てぃーだブログ › 沖縄・日本・アジア・世界 内なる民主主義 › 世界の民主主義事情 › ソ連はブルジョア独裁国家だった

2016年02月14日

ソ連はブルジョア独裁国家だった






新発売・沖縄内なる民主主義7 1620円(税込み)A4版
沖縄県民は翁長知事に騙されている
沖縄地方紙のプロパガンダに成り下がった佐藤優
事実を隠蔽する最低ジャーナリスト金平茂紀


本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

みなさんの意見・感想は
ヒジャイ掲示板へ

ヒジャイ掲示板


クリックお願いします
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村

ソ連はブルジョア独裁国家だった
1939年、スターリンは次のように述べた。
「社会主義ソ連邦では既に階級は存在せず、抑圧機構としての国家も存在しない」。

スターリンのいうようにソ連の民間の大地主や資本家は居なくなった。しかし、それがソ連から大地主や資本家がいなくなったことにはならない。資本と言うのは労働者が生産するための工場であり機械であり原料である。ソ連に工場があり労働者が存在する限り資本は存在する。民間に資本を所有する者がいないということは誰が資本を所有するようになったか。それは共産党である。共産党が資本を所有したのである。土地も共産党が所有したのである。
共産党一党独裁国家とは政治家と資本家と官僚が一体となった国家である。政治家が資本家でもあるから経済政策を強引に進めた。それがスターリン時代に如実に表れている。

1929年にスターリンは、第一次五カ年計画の発動した。スターリンの目的は農業国ロシアを工業国に変えることであった。スターリンの経済政策は、農民の強制集団化であった。すべての農民をコルホーズと呼ばれる集団農場に一括してまとめ、そこで収穫される穀物を国家がすべて収奪しようというのである。そこでは、農機具は共同で用いられ、一切の私有は禁じられたのである。
生産した穀物をすべて国のものにするということは、農民を搾取することである。資本主義における労働者の生産物を資本家のものとするのと同じである。農民は土地を持たないから、国に雇われた労働者になった。国が土地所有者の大地主になった。
スターリンの強引なやり方は、これまで、着々と富と財を蓄えていたクラークと呼ばれた富農層から猛烈な反発を食った。彼らにしてみれば、これまでの財産をすべて失い、以後も財を貯めることも許されないからだ。スターリンと クラークの対立は政治権力を持った資本家と民間資本家の対立である 。
スターリンは農業集団化に従わない農民には、情け容赦のない弾圧を加えた。29年だけでも、1千万人近い農民が、処刑されたり、シベリアなどに送られたという。それは民間の資本を国が奪い、国の資本独占化を目的にしたものであった。

スターリンは国の資本独占化を「我々は、国家の福祉増進という高潔な目的のために、日夜努力せねばならない。国内の工業化を実現するためには、ある種の犠牲も覚悟せねばならず、国民は耐久生活に耐えねばならない」と弁明している。

日本も明治時代に国鉄や八幡製鉄所など国営の会社をつくった。明治政府も日本の工業化を目指した。それはスターリンと同じである。しかし、明治政府は民間人による工業化も認めたし、八幡製鉄所など国営の会社を民間に壌土している。スターリンは民間人による工業化を禁止し、国営の工業化を目指した。そして、労働者には犠牲と耐久生活を強要した。 労働者は国の独占資本によって搾取され、低所得を強いられたのである。
ソ連邦の国民はすべて労働者階級になったからスターリンのいうように国民社会には階級は存在しなくなった。しかし、共産党がブルジョア階級になり労働者を搾取する存在になったのである。ソ連こそがブルジョア独裁国家だったのである。
米国などの議会制民主主義国家では民間に資本家も労働者も居る。政治は国民の選挙で選ばれた大統領や議員によって行われる。国は資本家の要求も労働者の要求も受け入れる。いや、資本家の要求はほとんど受け入れないといったほうが正しい。資本家とは株主であり、経営者ではない。経営者は質的に高い労働者であり、会社が発展するために努力する。会社の発展は株主だけでなく労働者の利益になるし、国の経済発展につながる。
議会制民主主義国家の政治家は資本家=株主のために政治を行うのではなく、国民のために政治を行う。それは経営者としての労働者、直接生産者としての労働者の利益にもなる。しかし、ブルジョア独裁国家のソ連はブルジヨアジー共産党の利益のみを求め、労働者を搾取。弾圧し、ブルジョア共産党の利益に反する者は徹底して除外していった。それが如実だったのがスターリンの血の粛清である。

スターリンの血の粛清
スターリンは農民だけでなく、民族主義者、知識人など彼の体制に批判的な人間も、すべて、その対象になっていった。彼らは、「人民の敵」と名指しされ裁判にかけられた。否、それは、裁判とは名ばかりの大量処刑であった。容疑がかけられると、陰惨な拷問や薬によって強制的に自白させられ、即刻、銃殺刑かシベリアの強制収容所に送られるのである。
1937年と1938年の2年間に1,575,259人の国民を逮捕しており、このうち87%以上の1,372,382人に及ぶ人が「反革命罪」・「反ソ扇動罪」などに問われた政治犯であった。そして逮捕された者のうち85%が有罪にされており、有罪者のうち半数強が死刑判決を受けているのである(それ以外の者もほとんどが強制収容所送りか流刑だった)。

ヨーロッパやアメリカには民主主義思想が強かったのでブルジヨア階級が国家に圧力をかけることはあったがブルジヨア階級が国家を完全掌握したことはなかった。ところが労働者を解放するのが目的であったはずのソ連、中国の社会主義国家は共産党が資本を独占することによってブルジョア独裁国家になったのである。

スターリンの死去から3年が経過した1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、第20回党大会において、外国代表を締め出し、スターリンの個人崇拝、独裁政治、粛清の事実を公表し、スターリン批判をした。。特に、全領土で吹き荒れた大粛清の契機となったキーロフ暗殺に至る陰謀について詳細に明かされた。

演説の内容

1 個人崇拝はマルクス、レーニンによって戒められていたにもかかわらず、レーニン死後党と国家の指導者となったスターリンは、自らを対象とした個人崇拝を許すどころか奨励し、党生活や社会主義建設に重大な障害をもたらした。
2 すでにレーニンはスターリンの指導者としての資質に問題があることを指摘、彼を書記長職から異動させることを提案していた。だがレーニン死後、スターリンはこうしたレーニンの忠告に耳を傾けるそぶりを見せたため、彼はその後も書記長職に留まった。だが彼はほどなく本性を現し、党生活の規律を無視して専横するに至った。
3 1934年の第17回党大会で選出された中央委員・同候補139名のうち、70パーセントにあたる98名が(主に大粛清の際)処刑された。党大会の代議員全体を見ても、1,966名のうち1,108名が同様の運命をたどった。彼らに科せられた「反革命」の罪状は、その大半が濡れ衣であった。
4 .スターリンの弾圧はソ連社会の各方面で活躍する活動家、さらにおびただしい数の無辜の市民に及んだ。彼らに科せられた「トロツキスト」「人民の敵」その他の罪状は、これまたでっちあげであった。
5 ヒトラーは権力掌握時からソビエト連邦への攻撃と共産主義の抹殺の意図を隠さなかったにもかかわらず、スターリンはヒトラー・ドイツに対する防衛の準備を怠り、それどころか有能な多くの軍事指導者をその地位から追放、逮捕さらには処刑に追いやった。「大祖国戦争」(独ソ戦)の初期の戦闘において赤軍が重大な敗退を喫し、兵士、市民に莫大な犠牲者を生じた責任はスターリンにある。
6 スターリンの専横ぶりは、第二次世界大戦後のソ連と「社会主義兄弟国」(東側諸国)との関係にも悪影響を及ぼした。その最も際立った重大な例はチトー率いるユーゴスラビアとの関係悪化で、当時両国間に生じた問題は、同志間の話し合いで解決できなかったものは何一つなかったのに、「俺が小指一本動かせばチトーは消えてなくなる」と言い放ったスターリンの傲慢な態度が原因で両国関係は決裂し、ユーゴを敵対陣営に追いやってしまった。

フルシチョフはスターリンの血の弾圧を批判したのであって、スターリンが血の弾圧ができた背景、共産党一党独裁の矛盾を批判したのではなかった。スターリン批判以後のソ連は血の弾圧は緩んでいったが、共産党が独占資本家であることに変わりはなく、労働者を搾取する体制は変わらなかった。

 1997年のモスクワ放送では『10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年の間に6200万人が殺害され、内4000万人が強制収容所で死んだ。レーニンは、社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1260万の命を奪った』と放送したがモスクワ放送も社会主義国家の矛盾を指摘していない。

フルシチョフのスターリン批判の直後、ハンガリーで民主化を求める市民革命(ハンガリー動乱)が起きたが、ソ連軍が出動し鎮圧した。鎮圧したのはスターリンではなくフルシチョフだったのである。ハンガリー弾圧はスターリン主義ではなくフルシチョフ主義である。フルシチョフ以後もソ連邦の労働者の民主化を弾圧し続けた。ということは民主化弾圧は共産党ブルジョア独裁にあることになる。

 マルクスは労働者階級の解放だけを目指していたのではない。労働者階級の解放が人間解放につながると考えていた。

『独仏年誌(ドイツ語版)』に掲載された『ヘーゲル法哲学批判序説(ドイツ語版)』
この著作からマルクスは「非人間」のプロレタリアート階級を中心にした「人間解放」を訴えるようになった。

人間解放を行うためにはどうすればいいのか。それは市民社会の階級でありながら市民から疎外されているプロレタリアート階級が鍵となる。この階級は市民社会の他の階級から自己を解放し、さらに他の階級も解放しなければ人間解放されることがないという徹底的な非人間状態に置かれているからだ。この階級はドイツでも出現し始めている。
『ヘーゲル法哲学批判序説(ドイツ語版)』
 マルクスは1818年5月5日に生まれ 、1883年3月14日に死んだ。マルクスが生きていた時代は150年も前であり、まだ資本主義は発達していなかさった。資本家より土地所有や貴族の権力が強かった時代である。議会制民主主義も発達していなかった。その時代にマルクスは人間解放を目指していた。そして人間解放のカギは労働者階級の解放であると考えていたのである。

 マルクスはリンカーンの奴隷解放政策を支持していた。
1861年にアメリカ南北戦争が勃発して以来、イギリス世論はアメリカ北部(アメリカ合衆国)を支持するかアメリカ南部(アメリカ連合国)を支持するかで二分されていた。イギリス貴族や資本家は「連合国の奴隷制に問題があるとしても合衆国が財産権を侵害しようとしているのは許しがたい」と主張する親連合国派が多かった。対してイギリス労働者・急進派は奴隷制廃止を掲げる合衆国を支持した。この問題をめぐる貴族・資本家VS労働者・急進派の対立はかなり激しいものとなっていった。
これは様々な勢力がいるインターナショナルが一致させることができる問題だった。ちょうど1864年11月には合衆国大統領選挙があり、奴隷制廃止を掲げるエイブラハム・リンカーンが再選を果たした。マルクスはインターナショナルを代表してリンカーンに再選祝賀の手紙を書き、アメリカ大使アダムズに提出した。マルクスはエンゲルスへの手紙の中で「奴隷制を資本主義に固有な本質的諸害悪と位置付けたことで、通俗的な民主的な言葉遣いとは明確に区別できる手紙になった」と語っている。
この手紙に対してリンカーンから返事があった。マルクスは手紙の中でリンカーンにインターナショナル加入を勧誘していたが、リンカーンは返事の中で「宣伝に引き入れられたくない」と断っている。だがマルクスは「アメリカの自由の戦士」から返事をもらったとしてインターナショナル宣伝にリンカーンを大いに利用した。実際そのことが『タイムズ』に報道されたおかげで、インターナショナルはわずかながら宣伝効果を得られたのだった。

 マルクスが目指しているのが人間解放であったから、リンカーンの奴隷解放に賛同したのである。
 ただ、マルクスは自由主義、民主主義を否定していた。「自由な国家」を目標とするのはブルジョワ的理想であると批判し、「プロレタリアート独裁」のほうが「未来の共産主義社会の国家組織」につながるものと考えていた。
 マルクスのいうプロレタリア独裁というのは労働者が搾取されない社会のことである。労働者が搾取されないためには資本が労働者のものとなることである。マルクスの考えたプロレタリア革命と共産党が資本を独占した共産党一党独裁国家ソ連とは本質的に違うものである。ソ連は共産党がブルジョアジーになったのでブルジョア独裁国家になったのだ。

 ハンガリー動乱は国家に独占されている資本を労働者のものにし、労働者が会社経営をし、社会を民主化することであった。革マル派や中核派は反スターリン主義を掲げて日本共産党から離れたが、ハンガリーの労働者が目指したのは議会制民主主義国家であった。社会主義国家ではなかった。ハンガリー動乱が本当に伝えたのは社会主義の否定であった。革マル派や中核派の反スターリン主義ではなかったのだ。
 ハンガリー動乱が反スターリン主義ではなかったことは1989年の民主化革命で明らかになる

ハンガリー共和国成立
1989年10月23日、ハンガリー共和国憲法施行により、多党制に基づくハンガリー第三共和国が成立した。
ポーランド民主化運動
1989年10月には、社会主義労働者党は社会民主主義政党のハンガリー社会党へと改組、さらに10月23日には新憲法「ハンガリー共和国憲法」が施行され、ハンガリー人民共和国は終焉した。

ベルリンの壁崩壊
東ベルリン市民がベルリンの壁の検問所に殺到し、殺到した市民への対応に困った国境警備隊の現場指揮官は11月9日の深夜に独断で検問所を開放した。11月10日に日付が変わると、どこからともなく持ち出された重機などでベルリンの壁は破壊され、その影響は世界的に広まった。

ブルガリアの民主化
1990年6月になると前年にデモの武力鎮圧を示唆したとされるムラデノフの発言が問題視され、ムラデノフは大統領を辞任し、翌1991年に行われた2回目の自由選挙で社会党は下野した。

ビロード民主化革命
1989年11月17日に至り、民主化勢力を中心にデモやストライキ・ゼネストを度重なって行った。それらの事態を収拾できなくなった共産党政府はなし崩し的に民主化勢力との話し合いによる解決を模索することとなり、結果、両者は共産党による一党独裁体制の放棄と複数政党制の導入を妥結した。

ルーマニア民主化革命
ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、チェコスロバキアでは国内の政権移譲が穏健に済んだのに対して、1989年12月16日に民主化革命が勃発し、治安維持部隊と市民の間で、衝突が起こり多数が犠牲となった上、12月25日にはルーマニア共産党の最高指導者であったニコラエ・チャウシェスクが射殺されて終結した。そして、民主政体を敷くルーマニア共和国が成立した。
 
 東欧の社会主義国家は議会制民主主義国家になった。ハンガリー動乱が議会制民主主義国家を目指した民主化運動であったことは東欧の1989年民主化革命で明らかになった。そして、ソ連も崩壊して議会制民主主義国家になる。

1991年にソ連崩壊
1991年にソ連は崩壊し議会制民主主義国家になる。共産党一党独裁の社会主義国家の次に議会制民主主義国家がやってくることが歴史の必然であることが実証されたのがソ連崩壊である。

 共産党、革マル派、中核派が労働者の解放を本当に目指しているのなら、暴力革命で実現しようとしている社会主義国家が労働者を搾取するブルジョア独裁国家であることに気付くべきである。
 資本を国が所有していない議会制民主主義国家日本、米国では独占禁止法によって企業の独占も禁じている。資本を独占している社会主義とは違い、企業が独占化して政治力を強くするのも議会制民主主義では避けている。

マルクスは
「労働者の貧困と隷従と退廃が強まれば強まるほど彼らの反逆も増大する。ブルジョワはプロレタリア階級という自らの墓掘り人を作り続けている。収奪者が収奪される運命の時は近づいている。共産主義への移行は歴史的必然である」
と予言しているが、マルクスの予言はブルジョア独裁国家ソ連に当てはまる。議会制民主主義国家日本や米国には当てはまらない。

 社会主義国家を目指している共産党、革マル派、中核派は本当の共産主義者ではない。今日の議会制民主主義国家では、労働者は「徹底的な非人間状態に置かれて」はいない。マルクスは貴族、大地主、ブルジヨア、労働者、奴隷が混とんとしていた1800年代に生きていた人間であり、日本、米国、ヨーロッパの議会制民主主義国家を見たことがなかった。だから、資本主義社会では労働者は惨めな生活を強いられると思ったのである。

 マルクスのいう共産社会は共産党、革マル派、中核派などの共産主義者では実現できない。彼らは真の共産主義者ではないからだ。
 民主社会と共産社会は人間が差別も搾取もなく自由な社会であり本質的には同じである。議会制民主主義は民主社会目指しているがそれは共産社会を目指していることでもある。
本当の共産主義者ではない連中が共産主義を名乗っている現在では共産主義は死語にしたほうがいい。議会制民主主義を主張するだけで十分である。

2016/02/12 に公開
平成28年2月11日木曜日に放送された『沖縄の声』。ロシアのプーチン大統領が、ロ­シア革命の指導者レーニンに対して「彼の思想がソ連を崩壊させた」と批判し、賛否両論­の声が上がっている。本日は、キャスターの又吉康隆氏がプーチン大統領が批判したレー­ニンを元に共産党・革マル派・中核派について解説していきます。
出演:
  又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)



同じカテゴリー(世界の民主主義事情)の記事

 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。