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2018年03月14日

花魁も妓生(キーセン)も性奴隷であった。慰安婦は性奴隷ではなかった。



沖縄内なる民主主義15・マリーの館発売中

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http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

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花魁も妓生(キーセン)も性奴隷であった。慰安婦は性奴隷ではなかった。
慰安婦問題で「彼女は慰安婦ではない違法少女売春婦だ 少女慰安婦像は韓国の恥である」を出版したので私にとっては慰安婦問題は一段落したと思っていた。しかし、そういうわけにはいかなかった。
韓国挺身隊問題対策協議会は、慰安婦は性奴隷であったと主張し続けている。慰安婦は性奴隷ではなかったことは何度も説明したが、性奴隷の問題については追及しなかった。慰安婦が性奴隷ではなかったことを説明すればいいと思っていたからである。それに自称元慰安婦たちの発言から彼女たちが性奴隷であったことを感じさせるようなものはなかったから性奴隷についての追及はしなかった。
 自称慰安婦たちの中には性奴隷にされた女性がいるだろうという予想はあったが、性奴隷ではなかった女性も居ただろうと考えていたから性奴隷については追及しなかったこともある。。
自称元慰安婦たちが慰安婦ではなく違法売春婦であったということは説明してきたが、彼女たちが性奴隷であったということを説明することはなかった。しかし、性奴隷について追及する必要を感じるようになってきた。韓国で文在寅大統領が誕生し、文大統領が慰安婦問題を取り上げるようになり、彼の主張は挺対協の主張と同じだった。挺対協の主張が韓国の大統領にも大きく影響を与えているのである。
挺対協は慰安婦は性奴隷であったと主張し続けているし、韓国でも世界でも慰安婦は性奴隷であったという挺対協の主張が広まっている。「慰安婦は性奴隷だった」の発信の元となっているのが挺対協である。私は文大統領批判よりも挺対協の理論を覆さなければならないと思い、再び慰安婦に関する資料をネットで探し、挺対協批判を展開した。
すると、挺対協が集めた自称元慰安婦たちの中の最初に元慰安婦であったと名乗った女性が実は性奴隷であったことを彼女の発言の中から見つけた。
彼女の名前は金学順(キム・ハクスン)である
彼女に関する資料を見つけた時、彼女が性奴隷であったことがすぐに分かった。それは彼女が15歳の時に40円で妓生巻番に売られたことを話したからである。
奴隷の定義の第一が売買されることである。金学順は40円で売られた時に奴隷になったということが判明したのである。妓生養成学校の存在そのものが朝鮮の売春婦は性奴隷であったことを示すものである。朝鮮には少女の売買、妓生養成学校、妓生売買による斡旋、売春宿と事業は分業化され、妓生を商売にしている大きな売春組織があったのである。売春業は大企業と同じくらいに莫大な収入がある。売春業が小さな事業と思ったら間違いである。明治政府が公娼制度にしたのは莫大な税金を取ることができたからでもある。
朝鮮では妓生のような女性の売買がシステム化されていただろう。だから、慰安婦以外の民間の売春婦はみんな性奴隷だったのである。江戸時代の遊郭の遊女が全員性奴隷だったように。
慰安婦ではなかった自称元慰安婦たちは金学順のように性奴隷であったのである。性奴隷が存在していたのは朝鮮だけではない。戦前の沖縄にも多くの性奴隷が居た。
沖縄の性奴隷
 戦前は男の子は糸満売り、女の子はジュリ売りというのがあった。
糸満売りとは糸満の漁師に子供を売ることである。子供の頃に親から聞いた話では、漁師は泳ぎをマスターさせるために子どものお腹を縄で縛って海に放り投げたそうだ。もし、溺れて死んでも漁師が罰せられることはなかったと親は話していた。
 ジュリ売りとは那覇の遊郭に女の子を売ることである。多くは10歳未満の時に売られ、芸を教え込まれた。芸と売春がジュリであった。
 戦前、わがままで親に反抗すると「糸満売りするぞ」「ジュリ売りするぞ」と言って子供をおとなしくさせたと親は話していた。

 実家から1キロ近く離れ所に比謝川がある。読谷村と嘉手納町の分疑点である。比謝川には比謝橋がある。
比謝橋は琉球王国の遊女で歌人の吉屋 チルー(よしや チルー、1650年~ 1668年)が読んだ「恨む比謝橋や 情ねん人ぬ 我ん渡さ思てぃ 掛きてぃうちゃら」という琉歌で有名である。吉屋チルーは貧しい農民の子として生まれ、わずか8歳にして那覇の仲島遊郭へ遊女として売られた。
 糸満売りやジュリ売りのことと吉屋チルーの話は子どもの頃から何度も聞いていた。吉屋チルーの琉歌には私の特別な思いがある。その思いを長編小説「マリーの館」に書いた。
吉屋チルー
吉屋チルーの琉歌が浮かんできた。読谷の貧しい農村に生まれた吉屋チルーはたった八歳で女の性を売る那覇仲島の遊郭に売られた。

恨む比謝橋や
情ねん人ぬ
我ん渡さ思てぃ 
掛きてぃうちゃら

(比謝橋よ。私はお前を恨む。非情な人間が、那覇仲島の遊郭に売られていく私を渡そうと企んで、お前を掛けたのね)
搾取され、貧しい生活を強いられたチルーの親は、少女チルーを遊郭に売らなければならない状況に追いやられた。チルーは那覇仲島の遊郭に売られることになった。生まれ育った読谷から出ていく境界には比謝川が流れていた。比謝川には比謝橋が掛かっていた。比謝橋がなければチルーは那覇仲島の遊郭に売られなくてすんだ。チルーが那覇仲島の遊郭に売られなければならない貧困に追いやったのは時の権力者であり、チルーを渡すために比謝橋を掛けたのも時の権力者だった。情ねん人=非情者=権力者。チルーは比謝橋を造った非情で冷酷な権力者に琉歌で恨みを投げつけた。

吉屋チルーは一六五〇年に生まれた。八歳の時に那覇仲島の遊郭に身売りされた吉屋チルーは硫歌の天才少女として有名になりながらも、身受けされるのを拒否し、絶食して息絶えたという。一六六八年、吉屋チルーが一八歳の時である。
平敷屋朝敏(へしきや・ちょうびん 一七〇〇~一七三四年)が書いた「苔之下」という吉屋チルーの物語は、吉屋チルーは仲里按司に恋していたが、仲里按司の母親が病気になって倒れたために、仲里按司は吉屋チルーの待つ仲島の遊郭に行かなくなった。これをよいことに抱母は吉屋チルーを仲里按司から引き離すために、黒雲殿に見受けさせようとした。吉屋チルーは、そのことに怒り、失望し、食を絶って亡くなったと書いてある。
しかし、まて。それは平敷屋朝敏の「苔之下」という俗的な悲恋物語に書かれてあることであり、吉屋チルーの実話ではない。平敷屋朝敏は吉屋チルーが死んで三十二年後に生まれた人物だ。吉屋チルーを直接知っていたわけではない。吉屋チルーが琉歌の天才であり、仲島の名花と呼ばれながらも、十八歳の時に絶食して死んだという伝説を知っていただけだ。「苔之下」以外に「若草物語」「万才」「貧家記」「雨夜物語」等を書いたように、平敷屋朝敏はロマン作家であり、「苔之下」は平敷屋朝敏が書いた悲劇ロマンだ。武士階級のロマンチスト平敷屋朝敏が庶民の天才詩人吉屋チルーの魂を理解できるはずがない。
私には分かる。若い仲里按司と恋をしたというのは吉屋チルーを悲恋物語のヒロインにするための朝敏のでっちあげ話だということを。私には分かる。吉屋チルーの死はそんなロマンチズムな死ではなかったことを。私には分かる。貧しい農家に生まれて教養がないのに歴史に残る琉歌を作った吉屋チルーは天才の中の天才であり、卓越した感受性の持ち主であり、詩人としての気高いプライドを持った少女であったことを。私には分かる。吉屋チルーは女の性を絶対に売らない純粋でプライドの高い詩人であったことを。私には分かる。少女から女の体に成長した吉屋チルーは女の性を売るように強制されたが、拒否したことを。しかし、強固な遊郭の掟は吉屋チルーの拒否を許さなかった。私には分かる。詩人としてのプライドが高い吉屋チルーは、遊郭の掟に抗議して絶食をやり、詩人としての魂を全うするために死を選んだことを。
天才詩人吉屋チルー。生まれながらの詩人吉屋チルー。天才詩人であったがゆえにわずか十八歳で死を選ばなければならなかった吉屋チルー。チルー、チルー。純粋に詩人の魂を一途に生き、そして死を選んだ琉歌の天才少女チルー。かわいそうなチルー。気高いチルー。私は止めどもなく涙が溢れてきた。

琉球王国の王族や士族たちは龍潭池で舟遊びをして優雅な生活を送っていたが、その裏では過酷な搾取によって農民は極貧生活を強いられ、吉屋チルーのように身売りされる少女の悲劇が数多く繰り返されたのだ。吉屋チルーを死に追いやったのは農民を虫けらのように扱う琉球王国支配の社会だった。チルーを死に追いやったのは琉球王国だ。琉球王国のくそったれだ。
        「マリーの館」
 吉屋チルーは八歳の時に仲島遊郭へ遊女として売られたが、チルーだけでなくほとんどの少女が十歳未満の時に売られている。貧しい農家の口減らしのために子供の内に売ったと考えられているが、それだけではない。遊郭には少女の時に買う理由があった。それは接待の仕方と芸をマスターさせるためであった。
 遊郭のお客は士族などの身分の高い人間たちである。彼らと接するには言葉使いや礼儀が必要である。貧しい農民の娘では勤まるものではない。だから、子供の時から徹底して教育する必要があった。
 「恨む比謝橋や」の琉歌は吉屋チルーが八歳の時につくったと言われることがあるが、それはあり得ないことである。教養のない貧しい農民の娘が琉歌をつくれるはずがない。吉屋チルーは琉歌のつくりかたを遊郭で教えられただろう。
 短歌は上の句の五・七・五と下の句の七・七に分けて、歌会で上の句に対して複数の人が下の句を詠むという蓮歌という遊びがあるが、琉歌にも同じ遊びがあった。琉歌は八・八・八・六である。上の句が八・八で下の句は八・六である。遊郭でも蓮歌を楽しんだ。蓮歌遊びで吉屋チルーの有名な話がある。チルーが上の句を、

流りゆる水(みじ)に桜花受きてぃ
※流れている川面に桜の花が落ちた。

と詠んだ。すると芸術のセンスがない武士は、
あま引っ掛かいくま引っ掛かい ちゃー引っ掛かい
※あっちに引っ掛かりこっちに引っかかり、しょっちゅう引っ掛かった。

と詠んだ。芸術のセンスのある武士は、

情きある人ぬ すくてぃみちゃる。
※情け深い人が(桜花)をすくってあげた。

 琉歌や踊り、歌に秀でて、お客を楽しませることができても、遊郭では売春をしなければならなかった。これは沖縄だけでなく日本の芸妓も、朝鮮の妓生も同じだった。
 チルーは琉歌の天才であったと「マリーの館」で書いた。小説だから誇張して書いたと思うかも知れないが、そうではない。本当にチルーは琉歌の天才だと思っている。
詩は神へのお祈りから始まっている。天皇を讃える詩、自然を讃える詩になっていくが、個人の感情をストレートに表現するのは近代詩になってからである。

石川啄木の
働けど働けど 我が暮らし楽にならざり じっと手を見る

は有名であるが、個人の嘆きを直接表現するようになったのは明治になってからである。チルーの「恨む比謝橋や」は琉球王国の時代には生まれるはずがない琉歌なのだ。それに「恨む」という感情をストレートに書いた詩は和歌で見たことはないし、明治以後の短歌でも私は見たことがない。専門家ではないから徹底して調べたのではないので断定はできないが、恐らくないだろう。チルーの「恨む比謝橋や」は日本の文学史で燦然と輝く詩であると私は思っている。

 学生の頃、詩や俳句、小説を書いていた私は文学の歴史に興味があったので表現方法の発展を知るために昔の和歌から現代詩までの表現の違いを注意しながら読んだ。和歌や俳句には「恨む比謝橋」のような個人の感情をストレートに出す詩を見たことはなかった。俳句の偉人である松尾芭蕉は「非常に優れた俳句を詠んでいるが現実の悩みや苦しみはひとつも詠んでいない。それは芭蕉が「世捨て人」になって俳句を詠んだからである。しかし、チルーの「恨む比謝橋」は芭蕉の俳句とは違う。世の悲劇のど真ん中に居ることを詩にしている。こんな詩は古典にはない。「恨む比謝橋」は現代詩に匹敵するといっても過言ではない詩である。

 「恨む比謝橋」は遊郭で士族を相手に詠むような琉歌ではない。うらみつらみの琉歌なのだから遊郭に遊びに来た客の耳には聞かせてはならない琉歌である。この琉歌を聞いた客は不愉快になるだけである。だから、この琉歌は遊郭の客を相手に詠んだのではないだろう。チルーが密かに読んだ琉歌であっただろう。
 一六六○年代の遊郭の少女が密かに詠んだ琉歌がなぜ残ったのだろうか。文字がない時代であったから書き残されたのではない。語り継がれたのである。語り継がれたといっても遊郭は社会とは隔絶していて一般の人とは疎遠であった。「恨む比謝橋」が一般社会に広がったというのも考えにくい。とするとこの琉歌は遊郭の遊女たちに語り継がれたと考えられる。
 と書いた瞬間に、「恨む比謝橋」が遊女たちの心の深い悲しみを詠んでいる琉歌であることに気が付いた。チルーの「恨む比謝橋」は遊女たちの心を代弁している歌であり、遊女たちが心を打たれた琉歌だったと思う。だから、遊女たちが語り継いでいったと思う。
 と書いた時に、「恨む比謝橋」はチルーの辞世の琉歌であったのではないかと脳裏に浮かんだ。チルーが琉歌の才能があったとしても遊郭の経営者にとってチルーは商品である。チルーのつくる琉歌がお客に気に入られて稼ぐことが経営者の望むことである。「恨む比謝橋」をチルーがつくればチルーが琉歌をつくることを禁じたはずである。そして、二度とお客の前で琉歌をつくらせなかっただろう。
 遊郭で生きていくことを拒否し、死を覚悟した時に、死を決めた心が「恨む比謝橋」を詠ったのではないだろうか。チルーの辞世の琉歌ではなかっただろうか・・・。

 吉屋チルーの死についてはもう一つ考えられることがある。
 チルーは絶食をして自殺したと伝えられている。絶食をして自殺するのは考え難いことである。自殺をするのなら首を吊るなど、一気に死ぬ方法を選ぶはずである。絶食をすると何日間も苦しむ。チルーが絶食自殺をしたとは考えにくい。
 チルーは絶食したのではなく、食事を与えられなかったのではないだろうか。「恨む比謝橋」をつくった少女である。遊郭のやり方に反抗したと考えることもできる。命令に背くチルーに罰として食事を与えなかったのではないだろうか。食事を与えられなくても抵抗を続けたチルーは衰弱していき終いには病死したのではないだろうか。
 経営者にとってチルーは商品である。客を取らないチルーは商品としての価値がない。チルーに客を取るように罰を与え、それでも客を取らないのなら死んでも構わないというのが経営者である。貧しい農民の家から買ったチルーが死んでも経営者が罪に問われることはなかっただろう。

 チルーという名前はチルーの死後五十年に彼女を主人公に「苔の土」という組踊りを書いた平敷屋朝敏が名付けた名前であり、彼女の名前はなかった。吉屋というのは彼女が居た遊郭の置屋のことである。吉屋という遊郭の置屋にいた琉歌の天才の少女が十八歳の時に絶食をして自殺したという伝説を題材に平敷屋朝敏が少女を主人公に「苔の土」を創作したのである。
 十八歳の年齢で自殺した名もない遊郭の遊女が残した「恨む比謝橋」の琉歌が遊女たちに伝えられて、今は比謝橋の傍に碑が建っている。

 吉屋チルーのような遊女たちは性奴隷であった。幼い時に遊郭の経営者に買われ、身分の高い人たちと接客した。商品として高く売れるために礼儀、歌、踊り、琉歌などを厳しく教えられた。経営者にとって遊女への教育は高く売れるための投資であった。
 彼女たちには人間としての自由はなかった。報酬もなかった。
性奴隷とは
 挺対協は日慰安婦は性奴隷であり日本軍に虐待されたと主張している。
性奴隷というと鎖に繋がれ、虐待された女性をイメージするだろう。


奴隷とは、人間でありながらし所有物とされる者を言う。人間としての名誉、権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人間のことである。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされたのが奴隷である。
○売買される。
○労働者のような報酬がない。
○人間としての自由がない。

華やかな衣装の吉原の花魁(おいらん)も江戸時代は性奴隷であった。


花魁は幼少の時に売られた少女が徹底的に古典や書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁などの教養、芸事を仕込まれ遊女であり、吉原では位が高く大金持ちだけを相手にした性奴隷である。
性奴隷から職業婦人へ
 明治時代になって遊郭の大改革が起こる。そのきっかけがマリア・ルス号事件である。四民平等を掲げている明治政府はペルー船籍のマリア・ルス号から逃げ出した清国人苦力を保護し、二三一名の苦力が奴隷であると判断して解放した。
 ところがこの裁判の審議でマリア・ルス号の船長側弁護人(イギリス人)が、
「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」、
と遊郭の遊女が奴隷であることを指摘した。
 明治政府は士農工商の身分制度を廃止して四民平等の社会にした。それは奴隷制度の否定でもある。だから、奴隷である清国人(中国人)苦力二三一名を解放した。しかし、奴隷制度を否定している日本が遊女を奴隷にしていると指摘されたのである。明治政府は明治五年に遊郭の遊女は奴隷であると指摘されてから二十八年間試行錯誤を積み重ねて明治三十三年に「娼妓取締規則」を制定するのである。
 
 「娼妓取締規則」は遊女に人権を与えた法律である。売買は禁止、自分から遊女になることを警察に申し出る。遊女になるには親の許可が必要。仕事としての報酬をもらう。休日がある等々で売春を他の職業と同じ職業とするものであった。
「娼妓取締規則」は遊女を性奴隷から解放した歴史的にも注目するべき法律であった。このような法律は世界にもないのではないか。

冷静になって考えてみると、売春を職業として認める「娼妓取締規則」を世界の人々に理解させるのは難しいと思う。
友人に花魁は性奴隷であると言ったら反発された。友人は華やかで客を自分で選ぶことができる花魁が性奴隷であるとは考えていなかった。奴隷とは世界人権宣言では「苦役に服する」者と定義している。「苦役」と花魁は結びつき難いようである。だから、花魁は奴隷ではないと思っているのだ。しかし、女性にとって心の通わぬ男とセックスするのは「苦役」である。売春は苦役であるし、花魁は親に売られた。人間としての自由がない。やはり花魁は性奴隷である。

「娼妓取締規則」が制定されても社会から売買される女性がいなくなったわけではない。戦前の沖縄では男の子は糸満売り、女の子はジュリ売りが普通であった。
戦前は那覇辻の妓楼(ぎろう:遊女を置いて、客を遊ばせることを商売とする店。)が約300件あった。妓楼の女性をジュリといった。

糸数カメという民謡歌手は八歳の時に辻の遊郭に売られた。


彼女は歌と踊りの才能があり、戦後は民謡歌手として活躍した。また、空手踊りができる歌手としても有名だった。辻で基礎から徹底して教えられた彼女は戦後の民謡歌手の第一人者であった。
 ユーチューブで糸数カメと嘉手苅林昌が歌う軍人節を聞いた。品がある声であった。 竹中労は糸数カメの歌と踊りに感動してほっぺたにチューしようと追っかけたことがあったことを書いてある。糸数カメにしか踊れない踊りをヤマトに運びたいとも書いている。


糸数カメのような女性も戦前は性奴隷だったのである。「娼妓取締規則」の影響で売春はしなかったかどうかは分からない。ただ芸のないジュリは性奴隷として悲惨な生活を送ったという。
朝鮮の妓生は性奴隷であった
妓生 (キーセン) とは、元来は李氏朝鮮時代以前の朝鮮半島に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露したり、性的奉仕などをするために準備された奴婢の身分の女性のことを意味する。
妓生は歌舞音曲・学問・詩歌・鍼灸などに通じていた。また、華麗な衣服や豪華な装飾品の着用が許され、他国の高級娼婦と同様に服飾の流行を先導する役目もした。

朝鮮の妓生の歴史は古い。1000年以上も前に始まっている。高麗時代 (918年‐1392年) に、中国の妓女制度が伝わり朝鮮の妓生制度になったといわれている。妓女制度はもとは宮中の医療や歌舞を担当する女卑として妓生 (官妓) を雇用する制度であったが、のちに官吏や辺境の軍人の性的奉仕を兼ねるようになった。
妓生は次第に官僚や辺境の軍人への性的奉仕も兼ねるようになった
李朝時代には、妓生は国境守備将兵の娼妓としても活用され、国境の六ヶ所の「鎮」や、女真族の出没する白頭山付近の四ヶ所の邑に派遣され、将兵の裁縫や酒食の相手や夜伽をし、士気を鼓舞した。
身分制度時代の妓生は売買されていた性奴隷であった。

高麗・李朝時代は江戸時代と同じ封建社会であり身分制度があった。支配階級の両班、その下に中庶階級 (中人・吏属)、平民階級があり、その下に賤民階級としての七賤と奴婢があった。江戸時代なら武士階級の下に農工商階級があったが、朝鮮では両班階級の下に賤民階級があり、林商人・船夫・獄卒・逓夫・僧侶・白丁・巫俗のことを七賤といった。これらは身分的に奴隷ではなかった。七賤の下に奴婢があり、奴婢は主人の財産として隷属する奴隷であった。
奴婢には公賤と私賤があり、私賤は伝来婢、買婢、祖伝婢の三種があり、下人を指した。奴婢は売買・略奪の対象であるだけでなく、借金の担保であり、贈り物としても譲与された。奴婢の子は主人の財産であり、自由に売買された。そのため、一度奴婢に落ちたら、代々その身分から離脱できなかった。

身分制度国家の朝鮮に明治政府は開国を要求する。1876年に李氏朝鮮は日本の開国要求を受けて日朝修好条規を締結した。開国すると明治政府は朝鮮に進出していき、朝鮮社会を変えていった。
明治政府による妓生の性奴隷からの解放
1881年には釜山で「貸座敷並芸娼妓営業規則」が定められ、元山でも「娼妓類似営業の取締」が行われた。翌1882年には釜山領事が「貸座敷及び芸娼妓に関する布達」が発布され、貸座敷業者と芸娼妓には課税され、芸娼妓には営業鑑札 (営業許可証) の取得を義務づけた。娼婦の公娼制度化である。
日清戦争後には料理店での芸妓雇用が公認 (営業許可制) され、1902年には釜山と仁川、1903年に元山、1904年にソウル、1905年に鎮南浦で遊郭が形成された。
日露戦争の勝利によって日本が朝鮮を保護国として以降はどんどん日本の売春業者が増加した。ソウル城内双林洞には新町遊廓が作られ、これは財源ともなった。
江戸幕府が公娼制度にしたのは、幕府が公認する代わりに税金を徴収する目的があったからである。売春は大企業並みの収入があったから莫大な税金が入ったのである。それは明治政府も同じであった。
明治政府が朝鮮で娼妓に営業許可証の取得を義務づけ、公娼にしたのは税収が目的だったのである。
朝鮮進出を目指していた明治政府は1905年(明治38年)、7月の桂・タフト協定(アメリカ)、8月の第二次日英同盟条約(イギリス)、9月成立のポーツマス条約(ロシア)により、日本の大韓帝国に対する排他的な指導権が列強によって承認された。そして、同年11月の第二次日韓協約で韓国統監府が設けられて大日本帝国の保護国となった。
1910年(明治43年)に韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)の締結により大日本帝国に併合され、大韓帝国は滅亡した。
韓国を併合した明治政府は1916年3月31日に朝鮮総督府警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」 (同年5月1日施行) を公布した。朝鮮全土で公娼制が実施され、日本人・朝鮮人娼妓ともに年齢下限が日本内地より1歳低い17歳未満に設定された 。

韓国併合は大日本帝国が朝鮮を植民地にしたことに間違いはない。朝鮮は日本の植民地になった。しかし、植民地になったから朝鮮の人々は日本に弾圧搾取されて苦しめられたというのは間違っている。明治政府がやったのは朝鮮の日本化であった。それは朝鮮の近代化である。

1899年に制定した「大韓国国制」と呼ばれる憲法である。
○大韓国の政治は万世不変の専制政治であること
○大韓国大皇帝が無限の君権を享有すること
○大韓国大皇帝が統帥権を有すること
○大韓国大皇帝が法律制定権、恩赦権を有すること

憲法を見れば大韓帝国が独裁国家であったことが分かる。大韓帝国時代の朝鮮が奴隷売買をしていた証拠の写真である。奴隷売買が盛んに行われていたのが韓国併合前の朝鮮であった。




韓国を併合した明治政府は身分制度を廃止し、四民平等・法治主義の社会を目指したのである。そうすることによって産業を発展させようとしたのである。明治政府は江戸幕府の身分制度を廃止したように大韓帝国の身分制度も廃止して奴隷を解放したのである。

1916年に日本の「娼妓取締規則」と同じ内容の娼婦を奴隷制度から解放する「貸座敷娼妓取締規則」が公布され、朝鮮全土で公娼制が実施された。
日本流の遊郭が朝鮮で拡大していったが、朝鮮で定着していた旧来の妓生を使った売春事業がなくなることはなかった。
日本であった沖縄でさえ「ジュリ売り」があったのだから朝鮮で女性の売買による売春業システムは盛んであったの理解できると思う。
民間社会では日本型の遊郭の公娼と朝鮮型の性奴隷私娼の妓生が混在していた。しかし、日本軍の慰安所は妓生のような性奴隷を完全に排除していた。
慰安婦制度は娼婦を性奴隷制度から解放した世界でも稀な制度であった
「娼妓取締規則」は日本国内の法律である。韓国併合をすると朝鮮にも「娼妓取締規則」と同じ内容の「貸座敷娼妓取締規則」を公布した。
日本、朝鮮以外の大陸や東南アジアに進出した日本軍は「娼妓取締規則」に則った慰安所をつくった。
日本軍は国の機関である。国の機関であるから国が制定した法律を順守するのが義務である。慰安所が「娼妓取締規則」を守ったのはいうまでもない。
慰安所を管理していたのが軍の警察である憲兵である。憲兵は慰安婦の安全を守るために日本兵とのトラブルを取り締まった。
日活映画「春婦伝」は、慰安婦と日本兵が恋に陥り、最後に自殺する映画であるが、二人は慰安所以外の場所でデートする。しかし、憲兵に見つかってしまう。日本兵は罰として独房に入れられる。慰安婦は慰安所以外で日本兵と接触してはならない規則があったのだ。規則を破ったから日本兵は捕まり罰せられたのである。
日本軍は武士の軍隊ではなく、農民などの戦いには素人を集めた軍隊であった。強い軍隊にするには規律を厳しくし、徹底して訓練しなければならなかった。
規律と徹底した訓練によって日本軍は強くなり、清国やロシアと戦争して勝ったのである。日本は身分制度を廃止して規律と訓練でアジアで最強の軍隊にしたのである。法を徹底して守らすことも軍隊を強くするには必要であった。慰安所の運営も法順守を徹底したのである。

韓国挺身隊問題対策協議会は日本軍の慰安婦は性奴隷であったと主張しているが、性奴隷から解放したのが慰安婦であった。挺対協が集めた自称元慰安婦たちが慰安婦でなく民間の娼婦であったことは彼女たちの発言から分かるが、彼女たちが性奴隷であったかどうかは分からなかった。しかし、今は彼女たち全員が性奴隷であったことを断言することができる。
妓生の歴史は長い。妓生はシステム化されているし、妓生を扱う組織は大きかっただろう。明治のような遊郭のシステムではなく、明治政府が「貸座敷娼妓取締規則」を公布しても朝鮮人は沖縄のように貸座敷娼妓取締規則」を無視して大韓帝国時代、日本では江戸時代のように女性の売買によって成り立っているシステムで商売をしていただろう。沖縄のことを参考にすれば理解できると思う。
慰安婦ではなかった娼婦たちは私娼であり違法売春であっただけでなく性奴隷であったのだ。
挺対協が集めた自称元慰安婦たちは性奴隷だったのである。

金学順(キム・ハクスン)が居た場所が慰安所ではなかったことも彼女の発言から説明できる。
秦郁彦は著書「慰安婦と戦場の性」で証言からは養父(実質的にはキーセンの元締め)が商売のために金学順を北京に連れて行ったのは明らかに見え、養父により日本軍に売られたものであるとしているが、日本軍が買うことはない。日本軍は慰安所を管理していたのであり、慰安婦を管理してはいなかった。慰安婦を管理していたのは楼主であった。
金学順は売られたが買ったのは日本軍でもなければ楼主でもなかった。金学順が居たのは慰安所ではなかったのである。
 日本軍が買ったと思っている秦郁彦は日本軍の慰安所のことを理解していない。
 慰安婦は報酬をもらうのに金学順は報酬をもらわなかった。もらわなかったことで金学順が慰安婦ではなかったことが分かる。
金学順は最初に入った慰安所から二ヶ月後に前線に近い慰安所に移動したと述べている。慰安所は軍隊と一緒に移動することが決まっていて慰安婦も軍隊と一緒に移動する。慰安婦が二か月後に別の慰安所に移ることはない。
新しい慰安所に移ってから1ヶ月後に歩哨の目を盗んできた朝鮮人の男が寝に来たという。慰安所は日本軍が管理していて慰安婦は日本兵だけを相手にしていた。慰安所に侵入したことが見つかると銃殺されるかもしれない。そんな危険な慰安所に寝ることを目的に日本兵ではない朝鮮人が侵入するはずがない。民間の売春宿であったから男は金を払って金学順の部屋に入れたのである。それに寝に来た人に無理に頼んで夜中に脱出したと述べているが、最初のしかも寝るのを目的に来た男に脱出を頼むというのはあり得ないことである。金学順は脱出した男と結婚をしている。男とは何度も寝て、親しくなったから二人で脱出したと考えらるのが普通である。彼女は妓生であり性奴隷だったのである。
以上のことを参考にすれば金学順は慰安婦ではなかったし絶対に慰安所にも居なかったことが分かる。

挺対協は日本が韓国併合する前の大韓帝国が身分制度国家であり、奴隷の売買が盛んであったことや妓生が性奴隷であったという歴史的事実に触れていない。というより触れるわけにはいかない。
日本が統治する前の朝鮮には奴隷制度があり、妓生は性奴隷であったことが分かれば日本軍の慰安婦が性奴隷であったと主張しても性奴隷が性奴隷のままであったということになるから日本を批判することはできない。慰安婦を性奴隷であったと主張するためには韓国併合前の身分制度、性奴隷制度を隠す必要があったのだ。
挺対協の性奴隷歴史の隠しに気付いていないのが日本の評論家、慰安婦専門家、政治家たちである。
慰安婦であったと最初に名乗り出た金学順は本当は慰安婦ではなく妓生であり、性奴隷であったことを指摘していれば「慰安婦は性奴隷であった」という挺対協の主張を簡単に覆すことができたはずである。
挺対協の主張は韓国の政治を左右するほどに韓国社会に広がっている。韓国だけでなく世界にも広がっている。大阪市がサンフランシスコ市との姉妹都市を解消したのも原因は挺対協の「慰安婦は性奴隷であった」の主張をサ市の市長や議員が認めたからである。
認めたのは日本の専門家たちが挺対協の「慰安婦は性奴隷である」という真っ赤な嘘を根本から覆すことができなかったからである。
日本の専門家たちの無能を感じざるを得ない。



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Posted by ヒジャイ at 18:41│Comments(0)慰安婦問題
 
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