2015年10月22日

県民は翁長知事に騙されている



第1章 日本・沖縄の米軍基地はアジアの民主主義国家の平和に貢献している 第2章 戦後沖縄の非合法共産党・米民政府 第3章 辺野古移設の真実 第4章 辺野古埋め立ての真実 第5章 辺野古の真実を捻じ曲げた者たち 第6章 辺野古の真実を捻じ曲げた沖縄タイムス・琉球新報 第7章 辺野古の真実を捻じ曲げた翁長知事 第8章 辺野古の真実を捻じ曲げた落合恵子 第9章 辺野古の真実を捻じ曲げた宮崎駿 第10章 自民党県連批判 

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県民は翁長知事に騙されている

記者に承認取り消しという行為自体が、どのような歴史的な意義があるか。政府のこの問題に対する向き合い方についてどう考えるかと質問された翁長知事は、
「今回、承認の取り消しに至るわけでありますが、これは沖縄県の歴史的な流れ、あるいは戦後の70年のあり方、そして現在の0.6%に74%という沖縄の過重な基地負担ですね、過重な基地負担、こういったことがですね、まずしっかりと多くの県民や国民の前で議論がされるところに一つは意義があると思います」
と答えた。
県民は翁長知事の考えを素直に受け入れるだろう。しかし、事実ではないことが当たり前のように話すのが翁長知事の得意技である。沖縄は全国の0.6%の面積しかないのに74%の米軍基地がある。それは過重負担だと述べているが、事実は違う。事実は23%である。翁長知事のいう74%とは54%も開きあるのだ。その事実は平成12年に出版された「沖縄を蝕む一坪反戦地主」(著者 恵忠久)で指摘している。
「県民の多くは、そして県外の人々も『ホーオキナワには全国の七五%もの基地が、偏って偏在している。大田知事が基地撤去を声高に叫ぶのも無理ない』などと七五%の基地偏在を最大の恒久的理由として普天間基地の県内移転反対している者も少なくない。
 県総務部知事公室が毎年発行している、『米軍と自衛隊基地の統計資料集』では別表に示す通り、基地は、
北海道が三五%提供して全国一位であり、
沖縄は二位の二五%で、
三、四位は静岡県、大分県と続き、
沖縄県以外の二四都道府県が七五%の基地を提供しているのがしんそうである。七五%の基地提供とは沖縄県では無く、本土の二四都道府県である。
 われわれが、太田前知事に「七五%では無い」と注意したら、前知事は、その後は意識して米軍の専用面積が七五%だと言いはじめ、専用面積の言葉を付け加えてきた」
このように15年前に恵忠久氏は沖縄の米軍基地は25%と指摘している。しかも、その証拠は県総務部知事公室が毎年発行している、『米軍と自衛隊基地の統計資料集』にあったのだ。県知事や県会議員のが誰もが知っておくべき事実なのだ。それが15年後の現在でも沖縄の基地負担が大きいことを主張するために翁長知事は嘘の74%負担を強調するのである。
 復帰後、沖縄の米軍基地負担を削減するために沖縄での射撃訓練や離着陸訓練を本土の自衛隊基地に移した。だから自衛隊との共用となったのである。共有といっても米軍は自由に使用しているから専用と変わりはない。
 現在は15年前から2%減り、23%になっている。だから専用も74%に微減している。15年前に大田知事がやったごまかしを翁長知事もやっている。大田知事は革新派である。大田知事は反戦地主が軍用地更新の署名を拒否した時、知事は代理署名をしなければならなかったのにしなかった。代理署名は法律で決まったいたのに大田知事は代理署名を拒否したのである。それは違法であった。政府は訴訟を起こし、当然勝った。
 15年も前から沖縄の米軍基地は北海道より小さく25%であることを指摘されていたことにはびっくりしたが、それを今も大田知事のように翁長知事が隠ぺいしていることに歪んだ沖縄の政治に失望させられる。23%負担を74%負担と51%もサバ読むのはひどい。こんな嘘がまかり通るのならまともな政治論争なんて成り立たない。
 沖縄の専用基地は全国比で74%である。しかし、共用基地を含めると23%になる。共用基地は復帰後に沖縄の負担を減らすために自衛隊基地を使用したのである。だからで74%と23%との差の51%は復帰後に沖縄の負担を減らすために本土で増えた米軍基地である。政府は沖縄の負担を減らす努力をしたのである。しかし、翁長知事は政府が沖縄の負担を減らす努力をしなかった印象を与えるために74%負担と言って事実を隠ぺいしているのである。隠ぺいを根拠に沖縄の過重負担を強調する翁長知事は調子に乗って、地方自治体、国の問題に話を発展させる。

「もう一つは日本国全体からしても、地方自治体がこのようなところまで国にある意味では追い詰められると。私たちからすると日米両政府というのは大変大きな権力をもっておりますし、法律的な意味合いから言っても大変ある意味で大きな権力を相手にしているなというような感じをしています。
そういたしますと、基地問題はある意味では沖縄が中心的な課題を背負っているわけでありますが、これから日本の国の全体として地方自治のあり方が本当に一県、あるいはある地域に対してこういったこと等が起きた時の日本の将来のあり方というものについて、このものと今回のものは多くの国民に見ていただけるのではないかと思っております。
そういう意味からすると一義的に沖縄の基地問題、歴史等と含めてのことでありますが、日本の民主主義というそういったものに対して国民全体が考えていただけるような、そういうものになればいいのかなと思っております」
地方自治体は地方の政治をやり、国は国全体の政治をやる。政府が地方自治体より大きな権力を持っているのは当然のことである。しかし、地方には地方の自治権があり政府が地方の自治権を押さえたりすることはできない。一方地方の自治権は地方の政治をやるためにあるのだから地方の自治を超えて国の政治まで介入しようとすればそれは越権行為である。政府が地方の越権行為をいさめることになる。翁長知事は地方自治体の権利を超えようとして国にいさめられている状態が続いている。
 権力は地方より国のほうが強い。しかし、法律は平等である。自治体は国より小さいからといって差別することはないし政府に特別に味方をすることもない。日本は議会制民主主義国家であり、法治国家である。だから、法律的な意味合いで翁長知事が大きな権力を相手にしているというのは間違いである。最終的には裁判で決着をつけることになるがそれは法は政府と地方自治体に平等であるからである。
 米軍基地問題は日本全体から見れば小さいものである。日本に駐留している米兵は4万人である。それに比べて自衛隊は22万人である。わずか4万人の米兵が使用する基地は日本全体から見ればとても小さい。米軍が日本の将来と関係することはあり得ない。それに米軍基地が日本の民主主義に影響を与えることもない。ところが翁長知事は米軍基地が日本の民主主義に根本的な影響を与えるという幻想の世界に入っていく。だが、翁長知事自身が幻想の世界にはいったのではない。「0・6%の面積に74%の米軍基地がある」と言う翁長知事自身は本当は23%であることを知っている。知っているにも関わらず74%だというのである。翁長知事は県民に嘘をついているし、嘘をついていることを翁長知事自身はしっているのである。翁長知事が嘘をつく理由はひとつである。それは辺野古移設反対を選挙公約にして当選したから、なにがなんでも辺野古移設に反対することを正当化するためである。 

「さきほど来、あるいはこの1年といってもいいですし、この数十年といってもいいですが、0・6%の面積に74%という過重な負担を沖縄は負わされて参りました。
 なおかつ、戦後の二十数年、ある意味で日本国から切り離されて、日本人でもなくアメリカ人でもなく法的なもの、ある意味で守られるものも何もないような過ごした時期もありました。そういった中で何を沖縄は果たしてきたかといいますと、よく私がやっているのは自負もあるし無念さもあるというのは、日本の戦後の平和、あるいは高度経済成長、そういったこと等を、安全保障とともに沖縄が保障をしてきたというような部分は大変だというふうに思っております。その中で沖縄県民の人権や自由や平等、そういったものが、民主主義という意味でも大変この、認められるようなことがなかったということがあります」

翁長知事は自民党県連に所属していた保守の政治家である。革新なら復帰前の沖縄は米国の植民地であり沖縄県民の人権や自由や平等がなかったと主張してもおかしくないが保守の翁長知事が言うのはおかしい。
 沖縄の保守は祖国復帰に反対していた。復帰して米軍基地がなくなれば沖縄経済は戦前の「芋と裸足」の生活に戻ると主張した。それに対して革新側はたとえ「芋と裸足」の生活に戻るとしても日本は祖国であり、異民族支配から脱却して祖国に復帰するべきだと主張した。
 高校生の頃、私は祖国復帰運動に反発していた。復帰すれば「芋と裸足」の生活に戻ると思ったからではない。祖国復帰に反対したわけではない。高校生の私にとって復帰すれば生活がどうなるかということに関心はなかった。私が反発したの日本が祖国だから復帰するという考えだった。もし、日本が戦前のように軍国主義国家であっても祖国であれば復帰するのかという私の疑問があり、祖国復帰運動に反発した。祖国復帰運動には民主主義思想がなかった。祖国日本は民主主義国家である。民主主義国家である日本に復帰するというニュアンスがあれば私は祖国復帰運動に賛成していただろう。しかし、そのようなニュアンスはなかった。祖国復帰運動の象徴は日の丸であったし、学校では君が代を徹底して教えられ、新の正月では日の丸を掲げることを推奨された。日の丸と天皇崇拝の君が代が祖国復帰運動の象徴だった。
革マル派であった琉大自治会が1971年の県民大会で壇上を占拠して日の丸と星条旗を焼いたことが原因で私の友人であった町田は革新系の集団に殺害された。祖国復帰運動にとって日の丸は祖国日本の象徴として非常に大きな存在であった。祖国に復帰するならば「芋と裸足」の生活に戻ってもいいと祖国復帰運動家は断言したのである。民主主義のかけらもなかったのが祖国復帰運動であった。
 日本の教員は戦前は軍国主義を教育したのに戦後は180度転換して民主主義教育をしたという問題があるが、沖縄の教員は戦前は軍国主義教育をやり、戦後は復帰運動で日の丸、君が代教育したのに、復帰後は日の丸、君が代反対運動をしている。沖縄の教員は三度変わったのである。

 保守派にとって基地経済だけでなく、赤子から少年や青年になりかけていた沖縄の企業を守るためにも祖国復帰はまだ早いといって反対した。味噌、醤油、ラーメン、お菓子、酒、ビールなど1960年代は沖縄の企業が成長しつつある時代だった。沖縄の企業を守るために米民政府は本土からの輸入商品には高い関税をかけて沖縄産の商品を助けた。同級生の家は嘉手納町でラーメンを製造していた。規模は小さいが繁盛していた。60年代の沖縄では多くの企業が誕生していた。60年代は沖縄が生き生きしていた時代であったと私は思う。
 中学生のころから嘉手納町に映画館が増え、高校生になると4つもできた。映画ファンの私にとって最高だった。色々な店が次々と誕生していったのも60年代である。映画や音楽は日本だけでなくアメリカ、イギリス、フランス、イタリアの作品も楽しめた。
自由を享受している実感があった。それが沖縄のアメリカ世だったのだ。
小学5年生の時、琉球大学を卒業した新人教員の砂辺松一先生がクラス担任になったが、砂辺先生は戦前は金持ちしか大学に行けなかったが、戦後に琉球大学ができたので貧乏人でも大学に行けるようになったと言い、戦後の沖縄は庶民にとって暮らしやすくなったと言っていた。私の母は大正生まれであったが、女は学校に行くものではないと言われ、畑手伝いをさせられ小学校も満足に行けなかったと言っていた。
母は二人の兄が病死したという。父は兄が病死したという。医療が遅れている沖縄では死が隣り合わせであっただろう。戦前の沖縄は貧しく医療も遅れていたのだ。戦前に興味がある綿は母親から戦前の話をよく聞いた。戦前が貧しく「芋と裸足」の時代であったということは子供の時に知っていた。戦後の米軍統治時代の沖縄は戦前に比べると豊かで自由であったのだ。
戦前は男の子は糸満に売られ、女の子は那覇の遊郭に売られていた。糸数カメという民謡歌手は八歳の時に辻の遊郭に売られた。
糸数カメ(いとかず・かめ)[沖縄]
戦後の沖縄大衆歌謡を代表する素晴らしい女性シンガー。那覇市生まれ。1915~1991。8歳の時に辻遊郭へ引き取られる。辻では、沖縄芝居の大物、玉城盛義(たまぐすく・せいぎ)をはじめとした一流の人々に諸芸、武術を学び、その才能を開花させた。育ちが同じである船越キヨと並び、昭和の沖縄歌謡に大きな足跡を残す。歌手としては「夫婦船」「ナークニー」が代表作とされるが、幅広い芸能ジャンルで逸材ぶりを発揮した。

戦前は戦争についてどのように考えていたかを知るためのひとつの材料として軍人節を聞こうと思ってユーチューブで軍人節を探した。金城実 山里ユキと嘉手苅林昌 糸数カメ  (つらね)饒辺愛子の二つの軍人節があった。私は金城実、山里ユキ、嘉手苅林昌、饒辺愛子の4人の民謡歌手は知っていたが糸数カメは知らなかったのでgoogleで調べて、糸数カメが辻遊郭に売られた女性だと知った。
 金城実は沖縄民謡会の大御所であり有名な人であるが沖縄民謡が好きとまではいかない私は彼のことを知らなかった。私は金城実ではなく彼の娘である金城洋子さんを偶然知った。私が嘉手納ロータリーでレンタルビデオ店をやっていた時、琉装のきれいな女性がよくビデオを借りに来た。彼女の名前は金城洋子といい近くのだるまという琉球民謡クラブで歌っていると話した。金城洋子は「にいびちすがやー」というヒット曲を出した歌手である。彼女は民謡歌手になりたいとは思わなかったが父の実が姉妹のなかで彼女は歌手の才能があるからといって半ば強制的に民謡歌手にしたらしい。ヒット曲が出たのに彼女は結婚をして歌手活動から離れた。子供が手にかからないようになったので父金城実の民謡クラブで歌うようになったと話していた。しかし、だるまはすでに廃業している。民謡クラブで金城洋子のことを聞いたが知らないと言い、歌手活動を辞めたのかも知れないと言われた。
 気になるのでgoogleで検索したが彼女のCDの広告は載っているが彼女の活動については載っていなかった。しつこく探したら去年、本土で父の金城実と山里ユキの公演に出演していることが分かった。彼女が歌手活動をしているのでなんとなくほっとした。
 あの頃の私は尺八に熱中していた。那覇市の安謝に鳩坊というライブハウスがあって毎週読谷から通って尺八を吹いていた。カオスファイブというグループをつくってライブをしたこともある。歌手のサーミーと私は素人であったがドラム、ギター、ベースはプロという組み合わせだった。鳩坊で練習をして腕を磨いた。二回のライブをしただけでカオスファイブは解散したが充実した音楽の日々を過ごすことができた。楽しい日々だった。二十年くらい前の話である。
 数年前から三線を習いたいと思っていたが三線教室を見つけることができなかった。最近嘉手納町の新町通りを通ったら三線を教えるという垂れ幕があった。車から下りて垂れ幕のある建物を見たがスナックらしい部屋があるだけで三線教室はなかった。部屋は閉まっていた。
 夜行くと入口が開いていたので中に入った。中は民謡教室ではなく民謡クラブであった。与那嶺清通さんと國吉美奈さんの二人で舞台と接待をやっている「ちばりyo~」という小さな民謡クラブだ。三線は与那嶺さんが夜七時から教えているという。昼に通いたい私は迷った。迷ったまま数回「ちばりyo~」に行った。二人と話している内にライブをユーチューブに載せたほうがいいと私は言い、二人に勧めたが、二人はパソコンは持っていないし、アッブロードのやり方も知らないと言った。それじゃあ、最初は私がやるからと言い、二人にやる気が出たらユーチューブへのアップロードのやり方を教えると言った。酔った勢いで調子に乗って話したが、約束は守らなければならない。というわけでビデオカメラを持って「ちばりyo~」に行き、二人のライブを撮影し、家でユーチューブにアップロードした。それをブラグで紹介している。まだ、三線を習う決心はついていない。

 
軍人節の話に戻る。
軍人節を聞いて、貧しさからくる戦前の人の考えを感じたのが次の詞である。

(夫)軍人の務め我ね嬉さあしが 銭金の故に哀りみせる母親や如何がすら
○軍人の務め 私は嬉しいのだがお金の故に苦労される母親はどうしようか
(妻)例え困難に繋がれて居てんご心配みそな 母の事や思切みそり思里前
○例え困難に繋がっていても ご心配なされないで母のことは あきらめてください 貴方 

 借金のために母親が苦労することが気になるという夫に、例え母親が苦労することがあったとしても心配するなといい、母のことはあきらめろと妻は言う。つまり母のことは切り捨てろと言っているのである。日本の歌でこんな内容の詞を見たことがない。日本の歌なら母と一緒に留守家庭を守って夫の帰りを待つという内容になるだろう。借金の返済に妻である自分も協力するという内容になるはずである。ところが母のことはあきらめて心配することもやめろというのである。それが妻の夫に対する愛情として表現されているのである。沖縄の暗い奥底を見たような気がした。
 糸数カメの声はきれいである。発音がいい。私の耳は発音音痴のところがある。ビートたけしがなにを話しているかわからない時が多い。沖縄民謡もなにを言っているかわからない場合が多いが、糸数カメの声ははっきりと分かる。発音が非常に正確である。

沖縄民謡にほれ込み、本土だけでなく沖縄でも民謡の価値を高めたのが竹中労である。沖縄民謡を神話化したといってもいいのではないか。
「うたと踊りに感動して、この人のほっぺたにキッスをするべく、廊下をどたばた追っかけまわす、という醜態を私は演じた」ほどに糸数カメが魅力的な女性であったことは写真でも分かる。私は竹中労の沖縄民謡の神話化が嫌いだった。民謡の歌詞は前近代的なものであり、時代にあった歌謡曲のほうが私は好きだった。沖縄民謡の歌詞を知っている私と知らない本土の人間との違いがあると私は思っていた。
 私は小学6年生の時熱烈な赤木圭一郎のファンになった。ファンになってすぐに21歳の若さで圭一郎は死ぬが、彼の歌が好きでずっと歌っていた。高校一年生の時、アニマルズの「朝日のあたる家」を聞いた時は衝撃的だった。60年代は日本も世界も新しい映画や歌が次々と生まれた変革の時代だったと言える。変革と自由を味わえた時代が60年代だったと私は思う。沖縄に住んでいてもそれを感じることができた。高校三年生の時、雑誌にあったサイモン&ガーファンクルの写真が気に入り、サウンドオブサイレンスを雑誌にある日本語訳したのを楽譜を見ながら覚えたが、二年後にダスティン・ホフマン主人公の「卒業」でサウンドオブサイレンスが流れた。サウンドオブサイレンスは大ヒットした。私が日本語で歌うとガーファンクルの歌とは全然違うと笑われた。私は沖縄で自由を享受しながら生きていた。

 米軍が沖縄人を弾圧したことはなかった。コザ暴動のように米兵が集団で沖縄人を襲ったという事件の記憶はない。事件・事故は加害者が沖縄人である時は沖縄側が裁き、米兵だったら米軍が裁いた。沖縄人が米女性を暴行したら沖縄の警察が逮捕し沖縄の裁判で判決を下したのである。米軍が沖縄人を搾取することもなかった。それどころか米軍は莫大な援助をした。
 ベトナム戦争の時、嘉手納飛行場の騒音はひどかった。飛行場を爆破したい気持ちになるくらいであった。嘉手納町にジェット機の尻を向けてのエンジン調整するときの爆音はひどかった。嘉手納町民、読谷村民を差別した行為であったと言える。ただ、騒音の原因はベトナム戦争である。差別を目的にした行為ではないし、沖縄内で解決できる問題でもない。騒音被害をなくす要求はできない。少しでも騒音を緩和する要求しかできないものであった。ベトナム戦争が終わり、アジアが平和になるに従い嘉手納飛行場の爆音は減っていった。今でも爆音はあるし、ヘリコプターが頭上を飛ぶ。しかし、イライラさせるほどの騒音ではない。
爆音被害は嘉手納町、読谷村、北谷町などであった。昔から浦添市以南は騒音被害はなかった。南部に住んでいる人たちは沖縄二紙の報道で基地被害の情報を得ていた。
普通に生活している者にとって騒音などの基地被害で米軍基地を撤去するなんて考えない。米軍基地撤去運動は、米国は帝国主義であり沖縄を植民地支配しているという共産党の思想が根っこのほうにあるからである。
 琉球大学が首里にあった頃、二階の窓から読谷飛行場の像のオリが見えた。像のオリを見ながら講義を聞いていた。

 戦後捕虜になった心境を歌ったのが「PW無常」である。その心境を知るためにユーチューブで探すと驚いた。なんと若手の民謡歌手である上間綾乃が歌っていた。「PW無常」は捕虜になった男の歌である。捕虜になった惨めさを歌ったものであるから若い女性が歌うようなものではない。美人で明るい上間綾乃が歌っているのに私は驚いた。男が歌う「PW無常」を探したがなかった。
 
 戦前は、知事は中央政府から派遣する中央集権国家であった。地方の自治権は弱く、知事と官僚によって政治は行われた。沖縄が議会制社会になったのは戦後であり米軍の指導によって実現したのである。琉球政府の首席は米民政府による任命であったが、沖縄人が首長になったのは歴史上初めてである。米民政府の任命から立法院の指名、そして、公選選挙によって主席が選ばれるようになり、沖縄の民主化は米民政府時代に進んでいったのは事実である。戦前の社会と比べればそのことが理解できる。翁長知事は米民政府時代の民主化や経済発展を隠ぺいしているのである。
 米民政府時代を隠蔽し、復帰後の沖縄も隠ぺいしている翁長知事は自論を展開する。

「これはひとえに、沖縄一県に抑止力を含め基地の問題が閉じ込められて、本土の方々にご理解をいただけなかったというようなことがあったと思いますので、私は昨年の選挙では日本国民全体で日本の安全保障は考えてもらいたいということを強く訴えました。そして一県だけに安全保障を押しつけるということそのものが、日本の安全保障にとっては大変心もとない、やっぱり日本全体で安全保障を考えるという気概がなければ、日本という国がおそらく他の国からも理解されないだろうと、尊敬されないだろうという話もしてきたわけです」

 本土にも米軍基地はある。沖縄は73%ではなく23%の米軍基地があるのだから77%の米軍基地は実は本土にあることになる。本土の米軍基地のほうが3倍も大きいのである。
それに日本に駐留している米兵はわすが4万人足らずである。米兵に比べて自衛隊員は22万人である。自衛隊基地のほうが米軍基地に比べてはるかに大きいのは明らかである。。実は日本の防衛を担っているのは米軍よりも自衛隊である。日本防衛について話すなら自衛隊のことも話さなければならない。しかし、翁長知事は自衛隊のことを一切離さないで沖縄県の米軍のことだけを誇張して話す。米軍基地を理由に沖縄だけに安全保障を押し付けているというのは翁長知事の隠ぺいである。
日本全体で安全保障を考えるのは当然であるし、日本はずっと考えてきた。だから、アジアの国の中で日本は平和だったのである。日本は中国、韓国、ロシア以外のほとんどの国に理解され尊敬されている。その事実を知らない翁長知事は独りよがりの理屈をこねまわすだけである。翁長知事は国家論でも独りよがりの自論をこねまわす。

「これからも、そういったものをいろんな、きょうの記者会見もそうですが、いろんな場所でお知らせをして、そしてともに、沖縄問題もさることながら、地方自治というあり方ですね、そして日本の国の民主主義、あるいは中央集権みたいな格好に最近なってきてまいりましたので、こういったこと等の危険性、日常から非日常に紙一重で変わる一瞬のこの、変わらないことで止めきれるかどうか、変わってしまってからのものは私は過去の歴史からいうと大変厳しいものになろうかと思いますので、そういうことも含めてみんなで議論していけるような、そういったものにこの沖縄の基地問題が提示できればありがたいと思っています」

 、「サンフランシスコ条約」が発行された1951年から日本は議会制民主主義国家になった。日本の議会制民主主義の歴史は64年もある。現在の日本は翁長知事の気まぐれな民主主義が通用するような国ではない。今の日本が中央集権みたいな格好になっているという翁長知事の考えはバカらしい。
安倍政権で自民党の衆議員が3分の2以上になったのは国民が選挙で選んだのである。安倍政権が中央集権に見えるのは翁長知事が議会制民主主義の仕組みを理解していないからである。まあ、知事選で圧勝したのに安倍政権が自分の要求を聞き入れないから中央集権に見えるのだろうが、そう思うのは翁長知事の知事選で圧勝したといううぬぼれが原因である。安倍政権が中央集権政治になる危険性はない。そもそもどんな政権になろうとも今の日本が中央集権政治になることはない。 

根拠が不明の理論を振り回す翁長知事は「日常から非日常に紙一重で変わる一瞬のこの、変わらないことで止めきれるかどうか」と意味不明の言葉を発している。なぜ、気がおかしくなったのではないかと思わせるような発言をするかというと、辺野古移設は普天間飛行場を移設するというスケールの小さい問題であるのに、翁長知事は辺野古移設を阻止するために辺野古移設を米軍基地問題や中央政府と沖縄の対決などと現実離れした話に拡大したからである。
翁長知事の話は県民支持を得るためには効果的である。しかし、辺野古移設を阻止するためには県民の支持の拡大では実現できない。政府との対決に勝たなければならない。それは法律上の対決である。翁長知事にとって困難な対決である。

2015/10/16 に公開
平成27年10月15日木曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、キャスターの又吉康­隆氏が「一国平和主義からアジア平和主義へ」、自身が出版した本「ジュゴンを食べた話­」の解説、コラムコーナーでは翁長知事の埋立承認取り消しについて批判していきます。
※ネット生放送配信:平成27年月10月15日、19:00~
出演:
  又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)



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この記事へのコメント
74%は米軍専用基地の面積
23%は自衛隊と米軍の共用基地の面積

どちらも間違っていません。
Posted by ゆーや at 2016年06月20日 13:00
 
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