事長が、辺野古移設を容認しないと除籍すると忠告したのは当然だ。実現不可能な県外移設を公約にするのは県民を騙している。沖縄の政治家が本当に悩み苦しむべきは県外移設が可能なのか不可能なのかを突き詰める時である。県外移設ができるかできないかの肝心なことには悩まないで、実現できない県外移設を安易に公約にして、石破幹事長に除籍すると言われて県外移設の公約を下ろすかどうかで悩み苦しむ沖縄の政治家の質の低さにはあきれるばかりであった。この場面は悲劇ではなく喜劇である」と書いた。

 自民党本部の圧力に屈した自民党県連は迷走する。自民党沖縄県連は那覇市内で県議による総会を開き、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への県内移設を容認する方針を決定した。それは180度の転換と言えるものである。照屋守之県連幹事長は「県外を求めれば求めるほど、普天間の固定化に向かう危機感があった」と述べたが、それは辺野古移設に方針を変えたためのいいわけであり、県外移設を主張してきたのに急に辺野古移設をする理由を言われても納得できるものではなかった。翁長政俊県連会長は会見で「仲井真弘多知事に対し、私たちの方針に沿うように働き掛けざるを得ない」と言い、本人は「会長として県外移設を主導してきたから、責任を重く感じる」として辞職した。
 仲井真知事は辺野古移設の決定に先立ち、県庁内で記者団に「まだ(方針転換が)分からないからノーコメント」と語った。自民党県連は混乱し、沖縄タイムスや琉球新報は自民党県連を厳しく批判した。

【琉球新報】<社説>
■その職を辞して有権者に信を問う決断を下すことが政党、政治家としての責任の取り方だと自覚すべきだ。自民党県連の翁長政俊会長が、米軍普天間飛行場の県外移設の公約を撤回し、名護市辺野古への移設を容認したことへの責任を取り、辞任を表明した。
県民の反発は想像以上に強かったのだろう。県連を主導し、県議の一人として最終局面まで「県外」にこだわった翁長会長の辞任は当然のけじめである。だが、県連会長辞任だけでは生ぬるい。
 「県外」の公約を下ろした国会議員、県議らは、その職を辞して有権者に信を問う決断を下すことが政党、政治家としての責任の取り方だと自覚すべきだ。
 沖縄の重大懸案をめぐり、最大の保守勢力が中央政府と対峙(たいじ)し、その屋台骨として「県外移設」が息づいてきた。党派を超えた「オール沖縄」の民意が強まり、歴史的な転換点を刻んだ意義は重い。
 だが、本土の無関心に安住した安倍政権と自民党本部は、根拠に乏しい「普天間固定化」を用いて恫喝(どうかつ)した。沖縄に犠牲を強要し、県連に屈服を迫る過程は「現代の琉球処分」と言われ始めている。………(2013年12月2日)
 仲井真知事は「県外移設のほうが早い」「使わなくなった民間飛行場に移設したほうがいい」などと県外移設を主張していたが、沖縄防衛局が提出した辺野古埋め立て申請を承認した。県外移設を選挙公約にしていた仲井真知事が辺野古埋め立て申請を承認したことに沖縄タイムスや琉球新報や革新は非難し、県民も失望した。
 県外移設を主張し続けた仲井真知事が知事選直前になって辺野古移設に転換したのは県民の信頼を裏切ったことになる。
【琉球新報】
 県知事選で仲井真前知事の選挙公約は県外移設から辺野古移設に変わった。
 仲井真前知事は選挙に勝つために「普天飛行場の5年以内閉鎖」を公約にするが、その効果もなく大敗する。
大敗した直後の私の感想と、江崎孝氏「狼魔人日記」を掲載する。

沖縄県知事選開票結果
当360,820 翁長 雄志 無新
 261,076 仲井真弘多 無現
  69,447 下地 幹郎 無新
   7,821 喜納 昌吉 無新
        =確定得票=
仲井真氏大敗する
10万表という県知事選歴史上最大の票差で翁長候補が当選した。
10万票近くの大差である。これだけの差となると沖縄2紙の応援だけが勝利の原因とは言えない。仲井真知事への県民の不信が強かったことを認めざるを得ない。自民党県連の内部分裂、仲井真知事への政治不信が敗北の原因だろう。
仲井真知事は県外移設を公約にし、埋め立て承認をするぎりぎりまで「県外移設のほうが早い」「使っていない民間飛行場に移せばいい」と主張していた。新しい移設先を探すより着々と準備を進めている辺野古移設のほうが早いのは目に見えている。それなのに県外移設が早いなどという仲井真知事の発言は嘘くさかった。嘘くさいことをそれもぶっきらぼうにいう仲井真知事への県民の信頼は落ちただろう。
辺野古埋め立て承認をした時に、仲井真知事は県民への謝罪もなければ承認せざるを得ないことの説明もなかった。県外移設を主張していながら辺野古埋め立てを承認したことは、仲井真知事は主張を180度転換したイメージを県民に与える。それなのに謝罪も説明もないのは県民不信を高めるたけである。仲井真知事の人気が落ちるのは当然であった。
歩けなくなり車椅子の生活を送ったのは高齢による健康不安を与えた。知事選で元気な姿を見せても健康不安を払しょくすることはできなかっただろう。
「辺野古移設を否定したことは一度もなかった」と言い、自分の主張を覆したことにはならないと仲井真知事は弁解したが、そんな弁解を理解できるのは仲井真知事支持者のなかのごく少数の市民であるだろう。ほとんどの県民は自己弁護ための言い訳に見えたはずである。
仲井真知事は県外移設のほうが早いと言い続けたのに、突然埋め立て承認をしたことはほとんどの県民には理解できなかっただろう。無責任な仲井真知事だと反感を持った県民が多かっただろう。
官僚出身の仲井真知事は県民を上から見下ろしているイメージが強い。話はぶっきら棒で独善的である。翁長氏は仲井真知事とは反対である。叩き上げの政治家である翁長氏は県民への説明は穏やかであり丁寧に分かりやすい。オール沖縄、アイデンティティーを繰り返す翁長氏は県民と寄り添っている政治家のイメージが強い。
10万票の差が出たのは仲井真知事と翁長氏の県民受けの違いが大きいと私は思う。(又吉康隆)

「マスコミにやられた」仲井真氏の本音 狼魔人日記日記

仲井真氏の真の敵はマスコミだ、と何度も書いた。
仲井真氏本人は、昨年暮れの「よい正月が迎えられる」と発言して以来、悪意を持って自分に襲い掛かるマスコミのネガキャンを見て、マスコミにいくら誠心誠意説明を尽くしても、さらに彼らの悪意を加速させるだけと判断。
それが今年3月県議会で詰め掛けたマスコミの前で、「(沖縄タイムス、琉球新報は)特定の団体のコマーシャルペーパーと聞いているので購読しない」という有名な発言をした。 
当時はまだ知事選立候補の話はなかったが、仮に3期を狙い知事選に挑戦する場合になっても、新聞のネガキャンは想定の上、マスコミと戦う仲井真氏の覚悟の表明だと考えられた。
ところが総大将の仲井真氏がマスコミと戦う覚悟で立候補したにも関わらず選対本部の指揮官たちは総大将の意図とは裏腹に相手候補の翁長氏よりむしろマスコミを恐れ、マスコミのネガキャンに真っ向から対決する指揮官は1人もいなかった。
それどころかマスコミの懐柔策を図るなど見当違いの戦略に終始し、結局はマスコミの嘘。捏造報道を拱手傍観する体たらくだった。
不退転の覚悟で知事選に臨んだ仲井真氏だったが、水鳥の音に逃げ惑う平家軍のように自陣の指揮官がマスコミの前に平伏してしまっては、仲井真陣営の敗北は当初から決まっていたのだろう。
                               「狼魔人日記」
 冒頭に引用した元自民党県連会長外間盛善氏の意見を見れば、自民党県連が辺野古については沖縄2紙、革新に近い考えであることが分かる。自民党県連は米軍基地が沖縄にないほうがいいと思っているのも革新と共通している。
 自民党本部の圧力によって辺野古移設に変更させられたのは自民党県連に大きな混乱を起こし、県知事選では一枚岩になれなくて、10万票の大差で敗れた。
 知事選だけではなく、衆議院選の小選挙区でも自民党県連は全滅する。
 
沖縄選挙区当選者
【1区】
当選・ 赤嶺 政賢(66)共産・前5
比例・国場幸之助(41)自民1 
比例・ 下地 幹郎(53)維新・元4
【2区】
当選・照屋 寛徳(69) 社民・前4
比例・宮崎 政久(49) 自民・前1、
【3区】
比例・比嘉奈津美(56) 自民・前1、
当選・玉城デニー(55) 生活・前2
【4区】
当選・仲里 利信(77) 無所属新
比例・西銘恒三郎(60) 自民・前3

小選挙区では全員落選したが、九州比例区では全員が当選した。安倍政権の人気が4人を当選させたということになる。
県外移設から辺野古移設に変更したために全員が小選挙区で敗れたが、辺野古移設を推進している安倍政権の人気が比例で当選させたことになる。

自民党県連は全敗したことをどのように受け止めるのか、どのようにして復興していくのか。

県外移設から辺野古移設に公約を変えた自民党県連は革新と手を組んだ翁長知事陣営に完敗した。選挙に勝つための選挙公約をやってきた自民党県連は常勝してきたが安倍政権の圧力でマニフェニストの選挙公約をした途端に全滅した。
 勝ったのは当選するための選挙公約をやった翁長知事陣営であった。翁長知事は実現が不可能である自民党県連が公約にしていた県外移設を主張し、これまた実現が不可能な閉鎖・撤去を主張している革新と手を組んで辺野古移設反対を選挙公約して県知事選も衆議員選も大勝した。
翁長氏が知事に当選した現在、翁長氏のほうに移りたい自民党県連の政治家は多いかも知れない。しかし、政権を握っているのは自民党である。政権党と離れるのは政治家としてマイナスになるから自民党県連に残っている。自民党政権と翁長知事とのはざまで悩んでいる自民党員も少なからず居るだろう。翁長雄志という強力なリーダーを失い魂を抜かれた状態が現在の自民党県連なのかも知れない。翁長知事は自民党県連の大黒柱的な存在であった。翁長知事が離れ、選挙で大敗した自民党県連は存続の危機にあるという。もしかすると壊滅するかも知れないという噂もある。でもそんなに悲観的になることはないと思う。今までの選挙に勝つためのまやかしの選挙公約から決別し、実現可能な公約を掲げていけば自民党の復興は確実である。

翁長知事は選挙に勝つために革新と手を組み辺野古移設反対を選挙公約にして選挙に勝った。辺野古移設反対の公約は過去の自民党県連のようにうやむやにはできない公約である。翁長知事は辺野古飛行場建設阻止が宿命づけられている。翁長知事は「あらゆる手段で辺野古基地建設を阻止する」と公言し、あの手この手で辺野古移阻止をしようとしている。
しかし、翁長知事があらゆる手段を用いて辺野古移設を阻止しようとしても阻止するのは不可能である。辺野古移設は政治決着し、公有水面埋め立て申請は承認されたからだ。翁長知事が辺野古移設を阻止するには安倍政権に移設を断念させなければならないが、移設推進を進めている安倍政権が断念することはない。もうひとつは国会議員の過半数が辺野古移設に反対し、予算をストップすることだが、衆議院の政党議員数を見ると、

自由民主党 291 人
民主党・無所属クラブ 72 人
維新の党 40 人
公明党 35 人
日本共産党 21 人
社会民主党・市民連合 2 人
生活の党と山本太郎となかまたち 2 人
次世代の党 2人
無所属 10 人
合計 475 人

辺野古移設に反対している衆議員は475人の内のたった日本共産党、社会民主党、生活の党と山本太郎となかまたちの25人である、辺野古移設に賛成している議員が圧倒的多数である。辺野古移設予算をストップすることは不可能である。
大衆運動が安倍政権を脅かすほどに高まれば移設阻止の可能性があるかも知れないが、5・17日の「戦後70年止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会」は主催者発表でたった35000人であった。2012年9月9日のオスプレイ配備反対県民大会は主催者発表で10万人余であった。それでもオスプレイは配備された。5・17県民大会参加者は半分以下である。県民大会としての権威はかなり低い。たった35000人の県民大会では安倍政権を脅かすことはできない。
キャンプシュワブに集まる反対派は10人から100人近くであり横ばい状態である。辺野古移設反対運動がこれ以上盛り上がることはないだろう。

 翁長知事は辺野古移設を阻止することはできない。それははっきりしている。自民党県連は翁長知事流の政治から決別し、再出発をするべきである。

苦笑するしかない翁長知事の「計画断念求める」

「日米両国は『品格のある日米安全保障体制』でアジアや世界の安定と平和に力を合わせてほしい。そのために沖縄の基地問題を解決しなくてはならない」と翁長知事は語り、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の県内移設計画断念を米政府関係者らに求める考えを示した。
「毎日新聞 6月1日」
支離滅裂な話である。理屈が全然繋がっていない。
 アジアや世界の安定と平和のために沖縄の基地問題を考えるなら、沖縄の民意とは関係なく軍事戦略上について考えなければならない。ということは普天間飛行場の辺野古移設問題とは関係がない。それなのに県内移設計画断念を米政府関係者らに求めるというのだ。
 米政府は軍事戦略上普天間飛行場は必要と思っている。米政府にとって軍事戦略上支障がなければ辺野古移設でも県外移設でも構わない。日本政府が辺野古移設を決めたから米政府は賛成しただけである。米政府に県内移設断念を求めても米政府は答えることができない。移設は国内問題であるからだ。
 国内問題に口出しを控えるのが政府間の常識である。
 辺野古移設は米政府も最終的に了承した。翁長知事が出る幕はもうない。

翁長知事は、沖縄の基地負担について「過重で県民の自由、人権、民主主義を保障できない」と指摘。「日米安保体制は民主主義という共通の価値観を持つ国々との連帯で中国に対抗しようとしている。自国民にそれらを保障したうえで連帯の輪を作ることが品格のある日米安保体制だ」と主張した。
     「毎日新聞 6月1日」
 笑える。沖縄は日本の県であり、日本の法律が適用されている。県民の自由、人権、民主主義は保障されている。米軍が県民生活を弾圧したことはない。民主主義国家米国の軍隊だから当然のことである。米軍基地の被害もほとんどない。米兵の交通違反や犯罪は一部の米兵がやったことであり県民への弾圧でもなんでもない。交通違反や犯罪は県民もやっている。それと同じだ。
 「県民に過重な負担をかけている」いう表現は許されるとしても「県民の自由、人権、民主主義を保障できない」は許されない。沖縄には米軍基地があるために日本の法律が適用されていないということになるからだ。とんでもない理屈である。
 沖縄は民主主義国家日本の県であり日本の法律が適用されている。県民の自由、人権、民主主義は保障されている。
 
 普天間飛行場の固定化を避けるための代替案については「日本政府が第一義的に考えるべきだ」と語った。
      「毎日新聞 6月1日」
 とうとう県外移設を口にすることができなくなった翁長知事である。
 県知事選の時、仲井真前知事が県外移設から辺野古移設に変更したことに対して、仲井真前知事を非難し、「私はぶれない」と言って県外移設を主張したのが翁長知事であった。ぶれないことを強調していた翁長知事が県外移設を言わなくなった。4月5日の菅官房長官との会談からである。県外移設を訴えるべき相手に県外移設を訴えることをしなかった翁長知事は、「代替案を出せというのは政治の堕落である」と分けの分からないことを言った。
 翁長知事が主張してきた代替案は県外移設であり、革新の代替案は閉鎖・撤去である。革新はぶれないで閉鎖・撤去を主張しているが、翁長知事はぶれて、「辺野古移設が唯一である」と主張した政府に米国に渡った翁長知事は代替案は「日本政府が第一義的に考えるべきだ」と言ったのである。頭がおかしくなっのではないかと思える発言であるが、それほどに追い詰められて県外移設を言えなくなった翁長知事が苦し紛れに言ったのだ。

 具体論ではなにも言えなくなった翁長知事は抽象論に逃げている。
『品格のある日米安全保障体制』には品格とはなんですかと聞く気は失せて、ただただ笑ってしまうだけだ。

2015/05/28 に公開


平成27年5月27日水曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、キャスターの又吉康隆­氏に「辺野古移設問題を故意に米軍基地問題へ転換している」、「落合恵子・詩「沖縄の­辞書」を批判」の2つのテーマについてお話いただきます。



次回放送は平成27年6月10日水曜日です。
  

Posted by ヒジャイ at 17:06Comments(0)