2019年11月01日

首里城が「沖縄の心」?


 首里城が大火災になり、。正殿、北殿、南殿など6棟が焼失したのには驚いた。。新しく建築したのだから防火体制は万全だと思っていたから6棟も消失したのはまさかという気持ちだ。首里城は高台にあるから年中風が吹いている。防火対策は普通以上に気を配らなくてはならない。防火対策は徹底していたはずだから大火災が起こるとは全然予想していなかった。しかし、大火災になり6棟も消失した。
 予想していなかったことがもう一つ起こった。ほとんどのマスコミが、首里城は「沖縄の心」「沖縄の象徴」「県民の心の支え」であるとする報道だったことだ。 
それはおかしい。はっきり言えることは首里城は琉球王国の象徴であることだ。
 五木の子守歌の子守は小作人の子であり小作人はとても貧しかった。貧しい原因は武士支配海峡に搾取されていたからだ。沖縄の農民を搾取していたのが琉球王府である。琉球王府は地割制度をつくり農民の田村への移動も禁じた。首里城は沖縄の農民の貧しさと非自由の象徴である。
 不自由で貧しい農民を解放したのが明治政府の四民平等であった。自由になった農民は政府が設立した製鉄工場、紡績工場、インフラ工事で働くために村を出た。また、東京、大阪などの都市にも移住した。小作人を解放したのが明治政府の四民平等と経済の近代化だった。沖縄の多くの農民が本土の工場で働き、ハワイへ移民もした。琉球王国時代の農民を解放したのが明治政府による琉球処分↓廃藩置県であった。首里城を「沖縄の心」とするのは琉球王府の農民搾取を認めることになる。民ではなく支配者の琉球王府を沖縄と思っているから首里城を「沖縄の心」と思うのである。

一夜にして灰になった首里城に「わが身を引き裂かれたような悲しみと喪失感に沖縄全体が包まれている」と悲嘆した琉球新報社説は、琉球王国は、
「独立した国としてアジア各地へ繰り出す外交・貿易の拠点であった」
と述べ、
「1879年に松田道之琉球処分官が日本陸軍熊本鎮台分遣隊の一個中隊を伴い首里城に入城し、国王を追放して日本軍の駐屯地として占拠され、王国の崩壊とともに苦難の歴史をたどった」
と述べている。
王家が苦難の歴史をたどったというのは嘘である。王家は政権は失ったが莫大な土地と財産は私有した。だから明治以降は裕福な生活を送ったというのが歴史的事実だ。
県民大衆の味方であってほしい新報社説が農民を搾取した支配者琉球王府の味方につていることはな残念である。明治政府が琉球王国を処分して四民平等の沖縄したことを新報社説は琉球処分によって沖縄が苦難な道を歩んだと認識している。苦難な道であったかもしれないが農民にとっては琉球王国時代に比べて自由であるし努力して豊かになれる夢を持つことができた。沖縄の民の味方をしたのは明治政府であって琉球王府ではない。

 首里城は「沖縄の心」ではない。沖縄の民を搾取した琉球王国の繁栄の象徴であるが、それは遠い昔のことである。今の首里城は文化遺産である。首里城は文化遺産以上の存在でもなければ以下の存在でもない。
 文化遺産である首里城への個人的な思いは自由である。「沖縄の心」と思う人、「心の支え」と思う人もいれば私のように「沖縄の民の搾取の象徴」と見る人も居る。「観光客を増やすため」と思う人もいるだろう。そして、特別な感情のない人も居る。文化移設に思いを持つのはそれぞれの人の自由である。しかし、多くの読者と権威を持っている新報社説は普通の人ではない。多くの読者は新報社説を信頼する。新報社説は民主主義を基本にしていると思っている人も多い。しかし、今回の新報社説は農民を搾取した琉球王国の味方をしている。それでいいのだろうか。民の味方の面をしながら実は支配者の味方しているのが琉球新報社説だと皮肉を言いたくなる。


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