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2019年10月20日

慰安婦だけは性奴隷ではなかった



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慰安婦だけは性奴隷ではなかった
 韓国左翼が主張する「慰安婦は性奴隷である」を否定し性奴隷ではなかったことを証明する目的で書いている。慰安婦=性奴隷を論破するには遊女が性奴隷であった歴史的事実について説明しなければならないと考えている。そして、遊女だけでなく江戸時代=封建社会には奴隷に近い人たちがいて、それが明治以後にも居たことを指摘する必要がある。
「慰安婦だけは性奴隷ではなかった」を証明するには江戸から明治の性奴隷であった遊女の解明が必要である。

チャンネル桜沖縄で金城テルさん私がキャスターを務めた10月10日に私の「これだけは言いたい」コーナーで、江戸時代の舞妓や遊女は性奴隷であったことを話した。そして、性奴隷とは売買されたこと、選択の自由がないことであるとであり、それは舞子も遊女と同じ性奴隷であったことを話した。そして、沖縄で吉屋チルーは琉歌の天才として名をはせたが彼女もまた遊郭の性奴隷であり十八歳の時に売春を強要された。しかし、彼女は性奴隷になることを拒み自殺したことを話した。琉歌の天才チルーもまた性奴隷であり、自由になるには死ぬしかなかったのだ。
 沖縄では明治になっても少年は糸満売り」少女は「ジュリ売り」があったことを話した。韓国も沖縄のように売買があり、妓生のような性奴隷が居たことを話した。戦後の有名な民謡歌手糸数カメも八歳の時にジュリ売りされたことを話した。
するとチャンネル桜が終わった後に、なんと金城テルさんは糸数カメを知っていて彼女の演武も見たと言ったのだ。これには驚いた。それだけではなかった。テルさんは奄美大島にも辻があったというのである。また、テルさんが診療所で看護師見習いとして働いていた時に11歳くらいの少女が家事手伝いのために母親に連れてこられた。その時院長が母親にお金を渡すのを見たというのだ。母親は院長に何度もお辞儀をした後に少女を残して去っていった。少女の名前はイヌコといった。イヌコとは犬の子というイメージであるし、まさかイヌコではないだろうと思ってテルさんに聞いたがテルさんは少女の名前をイヌコであり、はっきり覚えていると言った。
テルさんは少女の名前を言った後に急に笑い出した。笑いながらイヌコのエピソードを話した。
ある日、ヘビースモーカーの院長がタバコを吸いたくなってイヌコに、「マッチ持ってきてくれ」といった。するとイヌコは風呂の水を沸かしていたかまどから燃えている薪を取り出し院長のところに持ってきたという。
マッチを持ってきてと言われたのにイヌコは燃えている薪を持ってきたのである。イヌコが薪を持ってきた情景を思い出してテルさんは笑った。テルさんの説明では大島の地方には「マッチ」に近い発音で「火」をさす方言があり、「マッチ」という共通語を知らないイヌコは院長が「火を持ってこい」と勘違いして燃えた薪を持ってきたのだろうとテルさんは言った。

イネコは売られたのである。「売られた」という表現に反発する人は多いと思う。お手伝いとして働くのはイヌコである。だから報酬はイヌコがもらうべきであるがイヌコの報酬は母親がもらった。親がイヌコを売ったという解釈ができる。
貧しい家のイヌコが手伝いとして診療所で働くことは家にとっては口減らしができるから助かる。口減らしだけでなくお金も入る。イヌコはイヌコで貧しい家よりもおいしい食事ができる。親にとってもイヌコにとってもありがたいことである。しかし、現代は働く人に報酬を払う。もし、イヌコのように診療所の家事手伝いをしたなら報酬はイヌコがもらうのが現代社会である。現代は11歳の子供がイヌコのように働くことは禁じている。義務教育があるからだ。現代は中学を卒業してから働くことになる。戦前の義務教育は小学校までだから小学校を卒業すればイヌコのように働くことはできた。現代は本人に報酬が払われるがイヌコの場合は親に払われた。それから見ればイヌコは親が院長に売ったことになる。イヌコの人権はない。

テルそんはイヌコの話をした後にテルさんが小学一年生の時に赤ちゃんをおんぶして通う少女が二人いたことも話した。赤ちゃんが彼女たちの弟妹であったなら私に話すことはなかっただろう。つまり赤ちゃんは彼女たちの弟妹ではなかった。二人はイヌコのように遠い村から子守としてやってきたのだ。
子守の話を聞いてすぐに頭に浮かんだのが「五木の子守歌」と「叱られて」だった。「五木の子守歌」はよく歌っていたが昔は子守歌にしてはおかしいなと思いながら歌った。有名な子守歌として「シューベルトの子もり歌」がある。

ねむれねむれ 母の胸(むね)に
ねむれねむれ 母の手に
こころよき 歌声に
むすばずや 楽しゆめ

 子守歌とは赤ちゃんを心地よく眠らす歌と思っていたが五木の子守歌」は違っていた。違いに気づいたのは高校生の時である。私が衝撃を受けたのは四番であった。
四おどんがうっ死んだら   
道端ちゃいけろ   
通る人ごち 花あぎゅう
 私が死んだら墓ではなく道端にいけろというのである。そしたら、道を通る人が花を活けてくれるというのである。子守りなのだから自分の弟妹を子守りしていると思うのが普通である。それなのになぜ家族の墓ではなく道端にいけろというのか。理解できなかった。道端にいけろという理由を三番で歌っている。
三おどんがうっ死んだちゅうて   
誰が泣いてくりょか   
うらの松山 蝉が鳴く
私が死んだら松山の蝉だけが泣いてくれるというのである。我が子の死を悲しまない親はいない。子守の少女が死ねば親は悲しむはずだ。それなのに少女は親ではなく蝉が泣くというのである。考えられないことである。被害妄想の強い少女なのかもしれないと思ったこともある。貧しい農村の少女が裕福な家に子守として預けられた歴史があることを知って初めて子守の少女がその家の娘ではなく遠く離れた貧しい村の少女であることが分かった。そして、一番の歌の意味を理解した。
一おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先きゃおらんと 
盆が早よ来るりゃ 早よもどる
私はお盆で子守りの仕事が切れる。お盆から先はこの家に私は居ない。親の所に帰れる。
 一日も早く親の待つ家に帰りたい少女の気持ちをうたったのが一番である。しかし、中高生の頃の私ではおどまの意味が分からないし、盆ぎりの意味も分からなかった。盆から先きゃおらんとの意味も分からなかった。
 「五木の子守歌」は貧しい農家の少女が裕福な家の子守となり、子守の孤独の気持ちをうたった歌であった。子守奉公に出された娘たちが、背中の赤ん坊をあやしながらわが身を嘆いて歌った子守唄なのである。「竹田の子守歌」も同じである。

 「叱られて」は1920年の作品である。「叱られて」も子守りの歌である。子守の歌であることが分かるのが二番である。
二叱られて 叱られて
口には出さねど 眼になみだ
二人のお里は あの山を
越えてあなた(彼方)の 花の村
ほんに花見は いつのこと

一番の「この子は坊やを ねんねしな」で子守であることがわかる。二番で遠い村から来たことがわかる。
『叱られて』は作詞家清水かつらが21歳頃の作品である。幼い頃に母と生き別れた悲しみを、親元を離れ奉公へ出された子供の心境と重ね合わせた詩だと言われている。「口には出さねど 眼になみだ」は継母に遠慮して反抗することができなかった清水かつらが親に主人のいうことを聞きなさい。反抗してはいけないとしつけられた子守と重ね合わせたのだろう。
「赤とんぼ」は子守りをされた子の歌である。一、三番でそのことがわかる。
一、夕焼、小焼の、あかとんぼ、
負われて見たのは、いつの日か。

子守におんぶされて赤とんぼを見たのはいつのことだろう。
三、十五で、姐(ねえ)やは、嫁にゆき、
お里の、たよりも、たえはてた。

 子守を終えて自分の里に帰った子守の姐やは十五歳で嫁に行った。嫁に行く前にはあった便りは来なくなった。

「姐や」は自分の姉ではなく、この家で子守奉公していた女中のことである。「お里のたより」は、子守をしていた姐やの故郷からこの家に送られてくる便り。

封建社会の江戸時代には遊女、お手伝い・女中・子守しか働く場所はなかった。他にも女性が働く場所があっただろうと思うかもしれないが、そうではなかった。女性が舞台で芸を披露して収入を得ることさえ禁じられていた。歌舞伎では女を男が演じる。女を演じる役者を女形(おやま)という。女方が登場したのは女性が舞台に立つのを禁じられたからである。
歌舞伎を最初に始めたのは出雲阿国(いずもの おくに、元亀3年?(1572年) - 没年不詳)である。彼女は
阿国は派手な男装をして踊ったという。身形(みなり)や言動の風変わりな人、アウトロー的な人などを「かぶきもの」と呼び、おくにの踊りを歌舞伎と呼んだ。歌舞伎はどんどん発展するが江戸幕府は派手な踊りを禁じ、女性が舞台に立つことも禁じた。歌舞伎は江戸時代に発展したが女性が舞台に立つことは禁じられていたので男が女を演じるようになった。江戸時代には女性が表の舞台に立つことを禁じられたのだ。そのために昔から続いていた遊郭で武士や商人などの金持ちにだけ芸を披露した。遊郭以外で芸を披露することはできなかった。女性が女優として舞台に立つことができたのは明治になってからである。
明治政府の近代化政策によって、女性が舞台に立つことができるようになった。演劇はヨーロッパの戯曲を共通語に翻訳して、共通語で演じる新劇が登場した。有名な女優が松井須磨子である。
松井須磨子が演じた劇
『ハムレット』(オフヰリア)
『人形の家』(ノラ)
『復活』(カチューシャ)
『サロメ』(サロメ)
『カルメン』(カルメン)
松井須磨子が歌った歌謡
『カチューシャの唄』
『ゴンドラの唄』
『今度生まれたら』
松井須磨子が歌った『カチューシャの唄』『ゴンドラの唄』は戦後も歌われ続けた。私もラジオなどでよく聞いた。
明治時代になって近代化が進んでいったが江戸時代の経済システムも根強く続いた。吉原遊郭のシステムは江戸時代のままだった。村で少女を買う男を女衒と言った。遊女の居る家を妓楼と言い、主人を楼主といった。遊郭は政府によって場所が決められた。遊郭の収益は莫大であり一流企業と同じ売り上げがあった。 
全国511箇所の遊廓において貸座敷を営業する者は1万1154人、娼妓は5万56人、遊客の総数は1か年に2278万4790人。その揚代は7223万5400円であった。
遊郭を順調に運営するために多くの男も必要であった。江戸時代にはすでに遊郭は会社化されていたのだ。遊女の安全は男衆が徹底して守った。何百年もかけて作り上げた遊郭のシステムが簡単に崩壊するはずはなかった。
遊郭は次第に芸と性に分業化していく。つまり芸に優れた芸妓は踊りや歌などを中心に披露した。しかし、高度な芸を身に着けることができたのはわずかである。芸妓は教養もあり、スポンサーは高額を払って見受けし、妾にするだけでなく妻にするスポンサーも多かった。
明治時代には芸妓の時代と言われた。八歳の頃から芸だけでなく、身分の高い人と接客するための教育も受けた。だから、芸妓は美貌で社交上手な女性として多くの元勲に愛され、正妻となった者も少なくなかった。グーグルで調べて驚いた。なんと明治時代の有名な政治家が芸妓を妻にしていた。

伊藤博文 - 稲荷町の遊郭・小梅(伊藤梅子)
原敬 - 新橋の遊郭・浅子
新橋の下級芸者の出で美貌でもなく無教養であったが人扱いがうまく、妾を経て正妻となった。
板垣退助 - 新橋・小清(板垣清子)
新橋金春通りの人気芸者だったが板 垣に身受けされ妻として入籍。
犬養毅 - 犬養千代子 … 元芸妓と言われている。。
山県有朋 - 日本橋「吉田屋」大和(吉田貞子)。
陸奥宗光 - 新橋「柏屋」小鈴(小兼とも。陸奥亮子)
木戸孝允 - 京都三本木・幾松(木戸松子)
井上馨 - 新橋・新井武子 … 中井弘の元妻。
桂太郎 - 新橋「近江屋」お鯉 (芸妓)
妾だが正妻病身を理由に実質的な妻として振る舞った。
 芸妓は芸に優れていただけでなく、才女でもあった。だから、多くの明治の政治家か妻にしたのである。

江戸時代が町人経済が発展していくにつれて客層は広がり、芸妓の舞や歌を楽しむ大金持ち、その下のランクの町人は遊女の相手となった。芸よりも性の相手を求める客も増え、そのような客を相手にする芸のない女性も増えた。遊郭は分業化していったのである。


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Posted by ヒジャイ at 10:39│Comments(0)慰安婦問題
 
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