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2015年05月14日

日本全国で辺野古移設が最適である


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日本全国で辺野古移設が最適である



 辺野古飛行場予定地は東海岸にある。名護市役所の繁華街は西海岸にある。辺野古と名護市役所は山を挟んでおよそ10キロメートル離れている。普天間飛行場なら浦添市を越え、那覇市の南はずれの国場側河口まで離れていることになる。同じ名護市といっても二つの市を挟んでいるくらいに離れているのである。
 西海岸は辺野古飛行場の被害は全然受けない。辺野古飛行場の地元として市役所のある西海岸側を入れるのは問題がある。辺野古は名護市であるから法律上は西海岸も名護市であるから辺野古飛行場の地元になる。しかし、西海岸側が東海岸側の地元とは言えない。
 東海岸側の辺野古区・豊原区・久志の3区(久辺3区と呼ばれている)は移設に賛成をしている。過疎が進んでいるので人口は少ないが、久志岳、久志岳ゴルフガーデンなどがある久辺3区は面積では西海岸側にひけを取らない大きさである。
 久辺3区が辺野古移設に地元が反対していると言える。しかし、久辺3区は移設に賛成している。辺野古移設に反対しているのは久辺3区以外の地域の名護市民である。人口が集中している西海岸の名護市民に反対の声は多く、その結果、移設反対の稲嶺進氏が市長に当選した。
 だから、名護市全体では辺野古移設反対である。東海岸の久辺3区の主張は西海岸の市民に封殺されたと言える。

昔は辺野古のある東海岸は久志村であった。久志村は主な産業は林業から農業へと変わったものの、過疎化により人口は減少。山を隔てて西海岸の名護町などの町村から合併の動きが出てきたが、村の衰退を懸念し合併に反対してきた。しかしこのままでは村を維持するのは困難であったため、結局1970年8月1日に名護町・屋部村・羽地村・屋我地村と合併し名護市となり、300年近くの歴史に幕を閉じた。村役所は名護市久志支所となった。
合併しても経済発展したのは西海岸だけであった。1975年沖縄県の本土復帰記念事業として沖縄県国頭郡本部町で沖縄国際海洋博覧会が開催され、海洋博公園のお蔭で名護市の西海岸経済はどんどん発展していった。しかし、経済発展するのは西海岸だけであり、東海岸の久辺3区は過疎化していった。このままでは過疎化に歯止めがかからない。名護市に頼ることもできない。久辺3区は辺野古移設容認を条件に過疎化脱出を図ったのである。
久辺3区は「生活排水処理のための下水道整備」や「公園、集会所の整備」「基地負担に見合った住民への補償的施策」など18項目を政府に要請した。交渉の結果、振興策の実現に向けた協議会を設置することを決めたのである。

西海岸であるというだけで経済が発展し、東海岸であると言うだけで過疎化していく。それが北部の実態である。東海岸の困難を省みない西海岸の名護市民だから普天間飛行場の辺野古移設に反対をし、久志3区の過疎化に平然としているのである。


大浦湾と辺野古埋め立て予定地である。埋め立て地は辺野古崎の沿岸部だけである。大浦湾のほとんどは埋めない。沿岸部の埋め立てだけで大浦湾の自然に影響を与えるのはあり得ないことである。
 辺野古飛行場の滑走路はV字型である。離着陸の時に人家の上を飛ばないためにV字型にしたのである。
 辺野古飛行場はキャンプシュワブ内に建設されるから新たな土地を接収する必要がない。辺野古以外なら新たな土地を接収する必要がある。辺野古以外なら飛行場建設は困難である。
 周囲は海である。墜落事故があっても普天間飛行場のように人命や人家に被害を及ぼすことはない。
 飛行場に一番近い辺野古区でも1キロメートル離れている。しかしも間に丘があり、騒音被害も小さい。

 このような好条件は本土にもないし沖縄にもない。


東欧革命・東欧民主化革命・共産主義の崩壊
1989年にソビエト連邦(ソ連)の衛星国であった東ヨーロッパ諸国で共産主義国が連続的に倒された革命である。1989年革命と呼ばれる事もある。

ポーランド民主化運動
ハンガリー人民共和国は1980年代初頭には既に経済の自由化や議会の複数候補制などの改革を進めていたが、1988年5月に社会主義労働者党(共産党)のカーダール・ヤーノシュ書記長が引退すると、社会主義労働者党内ではより急進的な改革を主張する勢力が実権を掌握するようになった。1989年2月に急進改革派は事実上の複数政党制を導入し、5月にはネーメト内閣がハンガリーとオーストリア間の国境を開放し、鉄のカーテンに穴を開けた。
1989年10月には、社会主義労働者党は社会民主主義政党のハンガリー社会党へと改組、さらに10月23日には新憲法「ハンガリー共和国憲法」が施行され、ハンガリー人民共和国は終焉した。

ベルリンの壁崩壊
クレンツ政権のスポークスマン役を担っていたシャボウスキーは、この規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまった。この発表は、東ドイツ政権内部での事務的な手違いによるものだとされる。この記者会見を観た東ベルリン市民がベルリンの壁の検問所に殺到し、殺到した市民への対応に困った国境警備隊の現場指揮官は11月9日の深夜に独断で検問所を開放した。11月10日に日付が変わると、どこからともなく持ち出された重機などでベルリンの壁は破壊され、その影響は世界史的に広まった。

ブルガリアの民主化
ジフコフ長期政権が崩壊し、後任となったムラデノフらはあくまでも一党独裁制の枠内での自由化を進めようとしたがこれをきっかけに市民側のデモが活発化し、12月には党の指導性を放棄することや自由選挙の実施などを決定せざるを得なくなった。1990年の自由選挙ではブルガリア社会党(共産党が改名)が過半数を制して政権を維持し、ムラデノフが大統領となった。しかし、1990年6月になると前年にデモの武力鎮圧を示唆したとされるムラデノフの発言が問題視され、ムラデノフは大統領を辞任し、翌1991年に行われた2回目の自由選挙で社会党は下野した。

ビロード革命
ベルリンの壁崩壊を受けて、東欧の共産党国家の連鎖的な崩壊が始まった。チェコスロバキア社会主義共和国では、ポーランドやハンガリーのような予告された民主化の約束はなかった。しかし、ベルリンの壁崩壊に勇気付けられたチェコスロバキアでは、1989年11月17日に至り、民主化勢力を中心にデモやストライキ・ゼネストを度重なって行った。それらの事態を収拾できなくなった共産党政府はなし崩し的に民主化勢力との話し合いによる解決を模索することとなり、結果、両者は共産党による一党独裁体制の放棄と複数政党制の導入を妥結した。この「革命」では後のルーマニアのような流血の事態には陥らなかった。これを指してビロード革命と言う

ルーマニア革命
ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、チェコスロバキアでは国内の政権移譲が穏健に済んだのに対して、当初から国内の改革に全く否定的で共産党が政権の座に固執し続けたルーマニア社会主義共和国では、1989年12月16日に民主化革命が勃発し、治安維持部隊と市民の間で、衝突が起こり多数が犠牲となった上、12月25日にはルーマニア共産党の最高指導者であったニコラエ・チャウシェスクが射殺されて終結した。チャウシェスクの死体はテレビを通じて世界中に晒され、チャウシェスクの死によってルーマニア社会主義共和国は崩壊し、民主政体を敷くルーマニア共和国が成立した。


 共産主義国家を倒したのが民主化運動であった。冷静な目で歴史を見れば、共産党一党独裁国家の次にやって来るのが民主主義国家であることが分かる。これは歴史的必然であると言える。
 共産党一党独裁国家はプロレタリア革命によって樹立され労働者を解放した国家と思われているが、実際は労働者を弾圧する国家であった。そもそもロシア革命は労働者が立ち上がった革命ではなかった。政治家を中心とした武力革命だった。中国は労働者ではなく毛沢東などの政治家が農民中心の軍隊をつくって蒋介石軍と戦い、勝利して国家をつくった。
 労働者が立ち上がり労働者のための国家をつくったのが民主化運動であった。これこそがプロレタリア革命であったのだ。議会制民主主義・三権分立・法治主義の三つが確立している国は実質的にプロレタリア革命を成就している。
 
 小学生の時、先生が「水を通さない」と言った時、私は戸惑った。水が電気を通すことを体験していたからだ。子供の頃、親子ラジオというのがあって、各家庭に有線でラジオ放送をしていた。
台風の時、線が切れて道路の水たまりに接触することがよくあった。水たまりに指を触れるとビリビリと電気が走った。だから、水は電気を通すことを私は知っていた。電気を通すのに先生は電気を通さないと言う。先生が嘘をつくはずはない。なぜだろうと私は悩んだ。中学の時に電解質が電気を通すことを知って納得した。

学生の時に言われていたプロレタリア革命は純粋な水のようなものである。あの頃のプロレタリア革命と言えば、工場などの生産に関わっている単純生産労働者が立ち上がり、国家を暴力で倒し、新しい労働者国家を樹立するものであった。
しかし、労働者は工場生産をしている人間たちだけではない。自分の労働力を売って収入を得る者は全て労働者だから、販売、マスコミ、通信、交通、娯楽等々国民のほとんどは労働者である。
多くの労働者が立ち上がり新しい国家をつくったのが東欧民主化革命であった。新しい国家は議会制民主主義・三権分立・法治主義である。すでに米国、日本、イギリス、フランスなどの議会制民主主義国家はプロレタリア革命を成就していたのである。
議会制民主主義国家だからすべてが民主化されているわけではない。フランスの五月革命のように大学の民主化を求めて運動は起こる。

 日本の学生運動は民主化運動ではなく革命運動であった。米国を帝国主義国家と決めつけ、米国でのプロレタリア革命を主張し、日米安保の廃棄を目指していた。
なぜ、日本の学生運動が民主化運動でないかは、共産党に原因する。共産党は共産主義革命を目指しているし、革マル派と中核派は共産党から分離した組織であり革命を目指していることは同じであった。
日本の学生運動に民主化運動が全然なかったのではなかった。「1968」というホームベージがあるが、日大闘争を闘った人のホームページである。


はじめに

急に書きたくなった、35年経って何を急にというかも知れないが、胸にある記憶を、思いを文章にしたくなった。
地方に住んでいる私は卒業してから20数年、全共闘の話は妻以外の誰にもしなかった。
やっと語れだしたのは、息子が全共闘だった私の年に近づいたこの10年だ。
この35年、何度胸からほとばしり出る思いを止めたのだろう。
辛いことがあると、あの時の事を思い出した。
「日大全共闘は最後の最後まで闘うぞー、最後の最後まで闘うぞーー、」シュピレフコールが事あるごとに頭の中にひびきわたった。

時系列やデータの考証はしていない、あくまで私の憶えている範囲で書いている。
嘘は書いていないが、内容に間違いがあるかもしれない。
話が前後しているかもしれない。
経過の正確さを求めるため時間を掛けるつもりはない。
日大闘争に「直感」で参加したあの時と同じだ。
個人の情報はなるべく記述しないつもりだ。
日大闘争をデータとして知るにはすばらしいホームページが他にあるのでそちらを見て欲しい。

私はリーダーでも何でもなかった。
ヘルメットを被り、角材を手にバリケードの最後まで戦った、ただの一兵卒だ。
最初から最後まで自分の意思で判断し、その結果も受け止めた。

ここに語っているのは私個人の歴史だ。(2003年9月30日、記)
日本大学新聞
■不正

日大の授業料は安くなかった。
理工学部では当時30万円ほどだった。
実験費などはまた別に徴収される。
その他を合わせると結構な額になった。
庶民が年収100万円足らずの時代にだ。
日大で経理の不正が発覚した。
使途不明金が20億円も出てきたのだ。
古田会頭を始めとする一部理事が大学の公金を私物化していたと言われた。
不明な使途の中には、体育会を牛耳る者や理事に繋がる右翼団体にも不正に流れたものもあるといわれた。
私達には、(親が)苦労して払った授業料が何に使われたのか、不正は無かったのか真相を質す権利があった。
先進的学友が真相を質すため立ち上がった。
その集会に、体育会系学生と思われる集団が襲い掛かった。
道路で集会をおこなう学生に、学内の2階3階から椅子、机、消火器など手当たり次第に投げ、消火栓で放水を浴びせた。
また構内では学生を追いまわし、殴る、蹴るの暴行を働いた。
私の仲間はこの時日本刀で背中を切りつけられた。
制服の警官が出動したが、彼らは暴行学生を取り締まらなかった。

日大の多くの学部で、旧自治会や有志で「理事会はこの問題に納得できる回答を出せ」と五つの要求をした。
その回答が、要求する学生に対する一連の暴力・暴行だったのだ。
先進的学生は、大学の息の掛かったそれまでの自治会ではこの局面への対応は無理と判断し、自治会の主要メンバーで「共闘会議」をそれぞれの学部で設立した。

大学の会計を賄う過半数の、いや圧倒的多数の日大生が、自分たちが出した学費の使途を問いただし回答を求め、答えない理事会に責任をとって退陣せよと突きつけただけだ。
日本は民主主義の国だ。
道理が通らず、ルールを無視したのは、日本大学を経営する古田会頭以下理事会だ。
私達は民主的手段で、クラス討論、学科幹事会、学部自治会と手順を踏んで話し合い、結論をつみあげっていった。
だからこそあの「民青」諸君も、私たちに異を唱えることが出来ず一時期一緒に行動した。

だが、理事会はことごとく学内の民主的な意見を無視し、彼らが託った暴力で黙らせようとしてきた。
今までの日大がそうであったように。

私(達)には「政治的」な意図はなかった。
悪い事は悪い、と言っただけだ。
あまりにも大きな学生のパワーに、問題が「政治化」しただけだ。
     「1968」
ストライキ

1968年5月・6月の段階で多くの学生が傷ついた。
旧自治会から移行した学部共闘会議は、圧倒的多数の学生の声を無視し暴力を使う理事会に対し、ストライキで対抗する事をきめ、学友に諮った。
この時点では理工学部は共闘会議ではなく自治会だったと思う。
最初の頃、私は余り関心を持っていなかった。
法学部や経済でおきている事も人事の一般学生だった。
それよりも私は教職課程もとっており、沢山の授業を抱え四苦八苦していた。
親には高い授業料を出してもらっている。
教職必須の憲法の講義を一号館で受けていた時だ、窓の下の道路で声が聞こえ近づいてきた。
また中大(中央大学)の学生がデモしているな位に窓を見下ろしていた。
近づいてくる集団の旗を見たとき「日大」の字が目に入った。
この日が私の分かれ目だった。
           「1968」
日大闘争は理事会の不正を糺す学生運動であった。それは民主化運動である。フランスでは学生の民主化運動は親の理解を得て広がっていったが、日本では親に叱られて闘争から離れていった学生が居ただけで、彼らの闘争は社会に広がらなかった。全共闘とは一線を画していて、全共闘の参加を拒否した彼らは孤独な闘いを続けた。
日大闘争が一番はげしいという噂は聞いたことがあったが、民主化運動であったことは「1968」で初めて知った。
日大の民主化運動は親や世間にも全共闘の学生にも理解されないで結局敗北する。しかし、それなりの効果はあったようだ。
 学生運動は革命を目指した尖鋭的な思想であったが、他方世間は軍国主義や封建的な思想が残っている古い世界であった。「一九七一Mの死」で私が描いたのはその狭間で悩んでいる若者の姿だった。沖縄も本土も同じ状況であった。


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