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2017年06月13日

沖縄内なる民主主義」の初版で大田昌秀批判を掲載した。



新発売・沖縄内なる民主主義12 A5版  定価1490円(税込み)
新発売・違法行為を繰り返す沖縄革新に未来はあるか 定価1404円(税込み)

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chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

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「沖縄内なる民主主義」の初版で大田昌秀批判を掲載した。
琉球新報
大田昌秀氏が死去 沖縄県知事、参院議員など歴任
2017年6月12日 14:49
 鉄血勤皇隊として苛烈な沖縄戦を体験し、沖縄県知事や参院議員などを歴任し、基地問題の解決や平和行政の推進、県経済の発展などに取り組んだ大田昌秀(おおた・まさひで)氏が12日午前11時50分、呼吸不全・肺炎のため那覇市内の病院で死去した。92歳。久米島町出身。

 大田氏は1925年生まれ。45年、県師範学校在学中に鉄血勤皇隊に動員され、九死に一生を得た。早稲田大学を卒業後、米国に留学し、後に金門クラブの会員にもなった。68年に琉球大教授に就任し、メディア社会学を専攻し、新聞研究・報道研究などに従事した。1990年に革新統一候補として県知事選に出馬し、現職だった故・西銘順治氏を破り、12年ぶりに県政を革新に奪還した。歴代知事が問われる沖縄の心について「平和を愛する共生の心」と表現したことで知られる。

 任期中の95年には平和の礎や県公文書館を建設し、平和祈念資料館の移転、改築にも着手した。96年には、基地のない沖縄の将来像を描き、沖縄の自立的発展を目指した「国際都市形成構想」を策定した。さらに、段階的に米軍基地を全面返還させるとした「基地返還アクションプログラム」をまとめ、国に提案した。国際都市形成構想の理念は現在の沖縄振興計画「沖縄21世紀ビジョン計画」に引き継がれている。

 基地問題を巡っては、歴代知事では最多の計7回訪米し、基地の整理縮小などを直接訴えた。95年には、米兵による少女乱暴事件が発生。地主が契約を拒んだ軍用地について、地主に変わって土地調書に署名押印する代理署名を拒否し、国に提訴された。

 98年の知事選で稲嶺恵一氏に敗れたが、2001年の参院選に社民党から出馬し、当選した。07年の参院選には出馬せず政界を引退した。

 研究者としての顔も知られ、とりわけ沖縄戦や高等弁務官の調査研究に力を注ぎ、住民視点から沖縄戦とその後の米軍統治下時代の実相を広く世に伝えた。著書は「沖縄―戦争と平和」「醜い日本人」「沖縄のこころ―沖縄戦と私」「沖縄 平和の礎」「これが沖縄戦だ」「総史沖縄戦」「沖縄の民衆意識」など70冊を超える。1998年には、沖縄研究で顕著な業績を挙げたとして東恩納寛惇賞を受けたほか、2009年には琉球新報賞を受賞した。2017年には、ノーベル平和賞候補にノミネートされた
                   (琉球新報)

2011年11月に「かみつく」を出版した。4冊目から「沖縄内なる民主主義」に改名した。「かみつく」1号で私が書いたのが太田昌秀批判であった。
元県知事・太田昌秀にかみつく
太田昌秀さんにかみつくための本を探す
 
無名の人間が有名人になるには有名人にかみつくのが一番てっとりばやい方法である。私は有名人になりたい無名な人間である。無名な私は有名人になりたいから有名人にかみつくことにした。最初に誰にかみつくかあれこれと考えた。考えた末に最初にかみつくのを太田昌秀さんに決めた。なにしろ太田昌秀さんは元琉大教授であり、元沖縄県知事であり、元国会議員である。沖縄では超がつくほどの有名な人だ。太田昌秀さんにかみついて、うまくいけば私は有名になれるかもしれない。こんな私の思いつきを、安直な考えだと笑う者がいるだろう。笑いたい者は笑えばいい。なんと身の程知らずの人間だとあきれる者がいるだろう。身の程知らずで悪かったな。万が一有名人になれたら最高じゃないか。えげつないやり方だと軽蔑する者もいるだろう。軽蔑するならけっこうけだらけ、ファックユーだぜ。勇気のある人間だと感心する人間がいるかどうかは知らないが、とにかく、無名な人間が有名人になるには有名人にかみつくのが一番てっとりばやいのは確かなのだ。
さて、かみつくにはどうすればいいか。
その方法は決まっている。太田昌秀さんの書いた本を買って読むことだ。そして、本の中からかみつくことができそうな文章を探すのだ。
 さて、大田さんの書いた本はどんな本があるのだろうか。私はネットで大田さんの本を調べた。調べるとなんと大田さんの書いた本は70冊以上もある。こんなにたくさんの本を書いていたのかと私は驚いた。

近代沖縄の政治構造、伊波普猷―人と思想(共)、伊波普猷の思想とその時代、沖縄崩壊、沖縄人とは何か、日高六郎編「軍備は民衆を守りうるか」、憲法改悪反対運動入門(共)、沖縄―戦争と平和、人間が人間でなくなるときジェノサイド、留魂の碑―鉄血勤皇師範隊はいかに戦塵をくぐったか、沖縄の決断、沖縄差別と平和憲法―日本国憲法が死ねば、戦後日本も死ぬ、死者たちは、未だ眠れ・・・・・・・・・
ううん、みんな難しそうな本だ。どの本を買えばいいのか私は悩んだ。どの本がかみつきやすいのかは本の題名を見ただけではわからない。全部の本を読めばどの本がかみつきやすいか分かるのだが、70冊もの本を読むなんて読書嫌いの私には無理な話だ。それに70冊もの本を買うと本代が10万円は超すだろう。貧乏人の私にとって10万円は大金だ。とてもじゃないが70冊もの本を買うのは無理だ。お金がもったいない。私が買うのは一冊にしよう。三、四冊も買うと読むのが大変だからな。

「こんな沖縄に誰がした」と「こんな女に誰がした」

どの本を買うか。私は試案した。私は悩んだ。本の題名を見比べてもどれがかみつきやすい本か見当がつかない。悩んだ末に私が決断したのは一番新しい本を買うことだった。一番新しい本を買うことに特に理由はない。
 一番新しい本の題名は「こんな沖縄に誰がした」だった。え、どこかで聞いたような題名だ。ああ、わかった。日本の歌謡曲に「こんな女に誰がした」という歌があった。いや違う。「こんな女に誰がした」は歌の題名ではなく、歌詞だ。歌の題名は「星の流れに」だ。ずい分昔の歌であるがなかなかいい歌なので私はスナックのカラオケで時々歌っている。

星の流れに
作詞:清水みのる 作曲:利根一郎

星の流れに 身を占って
どこをねぐらの 今日の宿
すさむ心で いるのじゃないが
泣いて涙も枯れはてた
こんな女に 誰がした

煙草ふかして 口笛ふいて
あてもない夜の さすらいに
人は見返る わが身は細る
町の灯影の わびしさよ
こんな女に 誰がした

飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
ルージュ哀しや 唇かめば
闇の夜風も 泣いて吹く
こんな女に 誰がした

私が生まれる一年前の歌だ。ぐっとくる歌詞だねえ。それに7775777575と定型詩になっていて締りのある言葉の流れが最高だ。昭和の名曲「星の流れに」は、菊池章子という歌手が歌って大ヒットした。
この歌は戦争に翻弄され、満州から引き揚げてきて、生き抜くために身を落とした女性の手記(新聞への投書)を見た「清水みのる」が、そのやるせなさを思い作詞したそうだ。最初にこの曲を貰った歌手は、「こんな娼婦の歌など唄えない」と断ったのを、菊池章子さんが引き受けて歌ったといういきさつがある。

娼婦の女と沖縄をひっかけて「こんな沖縄に誰がした」と本の題名にした大田昌秀さんもなかなか味なことをやるじゃないか。私は感心したね。戦争に翻弄された女性が娼婦に身を落としたように、戦争に翻弄された沖縄も娼婦の女のように身を落としたと大田さんは言いたいわけだ。娼婦と沖縄か。意味深な題名だな。かみつきがいがあるというものだ。
「こんな沖縄に誰がした」にかみつくことにした私は、嘉手納の水釜にあるネーブルカデナの宮脇書店に行って「こんな沖縄に誰がした」を買ってきた。私が沖縄関係の本を買うなんて何年ぶりだろう。30年以上になるのではないか。いや、もっと前かもしれない。たしか、大浜方栄さんという大浜病院の院長が書いた「教師は学力低下の最大責任者」という本を買って以来である。あの頃の私は学習塾をやっていたが、学習塾を始めた時に、沖縄の生徒の学力のあまりの低さにたまげたものだ。学力の低い最大の原因は学校の先生が復習をしないことだった。一度教えたものは100%マスターするのが子供の義務であると学校の先生は決めつけていたのだろう。だから授業では復習をしなかったというわけだ。学校の授業は教科書に敷いたレールを前へ前へとどんどん進めていった。だから、どんどん落ちこぼれが出た。人間は忘れる動物だからな。復習をして前に習ったところを思い出させてあげないと落ちこぼれる生徒が出るのは当たり前だのクラッカーだ。それを学校の先生たちは無視していた。
小学二年生の時に掛け算九九を覚えたとしても、三年生になると部分的に忘れてしまう生徒がかなりいる。だから二桁三桁の掛け算を教える前に掛け算九九の復習をやるべきである。ところが学校では復習をやらない。だから落ちこぼれる生徒がどんどん出てくる。学習塾で掛け算九九の復習をやるだけで成績がぐんぐん上がったものだ。子供の成績を上げるのは簡単だった。
学習塾をやって生徒の学力が低い原因は先生たちのいい加減な教え方が原因であるとわかってきたから、大浜方栄さんの「教師は学力低下の最大責任者」という主張に「そうだそうだ」と私は大いに賛成した。たから「教師は学力低下の最大責任者」の本を買った。沖縄の本を買うのはあれ以来だ。

「こんな沖縄に誰がした」を読む

「こんな沖縄に誰がした」の表紙は全体が朱色だ。琉球王朝の色だな。
真ん中には白い円を描いている。
黄色の字で元沖縄県知事と書いてあり、黒字で太田昌秀著と書いてある。
文字の上には黄色の沖縄本島の図がある。そして、黒字で大きく「こんな沖縄に誰がした」と書いてある。
「こんな沖縄に誰がした」の題名を見た瞬間に「お前がしたのじゃないのか」とからかいの言葉が脳裏にひらめいた。すぐ相手をケチつけようとする私の悪いくせだ。
私は冷蔵庫から2リットルのおーいお茶のボトルを出しコップについだ。居間に行き、一年中居間に居座っている電気炬燵にコップを置いて「こんな沖縄に誰がした」を開いた。耳には昼ドラの声が聞こえる。テレビはあまり見ないが見ていなくてもテレビはつけたままだ。独り暮らしだから、テレビを消すと家中が静かになり独り暮らしのわびしさを感じる。わびしさを感じないためにテレビは一日中かけっぱなしだ。
本を開いた。
朱色の紙があり、それをめくると、「こんな沖縄に誰がした」と大文字で書いてあり、その下に沖縄本島の地図、さらにその下に大田昌秀著と書かれてある。ページをめくった。すると「まえがき」という太文字が右上に小さく申し訳なさそうに立っている。私はまえがきを読んだとたんに、「え」と驚きの声を発した。

まえがき
「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」
うわ、なんてことだ。私の予想とは違いすぎる書き出しだ。
「それはないよ、太田さん」
私は思わずつぶやいていた。

   戦後の名曲「星の流れに」

「こんな沖縄に誰がした」と本の題名にしたのなら、娼婦に身を落とした「こんな女に誰がした」の深い悲しみと沖縄の悲しみを重ね合わせた本でなければならないはずだ。題名と本の内容はおおよそ一致するというのが常識ではないか。それが題名というものだ。表紙カバーにでかでかと「こんな沖縄に誰がした」と書いてあるのに本を開いた途端に「『こんな女に誰がした』もどきの泣き言」と題名を否定するような書き出しになっている。なんじゃこりゃ。期待を裏切られた私は戸惑ってしまった。「こんな沖縄に誰がした」という題名と「こんな女に誰がした」を重ね合わせて興味を持ったために本を買った人もいるはずだ。それなのに「『こんな女に誰がした』もどきの泣き言」とは・・・これじゃあサギまがいだ。
大田さんは戦争に翻弄された女性の悲しみを冷たくつっぱねて昭和の名曲「星の流れに」をあっさりと切り捨てた。

飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん

大陸から帰って来た女性はまだ家族にも会えていない。妹は飢えてはいないだろうか、お母さんに一目会いたい。必死に生きながら妹や母親の無事を願っている。敗戦が原因で娼婦に身を落としながらも妹や母の身の上を心配している女性、
そんな女性は戦後の日本にたくさん居ただろう。
悲惨な戦後の真っただ中を生きている女性の心情を大田さんは「泣き言」と冷たく突き放した。大田さんは県知事になったお人だ。知事というものは県民の生活に関心を持ち、県民の生活を向上させていくのが使命だと私は思うのだが、戦後の名曲「星の流れに」を冷たく突き放した大田さんは貧しい県民のことを考える知事ではなかったかもしれない。と、まえがきの「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」を読んだ瞬間に私は直感した。

菊池章子が歌った昭和の名曲「星の流れに」は多くの歌手に愛されている。
藤圭子、戸川純、倍賞千恵子、島倉千代子、美空ひばり、ちあきなおみ、石川さゆり、秋吉久美子、小柳ルミ子など多くの歌手がこの歌をカバーしている。なんと美輪明宏もカバー曲を出している。歌手たちの「星の流れに」への思い入れは強く、それぞれがオリジナルな歌い方をしていて、それぞれの歌が個性豊かで感動させる。ユーチューブに掲載されている「星の流れに」のファンのコメントを紹介しよう。

菊池章子の歌声は当時の世情そのものである。ちあきなおみの歌声は高度成長期に聞く戦後のイメージである。倍賞千恵子の歌声はその清純さのイメージとかけ離れた落差が大きいゆえに別な何かを醸し出す。藤圭子は不幸をキャッチフレーズに売り出した人なのでこの歌を聴くとなんか空々しい。

戦後の疲弊した世の中で否応なく身を持ち崩す女の心情を吐露するような曲ではあるが、そんな女にも会いたい母の面影を追う気持ちを知らされる。当然と言えば当然すぎる人間の心。菊池章子が歌ったものとは違った味が賠償千恵子の清純な声から窺える。まさか賠償千恵子が唄うとは思ってもいませんでした。

はい、チョコレート色の国電(こんにちのJR中央線)の中で白装束の傷痍兵さんが松葉杖をつきながらコッツコッツ歩いていたのを覚えております。

最近の日本はあまり元気がないようですが、人生と同じく山あり谷ありです。ころんだら、這い上がって、立ち上がって。長い歴史を振り返ってもこれの繰り返しですよね。これらの写真を見てつくづく日本人は立派だと思いました。がんばれニッポン

「星の流れに」ファンのコメントを読めば「星の流れに」が多くの人々に深く愛されていることがわかる。「星の流れに」を「こんな女に誰がした」もどきの泣き言と冷たく突き放す大田さんの気持ちが分からない。所詮大田さんは庶民の気持ちが分からない雲の上の御人かもしれない。
大田さんは、
「私たちの愛する沖縄の現状が日本国憲法の理念をもろもろの規定と余りにも異なり過ぎている事態を直視し、それが何に起因するのかを明らかにしたいのである。と同時に、できる限りその解決の処方箋を読者と一緒に考えてみたい」
と述べているが、なにか白々しく感じる。大田さんの愛する沖縄とはどんな沖縄なのだろう。日本国憲法の理念と沖縄の現状が違うのを問題にしているが、日本国憲法の理念といっても憲法は文字に書かれたものであるし、憲法の解釈はひとつではない。それぞれの人間によって解釈が違う。いくつもの解釈がある。自民党と共産党、社民党では憲法の解釈が大きく違う。みんなが憲法の理念をひとつにすることは不可能だ。大田さんのいう憲法の理念はつきつめていけば大田さん個人の憲法理念である。憲法を調べては沖縄を見て憲法の文章と沖縄を照らし合わせ、また、憲法を調べては沖縄を見て憲法の文章と沖縄を照らし合わせる。こんな繰り返しで沖縄の現実を正確に見ることができるのだろうか。沖縄の人間社会の矛盾、沖縄社会の不幸を理解し、解決することができるだろうか。
世界情勢も国内情勢も変化し続けているのに60年以上も前に作られた憲法を理念にして憲法通りの世の中にしようとするのはおかしいではないか。憲法は神がつくったものではない。人間がつくったものだ。憲法にも欠点はある。欠点を見つければ訂正していくべきである。憲法は固定させるものではない。国民の手によって現実に沿って改定されていくべきものだ。
60,年以上も前につくった憲法を理念に置いて、その理念を実現するという考えは時代の変化に遅れた改革しかできない。現実に生きている私たちは私たちの理念をつくり上げ、私たちの理念を実現するために憲法を改定し、私たちの理念を実現するために現実を変えていくのだ。ただ、日本は戦争に負け、天皇崇拝・富国強兵の帝国主義憲法から180度転換した民主主義の日本国憲法になったために国民のほうが憲法の理念に追いつけない状態が続いた歴史がある。しかし、憲法を絶対視して憲法の理念を実現すればいいと考えるのは世の中の変化を無視し、思想や理念の変化を無視し、現実に生きている人々のことを無視してしまう。現実に生きている人たちの幸せが一番大事な問題であって、憲法の理念に合っているかいないかが大事ではない。
戦前は天皇崇拝者だった大田さんは戦後になると憲法崇拝者に変わったようだ。大田さんにとって戦前は天皇が絶対的存在であり、戦後は憲法が絶対的な存在になったというわけだ。戦前の支配者や軍隊が自分たちの都合のいいように天皇制を解釈したように、大田さんは憲法を自分の都合のいいように解釈しているのだろう。

 昭和の名曲「星の流れに」は戦争で苦労した戦前生まれの人たちだけでなく、私のような多くの戦後生まれの人たちにも愛されている歌だ。そんな「星の流れに」を単なる女の泣き言と切り捨てる大田さんの精神を疑う。この人に人間の情というものはあるのだろうかと思いながら私は本を読み進めていった。
一週間後。一応「こんな沖縄に誰がした」を読み終わった。

   まいったな

 読後の感想は「まいったな」である。かみつくところを見つけるところがなくて困ったという意味で「まいったな」ではない。むしろ逆だ。かみつくところがあまりにも多すぎる。最初のページから最後までみんなかみつくことができそうだ。こんなにかみつきやすい本でいいのかと私は戸惑ってしまったし、かみつくところが多いと書く量が増えて難儀だ。それで「まいったな」と思ったわけである。
元琉球大学教授で、県知事になり、国会議員までなったお人だ。そんなお人が書いた本を私のような社会の底辺で生きてきた人間が簡単にかみつくことはできないだろうと思っていた。かみつくことができなくても無理やりかみつこうと思っていたのに、意外や意外である。いたるところ噛みつくことができるのだ。こんなでたらめなことをよくも書けたものだと妙な感心をしたくらいだ。本当にこのお人は県知事になった人物なのか。信じられない。

私たちの愛する沖縄の現状が日本国憲法の理念をもろもろの規定と余りにも異なり過ぎている事態を直視し、それが何に起因するのかを明らかにしたいのである。と同時に、できる限りその解決の処方箋を読者と一緒に考えてみたい。
                         「こんな沖縄に誰がした」
と、かっこいいことを述べているが、「星の流れに」から見える戦後の日本の悲惨な現実を見ることができないお人がさ、「沖縄の現状」を正しく見ることができるのだろうか。どうしても疑問が湧いてくるよ。大田さんは憲法という上から目線で沖縄を見ているが、上から目線では沖縄の足の裏を見ることはできない。きっぱりとそう言える。
 さて、かみつくとするか。この本を買った目的は有名人の大田昌秀さんにかみついて私が有名人になるのが目的だからな。噛みついて噛みついて噛みついてやろうではないか。
あ、そうだ。大田昌秀さんの略歴を記しておこう。WEBのウィキペティアから転載する。

1945年(昭和20年)- 沖縄師範学校本科2年時、学徒隊の鉄血勤皇隊に動員され、沖縄戦に参戦
1946年(昭和21年)- 沖縄文教学校卒業
1948年(昭和23年)- 沖縄外国語学校本科卒業
1954年(昭和29年)- 早稲田大学教育学部英文学科卒業
1956年(昭和31年)- 米シラキューズ大学大学院修了(社会学専攻)、琉球大学財団に勤務。
1963年(昭和38年)- 東京大学新聞研究所にて研究
1968年(昭和43年)- 琉球大学法文学部教授就任
1978年(昭和53年)- フルブライト訪問教授として米アリゾナ州立大学教授就任
1990年(平成2年)- 琉球大学辞職。11月18日の第6回沖縄県知事選挙に出馬、現職西銘順治を破り当選。石垣空港建設反対を公約にしていた。
1994年(平成6年)- 11月20日、任期満了に伴う第7回沖縄県知事選挙で当選(2期)。
1998年(平成10年)- 11月15日、任期満了に伴う第8回沖縄県知事選挙で稲嶺惠一に敗れ落選。
2001年(平成13年)- 7月29日、第19回参議院議員通常選挙(比例区・社会民主党)当選。
2007年(平成19年)- 7月29日、第21回参議院議員選挙に出馬せず
政界を引退。
現在大田平和研究所主宰

大田さんの信じられない経済論=妄想経済論

 最初にかみつくところを117ページに決めた。117ページに書いてある題名は「基地返還前後の経済変動」だ。大田さんが経済変動の具体例にしているのがハンビータウンだ。ハンビータウンはハンビー飛行場の頃から私は知っている。ハンビー飛行場に駐機しているヘリコプターを見たことが何度もあるし、貨物船が停泊していたのも那覇行きのバスの中から何度も見た。ハンビー飛行場がハンビータウンになってからも遊びや買い物に何回もいったことがある。ハンビータウンのことはよく知っているから、まずはここからかみつくことにしよう。

 大田さんは、ハンビータウンがヘリコプター基地だった頃の雇用は100人そこそこであったが、1981年に返還されてからは若者の街に変貌して、ヘリコプター基地だったころよりも経済発展し、雇用は数千人から一万人にも及んでいると述べている。うん、それはそうだろう。ヘリコプター基地だった頃はだだっ広いだけで、人の姿はみえなかった。たまにヘリコプターを見るくらいだった。返還されてハンビータウンになると次々と新しい建物が建ち、大きな商業街になった。大田さんのいう通りハンビータウンは急激に賑やかな街になり、めざましい経済発展をして雇用が増えたのはわかる。
大田さんは地元自治体に入る固定資産税は約257万円から1億9507万円に及んでいると述べている。以上の統計の事実を根拠にして大田氏は、ハンビータウンだけでなくすべての軍事基地が軍事基地であるよりも民間に開放されたほうが経済発展をするのだと主張している。
なるほど、そうだろうなあと言いたいところだが、そうはいかないよ大田さん。
大田さんはハンビータウンの経済発展イコール県の経済発展であると考えているが、ハンビータウンは小売店の街だ。ハンビータウンの経済発展をそう単純に県の経済発展であると判断できるものではない。北谷町の経済発展が県全体の経済発展につながるのなら大いに喜ばしいことであるが、北谷町の経済発展が県全体の経済発展につながらないということになれば県にとって喜ばしいこととはいえない。

 沖縄市の園田にモッズというライブハウスがあった。国道331号線沿いにあり、モッズでは民謡からジャズまで多くのミュージシャンがライブをし、沖縄では有名なライブハウスだった。そのモッズは新しい街ハンビータウンができると園田より集客力がいいハンビータウンに引っ越した。当然のことながらモッズの客は沖縄市から北谷町に流れた。北谷町の客は増えたが沖縄市の客は減ったということになる。
 ハンビータウンの隣の美浜タウンにグッドウィルという新しいパソコン専門店ができた。すると沖縄市のコリンザの一階にあったパソコン専門店は閉店に追い込まれた。コリンザのパソコン店のほうがグッドウィルより数倍大きい店であったが、元々ぎりぎりの経営状態だったので、グッドウィルに北谷町や嘉手納町の客が流れたことが影響したために赤字経営に転落したのが原因だと考えられる。コリンザのパソコン店が閉店すれば美浜のパソコン店に客は流れる。パソコン関係のコリンザの客はゼロになる。
 モッズのように沖縄市から北谷町のハンビータウン・美浜に移転した店舗がいくつもあり、多くの客がハンビー・美浜に流れた。
 客がハンビー・美浜に流れたためにコリンザのパソコン店のように閉店した沖縄市や宜野湾市の店は多い。つまりハンビー・美浜のお客は他の市町村から流れた人たちであり、他の市場から客を奪うことによって北谷町のハンビー・美浜は繁盛した。沖縄市、嘉手納町、宜野湾市などの店はハンビー・美浜に客を奪われたのだ。
 県全体から見ればハンビー・美浜の客は他の市町村から移動したのだからプラスマイナスゼロである。
 県知事だった大田さんがハンビータウンの経済発展をまるで県全体の経済発展だと錯覚して手放しで喜ぶとは信じられないことである。元県知事なら沖縄市、嘉手納町、宜野湾市などの店からどれほどの客がハンビー・美浜の店に流れて売り上げが落ちたかを調査して、ハンビー・美浜が県全体に及ぼすメリットとデメリットについて分析するべきだ。そのような市場調査をしないで、ハンビータウンの経済成長を県全体の経済成長だと喜ぶ大田さんはめでたいお人である。

 沖縄市の南側にある泡瀬ゴルフ場跡には大型店舗のイオンモールができる。沖縄市の商店経営者たちはイオンモールが開店すると壊滅的な打撃を受けるだろうと心配している。しかし、大田さんなら返還された泡瀬ゴルフ場跡にイオンモールができて経済が発展すると手放しで喜ぶだろうな。

一方が繁栄すれば一方は廃れる。それがサービス業の経済法則だ。例えば、大型スーパーが繁栄することによって個人商店やスーパーは廃れた。コンビニエンスが繁盛することによって個人商店、書店、弁当屋、パーラーなどが廃れた。新しい商業地が繁栄している裏には古い商業地が廃れているのが現実だ。そこにはプラスとマイナスの関係がある。ハンビー・美浜が栄えた分だけ他の商業地の売り上げは落ちたのであり、県経済の全体が成長したとは言えない。こんな簡単な経済法則さえ知らない大田さんが県知事だったのだ。ため息がでてしまう。

大田さんの妄想はまだ続く

現在返還問題で揺れている普天間飛行場は、このハンビー飛行場の11倍の大きさにも関わらず、二〇〇九年三月末現在で二〇七人しか雇用していない。
                         「こんな沖縄に誰がした」
普天間飛行場とハンビー・美浜は車で5、6分の距離である。大田さんは11倍も広い普天間飛行場跡にハンビー・美浜と同じような若者向けの商店街ができたら客はハンビー・美浜の11倍に増え繁盛すると考えている。普天間飛行場跡は繁盛するかもしれない。しかし、ハンビー・美浜の客は普天間飛行場跡に流れるに決まっている。ハンビー・美浜の客は激減し、沖縄市のように閉店する店が増え、ゴーストタウンになってしまうだろう。
米軍基地が全て返還され、跡地にハンビー・美浜のような小売店街ができたら、限られた客の奪い合いで多くの商店街はゴーストタウンになってしまう。沖縄経済の破綻である。
返還跡地にハンビー・美浜のような小売店街だけをつくったら沖縄経済が破綻する理由がもうひとつある。
普天間飛行場の軍用地料金は年間60億円である。軍用地料は日本政府から沖縄県内に入ってきて県内で流通するお金になる。軍用地が返還されるとそのお金が沖縄に入ってこない。県の収入は60億円のマイナスになる。一方ハンビー・美浜の小売店は本土から商品を仕入れる。商品が売れれば売れるほど商品の原価の分だけ本土にお金が出ていく。県内のお金を減らすのがハンビー・美浜の経済である。
 もし、すべての軍用地が返還され、軍用地返還跡にはハンビー・美浜のような小売店の商業街ができると仮定すると、県内に入ってくる米軍基地関係の3000億円の県内への流入は絶たれてしまい、そのかわり県外から商品を買う商店が増えるから、県外へお金が出ていくシステムが増えるようになる。県外からお金が入ってくるお金が減り、県外に出ていくお金が増えれば県全体のお金が減り続けることになる。そうなると県民のお金は減り続けるから、商品を買うお金が減り店の商品は売れなくなる。倒産する店がどんどん増えていく。経済が悪循環して県内の仕事は減り、失業者が増える。
復帰前は戦前の農業中心経済から基地経済になって人口は増え続けた。復帰後は基地経済に加えて政府からの高額交付金による公共工事によって経済が成長し人口が増えた。それに観光業やコールセンターなどやヘンチャー企業の成長が経済発展を助長した。しかし、米軍基地の撤去や海兵隊の減少は沖縄経済を下降させる。それに従って経済がマイナスに転じるだろう。
 そう、ならないためには県外からお金が入ってくる新しい企業が増えることである。コールセンターやベンチャー企業が増えているし、農産物の輸出に情熱を燃やす企業も現われている。しかし、企業が急激に増えるということはない。亀の歩みのように少しずつ増えていくしかない。沖縄の企業が新たに3000億円の収入を増やすには長い年月がかかる。米軍基地は中国の民主化に連動させてゆっくりと減少させて県経済に悪影響を与えないようにするのがいい。急激な基地経済の減少は沖縄経済に悪影響を与えて倒産が増えるだろう。

 普天間飛行場跡地の利用を考える専門家の中で大田さんのようにハンビー・美浜のような商業地を普天間飛行場跡につくろうと考えている人はいない。今提案されているのは国が土地を買って大きな公園をつくることだ。国が土地を買い取ることで地主に大金が入ってくる。地主は普天間飛行場が返還されても土地が売れるから一安心というわけだ。しかし、普天間飛行場の基地経済に匹敵する経済効果案はまだ提案されていない。というより、案がないといったほうがいい。
泡瀬ゴルフ場跡にはイオンモールができる。七月には宜野湾市の西海岸に大店舗サンエーコンベンションシティー店が開店した。ドンキーも進出する予定だ。ハンビー・美浜、泡瀬ゴルフ場跡、宜野湾市西海岸、ズケラン部隊、普天間飛行場は車で十分もあれば行ける場所である。こんな場所にハンビー・美浜のように小売店街をつくれば供給過剰になる。倒産する店が増加してゴーストタウンになる場所も出てくるだろう。大田さんは、全ての米軍基地が返還されればすべての跡地にハンビー・美浜のような街ができて経済発展すると妄想しているのだ。おめでたいお人である。

大田さんの妄想はまだまだ続く

. 嘉手納基地は成田空港の二倍の広さがある。しかし、2734人しか雇っていない。それに比べ、民間空港の成田は4万人以上が雇用されている。
このように軍事基地が返還され、その跡地が、民間に利活用されるようになると、雇用が10倍にふえるという試算がなされているが、それはあながち誇張ではない。
                  「こんな沖縄に誰がした」
 それは誇張ではない。誇張をはるかに超えた妄想だ。
嘉手納基地が返還されて、民間空港になったら、嘉手納空港は成田なみに4万人の雇用ができると妄想をすることがなぜできるのだろうか。とても不思議である。大田さんは嘉手納基地について述べる前に成田空港の旅客数と那覇空港の旅客数を調査比較しただろうか。
成田空港の年間旅客数は約二八〇六万人(二〇一一年)である。それに比べて、那覇空港の平成二一年度の旅客数は一四〇六二万人である。那覇空港の旅客数は成田空港の約半分である。
大田さんは、嘉手納飛行場は成田空港の二倍の広さがあるから、嘉手納飛行場が返還されれば成田空港の二倍の旅客が嘉手納飛行場を利用すると想定している。実に那覇空港の四倍の旅客数だ。どうして、嘉手納飛行場が成田空港の二倍だから旅客数も二倍になるというのだ。こんなことは絶対にありえないことである。
沖縄県の観光業界は観光客を増やすためにあの手この手を使って苦労している。飛行場の広さを二倍にすれば観光客も二倍になるのなら、どんどん飛行場を拡張すればいい。しかし、こんな簡単に観光客や旅客数が増えるわけがない。旅客数が飛行場の広さに比例すると考えるのは馬鹿げている。
もし、嘉手納飛行場が民間空港になったら、那覇空港と旅客の奪い合いになり、それぞれの空港の旅客数は半分ずつになり、二つの空港が莫大な赤字経営をすることになる。
 県知事体験者ならば沖縄県の経済発展を真剣に追及するはずであるが、大田さんは経済破綻をさせてしまう経済論を展開している。不思議なお人である。

大田さんはどうして見え見えの嘘をつく

 大田さんの経済論はあまりにもひどい経済論であるが、歴史観もひどい。大田さんは「こんな沖縄に誰がした」で「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を培ってきた」などと仰っている。私は沖縄の歴史をあまり知らない。そんな私でも尚巴志が三山を統一したのは知っている。三山を統一したということは武力で制圧したことである。話し合いで三山を統一したなんて話は聞いたことがない。私は歴史を調べるために「ジュニア版 琉球・沖縄史」(沖縄歴史研究会 新城俊昭著)を買った。大人用の歴史書となると字が小さくなり内容が詳しく字数の量が多い。読むのに大変だ。だから、字が大きく字数の少ないジュニア版を買った。家に帰って、テレビをつけっぱなしの居間でコーヒーを飲みながら歴史を調べてみた。

1187年頃 舜天、中山(沖縄本島中部)王に即位。
1406年 尚思紹父子、武寧を滅ぼして、尚思紹が中山王になる。
1416年 尚巴志、北山を滅ぼす
1429年 尚巴志王、南山を滅ぼして全島を統一する。
1500年 八重山のオヤケ・アカハチの乱を平定。
1571年 尚元王、奄美大島を征服。
1609年 薩摩の島津家久が琉球に侵攻し、尚寧王を連行する。

1453年五代王・尚金福がなくなると後継争いは激しくなった。争いとは口喧嘩ではない。武力による争いであり、戦争である。後継争いの戦火で首里城は焼け、後継争いをした二人も死んだという。金丸が尚円になったときも武力によるクーデターだったと言われている。王位継承争いの解決方法は話し合いではなく武力争いであった。
武寧を滅ぼす、北山を滅ぼす、南山を滅ぼすというのは武力で滅ぼすということだ。つまり琉球王朝は軍隊を持ち、戦争をしていたということであり、太田さんのいう「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌った」という歴史的な事実はどこにもない。それがまっかな嘘であるということが中学・高校生用の歴史本でわかる。元大学教授であった大田さんが中学程度の歴史を知らないのだ。信じられないことである。
琉球王朝は八重山や奄美大島も武力で制圧して、植民地にしている。「いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決した」というのは間違っている。むしろ暴力で解決したというのが正しい。
琉球人が乱暴であり、中国に嫌われたことを「ジュニア版 琉球・沖縄史」には書いてある。

琉球は明国への朝貢がゆるされると、毎年、中国へ行って貿易をおこなうようになりました、しかし、そうほうの間に何の問題もなく、平穏に朝貢貿易がつづけられていたのではありませんでした。琉球人の中には、不法行為によって厳しく処罰される者もおり、信頼を損なう事件も起こっていました。
 1475年には中国皇帝から尚円王に対し、「琉球使者の中に、殺人、放火によって強盗を働いた者がいる。犯人をつかまえて処罰せよ」と命令がありペナルティーとして「今後、中国への朝貢は2年に1貢とする」ことが言い渡された。琉球王府は、この事件に琉球人がかかわっていないことを報告し、従来通り1年1貢にもどすように嘆願を繰り返したが、1時期は1年1貢にもどったことがあったが、1年1貢は許されなかった。理由は使節にしたがってやってきた琉球人が、違法な取引をしたり、不法滞在で地元住民とのあいだでトラブルをおこしたりしていたからである。
                   「ジュニア版 琉球・沖縄史」より
琉球人が暴力を用いずに話し合いで解決したというのは嘘である。中国で暴力をふるってトラブルを起こしていた事実が歴史にちゃんと残っている。
学者である太田さんがなぜこんなみえみえの嘘をつくのか不思議でならない。

大田さんは沖縄の貧困には目を向けない

 再び「星の流れに」に話を戻す。沖縄の歴史を調べて驚くべき沖縄の貧困の事実を知ったからだ。

18世紀にはいると、台風や干ばつなど異常気象があいつぎ、困窮した農村はそのたびに飢きんと疫病にみまわれ、多くの餓死者をだしていました。
 農村がこのような自然環境の変化に大きく左右されたのは過重な税負担と、地方役人による不当な取り立てが原因でした。その為、予測される災害にすら対応がままならず、まったくの無防備な状態で災害にみまわれるありさまでした。
 こうした社会にはそれを回復させる余力など残っておらず、大量の餓死者をだしていったのです。その上飢きんにみまわれた年でも、農民の租税免除はその場限りで、ほとんどの農村が翌年にはようしゃなく年貢を取り立てられました。
 農村はますます貧しくなり、借金のかたに土地を質入れしたり、身売りしたりする農民があとを絶ちませんでした。
 身売りとは、年貢をおさめるために借り入れた米やお金を返せなくなった農民が、貸主のもとで一定年限、下男下女としてつとめることです。これによって家族が崩壊することを家内倒れといい、これと連動して、上納の責任単位である与(組)がくずれてしまう与倒れの現象も起こりました。身売り農民のひきうけもとは、地元の有力者か間切りや村役人などの特権階層でした。農村はしだいに、ウェーキと呼ばれる富農層と、ヒンスーと呼ばれる貧農層とに二極分解していきました。
                     「ジュニア版琉球・沖縄史」
薩摩藩に支配されていた琉球王府は、

年貢   9000石
芭蕉布  3000反
琉球上布 6000反
琉球下布 10000反
むしろ  3800枚
牛皮   200枚

以上の品々を薩摩藩に毎年献納しなければならなかった。その負担は琉球王府が負ったのではない。琉球王府は支配者として贅沢三昧の生活をしていた。薩摩藩への莫大な献納を負わされたのは農民である。薩摩に支配された琉球の農民は重税に苦しんだ。
吉屋チルーのように遊郭に売られていく子供は後を絶たなかった。

沖縄の貧困は琉球王朝時代で終わらなかった。四民平等になったはずの明治から昭和の戦争直前まで沖縄の農民の貧困は変わらなかったのである。
その歴史的事実が中・高校生用の本に載っている。中・高校生用の本にだよ。「ジュニア版 琉球・沖縄史」から引用する。

 当時の沖縄の人口は約60万人ほどで、その7割が農民でした。しかも、多くは零細農家で、サトウキビを主作物とする農業をいとなんでいました。
 廃藩置県後、沖縄では換金作物としてサトウキビを栽培する農家が増え、サツマイモ畑や水田までもキビ畑にかえていました。砂糖生産中心のこの生活形態は、自然環境や経済変動の影響をうけやすく、ことあれば、すぐさま食糧不足と経済危機にみまわれるという弱さを持っていました。それが最悪の形であらわれたのが、大正末期から昭和初期にかけておこったソテツ地獄でした。
 沖縄の輸出品は、砂糖のほかに、泡盛・パナマ帽子・畳表・鰹節・漆器などがありましたが、その8割を砂糖が占めていたので、国際的な糖価の暴落は県経済に深刻な影響を与えました。国税の滞納額も、1921(大正10)年以後は40%台を推移し、銀行などの金融機関にも大きな打撃を与えました。それにおいうちをかけるように、台風や旱ばつがおそい、農村は文字どおりソテツを食べて、飢えをしのがなければならない状態にまでおいつめられていきました。
 多額の借金をかかえ、生活がどうにも立ちゆかない農家では、最後の手段として身売りが公然とおこなわれました。男性は漁業に従事する糸満へ、女性は遊女として辻の遊郭へ売られました。また、海外移住や本土へ出稼ぎとして沖縄を出ていく人びともふえていきました。
                     「ジュニア版 琉球・沖縄史」
 昭和の名曲「星の流れに」は、戦争に翻弄され、満州から引き揚げてきて、敗戦後の荒廃した日本で生き抜くために身を落とした女性の歌であることを説明した。しかし、沖縄では戦争に翻弄される以前から「星の流れに」のような娼婦に身を落とす女性が多かった。戦前の沖縄では、身売りされるのは女性だけでなく男性も多くいた。いわゆる女性の辻売りと男性の糸満売りである。

 子供の頃、母親から聞いた話だが、戦前は男の子供が駄々をこねて泣くと、「糸満に売り飛ばすぞ」と脅したそうである。すると子供は泣くのをぴたりとやめた。糸満の漁師に売られた子供は漁師として徹底的に鍛えられる。泳げない子供でも縄で縛って海に放り込んだそうだ。溺れて死にそうになってもなかなか引き上げない。もし、訓練中に死んだとしても事故として片づけられる。糸満に売られたら殺されても文句が言えないということである。まさに子供にとって死ぬかもしれない過酷な運命に放り投げられるのが糸満売りであった。
 辻売りや糸満売りは琉球王朝時代の話ではない。戦前の話なのだ。私の家の前に三〇〇坪ほどの空き地があり、その空き地を借りて畑をやっていたじいさんがいたが、彼は与那国出身で、戦前糸満に売られて沖縄にやってきたと話していた。

 戦前までは辻売りや糸満売りが公然と行われていたが、その原因は沖縄の貧しさであった。大正末期から昭和にかけて沖縄ではソテツ地獄があった。昭和時代になってまで沖縄はソテツ地獄と呼ばれる飢餓があったのである。
明治以後は人身売買は法律で禁じられていたが沖縄では公然と人身売買が行われていたという。

 「星の流れに」の女性の貧困は日本の敗戦が原因であるが、沖縄の場合は敗戦以前に貧困問題があった。
大田さんは、昔の琉球は平和主義であり「命どぅ宝」を合い言葉に他者と有効的共生の生き方をして沖縄は豊かであったような印象を与えているが、とんでもないことである。豊かであったのは少数の士族階級の人間たちであり、多くの農民は貧困生活を強いられていた。
明治以降も同じであった。明治時代になり表面上は四民平等になったが実際は富む士族階級と貧しき農民階級の関係は続いていた。明治政府は人材不足であり沖縄に派遣できる人材は少なく沖縄県の政治は統治能力のある沖縄の士族層に任せた。そのためにほとんどの役人は士族出身者が占め、財産のある士族層が経済界も支配していた。明治以後でも沖縄の現実は琉球王朝時代と大差はなかった。
戦前の沖縄の産業は寄留商人と呼ばれる本土出身者と政府の手厚い保護でえた不動産や資金をもとに、貿易・金融・開墾・鉱業開発・新聞社などを経営した尚家が支配していて、人口の70%以上を占めていた小作農民は貧困生活を強いられていた。沖縄社会の70%を占める農民の生活を無視しては沖縄を語ったことにはならない。ところが大田さんは農民を無視して沖縄を語るのである。
沖縄の長い歴史の中で農民や庶民が人間らしい人権や自由を得たのは戦後である。戦前は士族階層と本土の寄留商人が政治と経済を牛耳っていて、農民は差別され、貧困にあえいでいた。土地のない農民は小作人となり低賃金で本土資本の製糖工場のさとうきび畑で働かされていた。戦後になり、米民政府によって寄留商人は沖縄から排除された。士族階層の特権は剥奪され、土地は小作人に分け与えられた。そして、商売が誰でも自由にやれるようになった。平和通り商店街の発展が戦後の沖縄を象徴している。戦後の沖縄ではアメリカ通りと呼ばれていた商店街が至るところにあり、一坪くらいの小さな店がいっぱい並んで活況を呈していた。少ない資金でも商売ができるのが平和通りやアメリカ通りであった。店を営んでいたのはウチナー女性たちであった。女性が自由に商売できるようになったのも戦後である。
米民政府は琉球銀行を設立して商売や起業を一般の人でもやりやすくした。外国資本の参入も自由にしたので外国の資本が沖縄に流入した。それをやったのは沖縄の政治家ではなく米民政府であった。戦後の沖縄経済が活発になっていったのは米民政府がアメリカ流の市場開放政策を行ったからである。
アメリカは沖縄を統治し続けたが、アメリカは中国などの社会主義国家の拡大を抑止する軍事目的で沖縄を統治したのであり、沖縄を搾取するためではなかった。そもそも世界一の経済大国であるアメリカが貧乏な沖縄を搾取するはずがない。米民政府はアメリカ流政治を沖縄に適用して沖縄社会内の差別を徹底してなくし市民が自由に活動できるようにした。米民政府は薩摩藩のように沖縄を搾取することもなく、琉球王府のように農民を搾取することもなく、多くの沖縄人を軍作業員して雇用し、アメリカ兵やその家族は沖縄の店で買い物をして多額の金を沖縄に落とした。米民政府は市場を自由にし、沖縄の産業を育成して沖縄経済を活性化させていった。
戦前の沖縄社会と戦後の沖縄社会を比較すれば戦後の沖縄社会は自由であり経済は何倍も発展していて庶民の生活も向上していることが分かる。

大田さんは沖縄が身分制度のある封建社会であるのかそれとも民主主義社会であるかを問題にしていないし、琉球王朝時代、戦前、戦後の市民レベルでの人権、自由、経済、生活を言及していない。沖縄が独立していた琉球王朝時代は士族階級の支配する不平等社会であった。農民は不自由で貧しい生活を強いられていた。明治政府になり廃藩置県が実施されて以後の沖縄は四民平等の社会であるはずであったが四民平等の思想は沖縄には浸透しないで士族階層が支配している社会であった。戦後、アメリカが沖縄を統治するようになって琉球王朝時代から延々と続いていた士族階級の支配から沖縄の民は解放されたのである。
沖縄の本当の四民平等は戦後の米民政府によって実現したといえる。もし、アメリカが統治しなかったら戦前の不平等社会が戦後も続いていただろう。
憲法、安保条約、基地問題が沖縄問題の中核ではない。沖縄の人たちの生活のありようが沖縄問題の中核である。大田さんの「こんな沖縄に誰がした」は沖縄の貧困、労働、失業、福祉、人権、学力など沖縄の深刻な問題をなおざりにし、中核から外れた問題だけに終始している。
前書きの「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」がそれを象徴している。


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Posted by ヒジャイ at 08:48│Comments(0)沖縄の知識人批判
 
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