2012年05月30日

車に跳ね飛ばされ米軍病院に運ばれた話


小学一年生の時、交通事故に会って死に損ねたことがある。
私の家の側は三叉路になっていて、ちょっとした広場になっていた。子供たちは三叉路でよく遊んだ。隣りのカズねえさんは中学生だったが私たち子供とよく遊んでくれた。
ある日、カズねえさんは三叉路に生えたアダンの葉で風車を作って私たちにあげた。アダンの葉は肉厚で細長く鋭いとげが生えている。ナイフでアダンの葉の棘を切り払い、葉を長方形に同じ大きさに切り取り、四枚の葉を織って風車をつくる。竹の枝を風車の中心に差し込んで風車を固定し、竹の筒に枝を入れたら風車の完成である。私たちは風車を持って走り回った。

私はもっと大きい風車がほしくなった。一号線の向こう側の畑の側には大きいアダンの木が植わっていて、私が大きいアダンの葉を取ってきたら大きい風車を作ってあげるとカズねえさんが約束したものだから私は一人でアダンの葉を取りにいった。
50年以上も前のことだから車は少なかった。私は左を見た。車はなかった。左を見るとバスが走ってきた。私はバスが通り過ぎるのを今か今かと待っていて、バスが通り過ぎた瞬間に車道を横切った。私の記憶はここまでだった。私は反対車線から走ってきたタクシーに跳ね飛ばされたらしい。

闇の中で私の名前を呼ぶ声がして、目を開けると、目の前に金髪のおばさんが立っていて私の顔を凝視していた。私はびっくりして起きようとしたが体が動かなかった。私の側に母が居てしきりに私の名前を呼んでいた。首を曲げると泣いている母の姿が見えた。

私の口の中を調べていた金髪のおばさんは手招きしてインド人の白衣の若い女性を呼び、私の口の中を見せながら話した。インド人の女性は私の顔に口のあたりだけが開いている紙か布をかぶせて、私の口の中を縫った。私はタクシーに跳ね飛ばされたが、幸いにも口の中を8針縫う傷を負っただけだった。

私が運ばれたのが宜野湾市の志真志にあるカマボコ型の陸軍病院だった。
私の子どもの頃は、事故で怪我人が出た時や急病人が出た時に駆けつけてくれる救急車といえば米軍の救急車であった。私が高校時代に書いた戯曲を読んでみると、いつも駆けつけるのが沖縄の救急車ではなく米軍の救急車であることに悔しがるセリフがあった。
米軍の世話になっている事実に反発する一方、人命を大事にしない沖縄の政治に不信感を抱いていたのだろう。
戦前育ちの政治家たちは人命第一の思想がなかったかもしれない。人命第一の思想があればたとえ財政が貧しくても救急車を準備していたはずである。


今でも沖縄の人命・人権第一の思想は薄いと思う。

普天間飛行場は世界一危険であると言ったのは宜野湾市の前市長であり、今では県民の多くがそのように思っている。今度はオスプレイが配備されることになった。普天間飛行場の危険性はますま高まる。
多くの県民がオスプレイを配備するアメリカを人権無視であると非難している。
ところが、アメリカの人権無視を非難している人たちは普天間第二小学校を移転しよういう発言をしない。オスプレイが配備されれば普天間飛行場に隣接している普天間第二小学校の騒音被害はますますひどくなり、墜落の危険も高まる。普天間第二小学校の子どもたちの被害はもっとひどくなるのは目に見えている。それなら、アメリカを非難するだけではなく、普天間第二小学校の生徒をできるだけ安全な場所で勉強させるのを考えるのが当然である。
以前に移転しようとしていた外人住宅外は現在は使っていない。すべての外人住宅が空き家であり取り壊すことになっている。普天間第二小学校を移転できる場所は何年も前からある。しかし、誰も普天間第二小学校の移転を口にしない。
普天間飛行場の危険性が高まることを知っていれば、普天間第二小学校の移転を考えるのは当然だ。それを考えないのはおかしい。絶対におかしい。アメリカの人権無視を主張する人たちの頭はおかしい。

普天間第二小学校の移転を考えない人たちにアメリカを人権無視だと非難する資格はない。米軍は普天間第二小学校の移転場所を返還してもいいと昔から言っている。普天間第二小学校の子どもたちを何十年も危険状態のままにしているのは米軍ではなく沖縄の政治である。

もう一度言う。普天間第二小学校の移転を考えない人たちにアメリカを人権無視だと非難する資格はない。

普天間第二小学校の一日も早い移転を望む。
  

Posted by ヒジャイ at 12:11Comments(0)

2012年05月30日

南山舎も自費出版を断わってきた



南山舎も自費出版を断ってきた。断る理由が八重山教科書問題が係争中だからという。裁判が決着つけるまでは答弁を控えるという国会答弁を聞いているようだ。

裁判と本を出版するのは関係がない。それに八重山地区ではすでに教科書は配布されて使用している。八重山教科書問題については多くの人が新聞でも意見を述べている。本を出してもなんの問題もないはずだ。
沖教祖や新聞に対して批判的な内容だから自費出版を断ったのは明らかだ。

恐らく裁判が終わっていたとしても私の自費出版は断っていただろうな。ボーダーインクの場合は普天間問題で検閲され、南山舎の場合は八重山教科書問題で検閲された。
沖縄の出版社界にはまいったな。国が言論封殺するのではなく民間の裏体制が言論封殺をしている。信じられないことだ。

恐ろしい沖縄になったものだ。  

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2012年05月29日

鬼軍曹のやさしさ


私は水釜と嘉手納町の東はずれにある屋良の二十軒ほどの外人住宅に新聞配達をしていた。外人住宅は嘉手納飛行場が一望できるので観光客に人気のある嘉手納道の駅の近くにあった。今も外人住宅は残っているが周りに住宅が多くなり目立たなくなっている。

50年前は外人住宅が嘉手納町の東端でありその先に家はなかった。嘉手納ロータリーから自転車を飛ばし、屋良の入り口を超えると左側に外人住宅が見えた。車道を左に曲がると50メートルほどのなだらかな坂を下り、左側に駆け上がると鬼軍曹の家があった。本当は鬼軍曹ではない。鷲鼻で目が鋭く、挨拶する時ににこりともしないので映画に登場する鬼軍曹に見えたから私は彼を鬼軍曹だと思っただけだ。
彼は威圧感があり、集金をする時には緊張したものだ。

ある日、私が鬼軍曹の家に新聞を配達しようとしたらドアが開き鬼軍曹が現れた。ドキっとして動きが止まった私に、彼は「ウェイト」と言って、奥に消えた。私がドアの前で待っていると、彼は茶色と黒の縞模様の服を持ってきた。生地が柔らかくて暖かそうな服だった。彼は私にその服をあげたいがどうかと言った。私は即座に、「ノーサンキュー」といった。私は物をもらうのが嫌いで即座にことわる断る癖があった。多分私の深層心理には貧乏コンプレックスがあり、物をもらうことを屈辱に思うところがあった。私は「ノーサンキュー」と言った直後に彼の善意を踏みにじったことを後悔した。もし、彼が、微笑みながら、もう一度もらわないかと言ったら、私は、「サンキュー」とお礼を言って服をもらったと思う。しかし、鬼軍曹は、私が、「ノーサンキュー」と言ったので、「そうか」とがっかりして奥に戻っていった。気まずい思いをしながら私は次の住宅に新聞配達に向かった。

私は鬼軍曹がやさしい人間であることを知った。彼のやさしさに応えることができなかったことを私はちょっぴり後悔した。ただ、これで彼と気まずい関係になったかと言えばそうではない。鬼軍曹がやさしい人間だと分かったので、私は大きい声で「グッドモーニング」と挨拶したし、彼も私に微笑むようになった。でも、二度と私に服をあげようとはしなかった。


タイムスの「基地で働く」シリーズは嘉手納基地のサニテーション(保健衛生)で働いていた瑞慶山良春さんの話を掲載していた。

「泡瀬や高原などに田んぼがあった。そこで蚊を駆除するため、手製の噴霧器でディーゼルオイルをまくんだ。そうすると田んぼの水に油膜が張るでしょ。ボウフラは呼吸できなくて5分くらいで死ぬ。でも農家はせっかく大切にしている田んぼに影響が出るかもしれないから、恨めしそうな目でじっとこっちを見た。文句こそ口に出さないけど、米軍には逆らえないからね。農家がかわいそうで、自分も板挟みになって困った」

私の同級生でメイシュンという少年がいた。彼は頭が悪く、今でいう知的障害の少年だった。彼は赤ちゃんの時に脳膜炎にかかったせいで頭が悪くなったという噂だった。

蚊は脳膜炎やマラリアの病原菌を持っていて、戦時中には多くの人がマラリアにかかって死んだ。沖縄を占領した米軍はマラリアを根絶させるために徹底した蚊の駆除をやった。ブォーという音を出しながら白煙を吹く車が定期的に村の道を走り回った。白煙は蚊を退治する薬だった。
学校では、蚊に刺されるとマラリアや脳膜炎になるから刺されないようにと先生方は注意した。

瑞慶山さんはお金のために軍雇用員になった典型的なウチナーンチュだ。瑞慶山さんは沖縄からマラリアや脳膜炎の病気をなくす重要な役目を担っていたのにその自覚はなかったようだ。お金のために軍の仕事をしているから米軍のいうことに逆らえないという意識だけで、保健衛生をしていたのは残念である。
戦後の沖縄は不衛生で栄養失調者も多かった。蚊やハエを撲滅する仕事は非常に重要だった。アメリカ軍は沖縄から疫病をなくすために衛星活動に力を注いだ。
下水道設備がないから家庭の水は垂れ流し、いたる所に水たまりがあった。噴霧器を背負った衛生士は村中をまわり、下水や水たまりに薬を撒いて、蚊を撲滅した。
そのおかげでマラリアは激減し、日本脳炎にかかる人間もいなくなった。
瑞慶山さんの仕事は沖縄の人々に大きく貢献した仕事だった。

田んぼにはおたまじゃくしや鮒が棲んでいる。おたまじゃくしや鮒はぼうふらを餌にしているので田んぼにディーゼルオイルを撒く必要はあったのだろうか。田んぼは広い、田んぼの表面を全部覆うには大量のディーゼルオイルが必要である。それに田んぼの水は流れているから、ディーゼルオイルの効果があったかどうか疑問である。手製の噴霧器では田んぼ全体を覆うほどに撒くことはできなかったはずだ。せいぜい田んぼのあぜ道を歩きながら撒いたくらいであろう。田んぼに悪い影響を与えたとは思えない。
どうしてマラリアを根絶するためには必要なことであると農家の人に理解を求めなかったのだろう。瑞慶山さんの欠点だな。


「沖縄の人を見下しているような人もいるにはいた。家のトイレを借りようとしたら、米兵の奥さんに『とんでもない』と断られたり、それでもほとんどの人は優しくてね。差別する人はするし、しない人はしないのはどこの民族も同じ、米軍そのものには反感もあったけど、一人一人の米兵には親近感を持った」

瑞慶山さんが米兵に感じたことがウチナーンチュが一般的に感じたことだと思う。ただ「差別」だったのかそれとも「嫌われた」のかを瑞慶山さんは区別することができなかったと思う。瑞慶山さんは「どこの民族も同じ」とアメリカを単一民族であると思っているがアメリカは多民族であり、私たち沖縄人が持っているような民族意識はアメリカ人にはない。黒人蔑視や黄色人蔑視をする白系アメリカ人はいる。黄色人である沖縄人を差別したり嫌ったりするアメリカ人がいたことは確かであるがそれは少数のアメリカ人であり、アメリカ人による沖縄人への差別とは違う。黄色人種差別といったほうが適切である。

隣りのアメリカ兵は普通の人間だったのである。
  

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2012年05月27日

基地問題より生活問題が重要

 拙論を紹介していただき、ありがとうございます。『新潮45』は、沖縄にはほんとうにわずかしか配本されない本なので、ヒジャイさんや北谷さんにご紹介をいただくとは思ってもみませんでした。本来なら本土の、ぼくのような人間が、口を出すべきではない問題なのでしょうが、ヒジャイさんのように沖縄の真実を見極めようとする方に対して、沖縄はもちろん、本土のマスコミもとても冷淡なので、少しは力になれるかなと思って始めたことです。ぼくは、沖縄の方々に対しても、本土の沖縄好きの方々に対しても、「沖縄はお気楽な楽しい場所」という立場で本を書いてきた人間ですので、そうではない沖縄の深刻な部分もしっかり見極めないと、自分の責任を果たせないと思ってきました。ヒジャイさんに触発されたことも手伝って、これからも少しずつですが、沖縄でも日本でも等しく「見逃してはいけない真実」をうったえていきたいと思っています。 篠原章
219.121.112.160




100人そこそこの訪問者しか来ない無名の私のブログに篠原さんのような人が訪れてくれてしかもコメントしてくれたのに驚いているし、感謝しています。

沖縄の基地問題は全国の問題であるのに本土の人間たちは冷淡であると主張している沖縄の人間たちが 本土の北朝鮮の拉致問題、部落問題や北方領土問題などの深刻な問題を真剣に考えているかといえば疑問です。沖縄の基地問題と同じように拉致問題も重要な問題であるのだから沖縄でも真剣に取り組むべきであると彼らが述べたのを聞いたことがない。
拉致家族はアメリカ大統領に北朝鮮への厳しい対応を要求している。拉致家族は北朝鮮への米軍の軍事的な圧力も望んでいる。しかし、沖縄の基地問題を全国の問題にするべきであると主張している沖縄の人間たちは日本の米軍基地の弱体化を主張している。このことから見ても拉致問題に対しては冷淡であることがわかる。
拉致問題など日本が抱えている深刻な問題には無関心でありながら沖縄の問題は全国の問題であるなどと主張するのは沖縄のエゴだ。それに基地の被害は具体的に言えば嘉手納飛行場や普天間飛行場の騒音と米兵の事件・事故くらいである。嘉手納飛行場や普天間飛行場の騒音被害は飛行場の周辺住民だけが受けているのであり(私もその中の一人)、多くの県民は騒音被害を受けていない。ところが革新系の政治家、知識人、マスコミは沖縄全体が基地の重圧に苦しんでいるような印象を与えている。

彼らは普天間飛行場の危険性を誇張しながらも普天間第二小学校の移転は阻止している。彼らは普天間第二小学校の生徒に普天間飛行場の騒音被害や危険性を強要しているのである。
辺野古の地元の人たちは普天間飛行場の移転に賛成しているのに名護市長やマスコミ、新聞への投稿者は辺野古区民の主張を封じ込めて、普天間飛行場の辺野古への移設は県民全体が反対していると吹聴している。
八重山教科書問題で明らかになったのは、昨日東京から小笠原彩子弁護士が来て育鵬社版を批判する講演を行ったように、八重山の反育鵬社運動の司令塔は東京にあり、八重山で運動しているグループは東京の指令で動いていて、東京の司令塔のロボットのような人たちであるということだ。東京の司令塔とは日本共産党である。

沖縄の深刻な問題は米軍基地ではなく、共産党、社民党、社大党の政治家、沖教祖、沖教祖OB、自治労、マスコミが沖縄の基地問題を捻じ曲げており、捻じ曲がった解決法を主張していることだ。普天間飛行場の県外移設は実現するとしても20年はかかると政治評論家の岡本行夫氏は述べている。県外移設を主張することは20年も宜野湾市民を危険な状態のままにしておくことである。しかし、県外移設を主張する連中は実現まで何年かかるかという問題は無視して県外移設を主張するだけである。

米民政府が統括していた時代に怖かった存在は米兵ではなかった。沖縄の暴力団だった。復帰前の沖縄は治安が悪かった。野球の応援でコザ市に行った時、試合が終わってゴヤのバス停留所でバスを持っていると、こん棒を持った怖いおにいさんが私たちを建物の裏に来るように行った。行けばゆすられるのは明らかだったから私たちは行かなかったが、怖さに負けて建物の後ろに行った生徒はお金を取られた。
大木に住んでいた時、隣にガキヤローゼンというにいさんが居たが彼は体が逞しく喧嘩が強かった。彼は那覇の暴力団に入ったが、ある日事務所に殴り込みに来た敵の暴力団員を追っかけていき、敵の暴力団の拳銃に撃たれて死んだ。
普天間抗争といって暴力団同士の銃撃戦があったが、琉球政府の警察は手が出せなかった。敵対する暴力団員を拉致してヤンバルの山の中に連れて行き、自分で穴を掘らせて銃殺して埋めた事件もあった。
10年ほど前には張り込みをしている刑事を暴力団と間違えて銃殺した事件もあった。このような暴力団争いの殺害事件は多かったし、治安は悪かった。
米兵が沖縄人を射殺した事件は記憶にない。米兵同士の喧嘩は後を絶たなかったが、米兵と沖縄人の喧嘩は聞いたことがない。米兵による婦女暴行はあったが、暴行事件はあまりなかったと思う。

沖縄の政治が真剣に取り組まなければならないのは貧困問題、児童福祉問題、学力問題、DV問題など全国と比べて最悪である県民の生活の向上である。沖縄県民の生活問題に比べれば基地問題なんて大した問題ではない。
  

Posted by ヒジャイ at 07:44Comments(2)

2012年05月16日

表現の自由が民間社会で弾圧されているのが沖縄だ

狼魔人さん(ブログhttp://blog.goo.ne.jp/taezaki160925)に会って出版について相談したが、狼魔人さんからとんでもない話を聞いた。表現の自由をモットーとして、アメリカ政府や日本政府の沖縄問題の情報隠しを非難し、政府の言論弾圧を非難している沖縄の新聞社が言論弾圧をしているというのだ。

渡嘉敷島や座間味島の集団自決が日本軍の強制であるのは有名な話である。沖教祖、マスコミは渡嘉敷や座間味の集団自決が日本軍の強制であることを教科書に掲載するように文科省に強く要求している。

しかし、上原正念さんが、集団自殺は日本軍の強制はなかったと書こうとした時に琉球新報への掲載を拒否された。星雅彦さんも集団自殺は日本軍の強制がなかったと主張したために琉球新報からほされたというのだ。
上原正念さんはアメリカの公文書を調べてその事実を知り、星さんはずっと昔に現地を調査して分かっていたが、国からの自決した人々の援護金は日本軍の強制がないと出ないという複雑な事情があり黙っていたそうだ。

今まで梅沢隊長についてのインタビューの記事がなかったから、すでに梅沢隊長は死んでいると思っていた。ところがそうではなかった。座間味の集団自決を強制したと言われている梅沢隊長は現在も健在であるのだ。沖縄タイムス、琉球新報は集団自決の張本人と言われている梅沢隊長への取材を今まで一度もやっていないそうだ。驚くべき事実である。
梅沢隊長が自決命令を出さなかったと座間味島で言い続けている宮平秀幸さんという人ががいるが、彼の主張を沖縄のマスコミは封殺している。梅沢氏と宮平氏の証言を見れば、日本軍が集団自決を命じたことが真っ赤なウソであることが分かる。



ブログをやる前はちょくちょく新聞投稿をやっていたが、辺野古移設に賛成したり、普天間第二小学校はB52重爆撃機が墜落炎上した翌年の1969年に宜野湾市がつくったのであり、宜野湾市に責任があるという内容の投稿は掲載されたが、渡嘉敷、座間味の集団自殺について、自らの死を最終的に決断するのは自身であり、「手りゅう弾をあげたのは日本軍であるが、手りゅう弾を爆発させたのは教育である」という内容の投稿は掲載されなかった。あの時には表現がきつかったから掲載されなかったのかなと考えていたが、もしかすると、「自らの死を最終的に決断するのは自身であり」の内容が原因で掲載されなかったかもしれない。

米軍基地問題でも基地に賛成する意見はほとんど封殺されているのは知っているが、まさか、慶良間、座間味の集団自決が完全なでっち上げであったとは信じられないことである。

「沖縄に内なる民主主義はあるか」の出版はもっと腰をすえてやっていかなければならないようだ。出版してくれる本土の出版社は見つけたが、沖縄の出版社はまだ見つけていない。もしかしたら見つけることができないかもしれない。

表現の自由が民間社会で弾圧されているのが沖縄だ。
  

Posted by ヒジャイ at 11:18Comments(1)

2012年05月14日

「沖縄に内なる民主主義はあるか」の出版への道


自費出版を出版社から断られるというのは全然予想していなかった。だから、ボーダーインクに自費出版を断られた場合の次の手を全然考えていなかった。
自費出版を断られた瞬間はわけが分からず頭が真っ白になった。頭が混乱しながら、どうにかして出版をしなくてはと思いつくままに手をうっていった。
まずは、依然からWEBで自費出版を募集していることを知っている文芸社に原稿を送った。次に出版社をWEBで探しまくり、風詠社がよさそうなので、風詠社に資料を請求した。それから、狼魔人さんに事情を書いたメールを送った。ブログ(http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925)。沖縄のY社にも原稿を送り、県内に私の本を出版できそうな出版社があれば紹介してほしいと頼んだ。

文芸社からはすぐにメールがあった。

このたびは、貴重な原稿あるいはお問い合わせ・メッセージを
送信してくださり、誠にありがとうございます。

作品原稿やお問い合わせ内容に応じた
出版のご提案や回答など、数日~4週間程度で
担当者からご連絡させていただきますので、
しばらくお待ちください。

今後とも、よろしくお願い申し上げます。

--
株式会社 文芸社
〒160-0022 東京都新宿区新宿1-10-1
TEL.0120-03-1148/FAX.0120-22-6526
Web Site http://www.bungeisha.co.jp

数日前に文芸社から電話があり、10日くらい後に私の原稿への評価を郵送するそうだ。


風詠社からは資料が送られてきて、数日後にはメールと見積もりが送られてきた。

出版企画・見積書(注文対応型/暫定版)
株式会社風詠社
〒553-0001 大阪市福島区海老江5-2-7
ニュー野田阪神ビル402
Tel.06-6136-8657 Fax.06-6136-8659
書名:「未定」
仕様 : 四六判ソフトカバー(188mm×128 mm) カバー4色フルカラー印刷、
表紙1色、帯あり、見返しあり、本文200ページとして
用紙: カバー/コート紙(四六判110 ㌔) 表 紙/アート紙(四六判200 ㌔)
本文/書籍用紙72.5 ㌔扉/本文共紙見返し/タント
* 装丁はご希望に応じて当社デザイナーがラフを作成し、お選びいただきます。
* 用紙はご希望に応じますが、種類によってコストアップする場合があります。
発行部数:500部(うち200部は著者分=献本や直接販売など自由にお使いいただける分)
*納品部数はご相談に応じます。
定価:1300円(税別)*予定
売上還付金:初版:実売部数×定価(本体)×50%
増刷印税:増刷部数×定価×10%
〔売れ行き好調で当社判断・当社負担で増刷した場合。
著者希望で著者負担による増刷の場合、初版に準じます〕
作業分担: 著者/ 原稿作成(原稿文字データ提供)・著者校正
風詠社/ 編集・校正・デザイン・印刷製本・販促
星雲社/ 発売元(取次窓口へのサンプルだし、国立国会図書館への献本)
販 売:トーハン、日販など取次会社に登録し、注文に応じて全国の書店に委託配本します。
インターネット書店amazon、bk-1、楽天ブックスなどでも販売されます。
販売促進:①毎日新聞第一面三段1/8広告欄に新刊広告を掲載します。(3―4点同時掲載)
(1 点単独掲載ご希望の場合、17 万円のご負担となります)
②図書館や書店向けの情報誌である図書館流通センター「週刊新刊全点案内」
「トーハン週報」「日販速報」に新刊として掲載します
(以下有料オプション)①書店への配本を増やすためのチラシ製作・配布も行います。
②著者のご希望に応じた新聞・雑誌への有料広告も可能です。


500 冊なら費用は695,000円であるという。ボーダーインクが同じ条件で85万円だから、風詠社のほうが安い。でも県内の出版社なら県内の書店の事情を詳しく知っているはずだから、できるなら県内の出版社に依頼したい。

文芸社の評価も知りたいから、しばらく様子をみようと思う。
  

Posted by ヒジャイ at 16:24Comments(1)

2012年05月13日

アメリカ兵がとなりにいた頃のお話

私が最初にアメリカ人を見たのは二、三歳の時だった。それも黒人だった。私は読谷村の大木に生まれ、四歳の時に比謝に引っ越した。だから、大木の記憶は三歳以下ということになる。

最初に黒人を見たのは大木に居た時であった。姉は私をおぶって一歳年下のシズエさんの家に遊びに行った。二人は話しているうちに戦前の話になり、黙認耕作地になっている戦前の屋敷を見たいという話になった。
姉は私をおんぶし、シズエさんは私より一歳年下のチョウトクをおんぶして数キロほどはなれている黙認耕作地に行った。黙認耕作地は、耕作している場所は少なく、広大な草原になっていた。私の姉が住んでいた屋敷を過ぎ、シズエさんの住んでいた屋敷に向かって歩いていると、遠くに嘉手納弾薬庫から出てきた数人の黒人兵が見えた。
姉とシスエさんは黒人兵を見た途端に、恐怖になり一目散に逃げた。道路はなく畑跡の草原を走ったので、姉は草に覆われた溝に足を取られて転んでしまった。
私の記憶は姉が転んだところで終わっている。

人気のない草原の中で黒人兵を見た姉とシズエさんは非常に怖かっただろう。

大木に住んでいた時に二回アメリカ人を見たが、二回目は逃げたのではなく姉がアメリカ人を見に行った。
これもシズエさんの家にいた時のことである。大木の南はずれでアメリカ人たちがお祝いかなにかをやっているという噂があり、姉とシズエさんは見に行くことにした。
大木のはずれには石灰かなにかを敷いた小さな広場があり、十数名のアメリカ人と一台のヘリコプターがあった。見物人も大勢いた。

アメリカ兵たちの前には若い沖縄の女性がいて、アメリカ兵たちから祝福されていた。女性と一人のアメリカ兵はヘリコプターに乗った。二人は笑いながら盛んにアメリカ兵たちに手を振っていた。アメリカ兵たちは手を叩いたりしながら祝福の言葉をかけていた。ヘリコプーは舞い上がり、次第に小さくなっていった。ヘリコプターの沖縄女性とアメリカ兵はいつまでも手を振っていた。

私たちが見たのは沖縄女性とアメリカ兵の結婚式だったのだ。沖縄女性は私の周りにいる女性よりあか抜けていて華やかで堂々としていたのを覚えている。
1951年のことである。

戦争が終わって6年後にはこのようにアメリカ人と沖縄女性と恋がめばえ、結婚することもあった。沖縄女性は沖縄戦でアメリカ軍に攻撃されたはずである。アメリカ兵は敵であり怖い存在であるはずである。しかし、アメリカ兵と恋をし結婚した。

新聞ではアメリカ兵の犯罪が掲載され、沖縄人が差別されている内容の記事がほとんどであり、沖縄女性がアメリカ兵と結婚するのはありえないように思えるが、現実はそうではない。多くの沖縄女性がアメリカ兵と恋をし結婚した。

アメリカ兵が隣にいる生活では、犯罪はほとんどなく、フレンドリーなアメリカ人の普通の姿があるだけであった。私の村にはアメリカ兵と沖縄女性が同棲するための貸家がつくられていった。

アメリカ兵がとなりにいた頃の思い出を書いていこうと思う。
  

Posted by ヒジャイ at 10:29Comments(1)