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2017年09月28日

チビチリガマは彼らのイデオロギーの私有物



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チビチリガマは彼らのイデオロギーの私有物
 読谷村波平のチビチリガマが、12日午前までに荒らされていたことが分かった。ひどい荒らされ方であった。
 折り鶴が引きちぎられ、ガマの入り口にある「世代を結ぶ平和の像」の石垣が破壊されていた。立ち入り禁止の看板も倒されていた。それだけにとどまらない。壕内では集められた入れ歯は散らかり、真っ暗な場所に集められていた遺品のつぼやガラス瓶は粉々に割られ、遺骨が残る地面に散らばっていた。

 チビチリガマが荒らされたという報道があった時、すぐに頭に浮かんだのが「右翼」だった。しかし、「右翼」がチビチリガマを荒らすはずはないと考えてすぐに「右翼」の犯行を打ち消した。
 「右翼」がチビチリガマを荒らすはずがない。むしろ、「右翼」はチビチリガマの自決には反感ではなく敬意があると私は思っている。
 自決したのは米軍の捕虜になることを拒否したからである。それは日本軍が国民に求めたことである。自決した人の中には「天皇陛下バンザイ」と叫んだ人も居た。そのように自決した人々を「右翼」なら敬うことはあっても嫌うことは絶対にない。「右翼」にとってもチビチリガマは神聖な場所であるのだ。神聖な場所であるチビチリガマを「右翼」が荒らすはずがない。

 1987年、チビチリガマの「平和の像」が右翼団体員によって破壊されたというが、「右翼」は「平和の像」に反感があり破壊したのであって、チビチリガマの自決に反感があったのではない。知花氏は「中の遺品や遺骨は無事だった」と述べているが、当然である。

「平和の像」の破壊は1987年10月6日に地元で開催された沖縄国体のソフトボール会場で球場に掲揚されていた日章旗を知花昌一氏(当時39歳)が焼き捨てた行為(日の丸焼き捨て事件)に対する右翼による報復行為であった。
 現場には「国旗燃ヤス村ニ平和ワ早スギル天誅ヲ下ス」との犯行文が残されていた。
 「平和の像」は彫刻家金城実氏が作成したものであり、右翼からは知花昌一氏と金城実氏は仲間である。だから破壊したのである。金城氏は沖縄靖国訴訟原告団の団長を務めている。

日の丸焼き捨て事件
沖縄県の本土復帰までは日章旗は米軍による占領支配からの解放の象徴であったが、復帰後も米軍基地が相変わらず存在する現状に変わりなく、米軍に加え日本政府に対する反発が根強くあり、そのことが日章旗焼き捨て行為に走らせた背景があった。知花昌一氏は器物損壊罪(刑法261条 なお、刑法92条で規定される国旗損壊罪の対象は外国の国旗であり日本の国旗は対象にならない)で起訴され、1995年に執行猶予付きの有罪判決が那覇地裁から下された。

知花昌一氏に対する右翼側の報復はひどかった。彼が経営していた商店を買い物客が入れないように車で囲み、放火もした。右翼は商店だけでなく彼の家にも押しかけ脅した。知花氏は殺されるかも知れないという恐怖に襲われながら、しかし、右翼には負けない気持ちで頑張った。
波平区民は結束力が強く、知花氏も区民の信頼が厚かったので商店の売り上げはむしろ上がったらしい。
1987年12月19日に右翼団体のメンバー2人が暴力行為等処罰法違反で逮捕され、のちに実刑の有罪判決を受けた。

鎮魂のために建立された平和の塔が破壊されたことに対し、遺族会が「犠牲者は2度殺された」と嘆いたというが、右翼が破壊したのは知花氏と同じイデオロギーの金城実氏が作成した平和の塔から破壊したのであって、チビチリガマの破壊ではなかった。
 右翼にとって「天皇陛下万歳」といって自決したチビチリガマは神聖な場所である。神聖なチビチリガマを破壊するというのは考えられない。
遺族会やチビチリガマ保存会と右翼が違うのは、遺族会やチビチリガマ保存会はチビチリガマの自決は神聖なものではなく、沖縄戦の犠牲となった強制集団死であり無念の死であり、日本政府に殺された死であると考えていることである。
石原昌家・沖縄国際大名誉教授(平和学)は「今回で3度『殺された』」と述べている。遺族会やチビチリガマ保存会にとっては死んだ人たちは自決したのではなく殺されたのである。

 「右翼」が反発しているのは、日章旗を焼いた知花昌一氏のようにチビチリガマで自決した人々は沖縄戦の犠牲者、殺されたという思想があり、右翼はその思想に反感を持っていたのである。知花氏の思想の象徴が「平和の像」だから「右翼」は「平和の像」を破壊したのである。「右翼」が破壊したのはチビチリガマではなくチビチリガマの死を「殺された」とするイデオロギーの象徴である平和の像であった。

 チビチリガマを荒らした犯人は「右翼」ではなく、本島中部に住む16~19歳の無職と型枠解体工の少年4人であった。彼らはチビチリガマを心霊スポットと思い、心霊スポットで肝試しをしたという。

 報道記事を読んで驚いたことがある。チビチリガマにまだ死者の入れ歯や骨があることだ。死んだ人の骨や歯は墓に入れるべきである。まさかチビチリガマに骨があるとは予想だにしなかった。考えられないことである。なぜ、終戦から70年以上も経つのに死者の遺品や歯や骨がチビチリガマにあるのか。
 
歯や骨がある理由が分かった。チビチリガマは墓でもあるようだ。「今も骨片が残り、遺族が神聖な墓と位置付ける壕」という記事があった。
チビチリガマは遺族会が管理し、読谷村が文化財に指定しているが、チビチリガマは墓でもあるし文化財でもあるということのようだ。文化財にしたことは理解できるが墓にしたことは理解できない。
墓であるなら何人も入れないように入口を塞ぐはずである。墓とはそういうものだ。しかし、チビチリガマは塞いでいない。親族ではない赤の他人でも歯や骨があるところまで行ける。ということは、墓というよりチビチリガマは歯や骨を晒しものにしている場所であると言える。

私はあの世の存在を信じていない。霊の存在も信じていない。無論神の存在も信じていない。だから、死んだときに墓に入りたいとは思っていない。死んだら骨を粉々にして海に撒いてほしいと思っている。ただ、粉にするのは息子にとってきついだろうから、海に散骨してもらいたいと思っている。
そんな私でも自分の骨を人の目に触れるような場所に置いてほしくない。ところがチビチリガマでは人の目に触れる場所に自決した人の歯や骨を置いてあるのである。
あの世の存在を信じ霊を信じるなら、歯や骨を人の目につくガマに置かないはずである。ガマは湿気が高いし骨が痛んでボロボロになりやすい。骨にも霊が宿っていると思うなら骨が痛まないように壺に入れ墓に入れるだろう。
なぜ、チビチリガマに歯や骨を置いているのだろうか。引き取る家族が居ないからだろうか。であるならばチビチリガマを文化財に指定した村が墓をつくって骨を納めて魂を安らかにさせるべきである。なぜそれをやらないのか。

チビチリガマが荒らされたことを知った時の遺族会会長、知花昌一氏、読谷村議会長の発言から骨を晒し物にしている理由が予想できる。

遺族会会長の与那覇徳雄さん(63)は
「なぜこんなことが起こったのか。許してはならない。遺族はまた苦しむ。だが、また立ち上がって平和を発信したい。こんなものには負けない」
と話した。

知花氏は、
「今回はより悪質。集団自決を生き延び、罪の意識に苦しんできた遺族にとって、ここは単なる墓ではない。沖縄戦の犠牲者を再び殺す行為であり、沖縄の苦しい歴史をあざ笑う卑劣な行為だ」
と怒りをあらわにした。

読谷村議会の伊波篤議長は
「遺族や生き残った方への冒涜(ぼうとく)であり絶対に許してはならない」
と強い怒りを表した。

 三者ともチビチリガマを荒らした犯人への怒りが激しい。彼らには魂が安らかに眠る場所を荒らされたという悲しみを感じないし、管理する者として荒らされてしまった責任から死者の魂に詫びる感情も彼らに感じられない。彼らに感じられるのは犯人への激しい怒りである。
 
チビチリガマは、1987年11月にも平和の像が破壊されている。その時にはガマの中は荒らされていない。しかし、平和の像が破壊されたということは、いずれガマの中も荒らされるかもしれないと予想するのが普通である。ガマが荒らされても、せめて死者の遺品や骨に被害が及ばないように、それらのものをガマから撤去して人の手に触れることがない場所に移すべきである。内部への立ち入りを禁止する看板があるというがチビチリガマを荒らすことを目的にしている人間にはなんの効果もない。
なぜ、遺品、歯、骨をチビチリガマに置いてあるのか。集団自決現場の生々しさを感じさせるためではないかと憶測してしまう。墓にするならば壁で閉じて骨などは見えない状態するはずである。しかし、墓であると言いながら閉じていないのは遺品、歯、骨をチビチリガマに訪れた人たちに見せるためであるとしか考えられない。72年前に自決した人の遺品、歯、骨を見れば、チビチリガマが生々しくなり72年前の悲惨な状態を想像してしまう。
その効果を狙っていると思わざるをえない。知花氏はチビチリガマは単なる墓ではなく、沖縄戦の犠牲者の墓であることを強調している。彼の発言からも効果を狙っているとしか思えない。
遺族会会長の与那覇徳雄さん(63)は「なぜこんなことが起こったのか。許してはならない。遺族はまた苦しむ。だが、また立ち上がって平和を発信したい。こんなものには負けない」と言った。
伊波議長は「戦後72年がたち、語り部が減る中で、戦世の悲惨さを伝えるためチビチリガマを記録で残そうという思いがある」と言った。
遺族や読谷村にとってチビチリガマは自決した人たちの魂を安らかにする場所ではなく、自決した人達は沖縄戦の犠牲者であるという彼らのイデオロギーを外に向かって発信する場所であるのだ。
チビチリガマを参拝するには彼らのイデオロギーと同じ人間でなければならない。
本土のソフトボールのチームが来た時、チームの監督がチビチリガマで参拝しようとしたら知花昌一氏が立ちはだかり参拝をさせなかったことがあった。チビチリガマは村の文化財であり墓であるけれども誰でも参拝できるという場所ではないようである。特定の思想の人間しか参拝はできないようである。

チビチリガマが少年たちに荒らされた後に本土の学生を引率してきた清水耕介教授は、
「内向きで右傾化する社会の流れとの関係が思い浮かんだ。平和学習に対する非常に強いバックラッシュ(反動)があるのは事実。平和も人権も勝ち取るものであることを学生には学んでほしい」
と述べた。清水耕介教授のような右傾化に反対する人の参拝は歓迎されている。
9・29県民大会決議を実現させる会はチビチリガマ内部が荒らされたことを受け、
「極めて異常な形で死に追い込まれた人々が生の道を奪われ、無念の思いが込められた場所である。極めて独りよがりの思いで、好き勝手に破壊を続けた行為を断じて許すことはできない。満腔(まんこう)の怒りを込めて抗議の意志を表明する」とアピール文を発表した。

 まだ、荒らした犯人が逮捕されていない時の彼らの反応は、チビチリガマを荒らした犯人はチビチリガマの歴史を知っている者であり、犯人は悪意で破壊したと決めつけている。
そのように犯人像を決めつけてこれほどまでに怒るのは本当は彼らのイデオロギーが原因である。彼らのイデオロギーこそが悪意ある犯人像をつくり上げている。そして、自分勝手にイメージした犯人に怒っているのである。

 チビチリガマの自決した人の骨や歯や遺品は彼らのイデオロギーによって私物化をされていると言って過言ではない。
 
 沖縄では亡くなった時に法事が初七日に始まり一周忌、七周忌、二十一周忌と回を重ねていくが、法事をするのは三十三回忌が最後である。死んだ人の魂は法事を重ねる度に天国への入り口が近づき、33回忌でやっと天国に入れるからである。だから、三十三回忌で神様になるので、三十三回忌はお祝い事になる。三十三回忌では紅白饅頭が配られ、香典ではなく「ご祝儀」を納める。

 チビチリガマで自決した人達の魂も戦争の恨み辛みを乗り越えてすでに神様になっている。
 チビチリガマを文化財にしているのなら、魂は神様になったのだから、右翼とか左翼とかの思想を乗り越えて、チビチリガマの自決に対して参拝したい人全てに参拝してもらうようにしたほうがいいのではないだろうか。

 そして、チビチリガマの骨、歯、遺品は全て撤去するべきである。

 チビチリガマで自決した神になった人たちの魂は、チビチリガマを荒らした少年たちに微笑みながら、彼らを許しただろう。
 しかし、神になった魂とは違い、遺族会、読谷村議員、知花昌一氏たちはイデオロギーに凝り固まっているがゆえに怒りと非難に終始している。
 彼らはチビチリガマの死者の魂が神になるのを許さないで彼らのイデオロギーの中に閉じ込めている。そして、彼らの思い通りにチビチリガマの魂を扱っている。彼らはチビチリガマで自決した人達の魂を彼らのイデオロギーによって私物化しているのである。

 チビチリガマの集団自決は読谷村HPに詳しく掲載している。毒薬を注射したという看護婦の知花※※への思い出も載っている。彼女は満州から沖縄に来たが満州には恋人が居て、彼と離ればなれになったことに悩んでいたという。
 同じ波平にあるシムクガマでは集団自決から免れた。シムクガマには一〇〇〇人前後の人が避難していたが、ハワイからの帰国者である比嘉平治(当時七十二歳)と比嘉平三(当時六十三歳)の二人が、「アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は人を殺さないよ)」と、騒ぐ避難者たちをなだめ説得して、ついに投降へと導いた。
 沖縄戦の時多くのアメリカ帰りの人が居た。彼らの居た壕では彼らが「アメリカーガー、チュォクルサンドー」と壕内の避難民を説得したり、直接アメリカ兵と交渉して、死者を出さなかった。
沖縄戦の時にアメリカ帰りの人が多かったのは、明治時代に沖縄の貧困を助けるために當山久三氏がアメリカ移民を始めたからである。アメリカ移民といっても永住をするのではなく、ハワイなどのパイナップル畑で働いて、お金を貯めて沖縄に帰る目的の移民であった。いわゆる出稼ぎである。だから、沖縄戦の時、多くのアメリカ帰りの人がいたのである。
昭和初期から沖縄はソテツ地獄という不況時代が続いた。貧困から逃れるために多くの県民が海外移民をした。當山久三氏は多くの県民を貧困から救っただけでなく、沖縄戦では多くの県民の命も救ったのである。當山久三に感動する。
 
 読谷村のHPに掲載している「チビチリガマの集団自決」、「知花看護婦の思いで」、「集団自決を免れたシムクガマ」を紹介する。
チビチリガマの集団自決
三月末から激しい爆撃があり読谷村の住民は近隣の者、多くはいくつかの親類で集まってガマで寝起きするようになった。チビチリガマは、読谷村字波平の集落から西へ五〇〇メートルほど行った所にあり、深さ一〇メートルほどのV字型をした谷の底にある。集落内に源をもつ湧水が流れ出て小さな川をなし、それが流れ込む所に位置し、川が尻切れる所といった意味から「チビチリ」(尻切れ)という名が付いたと考えられている。米軍が上陸した海岸からは八〇〇メートルほど内陸である。
四月一日、米軍に発見されたチビチリガマの避難民は「デテキナサイ、コロシマセン」という米兵の言葉が信用できず、逆に竹槍を持って反撃に出た。上陸直後のため敵の人数もそう多くはないと思い込んだのが間違いだった。ガマの上には戦車と米兵が集結、竹槍で突っ込んでくる避難民に機関銃を撃ち、手榴弾を投げ込んだ。この衝突で二人が重症を負い、その後死亡した。避難民の恐怖心はさらに高まった。
米軍の上陸を目のあたりにしたその日、南洋(サイパン)帰りの二人が初めて「自決」を口にした。焼死や窒息死についてサイパンでの事例を挙げ着物や毛布などに火を付けようとした。
それを見た避難民たちの間では「自決」の賛否について、両派に分かれて激しく対立し、口論が湧き起こった。
二人の男は怒りに狂って火を付けた。放っておけば犠牲者はもっと増えたに違いない。その時、四人の女性が反発し、火を消し止めた。四人には幼い子がおり、生命の大切さを身をもって知っていたからだ。結局、その日は大事には至らなかったが、「自決派」と「反自決派」のいさかいはその後も続いた。
前日の突撃で米軍の戦力の強さを思い知らされた避難民は一睡も出来ないまま二日を迎えた。
前日に無血上陸を果たした米兵が再度ガマに入ってきて「デテキナサイ、コロシマセン」と降伏を呼び掛け、食べ物を置いていった。
その間にもいくつかの悲劇は起きていた。十八歳の少女が母の手にかかり死亡したり、看護婦の知花※※らのように毒薬を注射して「自決」した人々もいた。「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んだのは一四、五人ほどだったという。
横たわる死体。そこへ再び入ってきた米兵…。ガマの中の混乱は極限に達していた。そんな中ひもじさの余り米兵の持ってきた食べ物を口にする者もいたが、毒が入っているから絶対食べるなと頑として応じない者もおり、避難民は生か死かの選択が迫られていた。
煙で苦しんで死ぬより、アメリカーに撃たれて楽に死のうとガマを出た人もいた。しかし、大半はガマでの「自決」を覚悟していたようだ。
そして毛布などについに火がつけられた。前日は止めたが、もうそれを止めることはできなかった。奥にいた人たちは死を覚悟して、「自決」していった。煙に包まれる中、「天皇陛下バンザイ」を叫んでのことだった。そこに見られたのは地獄絵図さながらの惨状だった。
避難民約一四〇人のうち八十三人が「集団自決」という形で亡くなるというチビチリガマでの一大惨事だが、真相が明らかになったのは戦後三十八年たってからであった。全犠牲者の約六割が十八歳以下の子どもたちであったことも改めて判明した。
数十人はガマを出て米軍に投降した。ガマを出たとたん米兵に大歓迎を受けたと感じる者も殺されるのではないかと思っていた者もいた。

知花※※さんの思い出 玉城※※(字儀間)

 昭和十九年当時、私は大山医院で住み込みの看護婦をしていて、後にチビチリガマで「自決」された知花※※さんとは、とても親しくしていました。みんなは「※※ちゃん」とか「※※さん」とか呼んでいました。彼女は「満州」で従軍看護婦をしていたそうですが、そこで知り合った本土出身の男性との結婚の了解を得るため、両親のもとにいったん帰って来たのだそうです。しかし戦況が悪化して「満州」に戻ることができなくなり、しばらくは大山医院で働いていたそうですが、私が大山医院に勤める頃からは、北飛行場の医務室で看護婦として働いていました。
 彼女は、医務室の薬が切れると大山医院に取りに来たりするので、話をする機会がよくありました。当時は女に生まれて、国のために何が出来るかと考えると、従軍看護婦の道ぐらいしかありませんから、私は従軍して戦場で働き、天皇陛下のために死のうと考えていました。しかし諸事情から、従軍看護婦の道を諦めざるを得なかった私にとって、「満州」で従軍看護婦をしていた彼女は憧れのお姉さんでした。とても有能な人で、看護婦の免許のほかに産婆の免許を持ち、話すことも知的でいつも希望に燃えていました。国のためにという熱意にあふれて力強く話す姿は、今でいうと政治家の土井たか子に似ていました。
 「※※ちゃん頑張るんだよ、大和魂で負けたらいかんよ。最後の最後まで頑張らんといかんよ。最後はどうなるか分からんし、私もどうなっていくのかわからんけど、もし戦争に負けることになったら、生きるんじゃないよ。自分で死んだほうがいい、捕虜になったら虐待されて殺されるんだから」彼女はそう言うと、「満州」で「支那事変」帰りの兵隊に聞いた「戦場での女の哀れ話」を私にも話して聞かせるのでした。その話は非常に恐ろしく、敗戦国の女性がどんな目に遭うのか私にまざまざと感じさせるものでした。
 そういった姿の一方では、彼女には女性らしい面も多くありました。戦争が激しくなると、「満州」にいる恋人のことが心配で落ち着かなかったのでしょう、大山医院の院長先生に相談に来ることもありました。「ねえ、先生、どうしよう、どうしよう」と彼女が言うと、医院長先生は「どうもこうもない。戦争だぞ。お前はもう、ここで働きなさい。満州には帰れないだろう、そうでないと一人の恋人のために命を捨てることになるぞ」と彼女をたしなめていました。
 彼女は「満州」にいる恋人のことを思ってか、さびしく歌をうたったりすることもありましたが、あの姿を思い出すと今でも胸が痛くなります。でも暫くたってから、思いをふっきったのか「私は満州に行けなくなって良かった。家族の面倒がみれるから」と言っていました。
 彼女と一緒にいたのは僅かの間ですが、たくさんの思い出があります。本当に、大好きな人でした。
 ※※さんは戦後、チビチリガマの「自決」のことが明るみに出てから、いろいろ思われたようですが、私は彼女が悪いんじゃない、すべて日本の教育が間違っていたんだと思います。彼女は日本の教育をまともに受けただけなんです。日本の教育が、彼女を「大和魂の女性」にしたんだと思います。
「読谷村史・それぞれの体験」

集団自決を免れたシムクガマ
なお、同じ読谷村内でもチビチリガマがら六〇〇メートル離れたシムクガマに避難した約一〇〇〇人は英語の喋れる男性の誘導で一人も死ぬことなく投降した。こうした経緯は一九八三年ころまでまったく明らかにされなかった、それは率先して死のうと言った者も、その結果死にたくないのに死んだ者も、またその恨みを持つ者それぞれが同じ集落内の隣人や近親者であり、この「集団自決」の忌まわしい記憶を呼び覚ます事に強い抵抗があったからである。読谷村の集団自決については読谷村史がWEB上で公開している。

 シムクガマは波平又川原(マタガーバル)に洞口を開いた天然の鍾乳洞です。資料によると、「洞口はアガリシムクとイリシムクの二つあり、総延長二五七〇メートル」ある。
一九四五年(昭和二十)三月、アメリカ軍の空襲は日を追って激しくなり、やがて艦砲射撃も始まるようになると、波平では約一〇〇〇人の字民がこの洞窟に避難するようになった。
 やがてアメリカ軍の沖縄本島上陸の日、激しい砲爆撃の後、アメリカ軍は読谷山村の西海岸から怒濤(どとう)のような勢いで進撃してきて、戦車をともなったその一部は、シムクガマに迫って来た。
 アメリカ兵が銃を構えて洞窟入口に向かってくると、人々は恐怖の余りうろたえ、洞窟内は大混乱に陥った。いよいよ殺されるのだと、洞窟の奥へ逃げ込もうとするが、足の踏み場もなかった。
 その時、ハワイからの帰国者、比嘉平治(当時七十二歳)と比嘉平三(当時六十三歳)の二人が、「アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は人を殺さないよ)」と、騒ぐ避難者たちをなだめ説得して、ついに投降へと導き、一〇〇〇人前後の避難民の命が助かった。この事実に基づいて波平では、命を救った二人の先輩に感謝の意をこめて洞窟内に記念碑を建立してある。


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Posted by ヒジャイ at 01:26│Comments(0)沖縄の知識人批判
 
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