てぃーだブログ › 沖縄に内なる民主主義はあるか

2012年05月18日

文芸社からメール便が来た

ブログを書き終わった時に文芸社からメール便が来た。「沖縄に内なる民主主義はあるか」の書評と自費出版した多くの本の紹介やヒットした本を紹介するパンフレットが入っていた。
文芸社の書評です。

沖縄在住の著者による沖縄論である。感情論を避けて冷静な分析が心がけられている。五章からなる本作のキーワード、それは表題にもなっている民主主義だ。冒頭に置かれた論考でまず、沖縄県民からは現在でも否定的に捉えられがちであるという琉球処分を明治政府の近代化政策の流れに即して再検証し、既得権益や身分制度からの脱却を促したと肯定的に評価する。第二章では、反戦平和スローガンとしての「命どぅ宝」なる言葉に着目、「ソテツ地獄」と称される度重なる飢饉のなかで発せられた農民たちの悲痛な叫びに端を発することに気付いた著者は、このスローガンには民主主義的思想が欠落していることを喝破する。このように精緻なる歴史的思考を積み重ねることによって、沖縄はもとより日本という国自体にも、いまだ真の民主主義が根付いていないことを明示している。こうした現況を厳しく見据えた上で、本作後半においては、米軍基地問題や教科書採択問題をめぐって、真の民主主義に裏打ちされた混迷脱却への処方が具体的に供されることとなる。淀みなく質の高い筆致、説得力に漲(みなぎ)る充実した議論によって届けられる提言はどれも有意義かつ建設的なものばかりで、先行き不透明な沖縄の将来に明瞭なビジョンが灯されるのを見る思いがした。

ただ、書籍化を目指すのであれば気になるところもないではなかった。何よりも気にかかったのは、ウィキペディアからの引用が多く見られた点である。ウィキペディアの情報が正しいか否かを実際に資料に当たって確認する気概を求めたい。また、本作の執筆動機や著者の略歴を読者に伝える序文もしくは後記は不可欠である。

以上が文芸社の書評である。

書評を読んで感じたのは、さすが書評のプロだということである。私が主張したいことを的確にとらえている。これには感心した。「淀みなく質の高い筆致」などと褒められてその気になる年齢ではないから(推敲をするたびに自分の文章力のなさに落ち込んでいる)、書評の「よいしょ」には苦笑するだけであるが、できるだけ感情的にならないで淡々と書くことを心がけたことを指摘してくれたのはうれしい。

ウィキペディアの多用は私も気にしているが、私のような素人が政治や歴史資料を利用することができたのはウィキペディアがあったからであり、ウィキペディアがなければ「沖縄に内なる民主主義はあるか」を書くことはできなかった。
ウィキベディアの情報が正しいかどうかを確かめるには膨大な書物を調べなければならないから学者でもない私には不可能だ。若いころに勉強したことと内容が一致している部分を引用しているからウィキペディアの信憑性は高い。
「沖縄に内なる民主主義はあるか」が書けたのはウィキペディアとWEBで公開している県のPDF資料があったからである。WEBの登場によって私のような素人でも学者なみに資料を集めることができ、本を書くことができるようになったのはすばらしいことである。

  

2012年05月18日

八重山日報社もダメだった

八重山日報http://www.yaeyama-nippo.com/は、八重山教科書問題の報道では沖縄タイムスや琉球新報のように育鵬社版の教科書を採択した八重山地区採択地区協議会の玉津委員長を一方的に避難するのではなく、客観的な立場で報道をした新聞社である。
八重山日報社なら県内の出版社を紹介してもらえるかもしれないと思い、もし出版社を知っていたら紹介してくれるようにという手紙を原稿と一緒に送った。

一昨日八重山日報社から電話があり、残念ながら紹介できる出版社はないし、印刷ならできるが、編集・添削をやる余裕はないということだった。

沖縄タイムスは自費出版を募集しているので昨日タイムスに原稿を送った。タイムスは費用が高いことと、「沖縄に内なる民主主義はあるか」の内容はことごとく新聞社の主張とは反対の内容だから自費出版を依頼するのを敬遠していた。
しかし、まさかのボーダーインクに自費出版を断られた私に余裕はない。私からタイムスを敬遠するなんて贅沢だ。ボーダーインクより出版費用が20万円くらい高いが、その代わりタイムスは新聞で宣伝してくれるので宣伝費用と考えれば高いとは言えない。タイムスが出版してくれるのならありがたいことである。

表現の自由をモットーとしているのが新聞社だから私の本も出版してくれるだろう。そうあるべきだ。私の原稿は法律に違反するような内容ではない。ボーダーインクのように自分とは反対の思想を排除するような出版社が間違っている。
編集者の思想を基準にして自費出版をするしないを決めるのは憲法の表現の自由に反する行為だ。自費出版を募集している出版社なら思想・信条で取捨選択してはいけない。
ボーダーインクのことを考えると怒りが湧いてくる。しかし、私も大人だ。ボーダーインクが出版しないのは事実であり、怒ったところで出版できるわけではない。無駄な怒りはやめよう。

今はタイムスの連絡を待つだけだ。

狼魔人さんhttp://blog.goo.ne.jp/taezaki160925から「月刊やいま」を発刊している南山社が自費出版を募集しているというメールが入った。さっそくWEBで調べてみた。たしかに南山社は自費出版を募集している。
原稿を送ってみよう。


  

2012年05月17日

アメリカ兵と沖縄女性のカップルが両隣りに住んでいた


50年以上も前のことである。私の家の両隣りにトタン屋根の貸家があり、アメリカ兵と沖縄女性のカップルが住んでいた。西側の家は二つに分けてあり、二組のカップルが住んでいた。私たち子供のグループは時々縁側に座り、カップルと話したりした。
アメリカ人に興味深々な私たちは色々質問したりしたと思うが、話の内容は覚えていない。
村には十軒くらい貸家があり、アメリカ兵と沖縄女性のカップルが住んでいた。アメリカ兵の独身者が住んでいる家はなかった。今から考えるとカップルは村の中で住んでいいが、独身のアメリカ兵が住むのは婦女暴行などのトラブルが起こることを考慮して禁じていたかもしれない。

沖縄人の恋人同士が堂々と通りを歩くことがなかった時代にアメリカ兵と沖縄女性のカップルはアベックで歩いていたからとても目立った。カップルで歩いているだけでイチャイチャしているように見える時代だったから大人たちには迷惑がられていただろう。アメリカ兵の彼女である沖縄女性を私たちはアメリカハーニーと呼んでいた。

沖縄女性がアメリカ兵に魅かれた理由はアメリカ人が持っている自由さだった。沖縄はまだまだ男尊女卑の風習が強く、女性に自由はなかった。沖縄の男尊女卑の世界から解放されたい女性は多かっただろうし、アメリカ人と接することによってアメリカ人の持っている自由やレディーファーストの世界を知り、アメリカ兵に魅かれただろう。いや、「だろう」ではない。「である」である。子供の頃に私は沖縄の女性の口から何度も「沖縄の男には女性の自由がないけど、アメリカ人には自由がある」と聞いた。

アメリカ兵と沖縄女性のカップルが話し合う様子は友達のようであった。女は堂々としていて、へりくだるような態度を見せなかった。男尊女卑が内在している沖縄の生活をしている私には女性がいばっているように見えたものだ。

東隣りの家にはテレビがあったので、グループで時々テレビを見に行った。女性と二人だけで過ごしたいアメリカ兵は私たちが家に入ると不機嫌な顔をした。しかし、主導権を握っているのは沖縄女性のほうであり、私たちはアメリカ兵が持ってきたお菓子を食べながら見たいチャンネルが見れた。若いアメリカ兵は、私たちが日本放送を見ている間は後ろのほうで詰まらなそうに座っていた。

アメリカ兵といっても、彼らには日本軍人のような威圧は全然なかった。彼らは陽気でフレンドリーな普通の人間だった。

  

2012年05月16日

表現の自由が民間社会で弾圧されているのが沖縄だ

狼魔人さん(ブログhttp://blog.goo.ne.jp/taezaki160925)に会って出版について相談したが、狼魔人さんからとんでもない話を聞いた。表現の自由をモットーとして、アメリカ政府や日本政府の沖縄問題の情報隠しを非難し、政府の言論弾圧を非難している沖縄の新聞社が言論弾圧をしているというのだ。

渡嘉敷島や座間味島の集団自決が日本軍の強制であるのは有名な話である。沖教祖、マスコミは渡嘉敷や座間味の集団自決が日本軍の強制であることを教科書に掲載するように文科省に強く要求している。

しかし、上原正念さんが、集団自殺は日本軍の強制はなかったと書こうとした時に琉球新報への掲載を拒否された。星雅彦さんも集団自殺は日本軍の強制がなかったと主張したために琉球新報からほされたというのだ。
上原正念さんはアメリカの公文書を調べてその事実を知り、星さんはずっと昔に現地を調査して分かっていたが、国からの自決した人々の援護金は日本軍の強制がないと出ないという複雑な事情があり黙っていたそうだ。

今まで梅沢隊長についてのインタビューの記事がなかったから、すでに梅沢隊長は死んでいると思っていた。ところがそうではなかった。座間味の集団自決を強制したと言われている梅沢隊長は現在も健在であるのだ。沖縄タイムス、琉球新報は集団自決の張本人と言われている梅沢隊長への取材を今まで一度もやっていないそうだ。驚くべき事実である。
梅沢隊長が自決命令を出さなかったと座間味島で言い続けている宮平秀幸さんという人ががいるが、彼の主張を沖縄のマスコミは封殺している。梅沢氏と宮平氏の証言を見れば、日本軍が集団自決を命じたことが真っ赤なウソであることが分かる。



ブログをやる前はちょくちょく新聞投稿をやっていたが、辺野古移設に賛成したり、普天間第二小学校はB52重爆撃機が墜落炎上した翌年の1969年に宜野湾市がつくったのであり、宜野湾市に責任があるという内容の投稿は掲載されたが、渡嘉敷、座間味の集団自殺について、自らの死を最終的に決断するのは自身であり、「手りゅう弾をあげたのは日本軍であるが、手りゅう弾を爆発させたのは教育である」という内容の投稿は掲載されなかった。あの時には表現がきつかったから掲載されなかったのかなと考えていたが、もしかすると、「自らの死を最終的に決断するのは自身であり」の内容が原因で掲載されなかったかもしれない。

米軍基地問題でも基地に賛成する意見はほとんど封殺されているのは知っているが、まさか、慶良間、座間味の集団自決が完全なでっち上げであったとは信じられないことである。

「沖縄に内なる民主主義はあるか」の出版はもっと腰をすえてやっていかなければならないようだ。出版してくれる本土の出版社は見つけたが、沖縄の出版社はまだ見つけていない。もしかしたら見つけることができないかもしれない。

表現の自由が民間社会で弾圧されているのが沖縄だ。

  

2012年05月14日

「沖縄に内なる民主主義はあるか」の出版への道


自費出版を出版社から断られるというのは全然予想していなかった。だから、ボーダーインクに自費出版を断られた場合の次の手を全然考えていなかった。
自費出版を断られた瞬間はわけが分からず頭が真っ白になった。頭が混乱しながら、どうにかして出版をしなくてはと思いつくままに手をうっていった。
まずは、依然からWEBで自費出版を募集していることを知っている文芸社に原稿を送った。次に出版社をWEBで探しまくり、風詠社がよさそうなので、風詠社に資料を請求した。それから、狼魔人さんに事情を書いたメールを送った。ブログ(http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925)。沖縄のY社にも原稿を送り、県内に私の本を出版できそうな出版社があれば紹介してほしいと頼んだ。

文芸社からはすぐにメールがあった。

このたびは、貴重な原稿あるいはお問い合わせ・メッセージを
送信してくださり、誠にありがとうございます。

作品原稿やお問い合わせ内容に応じた
出版のご提案や回答など、数日~4週間程度で
担当者からご連絡させていただきますので、
しばらくお待ちください。

今後とも、よろしくお願い申し上げます。

--
株式会社 文芸社
〒160-0022 東京都新宿区新宿1-10-1
TEL.0120-03-1148/FAX.0120-22-6526
Web Site http://www.bungeisha.co.jp

数日前に文芸社から電話があり、10日くらい後に私の原稿への評価を郵送するそうだ。


風詠社からは資料が送られてきて、数日後にはメールと見積もりが送られてきた。

出版企画・見積書(注文対応型/暫定版)
株式会社風詠社
〒553-0001 大阪市福島区海老江5-2-7
ニュー野田阪神ビル402
Tel.06-6136-8657 Fax.06-6136-8659
書名:「未定」
仕様 : 四六判ソフトカバー(188mm×128 mm) カバー4色フルカラー印刷、
表紙1色、帯あり、見返しあり、本文200ページとして
用紙: カバー/コート紙(四六判110 ㌔) 表 紙/アート紙(四六判200 ㌔)
本文/書籍用紙72.5 ㌔扉/本文共紙見返し/タント
* 装丁はご希望に応じて当社デザイナーがラフを作成し、お選びいただきます。
* 用紙はご希望に応じますが、種類によってコストアップする場合があります。
発行部数:500部(うち200部は著者分=献本や直接販売など自由にお使いいただける分)
*納品部数はご相談に応じます。
定価:1300円(税別)*予定
売上還付金:初版:実売部数×定価(本体)×50%
増刷印税:増刷部数×定価×10%
〔売れ行き好調で当社判断・当社負担で増刷した場合。
著者希望で著者負担による増刷の場合、初版に準じます〕
作業分担: 著者/ 原稿作成(原稿文字データ提供)・著者校正
風詠社/ 編集・校正・デザイン・印刷製本・販促
星雲社/ 発売元(取次窓口へのサンプルだし、国立国会図書館への献本)
販 売:トーハン、日販など取次会社に登録し、注文に応じて全国の書店に委託配本します。
インターネット書店amazon、bk-1、楽天ブックスなどでも販売されます。
販売促進:①毎日新聞第一面三段1/8広告欄に新刊広告を掲載します。(3―4点同時掲載)
(1 点単独掲載ご希望の場合、17 万円のご負担となります)
②図書館や書店向けの情報誌である図書館流通センター「週刊新刊全点案内」
「トーハン週報」「日販速報」に新刊として掲載します
(以下有料オプション)①書店への配本を増やすためのチラシ製作・配布も行います。
②著者のご希望に応じた新聞・雑誌への有料広告も可能です。


500 冊なら費用は695,000円であるという。ボーダーインクが同じ条件で85万円だから、風詠社のほうが安い。でも県内の出版社なら県内の書店の事情を詳しく知っているはずだから、できるなら県内の出版社に依頼したい。

文芸社の評価も知りたいから、しばらく様子をみようと思う。

  

2012年05月13日

アメリカ兵がとなりにいた頃のお話

私が最初にアメリカ人を見たのは二、三歳の時だった。それも黒人だった。私は読谷村の大木に生まれ、四歳の時に比謝に引っ越した。だから、大木の記憶は三歳以下ということになる。

最初に黒人を見たのは大木に居た時であった。姉は私をおぶって一歳年下のシズエさんの家に遊びに行った。二人は話しているうちに戦前の話になり、黙認耕作地になっている戦前の屋敷を見たいという話になった。
姉は私をおんぶし、シズエさんは私より一歳年下のチョウトクをおんぶして数キロほどはなれている黙認耕作地に行った。黙認耕作地は、耕作している場所は少なく、広大な草原になっていた。私の姉が住んでいた屋敷を過ぎ、シズエさんの住んでいた屋敷に向かって歩いていると、遠くに嘉手納弾薬庫から出てきた数人の黒人兵が見えた。
姉とシスエさんは黒人兵を見た途端に、恐怖になり一目散に逃げた。道路はなく畑跡の草原を走ったので、姉は草に覆われた溝に足を取られて転んでしまった。
私の記憶は姉が転んだところで終わっている。

人気のない草原の中で黒人兵を見た姉とシズエさんは非常に怖かっただろう。

大木に住んでいた時に二回アメリカ人を見たが、二回目は逃げたのではなく姉がアメリカ人を見に行った。
これもシズエさんの家にいた時のことである。大木の南はずれでアメリカ人たちがお祝いかなにかをやっているという噂があり、姉とシズエさんは見に行くことにした。
大木のはずれには石灰かなにかを敷いた小さな広場があり、十数名のアメリカ人と一台のヘリコプターがあった。見物人も大勢いた。

アメリカ兵たちの前には若い沖縄の女性がいて、アメリカ兵たちから祝福されていた。女性と一人のアメリカ兵はヘリコプターに乗った。二人は笑いながら盛んにアメリカ兵たちに手を振っていた。アメリカ兵たちは手を叩いたりしながら祝福の言葉をかけていた。ヘリコプーは舞い上がり、次第に小さくなっていった。ヘリコプターの沖縄女性とアメリカ兵はいつまでも手を振っていた。

私たちが見たのは沖縄女性とアメリカ兵の結婚式だったのだ。沖縄女性は私の周りにいる女性よりあか抜けていて華やかで堂々としていたのを覚えている。
1951年のことである。

戦争が終わって6年後にはこのようにアメリカ人と沖縄女性と恋がめばえ、結婚することもあった。沖縄女性は沖縄戦でアメリカ軍に攻撃されたはずである。アメリカ兵は敵であり怖い存在であるはずである。しかし、アメリカ兵と恋をし結婚した。

新聞ではアメリカ兵の犯罪が掲載され、沖縄人が差別されている内容の記事がほとんどであり、沖縄女性がアメリカ兵と結婚するのはありえないように思えるが、現実はそうではない。多くの沖縄女性がアメリカ兵と恋をし結婚した。

アメリカ兵が隣にいる生活では、犯罪はほとんどなく、フレンドリーなアメリカ人の普通の姿があるだけであった。私の村にはアメリカ兵と沖縄女性が同棲するための貸家がつくられていった。

アメリカ兵がとなりにいた頃の思い出を書いていこうと思う。

  

2012年05月12日

八重山教科書問題はなにが問題だったか

「沖縄に内なる民主主義はあるか」

五、八重山教科書問題はなにが問題だったか


教科用図書八重山採択地区協議会規約

第1章総則
(名称及び構成)
第1条 本会は、教科用図書八重山採択地区協議会(以下「協議会」という。)と称し、石垣市教育委員会、竹富町教育委員会及び与那国町教育委員会(以下「採択地区教育委員会」という。)をもって構成する。

(事務局)
第2条 協議会の関係事務を処理するため、事務局を置く。2事務局は、会長が所属する教育委員会事務局に置くものとする。

(目的)
第3条 協議会は、採択地区教育委員会の諮問に応じ、採択地区内の小中学校が使用する教科用図書について調査研究し、教科種目ごと一点にまとめ、採択地区教育委員会に対して答申する。

第2章組織
(委員)
第4条 協議会の委員(以下「委員」という。)は、採択地区内の次に掲げる者をもって充て、協議会が委嘱又は任命する。

1 採択地区教育委員会教育長
2 採択地区教育委員会教育委員1人
3 PTA連合会代表1人
4 学識経験者1人2教科用図書の採択に直接の利害関係を有する者は、委員となることができない。3委員の任期は、1年とし、再任を妨げない。

(役員会)
第5条 
1 協議会に、次の役員会を置く。
2 会長1人、副会長2人
3 監査員会2人
4 役員は、委員の互選により選任する。
5 役員の任期は1年とし、再任を妨げない。
6 会長は、協議会を代表し、会務を総理する。
7 副会長は、会長を補佐し、会長に事故があるとき又は会長が欠けたときは、その職務を代理する。
8 監査員は、協議会の会計を監査する。

(定期総会)
第6条 協議会は、原則として毎年6月に定期総会を開くものとする。
(会議)
第7条 
1 定期総会及び協議会の会議(以下「会議」という。)は、会長が招集し、その議長となる。
2 会議は、委員の過半数の出席がなければ開くことができない。
3 会議の議事は、出席委員の多数決で決するものとする。可否同数の場合は再投票し、なおかつ可否同数の場合は、役員会で決する。4会議に出席できない委員は、委任状を提出するものとする。

第3章教科用図書調査員
(調査員)
第8条 
1 協議会に教科用図書の調査研究を行うため、教科用図書調査員
(以下「調査員」という。)を置く。
2 調査員は、教科の専門知識を有する者の中から教科別に3人で構成する。
3 調査員は役員会が選任し、会長がこれを委嘱又は任命する。
4 調査員は、沖縄県教育委員会による指導・助言・援助の一環として作成された教科用図書選定資料をもとに、教科書の調査研究を行い、教育法規、学習指導要領、採択地区教育委員会の教育方針、沖縄県及び採択地域に関連する教材などの観点から、県の選定資料に付記する形で追加文書等を作成し、調査研究の結果を報告する。

第4章答申作成と教科用図書採択決定の手続き
(答申作成と教科用図書採択決定の手続き)
1 第9条協議会は採択地区教育委員会への答申を作成する会議を開く。
2 協議会は、必要に応じて調査員に教科用図書の特徴等についての説明を求めることができる。
3 協議会は、教科種目ごとに採択地区として採択すべき教科用図書の答申をまとめ、県の選定資料及び追加文書等を添えて、採択地区教育委員会に報告する。
4 採択地区教育委員会は、協議会の答申に基づき、採択すべき教科用図書を決定する。
5 採択地区教育委員会の決定が協議会の答申内容と異なる場合は、沖縄県教育委員会の指導・助言を受け、役員会で再協議することができる。

第5章雑則
(経費)
第10条 協議会の運営に係る必要経費は、採択地区教育委員会が負担する。
(会計年度)
第11条 協議会の会計年度は、毎年4月1日に始まり翌年の3月31日に終わる。
(その他)
第12条 この規約に定めるもののほか、協議会の運営に関し必要な事項は、会長が会議に諮って定める。

附則この規約は、議決のあった日から施行する。
附則この規約は、平成23年8月10日から施行する。

 「教科用図書八重山採択地区協議会規約」の全文を掲載した。2011年8月23日の教科用図書八重山採択地区協議会は左記の「教科用図書八重山採択地区協議会規約」に従って協議し、八重山地区の中学校に無償給付する教科書を採択した。
八重山地区採択協議会は中学三年生の公民は育鵬社の教科書を採択したが、それもちゃんと「教科用図書八重山採択地区協議会規約」に従って採択したのだ。民主主義はなにかを決める時には決めるための法律をつくり、その法律を遵守した上で決める。それが法治主義であり民主主義である。民主主義は法治主義でなければならない。
教科書に関する法律は二つある。「地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地方教育行政法)」と「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律(無償措置法)」である。教科書が市町村の学校で使用するまでにはこの二つの法律を遵守しなければならない。

地方教育行政の組織及び運営に関する法律は市町村の教育行政全般についての法律である。

地方教育行政の組織及び運営に関する法律

第一章 総則
(この法律の趣旨)
第一条 この法律は、教育委員会の設置、学校その他の教育機関の職員の身分取扱その他地方公共団体における教育行政の組織及び運営の基本を定めることを目的とする。

(基本理念)
第一条の二地方公共団体における教育行政は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)の趣旨にのつとり、教育の機会均等、教育水準の維持向上及び地域の実情に応じた教育の振興が図られるよう、国との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。

(教育委員会の職務権限)
第二十三条
教育委員会は、当該地方公共団体が処理する教育に関する事務で、次に掲げるものを管理し、及び執行する。

一  教育委員会の所管に属する第三十条に規定する学校その他の教育機関(以下「学校その他の教育機関」という。)の設置、 
管理及び廃止に関すること。
二  学校その他の教育機関の用に供する財産(以下「教育財産」という。)の管理に関すること。
三  教育委員会及び学校その他の教育機関の職員の任免その他の
人事に関すること。
四  学齢生徒及び学齢児童の就学並びに生徒、児童及び幼児の入
学、転学及び退学に関すること。
五  学校の組織編制、教育課程、学習指導、生徒指導及び職業指導に関すること。
六  教科書その他の教材の取扱いに関すること。
七  校舎その他の施設及び教具その他の設備の整備に関すること。
八  校長、教員その他の教育関係職員の研修に関すること。
九  校長、教員その他の教育関係職員並びに生徒、児童及び幼児の保健、安全、厚生及び福利に関すること。
十  学校その他の教育機関の環境衛生に関すること。
十一 学校給食に関すること。
十二 青少年教育、女性教育及び公民館の事業その他社会教育に関すること。
十三 スポーツに関すること。
十四 文化財の保護に関すること。十五ユネスコ活動に関すること。
十六 教育に関する法人に関すること。
十七 教育に係る調査及び基幹統計その他の統計に関すること。
十八 所掌事務に係る広報及び所掌事務に係る教育行政に関する相談に関すること。
十九 前各号に掲げるもののほか、当該地方公共団体の区域内における教育に関する事務に関すること。

 地方教育行政法で、教科書の採択に関する規定は教育委員会の職務権限を定めた第二十三条の六、「教科書その他の教材の取扱いに関すること」である。市町村の小中学校で使用する教科書は市町村の教育委員会が決めるということを規定している。
 
義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律
第1章 総 則
(この法律の目的)
第1条  この法律は、教科用図書の無償給付その他義務教育諸学校の教科用図書を無償とする措置について必要な事項を定めるとともに、当該措置の円滑な実施に資するため、義務教育諸学校の教科用図書の採択及び発行の制度を整備し、もつて義務教育の充実を図ることを目的とする。

第2章 無償給付及び給与(教科用図書の無償給付)

第3条 国は、毎年度、義務教育諸学校の児童及び生徒が各学年の課程において使用する教科用図書で第13条、第14条及び第16条の規定により採択されたものを購入し、義務教育諸学校の設置者に無償で給付するものとする。

(採択地区)
第12条 
1 都道府県の教育委員会は、当該都道府県の区域について、市若しくは郡の区域又はこれらの区域をあわせた地域に、教科用図書採択地区(以下この章において「採択地区」という。)を設定しなければならない。


(教科用図書の採択)
第13条 
1 都道府県内の義務教育諸学校(都道府県立の義務教育諸学校を除く。)において使用する教科用図書の採択は、第10条の規定によつて当該都道府県の教育委員会が行なう指導、助言又は援助により、種目(教科用図書の教科ごとに分類された単位をいう。以下同じ。)ごとに一種の教科用図書について行なうものとする。
4 第1項の場合において、採択地区が2以上の市町村の区域をあわせた地域であるときは、当該採択地区内の市町村立の小学校及び中学校において使用する教科用図書については、当該採択地区内の市町村の教育委員会は、協議して種目ごとに同一の教科用図書を採択しなければならない。

 「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」は第一条に明記しているように義務教育の諸学校の教科書を国が無償給付するための法律である。第13条4には採択地区内の教科書は種目ごとに同一の教科書を採択しなければならないと規定している。このことから八重山地区の学校に無償給付する教科書は一種類だけである。無償給付する教科書を二種類にすると無償措置法に違反することになる。

 「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」と「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」は国会でつくった法律であり、教科書を採択するときは二つの法律に違反してはならない。

八重山採択地区協議会は地方教育行政法によって設置したのか、それとも無償措置法によって設置したのか

地方教育行政法は「教育委員会の設置、学校その他の教育機関の職員の身分取扱や地方公共団体における教育行政の組織及び運営の基本を定めることを目的」としている。地方教育行政法は、それぞれの市町村内の教育行政を規定した法律であり、教科書を採択するにあたっては、各市町村の教育委員会は自ら所属する自治体の小中学校で使用する教科書だけを採択するものであり、他市町村と一緒になって共通の教科書を採択する規定は地方教育行政法にはない。
一方、無償措置法の第12条には複数の市町村が一緒になって採択地区を設定するように指示している。
1 都道府県の教育委員会は、当該都道府県の区域について、市若しくは郡の区域又はこれらの区域をあわせた地域に、教科用図書採択地区(以下この章において「採択地区」という。)を設定しなければならない。

このことから八重山採択地区協議会は無償措置法によって設置した機関であるといえる。注意しなければならないのは、八重山採択地区協議会は地方教育行政法と無償措置法二つの法律が適用されているのではなく、無償措置法だけが適用されていることである。地方教育行政法は八重山採択地区協議会には関係のない法律である。
なぜ、このように八重山採択地区協議会が無償措置法によって設置してあることを説明したかというと、八重山採択地区協議会の規約が無償措置法には合わない文言表現になっている箇所があるからである。
八重山採択地区協議会の規約の(目的)第3条に「採択地区内の小中学校が使用する」と述べている箇所がある。無償措置法は国が小中学校に「無償給付する教科書」を決める法律であって、小中学校が「使用する教科書」を決める法律ではない。それなのに八重山採択地区協議会の規約は「使用する」という文言になっている。無償措置法によって設置した協議会にはふさわしくない文言である。  
無償措置法によってつくられた協議会の規定なら「採択地区内の小中学校に無償給付する」がふさわしい文言である。八重山採択地区協議会の規約の「採択地区内の小中学校が使用する」という文言は、無償措置法の表現としては誤った表現である。
八重山採択地区協議会の規約第3条は「採択地区内の小中学校が使用する教科用図書」ではなく、「採択地区内の小中学校に無償給付する教科用図書」とするべきである。

 教科用図書八重山採択地区協議会は、八重山地区の小中学校に国が無償給付する教科書を決める機関である。8月23日に八重山採択地区協議会が公民を育鵬社版に決めたということは、国が八重山地区の中学三年生に育鵬社の教科書を無償給付することになったということである。
 国が育鵬社の教科書を無償給付することになったことに対して、石垣市と与那国町の教育委員会は育鵬社版に決めた。しかし、竹富町の教育委員会は東京書籍版に決めた。
 文部科学省が無償給付する教科書は育鵬社版と決まっているから、東京書籍版を採択した竹富町には育鵬社版を無償給付することができないということになる。竹富町が育鵬社の教科書を採択しなかったということは、国の無償給付を竹富町が断ったことになる。竹富町は東京書籍の教科書を選んだ。それは有償で東京書籍の教科書を購入することを自ら選んだということである。

地方教育行政法 市町村の小中学校で使用する教科書を決める。
無償措置法   国が無償給付する教科書を決める。

国が無償給付する教科書を採択するのを規定しているのが無償措置法であり、無償措置法の実行機関は採択地区協議会である。各市町村が使用する教科書を採択するのを規定しているのが地方教育行政法であり、実行機関は各市町村の教育委員会である。採択地区協議会は地区の小中学校に無償給付する教科書を決め、市町村の教育委員会は市町村の小中学校が使用する教科書を決める。ふたつの組織は違う仕事をやるのである。「無償給付する」教科書を決める仕事と「使用する」教科書を決める仕事である。

八重山採択地区協議会が育鵬社の教科書を採択したのに、竹富町が東京書籍版を採択したとしても違法行為にはならない。八重山採択地区協議会は竹富町に無償給付する教科書を決めたのであり、竹富町が使用する教科書を決めたわけではないからだ。
竹富町の教育委員会は竹富町の中学生三年生が使用する公民の教科書を東京書籍版に決めた。竹富町の中学生が使用する教科書を決めるのは竹富町の教育委員会の権限であり、他の市町村の教育委員会も、県教育庁も文科省も竹富町の教科書を決めることはできない。竹富町の教科書は竹富町の教育委員の自由意志で決めることができる。ただ、理解しなければならないのは、竹富町の教育委員会は竹富町の中学生が使用する教科書を決めることはできるが、無償給付する教科書を決めることはできないということである。だから、八重山地区採択協議会が無償給付する教科書を育鵬社版に決めたことを竹富町の教育委員会が否定したり変更したりすることはできない。

○ 八重山採択地区協議会は、石垣市、竹富町、竹富町の学校に無償給付する教科書を決めることはできるが、三市町の小中学校が使用する教科書を決めることはできない。
○ 石垣市、竹富町、与那国町の教育委員会は、それぞれの市町の小中学校が使用する教科書を決めることはできるが、国が無償給付する教科書を決めることはできない。

八重山採択地区協議会 無償措置法により、八重山地区の小中学校に無償給付する教科書を決める。
石垣市教育委員会   地方教育行政法により、石垣市の小中学校で使用する教科書を決める。
竹富町教育委員会   地方教育行政法により、竹富町の小中学校で使用する教科書を決める。
与那国町教育委員会  地方教育行政法により、与那国町の小中学校で使用する教科書を決める。

8月23日、無償措置法の実行

八重山採択地区協議会 八重山地区の中学校に無償給付する公民の教科書を育鵬社版に決めた。

8月26日、地方教育行政法の実行

石垣市教育委員会   石垣市で使用する公民の教科書を3対2で育鵬社版に決めた。
与那国町教育委員会  与那国町で使用する公民の教科書を全会一致で育鵬社版に決めた。

8月27日、地方教育行政法の実行

竹富町教育委員会   竹富町で使用する公民の教科書を全会一致で東京書籍版に決めた。

8月31日
3市町の教育長による協議会を開き、三市町で使用する公民教
科書の一本化について再協議したが協議は決裂。八重山採択地区協議会は閉会する。

石垣市と与那国町は育鵬社の教科書を使用することに決めたので、文部科学省は石垣市と与那国町には育鵬社の教科書を無償給付することになった。しかし、竹富町は文部科学省が無償給付することになっている育鵬社の教科書ではなく東京書籍の教科書を使用することに決めたので竹富町には無償給付することができなくなった。
八重山採択地区協議会で、国が無償給付する教科書を育鵬社版に決めたのに、竹富町は使用する教科書を育鵬社版に決めなかった。それは、文部科学省が育鵬社版の教科書を無償給付するのを竹富町が断ったことになる。無償措置法により、八重山地区に無償給付する教科書は育鵬社版一種だけと決まっているので、文部科学省は竹富町に教科書を無償給付することができなくなった。
文部科学省が無償給付しないことを決めたのではなく、竹富町が文部科学省の無償給付を断ったのだ。竹富町が矛盾しているのは、自分のほうで無償給付すると決まっている育鵬社の教科書に決めないで、無償給付をしないと決まっている東京書籍の教科書を使用すると決めたのに、文部科学省に東京書籍の教科書を無償給付するように要求したことである。

無償措置法では、無償給付する教科書は一種類に決めるように規定している。もし、文部科学省が石垣市と与那国町には育鵬社の教科書を無償給付して、竹富町には東京書籍の教科書を無償給付したら、行政機関である文部科学省が無償措置法を破ることになる。行政の最高機関である文部科学省が法律を破ることはできない。文武科学省は竹富町に東京書籍版の教科書を無償給付しないのではなくできないのだ。

竹富町が無償給付を受けるためには育鵬社の教科書を使用することに改める以外にはなかった。

使用する教科書を三市町が同一にするという法律はない

9月8日の全員協議で東京書籍の教科書が採択されたが、全委員協議が有効か無効かの問題は別にしても、無償措置法は文部科学省が八重山地区の三市町に無償給付する教科書を決めるだけであり、三市町に、三市町が使用する教科書を強制することはできない。だから、無償措置法で三市町の使用する教科書を同一にすることはできない。
地方教育行政法は、三市町それぞれの中学で使用する教科書を決める法律だから、地方教育行政法では八重山地区の教科書を同一にすることはできない。
三市町の使用する教科書を同一にする法律は無償措置法にも地方共育行政法にもないのだから、教科書を同一にする義務は採択地区協議会にも教育委員会にも全委員協議にもない。

県教育庁義務教育課が無償措置法第13条に「構成市町村の教育委員会は協議して…同一の教科書を採択しなければならない」を根拠にして、三市町が使用する教科書は同一にしなければならないと主張したのは無償措置法に対する勘違いの解釈をしたからである。
無償措置法第13条は、三市町が使用する教科書を同一にしなければならないのではなく、国が無償給付する教科書を同一にしなければならないと規定しているのだ。

憲法の精神を放棄した竹富町

竹富町は12月1日までに、来年度の教科書の購入費用を計上しない方針を固めた。文科省は竹富町に無償給付をしないと断言している。竹富町が購入しなければ教科書有償になる。そのことを知った上で竹富町は教科書購入の予算を計上しないことに決めた。憲法の精神を守らなければならないのは政府だけではない。地方の自治体も憲法の精神を守らなければならない。憲法26条の義務教育の無償を文科省に守らせようとしながら、教科書購入の予算を計上しないことに決めたということは竹富町は憲法26条の精神を放棄したことになる。
川満栄長竹富町長は、「竹富の教育委員は子どもたちのことを考えて東京書籍を選んだ。教育委員会の考えを尊重したい」と述べている。そうであるならば、文科省が無償給付しなかった場合は竹富町が購入するのが当然である。ところが、「教育委員会の考えを尊重したい」と言いながら竹富町の予算では教科書を購入しないということを決めたのである。
川満栄長竹富町長は憲法の「義務教育は無償」の精神を尊重し、教育委員会の考えを尊重したのに教科書は有償にするというのである。理解できないやり方である。憲法の「義務教育は無償」の精神を尊重し、教育委員会の考えを尊重するのなら教科書代金は竹富町が負担するのが当然である。ところが竹富町は負担しなかった。
市民が教科書代を負担することになり、教科書は無償給付されることになったが、だからといって竹富町の憲法の精神に反した行為の責任は消えない。

合法でも無償給付をしないケースがある

慶田盛竹富町教育長は、「文科省は竹富町だけ有償だというが、その理由を説明していない。法的な間違いがあれば対応するが、その機会さえ与えられていない状況だ」と述べているが、教育行政法と無償措置法の組み合わせはたとえ合法な行為をやったとしても無償給付されない場合がある。それが竹富町のケースである。

12月6日、大城県教育長は、八重山採択地区協議会の答申と異なる採択をした竹富町に対して、地方教育行政法を根拠に「採択権限は各市町村教育委員会にあり、竹富町のケースは合法」と述べた。ところが、文科省が同町に教科書の有償購入を促す方針を示していることには「竹富町が有償となる法的根拠を示されていない」と疑問を示している。
無償給付を決めるのは地方教育行政法ではなく、無償措置法である。無償措置法の実行機関である八重山採択地区協議会は育鵬社の教科書を採択した。それなのに竹富町は東京書籍版を採択した。文科省は育鵬社版なら無償給付できるが、東京書籍版なら無償給付はできない。文科省が竹富町に教科書の有償購入を促すのは当然である。

竹富町は12月14日に、「1、育鵬社版を選定した八重山採択地区協議会の答申に従わず、東京書す籍版を採択した場合は有償とする根拠。2、なぜ採択協議会の答申に従わなければならないのか」の説明を文科省に求めた。

1の問題は、八重山採択地区協議会は国が無償給付する教科書を決める機関であり、8月23日の八重山採択地区協議会が育鵬社の教科書を採択したということは、国が八重山地区に無償給付する教科書は育鵬社版だけであり、育鵬社版以外の教科書は無償給付をしないことになったということである。
2の問題は採択協議会の答申には従わなくてもいい。その証拠に竹富町は八重山採択地区協議会に従わないで東京書籍の教科書を採択したが、国から変更するように命令されていない。だから、竹富町は教育委員が採択した教科書を使用することができる。それは採択協議会の答申には従わなくてもいい証拠である。
八重山採択地区協議会と竹富町の教育委員会の関係は「従う従わない」の関係ではない。八重山採択地区協議会は国が無償給付する教科書を決める機関であり、竹富町の教育委員会は竹富町で使用する教科書を決める機関である。
八重山採択地区協議会と竹富町の教育委員会の関係は、八重山採択地区協議会が採択した教科書と同じ教科書を竹富町の教育委員会が採択すれば国は竹富町に教科書を無償給付するし、八重山採択地区協議会が採択した教科書とは違う教科書を採択すれば国は竹富町に教科書の無償給付はしないという関係である。

竹富町は無償措置法の呪縛を解いた

竹富町は地区採択協議会の呪縛を解いたことでは画期的である。1963年の教科書無償措置法の制定後50年間も地区採択協議会が採択した教科書を市町村の教育委員会は採択してきた。そこには地区採択協議会が採択した教科書を市町村の教育委員会は採択しなければならないという呪縛があったからだ。
しかし、地区採択協議会が採択した教科書を市町村の教育委員会は採択しなければならないという法律はない。市町村の教育委員会は、地区採択協議会が採択した教科書に呪縛されないで自由に使用する教科書を選ぶことができる。地区採択協議会が採択した教科書以外の教科書を採択すれば無償給付を受けることができないだけであって、法的なペナルティはない。教科書代金を自治体や有志の寄付などで負担すれば自由に教科書を採択することができる。

市町村で使用する教科書は無償であるということよりも教育委員の意思が反映されるべきである。ところが、1963年に教科書無償措置法が制定されてからは採択地区協議会が採択した教科書を市町村の教育委員会はずっと採択してきた。これでは市町村の教育委員会は採択地区協議会に従属していると思われても仕方がない。
法的には市町村の教育委員会は自立していて、採択地区協議会に従属はしていない。だから、竹富町のように八重山採択地区協議会とは違う教科書を採択することができるのである。国の無償給付を受けなければいいだけのことであり、竹富町は市町村の教育委員会が採択地区協議会に従属していないことを行動で示したのである。
採択地区協議会に束縛されないで教科書を採択したのは、1963年に教科書無償措置法が制定されてから初めてであり、竹富町は採択地区協議会の呪縛を断ち、市町村の選択の自由の道を切り開いた。

9月8日の全委員協議は成立しない

〇石垣市、竹富町、与那国町の三市町はそれぞれが自治体であり、お互いに独立した関係にある。全委員協議のように無償措置法による新しい「教科書採択機関」をつくるには三市町の同意がなければならない。しかし、石垣市と与那国町は、全委員協議を教科書を採択する機関にするのに反対した。反対する市町がある限り全委員協議は教科書採択機関としては成立しない。
〇全委員協議を正式な機関にするには、八重山採択地区協議会のように時間をかけ、協議を重ねて三市町が同意する規定をつくらなければならない。しかし、9月8日の全委員協議は規定をつくっていない。規定のない全委員協議を正式な機関として認めることはできない。
〇8月23日の八重山採択地区協議会に法的な落ち度はなかった。法的な落ち度がない八重山採択地区協議会の採択を、全委員協議が「否決」できる法律は無償措置法にも地方教育行政法にもない。八重山採択地区協議会が決定したことを全委員協議が「否決」する法律はないのだから、「否決」する法律をつくらない限り八重山採択地区協議会の採択を全委員協議が「否決」することはできない。それなのに八重山採択地区協議会の採択を全委員協議は「否決」した。三権分立の日本では、行政は法律に基づいて行動しなければならない。民主主義は法治主義を徹底してこそ成り立つ。9月8日の全委員協議が八重山採択地区協議会の採択を否決したことは法律を逸脱した行為であった。
〇教育委員は石垣市5人、竹富町5人、与那国町3人である。全員協議で多数決をやると3人しかいない与那国町は不利である。だから、与那国町は全委員協議を無償給付する機関にするか否かを多数決で決めることに反対した。与那国町が賛成しない限り、全委員協議を無償給付する機関にするか否かを多数決で決めることはできない。しかし、全委員協議は与那国町の反対を無視して多数決を強行した。全委員協議を無償給付する機関とするのは法律上は認められない。
〇石垣市の人口は4万7766人、竹富町の人口は3,968人、与那国町の人口は807人である。与那国町を3とした場合の人口比率は石垣市が177、竹富町が15である。
9月8日の全委員協議の教育委員数は石垣市5人、竹富町は5人、与那国町は3人である。9月8日の全委員協議は人口に合わせた教育委員の構成になっていないから、民主的な決定機関であるとはいえない。全委員協議を民主的な決定機関にするには、人口比にあわせた教育委員の構成にするべきである。すると全委員協議の教育委員は石垣市177人、竹富町15人、与那国町3人になる。
石垣市が3対2に意見が分かれた場合の比率は、106人対71人になる。竹富町と与那国町の全員が石垣市の少数派に加わった場合は、106人対89人になる。竹富町と与那国町の全員が少数派に加わっても石垣市の決定をひっくり返すことができない。人口比で全委員協議を構成すると、石垣市の決定が全委員協議の決定になってしまう。もし、9月8日の全委員協議が三市町の人口比で教育委員を構成していたら、育鵬社の教科書に決まっていた。
  9月8日の全員協議は三市町の人口を考えれば民主的な協議会とは言えない。しかし、人口比だけで協議会の委員を構成すれば石垣市にすべてを決定されてしまう。それでは少数の竹富町や与那国町の意見は封殺されてしまう。
このような現実のさまざまな問題に配慮し、諸問題をクリアしながらつくったのが八重山採択地区協議会である。全委員協議は安直な多数決主義であり、民主主義ではない。八重山採択地区協議会のほうが民主主義に沿っている。 
〇県教育庁から派遣された課長は全委員協議には拘束力があると発言した。しかし、無償措置法には拘束力はない。拘束力がないのに、全委員協議会の採択には拘束力があるとしたのは、無償措置法に新たな法律をつけ加えたことになる。
 11月29日に、県教育委員会は東京書籍の教科書を採択した9月8日の全員協議に基づき、三市町の教育委員会に東京書籍の教科書の必要冊数を報告するよう求める文書を送付した。この県教育委員会の行為は、9月8日の全委員協議で全員協議には拘束力がある発言したことに基づいた行為である。無償措置法には拘束力はないのに、東京書籍の教科書の必要冊数を報告するよう求めたということは無償措置法に県の行政が「拘束力」という新しい法律を加えたことになる。無償措置法は立法機関である国会がつくった。無償措置法に新しい法律を加えるのは国会であり県の行政がやってはいけない。それなのに行政機関である県の教育庁は無償措置法に拘束力があるという法律を新たにつくった。それは違法行為であり、拘束力があるとした全委員協議は無償措置法の機関としては成立しない。

県教育庁が報告を受けるのは、三市町の教育委員会が採択した教科書の冊数である。それはそれぞれの三市町が使用すると決めた教科書の冊数であり、国が無償給付する教科書の冊数ではない。
県教育庁は八重山地区の教科書を同一にするように指導する義務はあるが、同一にする義務はない。指導しても同一にすることができなければあきらめるしかない。

  以上のことから、9月8日の全委員協議は教科書を採択する正規の機関として成立しないのは明らかである。

 8月31日の三教育長の協議が決裂した時に、

〇八重山地区に無償給付する公民の教科書は育鵬社の教科書である。
〇石垣市、与那国町が使用する教科書は育鵬社版。竹富町が使用する教科書は東京書籍版である。
〇石垣市、与那国町には国が教科書を無償給付する。竹富町には無償給付しない。

ということが決まった。法律的には8月31日に八重山教科書問題は終わっていた。全地域に無償給付をやりたい文科省は、竹富町が育鵬社の教科書に変更するのを待ったが竹富町は変更しなかった。

〇9月8日の全委員協議は法的に成立しない。
〇無償給付できる教科書は無償措置法により一種と限定されているので、文部科学省は東京書籍の教科書を竹富町に無償給付はできない。

八重山教科書問題は無償措置法と地方教育行政法というふたつの法律の問題であり、大衆運動の圧力で変更することができるような問題ではなかった。
県教育庁をはじめ、多くの教育関係の市民団体や知識人は9月8日の全員協議が有効であると、県民集会や多くの集会を開いて主張し続けた。しかし、彼らの要求を受け入れるということは法律を破ることになるから、行政のトップ機関である文部科学省は彼らの要求を受け入れなかった。文部科学省の法治主義の壁は厚く、東京書籍の教科書を竹富町に無償給付させることはできなかった。

 新学期になり、8月31日に決定していたことが粛々と実行されていった。

無償措置法にも不適切な文言が使われている。

無償措置法は、国が市町村の小中学校に無償給付する教科書を採択するための法律である。市町村の小中学校で使用する教科書を採択するための法律ではない。それなのに無償措置法は「使用する」という文言を使っている。

(都道府県の教育委員会の任務)
第10条 
都道府県の教育委員会は、当該都道府県内の義務教育諸学校において使用する教科用図書の採択の適正な実施を図るため、義務教育諸学校において使用する教科用図書の研究に関し、計画し、及び実施するとともに、市(特別区を含む。以下同じ。)町村の教育委員会及び義務教育諸学校(公立の義務教育諸学校を除く。)の校長の行う採択に関する事務について、適切な指導、助言又は援助を行わなければならない。

第13条 
1 都道府県内の義務教育諸学校(都道府県立の義務教育諸学校を除く。)において使用する教科用図書の採択は、第10条の規定によつて当該都道府県の教育委員会が行なう指導、助言又は援助により、種目(教科用図書の教科ごとに分類された単位をいう。以下同じ。)ごとに一種の教科用図書について行なうものとする。
2 都道府県立の義務教育諸学校において使用する教科用図書の採択は、あらかじめ芸定審議会の意見をきいて、種目ごとに一種の教科用図書について行なうものとする。
3 公立の中学校で学校教育法第71条の規定により高等学校における教育と一貫した教育を施すもの及び公立の中等教育学校の前期課程において使用する教科用図書については、市町村の教育委員会又は都道府県の教育委員会は、前2項の規定にかかわらず、学校ごとに、種目ごとに1種の教科用図書の採択を行うものとする。

4 第1項の場合において、採択地区が2以上の市町村の区域をあわせた地域であるときは、当該採択地区内の市町村立の小学校及び中学校において使用する教科用図書については、当該採択地区内の市町村の教育委員会は、協議して種目ごとに同一の教科用図書を採択しなければならない。

(同一教科用図書を採択する期間)
第14条 義務教育諸学校において使用する教科用図書については、政令で定めるところにより、政令で定める期間、毎年度、種目ごとに同一の教科用図書を採択するものとする。

無償措置法は、国が無償給付をする教科書を決める法律であるのに第10条、第13条第14条は「無償給付する」教科書ではなく「使用する」教科書を決める文言になっている。
無償措置法の第一条、第二条、第三条では、無償措置法は無償給付する目的の法律であると明言しているのにも拘わらず使用する教科書を採択するという文言を使っている。

太文字の「使用する」の文言通りであるならば、採択地区協議会が市町村の小中学校で使用する教科書を決めることになる。もし、採択地区協議会が市町村の小中学校で使用する教科書を決めるのであれば、採択地区協議会が教科書を採択した後に開かれる各市町村の教科書を採択するための教育委員会は開く必要がない。いや、開いてはならない。教育委員会を開いてしまうと今回の八重山教科書問題のように採択地区協議会が採択した教科書とは違う教科書を市町村の教育委員会が選ぶトラブルが発生する可能性があるからだ。
もし、「使用する」の文言通りに無償措置法を実施するのなら、無償措置法の第一条を訂正し、地方教育行政法から第二十三条6の条文を削除して、教科書を採択する市町村の教育委員会を開かないようにしなければならない。しかし、そうすると無償措置法が地方自治の権限を奪ってしまうことになり、賛否の論議が浮上するだろう。そうならないためには無償措置法は教科書を国が無償給付するという文言に徹することである。誤解を与えるような「使用する」の文言を「無償給付」の文言にすべて変更するべきである。

県が9月8日の全委員協議を開催する根拠にしたのが、無償措置法の第13条4項である。県は「使用する」の文言を根拠にして全委員協議の採択には拘束力があると主張した。第13条4項だけを読めば県の主張も間違っていない。
八重山教科書問題は、不適切な文言を使っている無償措置法をつくった国会にも責任がある。



  

2012年05月10日

普天間飛行場の移設は辺野古しかない



「沖縄に内なる民主主義はあるか」

四 普天間飛行場の移設は辺野古しかない

沖縄県人口の推移

大正 9年(1920年) 57万1,572人
大正14年(1925年) 55万7,622人
昭和 5年(1930年) 57万7,509人
昭和10年(1935年) 59万2,494人
昭和15年(1940年) 57万4,579人 
昭和25年(1950年) 69万8,827人
昭和30年(1955年) 80万1,065人 
昭和35年(1960年) 88万3,122人
昭和40年(1965年) 93万4,176人
昭和45年(1970年) 94万5,111人
昭和50年(1975年) 104万2,572人
昭和55年(1980年) 110万6,559人
昭和60年(1985年) 117万9,097人
平成 2年(1990年) 122万2,398人
平成 7年(1995年) 127万3,440人
平成12年(2000年) 131万8,220人
平成17年(2005年) 136万1,594人
平成22年(2010年) 139万2,503人  

 1920年から1940年の戦前の人口は50万人台である。農業が中心であった戦前の沖縄の人口は60万人が限度だったといわれている。

戦前の沖縄の人口は60万人が限度だった理由

と言っても納得できない人が多いと思う。農業中心の戦前の沖縄の人口が60万人が限度であったことを理解してもらうために、現在の農業の実態を参考にして説明しよう。
現在の農業生産は930億円前後である。一戸の農家が年収500万円と仮定した場合に農業人口は何人であるかを出してみる。生産するには肥料や飼料、設備、農機具などの経費が必要であり、必要経費を200万円と仮定する。すると農家の年収は700万円となる。

930億円÷700万円=1万3285戸
一戸5人家族とすると、
1万3285戸×5=6万6425人

五人家族で年収500万円の農家なら、沖縄県の農業人口はわずか6万6425人である。

 五人家族で年収180万円の農業人口を出してみる。必要経費が70万円と仮定すると、

930億円÷250万円=3万7200戸
3万7200戸×5=18万6000人

 年収180万円と仮定すると農業人口は18万6000人である。沖縄が現在の農地が二倍になり、戦前のような農業中心の社会になったと仮定しよう。そのためには米軍基地がすべて解放されるだけでなく、都市部の住宅地の多くも農地にならなければならない。農地が二倍になり農業の生産額が二倍の1860億円になった場合は、農業人口も二倍の37万2000人になる。現在なら、五人家族で年収180万円なら生活ができない。しかし、戦前は電気や水道やガスがないし、テレビや冷蔵庫もなかった。高校や大学に進学する子供も非常に少なかったから年収が180万円でも生活ができただろう。
 沖縄県の平成20年の平均年収は324.5万円である。農家の収入を324.5万円とすると、必要経費を100万円を加えると年収は424.5万円である。沖縄が農業中心社会だとすると、

1860億円÷424.5万円=4万3816戸
一戸五人家族とすると、
4万3816戸×5=21万9080人

農地が現在の二倍になり、沖縄県が農業中心の社会となった場合、現在の県民所得と同じ収入を仮定すると農業人口は21万9080人である。沖縄のほとんどは農地であるから、この場合の沖縄県の人口は30万人くらいであろう。どんなに多く想定しても農業人口の二倍の43万人以下であろう。
 県内で仕事がなく、生活できない人は県内に居れば餓死するから、県外や国外に仕事を求めて出ていかなくてはならない。だから、戦前の沖縄の人口は60万人弱で推移した。
 この試算は素人の私が出したものだから正確ではない。必要経費の割合はもっと高いと思う。私の試算より実際はもっときついと思う。

宜野湾市の戦後の経済発展の原因

1945年の沖縄戦で10万人近くの県民が戦争の犠牲になったにもかかわらず、1950年の人口は1940年より10万人以上も増えて、69万8,827人になっている。敗戦により南方や大陸に移民していた人たちが沖縄に戻されたのとベビーブームの影響だろう。
 注目するべきところは、戦前は農業中心であり人口は60万人が限度であるといわれていたのに、1950年には沖縄の人口が70万人近くになったことである。沖縄が農業中心の産業から基地経済へと移ったから70万人を突破したと考えられる。戦後の沖縄の人口は増え続け、平成23年には140万人を突破した。戦前の農業中心の人口に比べて2倍以上の人口である。

宜野湾市の人口推移

大正 9年(1920年) 1万2,704人
大正14年(1925年) 1万2,569人
昭和 5年(1930年) 1万2,857人 
昭和10年(1935年) 1万3,346人 
昭和15年(1940年) 1万2,825人 
昭和25年(1950年) 1万5,930人 
昭和30年(1955年) 2万4,328人 
昭和35年(1960年) 2万9,501人 
昭和40年(1965年) 3万4,573人 
昭和45年(1970年) 3万9,390人 
昭和50年(1975年) 5万3,835人 
昭和55年(1980年) 6万2,549人 
昭和60年(1985年) 6万9,206人 
平成 2年(1990年) 7万5,905人 
平成 7年 (1995年) 8万2,862人 
平成12年(2000年) 8万6,744人 
平成17年(2005年) 8万9,769人
平成24年(2012年) 9万3、189人

1920年から1940年までの人口はほとんど変化していない。戦前の沖縄は農業中心であり、宜野湾も農業中心の村であった。農業を営むには広い農地が必要である。人口に変化が見られないのは農業を営むのに1万3,000人前後が限界であったからだろう。これ以上人口が増えると生活できない者が増える。だから農地を持たない次男、三男は宜野湾から出て行かなければならなかった。宜野湾が農業中心であったなら、戦後も人口は増えなかったはずである。
終戦直後の宜野湾市の人口は1万5,930人となり戦前よりわずかに増え、その後はどんどん増えていった。人口が増えた原因は農業から基地経済に転換していったからである。軍雇用員、軍用地料、米兵と家族相手の商売によって宜野湾市の経済は発展していった。
普天間飛行場が占める土地のうち、およそ92%は私有地である。このため、賃借料が地主に支払われており、2000年代は軍用地料が60億円台で推移している。宜野湾市には普天間飛行場だけでなくキャンプズケランもある。基地経済が宜野湾市の経済をうるおしているのは間違いない。

米軍基地のある宜野湾市の人口増加6万3688人
昭和35年(1960年) 2万9,501人
平成24年(2012年) 9万3、189人

米軍基地のない糸満市の人口増加は2万5630人
昭和35年 (1960年) 3万3,580人
平成24年 (2012年)   5万9、210人
米軍基地のない石垣市人口増加は1万0314人
昭和35年(1960年)   3万8,481人
平成24年 (2012年) 4万8795人

宜野湾市の人口増加は6万3688人、糸満市の人口増加は2万5630人、石垣市の人口増加は1万0314人である。糸満市も石垣市も経済発展の環境は好条件であり目覚ましく経済は発展しているほうである。しかし、米軍事基地のある宜野湾市に比べると経済発展に大差がある。

沖縄の米軍基地強化と密接な関係がある旧ソ連の拡大

 沖縄の軍事基地化はソ連、中国等の社会主義圏の拡大と密接な関係がある。戦後の社会主義は粛清や軍事力によってすごい勢いで勢力を拡大していった。アメリカは社会主義をもっとも嫌い、もっとも恐れた。アメリカは社会主義の拡大を食い止めるために韓国、南ベトナム、台湾、フィリピンなどの軍事独裁政権をバックアップし、日本本土や沖縄を軍事要塞化した。日本本土は自衛隊の軍事力が強化されるに応じて米軍基地を減らしていった。

レーニンの死後、独裁的権力を握ったスターリンは、ポーランドやルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国を社会主義化し、自国の衛星国とした。ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄するとともに侵攻し、ポーランドの東半分を占領した。またバルト3国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国に進駐した。さらに親ソ政権を組織し、反ソ連派を粛清、或いは収容所送りにして、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、領土を割譲させた。さらに隣国のフィンランドを冬戦争により侵略してカレリア地方を併合した。  さらに占領地域であった東欧諸国への影響を強め、衛星国化していった。その一方、ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。 また、開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を承認させた。更にこれらの新領土から多くの住民を追放あるいはシベリアなどに強制移住させ、代わりにロシア人を移住させた。また、極東では日本の領土であった南樺太及び千島列島を占領し、領有を宣言した。さらに、1945年8月14日に連合国の一国である中華民国との間に中ソ友好同盟条約を締結し、日本が旧満州に持っていた各種権益のうち、関東州の旅順・大連の両港の租借権や旧東清鉄道(南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた。
第二次世界大戦によって大きな損害を蒙っていた西欧諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。とくにフランスやイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影はなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。1947年に入ると、3月12日にトルーマンは一般教書演説でイギリスに代わってギリシアおよびトルコの防衛を引き受けることを宣言した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」である。さらに6月5日にはハーヴァード大学の卒業式でジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、西欧諸国への大規模援助を行った。こうして戦後アメリカは、継続的にヨーロッパ大陸に関与することになり、孤立主義から脱却することになった。
東欧諸国のうち、ドイツと同盟関係にあったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、スロバキアにはソ連軍が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権であったが、法務、内務といった主要ポストは共産党が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束されたポーランドでも、ロンドンの亡命政府と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や閣僚が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。またその前年の10月にはコミンフォルムが結成され、社会主義にいたる多様な道が否定され、ソ連型の社会主義が画一的に採用されるようになった。
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沖縄の米軍基地強化と密接な関係がある中国の拡大

1930年代から中華民国・南京国民政府と内戦(国共内戦)を繰り広げてきた中国共産党は、第二次世界大戦終結後に再燃した内戦で相次いで国民政府軍に勝利をおさめ、1949年4月には共産党軍が南京国民政府の首都・南京を制圧した。この過程で南京国民政府は崩壊状態に陥り、中国国民党と袂を分かって共産党と行動を共にしたり、国外へと避難したりする国民政府関係者が多数出た。その為、共産党は南京国民政府が崩壊・消滅したと判断し、同年10月に毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した。なお、崩壊状態に陥った南京国民政府は蒋介石の指導の下で台湾に撤退し(台湾国民政府)、引き続き現在にいたるまで中華民国と名乗っている。冷戦を経て現在中華民国を国家承認している国は30ヶ国未満であるが、二つの「中国」政府が並立する事態は台湾問題として東アジアの国際的政治問題となっている。

建国当初の政治を担ったのは、中国人民政治協商会議であった。この段階では共産党独裁体制は確立されておらず、「新民主主義論」のもと共産党、中国民主同盟、中国農工民主党、中国国民党革命委員会などの諸勢力が同会議の中心となった。1950年、土地改革法が成立して全国で土地の再配分が行われた。法の内容自体は穏健的なものであったが、地主に対して積年の恨みを抱いていた貧農などによって運動は急進化し、短期間で土地改革は完了した。

中華人民共和国の発足直後は、旧国民党、富裕層などによる反共・反政府運動が続発した。このため、「反革命活動の鎮圧に関する指示」が出され、大衆を巻き込んだ形で反政府勢力の殲滅を図った。1953年までに71万人を処刑、129万人を逮捕、123万人を拘束し、240万人の武装勢力を消滅させたことが、中国の解放軍出版社より出版された国情手冊に記されている。

1950年に中ソ友好同盟相互援助条約を結び、朝鮮戦争で北朝鮮を支援して参戦するなど、社会主義陣営に属する姿勢を鮮明にした。ただし、1954年のネルー・周恩来会談で平和五原則を示したこと、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)にも積極的に関わったことに見られるように、常にソビエト連邦一辺倒なのではなく、第三勢力としての外交も行った。また、1956年のソ連共産党第20回大会においてフルシチョフが行った「スターリン批判」に対して、中国共産党は異なった見解(功績7割、誤り3割)を示した。これ以降ソビエト連邦との関係は徐々に悪化、のちの中ソ論争や中ソ国境紛争へとつながっていく。

国内では、1953年頃より社会主義化を本格的に進め始め、人民政治協商会議に代わって人民代表大会を成立、農業生産合作社を組織した。1956年に行った「百花斉放百家争鳴」運動にて知識人から批判をうけたため、これを弾圧するために1957年6月に批判的な知識人に対する反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ、投獄した。1958年、毛沢東は大躍進政策を開始し、人民公社化を推進した。しかし、無計画に進められた大躍進政策は2000万人~4000万人以上とも言われる大量の餓死者を出して失敗に終わった。同じ頃、チベットの中国との同化を図り、「解放」の名目で軍事制圧し、ここでも数十万人の大虐殺を行なったとされる(根拠なし)。チベットの最高指導者、ダライ・ラマはインドに亡命し、未だ帰還していない。

毛沢東時代の中華人民共和国は、社会の共産主義化を推進した。建国直後の1949年にウイグル侵攻を行いウイグルを占領した。1950年にはチベット侵攻を行いチベットを併合した。1952年には朝鮮戦争に介入し、韓国軍と、アメリカ軍を主体とする国連軍による朝鮮統一を阻止した。毛沢東の指導のもとで大躍進政策と核開発を行ない、多くの餓死者と被爆者を出しながらも核保有国としての地位を確保する。1959年のチベット蜂起を鎮圧すると、1962年にはチベットからインドに侵攻した(中印戦争)。1974年には南シナ海に侵攻し、ベトナム支配下の西沙諸島を占領した(西沙諸島の戦い)。
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沖縄の米軍基地強化と密接な関係があるアジアの冷戦

中国大陸では、戦後すぐにアメリカの支援する中国国民党と中国共産党が内戦を繰り広げたが、中国共産党が勝利し1949年に共産主義の中華人民共和国を建国。1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約を結んでソ連と連合した。
一方、中国国民党は台湾島に逃れ、アメリカの支援のもと大陸への反攻をねらった。また、中華人民共和国は朝鮮戦争に出兵することで、アメリカと直接対立した。すでにモンゴルではソ連の支援の下で共産主義のモンゴル人民共和国が1924年に成立していたが、戦後になって米英仏等が承認した。
日本が統治していた朝鮮半島は、ヤルタ会談によって北緯38度線を境に北をソ連、南をアメリカが占領し、朝鮮半島は分断国家となった。このため、1950年6月にソ連の支援を受けた北朝鮮が大韓民国へ突如侵略を開始し、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争には「義勇軍」の名目で中華人民共和国の中国人民解放軍も参戦し戦闘状態は1953年まで続いた。
フランス領インドシナでは、ベトナムの共産勢力が独立を目指し、第一次インドシナ戦争が起こった。1954年にフランスが敗北したため、ベトナムが独立を得たが、西側は共産主義勢力の拡大を恐れ、ジュネーブ協定によって北緯17度で南部を分割し、南側に傀儡政権を置いた。これは後のベトナム戦争の引き金となる。また、フランスとアメリカが強い影響力を残したラオス(1949年独立)、カンボジア(1953年独立)でも共産勢力による政権獲得運動が起こった。

これら共産勢力のアジア台頭に脅威を感じたアメリカは、1951年8月に旧植民地フィリピンと米比相互防衛条約、9月に占領していた旧敵日本と日米安全保障条約、同月にイギリス連邦のオーストラリア・ニュージーランドと太平洋安全保障条約(ANZUS)、朝鮮戦争後の1953年8月に韓国と米韓相互防衛条約、1954年に中華民国と米華相互防衛条約を立て続けに結び、1954年9月にはアジア版NATOといえる東南アジア条約機構(SEATO)を設立して西側に引き入れた他、中華民国への支援を強化した。また中東でも、アメリカをオブザーバーとした中東条約機構(バグダッド条約機構、METO)を設立し、共産主義の封じ込みを図った。
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沖縄の米軍基地強化と密接な関係がある朝鮮戦争
 
1950年6月25日早朝、朝鮮人民軍は38度線を突破して南部への進撃を開始した。李承晩政権の朝鮮武力統一を未然に防止し、「南半部」を解放する、というのがその理由だった。
朝鮮人民軍は進撃をつづけ、1950年6月28日には韓国の首都ソウルを陥落させた。
一方、在日米軍は7月1日、釜山に上陸して北上を開始し、沖縄駐留のB‐29が北朝鮮爆撃を開始した。また、6月27日には第七艦隊が台湾海峡に展開した。7月7日、国連は国連軍総司令部の設置を決定、東京の連合国軍最高司令官マッカーサーを国連軍総司令官に任命し、米軍を中心に16カ国からなる国連軍が編成された。

朝鮮人民軍の勢いは、国連軍参戦後もやまず、1950年8月下旬には、国連・韓国軍は、半島南東部の釜山・大邱などがある一角においこまれた。朝鮮半島の95%を北朝鮮が占領した。

9月15日、マッカーサーの指揮のもとに国連軍はソウル近郊の港町仁川への上陸を決行、韓国内の朝鮮人民軍を南北から挟撃した。
これを機に戦局は逆転し、1950年9月26日に国連軍はソウルを奪回、10月1日には韓国軍が38度線を突破し、つづいて7日に国連軍も同線を突破した。そしてこの日、国連総会は武力による朝鮮統一を承認した。国連・韓国軍はなおも北上して19日に平壌を占領。一部の部隊は26日に鴨緑江まで到達した。
しかしその前日、中国人民義勇軍が参戦して朝鮮人民軍とともに反撃に転じ、1950年12月4日に平壌を奪回、翌51年1月4日にはソウルを再占領した。これに対し、2月1日、国連総会は中国非難決議を採択、3月14日には国連・韓国軍はソウルを再奪回した。
戦線は38度線を境に膠着(こうちゃく)状態におちいり、打開策として中国本土やソ連領シベリア諸都市への原爆攻撃を主張したマッカーサーは、トルーマンにより、1951年4月11日に国連軍総司令官を解任された。以後も戦線膠着状態を打開するために、細菌弾、毒ガス弾も使用されたが、決定的な戦局の転換はおきなかった。
戦線が膠着状態になったのをみて、1951年6月23日、ソ連の国連代表マリクはラジオで休戦を提案、関係各国はこれをうけいれ、7月10日に開城を会場(10月に板門店に移動)として朝鮮休戦交渉がはじまった。しかし、交渉は遅々としてすすまず、断続的に2年間におよび、ようやく53年7月27日板門店において、国連軍総司令官マーク・クラーク、朝鮮人民軍最高司令官金日成、中国人民義勇軍司令員彭徳懐の間で休戦協定が調印された(韓国は拒否)。
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国連・韓国軍側戦死者 50万人
負傷者        100万人
朝鮮人民軍・中国人民義勇軍戦死者 100万人
戦傷者              100万人
民間人の死亡者、行方不明者南北あわせて 200万人以上

普天間飛行場

ソ連、中国、北朝鮮、北ベトナム、ラオス、カンボジアなどの共産勢力のアジア台頭に脅威を感じたアメリカは、日本、オーストラリア・ニュージーランド、韓国、中華民国への支援を強化し、共産主義の封じ込みを図った。沖縄の軍事基地強化は共産主義の封じ込み戦略のひとつであり、普天間飛行場も共産主義の封じ込みを目的に拡大強化していった。

普天間飛行場は宜野湾市大山二丁目に所在しており、その面積は約480㏊である(宜野湾市野嵩・新城・上原・中原・赤道・大山・真志喜・字宜野湾・大謝名にまたがる)。これは宜野湾市の面積の約25%にあたる。那覇都市圏を構成する沖縄県の中でもっとも人口が過密な地帯の一部であり、普天間飛行場、キャンプ瑞慶覧(面積160㏊)、陸軍貯油施設(面積2㏊)を除くと使用可能な市域の面積が1294㏊となり、1995年の時点で人口密度(約6252人/㎢)になった。これは、横田飛行場周辺自治体の人口密度に概ね相当する。

普天間飛行場は航空基地として総合的に整備されており、滑走路のほか、駐留各航空部隊が円滑に任務遂行できるための諸施設として、格納庫、通信施設、整備・修理施設、部品倉庫、部隊事務所、消防署、PX、クラブ、バー、診療所などが存在する。

普天間飛行場の歴史

普天間飛行場は終戦の年の1945年にはすでにあった。1950年宜野湾の人口は1万5,930人と少なく、普天間飛行場の周囲の多くは黙認耕作地であり人家はなかった。普天間飛行場の周囲に人家や公共施設が増えていったのは黙認耕作地が返還されるようになった1960年以降である。米軍に普天間飛行場の外側を管轄する権利はないので、人家や公共施設が増えていった原因は普天間飛行場の周囲を管轄していた宜野湾市の政策にあったといえよう。

1945年 沖縄戦の最中に、宜野湾一帯がアメリカ軍の支配下に置かれると、アメリカ陸軍工兵隊の発注により中頭郡宜野湾村(現・宜野湾市)の一部土地を接収し、2,400m級の滑走路を持つ飛行場が建設された。目的は日本本土決戦(連合軍側から見た場合ダウンフォール作戦)に備えるためであり、兵員及び物資の輸送に供することであった。
1945年 台風の直撃により建設途中の沖縄の各軍事施設が打撃を受ける。
1948年 リビー、デラ、グロリアの3台風が相次いで沖縄を直撃した。特に1949年6月のグロリアによる沖縄米軍基地全体の損害は8000万ドルに達し、その原因は基地施設がカマボコ兵舎に代表される簡易的な物が多く、天災に耐えるだけの恒久性を持っていないことにあった。これは戦後の軍事予算削減の影響を受けたものだったが、被害の大きさからより恒久的で台風や地震に耐えられる基地施設建設の機運が高まった。
1950年 朝鮮戦争勃発に伴い沖縄の戦略的価値が見直され、基地の恒久化を目的とした建設が進められることとなった。普天間もこれによる影響を受けていく。
1950年 GHQ下の極東軍司令部は1950年7月1日に遡及し、米軍が占領した民有地の借料の支払いを開始するように琉球民政府に指示した。
1953年 滑走路が2,800メートルに延長され、ナイキミサイ  
ルが配備された。
1955年 米軍は伊佐浜の土地を10万坪(立ち退き家屋32戸)接収すると通告し、住民は「土地取上げは 死刑の宣告」などのノボリを立てて反対した。しかし、7月19日の夜明け前、武装兵に守られたブルドーザーやクレーンにより家屋が取り壊され、32個136名の住民が住む家を失った。
1957年 陸軍から空軍へ管理を移管。
1960年 施設管理権がアメリカ空軍からアメリカ海兵隊へ移管された。民有地については、琉球政府が住民から土地を一括で借り上げたうえで米海兵隊に又貸しをし、軍用地料(基地・飛行場の土地賃借料)についてはアメリカ側から琉球政府に支払われたものを住民に分配する方法が採られた。
1969年 第1海兵航空団第36海兵航空群が司令部を本飛行場に移設。同航空群のホームベースとなる。
1972年 沖縄返還に合わせて事務が琉球政府から日本政府(防衛施設庁那覇防衛施設局)に引き継がれ、日米地位協定第二条第一項に基づく米軍施設および区域と定義される。また、普天間海兵隊飛行場、普天間陸軍補助施設、普天間海兵隊飛行場通信所の3施設が統合され、普天間飛行場として提供施設、区域となる。
1974年 嘉手納飛行場にP‐3Cが移駐されたことに伴い、その補助飛行場として使用するための滑走路を全面的に再整備。
1974年 第15回日米安全保障協議委員会にて一部の無条件返還および移設条件付返還を合意。
1976年 ベトナム戦争終結後の海兵隊再編に伴い、上級司令部たる第1海兵航空団司令部が岩国よりキャンプ・バトラー(中城村)に移駐し、機能強化が図られた。
1976年 返還予定の中原区から航空機誘導用レーダーを移設。
1977年 10.9㏊を返還(12月15日代替施設として飛行場内に宿舎等を追加提供)。
1977年 0.3㏊を返還。
1977年 2.4㏊を返還。
1978年 ハンビー飛行場の返還に伴って格納庫、駐機場、隊舎等を移設。
1980年 米兵、一部一般市民の犯罪に対抗して周辺住民が組織していた自警団制度を廃止する。
1980年 格納庫等建物2600平方メートルを追加提供。
1981年 「防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律」に基づき第1種区域(住宅防音工事対象区域)を指定(4740世帯)。
1983年 宿舎等建物11500平方メートルを追加提供。
1985年 宜野湾市消防庁舎用地として0.7㏊を返還。
1986年 隊舎として建物5,700平方メートル等を追加提供。
1987年 格納庫として建物5400平方メートル等を追加提供。
1992年 道路用地等として1.5㏊を返還。
1996年 普天間第二小学校校庭用地として0.9㏊を返還。
2000年 基地周辺の小学校において海兵隊員による英会話の実習を開始。
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「1955年7月11日、米軍は伊佐浜の土地を10万坪(立ち退き屋敷32戸)接収すると通告し、住民は『土地取上げは 死刑の宣告』などのノボリを立てて反対した。しかし、7月19日の夜明け前、武装兵に守られたブルドーザーやクレーンにより家屋が取り壊され、32個136名の住民が住む家を失った。伊佐浜の水田は収穫量も多く、戦前から『チャタンターブックヮ』(北谷のたんぼ)」と呼ばれる美田が広がっていました。戦時中も米軍の土地接収からもまぬがれ、戦後もかつてのように稲が植えられていました」
米軍が基地の拡大強化のためにフルドーザーと銃剣で強引に土地接収した無慈悲な行為として有名な話であり、伊佐浜の話は何度も新聞に掲載されてきた。悪徳非道のようにみえる米軍の行動であるが、ブルドーザーと銃剣で強引に土地接収したのは共産勢力のアジア拡大に対する封じ込めという理由があった。
死者350万人以上という戦後最大の凄惨な戦争が朝鮮半島で起こった。ソ連、中国、北朝鮮、ベトナムなどの社会主義国家と韓国、台湾、南ベトナム、フィリピン、アメリカとの対立はいつ戦争が起こってもおかしくない状態にあり、アメリカ軍は早急にアジアの駐留軍を強化する必要に迫られていた。アジア全体の軍備強化のひとつとして伊佐浜の強制土地接収があった。
もし、アメリカ軍が沖縄・日本に駐留していなかったら、沖縄は中国に占領されていたはずである。米軍基地がなければ平和で豊かな沖縄になれたと考えるのは非現実な妄想だ。

 土地を接収された伊佐浜の農民や全島の人たちが土地闘争をするのは当然であるが、米軍が強引に土地接収した理由には第二次世界大戦後の世界を二分にしたソ連・中国の社会主義圏とアメリカ・ヨーロッパの資本・民主主義圏との熾烈な対立があった。伊佐浜の土地接収を問題にするのなら背景にある中国、北朝鮮との対立、朝鮮戦争、ベトナム戦争、チベット侵略など社会主義圏と資本・民主主義圏の対立を問題にするべきである。

 米軍の土地接収でうっかり見逃していたことがある。私の周り起き、直接見てきたである読谷の土地接収についてである。
海の近くにあった渡久地の住民全員が通信基地トリイステイション設立のために立ち退きとなり私が住んでいた比謝の隣に引っ越してきた。米軍は木や草が生えている広大な丘をブルドーザーであっというまに整地した。子供の私はブルドーザーの威力に驚嘆したのを覚えている。休みの日にブルドーザーを警備しているガードマンが友達の父親だったので、私たちはブルドーザーに乗ったりして遊んだ。整地された広大な広場は子供たちの絶交の遊び場であった。雪合戦ならぬ泥を丸めて投げ合う泥合戦もやった。
 楚辺も全住民が強制的に立ち退きされて、米軍が整地した今の場所に移った。読谷の場合は伊佐浜のような抵抗運動はなかったようである。強制立ち退きは渡久地、楚辺だけではなかった。嘉手納弾薬庫内にあった大湾、比謝橋、比謝、牧原、伊良皆、長田などが強制立ち退きをされた。嘉手納弾薬庫は伊佐浜とは比べ物にならないほどの広大な土地である。しかし、伊佐浜のような抵抗運動はなかった。
 唯一、強制立ち退きに抵抗して頑張った家が一軒だけあった。その家は幼稚園の時からの友達であるUの家だった。彼の父親は人民党員だった。だから最後まで立ち退きに抵抗したのだろう。彼の家のまわりには家がなくて畑や雑草が茂っている広場が多かったので絶好な遊び場所だった。私は彼の家の近くでよく遊んだものだ。彼の家のある場所に米軍の設備を立てるわけではなく、黙認耕作地であったから米軍の銃とブルドーザーによる強制撤去はなかった。数年後に私の家の近くに引っ越してきた。
 新聞では何回も米軍による銃とブルドーザーによる強制立ち退きの記事が載るのだが、ほとんどは伊佐浜か伊江島である。伊佐浜と伊江島以外の場所が載ったことはない。もしかしたら強制立ち退きに抵抗したのは伊佐浜と伊江島だけかもしれない。
 新聞には銃とブルドーザーによる強制撤去は何度も掲載されるが、辺野古が米軍基地を受け入れたことは掲載しないし、辺野古が繁栄したので土地闘争が崩れていった話も掲載しない。
 都合の悪いのは話題にしないのが沖縄のマスコミ、学者、知識人である。残念である。
 
普天間第二小学校
         
 宜野湾市立普天間第二小学校は、宜野湾市の北、国道58号線と国道330号線を結ぶ県道81号線の中ほどにあり、学校の北側には普天間三叉路があり、その周辺に普天間神宮や商店街などが立ち並んでいる。南側は米軍普天間飛行場とフェンス越しに向かい合っている。そのため、輸送機やヘリコプターの離着陸の騒音にさらされている。宜野湾村が市になった1962(昭和37)年ごろから人口が増え、中心地の普天間小学校の児童数も限界に近づいていたことから普天間第二小学校の建設は計画され、1969(昭和44)年に分離開校した。現在の校舎は1996(平成8)年に普天間飛行場を0.9㏊返還させて拡張した新校舎で、オープン教室となっている。

 普天間飛行場の危険性を問題にするときに必ず取り上げるのが普天間第二小学校である。子供たちが遊んでいる校庭の向こう側から数台の軍用ヘリコプターが一斉に飛び立つ映像はまるでベトナム戦争を見ているようで背筋が凍る。
 非常にインパクトがある映像に多くの人は普天間飛行場の危険性を痛切に感じる。普天間飛行場からの騒音は教室内でも100ベシレル以上もあり、騒音で授業は中断される。普天第二小学校の騒音被害を報じるたびにマスコミは一日も早い普天間飛行場の撤去を訴える。
 政治家、知識人、学者、教師、市民など多くの人たちが普天間飛行場の移設を訴える。ただ、彼らのほとんどは日米政府が計画している普天間飛行場の辺野古移設には反対していて、普天間飛行場の辺野古移設は膠着状態であり、普天間飛行場の移設は不明である。普天間飛行場の撤去を訴えている人の多くは「県外移設」を主張している。不思議なことに普天間第二小学校の移転を主張する人はほとんどいない。
 今年の宜野湾市長選の時、保守系の立候補者は普天間飛行場の県外移設を主張し、革新系の立候補者は閉鎖か国外移設を主張した。両立候補者とも辺野古移設は反対した。辺野古移設をやらないで、県外移設か国外説を実現するには最低でも7、8年は普天間飛行場は固定してしまう。最低でも7、8年というのは希望的観測であり、今までの歴史を考えれば10年以上固定するだろう。そうであるならば子どもたちの危険と騒音被害を軽減するために普天間第二小学校を普天間飛行場から離れた場所に移設したほうがいいと思うのだが、両立候補者とも普天間第二小学校の移転については一言も発言しなかった。
 普天間第二小学校の騒音問題を取り上げるマスコミも普天間飛行場の「県外移設」を訴えることはあっても普天間第二小学校の移転を訴えることはない。政治家、知識人、学者、市民運動家も普天間第二小学校の騒音被害や危険性を問題にしても移転を主張することはない。不思議な現象である。普天間第二小学校の移転を発言するのはタブーになっているのだろうか。

普天間第二小学校は1969年に創立している。1969年といえば、ベトナム戦争が激しくなっていた頃である。前年の1968年には嘉手納飛行場からベトナムに向けて飛び立とうとしたB52重爆撃機が墜落炎上し、大爆発を起こして県民を恐怖のどん底に落とした。1968年には「命を守る県民共闘会議」が結成され、県民の反基地運動が一番盛り上がった時であった。その時に宜野湾市は普天間第二小学校を普天飛行場の金網沿いにつくったのである。普天飛行場の金網沿いにつくれば騒音被害、飛行機墜落の危険があるのは当然である。それを承知の上で宜野湾市は普天間飛行場の金網沿いに普天間第二小学校を創立したのだ。
子どもの人権を踏みにじる行為をしたのは宜野湾市政である。非難されるべきは宜野湾市政であり米軍ではない。
前の年に、嘉手納飛行場でB52重爆撃機が墜落炎上し、大爆発を起こした。普天間飛行場でヘリコプターや輸送機の墜落炎上の恐れを一番感じている時に宜野湾市は普天間飛行場の金網沿いに普天間第二小学校をつくったのである。子どもたちを基地被害の人身御供にして、基地の危険性をアピールするために普天間第二小学校をつくったのではないかと疑ってしまう。

普天間第二小学校移転問題

1969年当時は普天間第二小学校周囲は空き地が多かった。普天間飛行場から離れた場所でも小学校をつくることは楽にできたはずである。それなのに宜野湾市政はわざわざ金網沿いに小学校をつくった。なぜ、金網沿いにつくったのだろうか。学校は広い敷地が必要であり、土地購入代の負担が大きい。そのために学校をつくる場所はできるだけ土地代が安い所を選ぶ傾向にある。だから、住宅街からは遠く離れた土地代が安い場所に学校をつくることが多い。人家の少ない場所に学校ができ、その後に人家が増えていくパターンが普通である。沖縄国際大学も那覇市の土地が高いので土地の安い普天間飛行場の近くに創立したという経緯がある。そのように考えると普天間第二小学校を普天間飛行場の金網沿いにつくったのは、その土地が市有地であったか安かったからであろう。普天間飛行場の金網沿いにつくれば子どもたちの騒音被害や飛行機墜落の危険は明らかであった。子どもの人権よりお金なのである。

読谷村にも金網に囲まれた小学校がある。字大木の西外れにある古堅小学校である。私が在籍していた頃は古堅小中学校であり、私は9年間在籍した。古堅小学校は西と南が金網でL字状に囲まれていて、ボール遊びをするとボールが金網の中に入ることが度々あった。ボールを取りに金網を飛び越えて基地内に何度も侵入した経験がある。私たちにとって基地侵入は日常茶飯事であった。基地侵入は犯罪であるが、それをやらなければならなかったのが金網に囲まれた学校の生徒の宿命であった(苦笑)。金網に張り付いて移動する競争や誰が金網を早く飛び越えるかの競争もやった。子供は周りのものを全て遊びにする。たとえ、米軍基地でも。

普天間飛行場の金網沿いに小学校をつくるということは騒音が大きいし、ヘリコプターの墜落の可能性があるのははっきりしている。それに金網を目の当たりした学校生活は閉塞感をもたらす。米軍基地の金網沿いに学校をつくるのは教育上非常に悪いことである。
普天間飛行場の金網沿いに小学校をつくったということは、子どもの人権をないがしろにした宜野湾市の市長、議員、市民であったということである。

1987年(昭和57)に、普天間第二小学校から200メートルしか離れていないところに米軍ヘリが不時着炎上した。当時、宜野湾市長だった安次富(あしとみ)盛信さん(79)によると、これまでも爆音被害に悩まされていたが、炎上事故を受け、小学校に米軍機が墜落しかねないとの不安が広がり、移転を望む声が地域の人たちから沸き上がったという。
 安次富さんらは移転先を探したが確保できなかったため米軍と交渉。約1キロ離れた米軍家族用の軍用地のうち8千坪を校舎用に日本に返還することで合意。防衛施設庁とも協議して移設予算も確保した。
 ところが、市民団体などから「移転は基地の固定化につながる」などと抗議が殺到した。安次富さんは「爆音公害から少しでも遠ざけ危険性も除去したい」と説明したが、市民団体などは「命をはってでも反対する」と抵抗したため、計画は頓挫したという。

 その後、昭和63年から平成元年にかけ、校舎の老朽化で天井などのコンクリート片が落下して児童に当たる危険性が出たため、基地から離れた場所に学校を移転させる意見が住民から再び持ち上がった。だが、やはり市民団体などに「移転せずに現在の場所で改築すべきだ」と反対され、移転構想はストップしたという。それどころか普天間飛行場の0・9ヘクタールを開放させて、学校の敷地を拡大したという。普天間飛行場から離れるどころかますます普天間飛行場に食い込んだのである。信じられないことである。
 
1968年に嘉手納飛行場でB52重爆撃機が墜落炎上爆発した翌年に普天間第二小学校をつくり、小学校から200メートル離れた場所でヘリコプターが不時着炎上したのに移転はしなかった。老朽化した時にも移転の希望が持ち上がったが結局は移転しなかった。
普天間飛行場の「県外移設」を主張する人は多いが普天間第二小学校の移転を主張する人はほとんどいない。不思議な現象である。普天間飛行場の騒音が子供の人権を犯していると主張する人が多い。しかし普天間飛行場の金網沿いであれば当然のことである。宜野湾市は騒音被害が大きいのを知りながら金網沿いに普天間小学校をつくったのだ。1969年から40年以上も移転をしないで普天間第二小学校の子供たちを騒音被害にさらしてきたのは宜野湾市政であり、宜野湾市政の責任は大きい。
普天間第二小学校問題と普天間飛行場撤去は別の問題であり、子どもの人権を守るために普天間第二小学校はできるだけ早く安全な場所に移転するべきである。安次富さんが移転しようとしていた外人住宅地は現在使用していない。その場所に一日も早く移転するべきである。
普天間第二小学校を移転させても普天間飛行場の騒音被害や危険性がなくなるわけではないから普天間飛行場撤去運動に影響を及ぼすことはない。普天間第二小学校の移転より普天間飛行場の移転が先であると主張するのは馬鹿げている。

普天間飛行場の周囲は黙認耕作地だった
 
 普天間飛行場は沖縄を占領したアメリカ軍がつくった。普天間飛行場の近くに最初のころに家を建てた當山宏徳氏は、日本文化チャンネル桜沖縄スペシャル「普天間の真実」のジャーナリスト大高末貴のインタビューに「返還されたから家をつくった」「解放されたから家をつくった」と答えている。本土の若いジャーナリスト大高末貴さんは「返還」「開放」の意味が分からないで無視したが、読谷村の黙認耕作地の近くで育った私は當山宏徳氏の話がすぐに理解できた。當山宏徳氏は軍用地だった土地が解放されたので、その土地に家をつくったと話したのだ。
本土の人だけでなく沖縄に住んでいる人でも米軍の軍用地はすべて金網で囲まれていると思っているだろう。しかし、軍用地であっても金網に囲まれていない場所は多い。例えば嘉手納弾薬庫である。嘉手納町を過ぎて読谷村に入ると大湾から比謝、伊良皆、喜納を過ぎ、恩納村に入るまで右手の方には畑だけが見え、家は一軒もない。金網はないがこの一帯も軍用地であり、家をつくるのは禁じられている。この軍用地は出入りは自由で、畑をすることもできる、しかし、一切の設備をつくることは許されていない。軍用地でありながら出入りが自由で畑をすることができるのを黙認耕作地と呼んでいる。
昔、普天間飛行場の周囲を見たことがあるが、普天間飛行場の金網から数百メートルの場所には畑だけがあり、家はなかった。だから、私はその一帯は黙認耕作地だろうと思っていた。當山宏徳氏のインダビューを聞いた時、私の予想はあたっていたと確信した。
當山宏徳氏は普天間飛行場の黙認耕作地であった土地が解放されたので家をつくったと話したのである。終戦直後の普天間飛行場の周囲は軍用地であったから人家は一軒もなかったはずである。
そして、普天間第二小学校をつくったころから徐々に普天間飛行場の周囲が解放されていき人家が増えていったのだろう。

普天間飛行場のクリアゾーンは誰の責任か

「クリアゾーン」とは飛行場周辺の危険地帯のことであり、アメリカでは住民が住むのを禁じている。しかし、宜野湾市の普天間飛行場では「クリアゾーン」の中に、住宅約800戸、公共施設、保育所、病院が18カ所存在し、約3600人が暮らしている。世界一危険な飛行場と呼ばれている所以である。
なぜ、「クリアゾーン」の中に3600人もの人たちが住むようになったのだろうか。

宜野湾市政が普天間飛行場周辺を危険地帯としてクリアゾーンを設定し、人が住むのを禁じていれば普天間飛行場周辺に人が住むことはなかっただろう。しかし、宜野湾市政はクリアゾーンを設定しないで人が住むのを許可した。そのために普天間飛行場の周囲に住宅や建物がどんどん増えていった。
米軍が管轄できるのは基地内である。普天間飛行場の周囲が軍用地の黙認耕作地だった時は人が住むのを禁じられていたが、軍用地が解放されてしまうと管轄する権限は米軍から宜野湾市に移った。
軍用地が解放されて宜野湾市が管轄するようになると、宜野湾市は普天間第二小学校をつくった。普天間第二小学校をつくったのは宜野湾市政の方針であり、沖縄国際大学をつくらしたのも宜野湾市政の方針である。普天間第二小学校や沖縄国際大学を創設したことに米軍は一切関係していない。
普天間飛行場のクリアゾーンに公共施設、保育所、病院18カ所をつくったのは米軍ではない。宜野湾市である。もし米軍の方針を反映させていたならクリアゾーンに公共施設、保育所、病院の建設を許可しなかったはずである。クリアゾーンに建設を積極的にやったのは宜野湾市政である。宜野湾市政はどんどん公共施設や保育園や病院をつくっていったのである。
クリアゾーンに住宅約800戸、約3600人の住民が暮らしているのは米軍が望んだことではなく、宜野湾市政が望んだことであり、宜野湾市政の方針があったから、米国では危険地帯として人が住むのを禁じているクリアゾーンに約3600人もの人々が住んでいるのである。
アメリカ政府は飛行場の外にクリアゾーンを設定して、クリアゾーンに人が住むことを禁じている。しかし、宜野湾市では3600人がクリアゾーンに住んでいる。3600人が普天間飛行場のクリアゾーンに住むのを許可したのは宜野湾市の市政である。アメリカ政府にとってのクリアゾーンは宜野湾市にとってはクリアゾーンではなかったということである。
3600人がクリアゾーンに住んでいるということは、宜野湾市政は住民の安全性や騒音被害に関心がなかったということであり、クリアゾーンを設定する意思が全然なかったということが推測できる。

普天間飛行場周辺の騒音被害や危険性は依然からあったことであり、宜野湾市政はそのことを知っていながら普天間飛行場の周辺に人を住まわしたのである。騒音や事故の危険性を無視したのは宜野湾市政である。

普天間飛行場の移設問題

1996年に3人の米兵による婦女暴行事件をきっかけに反米運動が高まった。危機感を持った日米両政府は8000人の海兵隊のグアム移転と嘉手納飛行場以南の米軍基地の撤去と普天間基地の辺野古移設を発表した。しかし、辺野古移設が反対運動の抵抗に会い計画は難航している。

世界一危険な普天間飛行場は三通りの移設問題が持ち上がっている。国外移設、県外移設、辺野古移設である。

沖縄の反戦・平和運動は、「沖縄に米軍基地があるから戦争に巻き込まれる」という理由で沖縄の米軍基地の撤去を主張してきた。米軍基地の撤去とは国外に撤去するということである。米軍基地がなければ沖縄は平和で豊かな社会になると反戦・平和運動家や革新政治家は主張してきた。
日本や沖縄が戦争に巻き込まれないために米軍基地である普天間飛行場は国外に撤去しろというのが反戦・平和活動家や革新政治家の主張である。社民党はグアムへの移設を強力に主張している時期があった。
一方、米軍基地は中国の脅威に対抗するためには必要であると考える保守系政治家は辺野古移設を主張してきた。
革新系の普天間飛行場の閉鎖か国外移設の主張と保守系の辺野古移設の二分した主張が続いていたが、新たに「県外移設」の主張が登場した。
「できるなら国外、最低でも県外移設」を選挙公約にした民主党は選挙戦に圧倒的に勝利した。民主党が与党になったので、「できるなら国外、最低でも県外移設」の公約が実現するものと県民は期待した。首相になった鳩山氏は「できるなら国外、最低でも県外移設」を公言した。国外移設候補はグアムであり、グアム移設か県外移設で揺れたが、次第にグアム移設が困難であることが明確になるにつれて「最低でも県外移設」と発言し続ける鳩山元首相に県民の期待が集中し、「県外移設」は盛り上がった。民主党議員のほとんどは与党になった途端に「県外移設」を口にしなくなったが、鳩山元首相だけは「県外移設」が実現できると思い込み、移設場所を必死に探した。色々な候補地があがったが、ほとんどの場所が小泉元首相時代に移設を断念した場所であり、鳩山元首相の「県外移設」は頓挫した。そして、「辺野古移設」に戻った。県民の多くが鳩山元首相の辺野古回帰に落胆した。そして怒った。
 鳩山元首相の「県外移設」は実現しなかったが、県民の「県外移設」への要求は熱いままである。
鳩山元首相は沖縄の過重な基地負担を軽減するとして、いわゆる沖縄への同情から普天間飛行場の「県外移設」を主張してきたが、市民の側からは「県外移設」は当然とする理論が登場した。それが構造的差別論である。
 国土の1パーセントにも満たない沖縄に、日本の米軍基地の75パーセントが集中しているのは日本政府が沖縄を差別しているからだという考えが構造的差別論である。
 沖縄の差別をなくすために沖縄の米軍基地は日本全体で平等に負担するべきであり、そのためにも普天間飛行場は本土に移設するべきであると構造的差別論者は主張する。構造的差別論は「沖縄の負担を軽減する」という思いやり的な考えに対して「県外移設」は沖縄の構造的な差別を解消するための正当な要求であり、沖縄の権利であると主張している。

自民党本部・民主党政府・・・・辺野古移設
沖縄自民党・民主党・・・・・・県外移設
社大党・・・・・・・・県外・国外移設
共産党・社民党・・・・国外移設・閉鎖
マスコミ・知識人・・・・・県外移設
辺野古区民と北部の自民党、建設業者・・・辺野古移設

国外移設

1968年11月19日に、嘉手納飛行場でB52の墜落炎上事故が起こり、沖縄住民にあらためて米軍基地の危険性、嘉手納弾薬庫の核施設の恐怖を喚起させた。その年の12月7日に、「生命を守る県民共闘会議」が結成され、スローガンに「命どぅ宝」を掲げた。「なによりも一番大事なのは命であり、戦争は武装した人間同士が殺りくを繰り返すこと、あるいは武器を手にした人間が武器を持たない人間の命を奪うことであり、戦争は愚かで悲しく、絶対に許されない行為である」と「生命を守る県民共闘会議」を中心に沖縄の反戦平和の運動は沖縄の米軍基地のすべてを撤去するように主張し続けてきた。国外移設を主張することは反戦平和を主張することと同じことである。
 共産党、社民党、社大党の革新政党と沖縄教職員組織が中心となって反戦平和・米軍基地撤去運動を推進してきた。
 国外移設候補地はグアムだった。社民党はグアム移設に積極的だったが、現地調査では、沖縄本島の半分以下の面積であるグアム島に、すでに面積の3分の1をアメリカ軍基地が占めていて、新たに普天間飛行場を移設するのは困難であることや、ヘリコプターがアジアの緊急事態に対応することができないという米軍の主張もあり、グアム移転は困難視された。
鳩山元首相の積極的な「県外移設」の言動に「国外移設」の主張は次第に萎んでいった。

県外移設

県外移設を最初に検討したのは小泉元首相であった。辺野古海上移設は移設反対派の激しい抵抗で断念せざるをえなかった。辺野古海上移設を断念した小泉元首相は県外に普天間飛行場の移設場所を探した。しかし、見つけることはできなかった。小泉元首相は県外移設を断念して辺野古の陸上に移設することにした。辺野古移設の検討は小泉首相の退陣後も続けられ、最終的にV字滑走路にすることで県側、名護市の了承を取った。ところが移設工事をする前に、自民党政権から民主党政権に変わり、新しい政権の長となった鳩山元首相は「最低でも県外移設」を公約にした。「県外移設」に県民の期待が集まったが、結局は移設先を見つけることができなくて辺野古移設に戻った。
 自民党だけでなく、野党のときは国外・県外を主張していた民主党も政権を握ったら辺野古移設になった。
 しかし、民主党によってかきたてられた沖縄の市民の「県外移設」への期待は熱いままである。沖縄の構造的差別をなくすために普天間飛行場は本土に移設するべきだという主張は根強い。

沖縄の構造的差別は本当か

 1パーセントの土地に75パーセントの米軍基地があるのは日本政府の沖縄への構造的差別である。差別を解消するためには沖縄の米軍基地は全国で平等に負担するべきであり、普天間飛行場は本土に移設するべきであると主張しているのが構造的差別論である。構造的差別論者たちは日本を守っているのは米軍であるという印象を与えているが、日本を守っているのは米軍だけではない。自衛隊がいる。全国の自衛隊員は22万8536人である。構造的差別を主張している人たちは自衛隊の存在を計算に入れていない。

➀ 航空自衛隊の主要装備
F-15戦闘機201機(F15運用国ではアメリカに次いで第2位の保有数である)、F‐2戦闘機80機、F‐4戦闘機約64機、合計345機余と、E-2早期警戒機が13機、E‐767早期警戒管制機が4機と、早期警戒機の数も多く、またKC‐767空中給油機が4機と自衛隊の防空能力は高い。
➁ 海上自衛隊の装備
通常動力型潜水艦16隻、護衛艦約50隻、ヘリコプター、哨戒機、電子戦機合計で約300機保有する。
➂ 陸上自衛隊の装備
戦車2、542両、装甲車両3、081両、自走砲1、307両、火砲・ロケット1、651台、誘導弾1、369個、ヘリコプター1、138機、航空機311機。

日本の軍事力は在日米軍よりはるかに自衛隊のほうが勝っている。日本の防衛は自衛隊と在日米軍のコンビネーションでなりたっているのであって米軍だけが日本を防衛しているわけではない。本土の自衛隊基地の存在を無視して、1パーセントの土地に75パーセントの米軍基地があると、在日米軍だけが日本を防衛しているように考えるのは間違いである。むしろ、米軍よりもはるかに自衛隊のほうが日本を防衛している。
日本の軍事力は自衛隊と在日米軍の合計で判断するべきであり、沖縄の米軍基地は日本全体の自衛隊基地と米軍基地の配置のありかたで問題にするべきである。

自衛官の総計      22万8536人
本土所在米軍人      2万2078人
在沖米軍人        2万2772人 (自衛隊比10%)
在日米軍合計       4万4850人 (自衛隊比19・6%)
自衛隊員+米軍人    27万3386人
米軍人の全体比       16%、
在沖米軍人の全体比     8・3%

 在日米軍だけの比率でみれば本土所在米軍人2万2078人、在沖米軍人2万2772人であり、在沖米軍人の比率は約50%であるが、自衛隊も合わせた全体の人数の比率からみれば8・3%である。
 8・3%でも1%の面積しかない沖縄には比率が高いといえるが、沖縄に米軍基地が集中したのには、米軍が沖縄に上陸した時に戦争が終わったという歴史的な偶然と、対立している北朝鮮、中国、ベトナムとは地理的に扇の要の位置にあるという軍事的な必然もある。それに日米政府は嘉手納飛行場以南の米軍基地は返還し、8000人の海兵隊をグアムに移動すると提案したのだから、沖縄の米軍基地は半減し、在沖米軍人の全体比は5・4%になる計算になる。それを考慮に入れると、米軍基地が沖縄に集中しているとは言えない。
 沖縄に米軍基地があるから日本の安全が守られてきたと、米軍だけが日本を守っていると考えるのは間違った考えであることは自衛隊が22万8536人も居て、在沖米軍人が2万2772人しかいないことから分かることである。
 アジアに駐留している米軍が日本を守っているのは確実であるが、たった、2万2772人の在沖米軍だけが日本を守っているというのは大げさである。日本と沖縄は自衛隊と在日米軍のコンビで防衛している。
軍事ジャーナリストの惠隆之介氏によると、米軍専用基地は確かに75%が沖縄にあるが、全国にある米軍基地を自衛隊との共用基地も含めて計算すると沖縄の米軍基地は24%にしかならないという。
構造的差別論は、米軍だけが日本を守っているという考えであり、米軍が本土で自衛隊と共同使用している基地を計算に入れていないし、自衛隊を日本を守る軍隊として計算に入れていない。構造的差別論は事実を正確に把握していない理論である。

国外移設主張と県外移設主張の本質的な違い

1968年に「命をまもる県民共闘会議」を結成して以来、革新政党や教職員組合等は平和憲法を重んじ、「命どぅ宝」をモットーとした反戦・平和運動を展開し、米軍基地の撤去を主張し続けてきた。米軍基地撤去とは米軍基地の国外移設のことであり、国外移設には反戦平和の思想が根底にある。 

一方、普天間飛行場の「県外移設」を主張するのは、日本政府の沖縄への差別を問題にしている。沖縄だけがいつまでも基地の過重な負担を背負い続ける構図は「構造的差別」であり、普天間飛行場の辺野古移設は沖縄への構造差別を押し付けることになる。構造差別をなくすために普天間飛行場は本土に移転するべきだと主張している。

国外移設=反戦平和、県外移設=構造的差別の解消

県外移設論は米軍基地を日本国内に移設することであり、日本国内から米軍基地を撤去するということではなく、米軍基地の日本国内での現状維持を認めている。「米軍基地があるから戦争に巻き込まれる」「沖縄・日本が戦争のない平和で豊かになるためには米軍基地は日本からなくすべきである」という反戦・平和思想は構造的差別論にはない。
共産党、社民党は平和憲法遵守の立場であり、全てのアメリカ軍が日本から撤去することを主張している。「県外移設」を主張することは米軍基地の「本土受け入れ」に賛成することであるから、共産党・社民党は「県外移設」を主張することはありえない。
社民党である伊波元市長は宜野湾市長選に立候補した時、普天間飛行場の閉鎖と国外撤去を主張したが県外移設は主張しなかった。 
稲嶺名護市長は「辺野古に新しい基地をつくらせない」と主張していて、普天間飛行場の「県外移設」には言及していない。しかし、稲嶺市長は「県外移設」を主張する民主党議員と一緒に渡米した。矛盾した行動である。

普天間飛行場の国外移設=グアム移設は可能か

普天間飛行場の国外移設候補地になったのはグアムである。ハワイやアメリカ本国も候補地に上ったが、アジアから遠すぎるのですぐに候補からはずれた。
グアム移設に積極的だったのが社民党と共産党だった。アメリカ政府はアジアから遠く、緊急事態に対応できないという理由で普天間飛行場のグアム移設に反対した。
すでにグアム島の面積の3分の1をアメリカ軍事基地が占めている。島の北部には3,000m級滑走路が2本あるアンダーセン空軍基地が存在する。沖縄本島に駐屯しているアメリカ海兵隊8,000人がグアムに移駐する予定であり、それに加えて普天間飛行場の移設となるとグアムの負担は大きい。沖縄本島の半分しかないグアムでは普天間飛行場の移設は困難であることが明確になってきた。
沖縄の構造的差別を主張する市民団体は、日本政府に差別されている沖縄民族、アイヌ民族と同じようにグアムの先住民・チャモロ族もアメリカに差別されている民族であると主張し、チャモロ族の、「米軍増強は、われわれが現在甘んじている政治的立場とあいまって、先祖代々受け継いだ文化と民族の誇りに対するジェノサイド(大虐殺)をもたらす」という主張に同調し、普天間飛行場のグアム移設に強く反対している。
アメリカ政府の反対、グアム現地の反対に加え、沖縄の構造的差別を主張する市民団体の反対もあり、グアム移設の主張は小さくなっている。
グアム移設は不可能である。

普天間飛行場の「県外移設」は可能か

積極的に県外移設を主張しているのはマスコミ、知識人、市民団体と沖縄の自民党と民主党である。
県民の多くは「県外移設」に賛成している。仲井真知事や沖縄自民党は「県外移設」を公約にしている。沖縄民主党も「県外移設」を主張し、多くの知識人も「県外移設」を主張している。「県外移設」に反対の立場であるはずの共産党や社民党も「県外移設」に表だって反対はしていない。
沖縄の大勢は「県外移設」であるが、県民の大多数が賛成するだけでは「県外移設」を可能にすることはできない。県外移設が実現するには絶対的な条件として普天間飛行場の受け入れに移設先の住民が賛成することである。はたして本土に普天飛行場を受け入れる住民がいるだろうか。

 県外移設を最初に検討したのは小泉元首相であった。辺野古海上移設案は移設反対派の激しい抵抗運動に会い、小泉首相は普天間飛行場の辺野古海上移設を断念した。県内移設は困難だと考えた小泉元首相は県外に普天間飛行場の移設場所を探した。しかし、見つけることはできなかった。本土への移設を断念した小泉元首相は辺野古の海上ではなく陸上に普天間飛行場を移設することにした。小泉元首相の意思を受け継いだ自民党首脳は陸上と海を半々に利用するV滑走路飛行場にすることで県側、名護市の了承を取ったが、移設工事をする前に、政権が自民党から民主党に変わり、新しく首相になった鳩山氏は「最低でも県外移設」を公約にした。しかし、鳩山元首相は普天間飛行場を移設できる場所を見つけることができなくて辺野古移設に戻った。
 自民党・民主党の両政府の最高権力者である首相が県外に移設場所を探すことができなかった。この事実は重い。この事実は「県外移設」は不可能に近いということを示している
「県外移設」を主張する沖縄の政治家や知識人は多い。しかし、彼らは自民党、民主党の両政府の首相が移設場所を見つけることができなかった事実を軽視している。彼らは政府や官僚が「県外移設」を真剣にやろうと思えば実現するものだと考え、「県外移設」ができないのは政府や官僚が真剣に取り組んでいないからだと主張している。多くの県民は沖縄の政治家や知識人の影響で政府がその気になれば「県外移設」ができると信じている。本当にそうだろうか。

馬毛島は鹿児島県にある無人島である。住民の住んでいる島から12キロメートル離れた場所に馬毛島はある。馬毛島は米軍空母艦載機の離着陸訓練の候補地になっていた。完成すれば嘉手納飛行場の戦闘機も馬毛島で離着陸訓練をやる予定であった。
「馬毛島」のある鹿児島県西之表市の市議会議員らが来県し、嘉手納飛行場を視察した。市議たちは嘉手納飛行場の戦闘機のごう音に驚いた。嘉手納飛行場を視察した市議たちを中心に馬毛島の離着陸訓練への反対運動が広がった。県や地元4市町の反対によって馬毛島の滑走路の建設は中止している。
12キロも離れている無人島の「馬毛島」で戦闘機の離着陸訓練する滑走路を造るこことでさえ反対するのが本土の住民である。沖縄のマスコミや米軍基地反対派の人たちは米軍基地被害のひどさや海兵隊員の恐ろしさを本土の人たちに発信し続けてきた。だから本土の住民は米海兵隊がやってくることに恐怖し拒否反応が起こる。
普天間飛行場用地の大きさは馬毛島の離着陸訓練用滑走路の比ではない。普天間飛行場移転となると馬毛島と違って海兵隊もやってくる。住民の住んでいる場所から12キロメートルも離れている馬毛島の離着陸訓練用滑走路建設にさえ反対するのだから、普天間飛行場の移設ならもっと激しい反対運動が起こるだろう。西之表市の市議会議員らの「馬毛島」の陸上着陸訓練滑走路建設への拒否反応をみれば、本土の住民が普天間飛行場を受け入れるのは不可能であることがわかる。

普天間飛行場の本土移設にはもうひとつ重要な問題がある。普天間飛行場は海兵隊が使用する飛行場であるから海兵隊が駐留している沖縄から離れすぎた場所に移設することはできない。普天間飛行場の移設先は距離が限られている。与論島から徳之島、九州南部あたりが限界といわれている。しかし、その場所で受け入れ可能な場所がないのはすでに調査済みである。移設ができないという結論が出た地域に移設場所を探すことはできない。

県外移設は不可能

政府は小泉首相時代と鳩山首相時代に「県外移設」をやろうとしたが移設場所を探すことができなかった。二度も「県外移設」に失敗した政府は「県外移設」を諦めて辺野古移設一本に絞っている。政府が今後「県外移設」を模索することはないだろう。日米両政府は辺野古に移設するまでは普天間飛行場を維持するつもりでいる。沖縄側が「県外移設」を政府に訴えても政府が動くことはないだろう。

政府に頼らないで、自分たちで移設先を探す以外に「県外移設」を実現する方法はない。「県外移設」を主張する沖縄の政治家や知識人が「県外移設」を実現する会を設立して、全力で本土の移設できそうな場所を調査するのが「県外移設」実現のための第一歩である。
 しかし、今まで、「県外移設」を主張している県知事や市町村長や知識人たちが、政府は頼りにならないから自分たちで県外移設場所を探すのだと発言したことは一度もない。政府が「辺野古移設しかない」と断言しているのにもかかわらず自分たちで本土の移設先を探そうとはしない。
自分たちで本土の移設先を探そうとしないのはなぜか。沖縄の県知事や市町村長や知識人たちは「県外移設」ができる場所はないという事実を知っているからである。馬毛島の例があるように本土の住民は米軍基地への拒否反応は強い。もし、「政府が探さないなら自分たちで探す」などと宣言して県外移設場所を探したら、県外移設場所がないことを自分たちで明らかにしてしまい、「県外移設」に自分たちで終止符を打ってしまうことになる。沖縄の県知事や市町村長や知識人たちはそのことを知っているのだ。
「県外移設」を主張し続けるためには、自分たちで移設場所を探さないことである。だから、誰ひとりとして「県外移設」場所を自分たちで探そうとは発言しない。自分たちで探すとは言わないで、政府に「県外移設」を主張している人たちのずるさを感じる。
普天間飛行場の受け入れに賛成する住民は本土にはいない。普天間飛行場の「県外移設」は不可能である。

辺野古移設は可能か

 稲嶺名護市長は、辺野古移設は不可能といい、仲井真知事も辺野古移設は不可能と言っている。ただ、仲井真知事が不可能と言っているのは名護市長が不可能だと言っているからであり、以前は辺野古移設に賛成していた。辺野古区の住民は辺野古移設に賛成である。

日米政府 賛成
本土自民党 賛成
仲井真県知事  反対
稲嶺名護市長  反対
辺野古区民   賛成

 仲井真知事が辺野古移設は不可能であるという根拠は辺野古移設反対派の稲嶺氏が名護市長に当選し、市議会も革新系の議員が過半数になったからである。自民党である仲井真知事の本心は辺野古移設に賛成である可能性は高い。

辺野古が過疎化するのは時間の問題である。それなのに、県も名護市も辺野古の過疎化を食い止める政策がない。過疎化阻止を県にも名護市にも頼ることができない辺野古区民が選択したのが普天間基地の辺野古移設である。辺野古に米軍の飛行場ができれば雇用が増える。米兵相手の商売も増える。辺野古飛行場を見学する観光客も増えるだろう。過疎化を食い止めることができると考えて辺野古区民は普天間飛行場の辺野古移設に賛成している。
地元の辺野古区民が移設に賛成しているのだから辺野古移設は可能である。政府が辺野古移設に有利な点は辺野古の住民が賛成していることである。日本中で普天間飛行場の受け入れに賛成しているのは辺野古区だけである。辺野古以外に普天間飛行場を移設できる場所はない。

辺野古は「銃器とブルドーザー」で土地接収している米軍に立ち向かい、島ぐるみの土地闘争が盛り上がっていた1956年に軍用地受け入れをやった過去がある。その時は辺野古は久志村であり、名護市に併合されていなかったので、辺野古の意思は久志村の意思となっていた。
 「どんなに反対しても銃とブルドーザーで土地を接収されるなら、むしろ受け入れを表明して、こっちの要求も聞いてもらおう」というのが辺野古が軍用地受け入れを決意した理由である。それは苦渋の選択であった。
一 農耕地はできる限り使用しない。
二 演習による山林利用の制限。
三 基地建設の際は労務者を優先雇用する。
四 米軍の余剰電力および水道の利用。
五 損害の適正保障。
六 不用地の黙認耕作を許可する。
辺野古はこのような要求を受け入れの条件にして米軍と交渉した。

 「銃とブルドーザー」による米軍の残酷な土地接収については何度も報道され、体験談も数多く発表されている。米軍の強引な土地接収に対して島ぐるみの土地闘争が盛り上がったこともマスコミは頻繁に掲載している。しかし、土地闘争のその後についてはほとんど書かれていない。
 軍用地を受け入れた辺野古は史上空前の繁栄をもたらす。人口も4倍に増えた。辺野古の繁栄は他の地域に影響を与え、基地を誘致する地域も現れた。
 辺野古の繁栄は土地闘争にも影響を与え、米軍の土地接収に断固反対を貫く意見と地元や地主が受け入れるなら米軍と妥協点を探っていこうとする意見に分かれた。島ぐるみ闘争は分裂し、やがて衰退していく。
この事実についてはNHK取材班が出版した「基地はなぜ沖縄に集中しているか」に詳しく書かれている。この本を読むまで辺野古が米軍基地を受け入れた事実を知らなかったし、土地闘争が分裂し衰退していった事実も知らなかった。沖縄のマスコミや知識人はこのことを述べてこなかった。

もし、久志村が名護市に合併されていなかったら、普天間飛行場の辺野古移設は実現していただろう。

沖縄に普天間飛行場は必要か

 沖縄駐留のアメリカ軍が強化されたのは朝鮮戦争がきっかけであった。社会主義国家である北朝鮮が大韓民国に侵略して95%の領土を支配した。アメリカ軍は国際条約で定めてある38度線に戻す目的で軍事介入をした。そして、
国連・韓国軍側戦死者 50万人
負傷者        100万人
朝鮮人民軍・中国人民義勇軍戦死者 100万人
戦傷者              100万人
民間人の死亡者、行方不明者南北あわせて 200万人以上
の多大な犠牲者を出した。

中国、北朝鮮、北ベトナムなどの社会主義国家の拡大はアメリカにとって脅威であり、社会主義国家の拡大を防ぐためにアメリカは沖縄の軍事力を強化した。北朝鮮と韓国、中国と台湾、北ベトナムと南ベトナムの緊張は続き、北ベトナムは南ベトナムに侵攻してベトナム戦争になった。
アメリカは韓国、日本・沖縄、フィリピンや海上にアメリカ軍を配置させてアジアの社会主義圏の拡大を抑止した。

今も中国・北朝鮮と周辺国との緊張状態は続いている

2010年3月に韓国軍の艦船が沈没させられ、11月には北朝鮮が黄海の南北境界水域に近い韓国の延坪島を砲撃した。北朝鮮と韓国は停戦状態であって、戦争が終結したわけではない。緊張状態が続いている。米軍が韓国に駐留していることが北朝鮮への抑止力となっている。
沖縄がアメリカから日本へ施政権が移り、日本が沖縄を防衛するようになると、領海の防衛力の弱い日本の弱点を見抜いて中国漁船団が尖閣諸島の領海で漁をするようになった。中国漁船の振る舞いは横暴になり、日本の巡視船に体当たりをくらわすほどになった。

中国はフィリピンやベトナムとも領海を巡って争っている。1995年には南紗諸島にあるミスチーフ礁に中国が進出し実効支配をした。
今度は南シナ海のスカボロー礁で両国の監視船などがにらみ合いを続けている。中国では「対話重視」より「実力行使」の声が日に日に大きくなっている。中国機関紙は、「弱小国でも強力な反撃に遭う運命にある」とフィリピンに圧力をかけている。
アキノ大統領は、「わが国の安全と主権が脅かされた時、米国と日本以上に頼りになる友はいない」と、領土紛争問題上の中国の脅威から日米両国が守ってほしいとアピールした。
フィリピン国軍と米軍が15日に実施した第27回合同軍事演習は、過去最大規模の野戦合同演習となった。また、フィリピン政府は南沙諸島周辺海域の陸・海軍力増強に向け、約1億8400万ドルを追加投入した。
中国の外交部は7日、南沙諸島は中国固有の領土であると強硬な態度で主張、フィリピン側の主張を真っ向から否定した。14日には中国は国連に文書を提出、フィリピンが1970年代以降、中国の領土である南沙諸島に侵入を続け領有権を主張していることを非難し「フィリピンの主張は一切受け入れられない」と強い態度を示した。
中国海軍の各大艦隊は最近、実戦訓練を強化しており、特に南沙諸島を管轄している南シナ海艦隊の駆逐艦分隊は、水上戦闘艦総合攻防訓練を実施した。また、多くの漁業監視船を南シナ海に送り込み、主権を強くアピールしている。
中国初の空母「ヴァリャーグ(瓦良格)」号のテスト運航が今年の夏に実施された後、南シナ海艦隊に配属されるという噂もある。
中国とフィリピンとの南沙諸島(スプラトリー諸島)をめぐる領土紛争がエスカレートしており、双方ともに対抗措置をちらつかせ、一発触発状態に陥っている。

 ベトナム政府は13日までに、中国と領有権を争う南シナ海の南沙(英語名スプラトリー)諸島にある仏教寺院を修復し、僧侶を常駐させる方針を決めた。ベトナムの領有権主張の一環である。今月1日には初の国産警備艇も就役し、南沙諸島をにらむ南部の海軍基地に配備されており、中国への“反撃”が着々と進んでいる。
230ともいわれる島礁からなる南沙諸島のうち、ベトナムは17島程度の領有権を主張している。この中の複数の島には、ベトナムが1975年まで使用していた寺院が残っている。だが、無人のまま今や朽ち果て、政府は修復と6人の僧侶の派遣を決めた。
直接は、南沙諸島を沖合に望むニャチャンを省都とする、南部カインホア省の人民委員会が主導。6人の僧侶は同省内の別々の寺院に帰属している。それぞれが複数の島に寺院の僧院長として近く、赴く予定で、政府による船の手配を待っているところだという。
今回の決定について、消息筋は「ベトナムの領有権を、中国に認めさせるための努力の一環だ」としている。南沙諸島では1988年、中国、ベトナム両軍が衝突し、複数のベトナム兵が死亡した。僧侶らは、そうした「ベトナム領内で命を奪われた兵士たちの魂も鎮めたい」という。
軍事力に勝る中国は領海を広げていった。中国と周辺国との対立は緊迫が増しており、韓国、台湾、フィリビン、ベトナムはアメリカ軍の助けを望んでいる。もし、アジアにアメリカ軍が駐留していなければ、北朝鮮と韓国、中国と日本の領海問題、中国と台湾問題、フィリピンやベトナムとの領海問題が紛争に発展する可能性が高くなる。
 
 このように中国と周辺諸国とは領土・領海紛争が続いている。北朝鮮や中国に対抗するために韓国、日本、台湾、フィリピン、ベトナムなどの国々はアメリカを頼っている実情がある。アメリカとしてもアジアとの貿易を拡大するために中国を抑え込みたいのでアジアの国々と連携をしたほうがいい。アメリカと中国周辺国は利害が一致している。

 沖縄は、北は韓国から南はフィリピンまでの扇の要の位置にあり、米軍と周辺国との軍事連携には重要な場所である。沖縄のヘリコプター基地は米軍が事故を起こした時に救助活動をやり、緊急時の時の極地への兵士や物資移送の任務を担っている。
 アメリカ軍は中国の周辺国との軍事連携で中国、北朝鮮を抑止しようとしている。だから、海兵隊は沖縄から周辺国に出かけて軍事訓練をしている。扇の要に位置する沖縄の米軍基地は周辺国との軍事連携をすることによって中国へ抑止力を保っている。アジア情勢をみれば普天間飛行場は必要であることがわかる。
 アメリカ軍は韓国やフィリピンと軍事演習をやっている。それも中国への抑止力である。抑止力は海兵隊だけにあるのではなく、空軍、海軍、海兵隊の連携にある。

「米軍基地あるから戦争に巻き込まれる」は本当か

「米軍基地があるから戦争に巻き込まれる」というのが革新系の政治家や知識人等が米軍基地撤去を主張する根拠である。ところが戦後66年間米軍が駐留し続けているのに沖縄は一度も戦争に巻き込まれていない。戦争に巻き込まれたことは一度もないどころか、沖縄が戦争に巻き込まれそうになったことも一度もない。
戦後のアジアの歴史をみると「米軍基地があるから沖縄は戦争に巻き込まれる」ではなく「米軍基地があるから沖縄は戦争に巻き込まれなかった」と考えるのが正しい。
66年間もの長い間一度も沖縄が戦争に巻き込まれたことはなかったのに、「米軍基地があるから沖縄は戦争に巻き込まれる」というのは現実を正しく認識していない。
私は子どもの頃に、「戦争がはじまったら沖縄が真っ先に攻撃される」と言う話は何度も聞いた。嘉手納飛行場と嘉手納弾薬庫の隣で生活していた私はびくびくしたものだ。しかし、沖縄を攻撃するということはアメリカと戦争を始めることである。世界最強の軍事力を誇るアメリカに戦争をしかける国はアジアにはない。アメリカと戦争をする可能性のある国といえば中国が第一候補になるが中国がアメリカと戦争をしようとしたことは一度もなかった。アメリカが沖縄を統治していた時は、中国漁船が尖閣諸島に侵入することはなく、沖縄の漁師にとって安全な漁場であった。中国漁船が尖閣諸島に侵入するようになったのは沖縄の施政権が日本政府に移ってからであり、中国はアメリカ軍を刺激することは避けてきた。フィリピンでもアメリカ軍が撤退してから中国はフィリピンと領海争いをしている。
中国が、アメリカ軍が駐留している沖縄を攻撃する可能性は全然なかった。「戦争がはじまったら沖縄が真っ先に攻撃される」といっても、アジアにアメリカと戦争をする国はなかったのだから、「戦争がはじまったら」という仮定は成り立たない。
 
沖縄にヘリコプター基地は必要

 普天間飛行場はヘリコプター基地である。ヘリコプターは空中で停止したり狭い場所にも着陸できるので民間では救助ヘリや山岳地帯や離島への物資移動に活躍している。
 米海兵隊は沖縄近海で強襲揚陸艦「エセックス」で救難訓練を公開したが、救難訓練で活躍するのがヘリコプターである。アジアに駐留しているアメリカ軍が訓練中に事故を起こしたり、台風や地震などで被害が起こった時になくてはならないのがヘリコプターである。アメリカ軍がアジアに大規模に駐留している限りヘリコプター基地はなくてはならない。沖縄の海兵隊には抑止力がないとか普天間飛行場にも抑止力はないから沖縄に普天間飛行場を設置する必要はないという意見があるが、ヘリコプター基地は抑止力だけが目的ではなく、救助や極地への物資輸送などの平常時でも重要な任務を担っている。極地的な紛争や戦争が起こり、アメリカ軍が介入する時はヘリコプターがなくてはならない存在となる。アメリカ軍にとってヘリコプター基地である普天間飛行場は必要である。
 普天間飛行場の辺野古移設は無理であると発言する米議員でも辺野古移設の代替案として嘉手納飛行場への移設を提案しているのであり、国外や県外への普天間飛行場の移設は彼の念頭にはない。辺野古移設は不可能であると主張している米議員もヘリコプター基地は沖縄に設置しなければならないという考えなのであって県外移設や国外移設を主張しているのではない。

 これまで検討してきたことを根拠にすれば、普天間飛行場は辺野古に移設するしかない。メア氏は辺野古移設ができなければ普天間に固定すると発言した。それが現実論である。県内ではメア氏の発言に反発する意見が多かったが、ほとんどが感情論であった。
 政治は現実問題であり、感情論や理想論だけでは解決できない。それどころか感情論や理想論は相手を有利にさせる場合が多々である。
 今回の辺野古移設問題も、辺野古移設反対が強いために、嘉手納飛行場以南の米軍基地撤去も崩れてしまい、アメリカ側のペースで撤去することになった。
 辺野古移設と嘉手納飛行場以南の米軍基地の撤去、在沖海兵隊8000人のグアム移動は橋本元首相がアメリカ側の抵抗をねじ伏せて実現したことを忘れてはならない。橋下元首相の沖縄の基地負担の軽減には並々ならぬ思いがあった。ところが、嘉手納基地伊南の米軍基地撤去には賛成であるが、普天間飛行場固定化は反対、普天間飛行場の辺野古移設にも反対という、現実のアジア情勢を無視した要求のために、16年間もこう着状態が続いた。
沖縄の基地問題は中国・北朝鮮に脅威を感じるか否かが大きく左右する。そして、共産党一党独裁政治の社会主義国家を選ぶか、日本・アメリカのように経済は資本主義、政治は民主主義の国家を選ぶかの思想の立場が左右する。
沖縄では中国脅威論や共産党一党独裁についてはあまり論じられない。昔から中国と沖縄は有効関係にあるということが誇張されるがそれは大昔のことであり、中国が共産党一党独裁になってからの話ではない。

 中国が共産党一党独裁国家であり、尖閣諸島の所有権を主張し、日本の領海を中国の領海であると主張する限り、中国は脅威であり、アメリカと共同で中国の拡大を抑止する必要がある。ヘリコプター基地は沖縄に必要である。
 県外移設・国外移設は不可能であり、地元の辺野古が普天間飛行場の受け入れに賛成しているのだから、辺野古移設しかない。

  

2012年05月07日

県議会事務局の米軍基地全面返還経済効果試算の嘘

県議会事務局は米軍基地全面返還したら4兆7191億400万円の経済効果あるという試算をだした。県全体の10パーセントをしめる米軍基地が返還されたら、90パーセントを占める県GDP3兆5,721億円よりもはるかに上回る金額なのだ。それに10パーセントの土地に126万5560人が住むことになる。
こんな馬鹿げた試算を県議会事務局を発表した。ところが県内の学者や知識人は誰ひとりとして県議会事務局の試算の矛盾や間違いを指摘しない。それどころかある大学の準教授は県議会事務局の試算を無批判に受け入れた理論を新聞に発表した。

沖縄にはまともな学者はいないのか。沖縄の学者は学者である前に左系の政治屋なのかといいたくなる。

共産党の国会議員は予算委員会で県議会事務局の試算を発表し、基地経済は沖縄経済の発展を邪魔していると堂々と述べていた。閣僚たちは反論もしないで無視していた。幼稚な経済論を国会で堂々と発表しているのを見て、沖縄県民として私は恥ずかしかった。


「沖縄に内なる民主主義はあるか」

三 県議会事務局の米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果試算の嘘 
  

2010年9月11日、琉球新報に「全基地返還で年9155億 経済効果2.2倍に」の記事が掲載された。

県議会(高嶺善伸議長)は10日、在沖米軍基地がすべて返還された場合の経済及効果の試算を発表した。全面返還の生産誘発額は年間9155億5千万円。一方で現状の基地が沖縄経済にもたらしている生産誘発額は軍用地料などの基地収入から基地周辺整備費などの国の財政移転、高率補助のかさ上げ分までを含め年間4206億6100万円にとどまる。全面返還されれば経済効果は2・2倍になると試算した。
 基地の経済効果について高率補助のかさ上げ分を含んだ試算は初めて。嘉手納以北の基地返還と周辺海域の漁業操業制限を解除した場合の経済波及効果の試算も初。高嶺議長は「他府県からは基地があるため国からの財政移転が相当あると思われているが、実際には基地あるがゆえの逸失利益が相当大きい。国にも振興策の中で検討するよう求める」と述べた。
 雇用面も好影響が生まれ、現状の基地関連の2・7倍となる9万4435人の雇用が生まれるとした。
 基地がもたらす効果は高率補助のかさ上げ分(2008年度実績)以外は03~07年度の5年の平均値。軍用地料や基地内工事などの直接の投下額は3255億8400万円とした。
 全面返還され跡地利用された場合の生産誘発額は総額年間4兆7191億400万円だが、県内の他地域からの需要移転(パイの奪い合い)などの影響を差し引いた割合は総額の19・4%と推計し、全面返還効果を算出した。

〈新報解説〉かさ上げ分算入が特徴 振興策の議論焦点に

 県議会がまとめた基地の経済効果試算は基地収入以外に沖縄振興特別措置法に基づく高率補助のかさ上げ分を算入したのが特徴だ。
 高率補助は本来、戦後、日本の施政権から切り離されて生じた格差の是正が目的。基地とのリンクではないとされてきた。しかし今試算であえてかさ上げ分を加えたのは「沖縄は基地のおかげで国からの予算が潤沢だという誤解が国にも他府県にもある」(高嶺善伸県議会議長)との思いからだ。
 同試算では、返還後の跡地利用のインフラ整備や建築投資などは「期間や投資額が予測困難」として含めていない。返還後、他地域からの需要移転も那覇新都心や北谷の事例から単純合計の19・4%と厳しく推計している。現状の経済効果はかさ上げ分などを盛り込んで多めに、全面返還の推計値は少なく見積もっても経済波及効果は2・2倍の格差が生じる。今後は基地あるがゆえの逸失利益を新たな振興策の議論にどう乗せていくかが焦点だ。ただし同試算は県が条件設定の難しさを理由に難色を示し、議会事務局が代わって算定した。基地が経済発展の阻害要因になっていることを内外に認識させるためにも、県の積極姿勢が望まれる。(島洋子)

県議会事務局が9155億5千万円の試算結果を発表

 県議会事務局(高嶺善伸議長)は、もし、米軍基地がすべて返還された場合の経済効果は年間4兆7191億400万円であると具体的な数値の試算を出した。試算の内訳は嘉手納基地の以南では9109億6900万円であり、嘉手納基地の以北の経済効果は3兆7350万円、100ヘクタール以下の小規模面積施設730億9400万円と試算した。合計すると4兆7191億400万円の経済効果になるという。しかし、現時点の県内経済規模で実現可能な経済効果は、全部返還した効果の19・4%にとどまるとして、年間9155億5千万円の経済効果に上るとの修正試算結果を県議会事務局は発表した。米軍基地から現在生じている経済効果の2・2倍に当たるという。

雇用効果は9万4435人
 
 県議会事務局は雇用効果も試算している。県議会事務局によれば、米軍基地があるために生じる雇用効果3万4541人に対し、全部の米軍基地が返還された場合の雇用誘発者数は48万6754人になるという。平成24年2月の県全体の就業者数は60万8千人である。10%の土地の米軍基地が返還されると雇用誘発者数が48万6754人にもなるというのは驚異的である。
県議会事務局は実現可能な雇用効果(19・4%)は米軍基地があるがゆえの効果より2・7倍に当たる9万4435人であるという。沖縄県の完全失業率は7・5%であり、完全失業者数は5万人である。基地が全部返還された時の雇用効果9万4435人は、米軍基地関連の雇用効果3万4541人と完全失業者5万人を合計した8万4541人を上回っている。基地関連雇用者と完全失業者すべて雇用しても、9894人の労働者不足になる。失業率ゼロどころか、県外から9894人の労働者を募集しなければならなくなる。ものすごい雇用効果である。

 それにしても、奄美大島、八重山、宮古島には米軍基地はないが、米軍基地のある沖縄本島に比べて経済は発展していない(嘉手納基地以南の人口密度は東京都並みである)。米軍基地がないほうが経済は発展するという法則は沖縄本島だけにあり、奄美大島、八重山、宮古島にはこの経済法則はないのだろうか。

高嶺善伸県議会長は、県議会事務局の試算で基地が全部返還した時の経済効果が年間9155億5千万円に上るとの試算結果を根拠にして、復帰後1972年~2011年の間に沖縄に投じられた国の予算(9・9兆円)の少なさを指摘し、
「振興策について政府内からは『沖縄を甘やかしてはいけない』という議論があるが、試算を見れば39年間で9・9兆円とは、支援策としてあまりにもたりないことは明白だ」と述べている。
高嶺善伸県議会長は復帰後、米軍基地が全て撤去されていた時の方が沖縄の経済は数倍も発展していたと主張し、「ポスト振興策の議論が始まる中、米軍基地による経済影響を正確に把握し、沖縄の自立経済を確保するため国の支援を求める根拠としたい」と述べている。

那覇新都心の経済効果
那覇新都心とは、沖縄県那覇市の北部に位置する再開発地区のことである。1987年(昭和62年)5月に全面返還された米軍牧港住宅地区の跡地を造成したもので、高層マンションや大型ショッピングセンターや総合運動公園などが設置されている。
那覇新都心は天久、おもろまち、銘苅、上之屋などに広がり、面積は214㏊である。返還された土地を、県と市の要請を受けて地域振興整備機構(現都市再生機構)が土地区画整理事業を施行し、総事業費約1,110億円(土地区画整理事業費約508億円)をかけて造成した。
那覇新都心は、那覇市中心部のほとんどが那覇空港の制限表面区域内にあるため超高層ビルを建てられないのに対し、那覇空港の制限表面の区域外となっている。また、同市の中心業務地区から2㎞程度で沖縄都市モノレール線のおもろまち駅および古島駅に近接していることもあっていくつか超高層ビルが建設された。2009年(平成21年)時点では沖縄県で最も高い高層ビル(高さ89.8m)が那覇新都心にある。 平成12年から平成18年にかけて、那覇新都心地区の人口が2,577人から14,873人へと大きく増加した。那覇新都心は返還された米軍基地の中で最高の経済効果を生み出している。
県議会事務局は、「那覇新都心地区の経済効果は、プラスの生産誘発額が874億円であるのに対し、マイナスの生産誘発額は55億円と約16分の1であった。こうしたことから、地域経済的観点でみると那覇新都心地区の開発は県経済に大きなプラスである」と述べている。

県議会事務局による駐留軍用地が全て返還された場合における跡地利用等の経済波及及び効果9155億5千万円経済効果の根拠

A 那覇新都心における返還跡地利用事例・駐留軍用地に伴う経済波及効果等検討調査会報告書(平成19年度3月)返還後における立地企業による販売活動等の経済波及効果

生産誘発額  660億3800万円
所得誘発額  181億9600万円
雇用誘発者数 5702人
住民数    1万4873人
雇用誘発者数1人につき住民は2・6人(著者の試算)

B 那覇新都心の経済効果を参考に米軍基地全てが返還された時の県議会事務局による試算

生産誘発額  4兆7191億400万円
所得誘発額  1兆2420億9000万円
雇用誘発者数 48万6754人
住民数    126万5560人(著者の試算)

生産誘発額については、返還予定地の全てが那覇新都心並みに整備されるという前提に立ったものであり、雇用誘発者数については周辺地域における土地利用等を勘案・試算したものであるが、実現に向けては、同額程度の県内経済の拡大、もしくは県内他地域からの需要移転が必要にとなる点に注意が必要である。

C 現時点の県内経済による「全部返還効果」の実現可能性(推計値)は19・4%であると県議会事務局は発表している。

生産誘発額  9155億5000万円
所得誘発額  2409億7700万円
雇用誘発者数 9万4436人
住民数    24万5533人(著者試算)

「全部返還効果」の実現に向けては、必要条件として同額程度の県内経済の拡大が挙げられるが、現実問題として、経済拡大で対応できるのは一定程度分に限られ、それ以外の経済波及効果分については、県内他地域からの需要移転(奪いあい)でまかなうことが想定され、結果として試算を下回るものと考えられる。そこで、現時点の県内経済力で、どの程度実現することが可能なのかを推計し、修正率として加味したと県議会事務局は発表している。

 以上が県議会事務局の試算である。

県議会事務局は米軍基地の全部が返還された場合の試算は「那覇新都心並みに整備・発展する」という前提に立って試算を出した。すると、全ての米軍基地が返還された時の経済効果は4兆7191億400万円になった。この金額は平成16年度の沖縄県のGDP3兆5,721億円よりもはるかに高い。米軍基地返還跡地の住民数は126万5560人となり、県人口140万人に近い人数になる。
米軍基地は沖縄県の面積全体の約10%を占めている。県議会事務局の試算では約10%しか占めていない米軍基地が返還されたら、返還された米軍跡地の経済効果は県の平成16年度のGDP3兆5,721億円よりもはるかに上回る4兆7191億400万円であるというのである。
土地の広さが約10%しかない米軍基地が返還されたら90%を占めている県内の土地よりも(4兆7191億400万円―3兆5,721億円)1兆1470億4000万も高い経済効果が出ると県議会事務局は試算しているのだが、そんなことはとうてい信じられないことである。まるで米軍基地には特別な宝物が埋まっているみたいである。しかし、米軍基地に特別な宝物が埋まっているはずはない。米軍基地の土地は米軍基地以外の土地と同じ普通の土地である。普通の土地でしかないのに約10%の土地が返還されて民間のものになれば4兆7191億400万円もの経済効果があり、平成16年度GDP3兆5,721億円よりもはるかに高いというのはおかしい。県議会事務局の試算のやり方には大きな矛盾があるはずである。

県議会事務局は、米軍返還跡地には雇用誘発者数48万6754人が生ずる試算を出している。那覇新都心では雇用誘発者数の2・6倍が住民数であるから、著者の試算では米軍返還跡地の住民数は126万5560人となる。県の人口の約140万人に近い人数である。信じられない試算である。
もし、126万5560人の県民が10%の米軍基地跡に移り住んだら、現在住んでいる90%の土地には14万人だけの県民が住むことになる。ありえないことである。

県議会事務局は、「県内の他地域からの需要移転(パイの奪い合い)などの影響を差し引いた割合は総額の19・4%と推計し「現時点の県内経済規模で実現可能な経済効果は、全部返還効果の19・4%にとどまる」という理由をつけて実現可能な経済効果は4兆7191億400万円の19・4%の9155億5千万円であるとしている。「現時点の県内経済規模」とはなんのことかは説明していないが、県議会事務局は、試算は4兆7191億400万円になるが現実的には約5分の1の9155億5千万円の経済効果であるという。
なぜ、パイの奪い合いだけで80%以上も経済効果が減るのか疑問であるが、それ以前に、10%を占める米軍基地が返還されれば、なぜ県のGDPをはるかに超える4兆7191億400万円という驚くべき経済効果の試算が出たのか、そして返還地の住民数は126万5560人となるのか、それが試算として正しい方法なのかを納得いく説明が必要であると思うが、県議会事務局は説明していない。

今まで返還された米軍基地は南部、中部、北部の沖縄本島全域にまたがる。全ての米軍基地が返還されたときの経済効果を試算するのならそれぞれの地域で返還された土地の経済効果を参考にして試算した方が正確である。
ところが県議会事務局は那覇新都心の経済効果をほとんどの米軍基地に当てはめたのである。今までに返還されたのは瀬名波、那覇市の小禄地区、北谷町のハンビーや美浜、読谷村の瀬名波通信所、読谷飛行場、トリイステイション南側の渡久地などがあり、恩納村にも返還された土地があるし、恩納村以北の市町村にも国頭村の安波訓練場のように返還された土地はいくつかある。それぞれの地域で返還された土地を参考にして試算を出すことはできる。それなのに県議会事務局はほとんどの米軍基地に那覇新都心の経済効果を当てはめたのである。その結果4兆7191億400万円という驚くべき試算が出た。
県議会事務局は、全ての米軍基地が返還された場合の試算に那覇新都心の経済効果を当てはめることが適切であったのかを説明していない。本当に那覇新都心が適切であったのか疑問である。

県議会事務局の最初の試算の内訳では嘉手納基地の以南では9109億6900万円であり、嘉手納基地の以北の経済効果は3兆7350万円となっている。平成16年度の沖縄県のGDPが3兆5,721億円である。県議会事務局の試算では嘉手納基地以北の経済効果が県のGDPよりも高いのである。そんなことは絶対にありえない。
読谷飛行場跡は190㏊である。那覇新都心が214㏊であるから、土地の広さに大差はない。那覇新都心は高層マンションや大型ショッピングセンターなどがあり経済発展はめざましい。しかし、読谷飛行場跡のほとんどは農地である。建物は読谷村役所、読谷中学校、JAおきなわのファーマーズマーケットがあるだけで、他の土地は総合グラウンド以外は畑である。収入は畑作より軍用地料のほうが高いから、読谷飛行場跡や渡久地の場合は軍用地だったときのほうがはるかに収入は多かったはずである。渡久地の方は一戸建て住宅と畑にツタヤやマックスバリューなどの店舗があるが那覇新都心に比べれば売り上げははるかに低い。
返還された読谷飛行場の経済効果はマイナスであり、那覇新都心の経済効果より遥かに低い。読谷村にはまだ返還されていないトリイステイションや嘉手納弾薬庫がある。読谷飛行場跡や渡久地の経済効果をみれば、トリイステーションや嘉手納弾薬庫の経済効果に那覇新都心の経済効果をあてはめるのはあまりにも無謀であることがわかる。
読谷飛行場跡は農業ができるからある程度の収入が見込める。しかし、金武町の射撃練習場の山々には無数の爆弾が打ち込まれており、返還されても使用するのは不可能である。国頭村のゲリラ訓練場は山の中にあり、返還されても元の山に戻るだけであり、収入はほとんどないだろう。

県議会事務局のキャンプハンセンの経済効果試算

県議会事務局試算結果

生産誘発額  1754億円7100万円
所得誘発額  457億3200万円
雇用誘発者数 1万8841人
住民数    4万8986人(著者試算)

実現可能な経済効果試算(19・4%)

生産誘発額  348億円1737万円
所得誘発額  88億7200万円
雇用誘発者数 3655人
住民数    9503人(著者試算)

射撃訓練場跡は不発弾が多く、返還しても使用できそうにない場所が多いのに、キャンプハンセンの経済効果の試算は1754億7100万円である。雇用誘発者数は1万8841人である。金武町の人口は1万1039人であるので、雇用誘発者数のほうが金武町の人口よりも多い。キャンプハンセン跡に那覇新都心型の街をつくるとなると住民は雇用誘発者数の2・6倍になるから4万8986人となる。1万8841人の金武町に4万8986人も増えることになる。あり得ないことである。
実現可能な住民数は試算の19・4%であるから9503人である。それでも金武町の人口に近い。一体、金武町の人口に近い人たちがどこから移転してくるというのか。隣の宜野座村の人口は5249人である。宜野座村の全住民が移転してもキャンプハンセン跡地の人口を満たすことはできない。

県議会事務局の嘉手納飛行場・弾薬庫の試算

嘉手納飛行場・弾薬庫の全面積は4698㏊であり、都市的利用面積は3190㏊である。那覇新都心214㏊のおよそ15倍の広さである。

県議会事務局試算

生産誘発額  2兆6850億1500万円
所得誘発額  7018億200万円
雇用者誘発数 28万8134人
住民数    74万4914人(著者試算)

実現可能な経済効果試算(19・4%)

生産誘発額  5208億9291万円
所得誘発額  136億1530万円
雇用者誘発数 5万5898人
住民数    14万5334人(著者試算)

読谷村の人口   4万0760人
旧具志川市の人口 6万8864人
旧石川市の人口  2万3453人 
北谷町の人口   2万7696人
嘉手納町の人口  1万3770人
沖縄市の人口   13万1597人 面積4900㏊

県議会事務局の嘉手納飛行場・弾薬庫の返還跡地の経済効果の試算は2兆6850億1500万円である。返還跡地には74万4914人が住むという試算になる。あまりにもひどい試算である。

実現可能な生産誘発額は5208億9291万円である。その金額でも大きすぎる。
沖縄市の生産誘発額は1659億9900万円である。嘉手納飛行場・弾薬庫跡地の生産誘発額は沖縄市の3倍以上である。沖縄市の面積は4900㏊あり、嘉手納飛行場・弾薬庫よりも広い。それなのに嘉手納飛行場・弾薬庫跡地の生産誘発額が3倍以上というのはありえないことである。

実現可能な住民数は14万5334人である。沖縄市の人口より多い。読谷村の人口4万0760人、旧具志川市の人口6万8864人、旧石川市の人口 2万3453人、北谷町2万7696人、嘉手納町の人口1万3770人である。嘉手納飛行場・弾薬庫跡地に沖縄市、嘉手納町、北谷町、読谷村から嘉手納飛行場・弾薬庫跡に住民が移転すると沖縄市、嘉手納町、北谷町、読谷村はゴーストタウンになる。沖縄市、嘉手納町、北谷町、読谷村の生産誘発額はがた落ちになるのは目に見えている。

嘉手納基地以北の米軍基地が変換された場合における跡地利用の経済波及効果試算
 
土地数値は、施設面積100㏊を超える北部訓練場、伊江島補助飛行場、キャンプ・シュワブ、辺野古弾薬庫、キャンプ・ハンセン、嘉手納飛行場、嘉手納弾薬庫地区、キャンプ・コートニー、トリイ通信施設、陸軍貯油施設、ホワイトビーチ地区、キャンプ瑞慶覧(未返還分)

県議会事務局試算結果

生産誘発額  3兆7350億4200万円
所得誘発額  9732億5000万円
雇用誘発者数 40万1017人
住民数    104万2644人

実現可能な経済効果試算(19・4%)

生産誘発額  7245億9815万円
所得誘発額  1888億1050万円
雇用誘発者数 7万7797人
住民数    20万2272人

嘉手納飛行場以北は那覇市のような人口密集地ではない。むしろ仕事がなくて過疎化が進んでいる。経済力は那覇市に比べて非常に低い。それなのに県議会事務局は嘉手納飛行場以北の経済効果の試算を出すのに那覇新都心の経済を当てはめた。経済効果は3兆7350万円という超破格な試算が出た。信じられない試算である。住民数も104万2644人である。嘉手納飛行場以南のほとんどの人が以北に移住することになる。 
あまりにも破格な金額であり住民数である。県議会事務局は「現時点の県内経済規模で実現可能な経済効果は、全部返還効果の19・4%にとどまる」という理由づけをしている。しかし、たとえ、19・4%にとどまるとしても嘉手納飛行場以北の経済効果は7245億9815万円となっている。実は、この金額でさえも兆破格なのである。
2010年の県の農業生産額は耕種554億円、畜産が370億円で合計924億円である。観光収入は約4070億円である。農業と観光収入を合計すると4994億円である。県議会事務局が試算した嘉手納飛行場以北の経済効果は7245、9億円であるが、その金額は県全体の農業と観光収入の約1・5倍である。
嘉手納飛行場以北の米軍基地が返還された場合、農業と観光収入の合計の約1・5倍の経済効果があるとは考えられない。嘉手納飛行場以北は山が多く、軍用地の多くは山間部である。返還されても高層マンションどころか畑に転用することもできない場所が多くある。県の耕種収入が554億円であるのに対し、軍用地料が932億円であるのを考慮すると北部の経済効果は大きなマイナスの試算が出ると推測できる。
過疎化が進んでいる恩納村以北は米軍基地以外にも広大な未使用の空き地がある。空き地と米軍基地は隣接していて、米軍基地だけが経済発展に最適な場所というわけではない。米軍基地と空き地は経済発展する条件は同じである。それなのに米軍基地が返還されたら農業と観光収入を合計した4994億円よりもはるかに高い7245億9815万円の経済効果があると県議会事務局は試算している。
嘉手納飛行場以北は7245億9815万円の経済効果であるとする県議会事務局の試算は信じることができない。嘉手納以北は7245億9815万円どころかマイナスの経済効果であるだろう。

県議会事務局の超破格な試算の原因

県議会事務局は米軍基地が返還した時の経済効果を4兆7191億400万円という県のGDPを遥かに超える試算を出した。なぜ、那覇新都心の経済効果をあてはめたらこのような破格な試算が出たのだろうか。
原因は、那覇新都心が県内トップクラスの人口密集地であり、那覇新都心の周囲も東京都並みの人口密集地であることである。那覇新都心は返還された米軍基地の中でも群を抜いた経済発展をしている。県内でトップの経済発展をした那覇新都心の経済効果をすべての米軍基地返還経済効果の基準にしたために4兆7191億400万円という超破格な試算が出たのである。県議会事務局が実現可能と主張する試算の19・4%でも超破格な試算であり非現実的な試算である。県議会事務局が那覇新都心を米軍基地返還地経済効果の基準にしたことは根本的に間違っている。

那覇新都心経済の本質

 基地経済と那覇新都心の経済は性質が違う。県議会事務局は那覇新都心の経済発展は県経済に大いに貢献していると述べているが、それは大きな勘違いである。基地経済は県経済に貢献するが、那覇新都心の経済は県経済にほとんど貢献しない。そう、那覇新都心の経済は県経済への貢献度はゼロに近いのである。

 那覇新都心の土地利用構成は、商業・業務地・沿道型商業地、中高層住宅地、低層住宅地、公共施設用地、道路、公園・緑地である。

那覇新都心には農業をやる畑地はないから那覇新都心では農業生産をやらない。那覇新都心には工業用地もないから那覇新都心には工場がない。だから製品を製造することはしない。那覇新都心の経済は農業生産、工業生産はゼロである。ショッピングセンター、スーパー、家電販売店、飲食店などのサービス業の売り上げが那覇新都心の経済の大半を占める。那覇新都心は生産をしない広大な消費地である。

 那覇新都心が軍用地の時は沖縄人の住人はゼロであった。軍用地が返還され、区画整理をした後にマンションやアパートが建ち住民がどんどん増えた。那覇新都心の経済を成長させたのは那覇新都心の新しい住民である。那覇新都心の高層マンションやアパートや住宅に住むようになった住民は家賃や電気料、ガス料金を払う。そして、生活のために消化する商品を那覇新都心のスーパーや電化製品店などで買う。美容院、病院、飲食店でお金を使う。
那覇新都心の近くにはモノレールも走っている。那覇新都心は国道58号線沿いにあり、交通が便利だから那覇新都心以外に住んでいる人たちも那覇新都心で買い物をしたり食事をしたりする。
住民がゼロだった那覇新都心の人口はどんどん増え、人口密集地となり経済は目覚しく発展した。
那覇新都心の経済発展の原動力となっている住民はどこからやってきたのだろうか。那覇市内から移転した人もいるだろう。那覇市内で仕事をしていながら宜野湾市に住んでいた人が会社が近い理由で那覇新都心に移転したケースもあるだろう。人それぞれの理由で那覇市内の人たちや那覇市外の人たちが那覇新都心に移転した。
那覇新都心の人口が2万人になった時、県の人口は2万人増加しただろうか。那覇新都心に移転してきた人のほとんどは県内に住んでいた人たちであるから県の人口の増加はない。那覇新都心の人口増は那覇市の人口増には影響を与えるだろうが県の人口増加にはほとんど影響がない。

経済も人口と同じように考えることができる。
西原町に住んでいたAさんは西原町で買い物をしていたが、那覇新都心に移り住むと那覇新都心で買い物をするようになる。久茂地に住んでいたBさんが那覇新都心に移転したら那覇新都心で買い物をするようになる。那覇新都心に2万人の人が移転してきたとすると、県内のどこかで買い物をしていた2万人の人たちは那覇新都心で買い物をするようになる。那覇新都心は売り上げが上昇するが、2万人が以前に住んでいたそれぞれの場所は那覇新都心の売り上げが伸びた分だけ落ちることになる。
那覇新都心以外に住んでいる人が那覇新都心で買い物をするケースもある。それも同様に那覇新都心以外で買い物をしていたのが那覇新都心で買い物をするようになっただけであり、那覇新都心の売り上げが伸びた分だけ別の場所の売り上げが落ちる。
那覇新都心の売り上げが伸びるということは同時に別の場所の売り上げが落ちるということであるから、県全体から見れば経済効果はプラスマイナスゼロである。
那覇新都心の新しい住民のほとんどは沖縄県内に住んでいた人たちである。那覇新都心の売り上げが伸びたからといって、彼らは県内に住んでいたのだから県全体の売り上げが伸びたわけではない。
県全体から見れば那覇新都心の経済効果はプラスマイナスゼロであり、那覇新都心の経済発展は県経済には全然貢献していない。

県議会事務局は那覇新都心地区の使用収益開始後15年目(平成25年)における、地区内に立地する商業・サービス業の経済活動規模は、売上高1918億円にまで拡大すると推計している。
 しかし、那覇新都心の売り上げが1918億円になるということは、県内の那覇新都心以外の場所では売り上げが1918億円減るということであり県全体の売り上げは変わらない。
沖縄県知事公室基地対策課は「駐留軍用地跡地利用に伴う経済波及効果等」で
「事例3地区のうち、那覇新都心地区の経済効果は以下のとおり。
プラスの生産誘発額が(活動+整備)の874億円であるのに対し、マイナスの生産誘発額は55億円と約16分の1であった。こうしたことから、地域経済的観点でみると那覇新都心地区の開発は県経済に大きなプラス」と発表している。県議会事務局は那覇新都心地区の経済効果をそのまま県全体の経済効果としている。しかし、説明した通り那覇新都心地区の経済効果は県経済にはプラスマイナスゼロである。とすれば、55億円は日本政府やアメリカ政府から米軍基地時代の那覇新都心の地主や働いていた人たちに流入していたお金であったのだから、本当は那覇新都心が県に与える影響は55億円のマイナスなのである。
那覇新都心の経済効果は、県全体から見ればゼロの経済効果であるから、那覇新都心の経済効果を全ての米軍基地が返還された場合の経済効果に当てはめるとすれば、本当は県経済にとっては9155億5千万円のプラスではなく、4206億6100万円のマイナスになることになる。莫大なマイナスの経済効果である。

基地経済と那覇新都心経済の違い

平成二十二年に発表した沖縄県企画部の統計によると、平成二十年度(2008年)の軍雇用員の所得は520億円である。軍雇用員が給料をもらった時、日本政府から県内に520億円のお金が入ってくることになる。軍用地料は783億である。軍用地料783億円が地主に払われた時、日本政府から県内に783億円のお金が入ったことになる。流入してきた軍雇用員の所得520億円、軍用地料783億円は県内で流通して、県のGDPを流入金額のおよそ2倍の2606億円押し上げる。
那覇新都心で県外から移入・輸入された商品が874億分売れたとすると、もし商品の原価が60%であるとするなら約524億円のお金が県外に出ていくことになる。残りの350億円は県内で再び流通する。
基地経済は日米政府から県内にお金が入ってくる経済であり、那覇新都心の経済は県外へお金が出ていく経済である。

県の移(輸)出入における経済

 私たちの家には冷蔵庫、テレビ、クーラー、パソコンなどの電化製品がある。これらの電化製品は県内で製造したものではない。県外で製造されて県内に入ってきた商品である。商品が県内に入ってきて私たちが買うということは、商品と引き換えに商品の原価と等価のお金が県外に出ていくことになる。
 電化製品だけではなく食料品や車などさまざまな商品が県外から県内に入ってくる。同時に商品の原価と等価のお金が県外に出ていく。

平成二十二年に発表した沖縄県企画部の統計によると、平成二十年度(2008年)の県の移入・輸入は、

移(輸)入      1兆4012億5200万円
商品         1兆3427億9300万円
原油          1507億1900万円

である。平成二十年は県外から1兆4012億5200万円分の商品と原油が県内に入ってきた。それらの輸入・移入商品が私たちの生活を支えている。1兆4012億5200万円分の商品と原油が入ってくるということは同時に1兆4012億5200万円のお金が県外に出て行くことになる。
お金は天から降っては来ない。地から湧いても来ない。1兆4012億5200万円のお金が県外に出て行ったということは県外からそれだけのお金が入って来なければならない。

 県外から県内にお金が入ってくるお金には基地経済以外に移出、輸出があり、観光収入があり、政府からの交付金がある。

県外から入ってくるお金

A 移(輸)出         3943億0500万円

B 観光収入          4298億8200万円
 
C 米軍基地からの要素所得  1397億4500万円
軍雇用者所得         520億3500万円
軍用地料           783億7500万円
米軍等への財・サービス提供   686億5100万円

D 交付金          2574億6100万円


沖縄のリアルな第一次・第二次産業の経済力

第一次・第二次産業の移(輸)出額は3943億0500万円である。一方県外からの移(輸)入は1兆4012億5200万円である。
移(輸)出と移(輸)入の差は、
 
1兆3427億9300万円―3933億5300万円
=計9494億4400万円

マイナス9494億4400万円ある。移(輸)出と移(輸)入の差は大きく、移(輸)入金額は移(輸)出金額の約3・4倍である。沖縄の一次二次産業は非常に弱いことを示している。
県の移(輸)出入の赤字は9494億4400万円であるから、もし、沖縄の県外からの収入が移出・輸出だけだとすると赤字額の9494億4400万円の商品を私たちは買うことができないことになる。実に70パーセントの移入・輸入製品が私たちの生活から消えることになる。それが沖縄の第一次二次産業のリアルな経済力である。私たちの生活から70パーセントの製品が消えれば私たちは戦前の生活レベルに戻ることになる。恐らく沖縄県の人口は半減し、ソテツ地獄を生きていた琉球王朝時代の農民生活のレベルになるだろう。
 沖縄の土地は農業に向いていないし、沖縄には石油や鉄鋼などの資源が埋蔵しているわけでもない。沖縄は元々豊かになれる自然環境ではない。琉球王朝時代から戦前まで沖縄の民は貧しかった。

観光収入で補填してもまだ赤字

県外からお金が入るケースには製品の移(輸)出以外に観光収入がある。観光収入は県外からお金が入るので移(輸)出入の赤字を補填することができる。観光収入は4298億8200万円である。
移(輸)出入の赤字から観光収入を引くと、

9494億4400―4298億8200万円
=5195億5800万円

観光収入で移(輸)出入の赤字を補填しても県の赤字は計5195億5800万円である。移(輸)出と観光収入が沖縄の産業であり、沖縄の産業は毎年5195億5800万円くらいの貿易赤字を出している。観光収入を合わせても移入・輸入の63%しかない。もし、県外からの収入が第一次・二次産業製品の移出・輸出、観光産業だけであるとすると、私たちの生活から37%の移入・輸入製品が消えることになる。
私たちはこの現実を直視するべきである。沖縄の産業は未熟であり、5195億5800万円という莫大な赤字を生み出しているのだ。産業を発展させて赤字を縮小させていくのが沖縄経済の重要な課題である。

 この赤字は那覇新都心の経済が補填することはできない。観光収入は県外から県内にお金が入ってくるが、那覇新都心で2000億円の売り上げがあったとしても、商品の原価が60%であれば1200億円ものお金が県外に流出するのが那覇新都心の経済である。

 やんばるでしいたけ栽培が始まった。大量生産する計画だという。県内で売られているしいたけの99パーセント以上が県外からの移(輸)入品である。やんばるのしいたけの生産が増し、県内の半分の売り上げに達したら、県外からの移(輸)入を50パーセント減らすことになる。それは移(輸)出に匹敵するものであり、県全体の経済発展に寄与することになる。大量に生産をして移(輸)出するようになればますます県経済の発展に寄与する。金額は小さくても、このようなベンチャー企業を多く輩出することが沖縄の自立経済を促進することになる。

基地経済と交付金の沖縄経済への貢献

観光収入で補填しても、まだ5195億5800万円の赤字である。県外から入ってくるお金には第一次・二次産業製品の移出・輸出、観光収入の他に米軍基地関連の収入と政府からの交付金がある。

米軍基地からの要素所得  1397億4500万円
軍雇用者所得        520億3500万円
軍用地料          783億7500万円
米軍等への財・サービス提供 686億5100万円

基地関係総収入 3388億0600万円

3388億0600万円―5195億5800万円
=マイナス1807億5200万円

基地関係総収入を補填しても1807億5200万円の赤字である。最後に県に入ってくるお金として政府からの交付金が2574億6100万円ある。

2574億6100万円―1807億5200万円
=767億0900万円

交付金を補填して、やっと767億0900万円のプラスになる。

移(輸)出    3943億0500万円

観光収入    4298億8200万円
基地関係総収入 3388億0600万円
交付金(純)   2574億6100万円

移(輸)出が3933億5300万円であるにも拘わらず移(輸)入が1兆3427億9300万円と計9494億4400万円の貿易赤字が出せるのは、観光収入、基地関係総収入、交付金(純)が1兆0261億4900万円あるからである。観光収入、基地関係総収入、交付金(純)の三大収入が沖縄経済を大きく支えている。

 (注)観光産業はホテルの内装や交通の車や燃料、観光客が買う商品などには県外から仕入れたものが多いからそれらの原価は県外に流出する。それに本土資本であれば収益が本土に流れる。観光収入の最低3割くらいのお金は県外に出ていくと考えられる。4298億8200万円は7割(3009億1740万円)程度が移(輸)入の補填になるのではないかと思われる。交付金も建設工事の多くが本土資本に入札される。利益の多くは本土企業に流れる。交付金の中から本土に流出するお金がかなりあるだろう。しかし、軍雇用員の給料は全部を軍雇用員が受け取る。軍用地料も直接軍用地主に支払われる。軍用地主は4万人以上いて軍用地料の平均は100万円以下であるから軍用地料は生活費に使う率が高い。観光収入や交付金に比べて基地関係総収入の県内に流入する率は高いと思われる。

(注)IT企業の2011年度生産額は推計3165億円である。3165億円の中には本土からの収入が多く含まれていると思われる。IT産業も県経済を大きく支えている。
 
 那覇新都心の経済は県外へお金を流出させる経済である。那覇新都心の経済はお金を県内に流入させる基地経済に代わる存在にはなれない。県議会事務局が那覇新都心の経済が基地経済の代わりになると想定したのは根本的に間違っている。
基地経済に代わることができるのは県外からお金を流入させる観光産業や生産・製造業やアジアから仕入れて本土に売る卸業やコールセンターやIT産業のような本土へのサービス業である。
県議会事務局が那覇新都心の経済効果を基地経済の代わりになるとしたのは大きな誤りであり、大きな誤りは経済政策の大きな誤りを生む可能性がある。

高嶺善伸県議会長は、県議会事務局の試算で基地が全部返還した時の経済効果が年間9155億5千万円に上るとの試算結果を根拠にして、復帰後1972年~2011年の間に沖縄に投じられた国の予算(9・9兆円)の少なさを指摘している。
「振興策について政府内からは『沖縄を甘やかしてはいけない』という議論があるが、試算を見れば39年間で9・9兆円とは、支援策としてあまりにもたりないことは明白だ」と述べている。
高嶺善伸県議会長は復帰後、米軍基地が全て撤去されていた時の方が沖縄の経済は数倍も発展していたと主張し、「ポスト振興策の議論が始まる中、米軍基地による経済影響を正確に把握し、沖縄の自立経済を確保するため国の支援を求める根拠としたい」と述べている。
しかし、「基地が全部返還した時の経済効果が年間9155億5千万円に上る」との試算の根拠は那覇新都心の経済効果である。那覇新都心の実質的な県への経済効果はゼロである。高嶺善伸県議会長が国の支援が少ないという根拠は失われる。

 もし、復帰した時に米軍基地が撤去して、政府の援助も少なかったら、沖縄はどうなっていただろうか。高嶺善伸県議会長のいう通り、沖縄は自力で今以上の経済発展をしていただろうか。基地がなくなれば軍用地料はなくなり、軍雇用員も全て解雇されて、アメリカ軍兵士や家族からの収入はゼロになる。復帰のころの沖縄の経済は基地経済以外はさとうきびやパインなどの農業が中心であった。さとうきびやパイン産業は沖縄を貧困にするだけである。沖縄だけの経済力では観光産業が発展するためのホテルや交通やビーチ開発などに投資するお金がなかっただろう。観光産業は今のように発展していなかったにちがいない。恐らく沖縄の人口は半減して沖縄全体が過疎化していた可能性が高い。
沖縄は農業に向いていないし、資源もない。産業が育つには最悪の地である。戦前までの沖縄の経済を見れば一目瞭然である。戦後の沖縄の経済発展は経済力が世界一位のアメリカ政府と世界二位の日本政府の莫大な援助があったからであり、そのお蔭で第一次、二次産業が発展しなくても、第三次産業が発展して140万人の人間が住めるようになったのである。

今までがそうであったように、これからも米軍基地は縮小し続け、いずれはゼロに近くなる。政府の高額交付金もなくなるだろう。沖縄の将来のためには県全体がプラスになる産業を開発し発展させなければならない。
沖縄の将来に責任のある県議会の政治が那覇新都心の経済論を振り回して、基地を返還するだけで県経済は発展していくというたわごとを言っているようでは沖縄の将来は危ういものだ。

沖縄の経済発展に米軍基地が足を引っ張っているというのは嘘

 高嶺善伸県議会長は、
「ポスト振興策の議論が始まる中、米軍基地による経済影響を正確に把握し、沖縄の自立経済を確保するため国の支援を求める根拠としたい。」
と述べているが、自立経済の確保は農業や工業の生産力を高めて県内への供給力を高めるとともに移出・輸出に貢献する企業の成長にある。また、観光とかコールセンターなどの県外からの収入を高める産業の成長が必要である。生産する企業、県外からの収入を高める企業が沖縄の自立経済を高めるのであり、那覇新都心のような消費経済は沖縄自立経済の発展とは関係がない。

沖縄の経済を発展させる工場や会社の立地場所は米軍基地とは関係がない。観光ホテルや観光場所は米軍基地以外の場所に確保されているし、観光客を増加させるには観光開発や観光客の誘致努力にかかっているのであって、米軍基地の存在が邪魔をしているわけではない。
沖縄の工業関係の事業所は減少状態にあり、米軍基地がなければ工場の場所を確保できないで困るという状態ではない。むしろ、すでに工場を立地する場所は確保されている。
国や県は基地経済からの脱却を目指して、埋め立て事業に1880億円を投じて特別自由貿易地域をつくった。ところが特別自由貿易地域への入居社は23%しかなく、広大な空き地が広がっているのだ。入居が少ない原因は沖縄の電気料金、物流コストが高いことである。米軍基地の存在とは関係のない問題である。それに沖縄には製造業の独自の技術がなく、製造業を発展させるには本土の企業を誘致するしか方法がないというのも、沖縄の製造業が脆弱である原因だ。

県議会事務局の米軍基地があるゆえに経済が発展していないという根拠は、米軍基地が返還された小録、ハンビータウン・美浜、那覇新都心のようなサービス業が飛躍的に発展した地域を参考にしているからである。このような消費のためのサービス業は県の実質的な経済成長には関係がない。返還された基地跡に新たな観光客を呼ぶような設備をつくるのなら経済効果があるが、那覇新都心のような街をつくるのなら経済効果はない。
那覇新都心の経済は経済を発展させるのではなく、経済が発展して人口が集中した場所につくられる消費経済である。
 
基地経済に代わる経済は生産業や観光産業のように県外からお金を流入させる企業である。那覇新都心のような販売・サービスの経済は基地経済の代わりにならない。だから県の経済発展に米軍基地があるないは関係ないし、米軍基地があるから沖縄の経済は発展しないというのは嘘である。

基地経済に代わる経済はベンチャー企業

 基地経済に代わる経済は米軍基地とは関係なく沖縄全域で新しい生産を生みだすベンチャー企業である。

農業
 さとうきびやバイン産業から脱皮して、農業の大規模化、専門化、加工技術向上が重要だ。それに本土や国外への販売網の開発ももっと積極にやるべきである。

キク栽培、かぼちゃの大量生産、久米島の冷熱農業・県産シイタケ量産栽培、植物工場レタス、月桃からの化粧水。アグーのブランド化等々。


水産業
加工品の開発。水産業の大規模化、専門化、加工技術向上が重要だ。

マグロのブランド化・日本一を誇る久米島の車エビ・シラヒゲウニ養殖企業、スヌイ、アーサの加工品等々。

工業 
多くのベンチャー企業が誕生している。県は有望なベンチャー企業を強力に援助し、成長を促進するべきである。本土企業の沖縄進出も増加しているが、まだ少ない。もっと誘致運動に力を入れるべきだ。
 
本土からの進出
昭和金型沖縄進出・東京計装県沖縄内進出・電気バス製造等々。

台湾企業とのタイアップ
蛍光灯型LED灯製造

沖縄ベンチャー企業
センダンから薬品・ガソリン車をEV車に・県産カバン全国出荷へ・県産月桃化粧品・小型潜水艦海外販売・水中可視光通信等々。

IT産業は特に有望である
沖縄のIT企業は、216社が県内進出している。2011年度生産額は推計3165億円となり、06年度調査の2252億円に比べ約40%増となった。雇用3万2985人である。10年後は1・8倍を目標としている。

 経済を発展させる第二次・三次産業は工業用地として埋め立てた造成地やすでに存在する空き地や建物で場所は確保できる。米軍基地跡である必要はない。
 問題はベンチャー企業が増えることと成長することである。うるま市の特別自由貿易地域にある金型技術センターを中心とした県内企業など約15社がマイクロEV(電気自動車)を完成させた。沖縄の製造業も発展している。
 観光産業、IT産業、製造業、農業の全体が発展することが大事だ。人間には向き不向きがある。観光業だけ発展しても沖縄の人間のそれぞれの才能を生かすことにはならない。ITに向いている人間はIT企業に就職し、製造業に向いている人間は製造業に就職できるように幅広く産業を育てることが大事だ。
 
 中国や東南アジアの経済成長が沖縄の経済発展のチャンスだ。









  

2012年05月06日

指摘をありがとう

「ヒジャイさん重病説」も出ていて心配していました。とりあえず一安心です。自費出版の件、残念ですね。経験的に沖縄の出版社はかなりのんびり対応するのは知っていますが、「もうしわけない」「ごめんなさい」というひとことがないのがフツーです。出版社の方に限らず、沖縄では自分たちに瑕疵があっても謝らない方が多いですし、なにかしてあげてもお礼をいわれることもないので、それがフツーなんだと思ってきました。ですから、ぼくは今まで怒ったことはありませんが、正直いって新聞社も含め沖縄のマスコミ出版の方と一緒に仕事をする気にはなれません。ただ、ヒジャイさんの事例がもしB社のことだとすれば、とくに残念です。あそこは沖縄でも普通に仕事ができる出版社ですから。それから、士族比率のことですが、ぼくの調べた限りでは、沖縄10%、本土5%。沖縄は本土の2倍です。下級士族が大部分で、そのまた大部分が無禄だという話もありますが、何らかの「手当」が出ている事例も多いので、これはもっと調査する必要があると感じています。

篠原章


篠原さん貴重な情報をありがとうございます。武士階級が人口の5%と書いたのは、篠原さんの私的通り本土の武士の割合を参考にしたものです。
ネットで調べたら、

琉球王国の身分構成
身分          戸数    割合
御殿 王子       2戸     0.002%
按司       26戸    0.032%
殿内 親方(総地頭)   38戸    0.047%
脇地頭親方(親雲上)   296戸   0.367%
一般士族(里之子・
筑登之親雲上)      20,759戸  25.79%

以上のことがわかりました。すぐに、書き直しました。もし、間違っている箇所があれば指摘してください。歴史には素人で、ネットで調べながら書いています。


出版を断られた時にははびっくりしました。ただ、沖縄の裏の政治事情は知っています。それに沖縄の社会が「非民主」の部分が根強いことも知っています。
でも、まさか沖縄の出版界では先進的なB社までが琉球新報、沖縄タイムスなどと同じ路線を踏襲しているとは予想だにしていませんでした。

このような状況ですが、なんとかなると思います。

  

2012年05月05日

2 ソテツ地獄と命どぅ宝

「沖縄に内なる民主主義はあるか」

二 ソテツ地獄と命どぅ宝

 数年前、「命どぅ宝」という格言はいつ頃生まれたのかを話題にしているコラムがあった。三十代の女性が書いているコラムであったが、「命どぅ宝」は40年前に生まれたという説や沖縄戦の時に伊江島で生まれた説など複数の説があるが、どれも彼女が生まれる前のことであり、どれが本当なのかわからないと書いてあった。
 私は「命どぅ宝」の格言が40年前に生まれたという説があることに驚いた。「命どぅ宝」は昔からある格言であると聞いていたし、40年以上も前に何度も耳にした格言であった。「命どぅ宝」の格言が40年前に生まれたというのは確実に間違っているし、沖縄戦に生まれたというのもおかしい。
「命どぅ宝」には私なりのこだわりがあり、40年くらい前の若い頃に「命どぅ宝」について調べたことがあった。私の記憶では「命どぅ宝」は琉球王朝時代からある格言であり、「命どぅ宝」が戦後に生まれたのではないことは確実だった。私はそのことを新聞に投稿しようと思い立った。しかし、私の記憶だけで説明するのでは説得力がない。私はネットで「命どぅ宝」に関する資料を集めることにした。ところがネット検索をして再び驚いた。ネットでは琉球王朝時代から「命どぅ宝」はあったと説明しているサイトが一つもなかったのだ。

ネットサイトの言葉辞典には、

【ぬちどぅたから】 何をおいても命こそが大切であるいう意味。沖縄戦の際、難民の一人によって叫ばれたとも伝えられる。1950年代に伊江島土地闘争のスローガンとして用いられ、さらに1980年代の反戦平和運動のなかで広く普及した。

と書いてあった。別のサイトも検索したが、ネットでは、「命どぅ宝」は沖縄の反戦平和運動のスローガン、シンボルであると説明していて、反戦平和以外の格言であるという説明はひとつもなかった。
 「命どぅ宝」の格言が生まれた時期については諸説があった。生まれた時期が一番古いのは明治の初めであった。

いくさ世もすまち みろく世ややがて
 啼くなよ臣下 命どぅ宝
「戦の時代は終わった。やがて、平和で豊かな時代がやって来るだろう。嘆くな臣下たち。命を粗末にはするな。」

という琉歌を琉球王朝最後の王尚泰が詠んだので、この琉歌から「命どぅ宝」は世間に広がったという説であった。
しかし、この説は歴史の事実とは合わない内容である。その頃の琉球王朝は薩摩藩に支配されていて武器は取り上げられ戦争をやる能力は失われていた。それに薩摩藩に支配された1609年以降は琉球王朝は戦争を一度もやっていない。琉球王朝は250年以上も戦争のない平和な時代を過ごした。だから、尚泰が戦争を体験したはずはなかった。戦争をしていない尚泰が「いくさ世すまち」と詠むのはありえないことである。
 別のサイトでは、この琉歌は尚泰が詠んだのではなく、沖縄県出身の画家で作家の山里永吉氏(1902年・・1989年)が昭和7年(1932年)に書いた戯曲『那覇四町昔気質』の幕切れに「いくさ世もしまち みろく世もやがて 嘆くなよ臣下 命どぅ宝」という琉歌を劇中の尚泰が詠む台詞があり、「命どぅ宝」は『那覇四町昔気質』の上演から広まっただろうという説であった。
 もし、その説が本当であるとするなら昭和7年から、沖縄では「命どぅ宝」だから戦争には反対であるという反戦平和の思想が広まったということになる。
 しかし、この説も怪しい。日本は日清戦争、日露戦争に勝利した。日本だけでなく沖縄の人々も大国清やロシアに小国日本が勝利したことを喜び、清、ロシアに勝ったことで日本人としてのプライドが高くなった。沖縄の人々は反戦平和どころか戦争を歓迎し、戦争の勇者を称えた。戦争をすれば必ず勝つと信じていたから沖縄の人々は戦争を歓迎していた。1932年に満州事変が起こり、満州を日本が支配するようになると、満州を新天地として沖縄からも夢を抱いた人々が移住した。日本軍が南方の島々を武力で制圧し植民地にしたおかげで沖縄の人々はサイパン、グアムなど南方の島々に移住してさとうきびを栽培することができた。勝ち戦は領土が拡大し豊かな生活を求める人々の移住が増えることになる。勝ち戦は沖縄の人々に夢を与えた。戦前の沖縄には反戦平和運動が広まる要素はなかった。事実、反戦平和運動があったという記録がない。反戦平和運動がなかった沖縄に反戦平和運動のシンボルである「命どぅ宝」が広がったというのはありえないことである。

 元琉大学長であり、県知事でもあり、国会議員でもあった太田昌秀氏は「命どぅ宝」について著作「こんな沖縄に誰がした」で、
「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を持っていた。そして、『命どぅ宝』、すなわち何よりも『命こそが大事』を合い言葉にして、他者との友好的共生の生き方を心掛けてきた」
と述べている。学者である太田氏は「命どぅ宝」の格言は琉球王朝時代の昔からあったと述べている。太田氏の説が正しいとすれば「いくさ世もすまち みろく世ややがて啼くなよ臣下 命どぅ宝」の琉歌から「命どぅ宝」が広まったという説ば否定され、「命どぅ宝」が戦後に生まれたという説も否定される。
 しかし、太田氏の説明も納得できるものではない。太田氏は「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い」と述べているが、琉球王朝以前の沖縄は、南山、中山、北山と国が三山に分かれていて、1429年に南山の按司(豪族)であった尚巴志が武力によって三山を統一した。
三山を統一した琉球王朝は八重山と奄美大島を武力で制圧した。昔の琉球は武器を持った武士階級が支配していた社会であり、戦争に勝つことによって支配地を広げていった。これは史実である。「いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い」というのは史実に反する説明である。
三山時代から琉球王朝が奄美大島を支配するまでの沖縄は戦争をやっていた時代であり、琉球王朝は太田氏のいうような武器も持たず戦争を忌み嫌う国ではなかった。
太田氏は琉球王朝時代の人たちを武士階級と農民階級の区別をしないで「琉球の人々」と呼んでいる。まるで琉球王朝時代は身分のない平等な社会であったような印象を与える。しかし、琉球王朝は身分制度のある社会であり、支配する武士階級と支配される農民階級、搾取する武士階級と搾取される農民階級に分かれていた。支配者階級である武士人口は全体の約5バーセントを占めていて、5パーセントの武士階級が政治を行っていた。農民階級は政治に関わることはできなかった。ひたすら農業をやり武士階級に搾取されていた。
太田氏のいう「琉球の人々」とは政治や外交を行っている人々のことであり、支配者階級の武士を指している。人口の95パーセントを占める農民や漁民などの平民は太田氏のいう「琉球の人々」には含まれていない。

琉球王朝は1609年以来250年以上戦争をしていない。太田氏がこの事実を根拠にして「琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い」と述べたとしたら歴史の事実を正確に説明していないことになる。
1609年3月、薩摩の大名であった島津家が3000人の兵で琉球王国に攻め入った。琉球王国の王、尚寧王は軍隊を動員して、抵抗するが、豊富な戦いの経験をもち、しかも鉄砲を使う薩摩軍に琉球王朝の軍隊はまったく歯が立たず、4月には首里城を明け渡してしまった。琉球王国は戦争で島津の軍隊に敗北したのである。敗北した琉球王国は薩摩藩に支配された。
薩摩藩に支配された琉球王朝は政治上の実権はないものの表面上は独立王国の形を残した。その理由は中国との貿易を続行させて琉球王朝の利益を薩摩藩が得るためであった。尚寧王は捕虜となり薩摩へと連行された。江戸に行き徳川家康と秀忠にも謁見した。2年後に尚寧王は琉球へ戻されるが、薩摩藩に忠誠を誓う起請文を書かされた。薩摩藩は琉球王朝の存続は認めながらも琉球王朝を実質的な支配下に置いた。薩摩藩の支配下に置かれることを拒んだ謝名親方は処刑された。

これが客観的な史実である。太田氏の述べている「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を持ってきた。そして、『命どぅ宝』、すなわち何よりも『命こそが大事』を合い言葉にして、他者との友好的共生の生き方を心掛けてきた」という事実は歴史のどこにもない。
薩摩藩に武器を取り上げられたために琉球王朝は武器で戦うことができなくなった。そのために素手で戦う方法を琉球王朝は中国から導入した。それが空手である。空手は沖縄が発祥の地として世界中に有名になった。空手は素手で相手を殺す技である。空手は沖縄では唐手(とぅーてぃー)と呼んでいた。沖縄古武道では農作業に使う鎌やてんびん棒を武器にして戦う術もある。
薩摩藩に武器を取り上げられても琉球王朝は中国から空手を導入して武士としての戦う精神は失わなかった。戦うことを本分としている武士階級に「命どぅ宝」の格言があったとは考えにくい。
太田氏は「『命どぅ宝』、すなわち何よりも『命こそが大事』を合い言葉にして、他者との友好的共生の生き方を心掛けてきた」と述べているが「他者」とは薩摩を指すのかそれとも中国や韓国などの外国を指しているのか抽象的で分からないが、琉球王朝は島国なので他者は海を隔てた遠い存在である。他者と共生するというほど他国と政治・経済が密接な関係にあったとは考えられない。
琉球王朝は中国や韓国と貿易をしていた。貿易は商売だから武器を使わない平和的な交渉で成り立つ。「他者との友好的共生」が貿易のことを指しているのなら、貿易は商売であるから「友好的共生」が絶対に必要である。わざわざ「命どぅ宝」を合い言葉にする必要はなかった。

薩摩藩は琉球王朝が謀反を起こさないように琉球王朝から武器を取り上げて、武器を持つことを禁止した。琉球王朝は太田氏の言うように武器を持たなかったのではなく武器を持つことができなかったのだ。戦争を忌み嫌ったのではなく戦争をする能力がなかったのである。
250年以上戦争がなかったのは琉球王朝だけではない。江戸幕府をはじめ日本全国で戦争がなかった。
薩摩藩に支配されていた琉球王朝は武器を持つことを禁じられていた。武器を持てない琉球王朝は「いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する」方法しかなかったのだ。
琉球王朝が他国に攻められることもなく平和であったのは薩摩藩の保護下にあったからであり、琉球王朝が「武器を持たずに他者との友好的共生の生き方を心掛けてきた」から平和であったのではない。

「命どぅ宝」と「物喰ゆすどぅ我が主」

「命どぅ宝」と「物喰ゆすどぅ我が主」は昔から言い伝えられてきた沖縄の格言である。私が子どもの時は「命どぅ宝」と「物喰ゆすどぅ我が主」は対のようなもので二つの格言は一緒に話すことが多かった。
学校の教師は「命どぅ宝」は人間の一番大切なものは命であるという格言であると説明した。
現在は「命どぅ宝」は反戦平和のシンボルとして有名であり、県内外の人や若い人にも知られているが、「物喰ゆすどぅ我が主」はほとんど聞かれなくなった。

命が一番大切であるというのは誰もが思うことであり、「命どぅ宝」の格言は真実をついている面はあるが、命が一番大切というのは別の見方をすれば命が惜しいということである。命が一番大切であるから命を守るために強いものの言いなりになるという解釈もできる。高校時代の私は「命どぅ宝」は命が惜しくて権力者にぺこぺこしているのをイメージした。
 幕末のヒーローである坂本龍馬は命の危険を恐れずに新しい日本を築くために奔走した。そして、命を落とした。高校生の時、坂本龍馬を主人公にした「陽はまた昇る」というテレビドラマがあった。坂本龍馬を田村高広が演じ、ナレーターは芥川隆之であったが、坂本龍馬が命をかけて新しい国づくりを目指して活躍する「陽はまた昇る」を私は毎週わくわくしながら見ていた。命を賭けて新しい日本をつくろうとしている坂本龍馬はヒーローであったし、多くの少年が坂本龍馬の生き方にあこがれたように私も坂本龍馬の生き方にあこがれる少年であった。命が惜しいからなにもしないで権力者にぺこぺこするのをよしとする沖縄の「命どぅ宝」の格言は私を惨めにさせる格言であった。
 愛する者たちや虐げられた人たちのために権力者と命を賭けて戦う主人公を描くテレビや映画がほとんどである。テレビや映画では命が惜しくて権力者にぺこぺこするような人物は人間のくずとして描かれる。人間のくずを正当化しているのが「命どぅ宝」であると高校時代の私は思っていた。

 中国では毛沢東が人民解放軍を率いて革命を起こした。キューバではカストロやゲバラがキューバ革命を起こした。フランスのシャンソン歌手のイヴ・モンタンは第二次世界大戦の時レジスタンスとしてドイツ軍と戦ったことで有名だった。人のため世のために命をかけて戦うのがかっこいい人間である。
チェ・ゲバラが捕まって処刑されたと報道されたのは高校生の時だった。キューバ革命を成功させたゲバラは革命の貢献者としてキューバで悠々たる生活を送ることができたのに、大臣の座を捨てて、新たな革命を起こすために苦難の道を選んだ。ゲバラはかっこいいしヒーローだった。
世界史はフランス革命やロシア革命など、人々が命をかけて権力者と戦い、新しい社会をつくったことを教えた。人間を圧政者から解放するには命をかけて戦わなければならないことを映画やテレビドラマや歴史教科書は教えていた。
それなのに沖縄の格言は権力者にぺこぺこする「命どぅ宝」や「物喰ゆすどぅ我が主」である。私は沖縄の格言が嫌いだった。

一九六六年、高校二年生の時に読谷飛行場でパラシュート降下訓練のジープに少女が圧殺される事故が起こった。事故への抗議集会が喜納小学校であり、読谷高校生であった私は他の生徒と一緒に抗議集会に参加した。
集会が終わると多くの人がバス停留所に集まったので、バスに乗るのにかなりの時間待たなければならなかった。私はバスに乗らないで歩いて帰ることにした。多くの人がぞろぞろと喜納から嘉手納方向に1号線(現在の国道58号線)を歩いていたが、私の隣を歩いていた琉大生が私に話しかけてきた。彼と私は討論になった。学生は平和憲法の話をやり平和のために日本は軍隊を持つべきではないといい、沖縄の米軍基地は撤去するべきであると話した。

私たちが歩いている1号線の左側は嘉手納弾薬庫の山が黒く横たわり、正面には嘉手納飛行場の明かりが煌々と輝いていた。嘉手納弾薬庫には核爆弾が貯蔵されているという噂は子どもの頃から聞いていた。第三次世界大戦が起こったら核爆弾を貯蔵している沖縄は真っ先に攻撃されて沖縄の人間は一瞬のうちにみんな死んでしまうという話は何度も聞かされた。もし、明日第三次世界大戦が起こるとしたら死ぬ前になにをしたいかなどと子ども同士で話し合ったこともあった。
だから、私は子どもの頃から戦争には敏感になっていた。中学生の時にキューバ危機があった。ソ連がキューバにミサイル基地を造ろうとしたのに対してケネディ大統領はもしキューバにミサイル基地をつくるならソ連と戦争するのも辞さないと宣言し、ミサイル基地をつくろうとソ連の輸送船がキューバに向かった時、ケネディ大統領の指令で核原爆を積んだ多くの爆撃機が飛び立ち、ソ連と一触触発の事態になった。このニュースを聞いた時、私はいよいよ第三次世界大戦が始まるかも知れないとびくびくした。幸いなことにキューバ危機は回避され、世界大戦に発展することはなかった。キューバ危機の回避は勇気あるケネディ大統領のお陰だと思った私にとってケネディ大統領はヒーローだった。
私の高校生のときはベトナム戦争が激しくなっていた時であった。毎日嘉手納飛行場からB52重爆撃機がベトナムへ飛び立ち爆弾を落として帰ってきた。エンジン調整の爆音は一晩中続いた。テレビの音も話し声も聞こえないくらいに爆音は大きかった。嘉手納飛行場の爆音が一番ひどい時期であった。
毎日ベトナム戦争の悲惨な状況が報道されていた。しかし、私は沖縄の米軍基地を撤去してほしいという考えはなかった。むしろ、米軍基地がすべて撤去すれば、他の国に沖縄を占領されるという恐怖のほうが強かった。
私は、もしアメリカ軍がベトナム戦争に敗北した時、南ベトナムを占領したベトコンはアメリカ軍のいる沖縄を攻撃するだろうかということを考えた。ベトコンが南ベトナムを支配したとしても核ミサイルなど多くの兵器が揃っている沖縄を攻撃すれば、アメリカ軍はベトナムに核爆弾を投下してベトナムを廃墟にしてしまうだろう。そのことを知っているベトコンが沖縄を攻撃するのはありえないことだというのが私の考えだった。アメリカ軍が沖縄に駐留している間はベトコンだけでなくどの国も沖縄を攻撃することはない。沖縄は安全であると私は考えていた。

「命どぅ宝」と「物喰ゆすどぅ我が主」の格言への反発や子どもの頃から戦争に対して敏感になっていたから、琉大生の憲法9条の平和論や米軍基地の撤去論に私は納得できなかった。自衛隊を廃止し米軍が撤去した日本・沖縄は無防備な国になる。無防備な国が他の国に侵略された歴史はあったが、平和が続いたという歴史はない。米軍基地がなくなれば平和で豊かになるという考えは非現実的であると高校生の私は考えていた。無防備な日本を植民地にしようと侵略してくる国は絶対あるはずである。どこかの軍隊が侵略してくれば武器を持たない日本・沖縄は簡単に占領されてしまう。日本・沖縄の人間は抵抗することもなく奴隷にされてしまう。
私は琉大生の話に反発した。内心では、「お前のようなきれいごとを言っても冷酷な世界には通用しない」と思いながら、「外国が攻撃したら日本・沖縄はどうすればいいのか」と私は琉大生に質問した。話を折られた琉大生は一瞬言葉に詰まったが、軍隊がいなくても大丈夫であると色々説明をした。琉大生の話した内容は記憶に残っていないが彼の説明に私は納得できなかった。軍隊がいなければ敵に支配されるのは明らかであり、単純明快な理屈である。琉大生の説明に納得しない私は、「外国が攻めてきたらどうするのか」という質問を繰り返した。
私のしつこい質問に困った琉大生は人民軍で敵と戦うと言った。私は人民軍も軍隊ではないかと琉大生に言うと、彼は自衛隊やアメリカ軍は軍隊であるが人民軍は軍隊ではないと言った。
琉大生は人民軍とアメリカ軍や自衛隊との違いを説明したが私は納得できなかった。琉大生は、自衛隊やアメリカ軍は国家がつくった軍隊であり支配者の利益のための軍隊である。しかし、人民軍は人民がつくる軍隊であり人民のための軍隊であるから自衛隊やアメリカ軍とは違うというような説明をしたと思う。学生は中国の人民解放軍をイメージして話したのだろう。民主主義国家の軍隊はシビリアンコントロールされているから人民軍と同じである。このことは脳裏にあったが高校生の私は筋道をたてて説明することはできなかった。琉大生と私は話がかみ合わないまま終わった。

 敵が攻めてきたら自分たちを守るために戦うのは当然である。沖縄戦の時、民間人が日本軍と一緒に戦ったのを私は当然の行為だと思った。中学生が鉄血勤皇隊として勇敢に戦ったのを私は賞賛するほうだった。戦後生まれの私は軍国主義少年ではない。天皇ために戦う考えはなかった。ただ、敵が沖縄を攻めてきたら家族、親戚、仲間や沖縄の人々を守るために戦うのは当然であると考えていた。占領されれば奴隷になる。奴隷にならないためには戦うしかない。そのように私は考えていた。
 「命どぅ宝」の思想は命が惜しいから侵略してきた敵軍と戦わないで降伏し、敵の奴隷になる思想である。沖縄の「命どぅ宝」と「物食ゆすどぅ我が主」の格言は奴隷の精神であると私は考えていた。
 
「命どぅ宝」「物喰ゆすどぅ我が主」の二つの格言は沖縄の農民の奴隷精神の表れだと考えていた私はふたつの格言を誇らしげに話す教師にむかついた。

「命どぅ宝」の重さ

 多くの格言は戒めや幸福や倫理について述べている。「命どぅ宝」、「物喰ゆすどぅ我が主」のような奴隷精神の格言はない。もしかすると二つの格言には教師の説明や私の解釈とは違うもっと深い別の内容があるのではないかと私は気になっていた。本で調べようとしたが高校の図書館には「命どぅ宝」について説明している本はなかった。琉球大学に入学したので、琉球大学の図書館にはあるだろうと思い、「命どぅ宝」について書いてある本を探した。本はあった。それは沖縄の格言について書いた小冊子だった。その本には「命どぅ宝」と「物喰ゆすどぅ我が主」についての説明が載っていた。本は「命どぅ宝」の格言が生まれたのは沖縄の農民の極貧が原因であると書いてあった。何度も大飢饉に襲われて農民は困窮し、家族が生き残るために女の子を那覇の遊郭に売らなくてはならなくなった時、那覇の遊郭に売られるのを嫌がる女の子に、女の子が遊郭に行かなければ家族みんなが飢え死にする。家族が生き残るためには恥もプライドも捨てなければならないと親は女の子を諭し、生き抜くことつまり「命どぅ宝」であると説得した。そういう話が載っていた覚えがある。

沖縄の畑は赤土で痩せている。それに毎年やって来る台風で作物は被害を受ける。島国である沖縄は水事情も悪くひでりが続くとすぐに水が不足した。沖縄の農民は何度も大飢饉に襲われた。
琉球王朝は一六〇九年に薩摩藩の支配下に置かれた。薩摩藩への貢物が強制され、琉球王府は、年貢9000石、芭蕉布3000反、琉球上布6000反、琉球下布10000反、むしろ3800枚、牛皮200枚を薩摩藩に収めなければならなかった。しかし、この負担があるからといって琉球王朝の王や士族が倹約生活をしたわけではない。琉球王朝の王や士族も贅沢な生活をした。その負担は一方的に農民に課せられた。琉球王朝時代の農民は島津への貢物と琉球王朝への献納の二重負担を強いられた。そのために農民はほとんど蓄えがなく、干ばつの時には疫病や餓死者が多く出た。 
 干ばつの年は農民の租税免除があったが租税免除はその年限りで、翌年には容赦なく年貢が取り立てられた。農民はますます貧しくなり、借金返済のために身売りが後を絶たなかった。貧しい農家は漁村に男の子を売り、女の子は那覇の遊郭に売った。歌人の吉屋チルーが七歳で那覇の遊郭に売られる途中で比謝橋に来たとき、「恨む比謝橋や情ねん人ぬわん渡さ思てぃかきてぃうちゃら」と詠んだ話は有名である。農民は生き延びるために子どもを売ったのである。
薩摩藩と琉球王朝の二重搾取のために税が重いばかりでなく、地方の間切りや村役人などの特権階級は税以外にも農民から取り立てて私腹を増やしていた。そのために農民はいっそう貧しかった。だから、台風や干ばつに襲われると蓄えがほとんどない農民は毒のあるソテツの実を食べて飢えをしのばなければならなかった。それをソテツ地獄と呼んでいる。沖縄の農民はソテツ地獄と呼ばれる大飢饉に何度も襲われた。
ソテツは台風にも干ばつにも強い植物であり、農作物が全滅するような台風や干ばつでもソテツだけは生き残った。しかし、ソテツの実は少ない。ソテツを食べる頃にはすでに餓死する者も多く出ていただろう。農民は命をつなぐための最低線でソテツを食べた。いつ死んでもおかしくない状況がソテツ地獄であっただろう。「命どぅ宝」の格言は飢え死にするか否かの極限の生活の中で必死に生き延びようとした農民によって生まれた叫びの格言であった。

 大正末期から昭和初期にかけてもソテツ地獄があった。
 沖縄の輸出品は砂糖が八割を占めていた。砂糖以外には泡盛、パナマ帽子、畳表、鰹節、漆器くらいであった。
 国際的な砂糖の値段の暴落は県経済に深刻な影響を与え、農民の収入が激減する中に台風や干ばつが襲い、農民は貧困の極みに陥り、ソテツを食べて餓えを凌がなければならなかった。貧しい農家は家族が生きるために子供を身売りした。男は糸満へ、女は遊女として辻の遊郭に売られた。明治以後、人身売買は禁じられていたが、沖縄では半ば公然と人身売買が行われていた。

死に直面した農民に唯一残されていた光は自由や豊かさなどではなく、ひたすら生き延びることであった。生き延びることだけが農民の希望だったのだ。自由・平等の世界を思い描く余裕は沖縄の農民にはなかった。小冊子を読んだ後の私は「命どぅ宝」に対する考えが変わった。
「あなたにとって何が一番大事ですか」と質問された時、多くの人は「幸福」や「愛」に関係あるものや、子供とか、妻、親、仕事などと答えるだろう。「命」と答える人はいないだろう。「命」は空気と同じで存在して当たり前のものであるからだ。大病や大怪我をして九死に一生を得た人間でない限り「命」が一番大事とは思わない。死ぬかも知れない体験をした人が「生きているだけで幸せ」と言う。琉球王朝時代の農民は死と向かい合いながら生きていた。生き延びるのが精一杯である「命どぅ宝」の生活を送った。
日本には「命どぅ宝」に近いことわざとして、「生きているうちが花」「命あってのものだね」などがある。しかし、「命どぅ宝」とはニュアンスが違う。「生きているうちが花」「命あってのものだね」には生きているといつかは幸せや楽しみがあるという内容が含まれている。しかし、「命どぅ宝」にはそのような「幸」「楽」「花」がない。「生きているだけで幸せ」の幸せも「命どぅ宝」にはない。ただ単純に、生きるのが大事だという格言である。
 「命どぅ宝」は単純で明快な格言であり簡単に作れるような格言のように思われるが、本土の格言にも同じ格言がないように、人間の幸せ、生き甲斐、倫理など人間の生きるための哲学とは無縁である「命どぅ宝」は本当はなかなか発想されない格言である。ソテツ地獄を何度も体験し死と直面しながらひたすら生き延びようとした琉球王朝時代の農民だったから「命どぅ宝」の格言は生まれてきたのだろう。
 
 「命どぅ宝」は死と隣り合わせだったから生まれてきた格言であり、琉球王朝最後の王尚泰や作者の山里永吉や尚泰を演じた伊良波尹吉が生み出せる格言ではない。
 「命どぅ宝」は、生死の瀬戸際で必死に生き抜こうとした農民の自分に鞭打った格言であり、生きることへの執念の格言である。
 「命どぅ宝」は私にとってずしりと重い存在になった。
  
生命を守る県民共闘会議
 
1960年4月28日
復帰運動の母体である復帰協が結成される。祖国復帰運動の始まりである。復帰協の先頭に立ったのは教職員会であり、復帰協の会長は教職員会から選出された。初代の、復帰協の会長は教職員会事務局長である喜屋武真栄氏であった。
   復帰協には革新政党の社大党、人民党、社会党が加入し、沖縄自民党は加入しなかった。

沖縄自民党
   復帰については現段階では時期尚早であるという段階的復帰
  論であり、基地については「本土なみ」基地であり、基地を容
認していた。
社大党 
早期の祖国復帰を主張していた。復帰の時点で「本土なみ」
  基地が残るのはやむをえないという姿勢であった。
人民党、社会党 
即時全面祖国復帰を主張し、米軍基地の撤去を求めていた。

復帰協を結成した初期の方針は、安保条約には原則的に反対との立場を取りつつも、祖国復帰を優先させていたから米軍基地に対しては反対とか撤去というはっきりした方針はなかった。むしろ、基地問題を取り上げることによって復帰が遅れるのを恐れたので、基地問題を取り上げなかった。復帰協の軸となったのは、教職員会や労組、民間団体などであり、政党ではなかった。

1967年 復帰協は「米軍事基地反対」の方針を打ち出す。
  
1967年 三大選挙が行われる。
11月10日、主席・立法院選が行われ、主席選は屋良朝苗が西銘順治に対して3万票余りの差をつけて当選。
立法院選は保守18議席、革新14議席となった。

1968年11月19日
嘉手納飛行場で、ベトナムに飛び立とうとしたB52重爆撃機が墜落、爆発炎上する。

1968年12月1日
那覇市長選は革新共闘の平良良松(社大党)が自民党候補に圧勝した。

1968年12月7日 
B52重爆撃機が墜落、爆発炎上がきっかけとなり、革新政党によって「生命を守る県民共闘会議」が結成された。

1969年3月22日
復帰協は第14回定期総会において「基地撤去」を運動方針に掲げる。

1968年11月19日、B52重爆撃機が嘉手納飛行場で墜落炎上して大爆発をした。その衝撃は大きく、嘉手納飛行場の周辺の住民を恐怖のどん底に落とした。嘉手納飛行場から2キロも離れていない場所に私の実家があったが、ニュースを聞いてすぐに実家に帰った私に、爆発の音はすさまじく戦争が起こったのではないかと思い、死の恐怖に襲われたと家族は話した。
B52重爆撃機が墜落炎上して大爆発をしたことで反基地運動は県全体に広まった。

戦後すぐに反戦平和運動があったと思っている人は多いだろう。しかし、意外と思うかもしれないが戦後間もない頃は反戦平和の思想は沖縄にはなかった。だから反戦平和による軍事基地撤去運動もなかった。米軍による土地接収に対する反対運動は全県的に盛り上がったが、それは先祖代々引き継がれてきた土地を異民族である米軍に取られることに反対した土地闘争であり、反戦平和や軍事基地反対の思想ではなかった。
沖縄戦で日本兵、民間人合わせて20万人近くの犠牲者が出たが、それでも人々は日本の勝利を信じており、沖縄戦の最中は軍国主義の絶頂期であり、天皇崇拝が高揚している時でもあった。人々の思想が天皇崇拝の絶頂状態のときに、昭和天皇が玉音放送で敗北宣言をして戦争は終わった。ほとんどの日本人や沖縄人は戦争に負けるとは思っていなかったので、降伏を宣言した玉音放送に多くの国民がショックを受けた。天皇崇拝の精神状態で戦争が終わったのだ。軍国主義から反戦平和主義へと沖縄の人々の精神が180度転換するのは簡単にできるものではない。
沖縄の人々は軍事基地への反発より異民族アメリカに支配されているという屈辱のほうが強かったはずである。だから、先祖代々引き継いできた土地を異民族である米軍に取られるのに反対した。異民族に支配されている沖縄の人々は祖国日本への復帰を熱望した。祖国日本へ復帰する理由は日本が民主主義であり、平和憲法の国家であったからではない。アメリカの異民族支配から脱したいからであり日本を祖国と考えていたからである。
沖縄の大衆運動は土地闘争に始まり、途中から祖国復帰運動に転換した。異民族に支配されるのを嫌った祖国復帰運動は50年代に始まるが、復帰協が軍事基地反対を掲げたのは1967年の復帰協第12回定期総会においてである。しかし、その時は軍事基地反対であり、軍事基地撤去を主張したわけではなかった。
復帰協が軍事基地撤去の運動方針を掲げるのは、1969年の第14回定期総会においてである。復帰協が軍事基地撤去の方針を掲げたのに反対した同盟系組織は復帰協から脱退した。同盟系組織が抜けることによって、人民党や社会党などの革新政党の影響が強くなり復帰運動は急進的になった。復帰協は「基地撤去」を強く主張するようになっていった。祖国復帰をすれば「核も基地もない平和で豊かな沖縄になる」というのが祖国復帰運動のうたい文句だった。

沖縄は、わずか数ヶ月で10万人近くの民間人の命が奪われるという凄惨な体験をした。沖縄戦を体験した人々には戦争への恐怖心は根強くあった。米軍基地を見れば沖縄戦を思い出してしまう人々も多かっただろう。
「沖縄に米軍基地があるから、もし戦争になったら真っ先に沖縄が攻撃される」「米軍基地があるから沖縄は戦争に巻き込まれて沖縄の人々の尊い命が奪われてしまう」「米軍基地がなくなれば沖縄は戦争に巻き込まれない」これが「生命を守る県民共闘会議」の米軍基地撤去を主張する理由であった。
 
 「生命を守る県民共闘会議」が主張する、沖縄に米軍基地があるから沖縄が戦争に巻き込まれるという説明には不可思議なことがひとつある。どの国が沖縄を攻撃するのかが明確にされていないことである。「命を守る県民協議会」を主催する革新政党は沖縄に軍事基地があるから、戦争になったらまっさきに沖縄が攻撃されると主張し、沖縄を再び戦場にしないために沖縄の米軍基地は全て撤去するべきだと主張はしても、沖縄を攻撃するかもしれない国を口にすることはなかった。
アジアを見渡せば沖縄を攻撃する国は限定できる。最初に予想できるのは中国である。次に北朝鮮、そして、旧ソ連である。それらの国は社会主義国家であり、日本、アメリカのような民主・資本主義国家とは対立している国々である。 
それでは中国や北朝鮮が沖縄を攻撃する可能性があっただろうか。朝鮮戦争の時は韓国の95パーセントを北朝鮮が支配したが、アメリカ軍が北朝鮮軍を押し返した。それ以後アメリカ軍は韓国に駐留し続けて北朝鮮が侵略するのを防いできた。台湾でもアメリカ軍の存在が中国の台湾侵略を防いできた。
もし、中国の人民解放軍が日本・沖縄を急襲すれば、日本・沖縄を占領することができるかも知れない。しかし、日本・沖縄を攻撃することはアメリカに宣戦布告をすることである。人民解放軍が日本・沖縄を占領することはできても、太平洋を隔てたアメリカ本国を占領するのは不可能だ。アメリカを屈服させることはできない。 
アメリカ軍は韓国、フィリピンにも駐留していた。アジアの海を航行している原子力航空母艦があった。原子力潜水艦もアジアの海を潜行していた。中国が日本・沖縄を攻撃すればすぐにアジアに駐留しているアメリカ軍が一斉に中国を攻撃する。グアム、ハワイから飛び立った核爆弾を搭載した重爆撃機も中国を攻撃する。中国全土が破壊されて中国が敗北するのは明らかだった。
世界最強のアメリカ軍が駐留している日本・沖縄を中国や北朝鮮が攻撃する可能性はなかった。
しかし、「生命を守る県民共闘会議」の主催者は沖縄に米軍基地がある限り沖縄が戦争に巻き込まれると主張し続けた。現実には起こらないことを吹聴したのが「生命を守る県民共闘会議」であった。
人民党や社会党の政治家は米軍基地があるから戦争に巻き込まれると盛んに主張したが、沖縄を攻撃する国があるとすれば中国や北朝鮮であるのだが、中国や北朝鮮と親しい関係である人民党や社会党の政治家は決して中国や北朝鮮が沖縄を襲ってくるかもしれないとは言わなかった。
沖縄を攻撃する国は具体的には想定できないという奇妙な理屈が「沖縄に米軍基地がある限り沖縄が戦争に巻き込まれる恐れがある」「戦争が始まれば米軍基地がある沖縄がまっさきに攻撃される」であった。「米軍基地があるから攻撃される」という理屈は直感的にはもっともらしいが、よく考えてみると首をかしげるおかしな理屈である。

大学生になると高校生の時には知ることができなかったアメリカの軍事戦略、アジアの情勢、世界情勢を知ることができた。アジアの状況を知れば知るほど沖縄が中国に攻撃される可能性はないと私は確信した。アメリカが沖縄に駐留しているから沖縄が戦争に巻き込まれる危険がなかったのは戦後66年間沖縄が一度も外国から攻撃を受けなかった事実が証明している。沖縄が外国から攻撃を受けるかも知れないという情報があったこともない。ところが革新政党はアメリカ軍が駐留しているから沖縄が戦争に巻き込まれるといい、沖縄が戦争に巻き込まれないためにアメリカ軍基地の撤去を主張した。これは世界の政治・軍事情勢を無視した間違った認識である。

 B52重爆撃機が嘉手納飛行場で墜落炎上して大爆発をしたのは事故であり戦争ではなかった。B52重爆撃機の爆発炎上は事故であり沖縄が戦争に巻き込まれる問題ではなかった。しかし、革新共闘会議はB52重爆撃機の事故を戦争と結びつけて「生命を守る県民共闘会議」を結成し、多くの住民が犠牲になった凄惨な沖縄戦体験のトラウマを呼び起こして、「生命を守る県民共闘会議」のもとに人々を結集させた。

「命どぅ宝」と「生命を守る県民共闘会議」

「生命を守る県民共闘会議」が結成した頃に、「命どぅ宝」の格言は琉球王朝時代の過酷な死と隣り合わせの窮乏の中で生き抜くために自分を勇気付ける格言であっただろうという考えに私は行きついていた。琉球王朝時代の農民は生き抜くことで精一杯であり自由を主張するどころではなかったのだと私は納得し、高校時代に反感を持っていた「命どぅ宝」に自分なりの終止符を打っていた。
 ところが、1969年に「命どぅ宝」を意外な場所で耳にした。場所は与儀公園であった。与儀公園は県民大会がよく行われる場所であった。その日は「命を守る県民共闘会議」の県民大会が開かれた日だった。
 県民大会の壇上で労組代表や革新政治家たちはB52重爆撃機の墜落炎上させた米軍を非難し、沖縄戦で十万人もの住民が犠牲になったことと関連させながら、沖縄に米軍基地がある限り沖縄は戦争に巻き込まれて二十数年前のように多くの住民が犠牲になると演説した。
戦争が起こったら罪のない女子供の命も失われると戦争の悲惨さを語り、人間は命が一番大事である、「命どぅ宝」であると県民大会に集まった人々に訴えた。演説は何度も「命どぅ宝」を繰り返した。この瞬間から「命どぅ宝」が反戦・平和のキャッチフレーズになった。
 革新政治は社会主義思想を根にしている。社会主義はアメリカの資本主義を否定し資本主義の次の社会を目指している政治であるとあの頃の私は信じていたから、「沖縄に米軍基地がある限り沖縄が戦争に巻き込まれる恐れがある」「戦争が始まれば米軍基地がある沖縄がまっさきに攻撃される」と主張する革新政党に反発していたが、革新政党が社会主義を根にしているので革新政治に期待しているところがあった。
ロシア革命、中国革命、キューバ革命と社会主義は輝かしい社会変革を実現してきた。沖縄や日本を変革するのが社会主義であるはずである。沖縄の次の社会をどのようにするのか、私は革新政党に次の指針を示すキャッチフレーズが欲しかった。しかし、沖縄の革新政党がキャッチフレーズにしたのは「命どぅ宝」であった。「命どぅ宝」は命さえあればいいという思想であり、人間としての夢も希望もない思想である。「命どぅ宝」は明治維新の四民平等にも劣る思想である。私は革新政治家たちが「命どぅ宝」を連呼すればするほど革新政治に失望していった。
 1963年にキューバ危機があった。ソ連がキューバにミサイル基地を建設しようとしたのに対して、ケネディ大統領は核戦争も辞さないと強いメッセージをソ連に送った。核戦争を回避したいアメリカとソ連の首脳によってキューバ危機は回避されたが、核戦争に懲りたケネディ大統領は核戦争になる前に極地戦争で解決しようとするキッシンジャー教授が唱えた局地戦に戦略を転換した。それがベトナム戦争だった。ベトナム戦争はアメリンカ軍が南ベトナムでベトコンと戦争していたが、ベトコンが沖縄を攻撃する能力はなかった。中国は台湾に攻める気配は見せたが、台湾のバックにはアメリカ軍が存在していたから中国が台湾に侵攻することはできなかった。
 中国がアメリカと直接戦争するのは考えられなかった。ソ連もキューバ危機で懲りていたからアメリカと直接戦争をするのは避けていた。
世界の政治情勢をみれば沖縄が戦争に巻き込まれる可能性はゼロであることは容易に理解できた。それなのに革新政治家たちはアメリカ軍が駐留していると沖縄が戦争に巻き込まれると主張し、「命どぅ宝」を連呼しながらアメリカ軍基地の撤去を主張した。
生命を守る県民共闘会議の運動は、沖縄の人々のトラウマになっている沖縄戦の死の恐怖に訴える運動であった。まさに命を守ろうとする動物的本能に訴えるような運動であり、人権、自由、幸福とは無縁の政治運動であった。
 沖縄の将来を築かない、沖縄の人々の思想を後退させる思想が「命どぅ宝」であった。私は革新政治に失望し次第に革新政治から離れていった。

軍隊があるから戦争が起きるのか

 沖縄の反戦平和思想には「軍隊があるから戦争が起こる。世界中の軍隊をなくせば戦争は起こらない」という考えがある。軍隊がなければ戦争は起こらないのは確かである。しかし、軍隊があると必ず戦争が起こるのだろうか。アメリカとイギリスが戦争する可能性があるだろうか。フランスとドイツが戦争をする可能性があるだろうか。ほとんどの人がアメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどのヨーロッパの国どうしが戦争するとは考えないだろう。ヨーロッパの国々は民主主義国家であり、国民を代表する政治家が国を運営している。民主主義国家と民主主義国家はたとえ軍隊を持っていても戦争はしない。
イスラエルとパレスチナは戦争をしている。原因は領土の争いであるが、イスラエルは民主主義国家であるがパレスチナは民主主義国家ではない。もし、パレスチナが民主主義国家になればイスラエルとの交渉は政治交渉が中心になり戦争はしなくなるだろう。アメリカはイラク、アフガンと戦争をした。アメリカは民主主義国家であるがイラク、アフガンは独裁国家だった。独裁国家だったイラクはイランやサウジアラビアとも戦争をした。
戦争が起こる原因は色々ある。軍隊があるから戦争が起こるという単純な理論で世界の戦争を判断するのは間違いだ。
沖縄に米軍基地があるのは中国や北朝鮮の社会主義国家と資本・民主主義国家アメリカ・日本やアジアの国々との対立が原因である。アメリカ、日本のような資本・民主主義国家と旧ソ連、中国の社会主義国家の対立は戦後生まれたものである。
戦後の国と国との対立の内容は戦前とは違う。戦争の内容も戦前と戦後は異なるものである。沖縄戦の体験からは戦後の戦争の内実を知ることはできない。沖縄の米軍基地の存在理由を知るには戦後の世界情勢を知る必要がある。「命どぅ宝」の反戦平和の視線だけで沖縄の米軍基地を見つめるだけでは沖縄の米軍基地の存在の理由を知ることはできない。
「命どぅ宝」の思想は戦後の世界の戦争を見る目を盲目にしている。
戦前のように軍隊が政権を握った軍国主義国家と戦後のように国民の代表が政権を握った民主主義国家では軍隊の性質が全然違う。軍隊が政権を握れば国民を弾圧し領土を広げようと戦争を起こす。戦後の民主主義国家では軍隊には政治権力がなく、政府の指揮下で行動するから戦後の軍隊は国民のために働く。同じ軍隊でも戦前と戦後では軍隊の性質が違う。
「命どぅ宝」の思想は、軍隊は命を奪う戦争をするためにあると決めつけているから、軍国主義国家の軍隊と民主主義国家の軍隊の違いを認識することができない。東日本大震災で自衛隊は人命救助や瓦礫処理、不明者捜索、福島原子力事故等で活躍した。戦後の日本の軍隊は戦争だけのために存在はしていない。国民を襲うあらゆる災害から国民を守るために存在している。「命どぅ宝」の思想では自衛隊の本質を理解できない。 
軍隊があるから戦争するというのは安易な考えだ。軍隊をつくるつくらないは政治であるし、戦争するしないは軍隊の問題ではなく政治の問題である。

民主主義思想のない「命どぅ宝」 

1969年、生命を守る県民共闘会議の県民大会で反戦平和のシンボルとしての「命どぅ宝」は登場した。あれから40年以上が経ち、いまでは、「命どぅ宝」は反戦平和のシンボルとして定着している。多くの人が「命どぅ宝」は最初から反戦平和の言葉として生まれてきたと信じている。
反戦平和の思想が生まれる前から「命どぅ宝」の格言はあった。しかし、誰もこの事実を言わなくなった。ネットで「命どぅ宝」の本来の意味を説明しているサイトはない。
 私の子供の頃は「命どぅ宝」を反戦平和とは違う意味で日常的に使っていた。
 
 苦い薬を飲むのを嫌がる子どもに親は「命どぅ宝どう」と諭して飲ました。
危険な遊びをしている子供に、「命どぅ宝どう」と言って危険な遊びをやめさせた。
辺野古に住むある老人が「命どぅ宝」だから普天間基地の辺野古移設に賛成すると話しているのが新聞に載ったことがある。「命どぅ宝」が反戦平和のシンボルだと思っている人は老人のいう「命どぅ宝」を矛盾していると思っただろう。老人は「命どぅ宝」を、生きていくためには背に腹は代えられないという意味で使った。辺野古は過疎化が始まっていて、過疎化イコール死であると老人は思い、過疎化を食い止めるためには普天間基地の受け入れも仕方がないという意味で「命どぅ宝」と言ったのである。


テロリストアルカイダはニューヨークの貿易センタービルに旅客機を衝突させて貿易センタービルを破壊した。ペンタゴンにも衝突してペンタゴンに大きな被害を与えた。ホワイトハウスも航空機で爆破しようとした。アメリカ軍がアフガンに侵攻したのはアメリカをテロの標的にしているアルカイダを殲滅するのが目的であった。アルカイダはアフガンを根城にし、タリバン政権がアルカイダを匿っていたからだ。
アメリカはタリバン政権を倒してアフガンを民主主義国家にすることと、アフガンにいるアルカイダを殲滅することを目的にアフガンに攻め入った。「命どぅ宝」をシンボルにした沖縄の反戦・平和主義者たちはアメリカが目的としているアフガンの民主化にはほとんど関心を示さなかった。
イスラム原理主義のタリバンが独裁支配していたアフガンは、すべての音楽を禁止して、娯楽や文化を否定した。市民に対する見せしめでもある公開処刑を日常的に行っていた。女性は学校に行くことも働くことも許されなかった。過酷な女性差別のためにアフガンの女性は悲惨な生活を強いられていた。働くことを許されない未亡人は乞食をして生活を支えるしかなかった。
タリバンが独裁支配していたアフガンの悲惨な社会に沖縄の反戦・平和主義者たちは目を向けることはなく、アメリカ軍のアフガンへの進攻を「罪のない女や子供が犠牲になる」と主張して大反対した。
アメリカ軍はタリバン政権を倒しアフガンを民主主義国家にした。アメリカはアフガンの国家が女性の人権を守り、自由と平等の社会を築く方向に進むように努力している。
アメリカ軍はフセイン独裁政権を倒した。そして、イラクを民主主義国家にした。イラクが民主主義国家を自力で築くことができるようになると、宗教対立による爆弾テロや反政府の爆弾テロは絶えることはないがアメリカ軍はイラクから引き上げた。
アメリカ軍はアフガンからも2014年に引き上げる予定である。
もし、アメリカ軍がタリバン政権やフセイン政権を倒さなかったら、現在もアフガンとイラクは独裁国家であり、市民は弾圧され自由のない差別の社会で苦しみ、罪のない多くの人たちが刑務所に入れられたり処刑されたりしていただろう。アフガンとイラクが民主主義国家になったことは非常に喜ばしいことである。

●「命どぅ宝」の反戦・平和主義はアフガン・イラクが民主主義国家になったことにはなんの反応も示さない。

●「命どぅ宝」の反戦・平和主義は単純に戦争がなくなればいいという思想である。戦争さえしなければ、人民を弾圧し、搾取する独裁国家であっても黙認する。

●「命どぅ宝」の反戦・平和主義は民主主義には無関心である。

●「命どぅ宝」の反戦・平和主義は人権、自由、平等の民主主義の思想が欠落している。

●「命どぅ宝」の反戦・平和主義は人権・自由・平等の民主主義社会を築けない。









  

2012年05月04日

琉球処分はなにを処分したか

「沖縄に内なる民主主義はあるか」の原稿です。

一、 琉球処分はなにを処分したか

 江戸幕府から明治政府になった時、日本は大きく変わった。明治政府は士農工商の身分制度を廃止しして四民平等にし、武士階級支配の社会を終わらした。大名が支配していた藩を廃して、明治政府が直轄する県を置いた。それを廃藩置県という。
琉球王朝―琉球藩―沖縄県までの明治政府が沖縄に対して行った廃藩置県政策のことを琉球処分という。
薩長連合は江戸幕府を倒して、日本の近代化を目指して明治政府を樹立した。明治政府は廃藩置県を行い幕藩政治から近代中央集権政治をつくり上げていった、廃藩置県は日本の近代化の始まりであり、明治政府の近代化政策の展開と琉球処分は密接な関係にある。明治政府の近代化の歴史を理解することによって、琉球処分の本質を知ることができる。

明治政府はヨーロッパの先進国と肩を並べるために近代国家をめざした。近代国家とは法治国家のことであり、明治政府は大日本帝国憲法を制定し、全国を一律の法律で統一する法治主義を確立させるために廃藩置県を行って日本を中央集権化していった。
明治政府樹立の一八六七年から、法治主義と司法権の独立を確立させた一八九一年までの明治政府の歴史を辿ってみる。歴史をみれば琉球処分が日本の近代化の流れの中にあったことが分かる。

 明治政府 一八六七年―一八九一年

一八六七年、慶応三年十月十四日―第十五代将軍の徳川慶喜が明治天皇に統治権の返還を表明し、翌日、天皇はこれを勅許した(大政奉還)。同年十二月九日(一八六八年一月三日)に江戸幕府は廃止され、新政府(明治政府)が設立された(王政復古)。

一八六九年(明治二年)、版籍奉還がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還した。
   (沖縄は琉球王朝だったために、版籍奉還できなかった。明治政府は琉球王朝を琉球藩にしてから版籍奉還をすることにする)

一八七一年(明治四年)、廃藩置県が行われ、名実共に藩は消滅し、国家権力が中央政府に集中された。
   (すべてが廃藩置県したわけではない。二十一年に廃藩置県をした藩もある。琉球藩の廃藩置県も遅い。琉球王朝は特殊なケースだったので琉球処分菅を置いて廃藩置県の施策を行った)

一八七一年(明治四年)、士族の公務を解いて、農業・工業・商業の自由を与え、また、平民もひとしく公務に就任できることとした。
   (明治政府の近代化政策のひとつである)

一八七二年(明治五年)徴兵制度を採用し、国民皆兵主義となったため、士族による軍事的職業の独占は破られた。このようにして、武士の階級的な特権は廃止された。

    共通語励行を特に必要としたのが全国から兵士を集める軍隊であった。方言では話が通じない。軍隊では意思疎通のために方言を排し、共通語励行をする必要があった。
方言の問題は言葉だけでなく発音の問題もある。沖縄の方言には本土とは違う発音が多い。沖縄には「だ」という発音はない。沖縄方言は「だ」と「ら」の間の発音をする。本土の人には「ら」と聞こえる。子どもの頃に聞いた笑い話に、上官が、「お前朝飯を食ったか」と聞いたので、沖縄出身の「だ」の発音ができない兵隊は「いいえ、まらです」と答えた。日本語で「まら」は男根のことであり、上官は大笑いしたという。沖縄方言だけを使っている人は、早口言葉の「どろぼうがどろに転んでどろだらけ」が苦手である。「どどぼう」と言ったり「ろろぼう」と言ったりする。昔は東風平を「こちんだ」と言っても「こちんら」と言ってもよかった。今は「こちんら」というと発音が間違っているといわれる。

一八七五年(明治八年)、立憲政体の詔書(漸次立憲体樹立の詔)が出された。元老院、大審院、地方官会議を置き、
段階的に立憲君主制に移行することを宣言した。

一八七八年(明治十一年)府県会規則を公布して、各府県に民選の府県会(地方議会)を設置した。これが日本で最初の民選議院である。

一八八一年(明治十四年)、国会開設の勅諭が発された。

一八八五年(明治十八年)太政官制を廃止して内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣となった。

一八八九年(明治二十二年)大日本帝国憲法が発布され、国民に公表された。

一八九一年(明治二十四年)、日本を訪問中のロシア皇太子・ニコライ(のちのニコライ二世)が、滋賀県大津市で警備中の巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した。いわゆる大津事件である。この件で、時の内閣は対露関係の悪化をおそれ、大逆罪(皇族に対し危害を加える罪)の適用と、津田に対する死刑を求め、司法に圧力をかけた。しかし、大審院長の児島惟謙は、この件に同罪を適用せず、法律の規定通り普通人に対する謀殺未遂罪を適用するよう、担当裁判官に指示した。かくして、津田を無期徒刑(無期懲役)とする判決が下された。この一件によって、日本が立憲国家・法治国家として法治主義と司法権の独立を確立させたことを世に知らしめた。

琉球処分

沖縄では、明治政府が行った琉球処分を悪い意味で処分されたというイメージで考えている人が多い。沖縄の知識人の多くが琉球処分を日本政府が沖縄の独立性を奪ったこととして否定的に考えている。本当に琉球処分は琉球の人々にとって悪いことだったのか。

明治政府は日本全国で廃藩置県をおこなった。それは明治政府が日本の近代化のための政治改革であった。その日本全体の政治改革の流れの中に琉球処分はあった。琉球処分というのは廃藩置県のことである。廃藩置県は封建社会から近代社会へ転換させる日本の一大政治改革であった。
大和朝廷から江戸幕府まで、日本は地方の独立した国々に分かれ、中央政府が日本全体を直轄する政治をしたことはなかった。天下を統一したといわれている江戸幕府でも、地方は藩の独自の法律があり、政治・経済は江戸幕府から独立していた。江戸幕府の命令で参勤交代や江戸幕府が工事をする時の資金や労役を江戸幕府に提供する義務はあったが、藩内の政治・経済は藩が支配していた。
廃藩置県は、藩の独立を廃止し、藩の代わりに県を設置して中央政府が直接管轄するシステムに変えることであった。琉球処分を理解するには廃藩置県について知る必要がある。

廃藩置県

廃藩置県とは明治維新期の明治四年七月十四日(一八七一年八月二十九日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。
廃藩置県は明治四年に始まり、明治二十二年(一八八九年)には三府四十三県(北海道を除く)となって最終的に落ち着いた。廃藩置県は十八年の歳月が掛かった。
平安時代後期から江戸時代までずっと続いてきた特定の領主がその領地・所領を支配するという土地支配のあり方を否定し藩を解体して、明治政府が政治権力の中心となる中央集権政治を目指したのが廃藩置県である。江戸幕府が全国を統一したといわれるが、本当に全国を統一したのは明治政府だといえる。廃藩置県は日本の過去の歴史にはない新しい政治体制つくりであり、明治政府はヨーロッパの国を参考にしながら政治改革をやった。

 廃藩置県の目的は軍事・教育・司法・財政の四つを明治政府が主導権を握ることであった。江戸幕府時代は、藩は独立していて軍事・教育・司法・財政はそれぞれの藩が独自に行っていた。お金も藩札があり、それぞれの藩で発行していた。明治政府は藩札を廃止し貨幣の発行は明治政府に一元化した。これも廃藩置県でやらなければならない大きな事業であった。

 廃藩置県で明治政府が恐れたのは藩の反乱であった。藩が一斉に政府に反発して反乱を起こせば明治政府が滅びてしまう恐れがあった。明治政府は藩が反乱しないように気をつけながら、武力を使わないで説得しながら着実に廃藩置県を実施した。
 明治二年六月一七日(一八六九年七月二十五日)、二七四藩の大名から版籍奉還が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となった。しかし、それは廃藩置県ではなかった。一気に廃藩置県をやれば反発する大名もいたからだ。だから、最初のステップでは土地と人民は明治政府の所轄する所となったが、反発を和らげるために各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たった。版籍奉還は幕藩体制の廃止の一歩となったものの版籍奉還の現状は江戸時代と同様であった。
 明治政府は二年後の明治四年(一八七一年)に在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。廃藩置県をすることによって年貢は新政府に収めさせることになった。廃藩置県で明治政府は中央集権を確立して国家財政を安定させた。

藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられた。各県には知藩事に代わって新たに中央政府から県令が派遣された。中央集権国家の始まりである。
各藩の藩札は当日の相場で政府発行の紙幣と交換されることになった。貨幣の全国統一の始まりである。
新しい県令などの上層部には旧藩とは縁のない人物を任命するためにその県の出身者を起用しない方針を採った。
しかし、幾つかの有力諸藩ではこの方針を貫徹できない県もあったが、明治六年(一八七三年)までには大半の同県人県令は廃止されている。

当初は藩をそのまま県に置き換えたため現在の都道府県よりも細かく分かれていて、三府三百二県あった。また飛地が多く、地域としてのまとまりも後の県と比べると弱かった。そこで明治四年(一八七一年)には三府七十二県に統合された。しかし、地域間対立が噴出したり事務量が増加するなどの問題点が出て来た。そのため分割・統合が進められて、明治二十二年(一八八九年)には三府四十三県(北海道を除く)となって最終的に落ち着いた。
           「フリー百科事典・ウィキペディア」を参考」

このように廃藩置県は明治政府にとって一大事業であり、日本と言う国を根本から変革するものであった。琉球王朝から沖縄県にするまでを明治政府は琉球処分と呼び、「琉球処分菅」を置いて、琉球王府側と交渉をした。琉球処分は全国の廃藩置県のひとつとして行われたのであり、沖縄だけ特別に行われたのではなかった。
 明治政府は琉球王府側の色々な反発を跳ね除けながら、明治五年から明治十二年までの七年をかけて廃藩置県を行った。

琉球王朝時代

 琉球処分を否定するかそれとも肯定するか、その判断をするためには琉球王朝時代の社会を知る必要がある。

琉球王国の身分構成
身分            戸数    割合
御殿 王子       2戸     0.002%
按司        26戸    0.032%
殿内 親方(総地頭)    38戸    0.047%
脇地頭親方(親雲上)    296戸   0.367%

一般士族(里之子・
筑登之親雲上)      20,759戸  25.79%

平民           59,326戸  73.71%



『琉球藩臣家禄記』(1873年)
『沖縄県統計概表』(1880年)
琉球王朝の中でも財産があり、豊かであったのは、王子2戸(0・002%)、按司26個(0・32%)、親方38戸(0・047%)、脇地頭親方296戸(0・367%)のわずか全人口の0・448%の士族であった。
士族は人口の26・29%を占めていたが、氏族の98%を占める一般士族は王府勤めを待ち望む無禄士族であり、実際に王府に勤めていたのはごく一部であった。多くの一般士族は貧しい生活を送っていた。
琉球王国はわずか0・448%の士族が支配している独裁国家であった。わずかの人間たちだけが贅沢な生活をやり、農民は貧しい生活を強いられていた。

 琉球王朝は一六〇九年に薩摩藩に支配されたので、毎年薩摩藩に多くの産物を献納しなければならなかった。沖縄の農民は薩摩藩と琉球王府に二重に搾取されていたことになる。そのために琉球の農民の生活は苦しく、蓄えがほとんどなかったので干ばつに弱く、農民は干ばつになるとソテツを食べて命をしのいだ。それをソテツ地獄という。琉球王国の農民は餓死者が出るソテツ地獄に何度も襲われ、極貧の生活を送った。
 
 これが琉球王国の実態である。首里城の豪華さは農民の貧困の裏返しである。

沖縄県の誕生は近代化の始まり  

日本は、坂本龍馬など多くの維新の獅子たちが活躍して一八七八年に新しい国家をつくった。新しい国家は四民平等の社会をつくりあげ、人々の国内の移動が自由になった。そして、軍事・教育・司法・財政の四つを中央政府が行う中央集権政治をやるようになった。
琉球王朝が沖縄県になると琉球王府の代わりに知事が中央政府から派遣された。
 琉球処分で琉球王朝から沖縄県になった沖縄はどのように変わったか

一、琉球王府に代わり中央政府から派遣された知事が沖縄を統治した。
二、身分制度が廃止され、四民平等になり、農民と武士の人権が等しくなった。
三、琉球王府の裁判権は剥奪され、全国一律の法律が適用された。
琉球王府の軍隊・警察は解除され、日本政府の軍隊・警察が沖縄に配備された。
四、沖縄県は明治政府が発行する全国統一された貨幣を使用するようになった。
五、沖縄の人々の本土への渡航が自由になった。
六、謝花昇のように貧しい農家出身でも才能があれば出世できるようになった。
七、八重山地方の人頭税が廃止された。
八、 義務教育が実施され、教育が武士階級だけに行われていたのが、身分に関係なく県民全員が小学校教育を受けるようになった。

 琉球処分を否定的に考えている沖縄県の知識人は多いが、琉球処分は明治政府が全国で行った日本の近代化政策の沖縄版であり、琉球処分というのは琉球王朝の古い身分制度を廃止して、沖縄を近代化したことであった。
琉球処分をマイナスとして考えるのは琉球王国の独立を重んじ、他国が琉球王国へ介入することへの反発が原因である。琉球処分を否定する人たちは琉球のことは琉球が決めるという琉球の独立性を尊重している。彼らの思想は琉球独立主義であり、琉球民族主義とでも呼べるものである。
琉球独立主義、琉球民族主義は琉球の政治をつかさどるのは琉球人の自主性に任せるべきであって他民族が介入するべきではないと考える。しかし、彼らは琉球の独立性だけにこだわり、琉球が身分制度のある封建政治であるのか、独裁政治であるのか、それとも自由・平等の民主主義政治であるのかを問題にしない。彼らは琉球が琉球民族で占められ他国から政治介入がなければ琉球の民は幸せであると信じている。実際の琉球王朝は一部の士族だけが裕福で豊かな生活を送っていただけであり、多くの農民は自由もなく貧困生活を強いられていた。
日本が江戸幕府から明治政府になると、明治政府は廃藩置県を琉球処分と称して「琉球処分官」を配置した。明治政府は琉球王朝の要求をすべてつっぱねて強引に廃藩置県を実行した。琉球民族主義者からみれば日本政府の琉球処分は理不尽な行為であるし、琉球の法律を一方的に廃止して、日本政府の法律を押し付けて、琉球の人々の人権を無視した侮辱行為であると考える。しかし、琉球民族主義者は、琉球王朝の搾取する者と搾取される者、富める者と貧しき者の存在を深刻な問題として考えない。琉球王朝が、武士階級が農民階級を搾取する、琉球王府の独裁国家であったことを琉球民族主義者は軽視している。

 琉球王朝は身分制度社会であり、武士階級が支配していた。 人口の73.71パーセントの農民や漁民の生活が貧しかったのはいうまでもない。それだけでなく武士階級の98パーセントを占める下級武士も貧しい生活を強いられていた。琉球王朝時代の99パーセントは貧しい人々が占めていたということになる。豊かであったのは琉球王国の人口の0・448パーセントを占める身分の高い士族だけであった。

 琉球処分に反対したのは、財産があり豊かな生活を送っている琉球王府の身分の高い士族たちであり、彼らは自分たちの豊かな生活を守る目的で琉球処分に反対した。琉球王朝時代は政治をやるのは武士階級であり、農民は政治に参加できなかった。明治政府との交渉は身分の高い武士階級がやったのであり、武士は既得権を守ろうとしたのであって琉球の人々のために政治交渉をしたのではない。
 
 
明治政府と琉球王府の裁判についての交渉

明治政府はすべての裁判を明治政府がやると通達したが、琉球王府の池城親方らは、他府県人と琉球の人間が絡んだ事件は明治政府の出張所で裁いてもいいが、琉球の人間同士の事件ならば琉球藩庁に裁判権を与えるように要求した。
琉球王府は琉球藩の独立性を維持したかった。そのためには琉球の民だけは琉球王府の支配化に置きたかった。琉球王府は琉球藩が本土他府県とは違うことを強調し、琉球藩の独自性を政府に訴え、藩内人民と他府県人がからむ事件については、刑事民事を問わず内務省出張所で裁くのもやむをえないとしても、沖縄人に関する事件は、刑事民事共に藩庁に裁判権を与えてもらいたいと要請した。それは琉球のためというより琉球王府の政治権力を維持し、琉球の民を琉球王府が支配するシステムを延命させるのが目的であった。
琉球王府は日本軍の沖縄駐留も阻止しようとした。しかし、中央集権国家を目指している明治政府が琉球王府の要求を聞き入れることはなかった。

明治政府は琉球王府の要求のほとんどを受け入れないで、琉球処分を強行し、琉球王府の権力をすべて奪った。しかし、それだけの理由で琉球処分を批判するべきではない。琉球王朝時代の沖縄と廃藩置県後の沖縄の社会を比較して琉球処分を評価しなければならない。
琉球処分は、琉球藩の政治実権を握っている琉球王府にとっては嫌なことであっただろうが、武士階級に搾取されて貧しい生活を強いられていた農民にとっては歓迎すべきものであった。

琉球処分を否定的に評価する人間は琉球王朝の独裁政治を認めていることになる。民主主義思想家であれば身分制度を廃して四民平等の政治へ改革した琉球処分は大いに歓迎するはずである。


 明治政府が沖縄を政府の管轄に移行する様子を太田昌秀氏は「こんな沖縄に誰がした」の「裁判権の有様に見る国家権力の思惑」に書いてある。

 明治政府は明治五年(一八七二年)に琉球王国を「琉球藩」とした。藩にすることによって他の藩と同じように琉球王朝を日本のひとつに組み入れた。それから五年後に、大久保利通内務卿は太政大臣三条実美あてに出した文章はこう述べている。

 先般琉球藩に対し、日本の刑法を遂行すべき事を指示したけれども、よく考えてみると、琉球藩はいまだ頑迷で、万事において未発達の状態にあるので、その実施は容易なものではない。したがって同藩内の人々相互間に生ずる事件の裁判については、刑事・民事事件とも同藩に委任してもよいかと思う。

 しかし、琉球藩に居住する内地人民と藩内人民との間に起こる刑事民事の裁判に至っては頗る難事にして、若し誤刑失判等あるときは不足の患害を生ずることなきを保たずと存じ候。然れば該地に在る当省出張所に裁判の権を分有せしめ、琉球人同士の刑事・民事事件については同藩の裁判に委ね、内地人民及び兵員は随いて出張所と営所と所管事項を各分して裁判すべき乎。然れども国法を同じうして裁判権を各分するは(軍律は特殊のものなるを以って営所は別に裁判権を有するは論なし)国権に関係し遂に当分専ら御詮議ある所の支那云々の事件に差響き甚だ不可然。

 したがって、琉球藩に裁判所を設置するのはよいとしても、同藩の現状からして、裁判所と出張時の両方を維持するのは、不経済である。そのため、今後は琉球藩士の裁判権を解いて、内務省出張所に権限を移し、そこの官吏に判事や判事補の仕事を兼任させ、同時に内地人に対する警察事務も出張所に委嘱する旨を琉球藩王と内務省へ通達していただきたい。
「こんな沖縄に誰がした」より

 明治政府の目的は琉球王朝を琉球藩にしてそれから沖縄県に移行して沖縄に全国同一の法律を適用することであった。それを実現するには琉球の政治を行う人間たちの理解が必要となる。大久保利通内務卿は琉球藩の文化の遅れがあり琉球藩が日本の刑法を遂行できるかどうかを不安視している。そのために、琉球人同士の刑事・民事事件については同藩の裁判に委ねたほうがいいと考えるが、そうすると明治政府の全国同じ法律を実施する法治主義と矛盾することになる。大久保利通内務卿が琉球藩の特殊事情と明治政府の目的の間で悩んでいる様子が伺える。大久保利通内務卿が悩んだ末に選択したのは裁判も警察も明治政府が行うことであった。
 大久保利通内務卿の要求を受けて太政大臣三条実美は、琉球藩内の人民も琉球藩外の人民も区別しないで全ての人間を内務省出張所で裁判を行うと通知した。

一、 藩内人民相互の間に起こる刑事(事件)は藩庁これを鞠訊し、内務省出張所の裁判を求むべし。
二、 藩内人民相互の間に起こる民事及び藩内人民と他府県人民(兵員と普通人民とを論ぜず)との間に相関する刑事民事(事件)は直ちに内務省出張所に訴えしむべし(下村、前掲書)。
                   「こんな沖縄に誰がした」

太政大臣三条実美の通知は明治政府が目指している中央集権を念頭におき、明治政府の法律で日本全国一律に裁判をする法治主義に徹底している通知である。
 
 太田昌秀氏は「こんな沖縄に誰がした」で、琉球藩の藩内の人々の裁判を琉球藩がやることを明治政府が認めなかったことを批判している。太田昌秀氏は、「沖縄は新付の『植民地』以外のなにものでもなかった」と、明治政府が琉球藩の藩内の人々の裁判を琉球藩がやることを認めなかったことを沖縄を日本の植民地にする施策・態度であったと解釈している。
 明治政府は太田昌秀氏の主張しているような沖縄を植民地にする目的があったのだろうか。琉球を植民地にするというのは、琉球を武力で支配し、琉球の人々の人権を認めないで琉球を搾取することである。薩摩藩は琉球を武力で支配し、琉球を搾取していた。だから琉球は薩摩藩の植民地であったといえる。しかし、明治政府が琉球藩の要求を認めないで、藩内の刑事・民事の全てを内務省出張所による裁判をするというのは琉球王府による士族支配をやめさせて、琉球藩を日本国の中のひとつの県にすることであった。それは沖縄が日本になることであって日本の植民地になることではない。
琉球王府は武士階級が支配する政治を維持しようとしている勢力である。太田氏が琉球王府の主張を支持するということは沖縄の武士階級の支配を認めることである。
 太田氏は廃藩置県の内容を検証しないで、明治政府イコール強大な国家、琉球王朝イコール弱小国とみて、琉球処分を大国が小国を強引に支配する構図としてみたのである。太田氏は「琉球処分」の過程で、明治政府が、内務省出張所の平役人に裁判官の役目を委任したり、警察事務を兼務させたことで、「明治政府首脳の目には新付の『植民地』以外のなにものでもなかったのだ」と述べ、「実際には武力で平定した主従関係でしか見ていなかったからだ」と明治政府の琉球処分は沖縄を植民地にする施策だと認識している。
 明治政府は廃藩置県に琉球王府が実力で反対した場合は武力を用いると琉球王府を脅したこともあった。太田氏の主張するように琉球王府が明治政府の要求を頑として受け入れなければ武力を使って琉球王府を滅ぼし、廃藩置県を断行していただろう。
薩長連合軍が江戸幕府を武力で倒すことによって明治政府が登場した。江戸幕府が大政奉還をすることによって最悪の武力衝突は避けられたが、もし、大政奉還をしていなかったら、薩長連合は武力で江戸幕府を倒し、新しい政府をつくっていただろう。社会変革には武力も必要である。
社会変革の武力は支配階級を倒す武力である。明治政府が琉球藩に使う武力は沖縄の民を弾圧するものではなかった。沖縄の支配者である琉球王府を倒すための武力であり、沖縄の民を琉球王府の支配から解放する武力であった。
 太田氏は、明治政府が琉球王府首脳の反対を押し切って琉球藩を大阪上等裁判所の管轄内に置いたことを、「裁判権の所在をめぐる日本政府と琉球藩との以上のような対話を見ていると、戦後のアメリカ軍政も、明治政府の琉球政策をまるでそのまま踏襲したのではないか、という気さえするほどだ。強大な国家支配権力の弱小国に対する施策・態度は、所詮民族の違いの如何にかかわらず似たり寄ったりというほかない」と述べている。
 八重山や奄美大島は昔は独立国であった。沖縄本島も三山時代がありみっつの独立国に分かれていた。尚巴志が三山を統一してひとつの国、琉球王国をつくった。そして、琉球王国は八重山や奄美大島の国々を武力で倒し支配した。その琉球王国は薩摩藩に武力で倒されて薩摩藩の支配下に置かれた。太田氏が述べた「強大な国家支配権力の弱小国に対する施策・態度は、所詮民族の違いの如何にかかわらず似たり寄ったり」は歴史の摂理である。太古の昔から強国が弱国を支配下に置く歴史が繰り返されてきた。
 しかし、琉球処分は琉球王国が八重山、奄美を支配したり、薩摩藩が琉球王国を支配したこととは内容が違う。琉球王国や薩摩藩は弱小国を植民地にして搾取をしたが、琉球処分で処分したのは琉球王府であり、明治政府は琉球王府の支配を解除して身分制度の社会から四民平等の社会にした。琉球処分後の沖縄は琉球王府の支配でもなく薩摩藩の植民地でもなく、明治政府に支配されたのでもない。沖縄は沖縄県となり日本の一部となった。
   
 日本政府が行った裁判所設置は、全国を明治政府がつくった法律を適用する目的があった。沖縄だけを特別視したわけではない。四民平等の社会、軍事・教育・司法・財政の四つの政治を全国と同じように沖縄でもやったのだ。
 太田氏のように琉球王国の独立性を重視して、「強大な国家支配権力の弱小国に対する施策・態度」にこだわれば琉球王朝から沖縄県になったことの本当の姿を見誤る。明治政府の裁判は明文化された法律に従って裁判を受ける全ての人に平等に適用するものであるが、琉球王府の裁判は琉球王府の士族による裁判であり、不平等裁判である。琉球王府による裁判は明治政府のように法律は明文化されていないで士族に有利な裁判が行われる。
琉球藩は士族階級の琉球王府が支配する差別社会である。琉球藩は沖縄人同士の事件は琉球藩に裁判させるように要求したが、琉球藩の裁判は身分差別の裁判になるのは確実だ。武士が農民を犯したり殺したりしても重い罪にはならないだろうし、無罪にもなったりするだろう。逆に農民が士族に反抗すれば重罪に課せられただろう。明治政府のやり方と琉球王府のやり方のどちらを支持するかでその人間の思想が問われる。
 明治政府は法律をつくるために先進国であるヨーロッパで法律の勉強をした。明治政府の法律は琉球藩の法律より近代的であり四民平等の法律である。太田氏は明治政府が琉球藩の要求をすべて跳ね除けて、全ての裁判は政府の主導で琉球藩に強制していく様子を強大な明治政府が弱小国琉球藩を強引に支配していくと理解しているが、明治政府は廃藩置県で琉球藩を沖縄県にした。明治政府は琉球藩を弱小国と見たのではなく日本のひとつと見たのだ。沖縄に適用する法や政治は日本全ての県と同じであった。沖縄県を他県とは別の法律を適用して差別したわけではない。
 他県でも明治政府のやり方に反発して武士たちは決起して乱を起こした。乱はことごとく明治政府によって鎮圧された。琉球処分を研究するときは明治政府の歴史を理解し、他県との比較をするべきだ。
 琉球王朝は実質的には薩摩藩の植民地でありながら表向きは独立王国を装っていたので他県とは事情が異なるが、明治政府が沖縄を沖縄県にした目的は他県と平等な県にすることであった。

 太田氏は日本国と琉球王国を対比させている。日本国は大国であり琉球国は小国である。強い大国日本は弱小な琉球王国の意見は聞かずに一方的に大国のやりたいことを小国に強制すると解釈している。日本国、琉球王国という国と国の関係で考えるとそういうことが言える。
 しかし、廃藩置県を国と国の関係で考えるのは間違っている。明治政府は四民平等を掲げる政府であったが、琉球王府は武士階級が支配する身分制度を維持しようとしている政府であった。琉球処分を琉球の処分とみるかそれとも琉球の支配者である武士階級を処分したとみるかで琉球処分の評価は分かれる。
 
 琉球処分をどのように評価するかは評価する側の思想によって違ってくる。民主主義の目からみれば、琉球処分は琉球王府の支配から沖縄の民を解放して四民平等の社会をつくったのであり、琉球処分は沖縄の近代化への始まりであったと理解する。
 琉球処分を否定する人は琉球王朝を認め、武士階級支配の身分社会を肯定することになる。琉球王朝時代に豊かであったのはごく一部の士族であった。多くの農民は何度もソテツ地獄に襲われ極貧生活を強いられていた。
 ソテツ地獄は大正末から昭和初期にも起こっている。原因は砂糖価格の暴落であった。その時の明治政府は昭和七年に「沖縄振興15ヶ年計画を立てて沖縄を援助した。また、県人口の一割を海外移民させる政策をやり、ソテツ地獄の沖縄から逃れさせた。琉球王朝時代だったら、琉球王府は農民から搾取するだけで明治政府のように援助はほとんどしなかっただろう。海外に移住することも許さなかっただろう。琉球王府が独裁支配する沖縄であったなら多くの農民が餓死していたに違いない。

 琉球処分は琉球王府を処分し、沖縄を四民平等の社会にした。琉球処分は沖縄の近代化の始まりであった。
 
















  

2012年05月03日

信じられないことが起きた

自費出版しようと県内のある出版社に原稿を送ったら、なんと出版を断られた。

ブログを休憩しているのは、自費出版する本の原稿を書くためだった。

先週の火曜日の朝に、ネットで自費出版を募集している県内のある出版社に、自費出版したいから見積もりをお願いしますという文章を携えて原稿を送った。翌日の水曜日には出版社に届いたはずなのに、出版社からは原稿が届いたという連絡はなかった。

木曜日にはあるだろうと思ったが、出版社からは電話もメールもなかった。もしかしたら届かなかったのだろうかという不安が脳裏をかすめたが、まさかそんなことはないだろうと、出版社からの連絡を待ったが、出版社からは木曜日だけでなく金曜日も土曜日も連絡が来なかった。

月曜日は公休日だったので、火曜日に出版社に電話をした。受付けの女性に私の名前を告げ、私の原稿は届いたのかどうかを聞くと、受付けの女性は原稿は編集部の人しか分からないが、編集部の人は会社に居ないといい、私の電話番号を聞いた。

しばらくすると編集部の人間から電話が掛かってきた。彼は沖縄の出版界を盛り上げようと頑張っている人で、新聞にエッセーなども書く、沖縄の出版界では有名な人である。彼はストレートにではなく、間接的に私の自費出版はできないような話をしたので、だらだら話をするのが嫌いな私は、「自費出版ができないということか」とストレートに聞いた。すると彼はそうだと言った。

信じられないことであるが、自費出版を宣伝している出版社に自費出版を希望して原稿を送ったら、自費出版できないと言われたのだ。私が自費出版したかった本のタイトルは、ブログでもテーマにしている「沖縄に内なる民主主義はあるか」である。

タイトル 沖縄に内なる民主主義はあるか

目次
一 琉球処分はなにを処分したか
二 ソテツ地獄と命どぅ宝
三 米軍基地全面返還したら9155億5千万円経済効果の嘘 
四 普天間飛行場の移設は辺野古しかない
五 八重山教科書問題はなにが問題だったか

出版できない理由は、「四 普天間飛行場の移設は辺野古しかない」の内容が最近出版社から出した本とは反対の内容になっているからと彼は説明した。
私は彼の話に文句を言わなかった。「ああ、そうですか」という風に聞いていただけだ。

まさか、自費出版が断られるとは全然予想していなかった。断るなら断るでいいが、断るのであれば早く客に連絡するのが当然だと思うのだが、出版社は連絡をしなかった。もしかすると私に電話するつもりはなかったかもしれない。信じられないことだ。

会話の中で、彼は出版できないことで私に一度も謝らなかった。もちろん連絡が遅れたことに対する詫びの一言もなかった。

出版社のやり方に怒りは湧いてこない。うまく説明できないが、むなしさやさびしさのような感情があるだけだ。

できることなら沖縄の出版社で自費出版したいが、こういう状況になったので、本土の二つの出版社に原稿を送った。するとすぐに原稿を受けたこと、数週間以内に連絡するというメールが来た。
あまりにも違いすぎる対応に、本土の業者は素晴らしいという感情ではなく、沖縄の現状へのみじめな気持ちが残った。

  

2012年03月25日

ミャンマーの民主化は劇的に進むか


スーチー女史演説集会、25万人の熱狂的支持



ヤンゴン市郊外の新ダゴン・セイカン区で開かれたアウンサンスーチー女史の演説集会。会場だけでなく、会場に続く沿道は、スーチー女史が党首を務める国民民主連盟(NLD)の赤いマークで埋め尽くされた。(3月21日ヤンゴン、赤津陽治撮影)
21日午後、アウンサンスーチー女史の演説集会が開かれるヤンゴン市郊外の新ダゴン・セイカン区は、スーチー女史が党首を務める国民民主連盟(NLD)の赤いシンボルマークで埋め尽くされていた。沿道には、スーチー女史を迎える、老若男女のたくさんの人びとが、NLDの鉢巻きをつけ、旗を持ち、並んだ。演説会場には、数時間前から支持者が集まり、炎天下のなか、スーチー女史の到着を待っていた。

午後5時ころ、アウンサンスーチー女史が会場に到着すると、聴衆の熱狂は最高潮に達した。NLD関係者によると、集まった聴衆は約25万人。聴衆は「アメー・スー! アメー・スー! (スーお母さん)」と叫び、ピンク色のブラウスに緑色のロンジー姿のアウンサンスーチー女史を歓喜して迎えた。

「これほどの多くの人びとが集まり、規律正しく行動できることを尊敬します」とスーチー女史が述べると、聴衆は「スーお母さんを愛しているからだ」と応える。

スーチー女史は、同選挙区から出馬しているミョーアウン医師(61歳)を紹介し、投票を訴える一方で、次のように語った。

「今回の補欠選挙は、私たちNLDが国会の外で国民のためにやろうとしてきたことを国会のなかでやろうと決断して、参加するものです。民主的政党は、国民の支持だけが頼りです。政府は国民がコントロールするものであり、政府が国民をコントロールするのではありません。よく見て、よく考えて、自身の投票権を行使してください。ひとりひとりが持つ一票は貴重なものです。誰も無理やり投票させることなどできません。たとえ圧力があったとしても、怖がらずに投票してください。この選挙で国民がどの政党を支持するかをはっきり示してください。私たちは、国民が平和で自由な暮らしを求めていることを理解しています。私たちは、国民のことをけっして忘れません。国民の皆さんも私たちのことを忘れないでください」。

アウンサンスーチー女史の演説は、30分ほどで終了した。聴衆は、「アメー・スー・チャンマー・チャンダバーゼー! (スーお母さんが健康で豊かでありますように! )」と連呼し、熱狂のなか、アウンサンスーチー女史を見送った。【ヤンゴン=赤津陽治】

  

Posted by ヒジャイ at 10:03Comments(0)TrackBack(0)世界の民主主義事情

2012年03月25日

中国の民主主義革命は香港から

 【香港=竹内誠一郎】25日投開票の香港行政長官選挙を前に、香港大学などが独自に民意を測る目的で初めて模擬投票を実施したところ、市民約20万人が参加して大きな反響を呼んでいる。
 本番の選挙は、各業界を代表する選挙委員(定数1200人)による間接投票となる。一般市民も投票できる模擬選挙への関心は、中国政府が間接選挙を通じ自らの意向を反映させようとしていることへの香港市民の反発が背景にある。
 模擬投票は23、24日に香港理工大など十数か所で行われたほか、インターネット投票も受け付けられた。24日に投票した男子大学生(22)は「数百人の推薦を得ただけの候補者は人口700万人の香港を代表できない」として選挙委員による間接選挙を認めない立場を強調。模擬投票では、「棄権」の意思表示である白票を投じたと話す。模擬投票の結果は24日夜遅くに発表されるが、白票が相当数に上るとみられている。

  

Posted by ヒジャイ at 09:56Comments(0)TrackBack(0)世界の民主主義事情

2012年03月24日

アンダグチャー太田




アンダとは油のことだ、アンダグチャーとはあることないことを流暢にしゃべる人間のことをいう。太田氏は元琉大学長・沖縄県知事・参議院議員という沖縄ではトップクラスの人間である。そんな偉大な人物をアンダグチャー太田と呼ぶのは大変失礼なことではある。

太田氏はものすごい知識を持っている。多くの書物を読み、ものすごく勉強をしたと思う。琉球王朝時代から現代までの沖縄、日本、アメリカに精通している。豊富な知識には敬意を表する。
しかし、豊富な知識を自在にあやつり、琉球王朝時代の昔から現代までを流暢に理論展開するが、あまりにも流暢すぎて、言葉は繋がっても内容はつながっていない。

残念なことであるが、内容に深みのない太田氏のしゃべりはアンダグチであり、太田氏をアンダグチャーと呼ぶしかない。

「基地問題一つ取ってみても沖縄に対する中央政府の構造的差別は頑として続いているし、『平和憲法の下に帰る』といった復帰のスローガンとは裏腹に肝心の日本国憲法自体が危機に瀕しているからです。自衛隊が合憲とされて海外に出動するなど、われわれに希望を抱かせたり第9条が台なしにされているどころか、格調高い憲法の前文の理念もいつしか忘却のかなたに押しやられているしまつです」

基地問題、構造的差別、祖国復帰、日本国憲法、自衛隊、第9条、憲法の前文と太田氏の口からは次々と重要な言葉が飛び出し、その言葉が太田氏の流暢なアンダグチによってスムーズにつながっていく。しかし・・・・・。

「基地問題一つ取ってみても沖縄に対する中央政府の構造的差別は頑として続いて」の「構造的差別」という用語は最近よく見られる言葉である。以前はなかった。沖縄民族、アイヌ民族は日本政府に差別されていると考える民族差別問題に関心がある知念ウシさんのような人たちが、米軍基地が沖縄に集中しているのは沖縄差別であると主張したこから構造的差別の用語がつかわれるようになった。
沖縄差別の思想は、沖縄を差別しないために米軍基地を日本全国で平等に負担しろと主張する。いわゆる「県外移設」である。今まで沖縄の反基地運動は米軍基地の国外(アメリカ)への撤去を主張し続けてきた。祖国復帰運動の時も米軍基地の本土並みを主張していたのであり、本土に沖縄の基地を移転して、沖縄と本土の米軍基地を平等にしろという主張はなかった。

構造的差別論は差別をなくして負担を平等にするために「県外移設」の主張につながる考えである。日本への米軍駐留は認めていて、反戦平和運動の米軍基地を撤去の主張とは異なっている。構造的差別論は米軍基地の日本維持を主張するものであり、反戦・平和論を否定するものである。

沖縄に軍事基地があるから戦争に巻き込まれる。沖縄が戦争に巻き込まれないために米軍基地は撤去しろと主張してきた「命どぅ宝」をスローガンにしてきた沖縄の反戦平和運動を構造的差別論は否定していることを考えもしないで太田氏は「基地問題一つ取ってみても沖縄に対する中央政府の構造的差別は頑として続いて」いるというのである。

構造的差別論は米軍基地を認める理論であるのに、「中央政府の構造的差別は頑として続いて」と述べた後に「平和憲法の下に帰る」という軍隊を持たない反戦平和の思想を述べるているのである。構造的差別論を語るなら平和憲法を語るわけにいかないし、平和憲法を語るなら構造的差別論は語れない。しかし、アンダグチャー太田氏は平気で二つをつじつまが合っているように話すのである。

平和憲法主義であった社会党はいまでは見るかげもなくなった。共産党も少数である。「われわれに希望を抱かせた第9条が台なしにされている」と太田氏はいうが、客観的にみれば第9条に希望を抱いたのは少数の人たちであり、自衛隊が海外に出て人道支援するのを多くの国民は支持し、自衛隊が世界への人道支援ができるということで多くの国民に夢を与えた。第9条よりも自衛隊の合憲のほうが国民に夢を与えたということだ。

「憲法9条に匹敵するほど重要とみなされる第8章の『地方自治』も有名無実化しています。かつて一独立国家を成していた歴史背景もあって、沖縄ほど自治を求め地域主権の確立を熱烈に志向した地方自治体は全国でもそう多くはない。にもかかわらず、敗戦後67年たった現在も帝国憲法下となんら変わることなく中央集権制度が幅を利かせています。そのため戦後民主主義をを虚妄とする見方も後を絶たないのです」

琉球王朝が薩摩藩に支配されたのが1609年である。その時から沖縄は独立国ではなくなった。今から400年前である。

1609年3月、薩摩の大名であった島津家が3000人の兵で琉球王国に攻め入った。琉球王国の王、尚寧王は軍隊を動員して、抵抗するが、豊富な戦いの経験をもち、しかも鉄砲を使う薩摩軍に歯が立たず、4月には首里城を明け渡した。琉球王国は戦争で島津の軍隊に敗北したのである。敗北したということは琉球王国は薩摩藩に支配され、薩摩藩の領土になることを意味する。

薩摩藩の実質的な領土になった琉球王朝であったが、政治上の実権はないものの独立王国の形は残した。理由は中国と貿易している琉球王朝の利益を薩摩藩が得るためであった。尚寧王は捕虜となり薩摩へと連行された。江戸に行き徳川家康と秀忠に謁見した。2年後に尚寧王は琉球へ戻されるが、薩摩藩に忠誠を誓う起請文を書かされた。薩摩藩は琉球王朝の存続は認めながらも実質的に支配下に置いた。薩摩藩の支配下に置かれることを拒んだ謝名親方は処刑された。

琉球王府は、年貢9000石、芭蕉布3000反、琉球上布6000反、琉球下布10000反、むしろ3800枚、牛皮200枚を薩摩藩に収めなければならなかった。中国との貿易も薩摩藩の監視のもとで行った。
琉球王朝は、1609年から1868年の明治になる約260年間は薩摩藩の支配下におかれ、なにをするにも薩摩藩の許可が必要だった。琉球王朝は独立国とは程遠い国であった。

現代に通じるような沖縄が一独立国家であった歴史背景はない。沖縄が、「自治を求め地域主権の確立を熱烈に志向した」ことは過去の歴史にはない。

中央集権に対する自治を求めた地域主権の思想は太田氏も述べているように民主主義を根拠にしている。琉球王朝は武士階級が農民階級を支配する身分制度のある国家であった。琉球王朝に民主主義思想があったはずはないし、沖縄が地域主権を求める運動をやったことはない。
戦後の沖縄では主席公選を要求する運動はあった。

戦前の帝国憲法下では知事は中央政府が派遣した。戦後は地方の首長は地方の選挙で決める。戦後は地方自治が一歩進んだ。戦後は少しずつ地方に権限が移っていった。太田氏の「敗戦後67年もたった現在も帝国憲法下となんら変わることなく中央集権制度が幅を利かせている」と太田氏は述べているが、太田氏は戦後の地方自治の変化を見ていいない。

普天間基地の辺野古への移設は県知事が許可しないとできない。日本政府とアメリカ政府が苦労して作り上げたシナリオであっても県知事がイエスと言わなければ実現できないのは地方自治の権限が強くなったことの証拠だ。
中央集権が幅を利かしているのなら、辺野古移設のことで県に交付金を500億円も多くあげたり、首相をはじめ多くの大臣が沖縄詣でをするはずがない。

「戦後民主主義を虚妄とする見方が後を絶たない」と思うのは太田氏の間違いである。戦後民主主義は少しずつ発展をしている。

独立主義と民主主義は異質なものだ。身分制度国家であった琉球王朝は薩摩藩に支配されるまでは独立していた。リビア、アフガン、イラクが独裁国家である時も独立していた。独立国家だからといって民主主義国家であるとは言えない。沖縄が独立したからといって民主主義国家になるというものではない。独裁国家になるかも知れない。沖縄独立論は希望を抱かせるような思想ではない。

日本は民主主義国家である。沖縄は日本の法の下にある。独立国家ではない現在の沖縄は民主主義国家のもとにある。沖縄には日本の法が適用されているのだから沖縄は民主主義社会である。米軍基地やアメリカ軍人の犯罪は日本とアメリカの国際的な国家間の問題であり、国内の民主主義制度とは別の問題である。
民主主義は永続的に民主化の改革をつづける。

  

2012年03月24日

国歌起立しない教師が少なすぎる

橋下市長に「教師生命かけ反対」…国歌起立せず


 大阪市教委は21日、市立小計298校で同日行われた卒業式で、大領小(住吉区)の女性教諭(55)が国歌斉唱時に起立しなかったと発表した。
 市教委は、起立斉唱を求める校長の職務命令に違反したとして処分を検討する。市立学校の卒業式で起立しなかった教員は、中学校を含め今春3人目。
 発表では、女性教諭は校長から事前に職務命令を受けた際、「橋下徹市長による急激な改革で教育の破壊が進んでおり、反対の意思を示すため教師生命をかけて座る」と述べたという。
 大阪府内ではこのほか、高槻、茨木、豊中各市の小中学校の卒業式でも教諭各1人が起立しなかったことも判明した。

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大領小(住吉区)の女性教諭(55)は教師生命をかけて国歌斉唱時に起立しなかったという。女性教諭は橋下市長の教育改革に反対している。教師生命をかけて橋下市長の教育改革に反対行動を取るということなのか。であるならば教師を辞するべきである。

それにしても国歌斉唱時に起立しなかった教師は少ない。起立しなかったからといって即懲戒免職にることは100%ない。それなのに起立しなかった教師は5人にも満たない。「血の雨が降る」などと豪語していたわりには勇気がなさすぎる。橋下市長が府知事の時に市民集会に殴り込んだ日教組の教師たちが大声でヤジを飛ばし、堂々と橋下府知事を非難した。橋下府知事の圧力なんてへとも思わない勢いだった。

それなのに橋下市長に反旗を翻したのは5人足らず。少なすぎる。所詮は待遇がいいから教師の職を選んだ連中だ。信念が強いわけではない。これが教師の正体だ。

これからは橋下市長の方針に従って学力向上に精を出してほしい。その方が教師としての生きがいは大きくなる。

  

Posted by ヒジャイ at 07:20Comments(0)TrackBack(0)大阪維新

2012年03月23日

沖縄人も植民地支配者だった





「・・・・第2次世界大戦でそれへの『解放者』と称する日本がやってきますが、その支配もひどく、それに対する『解放者』と称してアメリカがまたやってきます。・・・・・」

日本軍はグアムを解放するためにやってきたのではない。最初からグアムを植民地にする目的でやってきた。日本は南方の島々を植民地にしてさとう畑を広げ、製糖産業を発展させるつもりでいた。だから昔からさとうきびを生産していた沖縄の人たちを大量に南方の島々に移住させた。
また、多くの沖縄人が兵隊として南方に出征した。私の父も南方に出征した。ウシさんは日本がグアムにやってきたと述べている。ウシさんの頭の中ではグアムにやってきた日本人の中に沖縄人は含んでいないだろう。しかし、南方に兵隊として出征した沖縄人は沖縄兵ではない。日本兵だ。

グアムの日本兵の中には沖縄人もいた。沖縄人も日本兵としてグアム、サイパンなどの南方の島々を植民地にした。原住民を支配しひどく扱った。反抗する原住民は殺した。
日本軍が支配した南方の島々に沖縄の人々は移住してなんの苦も無く広い畑を所有してさとうきびを生産した。原住民からみれば沖縄の人々は日本人であり、支配者であった。

ウシさんは沖縄は日本に差別されていると主張しているが、グアムやサイパンなどの南方の原住民からみれば沖縄人は日本人であり支配者であった。沖縄人が南方の人たちを差別したことは容易に想像できる。しかし、ウシさんは沖縄人が南方の人たちを差別したこということには気づいていない。それに日本がグアムなどの南方に侵略したのは製糖産業やその他の産業を開発して莫大な富を得る目的があったということをウシさんは認識しているのだろうか。

植民地にする目的は莫大な富を得るのが目的であり、富を得ることができなければ植民地にはしない。

琉球王朝時代に薩摩藩に支配された沖縄は薩摩藩に多くの生産物を収奪されていたから沖縄は薩摩藩の植民地だった。しかし、明治時代の沖縄県は他の県と同じ法律が適用されていた。中央政府に収奪されてもいなかった。むしろ沖縄は貧しいために政府からの援助を受けていたくらいだ。明治以降の沖縄は日本国の1部であって植民地ではなかった。

戦後、沖縄はアメリカ民政府の統治下に置かれたが、沖縄はアメリカに搾取はされなかった。むしろその逆で多くの富をアメリカは沖縄に提供した。琉球政府の主席はアメリカ民政府が任命していたが、アメリカは政治も経済も未熟である沖縄に民主主義社会つくり、経済発展を指導した。これは動かしがたい事実だ。
アメリカ軍が統治していたから植民地だったというのは短絡過ぎる理論である。戦前の日本は軍国主義国家だったのであり、沖縄の社会も軍国主義だった。民主主義思想は沖縄にはなかった。沖縄にあったのは軍国主義、共産主義、社会主義、封建主義であった。

戦後、沖縄に民主主義社会をつくったのはアメリカであって沖縄人ではない。アメリカ軍属の犯罪はアメリカ軍が裁判するという問題が沖縄の社会問題に発展するが、アメリカ軍属の事件・事故以外の普段の生活で沖縄人がアメリカに差別されているという問題はそんなにない。
アメリカは沖縄人を搾取していない。アメリカは沖縄人を奴隷扱いをしていない。日常生活でアメリカは沖縄を差別していない。

中国やソ連などの社会主義との対立という特殊な状況の中でアメリカ軍は沖縄に長期駐留している。特殊な状況を冷静に認識したうえで沖縄の問題を考えるべきである。

沖縄を差別とか植民地の問題として考えるのはどうかと思う。それより沖縄人も日本人もアメリカ人も同じ人間。問題は民主主義、社会主義、独裁主義などの政治の問題と考えた方がいい。
人口が140万人にも増えた沖縄は本土からの移住者も増えて、純粋な沖縄民族だけの集合団体をつくるなんて不可能だ。それに沖縄民族だから沖縄のためにいいことをするとはいえないし、沖縄民族ではないから沖縄に悪いことをするともいえない。

沖縄で生きている人間は沖縄人であろうが日本人であろうがアメリカ人であろうがどっちでもいいではないか。沖縄が民主主義社会になりみんながいい生活ができる島になればそれていいではないか。

ウシ、カマドゥ、カメという名前は昔の沖縄に多かった。そのなかでもウシは多いようだ。ウシとは家畜の牛のことである。昔は女性に人権はなく、女性は家畜並み扱われた。女性が奴隷のような扱われた時代の名前としてウシがある。ウシさんはそのことにまだ気づいていないようだ。

ウシさんは沖縄内部にある差別問題も見つめてほしいものだ。

  

2012年03月22日

自分勝手な戦争論




「米軍の激しい攻撃を逃れ、サイパン島最北のマッピ岬に追い詰められた当時14歳の上原征夫さん(80)の家族5人は崖から海に身を投じました・・・」と戦争の体験談はアメリカ軍に追い詰められた話が多い。アメリカ軍に殺されたり、追い詰められて自殺したりした話を戦争体験者は語る。
上原征夫さんの戦争体験を聞いて中学一年生金城育香さんは「戦争の過酷さ知った」と感じる。

ほとんどの戦争体験者はアメリカ軍に攻撃されて被害を受けた時の話をする。アメリカ軍に攻撃される前の日本軍がアジアを攻めて植民地を拡大していた時の話はしない。上原征夫さんはサイパンでアメリカ軍の攻撃を受けた。サイパンは沖縄ではない。サイパンは日本ではない。サイパンの人間ではない上原征夫さんの家族がなぜサイパンに居たのか。
沖縄からサイパンに移住したから上原征夫さんの家族はサイパンに居た。上原征夫さんの家族はどうしてサイパンに移住できたのか。それは日本軍が武力でサイパンの原住民を制圧し、原住民の土地を奪って上原征夫さんの家族に提供したからである。日本軍は抵抗する原住民を虐殺し、生き残った原住民は奴隷にした。沖縄の人たちが南方に移民した背後には原住民の犠牲があった。日本軍の中には多くの沖縄出身者がいた。私の父も南方に出征したと聞く。
南方への慰問団が口にするのは南方で命を失った同胞の話だけ、原住民への懺悔の話は一切ない。

戦争は日本軍が南方を侵略した時から始まっている。多くの南方の原住民が日本軍の犠牲になった。戦争体験を語る人たちはアメリカ軍に攻撃されて悲惨な体験を話すが、原住民の犠牲の上に自分たちの移住があり、広大な畑を所有したことを話さない。
アメリカ軍は日本軍と日本人を攻撃したのであって南方の原住民を攻撃したのではない。アメリカ軍は植民地支配している日本軍と日本人を攻撃し、原住民を解放する戦争をやった。その事実を私たちは理解しなければならない。

戦争体験者は戦争の根本的な話はしない。いや、話をしないのではなく話ができない。彼らはなぜアメリカ軍が自分たちを攻撃したか原因を知らない。彼らが知っているのは戦争で受けた被害体験だけである。
戦争の悲惨さやむごさを彼らは語り、戦争は二度とやってはいけないと主張する。しかし、彼らは彼らの体験した戦争体験だけを話すだけ。ひたすら、アメリカ軍に追い詰められて悲惨な体験をした話を繰り返しすだけ。戦争がなぜ起こるかということは追及しない。戦後アジアで起こった朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア内戦、フィリピンのテロについては問題意識を持たない。

アメリカ軍に攻撃された悲惨な戦争体験だけにこだわり、被害者の側にかたくなに留まっているだけでは戦争の本質を知ることはできない。

  

2012年03月21日

新報社説は米軍を理解していない











在沖縄米総領事レイモンド・グリーン氏のインタビューに対して新報社説は「浅薄な基地押し付け論理」だと非難している。
グリーン氏は「フィリピンやタイ、オースラリアは長年の同盟国であり、関係強化は重要だ。一方で米国はベトナムやマレーシア、インドネシアといった新たな友好国とも協力関係を築いている。カンボジアやネパールも含めアジア地域のほとんど全ての国と演習や訓練をしている。沖縄の部隊はそのために地域を飛び回ってとても忙しい。アジアにおける米国のプレゼンス(存在感)を強める意味でも、重要なことだ」と現在のアメリカ軍のアジア戦略を明確に述べ、沖縄の米軍基地が重要であることを強調している。
ところが新報社説は「米国の識者から在沖海兵隊の米本国、豪州への移転論が飛び交い、米政府がその分散移転を図る動きを見せている。背景には、中国のミサイルの射程に入る沖縄への海兵隊集中が、抑止力低下につながるとの認識がある。海兵隊の運用に支障がない証左だ」とグリーン氏の説明を無視し的外れの指摘をしている。

海兵隊を沖縄から8000人グアムに移動する計画はすでに発表されている。海兵隊の移動と中国のミサイルの射程に入る沖縄の問題とは直接的な関係はない。それよりもグリーン氏が説明している中国の周辺国を沖縄駐留の海兵隊が訓練していることが注目するべき問題である。海兵隊が沖縄を拠点にしてアジアの国々に「出張」して演習・訓練をしている。それが重要な戦略であることがグリーン氏の説明で理解できる。ところが新報社説はその問題を追及することを避けている。その問題について追及すると海兵隊の沖縄駐留を認めてしまうからだ。

アメリカはこれから経済成長が予想されるアジアとの経済交流を重要視している。アメリカが順調にアジアの国々と経済交流をするためには中国の政治・軍事的圧力から国々を守る必要がある。だから、アメリカはアジアの国々の軍事力を強化するために沖縄の海兵隊をアジアの国々に派遣して演習・訓練を重ねている。
琉球新報はアメリカのアジアへの経済戦略のための軍事戦略を理解していない。琉球新報の社説の目的は、沖縄に海兵隊や辺野古基地は必要がないことを主張することである。だから、アメリカのアジア戦略、中国のアジア戦略、アジアの国々の情勢を無視している。

新報社説は「人口が少ない辺野古への新基地建設により、住宅密集地の普天間の騒音が解消されるとする。だが、基地被害の痛みをめぐる『大の虫を生かすため、小の虫を殺す』論理は県内で説得力を失って久しい」と辺野古基地移設に反対する理由を述べている。

新報社説の「大の虫を生かすため、小の虫を殺す」論理を否定する主張は極論すると人間が一人だけ住んでいる場所にも新基地を建設してはいけないことになる。新報社説の主張は、人間が一人も住んでいない砂漠か無人島にしか普天間基地の移転先はないことになる。そんな場所は日本のどこにもないしグアムにもない。新報社説は普天間基地の移設場所はどこにもないことを主張していることと同じであり、普天間基地固定化の理論になってしまう。

新報社説は、「グリーン氏の見解には、辺野古移設を『可能』とする論拠や道筋が何も示されていない」と述べているが、「大の虫を生かすため、小の虫を殺す」否定のめちゃくちゃな理屈で辺野古移設を否定している新報社を納得させることができる辺野古移設の道筋を示すのは不可能だ。

上大謝名の大城自治会長は米軍普天間飛行場からの爆音の激しさを輿石幹事長に訴えたが、大城自治会長が新報社説と同じ考えで辺野古移設に反対するのなら、どんなに普天間基地被害を訴えても、結果的に普天間基地固定化を主張していることになる。
沖縄からなにがなんでも普天間基地を撤去させることが新報社説の目的であるから、辺野古移設に反対する。新報社説には普天間基地周辺の深刻な騒音被害をなんとかしなければならないという考えはない。辺野古移設に反対したために普天間基地が固定してもかまわないというのが沖縄から普天間基地を撤去させたい新報社説の本音だ。
「大の虫を生かすため、小の虫を殺す」を引用しているのも普天間基地をなにがなんでも沖縄から撤去させたいから、辺野古移設を正当化するために引用したことわざである。

「大の虫を生かすため、小の虫を殺す」の否定の理屈は「民主主義は多数決で決める」をひっくり返した「民主主義は少数の意見を大事にする」と同じ引用のやり方である。民主主義のルールの根本は徹底して討論して、どうしても意見が一致しない場合は多数決で決め、みんな多数決に従うことである。
「民主主義は少数の意見を大事にする」は少数のほうに真実があるように思わせる少数派を正当化する理屈であり、民主主義の根本からはずれた理屈であり、民主主義を否定した理屈である。

「民主主義は少数の意見を大事にする」は共産党などの革新政党がよく使う方法である。少数派の時は「民主主義は少数の意見を大事にする」と自分たちの主張を押し通し、多数派の時は、県民の総意であると「総意」と主張することによって少数派の意見を消してしまう。

宜野湾市民は普天間基地を移設させたいのなら堂々と辺野古移設を主張するべきだ。そして、辺野古に行き辺野古区民に頭を下げて辺野古移設をお願いするべきだ。辺野古移設を主張することは県民に後ろ指を指されそうで怖いかもしれない。
しかし、それは違う。辺野古区民は普天間基地の受け入れをしてもいいと考えている。宜野湾市民が辺野古移設を望み、それを辺野古区民が了承すれば県民はなにも言わない。
騒ぐのは沖縄からの米軍基地撤去を目的にしている左系の革新政党や沖教祖、自治労と知識人だ。彼らは新聞を賑わして、圧倒的に県民の支持を得ているように見えるが、そればうわべだけだ。本当の支持者はそんなにはいない。

それにしても米軍の復興支援のトモダチ作戦にケチをつけ、トモダチ作戦で日本に恩を売っているなどと、アメリカを卑しい国に仕立てる新報社説にはあきれる。「人道支援に軍事的打算を絡めるべきではない」と新報社説は締めくくっているが。新報社説は民主主義国家の軍隊を理解していない。新報社説は軍隊は戦争をするためだけにあると考えているようだが、民主主義国家では国民の災害援助をするのは軍隊の仕事である。米軍が大震災への援助をやったのは米軍として当然のことをやったのであり、恩を売るのが目的ではない。フィリピンで暴風災害があった時は普天間基地からヘリコプーで援助に飛び立ったことは何度もある。新報社説は米軍へ間違った認識をしている。