2017年10月28日

沖縄差別の原因は沖縄にある②-2


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chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

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沖縄差別の原因は沖縄にある②-2
 沖縄差別でよく問題にされるのが下宿や借家には「朝鮮人お断り」や「琉球人お断り」と書かれて、沖縄出身者が下宿や借家を借りることができなかったことである。借家だけでなく、仕事でも『職工入用。但し朝鮮人と琉球人お断り』と断られるケースがあった。それを沖縄差別として問題にしている。だが、「琉球人お断り」は借家の主や雇用者がやったことであり大阪の社会で起こったものである。大阪の沖縄差別は大阪社会で起こったことであり国が差別したのではない。
 ところが左系の識者や政治家は沖縄差別を国がやったように主張するのである。国が沖縄差別をしたのではない。生活の場所で「琉球人お断り」のような差別が起こったのである。

「職工入用。但し琉球人お断り」の張り紙が出された理由。
1 仕事を突然辞めた。
2 直ぐに不貞腐れダラダラする性格で忍耐力も向上心も無い。
3 他府県出身者と交流せず、終業後 公園に沖縄男女が集まり泡盛を飲み原住民語で歌い 集団を形成する。
4 他人の持ち物を勝手に使つた。
5 時間や契約を遵守(法律・道徳・習慣を守る)する意思が薄弱である。
6 酒に溺れ欠勤が多く月給より日当を求た。
掲げてあるのが事実だととすれば沖縄出身者が嫌われ差別されたことは仕方のないことである。

 貸家で断られた理由
1 敬語を知らなかった。
2 一軒家を借りて下宿屋をはじめると、そこに沖縄人が殺到した。
3 がらが悪い。
4 仕事が無いときには部屋の中で角力をして,家は地震みたいに揺れた。
5 冬は軒下の板をはいで焚き物にしたりした。
6 数人の他府県人の住宅街に引越して来た時は他府県人は沖縄人を馬鹿にして軽蔑するが、芋づるを引くように県人の仲間が漠々多くなって勢力が加わり、おまけに隣人の迷惑などお構ひなしに業苦無人の振舞をやり出すので、後には他県人の方が恐れをなして引越した。

 貸家の持ち主にとってルールを守らない迷惑な客には貸したくない。当然のことである。沖縄出身者がルールを守らなくて迷惑かけたから「琉球人お断り」の張り紙を出したのである。
 経営者や家主にとっては生活が懸かっている。経営が成り立たない者は断るしかない。それを単純に沖縄差別というのは間違いである。沖縄差別は経営者や家主がやったが、彼らの生存を沖縄出身者が脅かしたから沖縄差別をしたのである。彼らにとって当然のことであった。
 貸家に住みたいのなら貸家のルールを守るべきであるし、仕事をしたいなら経営者の注意を肝に銘じるべきである。「郷に入れば郷に従う」である。郷に従うことができなかった沖縄出身者だから差別されたのである。ルールを守らない沖縄出身者は仕事もなく住むところもない。それなら故郷の沖縄に帰るしかないが、彼らは沖縄に帰るわけにもいかなかった。故郷沖縄はソテツ地獄であった。彼らは沖縄で生活することができなかったから大阪に来たのだ。大阪に仕事も住む所もないからといって沖縄に帰るわけにはいかなかった。
一軒家を借りて下宿屋をはじめると、沖縄出身者が借りるとそこに沖縄人が殺到したというが、仕事もなく住む家もない同郷の沖縄出身者が借家人を頼って集まってきたのである。
 家を借りることができなければ知り合いの借家に泊る。それができなければ路上や空き地に寝るしかない。仕事がなくお金がつきれば知り合いから借り、それができなければ盗むしかない。大阪では沖縄出身者による犯罪も多かった。

 沖縄のソテツ地獄から逃れるために大阪に来た沖縄出身者は沖縄に帰れないから厳しい大阪で生きていくしかなかった。
 住む家がない沖縄出身者が見つけたのが大正区の誰も住んでいない湿地帯だった。埋め立てた湿地帯に材木工場が捨てた材木の切れ端などを利用して雨風をしのぐバラック住宅を建てた。その場所を 沖縄出身者は「クブングワァー(くぼ地)」と呼んでいた。近隣大阪の人たちは「沖縄スラム」と呼んでいた。沖縄出身者の小屋は普通の人が住めるような家ではなかった。

 映りが悪く分かり難いが、家は小さく、一人住まいのおんぼろ家のようである。こんな粗末な家に沖縄出身者は住んでいたのである。



大正12年(1923年)関東大震災で被災した沖縄県出身労働者救済のため 沖縄県出身で゙大学卒の神山政良牧師は京浜地方を訪れたが、その時の情況を神山政良牧師はこう述べている。
「鶴見とか川崎に労働者達が住んでいる話は知っていたが 彼らの居る所を探したが誰も知らない。色々説明を聞き『ああ琉球人の集落ですか』と 場所を教えてくれたのだが、行ってみてびっくしたよ。小さなところで しかも 裏に住まって 昼から蛇皮線をやっているんだ。あれは 誤解をうけるのは無理ないと思ったね」(沖縄現代史への証言より)
 昭和のソテツ地獄の沖縄から大阪に移り住んだ沖縄出身者にとっては大正区の掘立小屋に住むしかなかった。それでもソテツ地獄の沖縄よりは住みやすかったのである。

 神山牧師は沖縄出身でありながら大学を卒業している。沖縄出身でも多くの人が大学に進学していたし、教員や軍人や民間企業に就職して活躍していた。
同じ沖縄出身でありながら神山牧師は大正区に住んでいる沖縄出身者には差別をされても仕様がないと思っている。沖縄には中上流層と下層の社会があった。中上流層の人たちは教育を受け本土の文化に溶け込んで差別されることはなかった。しかし、下層の人たちは教養がなく本土の文化に溶けこめる能力に欠けていた。それは彼らの責任ではない。政府や県の教育の責任である。彼らは教育を受けることができなかったから教養がなかったし、共通語も話すことができなかった。そして、大阪の文化や規律を知ることもなかった。共通語を教えられなかったから共通語を話せなかった。そのために大阪の人とのコミュニケーションができなかったのである。神山牧師のように教育を受け共通語が自由に話せる沖縄出身者は本土人とコミュニケーションができたから差別されることはなかった。

 下層の沖縄出身者でもすぐに大阪に溶け込んだ人は差別されることなく仕事をやり普通の生活を送ったはずである。沖縄出身者のすべてが差別を受けたわけではなかった。
 沖縄出身者が大阪で一軒家を借りて下宿屋をはじめるとそこに沖縄人が殺到したというが、沖縄出身者が一軒家を借りて下宿屋の商売をすることもあったのである。その人は大阪に溶け込み商売をすることができた。彼のように大阪に溶け込んだ沖縄出身者は多かった。しかし、大阪に溶け込めない沖縄出身者も多かった。溶け込めないで宿を借りることができない彼らが沖縄出身者の下宿屋に殺到したのである。


 沖縄のソテツ地獄が多くの大阪移住者を生み出した。そして。仕事や貸家で「琉球人お断り」の張り紙を出されるほどの沖縄差別を受けた。沖縄出身者が差別を受けたのは大阪の仕事や生活のルールを破ったのが原因であるが、それは大阪と沖縄の文化、習慣、生活の違いから生じたものであった。彼らの多くは沖縄の下層農民であった。
 沖縄の農民は琉球王国時代、地割制度に支配されて生活をしていた。地割制度は他の村との交流を禁じ、私有財産も禁じていた。王府への上納は村全体の負担であった。
 畑は私有ではなく割り当てであり、山は共有であった。いわゆる原始共産社会が琉球王国時代の農民社会であった。
 家は共同でつくり、生活に必要な物も共同でつくった。食料も譲り合いであった。村内では物々交換もお金による売買もなかった。売買をするのではなく譲り合い助け合う生活であった。村といっても区くらいの小さい集落であった。
 明治政府になり、沖縄は琉球王府の支配から明治政府による中央集権国家の統治下に置かれ、地割制度は廃止されて、私有財産制度が適用されるが、沖縄の地方では地割制度時代の考えや習慣が根強く残っていた。

○沖縄人は意味不明で言葉では無く音だけを発するが 音は音であって言葉では無いので誰にも理解されない。

 沖縄では共通語教育は徹底されていなかったので多くの農民は共通語を話すことができなかった。そして、文盲であった。
 私の父は大正生まれで、小学校を出て、軍隊にも行ったが共通語は話せなかった。母はなんとか話すことができた。
 共通語が話せなくて文盲の沖縄県民が大阪に移住すれば、大阪の生活になじむことができないで孤立するのは当然である。孤立しても原始共産社会で生活してきた農民には孤立から脱却する方法を知らない、大阪社会になじむことができなかった県民が多かっただろう。
 
○沖縄人は時間を守らない。

 沖縄の人間が時間を守らないというのは有名である。子供の頃に先生から何度も聞かされたことである。私たちは、時間を守るように教育された。
 本土は昔から時間厳守であったかという疑問が湧いてきて調べたことがある。すると明治の初期の頃は時間にはルーズであったという事実が分かった。
 江戸時代は十二支を基準にした時間であり一日は二十四時間ではなく十二の刻であった。そして、分とか秒という時間概念はなかった。だから、江戸時代は時間にルーズだったのである。
 明治になり西洋の時間、分、秒の概念が取り入れられ、政府が時間厳守を導入した。そして、会社経営で時間厳守が徹底されるようになり、紡績工場など多くの会社が設立されようになって時間厳守の概念が定着していったのである。
 沖縄は七割が農民であった。農業には会社のような時間厳守の概念はなかった。時間を正確に守るという概念が沖縄の農民にはなかったのである。農民は太陽の向きと腹時計によって生活をする。だから、朝九時出勤といっても、だいたい九時くらいに出勤すればいいと考え、時間厳守の必要を理解しなかった沖縄出身者がいたのだろう。
 時間厳守は農業から近代の工業化への発展の中で生まれたものである。近代化が発達していた大阪は時間厳守の社会であったが、近代化が遅れていた沖縄は時間厳守の社会ではなかった。そのギャップがあったのである。

 私の父は農民であった。日が昇る前に起きて、シンベーナービという大きい鍋で豚の餌をつくり、ヤギに餌をやり、みんなと一緒に食事をした後に畑に出かけた。その間、家のボンボン時計を見ることは一度もなかった。
 昼の食事時間には帰ってきて食事をした後数十分昼寝をした。それから畑に出かけ、夕方には帰って来た。
 夏は夜が明けるのが早く、日が暮れるのは遅い。逆に冬は夜が明けるのは遅く、日が暮れるのは早いから、夏は早く畑に行き遅く帰り、冬は遅く畑に行き早く帰った。農民は大自然の変化に合わせて仕事をしたし、それが農業に合ったやり方であった。会社の仕事のように働く時間を固定していないのが農業である。だから、近代化が発達した大阪での時間厳守の生活に合わせることができない沖縄出身者が居たとしても不思議ではない。私の父は時間厳守の大阪では落ちこぼれていただろう。
「(沖縄人は)朝9時と決めても、朝9時に来ない。労働時間に拘束されることや 時間単位で管理される事もコイツラは理解出来る頭が無く薄弱である」
この沖縄人批判は私の父にぴたりと当てはまる。父が大阪に行っていたら「頭が無く薄弱である」と軽蔑されていただろう。

○沖縄人は私的所有(自身の物と他人の物の区別が出来ずに 借りた物を返さず惚け通すと自分の物になる思っている。
 原始共産社会の農民には私的所有の意識が発達していなかった。私的所有が発達した大阪人と発達していなかった沖縄人とのギャップがあったのである。
 戦後生まれの私たち沖縄人も私的所有意識は本土の東京ほどは発達していなかった。東京の早稲田大学出身の鈴木氏を悩ませた沖縄の私たちが居た。
 
私が学生の時、早稲田大学を卒業してから、国語の教員免許を取る目的で琉大に入学した鈴木氏は、私たち沖縄の学生は借りたお金や本を返さないことに困ったし、なぜ返さないのか理由がわからないで悩んだのである。私たちの間ではそれが常識であった。私たちは少額のお金なら、借りても返さなかった。学生だからそのくらいはいいじゃないかと思っていたが、鈴木氏は借りたお金は少額でも返すべきであると言った。鈴木氏と私たちとの違いは私たち沖縄人の私的所有意識が鈴木氏のようには発達していなかったからであると言える。私は今でも私的所有意識は発達していないようである。

戦後の米民政府統治時代に軍作業員の間では「センカ」が流行していた。「センカ」とは漢字で戦果と書くが、戦争は終わっていたので戦果というものは本当はなかった。軍作業員のいう「センカ」というのは米軍の物を盗むことであった。
食糧だけでなくあらゆるものを盗んだ。私が四歳の時に家を作ったが、柱や壁の板は「センカ」で得たものであった。柱はトゥーバイホウと呼んでいる材木であった。家をつくったのは隣近所の大人たちであり、大工はいなかった。台所や物置小屋の屋根はトタンであったが、そのトタンも米軍からの「センカ」したものであった。
「センカ」とは米軍から盗むことであったが盗みが沖縄人の軍作業員にとっては当たり前のことであり罪悪感は全然なかった。
「沖縄人は私的所有と他人の所有の区別が出来ない」
という指摘があるが、「他人の所有」を取ることは盗むことであり犯罪であるという意識が軍作業員には低かったのである。その意識は極貧と原始共産社会によって私的所有意識が発達していなかったことが原因であるかんがえることができる。
会社で働いて給料をもらい、給料で物を買う。その行為の積み重ねで私的所有の意識は発達していくのである。経済が近代化し、お金による売買が私的所有意識を高める。お金による売買がほとんどない原始共産社会では私的所有意識はとても低いのである。だから他人の私的所有物を取ることは罪であるという自覚がない。だから、他人の物を取ってはいけないという意識が低い。
「センカ」でMPに逮捕されても、取り調べをするのは琉球警察であり、MPは逮捕者を琉球警察に渡した。罪としては軽かったので、「センカ」がなくなることはなかった。

○沖縄人の労働者が酒に溺れ欠勤が多く月給より日当を求めるから沖縄人の信用が無い。

 ソテツ地獄の沖縄で収入もなくその日暮らしをしていた無教養な人たちも大阪に移住した。そんな人たちの中には酒を飲むのが最高に幸せで、酒におぼれていった人もいただろう。だから、日当を要求し、お金がある間は酒の生活をやり、お金が無くなれば働いてお金を得る。お金を得たら酒の生活をする。そんな人は沖縄人だけでなく、他県人にも居たと思う。

○他府県出身者と交流せず、終業後 公園に沖縄男女が集まり泡盛を飲み原住民語で歌い 阿呆集団を形成する。

私は一年半前から民謡教室に通っている。通っているほとんどの人は60代から70代の人たちであり、三線を習うのは初めてである。年配であっても三線が引きながら歌うようになれるのが琉球民謡である。
私は30代になってから、サックスと尺八を始めたが、二つの楽器より三線のほうがずっとやりやすい。サックスと尺八なら彼らが習得するのは無理である。
三線は練習すれば誰でも弾きながら琉球民謡を歌うことができる。意外であるがギターなどに比べて三線を弾きながら歌うのは簡単である。
琉球民謡には他県の民謡とは違う特徴がある。琉球民謡は男の女のデュエット曲が非常に多い。そして、歌いやすい。
琉球民謡の歌詞は琉歌と同じで8886と歌詞が短い。短い歌詞を男女が交互に歌うのが琉球民謡である。
三線があればみんなが楽しく歌うことができるのが琉球民謡の特徴である。いわゆる、今のカラオケか沖縄には昔からあったということである。
本土の民謡は歌い手と聴衆に別れていて、高度な技術で演奏し歌うが、琉球民謡はみんなで高度な技術がなくてもいい。みんなで楽しく歌うのが琉球民謡である。
歌い手と聴衆に別れているのは琉球古典である。それに八重山民謡も琉球古典と同じで歌い手と聴衆に別れている。
民謡教室の先生がいうには、琉球民謡は四畳半で楽に歌うものであるが八重山民謡はオペラのように多くの人に聞かせるものであり、喉の鍛え方が違うと言う。

沖縄出身者の男女が公園などに集まって三線を弾きながら歌うのは、沖縄出身者にとって至極当然のことであった。
沖縄は昔から「モウアシビー」が盛んであった。「モウアシビー」を共通語でいうと「毛遊び」である。毛とは芝生などの草であり、「モウアシビー」とは芝生などが生えている村の広場に若い男女が集まって酒を飲み、歌を歌い、踊ることである。
大阪の公園などでやる「モウアシビー」は大阪人に嫌われたが、「モウアシビー」は沖縄の人たちの心をつなぐものであった。
神山政良牧師は、昼から三線を弾いているのを聞いて、大阪人に誤解されるのは無理ないと批判しているが、大阪人は軽蔑していたとしても沖縄人はそうではなかっただろう。
仕事を終われば彼の周囲に集まり、酒を飲み、歌い踊ったに違いない。ストレスを解消して明日も元気で働くエネルギーを蓄えただろう。
大阪に移住した沖縄人は大阪で差別されながらも沖縄に帰ることができできなかった。行き場のない沖縄人が頑張ることができたのは沖縄人同士が肩を抱き合う「モウアシビー」精神であったに違いない。それが沖縄人の逞しさでもある。その逞しさが大正区の沖縄村をつくり、大阪で生き抜いたのである。

大阪だけでなく、ハワイやブラジルなど世界に移住した沖縄出身者の心をつないだのが三線であり、琉球民謡であり、「モウアシビー」精神であった。ハワイに移住した沖縄出身者は3000丁の三線を持っていたという。彼らはハワイでも集まり「モーアシビー」で沖縄民謡を歌い、踊ったのである。
「世界のウチナーンチュ大会」が四年に一度開催されるようになったが、これも三線、琉球民謡、モーアシビーが大きな影響を与えたのである。

大阪の沖縄人差別の大きな原因は沖縄の経済が近代化していなかったことである。琉球王国時代の区割り制度によって、沖縄の農民は他の村との交流が許されず、小さな村でお金による売買がない、原始共産社会状態の生活をしていた。明治時代になっても農業従事者が七割の沖縄では経済も文化も近代化するのが遅かった。そのままゆっくりと沖縄の近代化が進んでいけばよかったのだが、日本は経済不況になり、それが沖縄経済にも影響して砂糖がうれなくなり、ソテツ地獄と呼ばれた経済不況に陥った。
沖縄で生きていくことができなくなった教養のない貧しい人たちが食を求めて大阪に移住したのが沖縄差別の原因だったのである。
沖縄のソテツ地獄という不幸が大阪では沖縄差別という不幸を生んだのである。

大阪の沖縄差別は国による差別ではなかった。実社会で起こった差別であった。国は沖縄でも学校を建設して共通語を教え沖縄の人々の教養を高める政策を実施した。もし、沖縄県民全体に国の教育が行き渡り、共通語が自由に使え、近代文化をマスターしていたら大阪の沖縄差別は生まれなかっただろう。国は沖縄差別をしたのではなく沖縄差別をなくす努力をしたのである。しかし、政策が浸透する前にソテツ地獄の影響で大阪で沖縄差別が生じた。

現在の沖縄県民は教育が行きわたり共通語を使うし教養もある。だから、本土に移住した沖縄県民が戦前の大阪で起こったような沖縄差別を受けることはない。沖縄差別がなくなったのは差別を受ける原因が解消したからである。




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