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2025年01月14日

立憲が保守政党になったから尾辻朋実氏は自民党から立憲に移れた

立憲が保守政党になったから尾辻朋実氏は自民党から立憲に移れた

私は衆議院選挙で野党が保守化したと指摘した。マスメディアは与党の自民、公明が過半数割れしたことに注目したが、もっとも注目すべきは立憲が保守化したことである。
私は立憲、国民、維新の野党三党が保守化したことを注目するべきであると主張してきたが、野党の保守化によって今までは起こらなことが起こったのだ。なんと、自民党の尾辻秀久参院議員(84)の秘書で三女の尾辻朋実氏(43)が鹿児島選挙区で立民県連の推薦で立候補することになったのだ。尾辻議員は引退する。朋実氏は、自民県連が昨年公募した参院選鹿児島選挙区の公認候補予定者に手を挙げたが選考に漏れた。選考に漏れても諦めきれない思いがあった朋実氏は「世襲批判と表裏一体かもしれないが、父の背中を一番近くで見てきた者として、今の政治を変えなければいけない。保育・介護職員の処遇改善や農林水産業の強化、防災の取り組みなどに力を入れたい」と無所属で立候補することを決めた。
 父の秀久氏は『朋実個人が選んだことに口出しする気はない。決めたのなら頑張れ。でも応援はできない』と朋実氏の応援はしないという。

 立民県連は候補者選びが難航し、11月上旬に選対委員長の川内氏に一任していた。 朋実氏と川内氏はドミニカ移民問題で、超党派議員連盟の会長と事務局長として解決に向けて取り組んだことがある。朋実氏の事情を知った川内氏は朋実氏と話し合い、推薦することを決心した。、立民県連は川内氏の要求を受け入れ推薦を決めた。鹿児島選挙区の要請を受けた立憲民主党本部も常任幹事会で朋実氏推薦することを決めた。

立民県連の柳誠子代表
「これまでにない大きなチャンス。参院選の勝利に連合や各野党の協力は欠かせない。しっかりと意見、議論を交わしながら朋実氏支援の協力を得たい」

連合鹿児島の下町和三会長は
「なかなか大胆で面白い選択をしたなという印象」
と述べている。

 立民と連合は自民党からの転向であっても受け入れる。しかし、共産党は違う。共産党県委員会の山口広延委員長は
「立民は第2の自民になったのか」と言い、
「米国いいなりの政治を止める立場にはない方に見える」と非難している。左翼の共産党は自民党であった尾辻朋実氏を受け入れることは絶対にない。立憲内の旧社会党の左翼の勢力が強かったら受け入れなかっただろう。立憲が保守になったから元自民党でも受け入れるのだ。

 朋実氏は自民党から立憲に移ったからといって政策は変更していない。自民党にいた時と同じ政策の実現を朋実氏は目指している。立憲が自民党と同じ保守政党になったからこのようなことが現実となったのである。

 野党の立憲、国民、維新の会が保守政党になったからこれからの国会は変わる。

  

Posted by ヒジャイ at 22:06Comments(1)

2025年01月11日

社会主義国でも中国とベトナムは違う

社会主義国でも中国とベトナムは違う


中国は経済が失速している。同じ社会主義国であるベトナムは目覚ましく経済成長している。その違いはどこにあるか。
中国は習近平主席になって社会主義経済に転換した。しかし、ベトナムは市場経済を続けた。社会主義経済に転換した中国と市場経済を徹底したベトナムの経済には大きな違いがある。

1975年4月30日に南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の戦車が南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)の統一会堂に無血入城した。すでに米軍はベトナムから引き揚げていた。ベトコンがサイゴンに入城した時にトナム戦争は終結した。米国は敗北した。北ベトナムとベトコンが勝利した。北ベトナムと南ベトナムは統一して社会主義国になった。
ベトナムは社会主義国である中国と密接な関係になった。ベトナムは中国政治を参考にした国造りを始めたが、中国の経済は1978年以降大きく変換した。社会主義経済から資本主義の市場経済に転換していったのた。1978年に主席になったと鄧小平主席は中国に市場経済を導入したからである。 
ベトナムも中国の影響を受けて市場経済を導入した。市場経済で中国もベトナムも経済発展した。中国は日本を抜いて世界二位の経済大国になった。しかし、2012年になると中国は習近平になった。社会主義の原点に戻るのを目指した習近平主席はマルクス・レーニン主義を掲げた。だから、経済を資本主義から社会主義経済に転換した。中国は社会主義経済のほうに転換していったがベトナは習主席の影響を受けなかった。ベトナムは市場経済を続けたのである。

ベトナムは、「社会主義志向の市場経済」という概念を、2001年4月のベトナム共産党第9回全国代表大会の文書で正式に採用した。政治は社会主義の共産党一党独裁体制のままで国家管理を伴いながらも市場メカニズムに基づいた多部門経済モデルの発展政策である市場経済重視を一貫して実施していったのである。中国が社会主義経済に転換してもベトナム政府は市場経済を続けたのである。

ベトナムは2007年にWTO世界貿易機関に加盟した。現在は多くの多国間および二国間の(FTA)自由貿易協定に参加している。
・EVFTA ベトナム・EU自由貿易協定
EUからベトナムへの輸出は、発効時点で65%の関税が撤廃され、残りは10年かけて徐々にゼロになる。
ベトナムからEUへの輸出は、発効時点で71%の関税が撤廃される。

・ベトナムはCPTPP(環太平洋パートナーシップ)にも加入している。
環太平洋パートナーシップ(TPP)協定とは、オーストラリア、ブルネイ、カナダ、チリ、日本、マレーシア、メキシコ、ニュージーランド、ペルー、シンガポール、ベトナム、イギリスの合計12か国で高い水準の、野心的で、包括的な、バランスの取れた経済連携協定である。
CTPPは農産品、工業品の関税の削減・撤廃や、投資や知的財産権など幅広い分野で域内共通ルールを作り貿易や企業活動の活発化を目指している。

中国はCTPP加入を希望した。しかし、CTPPのルールに反している中国なので加入を断られた。

ベトナムは社会主義の計画経済から資本主義の市場経済へ移行したので、民間企業とスタートアップ企業が台頭した。
ベトナム経済は2016年から2021年の期間、民間経済はGDPの平均46%を占めて、2025年までに55%に達すると予想されている。現在、民間経済は国の労働力の約85%を雇用し、国家予算の約3分の1を占めている。
ベトナムの金融市場も急速に発展している。証券市場の時価総額も大幅に増加している。
73カ国がベトナムの市場経済としての地位を認めており、その中にはイギリス、カナダ、オーストラリア、日本、韓国などの主要経済国も含まれている。

社会主義国でありながら市場主義経済を継続したベトナムは経済発展した。習主席になって至上主義経済から社会主義経済に転換した中国は経済が悪化している。
  

Posted by ヒジャイ at 12:25Comments(0)二大政党

2025年01月09日

社会主義は経済を破綻させる を知るべし

社会主義は経済を破綻させる を知るべし

 社会主義国家であるソ連は経済が破綻して崩壊した。社会主義は経済が破綻することをソ連が実証したのである。中国はソ連と違って経済は発展し日本を抜いて世界第二位である。同じ社会主義でありながらソ連は崩壊し、中国は米国と対等に対峙している。同じ社会主義でありながらソ連と中国は違った。

 ソ連は、
「ブルジョワジーを完全に抑圧し、人間による人間の搾取をなくし、階級への分裂も国家権力もない社会主義をもたらすために、強力な全ロシア・ソヴィエト権力のかたちで、都市と農村のプロレタリアートおよび貧農の独裁を確立する」
と憲法で宣言したように、あらゆる企業の国営化、私企業の禁止により、経済は強力な中央統制となった。ソ連は社会主義に徹した国家であった。
ソ連はレーニンがリーダーであるボリシェヴィキという政党による一党独裁の国家であった。中国は毛沢東がリーダーである人民解放軍の独裁国家であった。人民解放軍が主導する中国はソ連のように社会主義に徹した国家ではなかった。

 1978年に主席になった鄧小平国家主席は共産党一党独裁のもとで社会主義体制を堅持しながら、市場経済(資本主義経済)を国内経済のみならず対外経済でも導入した。ソ連が禁じた資本主義を鄧小平は実施したのである。
 鄧小平の資本主義への転換は江沢民、胡錦涛に引き継がれ、中国は見る見るうちに経済発展し、日本を抜いて世界二位の経済大国になった。中国では経営に成功した民間の資産家が増えていった。
 資本主義経済が発展する原因は民間の企業がが自由に経営するからである。資本主義経済は民間企業が自由競争する市場経済になる。経営に優れた企業は成長し、劣った企業は破産するのが市場経済である。経営に失敗すれば破産して消える。成功すれば会社が大きくなる。成功者は経営を拡大し、失敗者は消えていく。それが市場経済である。だから、経済は発展する。
企業が国営となり競争のないのが社会主義経済である。

 2012年に中国は習近平になる。習主席は経済を資本主義から社会主義へ戻した。国有企業は優遇し、民営企業は冷遇した。国有企業は政府の方針従った経営を行うから、政府の支援を受ける。赤字になっても政府が融資して倒産することはない。政府の方針を徹底するために国有企業には政府の職員を幹部に配置している。国有企業は民間企業のように自由競争にはさらされていないため、官僚組織化しやすく、組織やビジネスの効率性が全然高まらない。それに官僚組織化したために不正計上が増える。主要大手の20社を調査すると9割の18社が不正計上をしていた。それに、汚職も蔓延する。これが社会主義経済の実態である。
国有企業を優遇して増やし、民間企業を冷遇して減らす 習近平政権による社会主義経済では不正や汚職が蔓延し、経済は沈滞するのである。経済が沈滞するから失業者が増える。
2024年10月時点の失業率は17.1%である。日本の2.6%の6倍以上である。国民を貧困にするのが社会主義である。
  

Posted by ヒジャイ at 12:38Comments(1)アジア情勢

2025年01月07日

1月7日の記事


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共産党が目指しているのは公務員が統治する社会 それが社会主義

1989年に、離合集散を繰り返していた労働組合は総評系産別を加えて78産別、組合員約800万人を結集させ、労働4団体等の統一を完成させて日本労働組合総連合を結成した。連合の発足を「労働界の右翼的再編」「反共・労使協調路線」と批判する日本共産党系の「統一労組懇」等は、これに対抗して連合結成と同じ1989年に全国労働組合総連合(全労連)を結成した。
共産党配下の全労連は大企業は労働者を搾取しているとし、資本主義の米国は労働者を搾取し、他国を侵略して植民地にする帝国主義であると決めつけた。だから、大企業を容認し、米国も容認する連合とは敵対したのである。
連合を「反共・労使協調路線」と宣言した共産党、全労連は共産主義であり、反大企業である。全労連には地方の小企業は参加しているがほとんどの民間企業は参加していない。全労連のほとんどは公務員や教員の団体である。連合が民間の労働者の団体であるのに対して全労連は公務員の団体である。

共産党は資本家に搾取されている労働者を解放する目的で結成した。労働者が資本家に搾取されない自由な社会をつくるのが共産党の目的である。共産党が目指す社会主義国家がそれである。であるならば共産党は労働者に支持されているはずである。ところが現実は違う。多くの労働者は連合に入っている。多くの労働者は共産党が否定する連合に入っているのだ。民間企業に勤めている連合の組合員数は約699万人である。ほとんどが公務員である全労連組合員数は55万人である。全労は連合の十分の一以下である。

全労に入っているのは民間労働者ではない。ほとんどは公務員である。共産党が目指しているのが共産党一党独裁国家である。共産党一党独裁の社会主義国家は労働者が搾取されない労働者の自由な社会であると共産党はいう。しかし、それは共産党が勝手に想像していることであり、事実は違う。社会主義社会が労働者が解放された社会であるというのは幻想である。全労は幻想を信じて運動を展開しているが、民間の労働者はそっぽを向き、全労加盟の公務員だけが運動を展開している。つまり、共産党が目指しているのは公務員が自由に政治をする社会主義国家である。

100年前にロシア革命が起こり社会主義国家が誕生した。その時の米国は経済は資本主義、政治は議会制民主主義だった。レーニンは米国は労働者を搾取する国家であると決めつけ、労働者が搾取されない国家として社会主義国家を樹立した。レーニンは資本家が選挙で選ばれる可能性があるとして選挙を禁止し、共産主義者だけが政治・経済を行う共産党一党独裁国家を樹立にした。レーニンの社会主義を信じ、日本でもソ連のような社会主義国家を実現しようと設立したのが日本共産党である。 

共産党一党独裁が労働者を解放する思ったのはレーニンの幻想であった。レーニンが樹立したソ連は1991年に崩壊した。ソ連が崩壊してもレーニンの理論を信じ、社会主義に固執しているのが日本共産党である。

ソ連が崩壊した原因は経済の破綻である。米国などの敵国の侵略ではなかったし、内乱でもなかった。経済の破綻であった。ソ連は経済が衰退し貧しくなった。貧しさから脱するために社会主義体制を終わらせ、選挙で大統領、国会議員を選出する体制にした。

ソ連が崩壊したのだから社会主義は間違っているということだ。それでもマルクス・レーニン主義を信じ、社会主義に固執しているのが共産党である。労働者の解放を目的にしているはずの共産党であるのに労働者からそっぽを向かれ、公務員中心の全労連を配下にしている共産党である。共産党が目指している社会主義国家では選挙はなくなり、選挙で選ばれた議員は存在しない。政治を行うのは選挙で選ばれた議員ではなく、共産党員であり、公務員である。中国がそうである。
中国は社会主義国家である。大統領である国家主席は国民の選挙では選ばない。共産党の中央人民政府のトップが国家主席になる。日本なら政府の官僚のトップである。政策は公務員が考えて、公務員の政策が実行される。日本は国民が選んだ議員が決める。しかし、中国には議員が居ないから公務員の政策がそのまま実行される。

レーニンは労働者を搾取する資本家を排除するために共産党一党独裁の社会主義国家を設立した。資本家を排除するために企業は国営にしたのがソ連である。つまり、国が資本家になったのだ。公務員が経営者になったのである。公務員は経営が下手であるから経済は発展しなかった。経済は破綻した。経済の破綻が原因でソ連は1991年に崩壊した。労働者を解放し、労働者を豊かにするはずの社会主義社会の経済が破綻したのである。ソ連経済は破綻したが、労働者を搾取しているはずの米国の経済は発展している。

資本主義国家の次に社会主義国家になるという社会主義思想が破綻したのが1991年のソ連崩壊である。ソ連が崩壊すると、次々と社会主義から議会制民主主義になる国が出てきた。歴史は社会主義から議会制民主主義に変わったのだ。そのことを2015年に出版した「捻じ曲げられた辺野古の真実」に書いた。

1991年にソ連は崩壊し議会制民主主義国家になる。共産党一党独裁の社会主義国家の次に議会制民主主義国家がやってくることが歴史の必然であることが実証されたのがソ連崩壊である。

共産党一党独裁国家を倒した民主化運動
共産党一党独裁国家を倒したのが民主化運動であった。冷静な目で歴史を見れば、共産党一党独裁国家の次にやって来るのが議会制民主主義国家であることが分かる。これは否定することができない歴史的事実であり、必然である。

共産党一党独裁国家はプロレタリア革命によって樹立され労働者を解放した国家と思われているが、実際は労働者を弾圧する国家であった。そもそもロシア革命は労働者が立ち上がった革命ではなかった。武力で国家打倒を主張する政治家を中心とした農民、労働者、軍隊による武力革命だった。中国は毛沢東などの政治家が農民中心の軍隊をつくって蒋介石軍と戦い、勝利して共産党一党独裁国家をつくった。
労働者が立ち上がり労働者のための国家をつくったのはロシアや中国の革命ではなく、東欧の共産党一党独裁国家を倒した民主化運動であった。これこそがプロレタリア革命であったのだ。民主化運動によってできた国家は議会制民主主義国家であり、三権分立・法治主義が確立している国家である。議会制民主主義国家は実質的にプロレタリア革命を成就している国家である。つまり、米国、日本などの議会制民主主義国家は社会主義国家を乗り越えた国家であるのだ。
     「捻じ曲げられた辺野古の真実」
ソ連が崩壊した原因を日本の専門家が解明して、社会主義の矛盾を指摘すると予想していたが、そのようなネット記事はひとつもなかった。共産党の社会主義の矛盾を指摘する記事を見たことがない。
議会制民主主義と比較して社会主義を批判する専門家の記事をみたこともない。ソ連崩壊の本質を指摘し、社会主義は経済破綻することを説明する専門家が居ないから、社会主義国家が将来の国家であることを信じている全労連組合員員が55万人も居るのだ。

社会主義国家から議会制民主主義国家になった国は多くあるが議会制民主主義から社会主義になった国は一つもないないことを知ってほしい。

日本では社会主義の共産党を支持する国民は非常に少ない。
国民は圧倒的に社会主義を否定しているということだ。
  

Posted by ヒジャイ at 17:48Comments(1)

2025年01月05日

兵庫県、沖縄県で自治労、自治労連の嘘が粉砕された


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兵庫県、沖縄県で自治労、自治労連の嘘が粉砕された

 兵庫県の7つの告発文書から始まった斎藤知事排斥運動と沖縄県の辺野古埋め立ては海が汚染されるから始まって埋め立て反対運動は自治労と自治労連が主導した運動である。自治労は旧社会党の配下にあった。現在は立憲民主と社民党を支持している。自治労連は共産党の配下にある。公務員が主導した運動が斎藤知事排斥であり辺野古埋め立て阻止の運動であったのだ。
 1980年代に政府・財界主導による臨調・行革攻撃が激しくなった中、当時の自治労は連合に吸収合併された。連合は右派であると批判した共産党によって1989年に自治労から分裂して自治労連が結成された。

兵庫県
 7つの告発文書は県庁職員と斎藤知事の対立が原因である。兵庫県は井戸敏三前知事時代が20年間続いた。県職員は20年間続いた前知事の政策に慣れていた。ところが斎藤知事は前知事の政治を変革する政策だった。県庁職員は斎藤知事の政策に反対だった。だから、斎藤知事を辞職させて井戸知事の政治を復活させたかった。斎藤知事と県職員の政治対立が原因で斎藤知事を辞職に追い込む目的で7つの告発文書が作成されたのである。

 井戸前知事の時に本来65歳定年であったのが職員の企みによって、なし崩し的に70歳以上まで延長されていた。また、県の外郭団体に県庁幹部は天下りするシステムもつくっていた。井戸知事20年で県職員の定年は延長し、天下りは拡大して県職員天国になっていたのである。斎藤知事は65歳定年を復活させ、県職員の天下りを禁止した。県職員天国が斎藤知事によって崩壊させられたのだ。
 斎藤知事は兵庫県知事になる前は総務省に居た。斎藤知事は三重県庁や新潟県佐渡市役所、宮城県庁に出向後、2018年から3年間、大阪府財政課長を務めた。3年間に維新の会の行財政改革を学び、兵庫県で維新流の政治改革を目指した。だから、斎藤知事は定年延長、天下りを禁止したのだ。

 県庁職員は斎藤知事の政策に反発した。しかし、県職員が知事の政策に反対することはできない。県職員には政治主張することは禁じられているからだ。政治主張するには県職員を辞めて議員にならなければならない。
県職員にとって知事の政策に逆らうことはできない。斎藤知事の政策に従うしかないのが県職員の宿命である。斎藤知事の維新の会流の政治に県職員は反発が強くなっていった。
 県職員は斎藤知事の辞職を望んだ。しかし、県職員は斎藤知事の政策を直接批判することはできない。県民に選ばれた知事の政策に県職員が反対することは許されないからだ。斎藤知事の政策に反対であるが政策に反対することが許されない。斎藤知事の政策を止めるには斎藤知事を辞職させるしかない。辞職に追い込む方法として考え出したのが斎藤知事のパワハラ、おねだりなどの7つの告発文書である。7つの告発文書の目的は斎藤知事を辞職に追い込むことだった。

 告発する文書を書いて配布したのが元県西播磨県民局長であったと言われている。しかし、告発文書は斎藤知事を辞職に追い込みたい県職員たちが計画したと考えるべきである。
元県西播磨県民局長は7月7日に姫路市の民家で死亡しているのが見つかった。自殺と見られる。すると県職労は9日に斎藤知事に辞職を求める方針を決め、10日に副知事と面会し、知事宛ての申し入れ書を提出したのである。あまりにも早すぎる辞職申し入れ書提出である。たった2日間で辞職申し入れを提出したということは県職員が7つの告発文書作成計画にすでに関わっていたという証拠である。あたかも元局長が個人的に作成したように報道しているが、そうではない。県職労が仕組んだものである。

共産党は22日、県政の混乱を招いたとして、斎藤知事に辞職を求めた。全労のバックに存在するのが共産党である。斎藤知事排除計画の黒幕は共産党である可能性が高い。大阪府では維新の会によって共産党は壊滅危機に陥っている。維新の会と密接である斎藤知事によって兵庫でも大阪府のように共産党は壊滅危機にさせられるのではないかと共産党は恐れていたのだ。
 兵庫県の労連職員は斎藤知事のパワハラやおねだりをメディアに言い、県職員が斎藤知事の辞職を希望していることを訴えた。去年の議会選の結果である。
       
自民31→24
公明12→13
共産5→2
立民4→4
維新4→21
国民1→0
無22→22

 共産党は半分以下に激減した。大阪府議会では1議席である。斎藤知事の政権が続けば大阪と同じように維新の会は増えていき、共産党は存続の危機に陥るだろう。危機を脱するには斎藤知事を排除しなければならない。排除するために共産党は県労連を利用して斎藤知事のパワハラ、おねだりの宣伝をメディアに拡大させたのだ。その効果があり全議員が斎藤知事の辞職を要求する決議をした。

 兵庫県で7つの告発によって斎藤知事を失職させたように沖縄では県民投票で辺野古埋め立ては海を汚染させるという嘘を自治労、自治労連、共産党が振りまいた。その嘘に自民党のリーダーであった翁長雄志氏を巻き込んだ、翁長氏は辺野古埋め立て反対を選挙公約にして知事選に立候補して知事になった。兵庫県では自民、維新などの政党を反斎藤知事にし、全議員が斎藤知事辞職を要求させた。沖縄県では自民党の翁長氏を辺野古移設反対に巻き込んで県知事、県議会を反辺野古埋め立てにした。
 7つの告発文書は巧妙な嘘の文書であるし、辺野古埋め立てをしたら海が汚染されるというのも真っ赤な嘘である。政治家たちは嘘にまんまと騙されたのだ。
 メディアと政治家が騙された嘘に兵庫県民は騙されなかった。斎藤氏を再び知事にした。

沖縄県
 沖縄県は県議会選では辺野古移設反対の共産党と立民議席がが半減し、移設容認の自民と公明の議席が増えて、野党が過半数になった。
与党
共産7→4
立民4→2
社民2→2
社大2→3
無所属9→9

野党
自民18→20
公明 2→4

沖縄県民は海が汚染されると嘘を振りまいた共産、立民の議席を半減させたのである。

沖縄、兵庫県民は自治労、自治労連、共産党、立民左派のの嘘を許さない。
  

Posted by ヒジャイ at 15:02Comments(0)二大政党

2024年12月31日

メディアはSNSに敗北したのではない 兵庫県民に敗北したのだ

メディアはSNSに敗北したのではない 兵庫県民に敗北したのだ

 メディアはSNSに敗北したと繰り返し報道している。メディアはSNSに敗北したのではない。斎藤知事の政策を支持した兵庫県民に敗北したのだ。スキャンダルに埋没しているメディアは反斎藤知事であった。そのことをブログに掲載した。
・兵庫県民は斎藤候補の政策重視か パワハラ、おねだり重視か
・県民は政策で、メディアはスキャンダルで知事を選  
 ぶ
・兵庫知事選は政党、マスメディア対斎藤支持市民派の闘い
・兵庫県民はメディアや政党と違い斎藤氏を支持している
・斎藤候補が圧勝 政党、マスメディアは敗北



兵庫県民は斎藤候補の政策重視か パワハラ、おねだり重視か

 自民党、立憲、維新の会、共産党の全議員が辞職を求めた斎藤前知事が当選するか否か。

マスメディアも専門家も斎藤知事のパワハラ、おねだりを徹底して非難した。知事失格を宣告された斎藤候補である。落選するのが当然である。
 ところが斎藤候補を支持する県民が居る。政治家、マスメディア、政治専門家のほとんどが斎藤候補を否定しているというのに応援する県民が多数存在するのだ。県民は政治に素人である。素人なのに専門家の主張に反対する県民が増え続けている。

 県民は政治に素人であるが、斎藤候補が実施した政策を直接体験した人たちである。専門家が非難した斎藤候補を素人の体験者たちが肯定しているのである。

30代の会社員
「県立高校一校あたりの予算額が全国で46位であった。施設は古く、生徒の部活の道具がすごくボロボロであった。OBの皆さんの寄付とかでやりくりをしているという状況だったが、斎藤知事は県立高校のトイレの改修や洋式化、教室や体育館のクーラーの設置、部活動の応援をやってくれた。
 斎藤知事は県立大学の授業料の無償化であったり、高校の支援や不妊治療の支援、それ以外にも若い世代を応援する政策をしっかりやってくれた」

40代の会社員女性
「やっぱり、斎藤さんは既得権に切り込んでいく。例えば天下りを辞めさせるなどをやってこられた方です。私の友達の職場にも県からの天下りがあってその弊害をずっと聞いていたのですが、それを辞めさせてくれただけでも、ちゃんと仕事されている知事さんだと思っていましたので、応援にきました」

2児の母である40代女性
「うちは中学と高校の子供がいるのですが、知事が斎藤さんになってからは、子供たちや子育て世代への支援が増えたことがはっきり分かりました。県立大学の学費を無料化や、給食の無償化も進んでいます。県立高校の校舎への予算も確保してくださったのか、どんどん綺麗になっています。なのでありがとうございますと、お礼を言いにきました」

 斎藤候補の政治改革を直接体験したのが兵庫県民である。体験した県民の多くが斎藤候補の政治を認め支持しているのだ。全議員から辞職を要求され、ほとんどのマスメディアから非難された斎藤候補が当選することはあり得ないことである。ところが多くの県民が支持するようになった。

 斎藤候補を批判した7つの告発文は県職員へのパワハラやおねだりなどをやったことに対する批判である。斎藤候補の切削への批判は一切ない。だから、議員やマスメディアも斎藤候補の政策への批判は一切ない。

議員、マスメディアはパワハラ、おねだり、キックバックなどを重視している。
県民は斎藤候補の政策を重視している。

 斎藤候補が確実に当選する。間違いない。
             「兵庫県民は斎藤候補の政策重視か パワハラ、おねだり重視か」

 メディアはSNSに敗北したと思い込んでいるが、SNSに敗北したというのは間違っている。7つの告発文書に固執し、反斎藤知事だったから敗北したのだ。SNSは斎藤知事の政策を支持するのもあれば反対するのもある。斎藤知事の政策を支持するSNSが多かったかもしれないが、兵庫県民は斎藤知事の政策に触れて、支持する県民が多かったのだ。だから、斎藤氏が当選した。
 斎藤知事を支持しなかったメディアは斎藤知事を支持した兵庫県民に敗北したのだ。
  

Posted by ヒジャイ at 17:46Comments(0)二大政党

2024年12月30日

「SNSに敗北した」はメディアが知事選挙で違法違法行為したと白状したということ

「SNSに敗北した」はメディアが知事選挙で違法違法行為したと白状したということ

兵庫知事選の開票速報で斎藤候補が当選確実であることを全国放送でまっさきに中継したのがフジテレビのMr.サンデーであった。斎藤候補の当選を知った宮根誠司キャスターは、
「われわれ大手メディアの敗北」
と断言した。宮根キャスターは負けた相手がSNSであると言い、
「今回、我々ひょっとしたら初体験かもしれない……SNSの力。これにはちょっと驚きましたね」
と感想を述べた。
 SNSは制約がほとんどないのにテレビや新聞は制約が多いことをあげ、それがメディアの敗北の原因であるとしている。「兵庫知事選はメディアがSNSに負けた」をほとんどのメディアが言っている。
もし、SNSがメディアと同じように制約があれば斎藤候補が当選することはなかったとメディアは判断しているのだ。

 「SNSにメディアが敗北した」から斎藤候補が当選したということは、メディアとSNSが同じ条件で互角の報道をしていたなら斎藤候補は落選していたとメディは断言していることになる。
メディアの敗北宣言は、メディアが斎藤候補を落選させるための報道をしていたと解釈することができる。SNSがなければメディアだけの報道になる。メディアだけの報道であったなら斎藤候補は確実に落選していたと決めつけているメディアである。つまりメディアはメディアやSNSが当選を左右させているとメディアやSNSが知事選を支配していると言っているのだ。そんな考えは間違っている。
 メディアは放送機関である。ニュースを流すのがメディアの仕事である。特定の候補者を応援してはならない。しかし、「メディアがSNSに負けた」という発言はメディアが斎藤候補不支持の選挙運動をしていたことを自白したに等しい。メディアは斎藤候補を落選させる選挙運動をしていたのだ。
「メディアはSNSに負けた」は斎藤候補を落選させる運動をしていたが斎藤候補が当選した。だから、メディアは敗北したと言っているのである。メディアは報道機関である。立候補者を平等に報道するのが報道機関の義務である。特定の立候補者を応援したり差別するのは違法行為である。

メディアが「SNSに敗北した」と言ったのは違法行為を白状したということである。
  

Posted by ヒジャイ at 22:26Comments(1)

2024年12月28日

ワシントン事務所に対する百条委設置が決定


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ワシントン事務所に対する百条委設置が決定

アメリカの首都ワシントンに設置している事務所について、設置や運営の手続きが不透明で多くの問題点や疑問点があるとして県議会は地方自治法に基づき、強い調査権を持つ「百条委員会」を設置した。
 県政野党の自民党は「調査内容が多岐にわたっており期限を決めて調査すべきではない」と主張し、協議の結果、明確な期限は設けず調査が終わるまで設置することになった。、県政与党側は「自民党は新年度予算案の編成前に明らかにすることが必要だと説明していたが整合性がとれていない」と反論したが、自民党は与党の反論に応じないで期限を儲けないで調査することにした。自民党などの野党が県議会の多数派なので自民党の方針が採用された。
自民党はワシントン事務所について徹底して調査するつもりである。

 自民党が最初に百条委に参考人として出席を求めたのが、ワシントン事務所の初代の所長と副所長である。所長と副所長は県職員である。二人がどの部署のどんな地位にいる職員かが分かる。県庁の自治労の実態もわかってくるだろう。辺野古移設反対運動に深くかかわっていた県職員の実態が明らかになっていく可能性がある。

 ワシントン事務所は政治目的であることを指摘されて米政府は容認しなかった。そこで、県は事務所を経営する株式事務所として嘘の申請をして、容認された。嘘の申請をしたのは辺野古移設反対運動を米国でも展開するためだ。だから、辺野古移設反対運動に積極的に取り組んでいる県職員が嘘の申請に深く関係しているだろう。
 辺野古移設反対活動をやっている県職員の実態を百条委で明らかにしてほしい。

 辺野古移設反対運動の中心的存在は沖縄の公務員の団体である自治労と教員組合の沖教組である。自治労、沖教祖の中心にあるのが県庁の自治労である。
 辺野古移設反対運動の中心である県庁職員のワシントン事務所の違法行為が調査されるのだ。県庁の移設反対運動は弱体するだろう。

 10月に出版した「内なる民主主義35」で「辺野古は終わった」を掲載した。県議選でデニー知事の与党が敗北したからである。

6月19日
県議選 物言わぬ辺野古埋め立て地がデニー知事与党を敗北させた


辺野古の埋め立て地の写真である。写真はなにも言わない。その姿を見せているだけである。だが、物言わぬ写真が県議会選でデニー知事の与党を大敗北させたのである。

埋め立てが始まる前には、埋め立てすれば海が汚染され、サンゴは死に、魚やジュゴンは棲めなくなると埋め立て反対派は主張し、多くの県民は信じた。汚染されると主張する翁長雄志氏は自民党を離党し、共産党と連帯して辺野古移設反対を主張して知事選に立候補し当選した。辺野古埋め立ては海を汚染すると県民は信じたから翁長氏は当選したのである。しかし、海が汚染されるというのは辺野古移設反対派のでっちあげであった。でっち上げであることを指摘したマスメディアはなかったし自民党も指摘することはなかった。

私は2015年に出版した「「捻じ曲げられた辺野古の真実」」で埋め立てで汚染されることがないことを掲載した。

6月17日
県議選 デニー与党が敗北した 当然のことである<\/font>
県議選でデニー知事派の与党は24議席から20議席になり過半数を割った。敗北したのである。与党が敗北するのは当然である。

県知事選が終わった。予想通りデニー知事与党の候補者が「辺野古移設反対」の選挙公約は掲げていない。
デニー知事は辺野古埋め立てを容認したのだ。だから、デニー知事支持派は辺野古移設反対を主張することができなくなった。
辺野古は終わったのだ。辺野古移設反対はデニー知事によって終わらしたのである。辺野古が終わればデニー知事も終わりである。県議選でデニー知事派の与党が敗北するのは当然のことである。

予測した通りに与党は敗北した。敗北した原因は辺野古反対の敗北である。そのことを県議選ではっきりと表している。
政党別の議席数である。
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Posted by ヒジャイ at 15:55Comments(0)

2024年12月27日

兵庫県民は7つの告発文書策略を跳ね返した 素晴らしい


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兵庫県民は7つの告発文書策略を跳ね返した 素晴らしい

 百条委員会で片山安孝元副知事は7つの告発文書を配布した男性職員の公用パソコンを回収して調べると職員が作成したとみられる人事案みを見つけた。人事案は「『反斎藤』的な職員を配置して、改革を進めさせないという内容だったという。片山氏は斎藤知事体制を崩そうとするクーデターと解釈している。
 7つの告発文書を兵庫県庁の職員が作成したことを知った瞬間に職員の目的は斎藤知事のパワハラなどをなくすのが目的ではなく、片山氏のいうとおりに斎藤知事を辞めさせるのが目的であると確信した。そのことを内なる「民主主義35」に掲載してある。

内なる民主主義35 より


橋下氏が大阪市長の時に、維新の会が大阪で展開している政治改革に反撃するために全労連・大阪労連・自治労連・全教の四者が主催した大会を開いた。
「(維新の会が)強行にすすめる公務労働者への弾圧、住民いじめの攻撃に反撃して、全国からたたかう決意を固めあいました」
と主催者は述べている。
大会は維新の会が全国に展開しようとしていることを阻止するのが目的である。共産党配下の全労連・大阪労連・自治労連・全教は維新の会は敵であると橋下市長時代から見ていたのだ。維新の会の拡大の阻止を共産党、全労連は維新の会が誕生した時から目的にしていたということだ。

 3年前に維新の会よりの斎藤元彦氏が兵庫県知事になった。全労連は兵庫が大阪のように維新の会の政治が展開するのを嫌った。兵庫で維新政治が展開されるのを阻止したいのが全労連である。
 議会は自民党が多数であり維新の会は少ない。斎藤知事をつぶせば維新の会の拡大を阻止できる。全労連は斎藤知事つぶしを目指した。
公務員の団体である兵庫全労は斎藤知事の行動の一部始終を把握することができる。兵庫労連は知事を辞職させるための情報を集めた。そして、7つの告発文を仕上げた。告発文を公表して斎藤知事に辞職を迫った。
告発文によって副知事は辞職した。しかし、斎藤知事は辞職しなかった。斎藤知事を辞職させない限り維新政治を阻止することはできない。斎藤知事が辞職するまで兵庫労連の斎藤知事攻撃は終わらないだろう。
 7つの告発を信じているマスメディアや政治評論家の斎藤知事非難はますます高まっている。しかし、非難は今が最高であるだろう。これからは下がっていくに違いない。理由がある。百条委員会のスケジュールを発表したからだ。
 共産党と兵庫労連は7つの告発を根拠にして斎藤知事の辞職を要求している。しかし、百条委員会の開催が決まった。百条委は7つの告発が事実であるか否かを徹底して調べるために県議会が設置した委員会である。委員長には第一会派の自民から奥谷謙一議員、副委員長には第2会派の維新の会から岸口実議員が選任された

8月4日
やっと斎藤知事の主張をマスメディアが掲載した
マスメディアは元西播磨県民局長の7つの告発が本当であるとの前提で斎藤知事を批判してきた。マスメディアの記事には7つの告発が溢れている。
百条委員会の開催日が決まった。今月23日と30日である。職員ら10人と斎藤知事が出頭する。すると斎藤知事の7つの告発に対する反論が掲載されるようになった。7つの告発で必ず出るのがパワハラである。「知事のパワハラは職員の限界を超え、あちこちから悲鳴が聞こえてくる」と告発している。 斎藤知事のパワハラは「執務室、出張先に関係なく、自分の気に入らないことがあれば関係職員を怒鳴りつける」と指摘している。パワハラの具体例として挙げるのが「出張先の施設のエントランスが自動車進入禁止のため、20m程手前で 公用車を降りて歩かされただけで、出迎えた職員・関係者を怒鳴り散らし、その後は 一言も口を利かなかったという」である。斎藤知事のパワハラとしてしょっちゅう出てくる。今までは一方的にパワハラ告発され続けてきたが30日に斎藤知事が百条委員会に出ると決まったら、パワハラに対する斎藤知事の主張が掲載された。
パワハラ疑惑について斎藤知事は「業務上必要な指導」と主張した。出張先で公用車を降りて20メートル歩かされ、職員をどなり散らしたとの指摘には、「しっかり動線の確保を図るべきだったと厳しく注意したが、ハラスメントという認識はない」と説明した。斎藤知事は職員がきちんとやるべきことをしなかったことを注意したのだ。
果たして斎藤知事の行為はパワーハラスメントだと一方的に決めつけていいのか。知事の厳しい指導と考えるべきではないか。知事は厳しい指導をしてはいけないと元局長は主張しているのだ。

4月に県幹部が視察先企業から高級コーヒーメーカーなどを受け取ったという報道が続いていた。しかし、受け取ったままではなく告発後に返却したという記事が掲載された。今までは受けとったことだけが報道されてきたが、事実は違った。告発後に返却していたのだ。返却したのだから「受け取った」の判断は緩和されるべきである。

兵庫労連・共産党・県民連合の目的は斎藤知事の辞職である。百条委員会の結果、斎藤知事が辞職しない時は兵庫労連・共産党・県民連合の敗北である。
        内なる民主主義35

 百条委員会の途中で県議会の全議員が斎藤知事の辞職に賛成した。斎藤知事の辞職決定は兵庫労連・共産党の勝利である。しかし、知事選では斎藤氏は圧勝した。兵庫県民は斎藤知事を圧勝させたのだ。
 維新を含め政治家は兵庫労連・共産党・県民連合の策略にはめられたが、兵庫県民は策略を跳ね返した。兵庫県民は素晴らしい。
  

Posted by ヒジャイ at 13:44Comments(0)二大政党

2024年12月26日

左翼は社会主義であることを認識するべき


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左翼は社会主義であることを認識するべき

左翼の根元は社会主義である。社会主義はロシア革命が発祥の地である。ロシア革命を起こしたレーニンは社会主義のソ連をつくった。レーニンは米国の資本主義を否定した。資本主義はブルジョア階級が労働階級を搾取するといった。そして、国家とは支配階級が被支配階級を支配するために存在するといった。つまり、米国の国家はブルジョア階級が労働者階級支配するための国家であるといったのだ。米国は大統領や国会議員は国民の選挙で決める民主主義国家である。しかし、レーニンはブルジョア階級が労働者階級を支配するのが米国の本質であるとし、議会制民主主義を認めなかった。
労働者の搾取するブルジョアジーがいない社会が社会主義国家であり労働者が搾取されない自由な国家が社会主義国家であるという理論がレーニンの社会主義論である。レーニンは資本主義に共鳴し、資本主義社会を作ろうとする政治家を排除するために共産党一党独裁国家にした。独裁国家にしたのは労働者を解放するためであった。

ソビエト連邦の概要
ソビエト連邦は、1917年にウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキが、二月革命により成立したロシア臨時政府を転覆した十月革命を起源とする。ボリシェヴィキは憲法で保障された世界初の社会主義国家であるロシア社会主義ソビエト共和国を樹立したが、十月革命がもたらした緊張はボリシェヴィキの赤軍と、白軍に代表される反ボリシェヴィキの諸勢力との間で行われるロシア内戦へと発展した。

ボリシェヴィキを脅威と見る協商国による干渉を受けつつも、赤軍は1920年までに内戦での勝利を決定的なものとし、十月革命後ロシア共和国からの分離独立を果たしていた諸地域(ウクライナなど)を1921年までに占領して、各地にボリシェヴィキが支配するソビエト共和国を樹立した。ボリシェヴィキは旧ロシア帝国領の再統合を企図し、1922年12月30日にロシア、ウクライナ、ザカフカース、白ロシア(ベラルーシ)の4つのソビエト共和国から成るソビエト連邦(以下ソ連)を成立させた。


ソ連は米国より新しい国家である。だから米国よりも新しい政治ををやり労働者を解放する国家であると信じられたから社会主義はあっというまに世界に広がった。社会主義国家は米国やEUと肩を並べるほどの規模になった。
資本主義国家の次にやってくるのが社会主義国家であると信じられていた。世界は米国、EUなどの資本主義とソ連などの社会主義とが対立するようになった。しかし、1991年にソ連が崩壊した。
ソ連は崩壊したが世界を二分するほどに拡大した社会主義は根強く、今でも社会主義思想はあらゆる国々に存在する。
日本では共産党と社会民主党である。しかし、労働者階級である民間の労働者団体である連合は社会主義ではない。社会主義を否定している。社会主義であるのは公務員の団体である。日本自治体労働組合総連合(自治労連)、全日本教職員組合(全教)、日本国家公務員労働組合連合会(国公労連)などの公務員組合である。連合の中でも日教組だけは違う。公務員の団体だから社会主義である。
私は社会主義の傾向である政治家を総じて左翼と呼んでいる。

兵庫県で起きた7つの告発事件を知った瞬間に私は左翼が仕掛けたものであると直感した。だから、徹底して7つの告発文を批判した。

2015年に出版した短編小説「1971Mの死」は町田宗秀が殺される直前に彼と話したことを書いてある。琉大のキャンパスで偶然彼と話し合った。

1971年
6月19日 - 沖縄人民党・民青による革マル派町田宗秀死亡事件(琉大事件、革マル派は民青によるリンチ殺害とし、民青は両派衝突の際の事故死としている)

 学生運動をしていたから左翼のことはメディアより知っている。メディアは保守と左翼の違いをはっきりと区別するべきであるのにそれができない。

1971 Mの死
 学生運動やら演劇クラブでの酒と論争やらの日々を過ごしたせいで、私は多くの単位を落としていた。琉球大学の国文学科に入学して五年が経過していたが今年も卒業の見込みがなかった。
一九七一年六月一七日、五年次の私は三年次の学生と一緒に中世文学の講義を受けていた。古典に全然興味のない私だったが卒業するためには必修科目の中世文学を受講しないわけにはいかなかった。窓際に座り、教授の講義を念仏のように聞きながら、青空と白い雲の下の慶良間諸島や遥か遠くに見える読谷飛行場の像のオリをぼんやりと眺めているうちに講義の終了のベルは鳴った。五年次の私には親しい学生はいないので講義が終わっても雑談する相手はいなかった。講義が終わるとすぐに講義室を出た。生協の食堂でカレーライスを食べ、それから崖道を下って、トタン屋根の我が演劇クラブ室にでも行こうかと思いながら廊下を歩いていると、背後から、
「先輩」
聞き覚えのある声がした。振り向くと一年後輩の礼子だった。
「先輩、明日、与儀公園で県民大会があるけど、参加できないですか」 
礼子は私を県民大会に誘った。学生運動と距離を置くようになっていた私は県民大会に参加したくなかった。
「県民大会かあ。ううん、どうしよう」
私が県民大会に行くのを渋っていると、
「なにか用事があるのですか」
と、礼子は訊いた。
国文学科委員長をしていた頃は私が礼子を学生集会に熱心に誘ったし、県民大会などに何度も一緒に参加した。礼子は運動音痴で弱虫であったが、デモの時に機動隊にジュラルミンの盾でこずかれて怪我をしたり、一部の学生が火炎瓶を投げつけたために機動隊に襲われる怖い体験をしても学生運動に参加し続けていた。礼子とは違い、学科委員長を辞めてからの私は次第に学生運動に距離を置くようになり学生集会や県民大会などに参加しなくなっていた。
「明日は家庭教師の仕事があるんだ」
「無理ですか」
「無理かもしれない」
「できたら参加して欲しいです」
いつになく礼子はしつこく私を県民大会に誘った。今までも何度か学生集会や県民大会に誘われたが私はヤボ用があるといって断った。その時は、「それでは次には参加してください」といって礼子は私を誘うのをあきらめた。しかし、今日の礼子はすぐにはあきらめなかった。家庭教師をする家はどこですかと聞いたり、家庭教師の日を変更できませんかと聞いたりした。礼子は来年卒業する。就職活動もあるし県民大会や学生集会に参加するのをそろそろ終えようと思っているのだろう。だから、私を県民大会に誘っているのかもしれない。礼子と話しているうちに、私は礼子の誘いを断るわけにはいかないと思った。
家庭教師をやる家は那覇市の立法院の近くにあった。立法院前から市内線のバスに乗れば開南を通って与儀公園まで直行で行ける。家庭教師を早く終われば県民大会に間に合わせることができるだろう。
「家庭教師を早く切り上げれば県民大会に間に合うかもしれない」
礼子はほっとしたように微笑んだ。
「そうですか。よかった。それでは、明日の県民大会で」
と言って、礼子は去って行った。

一九七一年六月一八日、私は家庭教師の仕事を早めに終わって、スーツに革靴のまま与儀公園に行った。その日の県民大会は、宇宙中継によって東京とワシントンで結ばれた「沖縄返還協定」に抗議する県民大会であった。日米政府による「沖縄返還協定」締結によって、来年の一九七二年五月一五日午前0時に沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県が誕生することになる。 
バスを降り、与儀公園に入った私は、公園に並んでいる団体の中に琉球大学自治会の学生集団を探したが、見つけることができなかった。変に思いながら公園内を見渡すと、大会場の後ろの方に白いヘルメットの集団が見えた。近づいていくと、琉球大学の自治会長がハンドスピーカーを握り、県民大会の議事進行を無視して、公園の芝生に座っている学生たちに向かってがなり立てているのが見えた。私は学生集団の中に礼子たちを探した。手を上げている女性が目に入った。見ると礼子だった。私は後輩の学科委員長に「よっ」と挨拶をしてから礼子のいる集団に混じった。
礼子たちは四年次であり来年は卒業するので、私たちの雑談は卒業の話になった。
「卒業したらなんの仕事をするんだ」
「中学校の先生よ」
「え、弱虫のお前が中学校の先生になるのか。いじめられて泣かされるぞう」
私がからかうと、
「仕方ないでしょ。他にいい仕事がないもの。先輩は今度卒業できるの」
礼子は反撃してきた。痛いところを突かれて、私が返答に困っていると、
「ほら、先輩は卒業できないのでしょう。他人のことをとやかく言わないで自分のことを心配したほうがいいわ」
「他人のことをとやかく言って悪かったな」
などと雑談していると、学生運動のリーダーたちから立ち上がるように指示された。
「県民大会はまだ終わっていない。どうするのだろう」
「さあ、知らないわ」
琉球大学の学生集団は立ち上がり、ジグザグデモを始めた。そして、革新政党や労働組合の代表が居並んでいる会場の前に出ると、演壇の周囲をぐるぐる回り始めた。デモ隊の中から数人のヘルメットを被った学生が出てきて、演壇に駆け上がり、演説している労組の代表者と進行係を排除して演壇を占拠した。学生たちは演壇の中央で日の丸と星条旗を交錯させるとふたつの旗に火をつけた。灯油を染み込ませた日の丸と星条旗は勢いよく燃えた。演壇の回りをジグザグデモしている学生たちの意気は上がり、シュプレヒコールは大きくなった。
私は、日の丸と星条旗が燃え終わると、デモ隊は意気揚々と元の場所に戻るだろうと予想しながら演壇の周囲をデモっていた。すると、労働者の集団がデモ隊に近づいてきた。私はその集団はデモ隊への抗議の集団であり、デモを指揮しているリーダーたちと押し問答が起こるだろうと予想していたが、労働者の集団がデモ隊に接近すると、デモ隊の一角が悲鳴を上げて一斉に逃げ始めた。労働者の集団は抗議をするためではなく、学生のデモ隊を実力で排除するためにやってきたのだった。県民大会の演壇を占拠し、日の丸と星条旗を燃やしたのは横暴な行為であり許されるものではない。しかし、だからといって労働者集団が学生のデモ隊を問答無用に襲撃するのは私には信じられないことだった。唖然とした私は、逃げ惑う学生たちの流れに押されて走った。走っている途中で、前日の雨でぬかるんでいる泥土に足を取られ、片方の革靴が抜けてしまった。私は革靴を取るために立ち止まろうとしたが、逃げ惑う群の圧力は強く、私は群れに押し流されて与儀公園の外に出た。
片方の革靴を失った私は困った。スーツと革靴は上流家庭の家庭教師をしている学生には必需品であり、貧乏学生の私は高価である革靴をそのまま諦めるわけにはいかなかった。はぐれてしまった礼子たちのことが気になったが、それよりも革靴の方が私には切実な問題だった。会場が落ち着いてから与儀公園に戻ろうと、私はバス停留所に向かう学生たちの群れから離れて道路の脇に立ち、与儀公園の様子を見ていた。すると、照屋さんが近寄って来て、
「どうしたの」
と私に訊いた。照屋さんは情報収集を専門に活動している学生運動家だった。

私が学科委員長をやっていた時、照屋さんと私は那覇署の様子を探るために那覇署の近くのバス停留所で張り込みをしたことがあった。私と照屋さんは那覇署が見えるバス停留所のベンチに座っていたが、なんの飾り気もない服を着ている男女がバス停留所に長時間座っているのを逆に警官に怪しまれて私と照屋さんは那覇署に連れて行かれた。私たちの服装や表情を見て、私たちが学生運動家であることを警官はすぐに分かっただろう。私は数人の警官に囲まれて素性を聞かれた。私は無言を貫いた。私の態度を生意気だと思った背の低い警官が私の腹を突いた。ぐっと私が腹を固めて我慢したので、お、こいつ腹を固めたぞ、結構腹が固いなと言いながら一発目より強く突いた。私はカーっと頭にきた。もし、あと一、二発腹を突かれたら私は警官に殴りかかる積もりになっていた。私の気持ちは顔にも表れたのだろう、警官は真顔になり、なんだお前は、やる積もりかと私を睨んだ。私は睨み返した。その時、隣の警官が、「やめとけ、比嘉。大人げないぞ」と背の低い警官を制した。我に返った比嘉という警官は苦笑いしながら去って行った。黙秘を通したので留置場に入れられるのを覚悟したが、暫くして私と照屋さんは解放された。

私は照屋さんに革靴を演壇の近くのぬかるみに取られたことを話した。すると照屋さんは、暫くの間様子を見てから与儀公園に戻る予定だと言い、
「私が革靴を探してあげるから、あなたは自治会室で待っていて」
と言った。学生運動から離れている私は自治会室には行きたくなかったので、自分で革靴を探すと言った。すると、照屋さんは顔を曇らせて、「男は危険だから」と言った。
「主催者側となにかトラブっているのか」
と、私が訊くと、照屋さんは頷いた。照屋さんの話では、県民大会の主催者側と琉球大学自治会は険悪な関係になっていて、琉球大学自治会の県民大会への参加は認められていなかったという。

日本は沖縄の祖国であり、母なる祖国に復帰するのが沖縄の悲願であると主張している祖国復帰運動家にとって、日の丸は祖国日本の象徴であり崇高な存在であった。ところが、その頃の琉球大学自治会は、崇高なる日の丸を、こともあろうに祖国復帰運動家たちが目の敵にして最も嫌っているアメリカの象徴である星条旗と交錯させて一緒に燃やす行為を繰り返していた。星条旗と一緒に日の丸を焼却する琉球大学自治会の行為は、日の丸を祖国復帰運動の象徴にしている運動家たちを嘲笑し侮辱しているようなものであった。だから、与儀公園の県民大会の主催者は琉球大学自治会を嫌悪し、参加を許可しなかったし、演壇で日の丸と星条旗を燃やした琉球大学自治会の学生集団を実力で排除したのだろう。
琉球大学自治会のデモ隊が労働者集団に襲われた事情は知ったが、だからといって私が労働者集団に襲われるのは考えられないことであった。私は自分で革靴を探すと言った。しかし、照屋さんは、私の顔は彼らに覚えられているかも知れないから危険だと言い張った。私は学生運動でそんなに派手なことをやっていなかったし、一年近く学生運動から離れている。労働者集団に私の顔を覚えられていることはないと思ったが、照屋さんは私の身を心配してくれて私が与儀公園に戻ることに反対しているし、照屋さんと押し問答を続けると照屋さんの活動を邪魔してしまう。私は仕方なく照屋さんに革靴のことを頼み、琉球大学の自治会室に向かった。
首里にある琉球大学の自治会室に到着した私は自治会室には居たくなかったので、照屋さんが来たらキャンパスに居ると伝えてくれるように顔見知りの学生に頼んで自治会室を出た。むさくるしい自治会室を出ると、満天の星々が煌めいていた。
木々が林立しているキャンパスは闇に覆われ、所々に立っている外灯の周囲は白っぽい空間を作っていた。自治会室の開けっ放しの出入り口や窓から漏れている蛍光灯の光を背にして、私は芝生を踏みながら歩き、腰を下ろすのにほどよい場所を探した。薄闇の中を進むとガジュマルの木が植わっている場所があり、私はガジュマルの木の根に腰を下ろした。
那覇市で一番空に近い琉球大学のキャンパスには初夏の涼しい風が吹き、頭上のガジュマルの枝葉をざわつかせていた。
・・・・・県民大会に行かなければよかった。県民大会に行かなければ、今頃は間借り部屋でのんびりとラーメンを食べていた・・・・・私はガジュマルの幹に背を持たせながら、県民大会に行ったことを後悔していた。
 礼子たちのことが気になった。国文学科は女性が多い。このような襲撃で被害を被るのはいつも女学生たちだ。私が学科委員長になった頃から琉球大学の学生運動は急に過激な行動が増えていき機動隊に襲われることが多くなった。礼子と一緒のデモで最初に機動隊に襲撃されたのは開南交番所の焼き討ち事件だった。
国際通りから与儀公園に向かう途中の開南交番所に来た時、リーダーたちの指示でデモ隊は交番所の周りをぐるぐる回り始めた。デモの予定コースや行動については学科委員長である私に前もって知らされるが、交番所の周りをぐるぐる回るのを私は知らされていなかった。顔見知りのリーダー格の津嘉山がデモ隊の中から出てきて交番所の前に立つと、隠し持っていた火炎瓶に火を点けて交番所の窓に投げつけた。一発目は燃えなかった。二発目を投げると交番所の中から炎が燃え上がった。デモ隊は威勢が上がったが、私の周囲にいる女学生たちは恐怖で顔をひきつらせていた。暫くすると後ろのほうで悲鳴が聞こえた。機動隊が襲ってきたのだ。パニック状態になっている礼子たちはどうしていいか分からないで戸惑っていた。「逃げろ」。私は礼子たちに逃げるように指示した。見る見るうちに機動隊は近づいてきた。交番所を焼かれた機動隊の勢いはいつもより激しかった。
「早く逃げるんだ」
私は激しく迫ってくる機動隊を見ながら叫んだ。礼子たちは平和通りのほうに逃げた。私はゆっくり走りながら礼子たちが去っていくのを見守っていたが、機動隊のひとりが私を狙って追ってきた。私は礼子たちとは逆方向の与儀公園の方に向かって逃げた。機動隊はしつこく私を追いかけてきたので私は路地に逃げたが、路地は崖になっていて行き止まりだった。私は数メートルの崖下に飛んだ。着地したところは家の庭だった。機動隊からは逃げ切れたが、飛び降りた時に私は足に怪我をした。
 あの時の礼子は逃げる時に転んで手足に軽い怪我をしていた。今日は日の丸と星条旗を県民大会で焼却したために労働者集団に襲撃されたが、革靴をぬかるみに取られた私は立ち止まったりしたので礼子たちより逃げるのが遅れた。後ろから走った私は礼子や他の国文学科の学生を見なかったから今日は転ばないで無事に逃げただろう。

ソ連、中国、モンゴル、北朝鮮、北ベトナムなどアジア大陸のほとんどの国が日本やアメリカと対立する社会主義国家であり、アジアの社会主義圏は拡大しつつあった。ベトナム戦争は敗北の色が濃くなり、南ベトナムが北ベトナムに併合されて社会主義国家になるのは時間の問題だった。米軍が駐留していなければ北朝鮮に侵略される可能性が高い韓国、中国侵略に脅かされ続けている台湾、フィリピンの共産ゲリラの不気味な存在。カンボジアなどの東南アジアの毛沢東主義派の武力攻勢など、アジアは共産主義勢力がますます拡大し、日米政府にとってますます沖縄の軍事基地は重要な存在になっていた。
ベトナム戦争で莫大な国家予算を使って経済危機に陥ったアメリカは沖縄のアメリカ軍基地を維持するのが困難になり、経済力のある日本の援助が必要となっていた。そこで、日米両政府は沖縄を日本に返還することによって、沖縄の米軍事基地の維持費を日本政府が肩代わりする方法を考えだした。
沖縄が日本の一部になれば米軍基地を強化・維持するための費用を国家予算として日本政府は合法的に決めることができる。米軍基地の維持費を日本政府が肩代わりするための沖縄施政権返還計画は着々と進み、1971年6月17日、宇宙中継によって東京では外相愛知揆一が、ワシントンではロジャーズ米国務長官が沖縄返還協定にそれぞれサインした。これで「沖縄返還協定」は1972年5月15日午前0時をもって発効し、沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県が誕生することになった。
日米政府による沖縄施政権返還協定に反発したのが「祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」と日米政府が全然考えていない非現実的な祖国復帰を自分勝手に妄想し続けていた沖縄の祖国復帰運動家たちであった。妄想は妄想であり現実ではない。妄想が実現することはありえないことである。
沖縄を施政権返還すれば沖縄のアメリカ軍基地の維持費を日本政府は堂々と国家予算に組み入れることができる。泥沼化したベトナム戦争のために莫大な戦費を使い果たし財政的に苦しくなっていたアメリカを日本政府が合法的に経済援助するのが沖縄の施政権返還の目的であった。それが祖国復帰の内実であった。ところが「祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」という妄想を吹聴し続けた祖国復帰運動家たちは、祖国復帰が実現するのは祖国復帰運動が日米政府を動かしたから実現したのだと自賛しながらも、施政権返還の内容が自分たちの要求とは違うといって反発をした。妄想の中から一歩も飛び出すことができない祖国復帰運動家たちは祖国日本に裏切られたなどと文句をいい、日米政府が100%受け入れることがない非現実的な「無条件返還」の要求運動を展開した。
ソ連・中国等の社会主義圏とアメリカ・西ヨーロッパ諸国の民主主義圏との緊迫した世界的な対立やアジアの政治情勢やベトナム戦争の劣勢を考えれば、沖縄のアメリカ軍基地を再編強化するための本土復帰であるのは歴然としたものであった。世界やアジアの政治情勢を無視して、自分勝手に描いた妄想でしかない祖国復帰論が日米政府に通用するはずがなかった。

琉球大学自治会は、沖縄の施政権返還は日本政府とアメリカ政府の共謀によって沖縄のアメリカ軍基地を強化維持するのが目的であることを世間にアピールするために日の丸と星条旗を交錯させて燃やし続けていた。私はその行為は理解できたし賛同もしていた。しかし、県民大会の議事進行を邪魔し、演壇を占拠して日の丸と星条旗を燃やすのは横暴な行為だ。許されることではない。あのような横暴なことをやるから一般学生は離れていくのだ。横暴で過激な行為は学生運動を衰退させてしまうだけである。
明日になれば、私が学科委員長だった頃と同じように、それぞれの学科委員長はそれぞれの学科集会を開き、県民大会の演壇で日の丸と星条旗を燃やした意義を学生たちに説明するだろう。しかし、県民大会の議事進行を中断させて、演壇を占拠したことに正当性があるかどうかという問題はなおざりにするだろうし、日の丸と星条旗を燃やしただけで、琉球大学自治会の主張が県民大会に集まった人たちに理解されたかどうかの問題もなおざりにしてしまうだろう。私は過激化していく学生運動にため息をついた。

自治会室から漏れてくる光が暗くなった。誰かが私の居る場所に近づいてきたためだ。照屋さんが来るには早いなと思いながら私は振り向いた。影の正体は女性ではなく男性であった。男性は明るい場所から木々が植わっているキャンパスのうす暗い場所に入ったために、私を見つけることができないようだった。
「マタヨシ」
男は私の名を呼んだ。声を聞いて男の正体が分かった。私の名を呼んだ男はMだった。

私がMと出会ったのは三年前だった。演劇クラブはフランスの作家ジャン・ジュネ作の「黒ん坊たち」を大学祭で上演することになったが、役者が不足していたのでクラブ員である仲里が彼と同じ電気学科の後輩であるMを連れてきた。Mは高校時代の先輩である仲里が役者をやってくれと頼むと、役者の経験はなかったのに承知したという。
Mの役は老いてもうろくした元将軍だった。元将軍は四六時中居眠りをしていて、たまに目が覚めると、意味不明の、「女郎屋へ。くそ、女郎屋へ」というセリフを吐いた。元将軍を演ずることになったMは読み合わせの時から全力で、「女郎屋へ。くそ、女郎屋へ」と叫び、セリフを言うたびに唾を飛ばした。読み合わせだから、大声を出す必要はないと注意すると、「はい」と頷いたが、Mの叫びは直らなかった。Mが唾を吐いて叫ぶたびに、私たちは大笑いしたものだ。Mはくそ真面目で不器用な男だった。
夏休みに、演劇クラブは伊平屋島で合宿をすることになった。
演劇クラブ室で酒宴を開いている時に、男子寮の裏にある円鑑池で、夜になると「モー、モー」と牛のように鳴く正体不明の動物がいる話になった時、伊礼があれは食用ガエルであると教えた。私がなんとかして食用ガエルを捕まえて食べたいものだと言うと、伊平屋島出身の伊礼は、伊平屋島の田んぼには食用かえるがたくさん棲んでいて、簡単に捕まえることができると言った。それに、伊平屋島には野生のヤギもいて、ヤギを捕まえて食することもできると言った。それじゃあ恒例の演劇クラブの夏休み合宿は伊平屋島にしようということになった。オブザーバーであるMも伊平屋島の合宿に参加した。
伊平屋島に到着し、わくわくしながら田んぼに行くと、稲刈り後の田んぼは干上がり、食用ガエルはいなかった。私たちはがっかりした。どうしても食用ガエルが食べたい私たちは、合宿している小学校の教室の裏の小さな池に棲んでいる食用ガエルを捕まえて食べた。
伊平屋島の裏海岸には年中涸れることのない水溜りのある不思議な岩があるといい、伊礼は岩に私たちを案内した。岩に時々ヤギがやってきて水を飲むと伊礼は話した。ヤギは水を飲まないはずだと私が言うと、伊礼は、いやヤギは水を飲むと言い張った。私と伊礼は言い争った。ささいなことでもどちらが正しいかを真剣に言い争うのが私たちの青春だった。
私たちは岩から離れ、合宿している小学校に向かって砂浜を歩いた。すると浜を歩いている野生のヤギを見つけた。私はヤギを捕まえようと追いかけた。ヤギは崖の方に逃げた。私がなおも追いかけるとヤギは崖を登り始めた。私はしめたと思った。崖登りなら人間の方が早いはずである。ヤギを追って私は崖を登った。ところが崖登りは私よりも数倍ヤギの方が上手だった。ヤギは時々立ち止まって私を振り向きながらゆうゆうと崖を登ると野原に去って行った。見物していた演劇クラブの仲間は大笑いした。
「食用ガエルは田んぼにいないし、ヤギを捕まえることはできないし、伊礼はうそつきだ」
と私が伊礼を責めると、伊礼はヤギを絶対捕まえてみせると意地を張った。伊礼はヤギを捕まえる相棒にMを指名した。Mは素直に伊礼の指名に従った。
「お前たちは先に学校に帰れ。俺とMでヤギを捕まえるから」
と伊礼は言った。
日が暮れて、辺りが闇に覆われた頃、伊礼とMは内臓と首のない子ヤギを実家から借りた自転車の前に括り付けて帰ってきた。女性たちは悲鳴を上げた。男たちは酒を飲みながらヤギ肉を食した。
浜辺の貝を食したり、魚を釣ったり、島のあちらこちらを冒険したり、ヘビが寝床に侵入して大騒ぎになったり、私たち若者は演劇の練習はそっちのけで伊平屋島の夏を楽しんだ。夏休みが明けて暫くすると、「黒ん坊たち」の練習は頓挫し、Mは演劇クラブ室に来なくなった。

三年次になった時に、Mと私は学科委員長になり、学生運動の場で顔を合わせるようになった。しかし、Mは無口であり顔を合わせると黙礼をするくらいで、私とMが親しく話をすることはなかった。私が学科委員長を辞めてからはMと顔を合わせることはほとんどなくなった。先刻、私が自治会室に入った時、Mは自治会室に居た。久しぶりに会った私とMは黙礼をしただけで、言葉は交わさなかった。そのMがなぜ私に会おうとしているのか。
革靴を失って憂鬱な私はMと話す気がなく黙っていた。闇の中の私を見つけることができないMが、私を探すのをあきらめて去って行くのを期待していたが、
「マタヨシ」
と、Mは再び私の名を呼んだ。私は仕方なく、「ああ」と、私の居場所を知らせる声を発した。Mは私の声を聞き、私の居る場所に近づいてきた。私は自治会室の明かりを背にして近づいてきたMを黙って見ていた。Mは私の側に立つと、
「元気か」
と言った。
「ああ」
私は生返事をした。Mは、
「ちょっといいか」
と言った。断りたかったが、私は、
「ああ」
と答えた。Mは私の側に座った。
「マタヨシはまだ演劇をやっているのか」
とMは訊いた。Mの質問に私はむっとした。
私が入学した年の四月に、演劇クラブはベケットの「勝負の終わり」を上演し、その年の秋の大学祭に「闘う男」を上演した。しかし、リーダーであった全次が大学を中退すると、演出のできる学生がいないために翌年には「黒ん坊たち」が練習の途中で頓挫し、その次の年も頓挫した。演劇クラブは三年間も上演しない状態が続いていた。
このままだと演劇クラブは廃部になりクラブ室を明け渡さなくてはならない恐れがあった。私は歴史のある演劇クラブを廃部にした人間にはなりたくなかった。部員が私を含めて四人だけになってしまった状況で、私は三人だけ登場する「いちにち」という戯曲を書き上げ、役者の経験がない新人部員の三人を一から鍛えながら練習を続けていた。三人の中の一人でも退部すれば上演はできない。上演に辿りつけるかどうか不安を抱えながら私は演劇クラブを運営していた。
私の苦しい状況を知らない無神経なMの質問にむっとした私は、
「ああ」
と、ぶっきらぼうに答えた。
「そうか」
と言ったMに、私はソッポを向いた。
私の側に座ったMは、「そうか」と言った後、次の言葉がなかなか出なかった。私はMと話す気はなかったし、話す材料もなかったので黙っていた。Mは黙り、私も黙っていた。暫くして、
「シゲはどうしているか」と言った。
シゲとは私たちを伊平屋島に案内し、Mと子ヤギを捕まえた伊礼のことである。彼は私と同じ国文学科の学生で私より一期先輩だった。ジャン・ジュネの「黒ん坊たち」を持ち込んだのが伊礼であったが、伊礼はすでに中退していた。
「中退したよ」
「そうか、中退したのか。・・・・ケンはどうした。ケンは卒業したのか」
ケンとは新城のことである。彼は私より二年先輩で「勝負の終わり」でハムを演じた学生だった。彼は演出の能力がなく、二年前にアラバールの不条理劇「ファンドとリス」の上演を目指したが頓挫した。
「卒業した」
「就職したのか」
「ああ」
「なんの仕事をしているのか」
「黒真珠のセールスをしている」
「そうか」
と言った後、Mは黙った。
Mは演劇クラブの近況を聞くために私の所に来たのではないだろう。Mがなにを私と話したいか知らないが、私は、演劇の話にしろ、政治の話にしろ、Mと話し合う気にはならなかった。
「みんな、もう居ないか」
Mはしみじみと言った。
Mが演劇クラブに居た頃の学生は、私以外は誰も居なかった。伊礼、比嘉、高安、奈江は中退して演劇クラブを去った。新城、仲里、垣花、喜舎場、美千代、敦子は卒業して演劇クラブを去った。私だけが中退も卒業もしないでまだ演劇クラブに残っていた。Mは演劇クラブを懐かしんでいたが、私にとって演劇クラブは孤独で厳しい闘いを強いられている現実であった。演劇クラブを懐かしんでいるMに私は苛ついた。
Mと話したくない私は黙っていたが、
「そうか。みんな居なくなったか。居なくなって当たり前だな」
と、Mは独り言を言った。そして、黙った。私も黙っていた。
暫くして、Mが、
「マタヨシは家族闘争をやったか」
と言った。唐突な話題の転換であった。Mが私のところにやって来た目的は「家族闘争」について話し合いたかったからだと私は知った。しかし、私にとって、「家族闘争」は時代遅れの話題でしかなかったから拍子抜けした。私は思わず、
「はあ」
と首を傾げた。

「家族闘争」というのは、家族に学生運動をやっていることを打ち明け、家族と話し合い、自分たちがやっている学生運動を家族に理解させ、家族に学生運動を応援させる運動のことであった。
一九六六年にフランスのストラスブール大学で民主化要求の学生運動が始まり、それが一九六八年にはソルボンヌ大学の学生の民主化運動へと発展し、その年の五月二十一日にはパリで学生と労働者がゼネストを行った。そして、労働者の団結権や学生による自治権、教育制度の民主化を大幅に拡大することに成功した。それをフランスの五月革命と呼んだ。フランスの五月革命は学生が原動力となった革命として世界中に有名になった。
大学の民主化を目指して闘ったフランスの学生たちは、自分たちの運動の意義を理解させるために家族と話し合った。学生の民主化運動を理解した家族は学生を応援し、家族を巻き込んだ民主化運動は次第に学生運動から大衆運動へと発展していった。
五月革命が成功した原因のひとつに学生たちが家族の説得に成功したことをあげ、それを家族闘争と呼び、学生運動のリーダーたちは私たちに家族闘争をやるように指示したのだった。
フランスの五月革命のように大学の自治や民主化を目指した運動であったなら、私は家族の理解を得るために喜んで話していただろう。しかし、琉球大学の学生運動は五月革命のような民主化運動とは性格が異なっていた。
琉球大学の学生運動はアメリカ軍事基地撤去、ベトナム戦争反対などを掲げていたが、反戦平和運動の域に止まるものではなかった。沖縄最大の大衆運動である祖国復帰運動を批判し、民主主義国家であるアメリカを帝国主義呼ばわりし、ソ連をスターリン官僚主義と批判して反帝国主義反スターリン主義を掲げた学生運動であった。本土の学生運動と系列化していった琉球大学の学生運動は急速に過激になっていった。ヘルメットを被ってジクザグデモをやり、ゲバ棒で機動隊と衝突したり、火炎瓶を投げたりした。
琉球大学の学生運動を、古い沖縄の因習を信じている私の親が理解し、納得し、応援するのは不可能であった。民主主義社会を目指した運動であったなら私は熱心に両親を説得していたはずである。しかし、民主主義国家アメリカを帝国主義呼ばわりし、将来のプロレタリア革命を目指している琉球大学の学生運動を家族に理解させるのは不可能であった。上からの指示であったが、私は「家族闘争」はやらないことに決めた。
それに、大統領や国会議員だけでなく州知事や地方の首長、議員までが市民の選挙で選ばれるアメリカや日本の民主主義国家で労働者階級が政治の実権を握るために暴力革命を起こすというのはむしろ社会が後退するのではないかという疑問が私にはあった。国民の代表である大統領や議員が国民の一部である労働者階級の暴力によって滅ぼされるのはおかしい。プロレタリア革命の後は国民の選挙が行われないとすれば民主主義国家での暴力革命は目指してはいけないのではないかと私は疑問に思っていた。民主主義とプロレタリア革命の狭間で私自身が悩める若者であったから家族闘争どころではなかった。
学生運動のリーダーたちは「親の理解を得ない限り、真の闘いとは言えない」と、フランスの五月革命を例にして、「家族闘争」することを指示したが、多くの学生は親の理解は得られないことを予想していたから、私と同じように「家族闘争」を避けていた。リーダーたちの指示を素直に受けて、「家族闘争」をやった殊勝な学生も居たが、彼らの多くは、親に説得されて学生運動から離れたり、親に勘当されたり、親子喧嘩になって家出をしたり、強引に休学をさせられて大学に来なくなったりした。
私は「家族闘争」をしないということで私なりに「家族闘争」を処理したのだが、私とMが「家族闘争」をやるように指示されたのは二年前のことであった。   
激しく変動する時代を生きている若者にとって二年前ははるか昔である。私にとって「家族闘争」は時代遅れの四字熟語であった。「マタヨシは家族闘争をやったか」という時代遅れのMの質問に、私はあきれて質問に答える気もなく、黙っていた。
・・・Mよ。俺は与儀公園で革靴を失って苛々しているし、久しぶりに参加した県民大会で肉体はひどく疲れている。お前と古臭い「家族闘争」の話なんかしたくないから、さっさとここから立ち去ってくれ。俺を独りにしてくれ・・・
というのが、その時の私の正直な気持ちだった。私の沈黙に、勘のいい人間なら、私の気持ちを察知して、その場から去っていっただろう。しかし、Mは勘のいい人間ではなかった。Mは私の側に座り続けた。
私がなにも言わないのでMは困惑したようだったが、質問の内容が唐突なので、私が返事をするのに苦労していると思ったのか、
「マタヨシの親はなんの仕事をしているんだ」
と、私への質問の内容を変えてきた。私は予想していなかった質問に戸惑い、
「え」
と言い、Mを見た。
Mは私をではなく正面の闇を見つめていた。Mはまるで正面の暗闇と話しているようだった。Mは目を合わせるのが苦手で、話すときは相手の顔を避けてあらぬ方向を見ながら話す癖があったことを思い出した。
私は、親の話なんかやりたくないという意を込めて、
「農民だ」
と、ぶっきらぼうに言った。
「そうか、農民か」
と言った後に、Mは暫く黙っていた。Mはじっと動かないで闇を見つめていたが、
「僕の親はコザ市のゴヤで洋服店をやっている」
と、自分の親の仕事のことを話した。
「客の多くは嘉手納空軍基地のアメリカ人だ」
と言い、ため息をついた。
コザ市はアメリカ軍人や彼らの家族を客としている商売が多く、アメリカ人を客にして繁盛していた。Mの親もそのひとりだった。
Mの話に興味のない私は黙っていた。私の言葉を待っているMだったが、私がなにも言わないので、暫くすると、
「マタヨシは妹が居るか」
と訊いた。え、それで親の話は終わりかよ、と私は苦笑し、Mが話下手だったことを思い出した。演劇クラブ室での会話や酒宴の場での会話でMから話すことはなかった。質問されたら質問にだけ答える一問一答の対話しかMはやらなかった。Mとの対話はすぐに途絶えるのが普通だった。
Mの質問に、私は、
「居る」
と、一言の返事をした。Mは、
「そうか」
と言い、暫く黙っていたが、
「僕も妹がいる」
と闇を見つめながら言った。Mの声は暗く重かった。
「僕の妹は専門学校に通っている。来年は卒業だ」
Mは言葉を止めた。そして、
「しかし」
と言った後、ため息をつき、それから、
「僕が学生運動をしていることが世間に知れたら、妹の就職に悪い影響を与えるかもしれない」
と、また、ため息をつき、
「マタヨシの妹は仕事をしているのか」
と訊いた。
「している」
「どんな仕事をしているのか」
「さあ、知らない」
「知らないのか」
Mは驚いて訊き返した。私の妹はある建設会社の事務員をしていたが、妹の話をしたくない私は、「さあ、知らない」と答えた。
「弟は居るのか」
と、Mは訊いた。
「居る」
と私が答えると、
「そうか、弟も居るのか」
と言い、弟が居るとも居ないとも言わないでMは黙った。暫くして、
「マタヨシの親はマタヨシが学生運動やっているのを知っているのか」
弟ではなく親の話に変わった。
「いや、知らない」
私が言うと、
「そうか」
と言い、Mは少しの間黙ってから、
「マタヨシの親は保守系なのかそれとも革新系なのか」
と、また、質問の内容を変えた。
琉球政府の主席公選の時、貧しい私の父母は区の有力者に恩納村にある山田温泉に招待された。母は初めて行った山田温泉に喜び、有力者に感謝した。そして、有力者の指示に従い、保守系の候補者に投票した。つまり、私の父母は買収されたのだ。しかし、私の父母には買収されたという自覚はなかったし、罪悪感もなかった。私の父母は保守か革新かではなく、昔からのしきたり通りに地域の有力者に従うだけの人間であった。有力者が保守系だったから私の父母も保守系ということになる。
「保守系だ」
と、私が言うと、
「そうか、保守系か。僕の父も保守系だ」
と言った。Mは暫く黙っていたが、
「マタヨシは親に学生運動をやっていることを話すつもりはないのか」
と訊いた。
私は学生運動のことは一切親には話さないと決めていたし話さなかった。それに今は学生運動から離れているのだから親に話す必要も隠す必要もなかった。私は一年近く自治会室に行ったことはなかったし、学生集会に参加したこともなかった。だから私が学生運動から離れていることに普通なら気付くはずである。しかし、Mは私が学生運動にまだ参加していると思っているようだった。学生運動から離れていることをMに話せば、その理由を説明しなければならないだろう。それもMが納得するように説明しなければならない。それは面倒くさいので私は学生運動から離れていることをMに話さなかった。私は苦笑しながら、
「話すつもりはない」
と言うと、
「どうして話さないんだ」
と、Mは真面目な顔をして言った。私はMにあきれた。
「俺たちの政治思想を話しても、親が理解できるはずがない」
少し間があり、
「そうだな。そうかも知れないな」
とMは言い、ため息をついた。
Mが「家族闘争」に悩んでいることは分かったが、私はMに同情はしなかったし、家族闘争を「頑張れ」と励ます気にもならなかった。私とMは同い年であり、二人は五年次になっていた。学生としては古参である。古参であるMが「家族闘争」に悩んでいるのはむしろ滑稽に思えた。Mは真面目であり、真剣に「家族闘争」をやろうとして悩んでいるかも知れないが、「家族闘争」はすでにそれぞれの学生がそれぞれのやり方で「処理」しているはずのものであった。Mは学科委員長をやった経験もあるのだから、「家族闘争」はすでに「処理」し、解決しているのが当然である。
「マタヨシはこれからも家族闘争をやらない積もりなのか」
とMは訊いた。
「親にどんな風に話せばいいのだ」
学生運動のことを親に理解させるのは不可能であると言う意味で私は言った積もりだったが、Mは勘違いして、
「そうなんだよな。どのように話せばいいのか、それが非常に難しいんだよな」
と言い、
「親にどのように説明すればいいか。分からなくて困っている」
と深いため息をついた。
親に理解させる可能性がゼロではないと信じているMに私は苦笑した。「家族闘争」の可能性を信じているMは、真面目で純真であると言えば聞こえはいいが、親たちが沖縄の古い因習に縛られていることを認識する能力がMには欠けているのだ。私は、「家族闘争なんかできるはずがない。止めろ」とMに言いたかったが、「家族闘争」に真剣に悩んでいるMが私の忠告を素直に聞き入れるはずはない。それに私は学生運動から離れた身である。いまさら「家族闘争」という重たい問題に首を突っ込む気持ちがなかったから、私は忠告するのを止めて黙っていた。
Mは体躯がよく姿勢もよかった。座っているときも背筋をまっすぐに伸ばしていた。演劇クラブ室で車座になって酒を飲んで酔ったときも、Mは背筋をピンと伸ばしていたので、「Mはまるで軍人みたいだ」と揶揄したことがあった。Mは三年前と同じように背筋を伸ばして、真正面の闇を見つめ、身じろぎもしないで座っていた。暫くしてMは、
「マタヨシは兄さんが居るか」
と訊いた。興味のない質問だったが、
「いや、居ない」
と答えた。Mは暫く黙ってから、
「マタヨシは長男か」
と訊いた。
「ああ」
と私が答えると、Mは、
「そうか。長男か」
と言い、
「僕も長男だ」
と言った。そして、
「学生運動をしていることを父に話すと、父は確実に怒るだろう。頑固な父だから、長男である僕でも勘当するかもしれない」
と言って、ため息をついた。
「勘当されるのか」
私は訊き返した。
「されるだろうな」
と言ったMの声は沈んでいた。
 私は親に勘当されたかった。しかし、長男である私を親が勘当することはあり得ないことだった。
家に束縛されないで自由に生きたい私は、「弟は俺よりしっかりしているから、弟が家を継いだほうがいい。弟が家を継ぐなら俺は家の財産は一銭ももらわなくていい」と母に話したことがあった。母は私の話にすごくショックを受け、嘆き悲しんだ。母を嘆き悲しませてまで自由になる勇気のない私は主張を引っ込めざるをえなかった。
大学を休学して、一年くらい東京に住んでみたいと私が言った時も、母は私が東京に行ったら一生帰ってこないという被害妄想に陥り、姉に私の東京行きを引き止めるように頼んだ。九歳年上の姉に、長男としての義務と責任についてこんこんと説教された私は東京行きを断念した。
長男が仏壇と家を継ぎ、親の面倒を看るのは絶対に守らなければならないと信じている母であったから、私が学生運動をやっていると告白しても母が私を勘当することは絶対にあり得ないことだった。私を勘当するのではなく、私が就職できるだろうかと心配し、御先祖様に申しわけないとか、世間に白い目で見られる弟や妹の将来が心配であるとか、村の人や親戚に恥ずかしくて顔を合わすことができないなどと嘆き悲しみ、私に学生運動を止めてくれと必死に頼んだだろう。母は精神的にまいって病気になったかもしれない。だから、私は母に学生運動をやっていると告白することはできなかった。もし、私の母が気丈な人間で、Mの父のように長男であろうと勘当するのなら、私は学生運動をやっていることを喜んで母に告白していただろう。
私にとって勘当されるということは歓迎することであったから、
「勘当されればいいじゃないか。親に頼らなくても俺たちは生きていける」
とMに言った。するとMは困惑し、
「いや、それはまずい」
と言った。
「なにがまずいんだ。勘当されれば、親の束縛から解放されて、自由に生きることができていいじゃないのか」
と私が言うと、
「いや、僕は長男だし、妹が居るし・・・」
とMは言葉を濁した。
「そんなのは関係ないよ」
と、私が言うと、
「いや、僕は長男だから将来は家を継いで親の面倒を看なければならない。それに、兄として妹のことも考えてあげないとな」
Mは長男しての義務を認める言い方をした。
「家か。親の面倒か」
私は、Mに失望しながら呟いた。
私が長男の呪縛から解放されたくても解放されないジレンマに悩んでいるのに、Mは長男の呪縛を自分から受け入れていた。私は学生運動をしている学生は沖縄の古い因習を批判し、家督相続思想を否定していると思っていた。しかし、現実は違っていた。私と同じ世代であり、私と同じ長男であり、私と同じ学生運動をしているMが、長男の家督相続思想を受け入れていた。隣に座っているMが沖縄の古い因習を受け入れているのを知り、私は滅入っていった。
「親を説得する方法はないのかな」
とMが言った時に、私はカーっと頭にきて、
「ない」
と、激しい口調で言った。Mは私の突き放した言葉にショックを受けたようだった。Mは黙った。私も黙った。二人の間に沈黙が続いた。頭上のガジュマルの枝に風が吹いている音が両耳に聞こえ、Mの重いため息が左の耳に聞こえた。
 
演劇上演ができるかどうかの不安、卒業ができるかどうかの不安、親と絶縁して自由に生きる勇気のないジレンマ、社会に出たらどのように生きていけばいいのかなどなど、私も深刻な悩みを抱えている若者の一人であった。Mが学生運動と家族愛の板ばさみに深刻に悩んでいるのを理解はしても、私は私の悩みでいっぱいいっぱいであり、自分の悩みを横に置いて、Mの悩みの相談相手になることは私には無理だった。 

Mは、私と話す言葉を探しているようだった。しかし、見つけることができないまま、沈黙の時間が二人の間に流れていった。キャンパスに、急に突風が吹いて、木々が騒ぎ出し、頭上のガジュマルの枝葉は激しく揺れた。暫くして風が止み、キャンパスが静かになった時、
「マタヨシさん」
と、私の名を呼ぶ声がした。その声は、照屋さんが帰ってきたら、私のことを照屋さんに伝えてくれるように頼んだ学生の声だった。
「こっちだ」
私は返事をした。
「照屋さんが帰ってきた。自治会室に来てほしいって」
と、学生は言った。
「そうか、分かった」
私は立ち上がり、自治会室に向かった。Mも私の後ろからついてきた。
 照屋さんは数人の学生運動家と深刻な顔で話し合っていたが、私が自治会室に入ると、私を振り向いた。
「俺の革靴は見つかったのか」
「ごめん。見つからなかったわ」
革靴が見つからなかったと聞いて私はがっかりした。照屋さんは足元に置いてあった古い運動靴を取り、
「この靴を履いて」
と言った。
「誰の靴なのか」
と私が訊くと、
「知らない。自治会室にあったわ」
と言った。照屋さんの持っている運動靴は萎びていて臭そうだった。他人の汚れた靴を履くのは気持ち悪いし、足がむず痒くなりそうだ。私は裸足で帰ることにした。
「いいよ」
と私が言うと、照屋さんは、
「裸足はいけないわ」
と言い、自治会室の奥の方からゴム草履を探してきて、
「これを履いて」
とゴム草履を私に渡した。私はゴム草履を履き、自治会室を出た。
「マタヨシ」
背後からMの声が聞こえた。振り返ると、Mが近づいてきた。
「寮に帰るのか」
Mは訊いた。私は男子寮に住んでいなかった。なぜ、Mが「寮に帰るのか」と言ったのか理解できなかった。
「俺は寮には住んでいないよ」
と私は言った。
「住んでいないのか」
「ああ」
「そうなのか」
Mはがっかりした様子だった。
「寮に行って話をしないか」
Mは私を誘った。
間借り部屋に帰り、ラーメンを食べる以外に予定はなかったが、Mと話すということは、Mが抱えている「家族闘争」について話すということである。私はMと「家族闘争」のことを話し合う気にならなかったから、
「いや。用事があるから」
と嘘をついて断った。
「そうか」
Mは残念そうであった。話を続けたそうにしているMに、
「じゃな」
と言って、私はMから離れた。
構内の中央通りを横切り、図書館の左端にある小さな階段に向かって歩きながら振り向くと、自治会室から漏れている蛍光灯の白い光をバックにして、Mは名残り惜しそうに立っていた。

 赤平町の間借り部屋に帰った私はラーメンを食べ、隣の学生と雑談をした後にシャワーを浴びようと男子寮に行った。私は風呂代を節約するために男子寮のシャワー室を利用していた。私が男子寮に住んでいるとMが勘違いしたのはシャワー室を利用している私を時々見かけたからかもしれない。
ハイビスカスの垣根を曲がって男子寮に入ろうとした私の足が止まった。玄関に居る数人の学生の様子が変であったからだ。寮内ではみんな軽装であるのに彼らの服装はデモをする時のような厚着であったし、あたりを見回しながら落ち着きがなく歩いていた。彼らは確実に寮生ではなかった。異様さに気づいた私は玄関を離れ、男子寮の裏に回った。裏から入ると見知っている学生がいたので彼から話を聞いた。彼は男子寮が襲撃されたといい、襲われた学生たちは大学構内に逃げたと話した。私は自治会室に急いで行った。
自治会室に集まっている学生たちはみんな恐怖で緊張していた。彼らの様子を見れば襲撃の激しさが想像できた。知り合いの学生が私を見ると、Mが重傷を負って病院に運ばれたと言った。M以外に早稲田大学から来た学生が負傷して病院に運ばれたらしい。Mが重傷であると聞いた私はMの様子を知りたかったのでそのまま大学構内に残った。

Mが死んだ。

夜明け前に病院から帰ってきた照屋さんがそう報告した。

私はMの死を全然予想していなかった。怪我の状態といつまで入院するのかを照屋さんが報告するのだろうと予想していた。しかし、私が全然想像できなかったMの死を照屋さんは報告した。私は頭が真っ白になった
「家族闘争」さえできない純朴なMが死ななければならない理由はどこにもないという妙な思いが私にはあり、Mの死が信じられなかった。しかし、Mは死んだ。すすり泣きがあちらこちらから聞こえてきた。
沖縄の激しい政治の季節に、琉球大学の学生であったがゆえに学生運動に走ったM。沖縄に生まれたがゆえに沖縄の古い因習を受け入れていたM。家族を愛していたがゆえに学生運動に参加していることを打ち明けることができないで深刻に悩んでいた純朴な若者M。
Mは、革命へ突き進もうとする学生運動に参加しながらも、古い沖縄の因習を受け入れている若者の一人であった。革命思想と古い因習を同時に内包していたM。そんな矛盾を抱えている一人の若者が革命とは関係のない争いで命を失った。
Mの死に、私は、怒りや悲しみではなく、体中がいいようのない虚無感に包まれ、「なぜ・・・なぜ・・・」と、答えを出すことができない自問を繰り返していた。

あの日から、もう、四十年が過ぎた。

トタン屋根の古い木造の演劇クラブ室で、
「女郎屋へ。くそ、女郎屋へ」
と、くそ真面目な顔で、口から唾を飛ばして叫んでいたMの顔を思い浮かべると、今でも、苦笑してしまう。


  

Posted by ヒジャイ at 16:55Comments(2)二大政党

2024年12月25日

政治を正しく見る能力のないのがメディアである 







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政治を正しく見る能力のないのがメディアである 

 メディアは自民、公明が少数与党になったことに注目している。自公政権は少数与党になったので、もし、予算案が不成立なら政権が倒れかねないことをメディアは強調する。政権崩壊を防ぐために野党と譲歩を重ねていったことをメディアは注目した。

 自民党は国民民主とは所得税の課税最低ライン「103万円の壁」の見直しを受け入れて交渉し、来年度の与党税制改正大綱に「123万円」への引き上げが盛り込まれた。自民党が「103万円の壁」の見直しを受け入れたので国民民主は予算案に賛成した。

 所得制限なしの高校授業料無償化を要求する維新とも自民、公明は協議に入って維新の提案を受け入れる態度を見せるようになっただから、維新は自民の予算案に賛成した。
 自民党は秀胤採決前に立憲民主の要求を受け入れ補正予算を修正した。

 補正予算案は自民 公明 維新 国民などの賛成多数によって成立した。そのことをメディアは与野党痛み分けといい、なぜ野党は小数与党を追い込めなかったのかと野党を批判した。

立憲民主が共産党との共闘を止めたことと立憲内の左翼は減り、保守議員が増えたことにより、立憲共産党と揶揄されていた状態から保守の立憲になったことを指摘するメディアは一つもない。

メディアは保守と左翼を区別しない。与党か野党で区別するだけである。だから、補正予算が成立したことを、なぜ野党は小数与党を追い込めなかったのかと野党を非難するだけである。
補正予算案に賛成すれば与党だけでなく法案に賛成した野党にも予算に責任が出てくる。野党でありながら法案への責任を持たなくてはならないという今までとは違うことが野党に起こったのだ。メディアはそのことに注目するべきである。ところが注目しない。
メディアは野党が補正予算案に賛成したことを批判するだけである。批判するのではなく賛成した予算案に責任を持たなくてはならない責任を野党に忠告するべきである。

メディアは保守と左翼の違いを知っていない。というより政治を知っていない。そのことがはっきりしたのが兵庫県知事選である。メディアは斎藤知事の政策には無関心であった。斎藤知事のスキャンダルだけを取り上げた。そして、斎藤知事が当選すると、当選した原因をSNSの勝利といい、メディアの敗北と言った。
 
メディアは兵庫県知事選をメディア対SNSの闘いであるといい、規則に縛られるメディアより縛られないSNSが応援した斎藤知事が当選したといったのだ。兵庫県知事選はメディアがSNSに敗北したというのである。SNSの勝利をいうメディアは斎藤知事の政策には関心がないことがはっきりした。
メディアから見れば、斎藤知事の当選は斎藤知事の政策を兵庫県民が支持したからではなくメディアがSNSの宣伝に負けたからだというのである。
 メディアが政治の内容に関心がないことを明確にしたのが兵庫県知事選であった。
  

Posted by ヒジャイ at 21:08Comments(0)二大政党

2024年12月24日

立民・維新・国民民主が給食費無償化法案を共同提出 二大政党へ前進

立民・維新・国民民主が給食費無償化法案を共同提出 二大政党へ前進

 立民・維新・国民民主が給食費無償化法案を共同提出 した。二大政党への歩みが始まったということである。二大政党になるには立憲民主内の左翼が少数になり、保守系が圧倒的な勢力なることであるがその通りになった。立憲と共産党の共闘も終わった。立憲は左翼の共産党と離れたのである。

10月4日
共産党が立憲との共闘を止めた その理由は・・・

共産党の田村智子委員長は30日、党本部で開かれた第3回中央委員会総会で、次期衆院選での立憲民主党との共闘見送りを明言した。
共産党が立憲との選挙共闘を申し入れたのは2021年の衆議院選である。それまで他の野党と共闘することはなかった共産党であったが、2021年に立憲との共闘を望んだ。立憲が与党になった時は共産党の政策を要求しないで閣外協力をするという条件の共闘であった。その後は立憲との共闘を維持した。東京都知事選では立憲共産党と揶揄されるくらいの共闘であった。
ところが突然田村委員長は立憲との共闘をしないと宣言したのである。共闘しない理由を田村委員長は、集団的自衛権行使を容認した安保法の廃止が共闘の一丁目一番地だであるのに野田代表は「安保法の存続に道を開いている」からだという。共産党が立憲と共闘した目的は2015年に成立した安保法制を廃止するために立憲と共闘したのである。だから、立憲が安保法制の廃止をする気がないなら共闘する必要がない。だから、田村委員長は立憲との共闘を止めたのである。
 共産党が立憲と共闘する目的は安保法を廃止するのが目的であることを2年前のブログに書いてある。
 「共産党が立憲との共闘を止めた その理由は・・・」

 立憲民主は左翼の共産党と離れた。そして、議席は増えた。立憲の左翼化を嫌い保守に徹した国民民主は議席を倍増させた。立憲、維新、国民の共闘は保守政党の共闘である。保守の二大政党時代が始まりつつある。
  

Posted by ヒジャイ at 12:38Comments(1)二大政党

2024年12月23日

二大政党への歩みが始まった2

二大政党への歩みが始まった2

 立憲民主党の野田代表は二大政党に向かって歩み始めた。そのはじめとして学校給食の無償化に向けた法案を、国会に他の野党と共同提出したい考えを示した。

野田代表は、学校給食無償化について、「最も野党共闘しやすい法案だと思う」と述べ、「5000億円か6000億円(の予算が)あればできる話だ。一挙に実現に向けて頑張っていきたい」と述べた。
「政策活動費の全廃に至ったのは、7党派で共同提案をしたことと、その他の野党も含めて賛同してもらう可能性が高まったことで、自民党が合意せざるを得なくなった」として、「野党が固まって物事を要求していけば、与党も飲まざるを得なくなるという可能性をよく感じた」と述べた後に、
「国会の中での共闘をやっていくことによって、(参院選の)1人区で一本化の調整などに生かしていきたい」と国会内での協力を、野党の選挙協力につなげたい考えを示した。

野田代表の提案している野党が協議して統一した法案を出すことが二大政党への歩みである。国民民主は自民党と所得税の課税最低ライン「103万円の壁」の見直し交渉をしているが、国民民主は自民党だけでなく他の野党にも提案して、野党でも協議するべきである。維新の会が提案している教育無償化も野党全体で協議するべきだ。協議を重ねていくことが野党の統一につながる。野党の統一が二大政党へと発展していく。
  

Posted by ヒジャイ at 13:25Comments(1)二大政党

2024年12月22日

ワシントン事務所の違法は県庁の左翼職員が主導

12月22日
ワシントン事務所の違法は県庁の左翼職員が主導
沖縄県知事
1 屋良朝苗1972年~1976年
2 平良幸市—野島武盛1976年~1978年
3 西銘順治1978年~1990年
4 大田昌秀 1990年~1998年
5 稲嶺惠一 1998年~2006年
6 仲井眞弘多 2006年~2014年
7 翁長雄志 2014年~2018年
8 玉城デニー 2018年 在職

 屋良朝苗氏は初代の沖縄県知事であるが、最後の米民政府統治の行政主席でもある。復帰前の行政主席は米民政府が任命していた。しかし、1968年には選挙で選ぶことを米民政府が決めた。行政主席選挙で革新共同候補として屋良氏は立候補した。保守系の西銘順治との選挙になった。屋良氏が当選して行政主席になった。
 琉大生だった私は選挙運動員募集に応募して、屋良候補支持の選挙運動をした。選挙運動に参加したのは沖縄の歴史で初めて市民が沖縄の主席を直接選ぶことができるからだった。それまでは米民政府が主席を任命していた。だから、沖縄の主席は非民主的であると考えていた。沖縄の歴史で初めて選挙で沖縄の首長を決めるのが1968年の主席選挙だった。
選挙こそが民主主義の第一歩だと考えていたから主席選挙に参加したのである。私が選挙運動に参加したのはこの時だけである。

 復帰後の県知事は保守と左翼系が交互になっていたが稲嶺知事、仲井間知事と自民党が16年間続いた。沖縄県は保守系の知事が支持されていたのだ。翁長氏は自民党のリーダーであったし、仲井間知事の後継者と考えられていた。翁長氏が自民党から知事選に立候補しても当選していただろう。ところが翁長氏は辺野古移設反対を主張するようになり、自民党を離党して左翼系と合体してオール沖縄を結成し、反自民で知事選に立候補した。
 自民党の知事が続いていて、安定している自民党を内部から分裂させたのが翁長氏だった。左翼が勢力を伸ばしたのではなく、自民党が内部分裂して保守が弱体かしたから左翼が優勢になったのが沖縄の知事選である。
 故翁長知事は根っからの左翼ではない。左翼のような反米主義者でもない。辺野古移設に反対しているが那覇軍港の浦添への移設には賛成している。沖縄の米軍基地をすべて撤去させたい左翼とは違う故翁長知事であった。故翁長知事は反米軍基地主義者ではないし、反米主義者でもなかった。

 ワシントン事務所が株式会社であることは10月に明るみに出たが、会社設立に関する文書は引き継がれていなかった。その事実を玉城デニー知事は知らなかった。沖縄県の米国ワシントン駐在事務所が株式会社として違法に運営されていめことをデニー知事は知らなかったのだ。県のトップが知らなかっということは県の幹部がデニー知事に秘密にしていたからである。県の幹部はワシントン事務所が違法であることを知っていながら年1億円の県税をつぎ込み、県知事には秘密にしていたのだ。県庁は左翼系の職員が多いからそんなことが起こる。
辺野古移設問題では故翁長知事とデニー知事を主導した左翼県幹部である。県知事を主導しただけでなく、県知事に知られたらまずいワシントン事務所の違法行為は隠したのである。何もかもが県庁の左翼職人が取り仕切っているのが辺野古移設反対である。

百条委員会で左翼職員の支配は終わる。
  

Posted by ヒジャイ at 15:38Comments(0)

2024年12月21日

翁長雄志は 沖縄政治史上最低の知事である


2016年7月出版「内なる民主主義9」より


翁長雄志は
沖縄政治史上最低の知事である


自民党県連に所属していた翁長雄志は、自分は保守であること、日米安保に賛成であることを公言していたが、県知事になるために安保廃棄を公約にしている共産党と連帯した。政治家としてあり得ないことである。そして、革新票のお陰で知事に当選した。革新の支持なしには知事の地位に座ることのできない翁長知事は保守の顔をしながら魂を革新に売った政治家である。沖縄の政治を腐敗させているのが翁長雄志知事である。

翁長知事は反法治主義者である 
安倍首相や大臣が上京した翁長知事と面会しないどころか、交付金の減額を口にしたことに対して、さっそく、沖縄タイムスは社説で「[沖縄振興予算]自治壊す恫喝許さない」と政府批判を展開した。しかし、沖縄タイムスがどんなに強烈な罵声を浴びせても今の安倍政権にはいささかの圧力さえ加えることはできない。
 今の安倍内閣は今までの内閣の中で最強である。
 集団的自衛権を閣内決議しようとした時、公明党が渋った。その時、安倍首相は公明党を切ってもいいと決断した。安倍首相の強い意志に公明党は弱気になり集団的自衛権に賛成した。
 石破幹事長は更迭されようとした時、閣外に出て、次の首相選の準備をするようなことを仄めかし、幹事長にとどめるように圧力をかけたが安倍首相は石破氏の脅しに屈せず、石破幹事長を更迭した。
 来年十月の消費税10%上げは自民党のベテラン議員のほとんどが賛成であった。副総理兼財務大臣の麻生氏も増税に賛成であった。安倍首相は財務省、ベテラン議員の圧力を跳ね返し、麻生氏を説得して増税先送りに賛成させ、消費税先送りを問う解散総選挙をやった。そして、大勝利した。

 今の安倍内閣は今までの内閣の中で最強である。
 タイムス社説がどんなに圧力をかけうとしても微風ほどの圧力をかけることはできない。

タイムスは「[沖縄振興予算]自治壊す恫喝許さない」と社説を掲載したが、しかし、相変わらず嘘を散りばめたタイムス社説である。
 
沖縄タイムス社説 12月28日(日)

辺野古への新基地建設に反対する翁長雄志知事の誕生で、政府は来年度の沖縄振興予算を減額する方針だという。仲井真弘多前知事時代から進む、本島を縦貫する鉄軌道構想にも「待った」をかける。
「国の言うことを聞かなければ予算の蛇口を閉めるぞ」と言いたいのだろうか。あまりに露骨な嫌がらせだ。目の前にニンジンをぶら下げて翻意を促すかのようなやり方も下品である。 
      「沖縄タイムス社説」
露骨な嫌がらせを最初にしたのは沖縄二紙であり翁長市長である。
辺野古移設は地元の辺野古民は容認した。
しかし、辺野古移設は反対派のボーリング調査妨害で断念した。その時稲嶺知事は県外移設を要求した。要求に応じた小泉元首相は県外移設をしようとした。しかし、本土に普天間飛行場を受け入れる県は一つもなかった。だから、再び辺野古に戻った。次に民主党の鳩山元首相が「できるなら国外、最低でも県外」を公言し再び県外移設をしようとしたが小泉元首相と同じように受け入れる県を見つけることができなくて県外移設を断念し辺野古移設に戻った。自民党、民主党の二つの政権が県外移設を実現することができなかったのである。冷静であるなら県外移設は無理と考えるのが普通である。
 しかし、沖縄タイムスも翁長知事も県外移設をやれと安倍政権に要求し、辺野古移設に反対している。できないことを要求することこそが露骨な嫌がらせだ。もし、沖縄タイムスと翁長知事が真剣に県外移設を望むなら自分で移設候補地を探すべきである。
「自分たちが責任を持って県外移設場所を見つけるから辺野古移設をやるな」
というなら、翁長知事や沖縄タイムスの主張も認められる。
 しかし、翁長知事は、米軍基地は沖縄側が望んだものではない。押し付けられたものである。だから、普天間飛行場の移設は日米政府がやるべきだと主張している。つまり、辺野古移設に反対はするが、普天間飛行場の移設場所は自分は探さないと翁長知事は言ったのだ。普天間飛行場の移設場所は辺野古が唯一であると主張している日米政府に県外移設場所を探せと要求しているのが翁長知事である。あまりにも身勝手な要求である。
 報道機関である沖縄タイムスは多くの情報を集めている。県外に普天間飛行場を移設できる場所があるかないかは知っているはずである。ところがタイムスは移設候補地が次々とあがり次々と消滅したことを何度も報道してきたが、実現できそうな移設候補地を上げたことは一度もない。つまり県外移設場所がないことを沖縄タイムスは知っているのだ。知っていながら県外移設を主張する翁長知事の後押しをするのは安倍政権への嫌がらせ以外のなにものでもない。

「『国の言うことを聞かなければ予算の蛇口を閉めるぞ』と言いたいのだろうかにはあきれてしまう。
理不尽な喧嘩を仕掛けたのは翁長知事である。仲井間知事が防衛局の辺野古埋め立て申請を承認した時点で、辺野古の埋め立て問題は最終決着をしたのだ。沖縄防衛局は埋め立て申請を公有水面埋め立て法に従って申請をした。それは政治ではなく、法律に則った行政上の手続きであり、申請が承認されるか否かは土木建築の専門家が判断するものである。そこには知事の政治的判断は介入できない。もし、専門家が承認するべしという判断を下したのに知事が承認しなかった場合は政府は訴訟を起こすことになる。当然政府が勝つ。 
ところが翁長知事は埋め立てを阻止することはできないのに自分が当選すれば埋め立てを阻止することができると公言した。これは県民をだましたことになる。翁長氏の選挙公約は嘘の公約だった。

辺野古移設を阻止するには衆院選で過半数を勝ち取らなければならなかった。過半数の議席を占めて、国会で辺野古移設を断念する決議を取るのが辺野古移設を阻止する唯一の方法であった。
しかし、辺野古移設に反対する共産党、社民党、生活の党を合わせるとたった25議席であった。25議席では辺野古移設を阻止することはできない。
ところが翁長知事は県が承認した埋め立て申請をもう一度厳しく審査し直すといった。そして瑕疵があれば埋め立て申請の撤回、取り消しをやるといった。申請を承認したのに一年以上も過ぎてから審査し直すというのは前代未聞であり、これは明確な違法行為である。
平気で理不尽なことをやる翁長知事には正当な政治のやり方は通用しない。
翁長知事が埋め立て申請を厳しく審査するというなら、安倍政権が交付金の使い方を厳しくチェックするのは当然である。目には目、歯には歯である。

復帰後、沖縄の振興開発は、沖縄振興開発特別措置法に基づく「沖縄振興開発計画」によって進められてきた。
沖縄戦による甚大な被害と27年の米軍統治という苦難の歴史をたどった県民への「特段の措置」が出発点である。本土から遠く離れ、多数の離島で構成される事情にも配慮し、各分野で生じた格差の是正、自立的発展に向けた基礎条件の整備が目標だった。
           「沖縄タイムス社説」

「沖縄戦による甚大な被害」「27年の米軍統治という苦難の歴史」は沖縄の犠牲を語るための定番のセリフである。まるで沖縄だけが甚大な被害を受けたようにタイムスは述べているが、東京は106回の空襲を受けた。1945年3月10日の空襲では死者数が10万人以上、罹災者は100万人であった。東京は沖縄の戦争被害者と同じ人数の死を一夜に体験したのである。罹災者は沖縄の数倍も多かった。広島と長崎には原爆が投下された。 
本土も沖縄戦以上の甚大な被害を受けたのである。しかし、本土は廃墟の中から自力で経済復興を成し遂げ、経済発展をしたのである。

本土は自力で経済復興をしたが沖縄は違った。米軍統治時代は苦難が当然であったようにタイムスは述べているが、世界第一位の経済大国米国のお蔭で、本土のように経済復興の努力を全然しないのに沖縄の経済は米軍基地のお蔭で豊かになった。
戦前の人口は60万人以下であったが戦後の人口は増え続け復帰時には90万人を超えていた。経済が発展したから人口は増えたのである。米軍は搾取ではなく、反対に沖縄に莫大なお金を投入したのである。
沖縄のほうが生活は豊かになったので本土復帰した奄美大島から沖縄にやってくる人がどんどん増えた。
沖縄人を米軍が弾圧したことはなかったし、米兵が集団で沖縄人を襲い虐殺したこともなかった。むしろ、コザ騒動では沖縄人が米人の車を75台も焼いた。コザ騒動のように沖縄人が集団で米人を襲ったことはあったがその逆の米人の集団が沖縄人を襲ったことはなかった。
沖縄の日常生活では米軍が弾圧したり沖縄の人々を苦しめるようなことはなかった。
沖縄で米軍統治時代から問題になったのは米兵による婦女暴行や交通事故が起こった時、米軍事裁判が米兵を裁いたことである。
米民政府統治時代は加害者が米兵であったら米が裁判をする。沖縄人であったら沖縄側が裁いていた。もし、沖縄人が米女性を暴行した時、沖縄の裁判で裁いていた。交通事故でも同じである。
 
米軍が駐留していたから沖縄経済は発展し豊かになったのであり、苦難の歴史というのはタイムスのでっち上げである。本土の地方よりも沖縄のほうが物資は豊富で生活も豊かであった。だから、奄美大島の人たちは沖縄に移ってきたのである。
復帰前の米民政府統治時代はアメリカ流の自由貿易を行っていた。沖縄への資本投資も自由であった。そして、なによりも沖縄経済の発展に力を入れたのが米民政府であった。多くの産業を誕生させ発展させたのは米民政府のお蔭である。
琉球銀行を設立したのも琉球大学を創立したのも米民政府の尽力であった。

日本政府が沖縄に「特段の措置」で莫大な援助ができたのは日本が世界第二位の経済大国だったからである。もし、日本が戦後の廃墟から復興していなかったら沖縄への援助はできなかっただろうし、できたとしても少なかっただろう。戦後の日本の目覚ましい経済復興があったから復帰後の沖縄に莫大な交付金をあげることができたのである。日本が経済大国になったのは日本国民の努力があったからである。日本の経済発展に沖縄はなんの寄与もしていない。それなのに「沖縄戦による甚大な被害」と「27年の米軍統治という苦難の歴史」を口実に日本政府が莫大な交付金を沖縄に上げるのが当たり前と考えている沖縄タイムスは図々しい。
県民は交付金に感謝をするべきである。当たり前と考えるのは間違っている。

経済が世界第一位の米国と世界二位の日本のお蔭で資源もなければ産業もない貧しい沖縄が豊かになれたのである。そして、民主主義社会にもなれたのだ。米国と日本には感謝しかない。

初代沖縄開発庁長官となった山中貞則氏は、たびたび県民への「償いの心」を口にし、1次振計には「国の責務」が明記された。
沖縄振興開発計画は、現在の沖縄21世紀ビジョン基本計画へとつながっていく。改正沖縄振興特別措置法にのっとった計画である。
振興予算を辺野古移設推進の道具として国が恣意(しい)的に使い、基地賛成の知事には増額し、反対の知事には減額するのであれば、地方自治はずたずたに破壊される。沖振法だけでなく、地方自治法の趣旨にも反する行為だ。
            「沖縄タイムス社説」


法に則って、手順通りやってきた辺野古埋め立てを、左翼と手を組んだ翁長知事は反国家的な政治的意図によって阻止しようとする。前任の仲井間知事が承認したのを一年以上も過ぎてから審査をし直し、瑕疵があれば撤回、取り消しをするというのだ。
審査して瑕疵があることを発表した場合、承認から一年半か二年後になるだろう。もし、翁長知事のこんなやり方が許されるのなら国の計画は地方自治の首長によって簡単にずたずたにされる。それでは国の計画は実現しない。国がずたずたにされる。国をずたずたにしようとしている翁長知事が地方自治の趣旨を主張する権利はない。国と地方はお互いの立場を理解し、協力しなければ国は成り立たない。

辺野古埋め立ては公有水面埋め立て法に則って進めている。翁長知事は公有水面埋め立て法を無視して埋め立てを阻止しようとしている。翁長知事が違法なやり方で国に敵対するのなら制裁はやむ得ない。
国に協力する代わりに予算増額を要求された時、協力することに感謝し、国がある程度応じるのはやむを得ないことである。

辺野古移設は国の防衛に関する重要な国家事業である。国家の重要な事業を理解しない翁長知事なら交付金の減額も当然である。翁長知事は違法な方法で埋め立てを阻止しようとするのなら減額を覚悟するべきである。

沖縄は基地を負担する代わりに国からたくさんお金をもらっている、と考えている人が本土には多い。
沖振法は離島振興法や山村振興法と同じ地域振興法の一つである。県民1人当たりの財政移転は全国7番目で、飛び抜けて高いわけではなく、基地関連の収入が県経済に占める割合も約5%と低い。
          「沖縄タイムス社説」

「沖縄は基地を負担する代わりに国からたくさんお金をもらっている」は事実であり当然のことである。。国の要求に応じて国の負担に応じる場合は国は補助金を出す。たとえば福島県の汚染土を請け負った場合も国は補助金を出している。国は権力を振り回して負担だけを押し付けるようなことはしない。それが民主主義国家の基本だ。

沖縄タイムスの説明には二つの嘘がある。基地関連収入が5%であると述べていることである。5%を根拠にしているのは収入を基地関連収入を2000億円としているからである。私が三年前に調べた基地関連収入は3300億円であった。県の資料を参考にしたが、どうも本当はもっと高いような気がした。
「米軍基地を全面返還したら9155億5000万円の経済効果がある」と発表した時の県議会は米軍基地関連収入は4206億6100万円であると発表している。ところが去年GDPの5%しかないと沖縄二紙が発表した時の基地関連収入は2000億円になっていた。たった三年間で半額になるのはあり得ないことである。2000億円は基地関連収入の一部でしかないだろう。
県議会が発表したのが4206億6100万円である。2000億円は少なすぎる。

基地があるゆえの優遇措置も基地関連収入と考えることができる。

国の補助率  
道路保全     沖縄 95%  他府県 70%
学校建設整備   沖縄 85%  他府県 50%
漁港整備     沖縄 90%  他府県 66%
公営住宅建設   沖縄 75%  他府県 50%
水道施設整備   沖縄 75%  他府県 33%
空港整備     沖縄 95%  他府県 66%
 
これも沖縄に米軍基地があるための優遇措置である。税制も優遇措置が取られている。
沖縄振興特別措置法により、IT関連企業、金融関連企業は法人税の控除、特別土地保有税の非課税である。
観光地形成促進地域制度で投資税額控除や地方税の課税免除等があり他府県にはない優遇措置が存在している。
航空機燃料、ガソリン代や清涼飲料水も本土より7~9円ほど安い。
泡盛やビールなど県内酒造業は20~35%酒税軽減特例措置もとられている。
これも米軍基地を維持したい日本政府のお情けである。高速自動車道料金も本土より4割ほど安く設定されている。サトウキビは政府補助金が1万5000円あり、売値は2万1000円であるが、売値の70%は補助金なのだ。すべてが米軍基地があるからとは言えないが、ほとんどは米軍基地があるがゆえの優遇措置である。
沖縄タイムスは報道機関だからその情報はすべて知っているだろう。しかし、基地問題の時にはその事実を隠している。米軍基地関連収入が2000億円というのは嘘である。実際はもっとある。
5%を低いと言っているが、それも嘘である。沖縄タイムスのいう5%はGDPに占める割合である。GDP比較なら観光収入は10%である。観光収入も低いことになる。沖縄の経済は観光収入が一位で基地関連収入が二位である。農産物は軍用地料よりも低い。
基地関連効果を優遇措置なども含めると沖縄の経済効果は観光と基地関連は同じくらいだろう。
「沖縄は基地を負担する代わりに国からたくさんお金をもらっている」のは事実である。事実を隠ぺいしているのが沖縄タイムスである。

「沖縄を甘やかすな」との暴論が本土側から伝わるようになったのは、普天間問題が浮上して以降だ。
 国土面積の0・6%の沖縄に米軍基地の74%が集中している事実を知ってのことだろうか。安保の負担で、沖縄に「おんぶに抱っこ」と甘え続けているのはどっちなのか。
            「沖縄タイムス社説」
 日本全体に駐留している米兵は4万人以下である。自衛隊員は22万人いる。米軍基地の74%が沖縄に集中しているといっても米兵は二万人足らずである。それに比べて本土は自衛隊+米兵が24万人いる。2万人対24万人である。

自衛隊の隊員数や自衛隊基地の存在を隠して、あたかも日本には米軍しかいないように見せかけた上で沖縄に米軍基地が74%が集中しているといい、あたかも軍事基地が沖縄に集中しているように思わせるためのテクニックが「国土面積の0・6%の沖縄に米軍基地の74%が集中している」である。74%も嘘である。復帰後、日本政府は沖縄の負担を軽減するために実弾訓練や戦闘機の離着陸訓練を本土の自衛隊基地に移した。74%にはそれが含まれていない。それを含むと沖縄の米軍基地は23%である。沖縄の米軍基地負担が大きいことをイメージさせるために故意に自衛隊と共用の基地を含めないで74%といっているのである。

辺野古への新基地建設の見返りにカネをばらまくというのが自民党の「補償型政治」だが、今年の名護市長選に始まり、知事選、衆院選と県民はその手法に「ノー」を突きつけてきた。
沖縄タイムス社説」
 確かにカネをばらまくという自民党政治は批判されるべきであるが、沖縄タイムスと革新は多くの嘘をばらまいた。そして、選挙違反のオンパレードであった。
カネと嘘が沖縄の政治状況かもしれない。

 菅義偉官房長官は来年度の沖縄振興予算について「これまでの使い方をチェックし、ほかの予算と同様に査定していく」と述べている。
 一見、公平な物言いに聞こえるが、翁長知事に対する嫌がらせであることは明らかだ。そもそも沖縄振興予算は沖縄担当相の所管であり、官房長官の発言は政治的恫喝(どうかつ)以外の何物でもない。
 政権の冷ややかな態度に同調する自民党の国会議員や県連の対応も気になる。「敵に協力しない」と知事を批判するのではなく、21世紀ビジョン実現に向けた予算確保のために県をバックアップするのが政権党の役割である。
       「沖縄タイムス社説」

 米軍基地は経済発展の阻害要素であると沖縄タイムスも翁長知事も言っている。翁長知事は日本民主主義国家を倒すのを最終目標にしている共産党と握手した。
 共産党と握手した翁長知事はあらゆる手段を使って辺野古建設を阻止すると断言した。あらゆる手段とは民主主義のルールを破ることも辞さないということだ。その証拠に、承認した埋め立て申請を再び審査して瑕疵があれば辺野古埋め立てを撤回・取り消しするといっている。この行為は法治主義に反するものであり、反民主主義行為である。

 沖縄防衛局の辺野古埋め立て申請は、地元の辺野古区、名護市長、県知事の容認を得た上での申請であった。翁長知事はこの長年に渡って行われた法的手続きをぶち壊す反法治主義行為者である。


2015年10月13日
翁長知事の承認取り消しを政府は一蹴せよ それが沖縄政治のためだ


 米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古基地建設計画をめぐり、翁長雄志知事は13日午前10時、県庁で記者会見し、仲井間前知事による埋め立て承認を取り消したと発表した。

待ちに待っていた承認取り消しである。取り消しは翁長知事の終わりの始まりだからだ。今までは仲井真前知事に10万票も差をつけて当選したことや辺野古基地建設に70%以上の県民が反対していることを強調し、「沖縄は国土面積の0・6%しかないが、在日米軍専用施設の73・8%が存在する。戦後70年間、いまだに米軍基地から派生する事件・事故や環境問題が県民生活に大きな影響を与えている」と強調した。その上で「沖縄の人々は自己決定権や人権をないがしろにされている」と本土や世界のマスコミに訴えて、翁長知事の主張は全国に広がった。県内外の翁長知事支持も増えた。辺野古移設反対の支持の広がりで政府に圧力をかけて辺野古移設を断念させるのが翁長知事の最初の目的であったが政府に辺野古移設を断念させることはできなかった。残された最後の手段が承認取り消しである。

私ががっかりしたのは、 中谷元・防衛相が13日午前の閣議後の会見で、翁長雄志知事による名護市辺野古沿岸部の埋め立て承認の取り消しを受け「移設作業は中断する」と発言したことである。政府は翁長知事の取り消しは違法であると発言している。違法であるならば取り消しを受け付けないで作業を続行するのが筋である。ところが中谷防衛相は移設作業を中断するというのである。作業を中断するということは翁長知事の取り消しの通知を受け入れることになる。つまり通知は法的な権利を持ち、作業を中断させることになる。もし、取り消しの通知に法的権限があるならば、取り消しの通知があるたびに移設作業を中断しなければならないことになる。

申請の瑕疵はでっちあげようと思えばいくらでもでっちあげることができる。取り消しが違法であっても、取り消し通知の度に移設作業を中断するならば翁長知事は何十回何百回と取り消し通知を防衛局に送って作業を中断させることができる。翁長知事が知事である間は埋め立て作業をストップさせることができるのである。いくらなんでもそんなことはしないだろうと皆さんは思うかも知れない。私もそんなことはしないと思う。しかし、理論的にはどんどん取り消しを通知して作業を中断させることができるのだ。それは法的にはあってはならないことである。違法行為を絶対に受け付けないのが議会制民主主義のあるべき姿だ。

政府は翁長知事の取り消しは違法行為であると断言した。理由は埋め立て申請をすでに承認したというのに、瑕疵があるなどと難癖をつけて取り消ししたことである。申請書に瑕疵があるかどうかの問題ではなく、一度承認したものを取り消す行為が問題なのだ。それは違法行為であるのだ。一度承認したことを取り消すことができるとすれば国の埋め立て工事はめちゃくちゃになる。

法律的には仲井真前知事と翁長知事は県知事として同一人物である。法律的には承認をした同じ県知事が取り消しをしたということと同じである。それでは最初の承認になんの重みもない。県土木建築部は防衛局が提出した申請書を審査し、沖縄防衛局に4度にわたり計260問の質問をしている。県土木建築部は申請書に瑕疵がないか徹底して調べ上げたのだ。承認すればまったなしの工事が始まり、飛行場が建設される。だからこそ県土木建築ぶの職員は詳しく徹底して調べたのである。承認すれば埋め立て工事が進められるのだから、一度承認した埋め立て申請書を再び審査することは前提にないことは明らかである。実際、公有水面埋立法ができて90年になるが取り消しをしたことは一度もない。
 
取り消しは違法行為であるから受け付けることはできないと突っぱねれば辺野古移設反対運動をしている人々や翁長知事、沖縄2紙は反発し騒ぎは大きくなるだろう。騒ぎを押さえるには、移設作業を中断して、反対派を喜ばせ、工事を再開するために公有水面埋立法を所管する国交相へ承認の取り消しは違法であるとの審査請求と執行停止を行ったほうがいいだろう。

一週間くらいで執行停止が発せられるから工事は一週間後には再開できる。そして、国交相承認の取り消しは違法であると判断するはずだから、判断が出るまでの数カ月は翁長知事は辺野古工事阻止の新たな手を打てないだろう。そのほうが取り消しは違法行為だから受け付けないと突っぱねるより辺野古埋め立て工事を穏やかに進めることができる。
政治的にはそのほうがいいかも知れない。しかし、法治主義を破ることになる。
 
 問題は辺野古埋め立てができるかどうかでではない。辺野古埋め立ては確実にできる。心配することはない。深刻な問題は沖縄の政治だ。あまりにも嘘の情報が蔓延し、嘘の政治がまかり通り、県民が騙されていることである。
沖縄タイムスは号外で「辺野古埋め立て根拠失う 翁長知事が承認取り消し」と報じている。翁長知事が取り消しをすれば国は埋め立ての根拠を失うと決めつけているのだ。
嘘の情報、嘘の政治を粉砕するためにも翁長知事の取り消しを違法行為だと政府が断言して一蹴することである。

2015年10月22日
不服審査請求は安倍政権の大失態


沖縄防衛局は沖縄県が沖縄防衛局の見解を聞く「聴聞」には出席しないで、「承認に瑕疵(かし)はなく、取り消しは違法」と陳述書を提出した。
 しかし、取り消しは違法だと言いながら、翁長知事が取り消しを通知すると、防衛局は工事を中断して、国土交通省に不服審査請求をやった。取り消しが違法であるならば工事を中断する必要はないし国土交通省に不服審査請求をする必要もない。取り消しは違法であることを県に通知するだけで済むことである。しかし、政府は不服審査請求をやった。多分、取り消しは違法であると撥ね付ければ辺野古移設反対派の反発が強くなり、反対運動が盛り上がるだろうと考え、それを避け、穏便に進めるために政府は不服審査請求を選択したのだろう。しかし、政府のこのようなやり方は翁長知事を調子に乗らせるだけである。
承認取り消しは「適法」「正当」であると翁長知事は反論したのである。その根拠にしているのは、県は埋め立て承認をする権利があるということである。県は埋め立て承認をする権利があるのだから同時に申請書に瑕疵があれば埋め立ての取り消しをする権利もあるというのが翁長知事が取り消しは「適法」「正当」であるという根拠である。

しかし、埋め立て承認は翁長知事が主張しているような県の権利ではない。埋め立て承認は法的な事務的手続きでしかない。2010年に政府、県知事、名護市長、辺野古区長の4者の合意に基づいて辺野古移設は決まった(名護市の場合、2010年は辺野古移設反対の稲嶺市長であったが島袋前市長の政府との合意が有効)。辺野古移設が決まったので沖縄防衛局は埋め立ての設計図である埋め立て申請書を県に提出したのである。県は公有水面埋立法に則って申請書を審査した。これは行政手続きであって政治的権利の問題ではない。設計図である申請書に瑕疵がなかったから仲井真前知事は承認したのである。承認すればすぐに工事を始めるのを前提にしているからこの手続きは一回きりである。当然県には承認した後に二回も三回も審査する権利はない。そもそも審査は法的な事務行為であり、承認は審査の結果である。知事の権利は承認にはないし取り消しの権利も知事にはない。
ところが政府は取り消しは違法であると言いながら翁長知事の取り消し通知を受け入れて、辺野古の工事を中断して、国土交通省に不服審査請求をやった。それは翁長知事が取り消しを通知する権利があることを認めたことになる。違法を合法にした政府も違法行為をしたのである。そのために翁長知事の主張を助長するような状況をつくったのである

 弁明書と意見書を審査庁の国土交通相に発送した翁長知事は県庁での臨時記者会見を開き、行政不服審査法で防衛局長が一般国民の立場を主張することや同じ内閣の一員である国交相に審査請求することは不当であり、「法の趣旨を逸脱している」と反論した。翁長知事の反論は沖縄二紙やテレビで放映される。県民の多くは翁長知事の反論に同意し翁長知事を支持するだろう。
翁長知事は米海兵隊が日本本土から移転してきた経緯など県内の米軍基地の形成過程をひもとき、埋め立ての必要性がないことを理由に取り消しの正当性を主張した。

埋め立ては2010年に決まったのである。埋め立ては移設が決まったから申請し、審査の結果承認されたのである。米海兵隊が日本本土から移転してきたことや辺野古移設や埋め立ての必要性がないことが取り消しの理由にはならない。
取り消しできるかどうかは埋め立て申請を承認した県が取り消しができるかどうかの問題であり、法的な問題である。もし、取り消しができるのならそれは法に定めてあるはずだ。翁長知事が取り消しをするならば公有水面埋立法の第○○条を根拠にしなければならない。取り消しに関する法律がないのに取り消しをしたら違法行為である。しかし、翁長知事の取り消しは違法であるという主張は政府が不服審査請求をしたことによってうやむやになってしまった。
そして、「防衛局長が同じ内閣の一員の国交相に審査請求を行ったのは不当だ。不服審査請求は一般国民の権利を守るための制度で、防衛局が私人として請求するのはおかしい。国交相は公平に判断し、審査請求そのものを却下してほしい」とまで翁長知事に言わしめたのである。県民は、政府は権力によって法律さえ捻じ曲げて弱者の翁長知事の正当な要求を押しつぶしていると思ってしまうだろう。

安倍政権は自民党県連や辺野古移設賛成派を後押しするのではなく翁長知事人気を後押ししているのである。安倍政権の穏便主義は翁長知事を助長するものであり、自民党県連への支持を減らすものである。

県は防衛局請求「法を逸脱」と主張し、
(1)防衛局が審査請求する資格がないこと
(2)取り消し理由の要旨
(3)環境保全策の主張
(4)基地形成過程に関する主張
(5)国土利用上の合理性に関する説明
の5項目に分かれている。

資格をめぐっては公有水面埋立法で事業主体が私人の「免許」と国の「承認」を明確に区別していることから、防衛局が県から得た承認は「固有の資格」に基づくと指摘。防衛局に審査請求などの適格は認められず不適法であり、却下しなければならないと明記した。
また、防衛局の示した埋め立て必要理由に実証的根拠がないことや、自然環境への影響などを詳細に取り上げ、取り消しの正当性を強調。承認には瑕疵(かし)があるため、取り消しは適法で審査請求や申し立ての理由はなく、却下されなければならないと結論づけている。

違法行為をしている翁長知事に防衛局のほうが違法行為をしていると言われているのである。政府が県の主張に反論をしても権力による弱者いじめの印象を県民は抱くだろう。
辺野古埋め立ては政府の思惑通り進むだろうが、県民の承認取り消しは支持79%であり、国対抗策には72%が反発している。翁長知事の支持率は高いままである。今沖縄にとって深刻なのは辺野古移設の有無ではない。革新と手を組み嘘を県民に信じさせている翁長知事が高い支持率のままであることである。政府には捻じ曲がった沖縄の政治を矯正する気がない。これでは翁長知事・革新のでたらめな政治を県民が支持し続けることになる。沖縄の政治を正常化するのには安倍政権も頼りにならない。

2015年11月17日
政府、代執行求め提訴


石井啓一国土交通相は17日、沖縄県の翁長雄志(おながたけし)知事による辺野古沿岸部の埋め立て承認取り消し処分を撤回する代執行に向けた行政訴訟を福岡高裁那覇支部に起こした。
毎日新聞は訴状の骨子を4点あげている。

1、翁長知事の取り消し処分は、取り消し権を制限する判例法理に反している。
2、埋め立て承認を取り消せば、普天間飛行場の危険性除去を阻害する。
3、米国、国際社会の信頼を失う。
4、移設しても自然環境への影響は小さい。

国土交通相が行政訴訟を起こした理由は1の承認取り消しが違法だからである。つまり、「取り消し権を制限する判例法理に反している」からである。公有水面埋め立て法には承認したのを取り消す権利が知事にはないのだ。私が主張してきたのはこのことである。

11月6日のブログで私はこのことを説明している。

翁長雄志知事は6日、名護市辺野古沿岸部の埋め立て承認取り消し処分の撤回を求める国土交通相の是正勧告を拒否する回答文書を発送した。県庁で会見した翁長知事は「承認取り消しは適法と考えており、勧告に従うことはできない」との考えを改めて主張した。国土交通相が是正勧告を出した理由は翁長知事が違法行為をしたからである。知事は公的な存在であるから違法行為はやってはいけない。だから、是正しなさいと勧告したのである。

翁長知事の違法行為というのは、防衛局が提出した埋め立て申請を公有水面埋立法に則って審査した結果、県が瑕疵はないと判断して申請を承認したのに、後になって県が瑕疵があるといって承認を取り消したことである。瑕疵があるかないかのことではなく、承認をしたのに取り消したことが違法なのである。
公有水面埋立法には承認したのを後で取り消すという法律はない。だから、公有水面埋立法が施行されて90年になるのに承認取り消しは一度もない。

翁長知事は「承認取り消しは適法と考えており」と記者会見で言ったが、取り消しが適法である理由は公有水面埋立法の第××条に書いてあるとは言っていない。法律には取り消しが適法であるとは書いていないのだ。翁長知事には弁護士がついているのだから、承認取り消しが適法であるなら、適法であることを証明する条文を教えるはずである。条文がないから、「考えており」としか言えない。「考えており」という発言からも承認取り消しが違法であると推察できる。

翁長知事は「(辺野古への)警視庁の機動隊の大量導入など政府はなりふり構わずに移設を強行しようとしている」と述べて政府を批判するがそれが翁長知事を法的に有利にすることはない。
沖縄防衛局が自らの立場を「私人」として承認取り消しの執行停止を申し立てることを非難してもなんの効果もない。

実は、国交省は翁長知事が違法である承認取り消しをするのを待っていた。翁長知事が承認取り消しをすると国交省はすぐに是正の勧告を出した。予定通り翁長知事は勧告に従わないので、国交相は週明けの9日にも是正を指示する文書を送付する。当然翁長知事は是正指示にも従わない。国交相は月内にも代執行を求めて高裁に提訴する。これが国交相の予定であり、予定通りにことは進む。
         
翁長知事は「取り消し」の法律がないのに取り消したのである。違法行為をしたのである。違法行為をした翁長知事が裁判で勝てるはずがない。

毎日新聞は「日米関係にも不利益をもたらすなどとし、翁長知事の承認取り消し処分を撤回する代執行を求めている」と取り消しを撤回する目的で国は行政訴訟を起こしたと述べている。他のマスコミも同じ報道である。私はマスコミの説明に疑問を持っている。
取り消しを撤回するだけなら国交省は裁判をする必要はない。国交省が承認取り消しは違法だと言って、無効にすればいい。無効だと国交省が県に通告した時、県は取り消しは有効であると訴訟を起こすだろう。裁判では国交省が勝つし、取り消しの撤回だけが目的であるなら国交省の方から訴訟を起こす必要はなかった。
代執行と言うのは取り消しを撤回する手続きであるが、もし、撤回支持の判決が下っても翁長知事が撤回しない場合もあり得る。その時には国が県に代わって執行できるというのが代執行である。

2015年11月21日
議会制民主主義・法治主義に唾した翁長知事


政府は17日、米軍普天間飛行場辺野古移設で翁長雄志知事による埋め立て承認取り消しを撤回する代執行に向けた訴訟提起に踏み切ったが、政府が代執行訴訟の理由の一番目にあげたのは、「瑕疵の有無にかかわらず、翁長氏の取り消しが違法であることである。これは申請に瑕疵があるかないかは関係がない。
 そのことを産経新聞 11月18日推7時55分配信で報じた。

 ■埋め立て承認に欠陥なし/翁長氏の取り消しは違法

政府は17日、米軍普天間飛行場辺野古移設で翁長雄志知事による埋め立て承認取り消しを撤回する代執行に向けた訴訟提起に踏み切った。訴状では承認に法的瑕疵(欠陥)がないと強調する一方、瑕疵の有無にかかわらず、翁長氏の取り消しが違法であると訴える二段構えで訴訟に臨む方針を明示。辺野古移設を着実に推進するため、早期決着を目指す姿勢を鮮明にした。
「計りしれない不利益」「成果を全て白紙に戻す」 政府は訴状の中で翁長氏が埋め立て承認を取り消したことを強く非難。「(承認取り消しは)要件を満たしていない違法なもの」と訴え、訴訟の速やかな終結と取り消しの撤回を命じる判決を求めた。
早期判決を期待する上で争点に掲げたのは辺野古移設に関する行政処分の特質だ。「瑕疵を理由として(承認などの処分を)覆すことが法的安定性を害し、公共の福祉に反する」との学説を引き「最高裁は取り消し権に制限があることを繰り返し認めている」とした。     
「産経新聞」
公有水面埋め立て申請を県が承認するとすぐに埋め立て工事に入るのを前提にしているから、申請に瑕疵がないと判断して承認すれば、瑕疵があるという理由で取り消すことはできない。法的に矛盾するし、取り消しを法的に認めれば行政の破綻につながる。瑕疵があるのに瑕疵がないと判断したら県側の方に最大の責任はある。国側にはない。責任を取るべきは県である。

県は瑕疵の修正を求めることはできても取り消しはできない。政府は「万が一、承認に瑕疵があったとしても取り消しができるのは『極めて例外的』とも主張した」と報道しているが、だからといって県が取り消すことができるということとは意味が違う。それは県が取り消すこととは関係がない。その時は県が訴訟を起こすことによって司法が判断するものであるからだ。決定的な瑕疵を見つけたとしても県は取り消すことはできない。
承認取り消しが法的に認められる極めて例外的なケースかどうかは「公益の比較」が争点になるが、その判断は県はできないから裁判で判断してもらうしかない。だから、取り消しは県は訴訟を起こして裁判管の判断に任せるのである。県が直接防衛局に承認を取り消すことはできない。それは違法行為である。

翁長雄志知事による埋め立て承認の取り消しは違法だとして、政府が代執行訴訟を提起したことについて、翁長知事は「県民にとって『銃剣とブルドーザー』による強制接収を思い起こさせるものだ。今後、訴訟の場においてわれわれの考えが正当であることを主張・立証していく」と述べているが、代執行訴訟は60年以上も前の『銃剣とブルドーザー』とは関係がない。現在の日本の法律に関係していて、翁長知事が違法行為をしたかしなかったかである。60年以上も前の『銃剣とブルドーザー』が強制接収だったとしても翁長知事の違法行為が合法行為になることはない。承認の取り消しは違法行為であり不正行為である。

日本は議会制民主主義国家であり法治国家である。知事選で勝利して知事になったとしてもやりたい放題できるものではない。法治国家である日本では知事は法律を守らなければならない。選挙公約を実現させるためであっても違法行為は許されない。選挙公約は合法で実現しなければならない。

 日本は議会制民主主義・法治主義国家である。沖縄県は日本の地方自治体であり、翁長知事は沖縄県の首長である。日本の法律があるからこそ翁長知事は沖縄県の知事として存在するのである。日本の法律を適用しなければ翁長知事は知事として存在することができない。日本の法律の適用なしには存在することができない翁長知事が日本の法律を破ったのである。あり得ないことである。

県が埋め立て承認したのを取り消した翁長知事は議会制民主主義・法治主義国家日本に唾を吐いたのである。

2015年12月02日
法も政治も無視 人気取りだけの翁長知事


2010年の民主党政権時代に菅首相が辺野古区、名護市長、県知事の同意のもとに辺野古崎沿岸を埋め立ててV字型飛行場を建設することを決めたのである。ここまでが政治問題であり、V字型飛行場建設で政治決着をしたのである。政治的に結着したから防衛局は辺野古崎沿岸の埋め立て申請を県に提出したのだ。
もし、防衛局が埋め立て申請をした時に仲井真知事ではなく翁長知事であり、翁長知事が申請を承認しなかった時はどうなっていただろうか。埋め立て申請を承認するか否かは公有水面埋立法という法律を基準にして審査をする。審査の結果瑕疵があれば県は防衛局に訂正を要求する。瑕疵がある間は県は承認をしない。しかし、瑕疵がないと判断すれば県は承認をしなければならない。瑕疵がないのに承認をしなかった時は防衛局は埋め立てを管理している国土交通省に訴えて、国土交通省は訴訟を起こすことになる。

翁長知事は、承認をする権利があるから取り消しをする権利もあると主張しているが法律を知らない翁長知事の勘違いである。
埋め立て承認をするかしないかは県知事の権利ではない。埋め立て承認は公有水面埋立法による法的な手続きであって政治的な権利はない。だから、国は瑕疵がないのに県知事が承認を拒否すれば訴訟を起こして裁判で決着をつける。

防衛局が埋め立て申請を出す前に翁長知事が辺野古移設に反対した時はどうなるか。
辺野古移設は国、県知事、名護市長、辺野古区の四者が賛成した。四者が賛成したことを、次の県知事と名護市長だけの反対で取り消すことはできない。行政は継続性が重要であり、次の首長になる者は前任が決めたことを引き継がなければならない。辺野古移設が決まる前なら移設反対をして阻止することができるが、移設が決まった後からはできない。それが行政である。
琉球新報の記事には、
「国側は、国防や外交は埋め立て承認に関する知事判断の裁量外などとして、前知事の承認に瑕疵はないと主張する。承認取り消しで『多大な不利益』が生じるとして、仮に承認に瑕疵があっても取り消しはできないと主張する」
と書いてあるが、国の主張は少しずれているような気がする。
辺野古埋め立ては那覇第二滑走路埋め立てと同じで公有水面埋め立て法に関係しているのであって国防や外交は関係がない。「承認取り消しで『多大な不利益』が生じる」ことも関係ない。埋め立て承認は法的な事務手続きであり、一度承認した県が承認を取り消すことは法的にできないということである。だから「仮に承認に瑕疵があっても取り消しはできない」のだ。
瑕疵があった場合は埋め立て申請を審査した職員を処分し、国には瑕疵があることを報告し、申請書の訂正を要求することしかできない。翁長知事は取り消すことはできない。

翁長知事の主張は政治的であり、法の無知をさらけ出しているだけである。公有水面埋立法に関係のない翁長知事の政治的主張はすべて却下されるだろう。参考人もすべて却下されるだろう。

 翁長知事の埋め立て承認取り消しに対して政府は代執行の裁判を起こす。代執行が容認されれば辺野古の埋め立てに対して翁長知事無力になる。一審、二審とも政府が勝つ。最高裁で政府が勝てば埋め立ての権限は政府に移り、県は何もできなくなる。翁長知事は政府の代執行を防ぐために政府に和解案を提示し、裁判の中止を要請した。政府は翁長知事の要請に応じた。

2016年03月09日
暫定案和解は安倍政権の大失態


翁長知事の承認取り消しは違法であることを根拠に代執行訴訟を起こした。政治的な駆け引きよりストレートな代執行訴訟を主導したのは恐らく防衛局のブレーンだと思う。今回の暫定和解案は官邸側のブレーンが決めたのだろう。それも突然であり、中谷元防衛相は暫定和解案については知らされていなかったと思う。それはボーリング調査中止についての記者の質問に戸惑った発言をしていたことから推理できる。辺野古の工事をいつまで中止するかについても中谷元防衛相は明言していない。
民主党の辻元清美氏がボーリング調査も中止するのかと追及したのに対し、中谷防衛相は「ボーリングを含めて現場の作業は止めている」と述べたが、ただ、いつまで中断を続けるかなど最終的にボーリング調査をどう扱うかについては「和解の当事者間の認識に異なることがないよう、和解内容をよく確認して対応していく」と述べるにとどめ、県と協議しながら判断する意向を示した。この答弁は暫定案和解の内容を完全には把握していなかったからである。

防衛局ブレーンの強硬路線から官邸ブレーンの柔軟路線に戦術が変更したのが代執行訴訟を取り下げた暫定和解案である。
官邸側のブレーンとして前沖縄県知事公室長の又吉進氏がいる。彼は前の沖縄県知事・仲井真弘多氏の下で、辺野古の埋め立て承認をめぐる対応に従事した経験もある人物であるが、公室長時代の彼の行動を見ると沖縄についての優れた分析力のある人間とは思えない。どっちつかずの優柔不断の人間だったと私は感じた。
翁長知事と正面からぶつからず、柔軟なやり方で辺野古移設を実現するには暫定案で和解したほういいと又吉進氏なら考えると思う。長年県庁に居た彼は翁長知事の背後の県庁を牛耳っている強烈な左翼公務員の存在を知っているし、共産党を中心とした左翼活動家の恐ろしさを知っている。だから、強行路線は彼らの妨害でうまくいかないと考えたのだろう。彼が体験した沖縄の政治がそうであるからだ。
又吉進氏の進言が影響して官邸側は柔軟路線の暫定案和解の路線を選択したと私は推理している。しかし、官邸側は翁長知事の分析を誤った。
翁長知事は革新の支持によって知事に当選した。もし、革新に支持されない状況になれば彼の政治生命は絶たれる。今更革新と決別して自民党県連に戻ることはできないだろう。県議会は革新が多数を握っている。革新と対立すれば翁長知事は革新からも自民党県連からも支持されないで孤立してしまう。翁長知事にとって革新の支持が命綱であるのだ。

革新が翁長知事を支持するか否かの分岐点ははっきりしている。翁長知事が辺野古移設に賛成するか反対するかである。翁長知事が「あらゆる手段を使って辺野古移設を阻止する」態度を取っている間は革新は翁長知事を支持する。しかし、翁長知事が辺野古移設を容認するような態度をちょっとでも見せれば、革新は翁長知事を非難し、翁長知事を支持しなくなる。革新の支持を維持するためには翁長知事は徹底して辺野古移設に反対しなければならない。

翁長知事は県議会2月定例会本会議で和解が及ぶ範囲について「裁判所の判決には行政として従うと話したが、承認取り消しに伴う2件の訴訟の和解だ。今後、設計変更などいろいろあるが、法令に従い適正に判断する。今日までの(新基地建設反対の)姿勢を持ちつつ対処していきたい」と述べて、和解は承認取り消しに伴う2件だけであると言った。そして、今後想定される国の是正指示に関する訴訟で県が敗訴した場合でも知事権限を行使し、新基地建設阻止に向けた姿勢を堅持すると断言したのである。
翁長知事の進む道はあらゆる手段を使って辺野古移設を阻止するしかない。別の道を選べば革新の支持を失い政治生命を絶たれてしまう。翁長知事は命がけであらゆる手段を使って辺野古移設を阻止しなければならないのである。
 
自民の照屋守之氏は、「新たな裁判で国が負けたら、辺野古移設を断念する。県が負けたら、協力して(辺野古移設を)進めるとの確約ではないのか」とただしたが、町田優知事公室長は「若干、異なる。その訴訟の判決に従うが、あらゆる手法で新基地を造らせない県の方針は変わらない」と説明している。町田優知事公室長の答弁は翁長知事の立場を考えれば当然である。新たな訴訟で敗訴しても、新基地建設の容認に転じるわけではないというのが翁長知事の唯一の選択しなければならない道である。他の選択は翁長知事はできない。

翁長知事は米軍岩国飛行場(山口県)の滑走路移設事業で、8回の設計変更が発生した経緯を指摘して「私は当選以来、設計変更も含め、たいへん厳しいものがあると話してきた。岩国の8回は参考になる。この問題は、なかなか厳しい状況になっている」と述べ、厳しい姿勢で審査に臨む姿勢を示したのである。
辺野古飛行場建設で設計変更しなければならないものとして美謝川がある。現行の設計では飛行場の地下を美謝川は流れる。それを飛行場の北側に移動する計画があるが、実現するためには翁長知事の承認が必要である。それ以外にも山の土をベルトコンベヤーで運ぶのをトラックに変更する計画もある。これも翁長知事の承認が必要である。翁長知事が指摘しているように今後多くの設計変更があるだろう。翁長知事は設計変更すべてを承認しないだろう。国は訴訟を起こして県と裁判闘争をしていかなければならない。

和解を提案した裁判長は代執行訴訟に勝ったとしても、その後は国と県の訴訟合戦になり、いつも国が勝つとは限らないから、辺野古移が滞る可能性がある。そのためには県と和解したほうがいいと和解案を提案した。安倍政権が暫定案で和解したのは県との訴訟合戦を避けるのが目的であった。しかし、裁判長は和解したとしても国の新たな設計変更を一切承認しない積もりでいる翁長知事の正体を知らなかった。安倍政権も。

菅官房長官は、翁長知事がその後の別の裁判では新基地建設阻止へ知事権限が行使できるとの考えを明らかにしたことに対して、「互いに同意した和解条項に従うべきだ」と述べ、是正指示の取り消し訴訟で確定した判決の効力はその後の裁判にも及ぶとの考えを提示して、「和解条項を読めば皆さん分かるではないか」と翁長氏の発言を否定したが、承認取り消しという違法行為をした翁長知事である。そんな翁長知事が和解条項の正論を受け入れるはずがない。自分の有利になるような解釈をするのが翁長知事の正体である。菅官房長官は翁長知事を正しくは理解していない。

翁長知事の、「判決に従う合意は、現在争われている埋め立て承認の取り消しだけに適用され、その他の知事権限は行使できるとの認識」は法的には正しい。理論的にも菅官房長官の主張は正当であるとは言えない。翁長知事の正体を知っていれば根本案を受け入れるか和解拒否をして、4月17日の判決を待っていただろう。正体を知らないから暫定案で和解したのである。
ボーリング調査が終わり、翁長知事の敗北判決が下れば、翁長知事の承認取り消しが違法行為であると県民は理解し、県民の翁長知事離れが拡大しただろう。そして、県議会選は自民党県連が有利に展開していただろう。
暫定案和解は安倍政権の大失態である。こんな失態は二度としてほしくない。

 安倍政権が暫定案和解を受け入れたこと大失態であるが、それが辺野古移設断念につながるわけではない。辺野古移設が一年延期になっただけである。翁長知事の政治生命が延びた。それだけのことである。辺野古移設という大きな流れが変わることはない。

 2016年7月出版内なる民主主義9
  

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2024年12月20日

国頭村比地川の氾濫と住民被害はデニー知事が左翼の召使いだから 



国頭村比地川の氾濫と住民被害はデニー知事が左翼の召使いだから 

沖縄本島北部の豪雨で比地川が氾濫し、国頭村比地区が浸水被害を受けた。県は、年内に見舞金として給付したいとし、20日から準半壊世帯以上を対象に申請を受け付けるとした。住宅の応急修理支援では、修理にかかる費用を最大71万7千円まで支援するとしている。県の担当者は「災害救助法を適用できなかったことは重く受け止める」と述べたが、全額支援はしないと決めている。
 県の決定に比地地区住民は全額保証を要求した。
区民は「県の支援は自然災害の話。今回は県が放置した挙げ句の人災である。住宅の修理に200万円かかっても県が全額出さないのはおかしい」と訴えた。

国頭村比地地区では、3年前から3度にわたり、先月の記録的な大雨で氾濫した比地川のしゅんせつ工事を村を通じて県に要請していた。しかし、県
は比地地区の要求に応じなかった。比地地区民は県がしゅんせつを行わなかったことが原因で比地川は氾濫した反乱の責任は県にあるとした。
比地地区では、3年前から3度にわたり、先月のような記録的な大雨があった。氾濫を恐れた比地地区はしゅんせつ工事を村を通じて県に要請していた。しかし、県はしゅんせつ工事をしなかった。県が自治区の要請に応じなかったから氾濫がおきた。だから、比地地区にとっては自然災害ではなく県による人災であると主張しているのだ。

比地川の氾濫を人災だと比地地区が主張しているこを知って、私は学習塾をやっていた時に「沖縄の学力が全国最低であるのは人災だ」と感じていたことを思い出した。

沖縄の学力はずっと全国最下位である。沖縄は本土から遠く離れた南端にあるし、日本の文化は浸透していないから学力が最下位であるのは当然であると思っていた。しかし、学習塾をやって、学力が最下位であるのは人災であることに気づいた。沖縄の教員は反米軍基地運動に埋没して、生徒の学力を上げる教育には真剣に取り組んでいない。だから、沖縄は学力が最下位であることに気づいた。
琉大生の時は学生運動に参加していた。学生運動をしている学生の多くは教員や公務員になる。民間の会社は学生運動をしている学生の雇用を敬遠する。雇用した労働者が反基地運動に参加することを嫌う。教員や公務員なら政治運動を続けることができる。だから、学生運動に参加した多くの学生が教員や公務員になった。

学習塾をやって気づいたことは生徒には学力差があるのは事実であるが、落ちこぼれは教員の努力によって防ぐことができることであった。小学二年生で掛け算九九を習う。しかし、掛け算九九を完全にはマスターできない生徒がいる。そんな生徒も三年生になると掛け算九九ば完全にマスターしているとい前提で二桁や三桁の掛け算を教える。掛け算九九をマスターしていない生徒は三年生から確実に落ちこぼれていく。落ちこぼれを防ぐには掛け算九九を教えることである。人間の脳は発達する。三年生は二年生の時より発達しているから掛け算九九を覚えることができる。三年生に教える時は掛け算九九を全生徒に確認しながら教えた。
国語は二年生の時に習った漢字も混ぜて書き、読み仮名を書いてから消して、読み仮名を書かせ、その次に感じを消して書き取りをさせた。私の学習塾は進学塾ではなく、基礎学力養成塾のようなものだった。

学校なら落ちこぼれの生徒は放課後に残し、基礎力をマスターさせるのが教員の義務であると思っていた。学校の現場は違っていた。教育熱心な若い教師が居残り授業をすると他の教師から圧力がかかり、居残り授業はやれないという噂を聞いた。学校では落ちこぼれの生徒を助けるシステムがないことを知った。

 お金がある家の子供は学習塾に行き成績を上げることができる。お金持ちは金の力で成績を上げるから不平等だと教員は学習塾を批判した。学習塾をやって教員の主張する平等が分かった。教員の主張する平等とは授業を生徒全員同じ時間数にすることだった。だから、成績が悪い生徒を居残りさせて基礎を教えることも禁じたのである。
 沖縄の教育は平等教育が重視されていて、学力は無視している。だから、全国最下位の学力であっても決まった時間を教えるだけである。

 通知表は相対評価である。絶対評価ではない。それには理由がある。相対評価だと生徒同士が成績を争うが、絶対評価は教師の能力が問われる。教え上手の教師の生徒は成績が上がり、下手な教師の生徒は成績が悪くなる。教師を評価する絶対評価を教師は受け入れない。だから、相対評価の成績表である。成績評価が相対評価になっている理由も学習塾をやっている時に知った。

 沖縄の教育問題と国頭村の比地川の氾濫とは関係がないと言えば関係がない。ただし共通することがある。どちらも公務員が主導していることである。教育は公務員である教員が主導している。比地川は県の公務員が主導している。
 だから、橋下氏が大阪市長の時に教育改革をして、沖縄に次いで46位の成績を改善して成績を上げた。しかし、教育改革に後ろ向きである沖縄は今も最下位である。デニー知事は左翼の召使いであり県政治は県庁の公務員が取り仕切っているから教育改革はゆめのまたゆめである。公務員は反米軍基地運動に熱中している。比地川の大雨反乱危機には興味がない。単純に法律を守って適当にしゅんせつをするだけである。

 デニー知事が比地川の氾濫を防ぐために比地地区の要請に応じてしゅんせつ工事をするべきであったが、デニー知事は県庁職員の政策に従うだけで氾濫防止のためのしゅんせつ工事を指示しなかった。デニー知事は県知事としてやるべきことを放棄したのだ。デニー知事は県民の選挙で選ばれたけれど県民よりも県庁職員の言いなりになって県民を犠牲にしている。それが比地川氾濫であり、住民被害へ保障の低さである。
 県が支援で足りない分は国頭村が負担する方針であるという。

国頭村比地川の氾濫と住民被害はデニー知事が左翼の召使いだからである。県知事としての主体性がない最低の県知事である。

  

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2024年12月18日

戒厳令宣布は尹大統領の妄想が原因

戒厳令宣布は尹大統領の妄想が原因

イツの首都ベルリン市ミッテ区の公有地に設置された従軍慰安婦の被害を象徴する少女像をレムリンガー区長は公有地から撤去する命令を発表した。少女像の台座には英語で「第二次大戦中、日本軍は少女や女性を強制連行し、性奴隷にした」などと記されている。少女像は日本軍の慰安婦は性奴隷であると世界に広めるのを目的に建てたものである。慰安婦像を設置した韓国系市民団体「コリア協議会」は、撤去を求める区に対し、ベルリン市内の別の公有地であれば移設に応じるとの妥協案を提示したが区は公有地に設置することに反対している。
 ドイツで慰安婦像撤去問題が起こっているが、韓国でも「慰安婦は性奴隷」を否定する動きが増えている。

 韓国・韓神大学の社会学科教授が「慰安婦の強制動員」を否定する授業をやった。教授は「事実、慰安婦が強制徴用されたという証拠はあまりない。『売られた』というのは、自分たちの父親や叔父が売り飛ばしたということだ」「食べていくのが大変だから慰安婦になり、全て前払いで受け取ったという記録まであるのに、何が強制慰安婦だというのか」「売り飛ばした当時の父親や叔父たちを非難すべきだ」などと発言したという。

#売り飛ばされた女性は慰安婦ではない。妓生である。強制徴用を否定する根拠にはなるが、売り飛ばされて慰安婦になったというのは間違っている。慰安婦と妓生の違いを知っていないのが韓国の学者である。

 教授の発言に対して学生らは「教授が誤った歴史認識を持ち、講義で学生たちに堂々と話しているという事実に、嘆息を禁じ得ない」として、教授の謝罪と学校側の懲戒などを要求したという。韓国では慰安婦は性奴隷であるという説が定着している。学校で慰安婦は性奴隷であると教育されているから多くの若者は慰安婦は性奴隷と信じている。だから、教授が性奴隷ではなかったと発言する教授は間違っていると学生たちは反発するのだ。

 慰安婦像に凶悪」「慰安婦詐欺、もうやめろ」などの文面が書かれた立て札を設置したりたすきを掛けて撮影し、ブログなどに投稿している。この行為全国にある慰安婦像で行うようになっている。

韓国大学での慰安婦は性奴隷ではないと主張する教授、慰安婦を否定する立札など、「慰安婦は性奴隷」を否定する動きが韓国で広まっている。

慰安婦が性奴隷でないことは明らかである。それなのに性奴隷であると韓国で広めたのは政治目的があったからだ。戦前の日本は軍国主義であり、軍国主義の流れを受け継いでいるのが自民党である。自民党を非難するために「慰安婦は性奴隷」を韓国で広めたのである。慰安少女にひれ伏して誤っている安倍首相の像である。日本の首相が慰安婦にひれ伏すという像まで作ったのが「慰安婦は性奴隷」運動をした団体である。強い反日イデオロギーがつくった像である。日本を侮辱した絶対に許されない像である。


韓国は反日と言われているが、韓国が反日であるのではない。共に民主党などの左派系が反日であるのだ。慰安婦に土下座して謝罪する安倍首相の像までのが反日の左派団体である。左派の目的は戦前の慰安婦を利用して現在の自民党を非難することである。左派は徹底して「慰安婦は性奴隷」の考えを韓国国民に浸透させた。韓国の左派は勢力がある。左派が「慰安婦は性奴隷」を広め、拡大していったのだ。左派が拡大運動を展開しているから韓国で「慰安婦は性奴隷」を広まっていったのである。

「慰安婦は性奴隷」という考えは1991年年に生まれた。それまでは慰安婦が性奴隷という考えはなかった。朝日新聞の記者によって「慰安婦は性奴隷」が書かれるとそれがどんどん広がっていった。
広げていったのが共に民主党を中心とする左派である。左派は教員や公務員が多い。教員や公務員は国民に信頼されている。彼らが「慰安婦は性奴隷」であると説けば国民は信じる。だからどんどん広がっていったのである。
強制慰安婦ではないと説明した教授が間違っていると学生たちが反発したのは学校で慰安婦は性奴隷であると教えられたからである。

2023年9月に30万人の教員が国会前に集まった。教員志望事件の真相究明と児童虐待関連法の即時改正を求める集会である。


30万人も集めることができる教員団体である。
韓国の教員団体は強力な政治団体でもあるのだ。
教員団体の全教組は日本福島汚染水海洋投棄に反対した。「韓国と中国で(日本製品の)不買運動が成果を出せば、日本の世論が変わる」として、▼日本旅行に行かない▼日本製ビールを飲まない▼日本産水産物を食べない――の三つの運動も全教組展開した。

全教組が所属している労働組合は民主労働組合連盟(民主労総)である。共に民主党系の民主労働組合連盟(民主労総)は2023年7月8日にソウルで行われた「日本の核汚染水海洋投棄を阻止! 7.8日韓労働者大会」にあわせて、日本政府と東京電力が計画するALPS処理水/汚染水海洋放出に反対する共同声明を発表した。
全労連に所属している組合は全国教職員労働組合・ソウル市地下鉄労組・全国公共運輸労働組合連盟・全国公務員労働組合・全国教授労働組合・全国教職員労働組合と公務員関係組合が中心である。全労連は社会党や共産党を支持していた総評と似ている。全労連は共産党と密接な関係にある左翼である。全労連が支持している政党が共に民主党である。
共に民主党は左翼である。反日である。

韓国は保守の国民の力左翼の共に民主党の保守と左翼が政権を争っている。沖縄も保守と左翼が政権を争っている。韓国と沖縄は保守対左翼の勢力争いをしている。沖縄と韓国は保守対左翼の対立となっている。沖縄と韓国は政治体制が似ている。
玉木デニー知事は左派である。韓国の尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領は保守である。沖縄県の議会は左翼系から保守系が多数派になった。韓国の議会は保守系から左翼が多数派になった。

日本の国会は沖縄や韓国とは違う。保守がずっと多数を占め、左翼は少数である。左翼が多数派になり政権を握ったことは55年体制になってから69年間一度もない。左翼議員は減り続けている。保守政党の政権がずっと続いている。
わたしのいう二大政党とは保守の二大政党である。保守の二大政党の実現が近づいている日本である。

 予算などあらゆる法律を決めるのは議会である。知事や大統領には権利はない。野党の共に民主党に政策の権限を奪われたに等しい状態になった。追い込まれた尹大統領はなんと戒厳令を宣布したのである。
 戒厳令とは、行政や司法を軍が掌握し、国民の言論や集会の自由などの基本的人権を制限することができるものである。発令されるのは、戦争の時、クーデターやテロのおそれのある時、大災害が起こった時などが想定される。韓国がクーデターやテロの恐れのない平和な状態であるのに尹大統領は戒厳令発行したのである。戒厳令を発した理由を野党が「体制転覆を狙う反国家勢力だ」としている。
 共に民主党は議会選挙に参加し、過半数になることを目指した政党である。暴力で体制転覆を狙っている政党でないことは明らかである。反保守ではあるが反国家ではない。共に民主党を「体制転覆を狙う反国家勢力だ」は「尹大統領の妄想である。妄想によって戒厳令を発したのである。尹大統領の妄想は国会の決議により約6時間後には撤回された。
弾劾訴追案可決によって尹大統領は14日午後7時24分をもって職務停止となった。

注目することがある保守も左翼も民主主義を主張し民主主義に徹していることを強調していることである。そして、保守も左翼も法治主義に徹している。このことは念頭置くべきである。
  

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2024年12月16日

デニー県政は末期状態

デニー県政は末期状態

9月25日
玉城デニー氏は「知事」という名の召使い


“公務員天国”である兵庫県政に斎藤知事はメスを入れた。県職員OBの天下り規制である。企業は県職員を天下りさせ、県職員と密接になって、県からの仕事を回してもらう。天下りは県職員と天下り企業を密接で親しい関係にする。天下り規制をした斎藤知事は甘い汁を吸えなくなった県職員に恨まれただろう。兵庫県の県職員に嫌われている斎藤知事である。

 沖縄県の玉木デニー知事は斎藤知事とは対照的である。県職員とは仲がいい。
県庁職員が県の政策について、意見やアイデアを玉城知事に直接提案するグループをつくった。入庁した職員を含む37人が、個人やグループで考え、新たな産業振興や平和の発信に関する事業など32件の提案をするのだ。グループは32件の提案を出した。デニー知事は、
「県民に対してこういうことをやりたい、県庁がもっとこうなれば市町村や団体とこうやって協力できる皆さんの大切なプレゼンを、我々がどう事業化できるかということを、また執行部でそれを検討していきたいと思います」
と述べ、職員の提案を受け入れた。新人を含めた政治に素人の職員が県政の産業や平和への提案をするというのだ。それもたった37人でだ。政治に素人のたった37人による32件の提案をデニー知事は受け入れた。これから検討するというのである。県職員のアイデアを喜んで受け入れるデニー知事である。

 デニー知事は県の政策にほとんど関わっていない。県職員に任せっぱなしである。デニー知事は知事というより県職員のつくったスケジュールに従って動いている名称だけの知事である。知事というのは表の顔だけで知事としての県政をリードしていない。デニー知事は県職員の召使いである。
 県職員の米軍基地論に従い、県職員の方針に従って反米行動をしている。

 37人の職員が知事に政策提案するのは歴史的に初めてだという。初めてだから画期的であるかというとそうではない。市民ではなく県職員なのだから県職員の視点から政策を追求することになる。市民代表ではない県職員の政策は市民の立場に立った政策にはならない。県職員の目指す政策になる。 
職員の政策を提案するグループを結成したのには裏の理由がある。デニー政権と対立する自民党を中心とする勢力が16年ぶりに過半数になったからだ。

 6月17日に県議会選挙があった。県議選で野党の自民党が議席を増やして20議席となり、自民党を中心とする野党が28議席になり過半数の議席になった。デニー知事与党は20議席である。これでは議会で不利である。不利をカバーする目的で結成したのが職員37人の政策提案グループである。県職員が知恵を絞ってつくったのが37人政策提案グループであるのだ。市民の代表でもない、県職員が勝手に結成したグループを普通の知事は認めないだろう。しかし、デニー知事は簡単に認めたのである。職員の召使いだからである。
 
 県職員の言いなりのデニー知事である。政治改革に打ち込む斎藤知事とは180度違う。

 召使いデニー知事はのんぴりと県職員が作ったスケジュールをこなしていくだろう。とても安定した知事生活である。
 戦う斎藤知事はこれからも厳しい戦いが待っている。不安定な知事生活である。

9月28日
デニー知事は県幹部が敷いたレールで楽しく踊っている


沖縄県は22日、日米地位協定に関するシンポジウムを開いた。シンポジウムにはフィリピンのメルカド元国防大臣も参加した。メルカド元大臣は1991年に米軍をフィリピンから撤退させたことを述べた。メルカド元大臣が強調したことは米軍基地だった跡地が経済発展したことである。

フィリピンにはアメリカ兵1万5000人が駐留し、クラーク空軍基地とスービック海軍基地というアジア最大の米軍基地が二つあった。フィリピン政府は米軍の撤去を要請した。米国は法治主義のミント主主義国家である。フィリビンの基地の撤去を要請されれば要請に応じるのが米政府である。米政府は米軍を撤退した。
米軍が撤退した跡地では経済が発展した。米軍が撤退すれば経済は落ち込むとの主張が強かったが、米軍基地跡地は経済が発展したとメルカド元大臣は述べた。フィリピンの現地を見学したデニー知事もメルカド元大臣に賛同した。沖縄でもこのようなことがあった。那覇市の北部にあった米軍基地が変換された後に目覚ましい経済発展をしたのだ。那覇近郊であり、返還したのは那覇市の人口密度が高くなり、米軍基地を変換しなければならない状況になっていたからだ。返還した地域を那覇新都心と呼んだ。那覇新都心は瞬く間に経済発展した。それは当然のことだった。那覇新都心の経済発展を根拠にして、米軍基地が返還されればら9155億円5千万円経済効果があるちいう理論を作りあげた。作り上げたのは県議会事務局であった。経済専門家ではなく県職員がつくったのだ。この理論は「沖縄に内なる民主主義はあるかで批判した「県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億円5千万円経済効果の真っ赤な嘘」で指摘した。経済効果は那覇新都心のような人口が集中して過密地域に接している場所に限るのであって、すべての米軍基地に当てはまるものではない。事実山が中心の国頭が返還されたが経済は発展していない。県議会事務局の経済効果は嘘である。
これは米軍基地は撤去したほうがいいと県民に信じさせるために作り上げた嘘であるのだ。2010年に県議会事務局の作り上げた嘘に乗っかているのがこのシンボジウムである。
米軍基地がないほうが経済は発展すると主張し、沖縄から米軍基地を撤去するほうがいいという理屈につなげていくのである。

シンポジウムではフィリピンから米軍基地が撤退しても経済は発展したことを強調し、米軍基地は必要ないというイメージを強調した。しかし、フィリピンから撤退したはずの米軍基地が再びフィリピンに駐留している。そのことはシンポジウムでは言わない。隠している。
フィリピンに再び米軍は駐留している。駐留規模を次第に大きくしている。それが現在フィリピンで起こっていることである。ところがシンポジウムではこの事実は話されなかった。話すと都合が悪いからだ。シンポジウムの目的は米軍基地を撤去したほうがいいとイメージさせるのが目的だからだ。

米国とフィリピンは2014年4月、米軍のフィリピン展開強化を柱とする新軍事協定に署名した。かつてフィリピンに駐留していた米軍は1992年までに撤退していたが、22年ぶり事実上再駐留することになった。米軍が駐留するようになった原因は中国の脅威だった。中国の脅威は次第に強くなっていった。そのために米軍のフィリピン基地も増えた。2023年には新たに4カ所の軍事基地の使用権を獲得した。
 米軍を撤退させたフィリピンであったが、中国の脅威の拡大に米軍を再び駐留させたのである。

 中国によるフィリピン侵略のニュース二つ

・フィリピンと中国が領有権を争う南シナ海の島礁で、フィリピンが劣勢に立たされている。戦略的要衝のサビナ礁で、中国船の侵入を牽制(けんせい)してきたフィリピンの大型巡視船が「兵糧攻め」に遭い、15日に撤退に追い込まれたためだ。別の巡視船がすでに配備されているが、中国側の攻勢に対応しきれるかは不透明だ。

・フィリピン北部のバンバン市長を解任され、不法出国後に逮捕された中国系のアリス・グオ容疑者(34)を巡る事件が、比国内で波紋を広げている。グオ容疑者は詐欺組織の運営に関与していただけではなく、実際は中国人で、比国籍を偽装していた疑いが浮上。中国による南シナ海での圧力を巡って比国内で反発が広がる中、市長が「中国共産党のスパイ」だったとの疑念が強まり、市民の反中感情は悪化している。

 米軍駐留は旧ソ連や中国の侵攻からアジアの国々を守るのが目的である。このことを知ったのが高校三年生の時である。クラスの意見発表会で、ある女生徒が、「沖縄は北は韓国から南はフィンピンまでの扇の要になっていて、アジアを守るのに最適な場所であるから嘉手納飛行場などの米軍基地がある」と言った。そして、朝鮮戦争のときは沖縄から出撃したということも話した。彼女の話を聞いて、沖縄は小さい島であるけれどもアジアの平和に大きく貢献している存在であると思った。
 アジアの平和は米軍だけで守っていたが、現在はアジアの国々も政治・経済が発展して軍事力もついたから共同でアジアを守る努力をしている。日本、オーストラリア、インド米国の四国でクワッドを結成して合同訓練をしている。そして、南シナ海で米国、オーストラリア、ニュージーランド(NZ)、フィリピン各軍の艦艇と共同訓練を実施した。

 中国のフィリピン侵略は激しくなっている。中国からフィリピンを守るために米軍はフィリピンに駐留している。
そういうフィリピンの状況であるのに米軍が居なくても経済は発展すると吹聴して沖縄の米軍基地撤去に汗しているのがデニー知事である。

 米軍基地全面返還したら9155億円5千万円の経済効果があると県幹部の嘘の理論を作り上げ、その嘘を仲井間知事と議員を信じさせた。県幹部の嘘を受け継ぎ続ける現県幹部に操縦されているのがデニー知事である。デニー知事は県幹部が敷いたレールの上で踊っている。

 政治改革のレールを必死に敷こうとする斎藤知事である。県幹部の敷いたレールの上で楽しく踊っているのがデニー知事である。

9月15日
米国に暇つぶしに行ったデニー知事


基地問題の解決ために「うちなーんちゅの正義を訴える」宣言して米国に渡った玉木デニー知事は首都ワシントンで連邦議会議員らと個別に会談した。  
デニー知事は、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を巡る工事は技術的に困難で、長期の工期で移設が大幅に遅れると説明した上で「普天間の一日も早い危険性除去に理解と協力が必要だ」と訴えたという。そして、移設反対の立場に理解を求めたという。
 デニー知事が移設に反対している辺野古埋め立ての土砂を運ぶ名護市本部安和桟橋で、土砂を搬出する安和のダンプ台数は6月の警備員事故死前の600台が1100台超に急増した。辺野古への土砂移送は二倍に増えたのだ。辺野古埋め立て工事はスピードアップしている。
デニー知事がワシントンで連邦議会議員らに辺野古移設反対を話している最中にも辺野古埋め立て工事はどんどん進んでいる。デニー知事の渡米は辺野古移設になんの影響もないことが沖縄での辺野古移設工事を見ればわかる。

そもそも沖縄県は日本の地方自治体である。辺野古移設工事は日本政府がすべて管轄していて、米国が埋め立て工事に口を挟むことはできない。そんな基本的なことも知らないデニー知事である。

辺野古移設は米国とも沖縄県とも政治決着した。すでに終わっている。埋め立てについては政府と県がもめたが裁判で政府が代執行することが決まった。埋め立てで県の権利はなくなった。そんなことになった状態であるのに米国の議員に辺野古について話しても何の意味もない。話さないのと同じである。デニー知事は暇つぶしをしに米国に行ったのだ。それが沖縄の県知事である。

普天間飛行場の辺野古移設は日米政府が合意したことである

12月10日
違法なワシントン事務所は即刻閉鎖するべき2


 県がワシントン事務所が違法であることを認めた。

 ワシントン事務所は県が設立した株式会社であるから地方公務員法に違反しているのだ。地方公務員法は県職員の政治活動や許可のない兼業を禁じている。ワシントン事務所は県職員の政治活動禁止と兼業禁止の二つに違反しているのだ。違反していることを県の溜公室長が認めた。隠してきたが隠し続けることができなくなったのだ。ワシントン事務所の活動を認めるということは県が犯罪を犯したことを認めることになる。県はハンザ゜位を認めたくないので、「(事務所は)在沖米軍基地について米国連邦議会と連携を促進するため設置された。政治活動にはあたらない」と米国と連携してきたことを強調した。しかし、議会は政治の場である。議会と連携するということは政治活動である。県幹部は議会との連携は政治活動ではないと弁解し、政治活動禁止には違反していないと述べ、問題ないと答弁したが、政治活動をしたと白状したに等しい。

 ワシントン事務所は米政府関係者や連邦議会議員、有識者ら約5800人と基地問題などについて面談や意見交換を行った。基地問題について意見交換するのは政治活動そのものである。ワシントン事務所は政治活動をやったのである。

県公室長は米国連邦議会と連携を促進するために設置したと述べているが、政治活動をするために設置したと自白しているようなものである。
そのような内容の書類で米国に申請したとしたら許可されなかった。だから、株式会社として登録し営業をすると嘘の申請をしたのである。嘘の申請をしたのは事務所設立の本当の目的で申請すると許可されないことを知ったからである。

県は米ワシントン事務所を運営するため、営業実態のない株式会社を米国に設立し、駐在職員を「社長」として就労ビザ(査証)を取得していた問題で、県側が職員の就労ビザを取得する際、事実に反して県との雇用関係を否定する書類を米政府に提出していた。だから、県から社長という肩書であった県職員は「ワシントン事務所が株式会社であるとの認識はなく、自分が社長であることも知らなかった」のである。一部の県幹部だけが知っていた。

県は三つの違法行為をした。一は株式会社を設立したこと、二は事務所で政治行為をしたこと、三は政治行為を県民に秘密にしたことである。県は計画的に犯罪行為をしたのである。そんなことは絶対に許されるものではない。

「必要な資料を準備して、県民に説明する」と述べたデニー知事であるがデニー知事がやらなければならないことはワシントン事務所を違法に設立し、違法行為を県がやったことを説明することである。説明の次にやるべきはワシントン事務所の閉鎖である。

12月16日
デニー知事は相も変わらず左翼の召使い


 デニー知事は中谷防衛相と会談した。デニー知事は相も変わらず反自民党政府である。
 
辺野古移設については「(政府が)『辺野古が唯一の解決策』というのであれば、先に普天間(飛行場の)の運用を停止し、閉めないと、普天間の返還は見通せない」と語気を強めたデニー知事である。デニー知事の主張はおかしい。
辺野古に移設できない状態で普天間飛行場を閉鎖するということはあり得ない。閉鎖するということは普天間飛行場が沖縄からなくなるということである。沖縄からなくすことができれば移設はしない。閉鎖することができないから移設するのだ。
辺野古に飛行場が建設されないと普天間飛行場を閉鎖することができないのは小学生でもわかる理屈だ。「先に普天間(飛行場の)の運用を停止し、閉めないと、普天間の返還は見通せない」というデニー知事の頭がおかしい。

普天間飛行場の危険性除去が必要との認識ではデニー知事と政府は一致している。危険性除去の方法としてデニー知事は「県外、国外への移設に取り組んでほしい」と要求している。政府は県外で普天間飛行場の移設を受け入れる自治体を探した。しかし、皆無だった。唯一名護市だけが辺野古移設を受け入れた。だから、政府は辺野古移設工事をしているのである。県知事ならばその事実を知っているはずである。しかし、デニー知事はあくまで辺野古移設反対の姿勢を崩さなかった。国外移設、県外移設ができると信じているのだろうか。いや信じていない。信じていればデニー知事が探すだろう。しかし、デニー知事が移設先を探そうとしたことは一度もない。移設場所は辺野古以外にないことを知っているからだ。

最高裁は辺野古埋め立てを認めた。だから、辺野古埋め立ての裁判でデニー知事は敗北した。それでもデニー知事は埋め立てに反対した。政府は裁判所に政府が埋め立て許可を県から政府に移す代執行訴訟を起こした。裁判所は政府の埋め立て代執行を認めた。裁判所が県の埋め立ての権限をはく奪したのである。
県議会選挙で辺野古埋め立てを容認する自民党が議席を増やし、反対する共産党と立憲は議席を減らした。辺野古移設容認の野党が過半数になった。デニー知事が裁判結果と県議会選挙を尊重するならば辺野古移設を容認するべきである。しかし、デニー知事の姿勢は変わらない。裁判、県議会を無視しているデニー知事である。

デニー知事は活動家ではないし一般市民でもない。沖縄県の知事である。知事は日本の法律を遵守しなければならない。しかし、デニー知事は遵守しない。だから、辺野古埋め立ての利権を失ったのだ。

なぜ、デニー知事は法律を遵守する政府と対立するのだ。理由は明確である。デニー知事が沖縄左翼の召使いであるからだ。左翼は反米主義である。沖縄の米軍基地を撤去するのを最大目標にしている。普天間飛行場も沖縄から撤去するのが目的だ。米軍基地の沖縄撤去を目的にしているから辺野古移設に反対なのである。基地問題では左翼は徹底して自民党と対立する。自民党と妥協することはない。
左翼の召使いに成り下がったデニー知事は滅茶苦茶な理屈を並べ立てて政府と対立して米軍基地反対主張していくだろう。
  

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2024年12月15日

二大政党への歩みが始まった

二大政党への歩みが始まった

10月24日

27日の衆院選は55年体制が終わる日  


2021年の衆議院選では立憲の左派系が落選した。
東京都知事選では左派系で共産党と共闘した蓮舫氏が無名の保守に負けて3位になった。立憲の左派系は敗北し続けている。立憲左派の弱体化の流れは止まらない。今度の衆議院選でも立憲の左派は弱体するだろう。
 
保守系の野田氏が立憲の代表になった。野田氏は安保法を容認しているから、共産党は立憲との共闘をやめた。共産党が離れたから立憲の左派はますます弱体化する。野田代表の立憲は保守が完全に主導権を握る。今度の衆議院選で保守の二大政党の基礎ができるということだ。

 マスメディアは自民・公明で過半数議席を確保できないことに関心を持っている。自民党は与党を維持するために公明党以外の政党を引き入れるだろう。どの政党引き入れるか・・・・それとも与党転落するか・・・・である。
 自民党が与党になろうが野党になろうが、与党も野党も保守政党である。保守同士はいざとなれば連携してなんとかする。
今度の衆議院選で一番の問題は55年体制から続いている社会党系の左翼を無力にして与党も野党も保守になることである。それが実現するはずである。

 民主党は2011年に与党から野党に転落した。転落した民社党は分裂した。分裂しないでずっと民主党を続けていたら今度の衆議院選で与党になっていただろう。しかし、分裂した。民主党は保守と左翼に分裂した。しかし、分裂した民主党が再び合流して立憲民主党になった。立憲民主は民主党と同じ左翼と保守の混合政党である。しかし、徐々に左翼は弱体化し、保守勢力が強くなっていったのが民主党と立憲の違いである。今の立憲は保守の勢力が強いから民主党のようにはならないだろう。

 27日の衆院選は55年体制を終わらせる。それは
必然である。

10月28日

二大政党の可能性が見える選挙結果になった


 衆議院選挙結果である。


過半数233
自民公明218 15不足

 立憲は50議席以上増えたが、国民は7議席から24議席と3倍以上に増やした。注目すべきは国民が生粋の保守であることだ。2021年には保守の維新が4倍に増え、今年は保守の国民が3倍以上に増えたのである。

立民が与党を目指すならば維新、国民と連帯しなければならない。維新と国民は保守である。国民は立憲内に左翼がいることを嫌って立憲から出たのだ。立憲が保守にならなければ連帯はしない。維新も左翼とは連帯しない。立憲が維新、国民と連帯するには立憲は保守で統一しなければならない。

 自民中心の政権になろうが、立憲中心の政権になろうが保守の政権になるのは確実である。2009年の民主党政権とは確実に違う政権になる。

 マスメディアは裏金問題が多くの自民党議員を落選させたと、自民党の敗因は裏金にあると決めつけている。国民が裏金問題だけを重視しているならば、自民の裏金を見つけて、裏金議員を暴露して、裏金を徹底して批判した共産党の議席も増えるはずである。ところが共産党の議席は10議席から2議席減った。
自民党の裏金を暴いた正義の共産党の支持率は下がったのである。
裏金を暴いて、裏金を徹底的に批判した共産党の議席が減ったということは自民党の議席が減った原因は裏金だと決めつけるのは間違っている。ある程度は影響したかもしれないが、裏金以上に影響したのが岸田前政権である。
 政策は全然なくて派閥の力だけで無派閥の菅首相内閣を倒して政権の座に就いたのが岸田前首相である。駄目な政権を引き継いだのが石破首相である。国民の岸田政権の評価が今度の衆議院選に反映したのだ。

 共産党が暴き、立憲が問題にし、マスメディアが大騒ぎした自民の裏金問題である。共産党が仕掛けた裏金問題のために国内外の深刻な政治問題を追求することはないがしろにされた。選挙は終わった。裏金問題は終わった。
 これからの国会は保守どうしの国内、国外の政治問題を中心に展開していく。政策論争が活発になっていく。それが二大政党実現への第一歩である。


二大政党への歩みが始まった


今年度の補正予算案は自民・公明両党に日本維新の会、国民民主党が加わっての賛成多数で可決された。自民と公明では218議席であり過半数233議席に達しない。維新と国民が賛成したので過半数を越して補正予算が成立したのである。維新と国民は野党である。野党が与党である自民の予算案に賛成したのである。賛成したのは維新と国民は保守政党であるからだ。左翼政党であったら賛成しなかっただろう。保守だから自民党の政策に協賛することができた。

維新は「規模ありきで、不要不急かつそぐわないものが数多く含まれていたという考え方は一切変わらないが、これから厳しい冬をさらに迎える中で、能登の被災者が一刻も早く元の生活に戻るための大切な予算だという思いの中で賛成を決めた」という。
国民民主も「能登半島で被災した人にとっては大変厳しい一年だったが、被災者にしっかり寄り添い、国が責任を持って復旧・復興にあたっていくための予算案」だとして賛成した。

立民は補正予算案に賛成しなかったが、「修正を勝ち取ることができたことは、被災地の支援に少しは役に立つのではないか。28年ぶりの予算案の修正なので、これからも歴史が変わるような国会運営を目指していきたい」と予算案を認めた。

 維新、国民、立憲が自民党の補正予算案を容認する発言をしたが、左翼である共産党と社民党は自民党の補正予算案に反対した。共産党は「補正予算案として過去最大の軍事費が組まれたが、本来は緊急を要するものを盛り込むべきだ。結局、日米同盟の強化と、大企業優先という予算案の組み方なので、反対の立場を貫いた」と反対した。

 自民党と公明党の議席は218議席である。立憲民主党、維新の会、国民の党は合わせて214議席である。差はたった4議席である。野党三党が結束して共産党、も社民党以外の保守系の野党を巻き込めば野党で法案を成立させることができる。

 二大政党が歩み始める可能性が高くなった。
  

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2024年12月13日

「パワハラ確認できず」は県調査は7月20日に分かっていた 真実は隠され続けていた



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目次

笠置シズ子とパンパン5
自民党が与党であり続けている原因 60年安保からわかる国民は保守を選択10
日本国民は左翼政党が政権を握ることを嫌っていた18
なぜ日本は自民党が与党であり続けるのか20
東京都知事選で二大政党の可能性を見せた23
東京都知事選で蓮舫候補と共産党は反自民・反小池でがっちりとスクラムを組んだ24
都知事選でも左翼衰退、保守拡大が実証される26
都知事選は立憲を最悪の状況に追い込んでいる 裏金問題どころではない 苦笑27
国民は国民投票に背を向ける立憲、共産を与党にすることは絶対にない28
左翼支持率低下の回復を目指した立憲・共産連合の都知事選29
都知事選は都民が左翼にNOを突き付けた選挙である31
衆議院選、都知事選のように左翼の立憲は支持率を下げるだけである31
石丸伸二氏から支援要請があったのに支援しなかった維新は愚か32
東京都知事選は保守の二大政党の可能性を明確にした33

兵庫県で二大政党が誕生した36
元西播磨県民局長の斎藤元彦知事告発文37
やっと斎藤知事の主張をマスメディアが掲載した45
橋下徹氏 100条委に「辞めるほどの事実は出てこないだろう47
職員自死の原因は知事の告発潰しではない 橋下氏は間違っている47
7つの告発の嘘をサンテレビが暴いた48
7つの告発文は居酒屋などで聞いた噂話で作成した文書だったという50
関西テレビと読売が「斎藤知事7つの告発の欺瞞を説明」を掲載51
元県民局長を自死に追いやったのは百条委員会設置である56
二大政党の実現は立憲民主党の保守が左派と決別すること59
なぜ社会党は与党になれなかったのか60
連合と共産党は敵対し続ける 連携することは絶対にない63
連合と共産党の喧嘩が始まった64
維新の会が55年体制に属さない新しい政党であることを誰も気づいていない66
彼女は元慰安婦ではない 元朝鮮少女性奴隷キーセンだ67
慰安婦=性奴隷と辺野古埋め立て=海の汚染は真実を捻じ曲げて自民を追い詰めるための嘘
72

辺野古は終わった
2015年出版「捻じ曲げられた辺野古の真実」が真実であることを証明された75
漁師が辺野古区民の真実を話す78
ある老辺野古民は訴える79
県議選でデニー知事派の与党が敗北するのは確実である80
辺野古移設反対を選挙公約にできなくなったデニー与党 敗北は確実80
デニー知事辺野古敗北宣言82
県議選 物言わぬ辺野古埋め立て地がデニー知事与党を敗北させた85
県議選 デニー与党が敗北した 当然のことである86
でっち上げた嘘が嘘であることを県民が知ったから与党は敗北した87
○翁長雄志は県知事になりたいために県民を騙した87
沖縄県議会選で敗北したのは共産と立憲だけ マスメディアは報道しない90
辺野古移設反対運動で初めて死者が出た 原因は牛歩運動92
警備員の事故死 辺野古移設反対運動はますます県民の支持を失う94
米兵の少女性暴力を反米軍基地政治運動に利用するだけの沖縄97
「米兵米兵」はまるで戦前の「鬼畜米英」のようである99
日米安保粉砕のために米兵の少女暴行弾劾する大会101
騒いでいるのは県民ではない反米軍基地運動家たちだ103
米兵差別の8・10県民集会105
市長が反対したから政府は陸上自衛隊の訓練場新設を取りやめた 日本の民主主義109
デニー知事は日本の民主主義を理解していない112




孤独のジョギング
ふたりで生きるむつかしさ
ひとりっ子
渡久地の浜の岩


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「パワハラ確認できず」は県調査は7月20日に分かっていた 真実は隠され続けていた

 兵庫県の斎藤元彦知事の疑惑告発文書問題で、県は11日、4月に公益通報窓口に通報されたパワハラなどに関する調査結果を発表した。パワハラに関しては「強く叱責された」とするケースはあったとしたうえで、「『パワハラを受けた』と認識する者は確認出来なかった」「パワハラと認められる確証までは得られなかった」とした。パワハラはなかったことが県の調査発表ではっきりした。でも、パワハラがなかったことは7月20日に判明していた。
 斎藤知事の告発文書問題などを審議する百条委員会のメンバーで県議の増山誠氏(維新)は11日のX投稿で調査結果が発表されたことを伝えると同時に「この報告は7月20日ころに発表予定でしたが、何らかの理由により延期されていたものです」と記してある。
 7月20日にはパワハラはなかったことを県の調査で判明していたのである。ところが県は発表しなかった。5か月も経過した12月に発表した。もし、7月に発表していれば兵庫の政局は大きく違っていただろう。パワハラがないのだから斎藤知事が失職に追い詰められることはなかっただろう。
 報告は7月20日ころに発表予定であったが、何らかの理由により延期されていた」という。

 7つの告発文書を作成した元局長は7月7日に自死した。自死をきっかけにマスメディアが斎藤知事のパワハラ、おねだりを盛んに報道していった。もし、7月20日ころにパワハラはなかったと県が発表すれば騒ぎは収まっていただろう。斎藤知事をパワハラ、おねだりで非難するメディアは減り、7つの告発文の真偽を問うメディアも出てきたはずである。パワハラはなかったと県が発表すれば斎藤知事が失職に追い詰められることはなかった。
 しかし、パワハラがなかったという県の発表は押さえ込まれて発表しなかった。押さえ込んだのは斎藤知事を知事の座から排除するためである。斎藤知事を排除したい連中は県の発表を押さえ込み斎藤知事のパワハラ、おねだりを日本中に広めたのである。+斎藤知事のパワハラが広がったのは反斎藤知事の策略によることを11日にパワハラはなかったとする県の発表が明らかにしたのである。

7つの告発文は斎藤知事を告発するのが目的ではない。排除するのが目的である。その策略に維新の会さえ巻き込まれ斎藤知事を失職に追いやった。斎藤知事排除策略を成功したのだ。しかし、どん底に落とされた斎藤氏は立ち上がり、たった一人で知事選挙選に立ち上がった。立ち上がった兵庫県民は斎藤氏を応援し、見事に知事選に勝利した。
素晴らしい。

「斎藤知事『パワハラ確認できず』調査結果→当初7月結果発表も『発表させない圧力』で『突如延期』されていた」という県の発表は非常に重い。
 斎藤知事の政策を嫌い、斎藤知事を排除しようと策略した連中の正体を暴いていかなければならない。

  

Posted by ヒジャイ at 14:12Comments(0)