2024年11月04日
「命どぅ宝」を捻じ曲げている反戦平和運動
「命どぅ宝」を捻じ曲げている反戦平和運動
共産党が小選挙区で当選したのは1議席だけである。他の7議席は比例で当選した。唯一小選挙区で当選したのが沖縄第一区である。社民党は1議席だけであるが、唯一の1議席が沖縄第二区である。
共産党と社民党は沖縄で根強い。
県議会選で共産党は7議席から3議席減らして4議席になったから、衆議院選でも支持率は落ちるだろうと思っていた。だから、小選挙区で落選して比例で復活するのを予想していた。しかし、予想は外れた。赤嶺氏が当選した。沖縄一区での共産党の支持率は高いということだ。
共産党で有名な人が瀬永亀次郎である。 1946年 – 1949年に米軍機関紙「うるま新報」の社長を務めたことがある。そして、那覇市長、立法院議員、沖縄人民党委員長を務めた。共産党員であったから米民政府から弾圧されたが、沖縄の人々にはとても人気があった。自民党を支持する人でも亀次郎ファンは多かった。彼には人々を引き付けるものがあったのだろう。
瀬永氏は国政参加選挙で衆議院議員1期。本土復帰後、衆議院議員としては人民党で1期、日本共産党として連続5期つとめた。1973年以降は共産党幹部会副委員長をつとめた。
私は瀬永亀次郎が嫌いだった。好きでも嫌いでもない存在だったがある演説を聞いてから嫌いになった。
瀬永亀次郎が与儀公園の県民大会で反戦平和を主張するために「命どう宝(ぬちどぅたから)」と言った。米軍基地撤去運動の大会で初めて聞いた格言である。他の運動家が言ったことはなかった。「命どう宝」を聞いた瞬間に瀬長氏が嫌いになった。「命どう宝」は子供のころから知っている格言であった。私の知っている「命どう宝」は瀬長氏のいう反戦平和の格言ではなかった。
「命どう宝」は沖縄の昔からある格言である。もう一つ格言がある。『物呉ゆすどぅ我が御主』(むぬくゆすどぅ わがーうしゅう)である。直訳すると「物をくれるのが私のご主人」である。畑とか仕事などの生活手段をくれるのが私のご主人という格言である。小学生のころから「「命どう宝」と『物呉ゆすどぅ我が御主』については先生から聞いていた。
沖縄の土は赤土である。養分がなくて農業に向いていない。暴風は野菜を多大な被害をもたらす。しかし、暴風が来ないと雨が降らないから土地が干上がり農作物は枯れてしまう。暴風が来ない雨が降らなかったために土地は干上がり、野菜は枯れて餓死者が出たこともあったという。信じられない昔は餓死者が出ることもあったという。
沖縄の農民は生きていくことだけで精一杯であった。そんな生活苦の中から生まれた格言が「命どう宝」だと先生は話した。父は農民だったのでそのことが強く印象に残った。
先生は読谷の歌人吉屋チルーの話もやった。
チルーは8歳の時、那覇の吉屋という遊郭に売られた。チルーは売られることを嫌がった。親はチルーが遊郭に売られないと貧しい家族は生きていけない。「命どぅ宝」だから家族の命を守るためにチルーが遊郭に売られることを説得したという。家族が生きるためにチルーは遊郭に売られた。
吉屋よしやチルーの歌
◯八歳の時に那覇の仲島遊郭へ売られてゆく途中、比謝橋で詠んだ歌
うらむふぃじゃばしや (恨む比謝橋や)
なさきねんふぃとぅぬ (情け無いぬ人の)
わみわたさとぅむてぃ (我身渡さと思て)
かきてぃうちゃら (架けて置きやら)
(訳〜恨めしい比謝橋よ。情けのない人が私を売り渡そうと考えて架けておいたのでしょう。)
吉屋チルーは読谷で生まれ育った女性であり、読谷では有名であった。チルーの話は小学生の時から先生から聞かされた。
遊郭の少女は17歳から大人とみなし、客の性の相手をするようになる。チルーは性の相手になることを拒否し、絶食して死んだという。
沖縄の極貧から「命どう宝」の格言が生まれたことをチルーの話で聞いた。だから、沖縄の極貧の中から生まれた格言が「命どう宝」と考えていたから瀬永亀次郎の反戦平和を象徴する格言として言ったことに反発した。「命どう宝」は反戦平和よりももっと重い沖縄の貧困の中から生まれた格言であると確信していたからだ。
瀬永亀次郎の「命どう宝」は与儀公園で聞いただけであった。他の活動家は誰も言わなかった。学生運動から離れ、社会人になると政治集会にも参加しなかった。しかし、何年もたってインターネットが普及して、多くの情報が見れるようになると「命どう宝」が反戦平和を主張する格言であると思われていることを知った。「命どう宝」琉球王国時代からあり、その考えは間違っていることを説明しようとgoogleで探したが、googleでも反戦平和を重視する格言であると説明していた。
命どぅ宝は沖縄県出身の画家で作家の山里永吉が1932年に書いた戯曲『那覇四町昔気質』を原典とする説がある。同戯曲の幕切れに琉球処分で東京移住を命じられた尚泰王が「いくさ世もしまち みろく世もやがて 嘆くなよ臣下 命どぅ宝」という琉歌を詠む台詞がある。それが「命どぅ宝」の始まりであるというのだ。尚泰王は島津藩に敗北を認める。敗北を認めるとお金や所有物を失う。しかし、命は失わない。命を失わないために敗北を認めることを「命どう宝」と言ったのである。
「命どぅ宝」は戯曲『那覇四町昔気質』に書いてあるかもしれないが山里永吉は世間で使われている「命どぅ宝」という格言を自分流の解釈をつけて戯曲に書いたのた。彼が新しくつくった格言ではない。すでに世間で使われていた格言である。
私たちが危険な遊びをしているのを注意する時に「ぬちどぅたからどう」と老人は言っていた。
沖縄の極貧を救った歴史的人物がいる。野國總管(のぐにそうかん)である。野國總管は中国からさつま芋を持ってきて、沖縄に広めた人物である。さつま芋を沖縄では唐芋(とういも)とかからいもと呼んでいたらしい。唐芋が沖縄を支配していた薩摩藩に渡り、薩摩藩から全国に広がったからさつま芋と呼ばれている。さつま芋は肥料がいらない野菜である。さつま芋は土を肥やす効果がある。だから、養分のない赤土でもよく育つ。
サトウキビは土の養分をとるので土が枯れる。だから、サトウキビを数年植えた後にさつま芋を植える。父が農業をしていたからそのことを子供のころから知っていた。
沖縄の土が赤土で農業には適していないことをしっていたから、農業中心の昔は非常に貧しかったことが想像できた。
明治以後の沖縄は60万人しか生きていくことができなかった。だから、沖縄は移住が多かった。大阪の大正区のほとんどは沖縄の人々である。大正区ではウチナー口で話ができるという噂を聞いていたので、本当かどうかを確かめるために大正区に行った。飲み屋に入って確かめたら、本当だった。50年以上前のことであるが・・・。
野國總管は嘉手納のの具に人であるという。嘉手納町には野國總管を奉る社があり、毎年野國總管祭りをやる。祭りではウチナー相撲をやるので相撲をみるために小学生の時に何度か野國總管祭りに行った。
共産党が小選挙区で当選したのは1議席だけである。他の7議席は比例で当選した。唯一小選挙区で当選したのが沖縄第一区である。社民党は1議席だけであるが、唯一の1議席が沖縄第二区である。
共産党と社民党は沖縄で根強い。
県議会選で共産党は7議席から3議席減らして4議席になったから、衆議院選でも支持率は落ちるだろうと思っていた。だから、小選挙区で落選して比例で復活するのを予想していた。しかし、予想は外れた。赤嶺氏が当選した。沖縄一区での共産党の支持率は高いということだ。
共産党で有名な人が瀬永亀次郎である。 1946年 – 1949年に米軍機関紙「うるま新報」の社長を務めたことがある。そして、那覇市長、立法院議員、沖縄人民党委員長を務めた。共産党員であったから米民政府から弾圧されたが、沖縄の人々にはとても人気があった。自民党を支持する人でも亀次郎ファンは多かった。彼には人々を引き付けるものがあったのだろう。
瀬永氏は国政参加選挙で衆議院議員1期。本土復帰後、衆議院議員としては人民党で1期、日本共産党として連続5期つとめた。1973年以降は共産党幹部会副委員長をつとめた。
私は瀬永亀次郎が嫌いだった。好きでも嫌いでもない存在だったがある演説を聞いてから嫌いになった。
瀬永亀次郎が与儀公園の県民大会で反戦平和を主張するために「命どう宝(ぬちどぅたから)」と言った。米軍基地撤去運動の大会で初めて聞いた格言である。他の運動家が言ったことはなかった。「命どう宝」を聞いた瞬間に瀬長氏が嫌いになった。「命どう宝」は子供のころから知っている格言であった。私の知っている「命どう宝」は瀬長氏のいう反戦平和の格言ではなかった。
「命どう宝」は沖縄の昔からある格言である。もう一つ格言がある。『物呉ゆすどぅ我が御主』(むぬくゆすどぅ わがーうしゅう)である。直訳すると「物をくれるのが私のご主人」である。畑とか仕事などの生活手段をくれるのが私のご主人という格言である。小学生のころから「「命どう宝」と『物呉ゆすどぅ我が御主』については先生から聞いていた。
沖縄の土は赤土である。養分がなくて農業に向いていない。暴風は野菜を多大な被害をもたらす。しかし、暴風が来ないと雨が降らないから土地が干上がり農作物は枯れてしまう。暴風が来ない雨が降らなかったために土地は干上がり、野菜は枯れて餓死者が出たこともあったという。信じられない昔は餓死者が出ることもあったという。
沖縄の農民は生きていくことだけで精一杯であった。そんな生活苦の中から生まれた格言が「命どう宝」だと先生は話した。父は農民だったのでそのことが強く印象に残った。
先生は読谷の歌人吉屋チルーの話もやった。
チルーは8歳の時、那覇の吉屋という遊郭に売られた。チルーは売られることを嫌がった。親はチルーが遊郭に売られないと貧しい家族は生きていけない。「命どぅ宝」だから家族の命を守るためにチルーが遊郭に売られることを説得したという。家族が生きるためにチルーは遊郭に売られた。
吉屋よしやチルーの歌
◯八歳の時に那覇の仲島遊郭へ売られてゆく途中、比謝橋で詠んだ歌
うらむふぃじゃばしや (恨む比謝橋や)
なさきねんふぃとぅぬ (情け無いぬ人の)
わみわたさとぅむてぃ (我身渡さと思て)
かきてぃうちゃら (架けて置きやら)
(訳〜恨めしい比謝橋よ。情けのない人が私を売り渡そうと考えて架けておいたのでしょう。)
吉屋チルーは読谷で生まれ育った女性であり、読谷では有名であった。チルーの話は小学生の時から先生から聞かされた。
遊郭の少女は17歳から大人とみなし、客の性の相手をするようになる。チルーは性の相手になることを拒否し、絶食して死んだという。
沖縄の極貧から「命どう宝」の格言が生まれたことをチルーの話で聞いた。だから、沖縄の極貧の中から生まれた格言が「命どう宝」と考えていたから瀬永亀次郎の反戦平和を象徴する格言として言ったことに反発した。「命どう宝」は反戦平和よりももっと重い沖縄の貧困の中から生まれた格言であると確信していたからだ。
瀬永亀次郎の「命どう宝」は与儀公園で聞いただけであった。他の活動家は誰も言わなかった。学生運動から離れ、社会人になると政治集会にも参加しなかった。しかし、何年もたってインターネットが普及して、多くの情報が見れるようになると「命どう宝」が反戦平和を主張する格言であると思われていることを知った。「命どう宝」琉球王国時代からあり、その考えは間違っていることを説明しようとgoogleで探したが、googleでも反戦平和を重視する格言であると説明していた。
命どぅ宝は沖縄県出身の画家で作家の山里永吉が1932年に書いた戯曲『那覇四町昔気質』を原典とする説がある。同戯曲の幕切れに琉球処分で東京移住を命じられた尚泰王が「いくさ世もしまち みろく世もやがて 嘆くなよ臣下 命どぅ宝」という琉歌を詠む台詞がある。それが「命どぅ宝」の始まりであるというのだ。尚泰王は島津藩に敗北を認める。敗北を認めるとお金や所有物を失う。しかし、命は失わない。命を失わないために敗北を認めることを「命どう宝」と言ったのである。
「命どぅ宝」は戯曲『那覇四町昔気質』に書いてあるかもしれないが山里永吉は世間で使われている「命どぅ宝」という格言を自分流の解釈をつけて戯曲に書いたのた。彼が新しくつくった格言ではない。すでに世間で使われていた格言である。
私たちが危険な遊びをしているのを注意する時に「ぬちどぅたからどう」と老人は言っていた。
沖縄の極貧を救った歴史的人物がいる。野國總管(のぐにそうかん)である。野國總管は中国からさつま芋を持ってきて、沖縄に広めた人物である。さつま芋を沖縄では唐芋(とういも)とかからいもと呼んでいたらしい。唐芋が沖縄を支配していた薩摩藩に渡り、薩摩藩から全国に広がったからさつま芋と呼ばれている。さつま芋は肥料がいらない野菜である。さつま芋は土を肥やす効果がある。だから、養分のない赤土でもよく育つ。
サトウキビは土の養分をとるので土が枯れる。だから、サトウキビを数年植えた後にさつま芋を植える。父が農業をしていたからそのことを子供のころから知っていた。
沖縄の土が赤土で農業には適していないことをしっていたから、農業中心の昔は非常に貧しかったことが想像できた。
明治以後の沖縄は60万人しか生きていくことができなかった。だから、沖縄は移住が多かった。大阪の大正区のほとんどは沖縄の人々である。大正区ではウチナー口で話ができるという噂を聞いていたので、本当かどうかを確かめるために大正区に行った。飲み屋に入って確かめたら、本当だった。50年以上前のことであるが・・・。
野國總管は嘉手納のの具に人であるという。嘉手納町には野國總管を奉る社があり、毎年野國總管祭りをやる。祭りではウチナー相撲をやるので相撲をみるために小学生の時に何度か野國總管祭りに行った。
Posted by ヒジャイ at 15:47│Comments(0)
│沖縄に内なる民主主義はあるか