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2015年07月08日

辺野古の真実を捻じ曲げた翁長知事


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
4月30日より県内書店で発売しました。

本の説明はこちら





県内取次店
沖縄教販
○県外は書店で注文できます。
県外取次店
(株)地方小出版流通センター

「沖縄に内なる民主主義はあるか」
第六章 八重山教科書問題はなにが問題だったか全文
第五章 普天間飛行場の移設は辺野古しかない全文
第四章 基地経済と交付金の沖縄経済に占める深刻さ全文
第三章 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の真っ赤な嘘全文
第二章 命どぅ宝とソテツ地獄全文
第一章 琉球処分は何を処分したか全文

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辺野古の真実を捻じ曲げた翁長知事


翁長雄志知事は1950年(昭和25年)那覇市(旧真和志村)大道に翁長助静の三男として生まれた。父親は、後に那覇市と合併する前の旧真和志市の最後の市長になった翁長助静(じょせい)氏である。
翁長雄志知事の略歴
1975年(昭和50年) 法政大学法学部法律学科卒業
1985年(昭和60年) 那覇市議会議員に初当選
1992年(平成4年) 沖縄県議会議員に初当選
2000年(平成12年) 第28代那覇市長に就任
2012年(平成24年) 第31代那覇市長に就任(4期)
2014年(平成26年)11月16日 県知事選に初当選
翁長知事は35歳の時に那覇市議会議員に初当選し、二期務めた後に沖縄県議会議員に初当選した。県会議員を二期務めた後に那覇市長に初当選した。那覇市長になるまで那覇市市会議員、県会議員をそれぞれ二期ずつ務めている。翁長知事は堅実に階段を一歩一歩上って那覇市長の座についた。那覇市長を4期務めた後に県知事選に挑み当選した。

翁長家は沖縄の保守政界を代表する名門であった。父の助静氏は琉球政府の立法機関だった立法院の議員にもなり、翁長知事の兄の助裕(すけひろ)氏は沖縄県議から副知事まで昇りつめた人物である。父の助静氏は立法院選で落選の経験があり、兄の助裕氏は知事選で苦杯をなめた経験がある。
 翁長知事が政治家になったのは父助静と12歳上の兄助裕氏の影響が強かっただろう。特に兄の影響が強かったのではないだろうか。

翁長 助裕の略歴
1936年(昭和11年)3月14日、沖縄県那覇市古島に生まれる。1959年(昭和34年)に法政大学法学部政治学科を卒業、1962年(昭和37年)に法政大学大学院社会学研究科政治学専攻修士課程を修了し、琉球政府計画局に入る。
1972年(昭和47年)に沖縄県議会議員(2期)に当選する。1977年(昭和52年)に新自由クラブ沖縄県連代表に就任し、1979年(昭和54年)の衆議院沖縄県全県区に新自由クラブ公認で出馬するが落選する。1980年(昭和55年)に沖縄県教育委員(2期)、1984年(昭和59年)から教育委員長(3期)を務める。
1987年(昭和62年)に沖縄県出納長、1988年(昭和63年)に沖縄県副知事に就任する。副知事退任後は、1994年(平成6年)58歳の時に沖縄県知事選挙に立候補するも現職大田昌秀に敗れる。その後、那覇空港ビルディング会長、沖縄県環境科学センター会長、国際ビル産業会長などを歴任した。
2011年(平成23年)1月15日に死去、74歳。
助裕氏は36歳で県議会議員になっている。自民党から離脱した新自由クラブ沖縄県連代表に就任し衆議院選に立候補したり県知事選に立候補した助裕氏は意欲的な政治家であっただろう。政治家として才能あふれた人物であったことが想像される。県会議員になったのは助裕氏は36歳、翁長知事は42歳の時である。県知事選に立候補したのは助裕氏は58歳、翁長知事は64歳である。助裕氏は衆議院選、県知事選で敗北するが翁長知事は県知事選で勝利している。那覇市議会議員からこつこつと昇っていって確実に勝利した翁長知事と兄助裕氏は対象的である。兄助裕氏が秀才型であるなら翁長知事はこつこつ型である。

新自由クラブ
ロッキード事件で田中角栄前首相に捜査の手が及ぶなど政治倫理が大きな政治課題に上っていた頃、既に自民党を離党していた衆議院議員の河野洋平・田川誠一・西岡武夫・山口敏夫・小林正巳と、「自民党はすでに歴史的役割を終えた」として、少し遅れて離党した参議院議員の有田一寿が1976年6月25日に「保守政治の刷新」を掲げて新自由クラブを結成した。運営面での混乱が目立ち、政策的にも新味さを打ち出せず、1979年の第35回総選挙では4議席と惨敗した。
1986年の第38回総選挙では自民党が大勝する一方で、新自由クラブの結果は6議席と振るわなかった。再び自民党単独政権となる中で、新自由クラブは解党のうえ、大多数のメンバーが自民党に復帰した。

革新が強い沖縄で保守政治家の子に生まれ育った翁長知事は、周囲に嫌がらせを受けることもあったという。父親が立法院議員選挙で落選した時、(教室の)黒板に翁長助静、相手側候補の平良良松と書いて、平良良松氏のところに二重丸をして、翁長知事の担任が万歳三唱をした。この時の体験を翁長知事は「保守の側に家族を持つ者としては、大変耐え切れないところがございました」とくやしかった気持ちを述べている。翁長知事が小学六年生の時である。翁長知事にとって父親の落選は大きなトラウマとなっただろう。
 中学生の時には
「兄貴が(琉球政府の)立法院議員に立候補した。そうしたら学校の先生が150人くらいで、相手候補の名前を連呼する。ぼくは1人で『オナガ、オナガ』と。向こうの中におやじの妹といとこがいて、後で『ごめんね、ああしないと村八分になる』」という体験もした。

兄の助裕氏は新自由クラブ沖縄県連代表になり衆議院沖縄県全県区に出馬している。優秀な政治家であったと思う。翁長知事にとって助裕氏はあこがれの存在であったのではないだろうか。しかし、助裕氏は衆議院選と知事選に敗れている。父の助静も立法院議員選挙で落選した。父兄の落選は翁長知事のトラウマとなっただろう。翁長知事は父兄の落選を体験し、選挙には絶対に勝つのだという強い信念が生まれたと思う。翁長知事は那覇市会議員、県会議員、那覇市長、そして県知事と一度も落選していない。順風に乗って県知事に上り詰めたように見えるが、父兄の背中を見て育った翁長知事には選挙には必ず勝つという強い執念があり、勝つためには全身全霊を尽くしたからこそ常勝したのである。しかし、翁長知事は勝ちにこだわりすぎたために保守政治家としての理念を見失つてしまった。

 県会議員の時、翁長知事は普天間飛行場の県内移設の推進派であった。

 普天間飛行場と嘉手納飛行場以南の返還について、復帰後これまでに返還された土地面積を上回る在沖米軍施設面積の約21%相当が返還されることを当時の翁長知事は指摘し、基地返還アクションプログラムで第一期(2001年まで)に返還を求めている施設のほとんどが返還されることを強調している。基地問題は、国際社会や県民の安全保障、県土の有効利用、地主や雇用員の生活、環境保全、総合交通体系、跡地利用や経済振興策を検討した上で有機的かつ整合性のあるトータルプランの中で対応するべきであると述べ、「普天間基地のその危険性にかんがみ早期の返還を実現する。跡地の活用については、振興開発のモデル地区として沖縄経済の自立化に資するよう国家プロジェクトによる開発を進める」ことを強調した。翁長知事の県会議員時代は普天間飛行場の県内移設の推進派であった。翁長知事は平成11年の県議会では県内推進を主張する演説を行った。

さらに今定例会においての知事答弁で、「普天間飛行場の移設については、現在国に提示するための絞り込み作業を進めており、最終的な段階ではありますが、移設後の跡地利用問題や移設先の振興策について、特段の配慮がなされる必要があると考えております。そうした中で、できるだけ早く決定できるよう全力を挙げて取り組んでまいります」と今定例会で力強く踏み込んでいる答弁がございます。
 普天間飛行場移設について、解決に向けての作業が大詰めに来ていることがこれでうかがわれております。
 よって、県議会においても普天間飛行場の返還について一日も早く実現すべく県議会の意思を示すものであります。
「平成11年第6回沖縄県議会(定例議会)
翁長議員の説得力ある演説で普天間飛行場は県内移設の方向に流れた。この年の県議会で野党の反対を押し切り「普天間飛行場の早期県内移設に関する要請決議」を可決させた中心メンバーは翁長議員だった。議会で提案者を代表して提案理由を説明した翁長議員は、基地問題をめぐる大田前知事の姿勢を「オール・オア・ナッシングの姿勢」と批判し、政府との信頼関係を損なったと非難した。決議案に対して共産党から三百くらい質問が出され、ジュゴンや珊瑚のことも言われたが、朝までかかって可決した。同じ年に名護市議会が普天間の移設を容認する決議を可決した時も、幹事長として総指揮したのが翁長議員であった。彼は一貫して、辺野古移設を推進する動きの中にいた。
15年前の辺野古移設推進決議案を可決させた旗振り役だったのが翁長知事だったのである。那覇市長だったときも辺野古移設に賛成していた。しかし、翁長知事は単純に辺野古移設推進をしていたのではない。2012年11月に朝日新聞の「県議時代には辺野古移設推進の旗を振っていましたよね」のインタビューに
 「苦渋の選択というのがあんた方にはわからないんだよ。国と交渉するのがいかに難しいか」
 「革新勢力は、全身全霊を運動に費やせば満足できる。でも政治は結果だ。嫌だ嫌だで押し切られちゃったではすまない。稲嶺恵一知事はかつて普天間の県内移設を認めたうえで『代替施設の使用は15年間に限る』と知事選の公約に掲げた。あれを入れさせたのは僕だ」
翁長知事は県内移設の条件に15年間使用期限を条件に入れたのは自分であったと述べている。なぜ15年間使用期限を条件に入れたかを翁長知事は、「防衛省の守屋武昌さんらに『そうでないと選挙に勝てません』と。こちらが食い下がるから、向こうは腹の中は違ったかもしれないけれど承諾した」とその時の裏事情を話している。つまり選挙に勝つためには普天間飛行場の県内移設を公約に掲げるだけでは駄目であり、「使用は15年間に限る」の条件を付け加えないと選挙には勝てないと翁長知事は考えていたのである。条件を付け加えた理由は沖縄の民意を吸収するためであり、選挙に勝つためである。
 「有権者は、選択肢として今ある政党に一票を投じるしかない。こんな選挙は茶番だと放り出すわけにはいかない。でも沖縄問題について、政党政治が民意を吸収できていないのは確かだ」
 政党政治は本部で公約をつくる。その公約を地方にも強制する。しかし、本部の公約だけでは地方の民意は吸収できないことを翁長知事は知っていた。地方の民意をくみ取る公約を入れないと選挙には勝てないというのが翁長知事の考えである。
 「沖縄の民主議員も、普天間の県外移設を主張したから、党本部とねじれて居づらくなった。もし自民政権になればああなるんだよと、仲間に言っています。自民の拘束力の強さは民主とは違いますよ。『県外移設』『オスプレイ配備撤回』などと議員が言えば、党は容赦ない。でもそれに従った議員は、その次の選挙で必ず落ちます。県民は許さない」
本部の公約に従うだけでは選挙に勝てない。選挙に勝つには沖縄の民意を吸収するための独自の公約をつくらなければならない。独自の公約をつくれば選挙に勝てる。これが翁長知事の選挙必勝法である。翁長知事のいう沖縄の民意を吸収する独自の公約というのは米軍基地の存在を否定し、沖縄から米軍基地を削減していく傾向の公約を掲げることである。
 普天間飛行場の県内移設を公約にしたなら選挙には勝てないと翁長知事は確信していた。しかし、自民党本部の公約であるから拒否することはできない。選挙に勝つためには15年間使用期限を公約にし辺野古に移設するのは15年後には米軍基地を削減することになるのだと主張すれば県民の県内移設への反発を緩和することができる。そうなれば選挙に勝てると翁長知事は予想したのである。翁長知事の想定通り稲嶺候補は勝った。

復帰後の沖縄県の知事歴史
革新・屋良朝苗 1972年~1976年
革新・平良幸市 1976年~1978年  
自民・西銘順治 1978年~1990年
革新・大田昌秀 1990年~1998年
自民・稲嶺恵一 1998年~2006年
自民・仲井眞弘多 2006年~2014年

 初代の県知事は革新の屋良朝苗氏であった。二代目も革新の平良幸市であり、三代目に自民党の西銘順治氏になった。西目知事は三期務めた。四代目は革新の大田昌秀氏であった。大田氏は二期務め、太田氏の次は自民党の稲嶺恵一氏が知事になった。沖縄の知事は革新と自民党が交互に選ばれてきた。その流れからすると稲嶺恵一氏の次は革新候補が知事になってもおかしくはなかった。立候補したのは自民党県連は仲井真弘多氏であり、革新は糸数慶子氏であった。糸数慶子氏は衆議院議員であり知名度は高かった。しかし、勝ったのは仲井真弘多氏であった。糸数候補は普天間飛行場の閉鎖・撤去を公約にしていた。対する仲井真候補は辺野古移設容認であったが、普天間飛行場の3年以内閉鎖・撤去も公約に付け加えていた。稲嶺知事の「代替施設の使用は15年間に限る」と同じである。仲井真候補と糸数候補の普天間飛行場についての争点がうやむやになったことが仲井真候補に有利に働き仲井真候補が当選した。その後、日本政府は3年以内閉鎖・撤去は無理であると発言し、仲井真候補の三年以内の閉鎖撤去の公約は反故にされた。
 仲井真知事の二期目の県知事選の時、那覇市長だった翁長知事は選対委員長を要請されたが、引き受ける条件として県外移設を公約にすることを要求した。仲井真知事は辺野古移設を推進していたので県外移設を公約にすることを渋った。翁長知事は県外移設を公約にしないと県知事選に勝てないと仲井真知事を説得して、公約を県外移設にした。革新候補は宜野湾市長の伊波洋一氏だった。彼は革新の若手ホープであり宜野湾市長に二期当選した。二期目の途中で宜野湾市長を辞め県知事選に名乗り出た。伊波候補も公約を県外移設にしたので普天間飛行場の移設問題は選挙の争点にならなかった。翁長選対委員長の読み通り仲井真知事は楽勝した。
 民主党政権になり鳩山首相は普天間飛行場をできるなら国外移設、最低でも県外移設を宣言し、県外移設をしようとしたが頓挫して辺野古移設に戻った。自民党時代の小泉首相も県外移設をしようとしたができなかった。自民党政権と民主党政権が県外移設をできなかったのだから県外移設は不可能であった。ところが翁長知事は公約を県外移設にすることを主張したのである。沖縄タイムスと琉球新報は識者や革新政治家を動員して県外移設を諦めた鳩山首相を非難し、県外移設は本気にやればできるような印象を県民に与えた。公明党も県外移設を主張していた。そのような状況だったから民意を吸収することが選挙の必勝法であると考えていた翁長知事は県外移設を公約にしたのである。それは革新も同じであった。革新の主張は普天間飛行場の閉鎖・撤去である。しかし、県民は県外移設で盛り上がっていたので公約を県外移設にしたのだった。しかし、革新のいう「県外」は国内ではなく国外であった。国外も「県外」に違いない。革新も県民の民意を吸収するために県外移設を公約にしたのである。しかし、公約が同じなら政権側についている仲井真知事が有利になる。
 県外移設が不可能であることを翁長知事は承知していたはずである。しかし、翁長知事は県外移設を公約にした。翁長知事にとって県外移設を公約にすることは県外移設の実現が可能か不可能かは問題ではなかった。翁長知事が関心あったのは県外移設を公約にすることが当選するかしないかであった。県外移設は翁長知事にとっては選挙に勝つための公約なのだ。
 翁長知事は小学生の時父が落選した経験をし、44歳の県会議員の時には兄が知事選に落選した。父兄の背中を見て育った翁長知事にとって選挙に勝つことがなによりも大事なことであっただろう。たとえ、県外移設の実現は不可能であると分かっていても選挙に勝つために県外移設を公約にしたのである。

 仲井真知事は県外移設を公約にして当選したが、仲井真知事が当選したから辺野古移設計画が進んだことは事実である。もし、革新の伊波氏が知事になっていたら沖縄防衛局の辺野古埋め立て申請は承認しなかったはずである。ボーリング調査はまだ始まっていなかった可能性は高い。辺野古埋め立て申請の承認は仲井真前知事を当選させた翁長知事の功績とも言える。

 県内移設を主張していた時は、「在沖米軍施設面積の約21%相当が返還される」と主張していたが、辺野古移設反対を公約にすると「嘉手納飛行場より南の米軍基地の整理縮小がなされても、専用施設面積の全国に占める割合はわずか0・7%しか縮小されない」と主張するようになった。翁長知事は立つ位置によって県内比21%、全国比0・7%をうまく使い分けるのである。翁長知事は県民の印象操作に長けている。

県内移設→県外移設→辺野古移設反対→代替案は政府が出せ
と方針をころころ変えていった翁長知事

 2011年(平成23年)1月15日に兄の助裕氏は死去する。74歳であった。1994年(平成6年)に助裕氏は沖縄県知事選挙に立候補したが現職大田昌秀氏に敗れた。知事になることは兄の弔いにもなる。兄の死は翁長氏に知事になる決心を強くさせたのではないか。
 翁長氏が知事になることを決心したことが予想できるのがオスプレイ配備反対運動である。オスプレイが配備されるのは宜野湾市の普天間飛行場であった。オスプレイ配備反対は宜野湾市の問題であり県全体の問題であった。ところが那覇市長であった翁長知事がオスプレイ配備反対の先頭に立ち、オール沖縄の結成に奮闘し代表になったのである。オスプレイ配備反対、オール沖縄結成は那覇市長がやるようなことではなかった。しかし、翁長知事は普天間飛行場の野嵩ゲートの前でオスプレイ反対の拳を振り上げ、県民大会の壇上に立ち、オール沖縄の東京行動の先頭に立ったのである。那覇市長であった翁長氏は那覇市の枠を超え沖縄の代表者になったのである。県知事を目指す決心をしていたからオール沖縄の先頭に立ったのである。県知事になるには那覇市民だけでなく県民の多数の支持を得なければならない。翁長知事は県民の翁長支持を拡大するためにオスプレイ配備反対の先頭に立ちオール沖縄の代表になったのである。
 2012年の那覇市長選では革新が対抗馬を立てることができなくて翁長知事は圧勝した。革新の株を奪うオスプレイ配備反対は革新を無力化したのだ。翁長知事の選挙必勝法は那覇市長選でも大成功したのである。米軍基地に反対して革新を支持している民意を吸収するのが翁長知事の考え出した選挙必勝法であり、この必勝法を活用すれば県知事選でも勝利することできるという確信を持っただろう。

 選挙必勝法に自信のある翁長知事は記者の「自民政権に戻っても、翁長さんの主張は変わりませんか」の質問に、
「よく聞かれるよ。自民党政権になっても辺野古移設に反対ですかって。反対に決まっている。オール日本が示す基地政策に、オール沖縄が最大公約数の部分でまとまり、対抗していく。これは自民政権だろうが何だろうが変わりませんね」
と豪語した。

2012年12月衆院選挙は自民党が圧勝して政権に復活する。安倍政権は辺野古移設の推進を進める。翁長知事が言った通り安倍政権は県外移設を公約にして当選した国会議員に辺野古移設容認を迫り、容認しない議員は自民党から除籍すると言った。国会議員全員が辺野古移設容認に変更した。県外移設を主張している翁長氏に逆風が吹いた。それでも県知事になることを翁長氏はあきらめなかった。
2014年の県知事選は自民党県連の仲井真氏と自民党県連から離脱し革新と手を握った翁長氏の一騎打ちとなった。
普天間飛行場問題を放棄した翁長知事
 2012年仲井真知事が県外移設を選挙公約にして以後、翁長知事はずっと県外移設を主張してきた。東京行動の時、建白書には普天間飛行場の閉鎖・撤去の文言しかなかったのに当時那覇市長だった翁長知事は建白書の文言を無視して県外移設を主張し、県外移設が民意であるとの主張を繰り返していた。
県知事選前に仲井真知事が県外移設から辺野古移設容認に変わった時、仲井真知事を非難し、自分は県外移設をずっと主張し続けているぶれない政治家であることを強調した。
沖縄県知事選に立候補した翁長氏は県外移設を公約すると思いきや県外移設ではなく辺野古移設反対を選挙公約にした。
県内移設→県外移設→辺野古移設反対と翁長知事は普天間飛行場問題で三度政治方針を変更したのである。
 知事選に必勝するには県外移設ではなく、辺野古移設反対を公約にすることであると翁長知事は考えたのである。辺野古移設反対は翁長知事のしたたかな選挙必勝戦術から生まれたものである。

 辺野古移設反対を公約にすることは普天間飛行場問題を放棄することであった。翁長知事にとって選挙に勝つたことがすべてであり、普天間飛行場問題の解決は念頭になかった。そもそも実現不可能な県外移設を公約にした時から普天間飛行場問題の解決は翁長知事の念頭にはなかったのだ。辺野古移設反対の公約は翁長知事が普天間飛行場問題の解決に関心がないことを改めて証明したものであった。翁長知事にとってはとにもかくにも選挙に勝つことであった。

知事選前の普天間飛行場の移設先についての県民世論である。

国外移設・・・38・8%
 県外移設・・・38・4%
 辺野古移設・・17・8%
 辺野古以外の県内・・・5%

 沖縄の知事選挙はいつも自民党県連と革新の一騎打ちであった。しかし、2014年の知事選に那覇市長であった翁長氏が立候補に名乗りを上げたことで自民党県連は分裂して仲井真氏と翁長氏が選挙で争うことになった。ずっと革新は知事選に立候補を立てていたから、知事選は、仲井真氏、翁長氏、革新系候補の三つ巴の選挙になるはずだった。
 三つ巴選挙になれば、翁長氏の主張する県外移設は38・4%であるから、翁長氏が当選するのは難しかった。選挙に勝つためにはどうすればいいか。

自民党県連に所属していた翁長知事は保守であることを自認し、日米安保を容認して県外移設をずっと主張してきた。仲井真知事が辺野古移設を容認した時に、「仲井真知事は県外移設から辺野古移設にぶれたが私は県外移設からぶれない」と言い、ぶれない政治家を強調した。県外移設に固執していた翁長知事であったが、県外移設に賛成している県民は38・4%しか居ない。過半数にほど遠い。それに保守層は仲井真知事に流れる人が多いだろう。県外移設だけに固執していたのでは県知事選挙で当選する可能性は低かった。翁長氏が当選するには新しい支持層を獲得しなければならなかった。残っているのは革新支持層である。国外移設と県外移設の支持を合わせると77・2%である。過半数を楽々と越えている。革新の支持を得ることができれば知事選に勝利する確率はぐんと高くなる。翁長知事が知事選挙で勝利するためにはどうしても革新を取りこまなければならなかった。しかし、日米安保容認派の翁長知事と日米安保廃棄派の革新は犬猿の仲であり、翁長知事が革新を取り込むのは困難であった。
選挙に勝つためには手段を選ばないのが翁長知事である。彼は革新を取り込む方法を見つけた。それが沖縄アイデンティティー論であった。翁長知事が考え出したアイデンティティー論とは
「沖縄は一つになって日米政府と対峙しなければならない。そのためには県民同士がイデオロギーで対立しないで腹六分=最大公約数のアイデンティティーで沖縄をひとつにしなければならい」
沖縄を日米政府との対立軸に置き、沖縄が日米政府と闘うにはイデオロギー対立をなくして沖縄アイデンティティーで結束しなければならないと翁長知事は主張した。翁長知事はアイデンティティー論を強調することによって共産党、社民党などの革新を翁長知事支持に取り込む戦術に出たのである。
沖縄アイデンティティーでひとつにするということは県外移設の翁長知事と国外移設の共産党、社民党などの革新陣営が手を組むということである。アイデンティティー論選挙戦術とは、ひとつにまとめることができない政治をあたかも一つにまとめることができたように錯覚させるまやかしの選挙戦術であった。

県外移設は辺野古移設に反対である。
国外移設は辺野古移設に反対である。
県外移設も国外移設も辺野古移設反対である。

県外移設と国外移設には辺野古移設反対という共通性がある。翁長知事はその共通性を利用してアイデンティティー論を持ち出し、国外移設の革新を取り込んだのである。
イデオロギーの塊である共産党や社民党などの革新がイデオロギーを腹六分にすることはできるはずがない。共産党は戦後ずっと公約に日米安保廃棄を掲げている。共産党にとって日米安保廃棄はイデオロギーであるとともにアイデンティティーでもある。共産党が日米安保を容認して県外移設に賛成することは絶対にありえないことである。しかし、巧妙な翁長知事は沖縄アイデンティティー論で共産党を巻き込んだのである。
革新のリーダー的存在である共産党が本気で翁長知事のアイデンティティー論に賛成したとは考えられない。イデオロギーの塊である共産党が翁長知事のアイデンティティー論に巻き込まれるはずはない。共産党が翁長知事のアイデンティティー論に賛同し、翁長知事支持に回ったのは、革新の深刻な内部事情があった。それは革新が知事選や市長選で敗北が続いたことである。革新は前回の県知事選に敗北し、宜野湾市長選、石垣市長選、那覇市長選と名護市長選以外は自民党に敗北していた。
名護市長選では革新の稲嶺進氏が勝ったが、知事選、石垣市長選、宜野湾市長選、那覇市長選と自民党が勝ち続け、革新の勢いは弱体化していた。革新は知事立候補として高良鉄美琉球大学教授に絞っていたが、高良氏を知事選の立候補にするのをためらっていた。高良氏は知名度が低いし、勢いが衰えている革新が高良氏を当選させるのは困難であったからだ。依然のように革新が強い勢力を維持していたなら、高良氏を当選させることができたかも知れないが、石垣市長選、宜野湾市長選、那覇市長選で敗北したように革新は昔ほどの勢いはなく、知事選で高良氏を当選させることは困難であった。
革新は落選確実の高良氏を立候補にするより、当選可能な翁長氏を支持して政治的な影響力を維持することを選んだ。だから革新は、知事候補について、「埋め立て承認を撤回との基本姿勢を崩さなければ、他の政策は候補者の考えを尊重する」という姿勢に変わった。政局に影響力を持ちたい革新と県知事選に勝利したい翁長知事の利害が合致したのが辺野古移設反対を選挙公約にすることであった。
翁長陣営と革新は辺野古移設反対で同じあっても、普天間飛行場の移設については、翁長氏は県外移設であり、革新は国外移設、閉鎖・撤去であった。保守の翁長陣営と革新とは元々は対立関係にあるから主張をひとつにまとめることは不可能であった。

翁長陣営 ― 県外移設・・・・・・・・・国内移設、米軍の国内駐留容認・・・・・・日米安保容認
革新陣営 ― 国外移設、閉鎖・撤去・・・米軍基地の日本からの撤去・・・日米安保廃棄

国外移設、閉鎖・撤去を主張するのは日米安保廃棄を目指しているのであり、国内移設を認めることはできない。反対に県外移設を主張するのは中国や北朝鮮の抑止力として米軍の存在を認めているから日米安保を容認していて国外移設、閉鎖・撤去を認めることはできない。県外移設と国外移設の根本的な問題は日米安保に賛成か反対かの問題であり、水と油の関係である。二つが手を組むことはあり得ないことであった。しかし、水の翁長氏と油の革新はお互いの欲望のために手を組んだのである。

日米安保廃棄と日米安保容認をひとつにすることはできない。しかし、最大公約数である辺野古移設反対は共通している。共通を根拠に翁長氏は辺野古移設反対を選挙公約にしたのである。
翁長知事の選挙公約はアイデンティティー論で考え出した辺野古基地建設反対である。しかし、翁長知事のアイデンティティー論は県外移設と国外移設、閉鎖・撤去の相容れない主張をそのまま放置した状態であり、もし、辺野古移設が阻止できたとしても普天間飛行場の県外移設には革新が反対し、国外移設、閉鎖、撤去は翁長知事派が反対するからどっちの主張も破綻してしまう。つまり、辺野古移設反対の選挙公約は普天間飛行場の解決を放棄してしまう選挙公約であった。普天間飛行場問題を真剣に考えるなら、翁長知事は革新と徹底して話し合い、普天間飛行場の県外移設かそれとも国外移設、閉鎖・撤去かの一つに絞るべきであった。しかし、普天間飛行場移設問題に関しては翁長陣営と革新陣営が話し合うことはなかった。翁長陣営は知事選に勝つことが目標であり革新陣営は辺野古移設を阻止することが目標であった。両陣営にとって普天間飛行場はどうでもよかったのである。普天間飛行場問題の放棄が辺野古移設反対公約であったのだ。

知事選で言動が二転三転した翁長知事
県外移設も辺野古移設反対も一貫した政治理念を根拠にしていないから、知事選挙が始まると翁長立候補の言葉は二転三転するようになる。選挙戦の初めのころはオール沖縄の建白書の実現を強調し、辺野古移設反対であることを繰り返していた。ずっと主張していた県外移設を口にしないようになった。県外移設を主張すれば革新の閉鎖・撤去と対立しているように思われる可能性があったからだ。
 だが。辺野古移設反対だけを主張するのはすぐに行き詰る。辺野古移設問題は元々は普天飛行場問題をどのように解決するかということであった。辺野古移設反対を主張するだけでは普天間飛行場問題の解決にはならない。記者から普天間飛行場はどうするのだという質問が出た。翁長知事は世界一危険な普天間飛行場は世界からの圧力で閉鎖せざるを得なくなるから、自然消滅するというような発言をするようになった。しかし、そのような説明はすぐに行き詰る。自然消滅論は記者の疑問に答えるのには不十分であった。
。自然消滅論を言えなくなった翁長知事は自然消滅論の代わりに封印していた県外移設を再び言うようになった。県外移設は公明党や保守層の支持を得るためにも主張する必要があった。辺野古移設反対だけを主張すると、革新の主張する国外移設、閉鎖・撤去に巻き込まれ、翁長氏が革新と一心同体になったのではないかと保守層が危惧する恐れがあった。だから保守層の支持を得るためには県外移設を口にする必要があったのだ。
しかし、県外移設だけを言えば革新票が逃げるかも知れない。だから、翁長知事は県外移設に国外移設を加えて「県外移設、国外移設」を言うようになった。

「けさ、糸満市摩文仁の魂魄の塔に手を合わせた。政治は平和が原点だと心から思った。国土の0・6%の面積の沖縄に米軍基地を押し付ける理不尽さは絶対に許せない。『建白書』にある通り普天間飛行場は国外・県外に移設、県内移設反対。辺野古新基地はありとあらゆる手段を尽くして造らせない。オスプレイ配備を撤回させる。知事選でしっかりと県民の意思を示そう。沖縄の子や孫が故郷に誇りと自信と志を持ってアジアや世界に雄飛していけるような将来を実現できるよう、必ず当選したい。力を貸してください」(翁長発言)

建白書には県外移設の文言も国外移設の文言もない。閉鎖・撤去の文言があるだけである。建白書には県外移設、国外移設はないのに建白書にあると平気で嘘をつくのが翁長知事であった。
保守・革新の票を得るために翁長知事は、建白書の実現を主張し、それから辺野古移設反対に変わり、次に普天間飛行場の自然消滅を言い、舌が乾く間もなく県外移設を言い、選挙終盤になると県外・国外移設を言うようになったのである。わずか一か月足らずの選挙戦で翁長立知事は4回も主張が変わったのである。翁長立知事はぶれないことを売りにしているが、実はぶれっぱなしなのが翁長知事であったのだ。
県知事になるためには保守の票も欲しい、革新の票も欲しいと、保守としての政治理念を捨て、ただひたすら票獲得のために奔走したのが翁長知事であった。

 知事になることだけが唯一の目標であった翁長知事の本音は県外移設でも国外移設でも閉鎖・撤去のどっちでもよかった。もっとつきつめて言えば、翁長知事の本音の本音は普天間飛行場の固定化でも辺野古移設でも県外移設でも国外移設でもなんでもよかったのだ。つまり、普天間飛行場なんかどうでもよかったのだ。翁長知事の本音の本音は県知事になることであった。県知事になるために革新の票を取り込むアイデンティティー論を考えだし、選挙戦の後半では県外移設・国外移設を口にしたのである。
オスプレイ配備反対、東京行動、アイデンティティー論、県外移設・国外移設は県知事になるための選挙戦術であった。翁長知事には政治理念はない。ただひたすら沖縄政界の頂点である県知事になりたいだけであった。そして、念願通り県知事になった。

 12歳年上の兄助裕氏がなしえなかった県知事への夢を弟の翁長雄志氏は実現した。兄の弔い合戦に勝った翁長知事は感無量であったと思う。沖縄二紙には兄助裕氏のことは報道されていないが、私はそう思う。


知事になると「県外移設」から「日本の国の政治の堕落」に変わる
4月5日(月)に翁長知事は菅官房長官と会談をした。会談で普天間飛行場問題について翁長知事は次のように述べた。
「自ら奪っておいてですね、県民に大変な苦しみを今日まで与えて、今や世界一危険だから、普天間危険だから大変だという話になって、その危険性の除去のために沖縄が負担しろ、と。お前たち代替案は持っているのか、日本の安全保障はどう考えているんだ、と。沖縄県のことも考えているのか、というこういった話がされること自体が日本の国の政治の堕落ではないかと思っております」。
仲井真知事が県外移設の公約から辺野古移設容認に変更したことを非難し、県外移設を貫き通したことをぶれない政治家として誇っていたのが翁長知事だった。選挙の時も県外移設を主張した。県議会2月定例会では、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設について「多くの県民の負託を受けた知事として『辺野古に新基地は造らせない』ということを県政運営の柱にして普天間飛行場の県外移設を求めていく」と県知事として県外移設を政府に要求することを強調した。そうであれば待ちに待った菅官房長官との会談では県外移設の主張を真っ先に言うはずであった。ところが会談では一言も県外移設を口にしなかったのである。それどころか翁長知事は辺野古移設の代替案を沖縄に要求するのは日本の国の政治の堕落であると言ったのである。政府は辺野古移設が唯一の方法であると主張してきたのであり、辺野古移設に反対なら代替案を出せと沖縄に要求したことは一度もない。それなのに翁長知事は「お前たち代替案は持っているのか」と政府が沖縄に代替案を要求したように話している。それは翁長知事のでっち上げである。なぜ話をでっち上げたか。理由はひとつである。翁長知事は県外移設を菅官房長官に要求することができなかったからである。なぜ要求することができなかったのか。理由ははっきりしている。翁長知事自身が県外移設は不可能であることを知っていたからである。
翁長知事は2010年の県知事選の時に仲井真知事に辺野古容認から県外移設に選挙公約を変更させたが、その時に県外移設は不可能であることを翁長知事は知っていた。知っていたのに選挙公約にしたのは選挙に勝つためであった。県外移設が不可能であることを知っていたから菅官房長官に県外移設を要求しなかったのである。
辺野古移設反対を主張するなら普天間飛行場をどうするのかを質問される恐れがある。選挙の時も同じことを記者に質問された。その時は世界一危険な普天間飛行場は自然消滅をすると言って失笑された。翁長知事は菅官房長官に県外移設を要求することも自然消滅を主張することもできなかった。しかし、辺野古移設の代替案を出さなければ普天間飛行場が固定化することを認めることになる。代替案を出せない翁長知事が苦肉の策としてひねりだしたのが「県に代替案を出せというのは政府の堕落である」の論である。翁長知事は政府の堕落を言いたかったのではなく「県に代替案を求めるな」と言いたかったのである。
4月5日(月)の菅官房長官と翁長知事会談ではっきりしたのは県外移設は辺野古移設の代替案にはならないことを翁長知事自身が認めたことであった。そして、辺野古移設の代替案を翁長知事は持っていないことであった。
 

翁長知事は普天間飛行場の県内移設の推進派であった時は、普天間飛行場と嘉手納飛行場以南の返還について、在沖米軍施設面積の約21%相当が返還されることを指摘し、基地返還アクションプログラムで第一期(2001年まで)に返還を求めている施設のほとんどが返還されることになると強調していた。ところが辺野古移設反対を主張するようになると「嘉手納飛行場より南の米軍基地の整理縮小がなされても、専用施設面積の全国に占める割合はわずか0・7%しか縮小されず、返還時期も含め、基地負担の軽減とはほど遠いものであります」と県内比ではなく全国比に変更して0・7%しかないことを強調したのである。その場その場をうまくこなして県民の支持を我がものにするのが翁長知事のやり方である。
翁長知事は沖縄をよくしていこうという政治家ではない。当選することが唯一の目的である政治屋である。知事になるまでは人気を得ることで成功した。しかし、知事になると現実の政治問題に直面する。相手は県民ではなく政府である。辺野古移設問題は政府との闘いになる。



県知事になった翁長氏は「あらゆる手法を駆使して辺野古に新基地は造らせないという公約の実現に向け全力で取り組む」と宣言して辺野古移設阻止に動いた。

翁長知事は米軍普天間飛行場の辺野古移設に関する前知事の埋め立て承認を検証するため、外部有識者でつくる専門家チーム「第三者委員会」を結成した。
 委員会は
(1)公有水面埋立法に基づいて行った審査の手続き
(2)同法の基準に適合しているとした県の判断―
の2点に関し、法律的な瑕疵(かし)がなかったかどうか検証することが目的である。
しかし、「第三者委員会」は公的な機関ではなく翁長知事の私的な機関である。「第三者委員会」に法的な権限はない。「第三者委員会」が瑕疵があると宣言してそれを理由に翁長知事が埋め立て申請を取り消しても法的な効力はない。だから、埋め立てを止めることはできない。埋め立てを止めるには翁長知事が訴訟を起こしで瑕疵があることを裁判官が認め、裁判所が埋め立て工事を阻止する判決を下した時である。しかし、阻止する判決が下ることはないだろう。

翁長知事は県が岩礁破砕を許可した区域の外でトンブロックを投下している可能性が高いとして、指示に従わない場合は「取り消しも視野にある」と明言したが、トンブロックは辺野古移設反対派がボーリング調査台船に接近しないように設置した進入禁止フロートのアンカーである。岩礁破砕許可とは関係のない進入禁止のためのトンブロックであるから岩礁破砕許可の法的束縛は受けない。

翁長知事は県民、国民、国内外の記者たちの人気取りには成功しているが、政治的取引には苦戦している。普天間飛行場は辺野古移設が唯一であるのだから辺野古移設を阻止することは翁長知事にはできない。あらゆる方法を駆使しても。

辺野古の真実とは普天間飛行場の移設は辺野古しかないということである。翁長知事が県外に普天間飛行場を移設できると県民に信じさせた県外移設公約は辺野古の真実を捻じ曲げたものである。

辺野古移設反対の公約は普天間飛行場の移設問題を放棄したものである。普天間飛行場の危険性除去から始まったのが県内、国外の移設問題であった。多くの移設候補地の中から最終的に決まったのが辺野古であった。翁長知事の辺野古移設反対は辺野古移設が決まるまでの過程を捻じ曲げるものである。そもそも翁長知事の辺野古移設反対の公約は政治理念に基づくものではなく選挙に勝つための不純な動機であった。

翁長知事は政治家の原点に戻るべきである。

2015/06/18 に公開
平成27年6月18日木曜日に放送された『沖縄の声』。沖縄県議会の6月定例会が16­日開会し、与党5会派が埋め立てで使用する土砂など埋立用材に特定外来生物が侵入しな­いよう防止する条例案を提案、それにより沖縄の各地で行われている埋め立て工事の工期­の遅れが心配される。本日は、2つのテーマ「なぜ土砂条例が必要なのか?なぜ埋め立て­に県外の土砂が使われているのか?」キャスターのsacom氏に詳しく解説していただ­きます。
※ネット生放送配信:平成27年月6月18日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
ゲスト
 sacom(沖縄支局担当キャスター・つり人)


2015/06/25 に公開
平成27年6月24日水曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、6月23日に糸満市平­和祈念公園にて行われた慰霊際を政治的な発言の場に利用した翁長知事、そして、沖縄の­被害者意識を詩に書いた落合恵子の「沖縄の辞書」についてキャスターの又吉康隆氏が徹­底批判します。
※ネット生放送配信:平成27年6月24日、19:00~
出演:
 又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)


次回放送は平成27年7月8日水曜日


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この記事へのコメント
ここまで前記事のコメントだとみ見ていないかもしれませんが、最近、入管通報用の調査と通報に合わせ、沖縄の反日ブログを調べていました。確かに洗脳が進んでいるのも見受けられます。明らかな離間工作・侵略工作も多い。リチャードコシミズとか。
傾向として

①名前がない
②朝鮮を捨てごまにして(北側攻めに寄せ)離間工作。
③★中国の悪事に触れない。徹底してここ!★
④★欧側の湯田屋にはあまり触れない。
⑤★ロシアに触れない。ロシアを上げている。

日本の他地域は②南北朝鮮から排除を行っていますが、沖縄は侵略が一歩進んでいるので本命の③を徹底して叩かないとまずいと思います。そして沖縄に限っては、状況によっては⑤ロシア④英国湯田屋に踏み込んで揺さぶりをかけないとまずいかもしれないと思いました。
本命中国に集中すべきと思いますが、中国の情勢にあわせ⑤④も視野にいれてはどうでしょうか? 
あくまで視野にいれるという範囲です。疑心暗鬼に捕われる可能性もありますが、華僑・華人へのプレッシャーと一部の沖縄県民の洗脳を解くには効果的かもしれません。ここを超えないと冷静な判断もしがたい。
Posted by 匿名 at 2015年07月26日 11:53
 
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