2020年08月12日

黄泉の国の神風特攻隊

黄泉の国の神風特攻隊
「ここはどこだろう。」
加藤次郎は突然一度も来たことがない場所に立っていた。空も雲もない。家も木もない。山もない。風もない。道もない。見慣れた風景がない不思議な場所である。夢の中だろうか。自分はまだ寝ていて、夢の中に居るから風景がない世界に居るのだろうか。加藤は当たりを見回した。風景のない世界だ。やはり夢を見ているのか・・・加藤は首を振った。
・・・・いや、そうじゃない・・・・夢じゃない・・・・
寝ているはずがない。自分はゼロ式戦闘機に乗って憎っくき米艦船に突っ込んでいった。そうだ。私は特攻隊として敵艦船に突っ込んでいったのだ。看板目掛けて私のゼロ式戦闘機は一直線に突っ込んだ。逃げ惑うアメリカ兵。恐怖に顔が引きつっている金髪の海兵隊の姿も見えた。ぐんぐん甲板が近づいていった。
 加藤次郎の記憶はそれから真っ暗になった。真っ暗になってからどれほどの時間が経ったのだろうか。もしかすると時間は全然経っていないかもしれない。加藤次郎は腕時計を見た。時計は一時三分三十五秒のまま動かない。どうやら艦船に突撃した瞬間から時計は止まっているようだ。
 太陽は出ていないのに明るい。道もない。家もない。山も見えない。海も見えない。奇妙なところである。
 暫くして加藤次郎は天国に居るのではないかと思った。自分はゼロ式戦闘機に乗って勇敢に敵艦船に突撃をした。爆弾を抱えて艦船の看板に突っ込んだのだから生きているはずがない。ああ、自分は死んだのだ。死んだという実感はないが、これまでのことを考えると自分が死んだということは納得できる。ああ、自分は死んだのだ。もう二度と地球の大地の上に足を踏みしめることはできないのだ。父や母に会うことはできない。妹の由美子と会うこともできない・・・・・。
 加藤次郎は自分が死んだという事実にさびしさがこみあげてきた。しかし、死んだことに後悔はない。自分は神風特攻隊員として大日本帝国のためにゼロ式戦闘機に乗って敵艦船の甲板に突っ込んだのだ。自分の命と引き換えに敵艦船を大破したのだ。米艦船は沈没しただろう。加藤次郎は家族や友人に会えなくなったさびしさはあったが責任は果たしたという充足感もあった。
鬼畜アメリカが日本本土上陸するのは絶対に阻止しなければならないのだ。そのためには自分の命なぞちっとも惜しくはない。日本国のため天皇のためにあるのが自分であるのだ。日本男子として当然のことをやっただけだ。
次々と自分に続いて特攻隊が鬼畜アメリカの艦船に特攻していき、日本に真の神風を吹かすのだ。そして鬼畜アメリカを駆逐してやるのだ。日本には神風があるのを軽薄アメリカは知らないだろうが、神風特攻隊の攻撃が続けば本当の神風が起こりアメリカ艦隊は海の藻屑となるのだ。
「天皇陛下万歳。」
加藤次郎は興奮して声高に万歳をしていた。すると、山がないのに、
「天皇陛下万歳。」
と山彦が返ってきた。いや、山彦ではない。次郎の声とは違う声だ。すると反対の方からも、
「天皇陛下万歳。」
が聞こえた。聞き覚えのある声だ。
「いとーかあー。」
加藤は声の方に向かって叫んだ。
「かとーかあー。」
加藤の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「いとー。」
加藤が叫ぶと、
「かとー。」
伊藤の声が返って来た。まさかこんなだだっ広いなにもない所で突然に伊藤の声が聞こえるとは。ああ、神の導きなのだろうか。
加藤は声のする方に走った。加藤は走って驚いた。走るのが早いのだ。それも人間の速さとは桁が違った。人間の走る早さは百メートルを10秒代で走るのが世界最速である。ところが加藤の速さは百メートルを一秒以下で走るのだ。いや、音速くらいの速さである。
 声のする方のはるか彼方に人間の姿は見えなかったが、暫くすると米粒のようなものが見え、それが見る見るうちに大きくなりやがて人間の姿になった。
「伊藤。」
「加藤。」
二人は再開を喜んだ。
「おう、伊藤。無事だったか。」
加藤が言うと伊藤は返事に途惑い苦笑いした。
「はあ。無事と言えば無事だと言えるし。そうではないとも言えなくはないし。」
伊藤の戸惑いに加藤は自分たちが死んだということを思い出した。
「ああ、そうか。私たちは死んでいるのだ。無事であるかと聞いたのは愚問であった。私は駆逐艦の甲板に体当たりした。駆逐艦は沈没したと思う。」
加藤は言った。
「私は敵空母の甲板に突っ込んだ。大破したと思う。
しかし、私の抱えていた爆弾で空母が沈没したかどうかは疑問です。しかし、甲板を爆発させましたから、戦闘機の利発着はできなくなったはずです。」
「そうか。それでいい。」
どこからか声が聞こえた。
「天皇陛下万歳。」
かすかに聞こえる。
「あの声は岡部憲次ではないか。」
「いや、小泉八郎だと思います。」
「そうかなあ。私には岡部の声に聞こえたのだが。」
二人は耳を澄ました。
「天皇陛下万歳。」
かすかに聞こえた。
「やっぱり岡部憲次だ。」
「いえ。小泉八郎です。」
「声のする方に行こう。」
二人は音速以上の速さで声のする方に移動した。近づくにつれて声は大きくなりはっきりと聞こえるようになった。岡部憲次と小泉八郎の声が重なっていてひとつの声になっていた。
「おうい。おかべー、こいずみー。」
加藤が叫んだが、声の速さと加藤の速さは同じくらいで声と一緒に岡部と小泉のいる場所に到着した。
「加藤。伊藤。」
「岡部。小泉。」
四人は再会を喜んだ。
「ここは天国ですかね。」
「天国なんだろうな。」
「いやいや。天国ではなくて、あの世だと思う。」
「天国とあの世は違うのか。」
「そりゃあ、違うだろう。あの世はひとつだが、天国は地獄もある。あの世から天国と地獄に別れるのだろう。」
「とすると、ここは仮の居場所というわけか。」
「そうだ。」
加藤と小泉は回りを見渡した。
「なにもありませんね。」
「なにもない。」
四方八方に障害物はひとつもなく遥か遠くまでなにもない。地平線も見えない。
「そう言えば、腹が空かない。」
「喉も渇かない。」
「そう言えばそうです。」
「今まで気づかなかったが、腹が空かない、喉が渇かないというのも不思議なものです。三度の食事の前は腹が空いた。水を飲まなければ喉が乾いた。でもここでは腹が空かないし喉も渇かない。なんか妙な感じです。ご飯を食べないで水も飲まないと死んでしまうとつい不安になるが、なんのことはない。私は死んだのです。腹が空かない、喉が渇かないということは死んだ証拠ですね、やっぱり私は死んだのですね、」
小泉は自分が死んだことにがっかりした。
「しょぼくれた顔をするな。私たちは天皇陛下のためににっくきアメリカ軍をやっつけたのだ。私たちは名誉ある戦死をしたのだ。胸を張れ小泉。」
加藤は小泉を叱咤した。
「はあ。」
小泉は肩を落とした。
「加藤。こいつは好きな女性がいてな。結婚する約束をしたのだが、結婚する前に特攻命令が下ったのだ。しょほくれるのも無理ない。」
「そうなのか、小泉。」
「はあ、まあ。」
小泉は口を濁した。
「日本男子がそのくらいでくよくよするな。我々は天皇の子として生まれ天皇のために死んでいくのを運命としているのだ。
『海ゆかばみずく屍
山ゆかば草むす屍
大君のへにこそしなべ』
だ。そうだったじゃないか。好きな女と結婚できなかったくらいでめそめそめしやがって。日本男子の恥だ。」
「加藤。そんなに小泉を責めるなよ。」
加藤は優柔不断な小泉にいらいらしていた。
「責めてはいない。当たり前のことを言っているだけだ。」
加藤の苛立った声に小泉はますます萎縮した。
「すみません。」
伊藤が小泉をかばった。
「勘弁してやれよ。人間なんだから完璧ではないんだ。好きな女性と結婚できなかったからがっくりするのもそれはそれでいいじゃないか。」
伊藤の意見に加藤はむっとした。
「伊藤。今日本はどんな状況か分かっているのか。国民総出で戦争をしているのだ。日本が戦争に勝つために老いも若きも男も女も命がけで戦っているのだ。そんな時代に好きな女性と結婚できなかったからめそめそめするなんて許されることではない。色恋にうつつをぬかすなんて許されないことだ。ぶん殴ってやりたい気持ちで一杯だ。」
「まあまあ。そんなに興奮するな加藤。お前は小泉を色恋にうつつを抜かしていると非難しているが、小泉は任務を立派に完遂したのだぞ。」
岡部は小泉を殴る勢いの加藤の肩を掴んで加藤を小泉から離した。
「小泉はな。航空母艦の司令室に突撃して司令室を木っ端微塵にしたのだ。そうだよな小泉。」
「は、はあ。」
加藤は小泉が航空母艦を大破させたことに感動した。
「すごい。それはすごい。すごいじゃないか小泉。」
「は、はあ。大破したかどうかは分からないです。なにしろ、爆発は見ていないので、爆発したかどうかは知りません。なにしろ、爆発する前に気を失ったものですから。」
岡部は笑った。
「そりゃあそうだ。爆発した瞬間に俺たちの肉体はバラバラになってしまう。つまり死んでしまう。逆にいえば気を失ったつまり死んだということが爆発をやった証拠になるんだよ小泉。」
「は、はあ。」
「自信を持てよ。お前は特別攻撃隊として立派に任務を果たしたのだ。」
「で、でも。」
「でも、なんだ。」
「いえ。なんでもありません。」
小泉は下を向いた。岡部は小泉の内心を知っているかのようににやにやした。
「航空母艦を大破した栄誉より好きな女性と一緒になれなかったことの方が小泉の衝撃は大きいということか。」
小泉は内心を見抜かれて慌てた。
「い、いえ。そんなことはありません。」
岡部は苦笑した。
「なあ小泉。俺たちは死んじまったんだ。なにくよくよしているんだ。ここでは嘘をつく必要はないんだ。ここはあの世なんだぜ。この世ではないんだ。分かっているのか。」
「はあ。まあ。」
まだ軍国主義真っ只中の現実に生きていた習性が小泉の体から抜けていなかった。本音をしゃべると密告されて憲兵に逮捕される恐怖が小泉の感性に残っていた。
「雪江さんと結婚できなかったことを悔やんでいるのだろう。ここはあの世だ。堂々と言っていいんだ。」
「いえ。とんでもありません。」
憲兵に聞かれたら大変であるとでもいうように小泉は岡部の口を覆って回りを見た。
「聞き捨てならん。」
加藤は怒った。
「結婚できなかったことを悔やんでめそめそしているのか。それでも日本男子か。お前は大日本帝国の人間として恥ずかしくないのか。天皇からもらった命なんだぞ。大日本帝国のために捧げることこそが最高の命のありかたなのだ。」
「はあ、はい。」
伊藤がにやにやした。
「加藤は恋を知らないなあ。知らないからそんな偉そうなことが言える。」
加藤は伊藤の言葉にむっとした。
「今は戦時下なのです。恋うんぬんにうつつを抜かしている場合ではありません。」
「おお、くわばらくわばら。」
伊藤は加藤をからかった。その時、遠くで声がした。四人は耳を澄ました。
「天皇陛下万歳。大日本帝国万歳。」
という声が聞こえた。四人は顔を見合わせた。
「石原の声ではないか。」
「清水の声も聞こえる。」
「赤木の声も混じっている。」
「鴨井の声も聞こえる。」
四人は各々声の主の名前を呼んだ。すると向こうからも加藤たちの名前を呼ぶ声がした。
「彼らもアメリカの艦隊に突撃したんだ。」
「ここの世界に来たということはそういうことだ。」
地平線の方に米粒ほどの黒い塊が見えそれが見る見るうちに大きくなってきた。
「加藤先輩。」
「伊藤先輩。」
「小泉先輩。」
「岡部先輩。」
石原、清水、赤城、鴨井は加藤たちの所にやってきた。
「おお。無事だったか。」
と加藤は言ってから途惑った。死んだのに無事と言うのは変である。
「はい。石原は無事敵艦船の横っ腹にぶち当たりました。」
「清水も敵艦船の横っ腹にぶち当たりました。」
「赤木は敵艦船にぶち当たりました。」
三人は成果を報告したが鴨井だけは黙っていた。加藤たちは鴨井の報告を期待して待ったが鴨井は首をうなだれて黙っていた。
「鴨井はどうだった。」
加藤が聞くと鴨井はますます体を縮めた。
「どうした鴨井。」
「鴨井は体当たりに失敗したのです。」
黙っている鴨井の代わりに石原が答えた。
「そうなのか鴨井。」
加藤が聞くと鴨井は黙っていた。
「鴨井。答えろ。」
加藤は厳しく言った。鴨井は首をうな垂れてじっとしていたが、加藤の詰問が次第に厳しくなっていったのに耐え切れずに鴨井は肩を震わせて泣いた。
「加藤。鴨井を責めるのはそれくらいにしろよ。鴨井だって敵軍艦に体当たりしようと頑張ったんだ。」
伊藤は鴨井をかばった。
「なに言っているんだ。日本は物資が少ないんだ。物を大事にしなければならないんだ。戦闘機一機、爆弾のひとつも粗末にしてはならないんだ。神風特攻隊は百発百中でなければならない。そのために人間が操縦して敵艦に体当たりしているのだ。鴨井は国民の血の一滴である零式戦闘機と爆弾を無駄にしてしまったのだ。」
加藤の反論に伊藤はなにも言えなかった。鴨井はわーっと泣いて土下座した。
「すみませんでしたー。」
岡部は鴨井を抱き起こした。
「加藤の言う通りであるだ。否定はしない。しかし、もう俺たちは死んだのだ。鴨井だって敵艦に突っ込む積もりでいたから死んだのだ。死んだ人間をそんなに責めるなよ。死んでも責められたらかわいそうだ。」
加藤は岡部の説得に納得する様子はなく憤然としていたが、、それ以上鴨井を責めることはしなかった。

海ゆかばみずく屍
山ゆかば草むす屍
おおきみの
へにこそ死なめ
かへり見はせじ

海に行ったならば 水に漬かった屍(死体)になり
山に行ったならば 草の生えた屍になって
天皇の 
お足元で死のう
後ろを振り返ることはしない

遠くから歌が聞こえてきた。
「あれは黒川の声だ。」

別の方からも歌が聞こえてきた。

ひとの嫌がる軍隊へ
志願で出て来る馬鹿もいる
お国のためとは言いながら
かわいいスーちゃんと生き別れ

加藤が不愉快な顔をした。
「諸星だ。」
小泉が言った。
「諸星さあーん。」
小泉は諸星を呼んだ。
「小泉かあー。」
暫くすると諸星の返事が聞こえてきた。小泉は諸星の声がする方に走って行った。
「黒川―。」
加藤は大声で黒川を呼んだ。
「加藤さんですかー。」
という声と一緒に黒川が音速で走ってきた。
「おう。黒川。」
「加藤さん。」
二人は手を固く握り合った。
「鬼畜米兵の敵軍艦へ体当たりしたか。」
加藤が聞くと、
「はい。しっかりと敵巡洋艦のどてっ腹に突っ込みました。」
「そうかそうか。よくやった。」
「ありがとうございます。天皇陛下万歳。」
「天皇陛下万歳。」
加藤と黒川が天皇陛下万歳をしたので他の連中も一緒に「天皇陛下万歳。」
「大日本国万歳。」
を斉唱した。黒川は

海ゆかばー

と歌い始めた。すると他の連中も

海ゆかばー

と合唱を始めた。なにもないだだっ広い空間に特攻隊員たちの「海ゆかば」が流れた。

遠くから海行かばを無視するように、

ここはお国を何百里
離れて遠き満州の赤い夕日に照らされて
友は野末の石の下

泣きながら歌う声が聞こえた。

「放送禁止の歌を歌っているのは誰だ。」
加藤が苦虫を噛んだように顔をゆがめて言った。
「斎藤文雄だと思います。彼はこの歌が好きでよく歌っていました。」
石原が言った。
「なにー。この歌は放送禁止にされている歌だぞ。日本国民の戦争への高揚を脆弱にさせる歌だ。お前はこんな下司な歌を歌っていたのか。」
「いえいえ。私は歌っていません。歌っていたのは斎藤です。私ではありません。」
加藤の剣幕にたじろぎながら石川は弁解した。
「説教してやる。斎藤を呼べ。」
石川は、
「斎藤。こっちに来い。」
大声で斎藤を呼んだ。すると斎藤の歌が止まった。加藤と石川は斎藤が来るのを待ったが斎藤は来なかった。
「ふざけた奴だ。石川。斎藤を呼べ。」
斎藤が来ないので加藤は怒った。
「斎藤。こっちに来い。」
石川は斎藤を呼んだ。しかし、斎藤は来なかった。
「斎藤。」
加藤が大声で呼んだ。しかし、斎藤は来なかった。加藤は苛立った。
「石川。斎藤を連れて来い。」
「はい。」
と答えて、石川は斎藤を探しに行こうとして躊躇した。戦友を歌った斎藤を連れてきて説教する必要があるかどうか疑問を感じた。斎藤も自分たちと一緒に神風特攻隊員として飛行場を飛び立った。そして、アメリカの軍艦に体当たりをして死んだ。神風特攻隊員としての任務を立派に遂行して死んだ斎藤を説教してなんになる。なんにもならない。
「あのう。加藤さん。」
石川は頭を掻きながら、
「斎藤は同じ場所にいるかどうか分からないし、こんなだだっ広い場所で斎藤を探すのは大変です。斎藤を探すのは勘弁させてください。」
「なに、お前は先輩の言うことが聞けないと言うのか。」
「いえ。決してそんなことではありません。ただ、斎藤を探し出すのは困難であると言っているのです。はい。」
石川の横柄な態度に加藤は頭にきた。
「文句を言うな。さっさと斎藤を探しに行け。」
死んだのだから殴られても痛くない。死んだのだから体は軽く正座を何時間やっても平気である。石川には体罰を食らう恐怖はなかった。軍隊のように罰として食事抜きにされてもお腹が減るということはない。
「すみません。無駄なことはやりたくないのです。」
「なにー。なにが無駄だ。」
加藤は石川に殴りかかろうとした。加藤を伊藤と岡部が止めた。

「おにいちゃあーん。」

遠くでか女の子のかわいい声がした。一同が始めて聞く仲間以外の声であった。一同は声のする方を見た。はるか彼方に米粒ほどの人の姿が見えた。

「おにいちゃあーん。」

一同は顔を見合わせた。一体誰の妹なのだろう。

「おにいちゃあーん。」

手を振りながら女の子は走ってくる。妹のいない岡部と石原は他の連中の顔をみまわした。妹はいないことを思い出した小泉も他の連中の顔を見た。女の子の顔がはっきりと見え加藤が
「ああ。」
と声を出し指で女の子を指したまま体を硬直させた。
「由美子。」
加藤の口から妹の名前が出た。加藤は集団から出て由美子の方に走った。

「ゆみこー。」

兄と妹はしっかりと抱き合った。
他の連中は肉親と出会った加藤を羨んだ。みんな口には出さないが、父、母、兄、姉、弟、妹に会えない寂しさを感じていた。生きていれば戦争が終われば親兄弟に会える。しかし、死んだら会うことができない。家族と遠く離れて生きていかなければならない孤独を噛み締めていた。
加藤はかわいい妹を抱きしめていたが、死んだ自分と同じ世界に妹がいることは妹も死んだということになることに気づいた。加藤は我に返り驚愕した。
「由美子。どうしてお前はここに居るのだ。」
由美子は兄に会えたうれしさに満ち溢れていた。由美子と加藤は年の離れた兄妹であり、一年ぶりの再会に由美子はうれしくてうれしくて加藤にずっとしがみついていた。加藤は由美子を強引に離した。
「由美子。どうしてここにいるのだ。」
「分からない。由美子は庭で遊んでいたの。それから急になにもない所に座っていたの。お家もない。お花もない。なにもない。変なところ。」
由美子は自分が死んだことを知っていない。なぜ由美子が死んだのだ。加藤は理解に苦しんだ。由美子は東京から祖母の住んでいる長崎に疎開した。由美子が死ぬはずはない。長崎も東京のように空爆されたのだろうか。
「由美子。爆弾が落ちてきて爆発したのか。」
由美子は考えたが爆撃機がやって来て爆弾を落とした記憶はなかった。
「爆弾は落ちて来なかったわ。」
「爆発はなかったのか。」
「なかったわ。」
「じゃあ、どうして由美子がここに居るのだ。」
「ここはどこなの。」
「由美子が来てはいけないところだ。」
「わたしが来てはいけないところなの。」
「そうだ。」
「お兄ちゃんは来てもいいところなの。」
加藤は喉がつまった。
「そ、そうだ。お兄ちゃんは神風特攻隊だからここに来る運命なのだ。」
「ふうん。」
由美子は理解できないことを理解しようとした。しかし、理解できない。加藤も妹の由美子が目の前に居ることが理解できなかった。

1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、アメリカ軍が日本の長崎県長崎市に原子爆弾を投下した。由美子を含め、一瞬のうちに約7万4千人が死亡した。長崎に原爆が落ちたことを特攻隊の加藤は知るはずもない。

 由美子が目の前に居る。由美子が死んだことは事実だ。否定することができない。でも由美子が死ぬはずはない。死ぬはずはない。でも由美子が目の前に居る。由美子の死を否定することはできない。
「理不尽だ理不尽だ理不尽だ。ここに居るはずがない由美子が居る。ここに居てはいけない由美子がいる。」
俺はアメリカ軍艦を沈没させた。鴨井は失敗した。失敗した鴨井の妹は無事でなぜ俺の妹は死んだのだ。おかしいぞ。」
鴨井はぼそぼそと言った。
「加藤は天皇陛下のために特攻したのじゃないか。妹がアメリカに殺されようが殺されまいが加藤には関係ないことじゃないか。加藤も天皇の子、妹も天皇の子だ。生き死にはお互いに関係のないことだ。そうだろう加藤。」
加藤は苛ついていた。
「鴨井。声が小さい。言いたいことがあったらはっきりと言え。お前はアメリカの軍艦に体当たりをし損なった。アメリカ軍に痛手を与えることもできなかった。俺は軍艦を沈没させた。それなのに俺の妹は戦死してお前の妹はゆうゆうと生きている。なぜだらしのない奴の妹は生きているのだ。さあ、答えろ鴨井。」
加藤は鴨井の胸倉を掴んだ。
「済みません。」
「なにが済みませんだ。このやろう。」
妹が死んだことで加藤は逆上していた。加藤に責められている内に鴨井は鬱積していた反発が増大していった。加藤への怒りが爆発した。鴨井は加藤の手を払いのけた。
「俺はな加藤。特攻隊になりたくなかった。もっと絵を描きたかった。しかし、それは許されない。特攻隊員となった時、俺の夢は鎖で縛られた。特攻隊員として出撃する時に俺は妹のために敵艦に体当たりすることを誓った。母のため父のために俺は敵艦に体当たりした。体当たりは失敗した。でも、それは運不運の問題だ。特攻隊として海の藻屑となった俺の願いはかなえられた。俺は妹が生きているだけで俺が特攻隊として出撃した意義はあると思っている。殴るなら殴れ。どうせ死んだ身体だ。痛くもなんともない。」
加藤は「くそくそくそくそ。」と言って悔やんだ。

「アメリカの軍艦は何千隻何万隻あるのだ。神風特攻隊の零式戦闘機の何十倍もあるのじゃないのか。これじゃあ神風特攻隊全機が突っ込んでもアメリカの軍艦は残るじゃないか。寒気がしてきた。」
「くそ。神風が吹かないのか。」
「やつらは神風も計算にしてしまうのさ。くそ。」
「どうすればアメリカをやっつけることができるのだ。」
「無理だ。とてもじゃないがアメリカに勝てる要素が見つからない。アメリカに勝てるのは大本営発表だけだよ。」

1945年8月15日
日本帝国配線で戦争は終わった。

終戦から75年
黄泉の国の神風特攻隊員たちは
どうしているのだろうか。



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