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2024年12月20日
国頭村比地川の氾濫と住民被害はデニー知事が左翼の召使いだから
国頭村比地川の氾濫と住民被害はデニー知事が左翼の召使いだから
沖縄本島北部の豪雨で比地川が氾濫し、国頭村比地区が浸水被害を受けた。県は、年内に見舞金として給付したいとし、20日から準半壊世帯以上を対象に申請を受け付けるとした。住宅の応急修理支援では、修理にかかる費用を最大71万7千円まで支援するとしている。県の担当者は「災害救助法を適用できなかったことは重く受け止める」と述べたが、全額支援はしないと決めている。
県の決定に比地地区住民は全額保証を要求した。
区民は「県の支援は自然災害の話。今回は県が放置した挙げ句の人災である。住宅の修理に200万円かかっても県が全額出さないのはおかしい」と訴えた。
国頭村比地地区では、3年前から3度にわたり、先月の記録的な大雨で氾濫した比地川のしゅんせつ工事を村を通じて県に要請していた。しかし、県
は比地地区の要求に応じなかった。比地地区民は県がしゅんせつを行わなかったことが原因で比地川は氾濫した反乱の責任は県にあるとした。
比地地区では、3年前から3度にわたり、先月のような記録的な大雨があった。氾濫を恐れた比地地区はしゅんせつ工事を村を通じて県に要請していた。しかし、県はしゅんせつ工事をしなかった。県が自治区の要請に応じなかったから氾濫がおきた。だから、比地地区にとっては自然災害ではなく県による人災であると主張しているのだ。
比地川の氾濫を人災だと比地地区が主張しているこを知って、私は学習塾をやっていた時に「沖縄の学力が全国最低であるのは人災だ」と感じていたことを思い出した。
沖縄の学力はずっと全国最下位である。沖縄は本土から遠く離れた南端にあるし、日本の文化は浸透していないから学力が最下位であるのは当然であると思っていた。しかし、学習塾をやって、学力が最下位であるのは人災であることに気づいた。沖縄の教員は反米軍基地運動に埋没して、生徒の学力を上げる教育には真剣に取り組んでいない。だから、沖縄は学力が最下位であることに気づいた。
琉大生の時は学生運動に参加していた。学生運動をしている学生の多くは教員や公務員になる。民間の会社は学生運動をしている学生の雇用を敬遠する。雇用した労働者が反基地運動に参加することを嫌う。教員や公務員なら政治運動を続けることができる。だから、学生運動に参加した多くの学生が教員や公務員になった。
学習塾をやって気づいたことは生徒には学力差があるのは事実であるが、落ちこぼれは教員の努力によって防ぐことができることであった。小学二年生で掛け算九九を習う。しかし、掛け算九九を完全にはマスターできない生徒がいる。そんな生徒も三年生になると掛け算九九ば完全にマスターしているとい前提で二桁や三桁の掛け算を教える。掛け算九九をマスターしていない生徒は三年生から確実に落ちこぼれていく。落ちこぼれを防ぐには掛け算九九を教えることである。人間の脳は発達する。三年生は二年生の時より発達しているから掛け算九九を覚えることができる。三年生に教える時は掛け算九九を全生徒に確認しながら教えた。
国語は二年生の時に習った漢字も混ぜて書き、読み仮名を書いてから消して、読み仮名を書かせ、その次に感じを消して書き取りをさせた。私の学習塾は進学塾ではなく、基礎学力養成塾のようなものだった。
学校なら落ちこぼれの生徒は放課後に残し、基礎力をマスターさせるのが教員の義務であると思っていた。学校の現場は違っていた。教育熱心な若い教師が居残り授業をすると他の教師から圧力がかかり、居残り授業はやれないという噂を聞いた。学校では落ちこぼれの生徒を助けるシステムがないことを知った。
お金がある家の子供は学習塾に行き成績を上げることができる。お金持ちは金の力で成績を上げるから不平等だと教員は学習塾を批判した。学習塾をやって教員の主張する平等が分かった。教員の主張する平等とは授業を生徒全員同じ時間数にすることだった。だから、成績が悪い生徒を居残りさせて基礎を教えることも禁じたのである。
沖縄の教育は平等教育が重視されていて、学力は無視している。だから、全国最下位の学力であっても決まった時間を教えるだけである。
通知表は相対評価である。絶対評価ではない。それには理由がある。相対評価だと生徒同士が成績を争うが、絶対評価は教師の能力が問われる。教え上手の教師の生徒は成績が上がり、下手な教師の生徒は成績が悪くなる。教師を評価する絶対評価を教師は受け入れない。だから、相対評価の成績表である。成績評価が相対評価になっている理由も学習塾をやっている時に知った。
沖縄の教育問題と国頭村の比地川の氾濫とは関係がないと言えば関係がない。ただし共通することがある。どちらも公務員が主導していることである。教育は公務員である教員が主導している。比地川は県の公務員が主導している。
だから、橋下氏が大阪市長の時に教育改革をして、沖縄に次いで46位の成績を改善して成績を上げた。しかし、教育改革に後ろ向きである沖縄は今も最下位である。デニー知事は左翼の召使いであり県政治は県庁の公務員が取り仕切っているから教育改革はゆめのまたゆめである。公務員は反米軍基地運動に熱中している。比地川の大雨反乱危機には興味がない。単純に法律を守って適当にしゅんせつをするだけである。
デニー知事が比地川の氾濫を防ぐために比地地区の要請に応じてしゅんせつ工事をするべきであったが、デニー知事は県庁職員の政策に従うだけで氾濫防止のためのしゅんせつ工事を指示しなかった。デニー知事は県知事としてやるべきことを放棄したのだ。デニー知事は県民の選挙で選ばれたけれど県民よりも県庁職員の言いなりになって県民を犠牲にしている。それが比地川氾濫であり、住民被害へ保障の低さである。
県が支援で足りない分は国頭村が負担する方針であるという。
国頭村比地川の氾濫と住民被害はデニー知事が左翼の召使いだからである。県知事としての主体性がない最低の県知事である。
Posted by ヒジャイ at 20:15│Comments(1)
この記事へのコメント
又吉康隆へのレクイエム。その2
中の町のファーストフード店で交わした会話で、僕は君が占領軍(米軍)の肩を持つ人間であると知って愕然とした。その時受けたショックの大きさは簡単に言葉で言い表すことは難しい。占領軍(米軍)を巡る僕の見解に対して、居酒屋論議だと小馬鹿にした君は自信たっぷりの様子だった。その思想の根底には何があるのか調べてみたいとの思いもあり、君が持参していた個人誌「内なる民主主義」(確か第7号だったと記憶する)をその場で購入した。その返礼として二杯目のコーヒー代はが俺が持つよ、と君は言った。その時の君は琉大時代から変わらない好感のもてる明るい性格そのままだった。しかし、悲しいことに僕がこれまで付き合ってきた又吉康隆は、この時完全に僕の前から姿を消したのである。今まで君に抱いていた好意(友情といっても良い)が猜疑心へと変貌した運命的瞬間だった。その1で示唆した事件とはこの運命的瞬間のことを指す。そして猜疑心は時間の経過とともに敵対心に変わった。僕が受けた衝撃波の大きさを、おそらく君は想像できないだろう。それほど在沖米軍(占領軍)の存在は、君にとって小学生の時以来ずっと疑問の余地のないほどに正当性を有するものだからである。
僕がそのことを知ったのは、運命的瞬間の後、君がブログを発信していることがわかり、そのブログを読み始めてからである。過去を振り返ったブログで君は次のような内容のことを書いていた。小学生の時、交通事故に遭い意識不明の重体になった。気がつくと金髪の看護師が目に入った。米軍病院だった。又吉少年はこの時、米軍の寛大さに感激した。ここまでは少しも不思議なことはない。なぜなら米軍であれ誰であれ重体の人間を救ってくれた相手に感謝の念を抱くのは人間として自然の感情だからだ。しかし、又吉少年は他の少年とは少し意識構造が違った。
米軍の寛大さに感謝する一方で、沖縄人の不甲斐なさを批判するのである。米軍は救急車で駆けつけてきたのに、地元の人は何もしなかった、と不満を漏らすのである。君のコインの裏表のような米軍礼賛と沖縄批判はこの時から芽を出し始めたのではないかと、僕は推測する。
僕が又吉少年の立場だったら違う感情を抱いただろう。米軍に感謝するのは当然のことだが、地元の人は何もしなかったという不満が頭をよぎることはなかっただろう。何故なら、当時(60年以上前)の沖縄は戦争の傷跡がまだ生々しく、あらゆる面で物資不足の状況下にあったので、豊かな米軍のように医療体制が充分ではなかった実情を大人も子供もよく理解していたからだ。当時のほとんどのウチナーンチュは貧困を共有し、その現実をよく理解していた。豊かになった今なら、又吉少年のところにいち早く駆けつける救急車は米軍のそれではなく、地元の救急車であるのは間違いないだろう。又吉少年は豊かな米軍と貧困の沖縄の区別ができなかったのだ。
そして君は高校2年生の時のこともブログに書いている。これもコインの裏表、米軍礼賛と沖縄批判だ。君が高校2年生の時、君が住んでいる読谷村で米軍のヘリコプターから落下傘をつけたトレーラーが民間地に落下して女子小学生を圧死させるという痛ましい事故が起きた。
当然、村の人々は米軍に対する抗議集会を開く。読谷高校も抗議集会に参加することを決めた。しかし君は内心参加したくなかった。何故ならこの事故を君は普通一般の事故と同列視して米軍を特別批判する必要はないと考えたからだ。参加したくはなかったが、同級生に促されて渋々参加した。そして抗議集会に集まった大人を世界情勢を知らない人達だと軽蔑したのだ。
あの小学時の又吉少年の米軍礼賛・沖縄批判の精神は高校生になって数段もヴァージョンアップしていたことがわかる。そして2010年(62歳)から始めたブログは、ずっと今に至るまで米軍礼賛・沖縄批判のスタンスで貫かれている。
中の町のファーストフード店での運命的瞬間まで、僕は君の本当の姿を知らなかったと言うことになる。運命的瞬間に抱いた猜疑心は、君のブログを読むことで敵対心に変わったのである。(続く)
中の町のファーストフード店で交わした会話で、僕は君が占領軍(米軍)の肩を持つ人間であると知って愕然とした。その時受けたショックの大きさは簡単に言葉で言い表すことは難しい。占領軍(米軍)を巡る僕の見解に対して、居酒屋論議だと小馬鹿にした君は自信たっぷりの様子だった。その思想の根底には何があるのか調べてみたいとの思いもあり、君が持参していた個人誌「内なる民主主義」(確か第7号だったと記憶する)をその場で購入した。その返礼として二杯目のコーヒー代はが俺が持つよ、と君は言った。その時の君は琉大時代から変わらない好感のもてる明るい性格そのままだった。しかし、悲しいことに僕がこれまで付き合ってきた又吉康隆は、この時完全に僕の前から姿を消したのである。今まで君に抱いていた好意(友情といっても良い)が猜疑心へと変貌した運命的瞬間だった。その1で示唆した事件とはこの運命的瞬間のことを指す。そして猜疑心は時間の経過とともに敵対心に変わった。僕が受けた衝撃波の大きさを、おそらく君は想像できないだろう。それほど在沖米軍(占領軍)の存在は、君にとって小学生の時以来ずっと疑問の余地のないほどに正当性を有するものだからである。
僕がそのことを知ったのは、運命的瞬間の後、君がブログを発信していることがわかり、そのブログを読み始めてからである。過去を振り返ったブログで君は次のような内容のことを書いていた。小学生の時、交通事故に遭い意識不明の重体になった。気がつくと金髪の看護師が目に入った。米軍病院だった。又吉少年はこの時、米軍の寛大さに感激した。ここまでは少しも不思議なことはない。なぜなら米軍であれ誰であれ重体の人間を救ってくれた相手に感謝の念を抱くのは人間として自然の感情だからだ。しかし、又吉少年は他の少年とは少し意識構造が違った。
米軍の寛大さに感謝する一方で、沖縄人の不甲斐なさを批判するのである。米軍は救急車で駆けつけてきたのに、地元の人は何もしなかった、と不満を漏らすのである。君のコインの裏表のような米軍礼賛と沖縄批判はこの時から芽を出し始めたのではないかと、僕は推測する。
僕が又吉少年の立場だったら違う感情を抱いただろう。米軍に感謝するのは当然のことだが、地元の人は何もしなかったという不満が頭をよぎることはなかっただろう。何故なら、当時(60年以上前)の沖縄は戦争の傷跡がまだ生々しく、あらゆる面で物資不足の状況下にあったので、豊かな米軍のように医療体制が充分ではなかった実情を大人も子供もよく理解していたからだ。当時のほとんどのウチナーンチュは貧困を共有し、その現実をよく理解していた。豊かになった今なら、又吉少年のところにいち早く駆けつける救急車は米軍のそれではなく、地元の救急車であるのは間違いないだろう。又吉少年は豊かな米軍と貧困の沖縄の区別ができなかったのだ。
そして君は高校2年生の時のこともブログに書いている。これもコインの裏表、米軍礼賛と沖縄批判だ。君が高校2年生の時、君が住んでいる読谷村で米軍のヘリコプターから落下傘をつけたトレーラーが民間地に落下して女子小学生を圧死させるという痛ましい事故が起きた。
当然、村の人々は米軍に対する抗議集会を開く。読谷高校も抗議集会に参加することを決めた。しかし君は内心参加したくなかった。何故ならこの事故を君は普通一般の事故と同列視して米軍を特別批判する必要はないと考えたからだ。参加したくはなかったが、同級生に促されて渋々参加した。そして抗議集会に集まった大人を世界情勢を知らない人達だと軽蔑したのだ。
あの小学時の又吉少年の米軍礼賛・沖縄批判の精神は高校生になって数段もヴァージョンアップしていたことがわかる。そして2010年(62歳)から始めたブログは、ずっと今に至るまで米軍礼賛・沖縄批判のスタンスで貫かれている。
中の町のファーストフード店での運命的瞬間まで、僕は君の本当の姿を知らなかったと言うことになる。運命的瞬間に抱いた猜疑心は、君のブログを読むことで敵対心に変わったのである。(続く)
Posted by 金城武男 at 2024年12月21日 14:38